教行信証2 p279-284
 
 

 教行信証

(真宗聖典p279)
仏法に無量の門有り。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行は、則ち苦しく、水道の乗船は、則ち楽しきが如し。菩薩の道も亦是の如し。或は勤行精進のもの有り。或は信方便の易行を以て、疾く阿惟越致に至る者有り。{乃至}若し人、疾く不退転地に至らんと欲はば、恭敬の心を以て、執持して名号を称すべし。若し菩薩、此の身に於いて阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲はば、まさに、この十方諸仏を念じて名号を称すべし。『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」の中に説くが如し。{乃至}西方善世界の仏を無量明と号す。身光智慧、明らかにして、照らすところ辺際なし。それ名を聞くこと有る者は、即ち退転を得。{乃至}過去無数劫に仏まします。海徳と号す。是の諸の現在の仏、皆彼に従って願を発せり。寿命量り有ること無し。光明照らして極まり無し。国土甚だ清浄なり。名を聞きて定めて仏に作らんと。{乃至}
問うて曰く、ただ是の十仏の名号を聞きて、執持して心に在けば、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして、阿惟越致に至ることを得とせんや。
答へて曰く、阿弥陀等の仏及びび諸大菩薩、名を称じて一心に念ずれば亦不退転を得ること是の如し。阿弥陀等の諸仏もまた当に恭敬礼拝し、其の名号を称ずべし。今当に、具に無量寿仏を説くべし。世自在王仏[乃至その余の仏まします]この諸仏世尊、現に十方の清浄世界に在して、皆、名を称し、阿弥陀仏の本願を憶念すること是の如し。若し人、我を念じ、名を称して自らから帰すれば、即ち必定に入りて、阿耨多羅三藐三菩提を得、是の故に常に憶念すべしと。偈をもつて称讃せん。無量光明慧、身は真金の山の如し。我今、身口意をして、合掌し稽首し、礼したてまつる。{乃至}人能く是の仏の無量力功徳を念ずれば、即の時に必定に入る。是の故に我常に念じたてまつる。{乃至}若し人、仏に作らんと願じて、心に阿弥陀を念じたてまつれば、時に応じて為に身を現ぜん。是の故に我、彼の仏の本願力を帰命したてまつる。十方の諸の菩薩も来りて供養し、法を聴く。是の故に我、稽首したてまつる。{乃至}若し人、善根を種えて疑へば則ち華開かず。信心清浄なる者は華開きて則ち仏を見たてまつる。十方現在の仏、種々の因縁を以て、彼の仏の功徳を嘆じたまふ。我、今、帰命し、礼したてまつる。{乃至}彼の八道の船に乗じて、能く難度海を度す。自ら度し、亦彼を度せん。我、自在人を礼したてまつる。諸仏無量劫に其の功徳を讃揚せんに、なほ尽すこと能わず。清浄人を帰命したてまつる。我、今亦是の如し。無量の徳を称讃す。是の福の因縁を以て、願はくは仏、常に我を念じたまへ、と。

 仏法に無量の教えが説かれている。それは世の中の道にたとえるならば、渡るのが難しい道もあれば、易しい道もある。陸地を自分の足で歩いたら苦しく大変な道であっても、船に乗って流されながら進んだら易しく渡れるようなものである。菩薩になるための道も同じもので、自分の力で修行に励み功徳を積んで菩薩になろうとする道もあれば、諸仏の教えを信じてその教えに従って進むことによって早く菩薩の身になる事もできる。もし、早く浄土に往生し菩薩になりたいと思うならば、弥陀の説法をされる善知識を心から信じ、その教えを心に刻んで、自分もまた同じように説法できるようになりなさい。もし、この身がある間に浄土へ入り仏のさとりを開きたいと思うのならば、弥陀の説法をされる善知識を探し、その善知識から教えを受けて、自分もまた説法できるようになりなさい。これは「宝月童子所聞経」の「阿惟越致品」に説かれていることである。西の方の素晴らしい世界に、無限の智慧を持たれた仏がまします。その身から智慧の光が出て、その光が照らさない所はなかった。この仏の光を聞く事が出来た者は、即ち浄土に往生できる。始まりのない始まりから、海の様な徳を持たれた仏がまします。今日まで現れた仏は、皆、その仏の智慧によって菩提心を起こし、その仏の願いを自分の願いとして仏となられた。その仏は永遠の命を持たれた仏であり、その光明は届かない所はない。そして、その国土には我執という穢れは無く、とても清浄である。その仏を見たならば、必ず仏になれるであろう。
ではお尋ねします。「ただ阿弥陀仏を見、そのお力によって説法していく事によって、仏の徳がそなわり、必ず仏のさとりを開くことができることは分かりました。では、その他の仏では、このようになれないのでしょうか?」
その質問に対しお答えします。「阿弥陀仏以外の諸仏方の教えを聞き、その教えに従って、説法していく事によって、浄土に往生し、菩薩になれるのは同じです。だから、諸仏方も、阿弥陀仏のお力によって救われ、弥陀の説法をされる方だから、その教えを心から信じ、その教えを正しく理解できるようになって、自分もまた教えが説けるようになりなさい。世自在王仏を始めとして、諸仏方は、常に心は浄土におられ、阿弥陀仏を念じ、阿弥陀仏から智慧を頂き、それを説法し、阿弥陀仏の本願を実現するために、常に心で念じておられる。「もし、あなたが説法を通して、阿弥陀仏を念じ、我執を離れて、その教えに自ら従ったならば、その教えの力によって、必ず仏となれるに身になるであろう。この故に説法を通して、自ら阿弥陀仏を念じなさい。」これを偈をもってほめたたえ、あきらかにしましょう。阿弥陀仏は無量の智慧を持たれた方。その身は、智慧そのものであり、大きな光の山の様に、すべての世界に広がっている。私はその阿弥陀仏に、心から従い、合掌させて頂きます。人、阿弥陀仏のお力によって説法をし、その説法を通して、阿弥陀仏の無量の力を持たれた功徳を念じたならば、その功徳によって、徳が身に付き、必ず仏になれる身になれる。説法には、仏になれる功徳があるので、私は常に説法し、阿弥陀仏を念じているのです。もし、あなたが仏になりたいと願うのなら、阿弥陀仏を心で念ずることができるようになりなさい。そうしたならば、あなたの前に弥陀は現れて、仏の智慧と徳を与えてくれるであろう。だから、阿弥陀仏のこのようなお力に対し、心から信じ、従います。また、大宇宙の諸の菩薩方は、弥陀を信じ、その教えを聞く事ができる。だから、私はその菩薩の説かれる教えに耳を傾け、聞かせて頂きます。もし善を実践していたとしても、教えを疑い、心が従えないとしたならば、我執にとらわれ、心の殻から離れ、外に出る事はできない。菩薩の説かれる教えに対し、自分の計らいを入れず、心から信じ実践したならば、我執の心と離れ、阿弥陀仏を見ることができる。大宇宙におられる仏方は、様々な方便を使って、弥陀の功徳を説法によって届けて下さる。私は、その教えに対し、心から信じ、実践させて頂きます。その教えは、私たちの迷った考えを破り、正しい物の見方へと変えることによって、その人の穢れた習慣を浄らかな習慣へと変えていく。それは、教えを説いている人も、聞いている人も、共に変えていく力がある。だから、説法によって浄土を目指す人は、まるで船が流されていくように、教えの力に流され、浄土へと進んでいくのです。だから、私は、私を説法によって、浄土へ導く善知識に心から頭を下げるのです。諸仏は無量劫という、とても長い間、弥陀の功徳を説き続けておられるが、それも、泉がはてしなく、沸くように教えを説きつくすことはできない。そんな諸仏に対し、心から頭を下げたいと思います。そして、今、私も、弥陀のお力によって、弥陀の無量の徳を説法によって、お伝えしています。このような素晴らしい行いをしている私に、どうか、仏様よ、私の事を見守っていて下さい」

(真宗聖典p280)
『浄土論』に曰く、「我、修多羅、真実功徳相に依りて、願偈総持を説きて、仏教と相応せり。仏の本願力を観ずるに遇うて空しく過ぐる者無し。能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ、と。

 天親菩薩の浄土論に、次のように教えられています。
私はお釈迦様が残してくれた教えと、真実の功徳を、形にして、教えで説くことによって、その法の働きを短く浄土論の中に説くことによって、本当に浄土へと往生するための教えを明らかにしました。弥陀の本願力は、その本願力に救われていながら我執にとらわれているために、煩悩が変わらず空しく人生が終わってしまう人はいない。弥陀の力によって邪見が破られていき、速やかに浄土へと流されていく。そして、弥陀の広大な徳を身に付けていくのです。

※ここで浄土論には、何が説かれているのか?それは、私たちが浄土に往生するための具体的な方法が説かれています。その1つが、釈迦の残された教え。つまり、教えを正しく理解していく事。そして、弥陀から説法によって智慧を頂き、真実の善ができるように変わっていく。それが浄土へ往生していくことになるのだと感じました。弥陀のお力は善知識の説法によって、私たちのところまで届けられます。その教えは、我執を破り自分の本当の姿を明らかにしてくれます。我執とは、私たちにとって命です。だから、教えを聞いていく事は苦しい事であり、すぐに自分の心の殻に閉じこもり、教えをはねつけ、受け取ろうとしません。これを仏教では疑情と言われますが、私たちはこの疑情があるために、せっかく真実の仏法を出会えたとしてもその教えをはねつけ、少しずつしか受け取ることはできません。そのために、救われるためにとても長い時間がかかってしまうのだと思いました。もし、教えを聞きすぐに実践できる人がいたとしたら、それは、余程、過去世から教えを聞いてきた人なのだと思います。この疑情が晴れる所まで、水で石に穴をあけるように、コツコツと教えを説いていくしかないのだなと思いました。

(真宗聖典p280)
亦曰く、菩薩は四種の門に入りて、自利の行成就したまへり、知るべし。菩薩は第五門に出でて、回向利益他の行、成就したまへり、知るべし。菩薩は是の如く五門の行を修して、自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまへるが故に、と。

 菩薩は五念門の最初の4つの教えを実践することによって、自利の行を完成させることができる。つまり、説法によって弥陀から智慧を頂き、それによって真理に暗い無明を破っていく事ができる。そして、それによって浄土に往生し、今度は、心を苦しんでいる私たちに向け、その人を幸せにしていくことに心を尽くすことによって、利他の行を完成される。仏になるための智慧は、人の苦しみを取り除く活動を通して、得られるべきものであることをよく知るべきである。菩薩は、このように、五つの教えを実践することによって、自利と利他を身に付け、速やかに仏のさとりを得る事が出来るのです。

(真宗聖典p281)
『論の註』に曰く、謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるに云く、菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道とは、謂く五濁の世、無仏の時に於いて阿毘跋致を求むるを難とす。
此の難にいまし多くの途あり。ほぼ五三を言いて以て義の意を示さん。
一つには外道の相善は菩薩の法を乱る。
二つには声聞は自利にして大慈悲を障ふ。
三つには無顧の悪人、他の勝徳を破す。
四つには顛倒の善果、能く梵行を壊す。
五つには唯是れ自力にして他力の持つなし。
是の如き等の事、目に触るるに皆是れなり。譬えば陸路の歩行は則ち苦しきが如し。易行道とは、謂く唯、信仏の因縁を以て浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗じて、便ち彼の清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、即ち大乗正定の聚に入る。正定は即ち是れ阿毘跋致なり。譬えば水路の乗船は則ち楽しきが如し。此の『無量寿経優婆提舎』は蓋し上衍の極致、不退の風航なる者なり。無量寿は是れ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城及び舎衛国に在して、大衆の中に於いて無量寿仏の荘厳功徳を説きたまふ。即ち仏の名号を以て経の体とす。後の聖者、婆藪槃頭菩薩(天親)、如来大悲の教を服膺して、経に傍へて願生の偈を作れり。又云く、又、所願軽からず。若し如来、威神を加へたまわずは、将に何を以てか達せん。神力を加へたまはんことを乞う。この故に仰いで告げたまへり。〈我一心〉とは天親菩薩の自督(督の字、勧なり、率なり、正なり)の詞なり。言うこころは無碍光如来を念じて、安楽に生ぜんと願ず。心々相続して、他想間雑することなし。{乃至}
〈帰命尽十方無碍光如来〉とは、〈帰命〉は即ち是れ礼拝門なり、〈尽十方無碍光如来〉は即ち是れ讃嘆門なり。何を以てか知らん、帰命は、是れ礼拝なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の『讃』(易行品)を造れる中に或は〈稽首礼〉と言い、或は〈我帰命〉と言い、或は〈帰命礼〉と言えり。此の『論』(浄土論)の長行の中に、亦、五念門を修すと言えり。五念門の中に、礼拝は是れ一なり。天親菩薩、既に往生を願ず、豈、礼せざるべけんや。故に知んぬ、帰命は即ち是れ礼拝なりと。然るに礼拝は但、是れ恭敬にして、必ずしも帰命ならず。帰命は是れ礼拝なり。若し此れを以て推するに、帰命は重とす。偈は己心を申ぶ、宜しく帰命(命の字、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり)と言うべし。『論』に偈義を解するに、汎く礼拝を談ず。彼此相成ず、義に於いて、いよいよ顕れたり。何を以てか知らん、尽十方無碍光如来は、これ讃嘆門なりとは。下の長行の中に言く、いかんが讃嘆する、謂く彼の如来の名を称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、斤両を正すをいふなり)す。彼の如来の光明智相の如く、彼の名義の如く、実の如く、修行し、相応せんと欲ふが故にと。{乃至}天親、今、尽十方無碍光如来と言えり。即ち是れ彼の如来の名に依りて、彼の如来の光明智相の如く讃嘆するなり。故に知んぬ、此の句は是れ讃嘆門なりと。〈願生安楽国〉とは、此の一句は是れ作願門なり、天親菩薩、帰命の意なり。{乃至}問うて曰く、大乗経論の中に、処々に〈衆生、畢竟無生にして虚空の如し〉と説きたまへり。いかんぞ天親菩薩〈願生〉との言うや。答へて曰く、〈衆生、無生にして虚空の如し〉と説くに二種あり。一つには、凡夫の謂う所の実の衆生の如き、凡夫の見る所の実の生死の如き、此の所見の事、畢竟じて所有なきこと亀毛の如く、虚空の如し。二つには、謂く、諸法は因縁より生ずるが故に、即ち是れ不生にして所有無きこと虚空の如し。天親菩薩の願生する所は是れ因縁の義なり。因縁の義なるが故に、仮に生と名づく。凡夫の実の衆生、実の生死有りと謂ふが如きには非ざるなり。問うて曰く、何の義によりてか、往生と説くや。答えて曰く、此の間の仮名の人の中に於いて、五念門を修するに、前念は後念の為に因となる。穢土の仮名の人、浄土の仮名の人、決定して一なるを得ず、決定して異なるを得ず。前心・後心亦復是の如し。何を以ての故に。もし一ならば、すなはち因果なけん、もし異ならば、すなはち相続にあらず。この義、一異を観ずる門なり、論の中に委曲なり。第一行の三念門を釈し竟んぬ。{乃至}〈我依修多羅真実功徳相説願偈総持与仏教相応〉とのたまへりと。{乃至}いづれのところにか依る、なんの故にか依る、いかんが依ると。いづれのところにか依るとならば、修多羅に依るなり。なんの故にか依るとならば、如来すなはち、真実功徳の相なるを以ての故に。いかんが依るとならば、五念門を修して相応せるが故にと。{乃至}修多羅は十二部経の中に直説のものを修多羅と名づく。謂く、四阿含・三蔵等なり。三蔵の外の大乗の諸経を亦、修多羅と名く。此の中に〈依修多羅〉と言うは、これ三蔵の外の大乗修多羅なり、『阿含』等の経には非ざるなり。〈真実功徳相〉とは、二種の功徳あり。一つには有漏心より生じて、法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人・天の諸善、人・天の果報、もしは因、もしは果、皆これ顛倒す、皆これ虚偽なり。この故に不実の功徳と名づく。二つには菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入れり。この法、顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳と名づく。いかんが顛倒せざる、法性により二諦に順ずるが故に。いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入るるが故なり。〈説願偈総持、与仏教相応〉とは、〈持〉は不散不失に名づく、〈総〉は少を以て、多を摂するに名づく。{乃至}〈願〉は欲楽往生に名づく。{乃至}〈与仏教相応〉とは、譬えば函蓋相称うが如し。{乃至}〈いかんが回向する、一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として、大悲心を成就することを得たまへるが故に〉とのたまへり。回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相とは、己が功徳を以て、一切衆生に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまうなり」と。

 曇鸞大師の書かれた浄土論註の中に、次のように教えられています。
龍樹菩薩の書かれた「十住毘婆沙論」に、菩薩が初地のさとりを求める方法に2つあります。1つは難行道、もう一つは易行道と言われるものです。初めの難行道とは、穢れた五濁という環境や、導く善知識がおられない時に、初地を求める事が難しいということです。なぜ、初地を求めるのが難しいのか?その理由はたくさんあるが、今はそのうちのいくつかを取り出して、その意味を明らかにしたいと思います。
・1つは、仏教の心を正しく理解していない外道の者が、お経の言葉にとらわれて、形だけそっくりな善をするので、聞いている者は「何が本当の善か、何が間違った善か」が分からず、菩薩の説く正しい教えを分からなくさせてしまう。
・2つ目は、浄土を求めている人が、善知識に教えて頂かないで、自分で教えを理解しさとりを開こうと求めると、どんどんと自分にとって都合よく教えを理解し、自分は正しいと思う我の殻に閉じ籠って、「苦しんでいる人を救う」という利他の活動に対して消極的になる。
・3、善知識から教えを聞き自己を反省するという事がないので、「自分は間違っていない」という心の殻に閉じ籠り、反省できない悪人は、その罪のために、たとえ他に素晴らしい徳があったとしても、自らその徳をぶち壊し、苦しむ事になる。
・4つ目は、迷った人たちが求めている幸せとは、目先の欲を満たすような楽しみしか知らないので、煩悩から離れた心の静けさが本当の幸せであることも分からず、そこに至る種蒔きを求める気持ちにもならない。
・5つには、ただ自分の力で頑張るばかりで、善知識を求めて、教えを聞かせて頂く気持ちがない。
この様な事は、善知識の教えを信じていない者に、共通している事ではないかと思います。だから、いくら頑張っても報われないので、このような「難行道」は陸地を自分の足で歩いているように、苦労して前へ進んでいるはずなのになかなか前へと進まず苦しまなければならない。それに対して「易行道」とは、ただ善知識の教えを信じ、その教えに従っていく事によって、浄土へ往生したいという願いが起きたならば、阿弥陀仏の本願力によって、弥陀の浄らかな浄土へと往生することができる。その人は、阿弥陀仏のお力によって常に真実の姿が知らされ、また、説法を通して智慧を頂く事が出来るので、自利利他を実践し、必ず仏のさとりを開く所まで求めることが出来る正定聚の身となる。ここで、正定とは、初地のさとりを開いた人のことである。初地のさとりを開いた人は、我執を離れ、仏の徳を身に付けていけるので、正定と言われるのです。それはたとえるなら、船に乗って流されて進んでいるように、浄土へと間違いなく進んでいけるので、楽しい日々となるのである。この大無量寿経を解釈された浄土論は

※優婆提舎…教説、問答あるいは論説の意味であり、十二部経の1つとして、仏陀あるいは弟子たちが教えについて論議し、問答によって、理を明らかにしたものを指す。また、経の内容を哲学的に論究した論書を言う。たとえば世親の浄土論は「無量寿経優婆提舎」と呼ばれ、無量寿経の内容を註解している。

自分の考えで推量すると、浄土へ到達できる素晴らしい乗り物であり、風の力で進む船に乗って、浄土へと戻ることなく進んでいくようなものである。「無量寿」というのは、安楽浄土におられる仏の別の名前です。お釈迦様が王舎城や舎衛国におられる時に、そこにおられる人たちに対して、無量寿仏の持っておられるお徳を説かれた。即ち、その仏の名前には、その仏の持っておられる、お徳が教えられており、その仏の説かれる教えには、私たちにそのお徳を身に付けさせる働きを持っている。

※つまり、お釈迦様が無量寿仏の身を飾るお徳を、説法という形で説かれたということは、無量寿仏のお徳は、この無量寿仏の事が分かるお釈迦様でなければ、無量寿仏の教えを説くこともできないし、聞いている私たちも、その徳を身に付ける事が出来ない。名号とは、仏のお名前の事で、その仏の持つお徳をあらわす。名号を称えるとは、そのお徳を身につけるための説法を説くことを言う。阿弥陀仏を見る事が出来なければ、名号を称える事はできない。この阿弥陀仏を見る事が出来るのが初地である。仏の名号をもって、経の体とは、仏の事を知る智慧を持たれた方が、仏のお徳を説法という形で説かれたものが、お経であるとういことです。

 後にあらわれた天親菩薩は、阿弥陀如来の持たれる大悲を身体で知らされ、その体験を経に従って、あらわされたのが願生偈です。

※大悲の教とは、私たちの心に大悲の心を起こす教え、それは、他力なので、阿弥陀仏の方から、私に働きかけて大悲の心にしていく。その体験を経に従って言葉にしたのが願生偈です。つまり、願生偈には、他力の働きが教えられている。
その教えの通りに進んでいる人は、浄土に往生できる人なのである。

※服膺…心に留めて忘れない事

 また、阿弥陀仏の願いの力は決して軽くない。なぜなら、もし阿弥陀仏が他力を加えて、私たちを導かなければ、どうして浄土に往生することができようか。だから、私もそのお力を加えて頂きたいと願うのです。この故に弥陀のお力を求めて書かせて頂きます。「我一心」とは、天親菩薩が自ら、その一心に心から従い連れられ、一心に合わない所は、自分の心を誤りとして正していく。そういう意味です。では、一心とはどういう意味かと言いますと、無碍光如来を心に念じ、浄土へと生まれようと願わせる心です。一心と私の心がつながり続け、決して他の心に従うことはない。

※一心とは、私の心に働きかけ一心に染めていく心です。一心とは、常に正しいものは何かを働きかけ、自分の心を返してくれるもの。まるで、自分の隣に仏様がおられるように、自分の心を優しく導き、私に真実を見せ、智慧を与え、生死を離れさせて下さる。それが一心です。

 次に「帰命尽十方無碍光如来」と言うのは、最初の「帰命」というのは、五念門の中の礼拝門の事です。後の「尽十方無碍光如来」とは、讃嘆門のことです。なぜそうなるかと言えば、「帰命とは礼拝であるからです」。それは、龍樹菩薩が阿弥陀如来をほめたたえる言葉の中に「頭を地につける程、心から敬い、礼拝する」と言われ、

稽首…頭を地につける挨拶、中国における最高の敬意を表す敬礼法で、古くから行われた。

他のところでは「私は帰命しました」と言い、また別のところでは「帰命し、礼拝した」と言われている。この浄土論の長行の中に、「五念門を修める」と言われている。この五念門の教えでは、礼拝は一番初めである。天親菩薩は既に往生を願う身になった。これは他力に従うことによって、なったものだから、どうして礼拝していないことがあろうか。だから、「帰命とは礼拝である」

帰命…サンスクリットの語源では「屈する」「心を傾ける」の意。己の身命を投げ出して仏に帰依すること、または仏の教命に帰順すること。

それに対して、礼拝は、ただうやうやしく敬うことであって、必ずしも帰命ではない。帰命には必ず礼拝の意味がある。このことから考えると、帰命は礼拝よりも重い言葉である。願生偈は、天親菩薩がご自身の心を帰命という言葉を使って言われた。この帰命という言葉には、弥陀の御心を善知識が教え、という形で伝えられ、浄土へ往生するための道をつくられている。その教えを信じ、弥陀のお力に身を任せ、浄土へ連れて行ってもらうという意味がある。

※帰命の細註
使…使者⇒善知識
教…教え
道…浄土への道
信…信心
計…弥陀の浄土へ往生させようとする計らい
召…弥陀が浄土へ連れて行こうとすること

浄土論には願生偈の言葉の意味が教えられている。そこに礼拝について、すみずみまで書かれています。その浄土論に書かれている内容を通して、願生偈の内容が明らかになるのです。

※浄土論…いかんが礼拝する。身業をもって、阿弥陀如来・応・正遍知を礼拝したてまつる。かの国に生ずる意をなすが故なり。
→どのように礼拝するのかと言えば、身体で供養にふさわしいお徳をもたれた、ありのままに、あらゆるものを見る事の出来る阿弥陀如来に対し、心から頭を下げ礼拝させて頂きます。それは、阿弥陀仏のお力によって、説法を通して供養にふさわしい徳が身に付き、また、あらゆるものを都合を入れず、正しく見ることができるので、愚痴の心を破り、煩悩から離れさせ、それによって、浄らかな世界へ生まれる事ができると思えるのである。

 では、どのようにして、阿弥陀仏の智慧を知り、心から礼拝することができるのかと言えば、「尽十方無碍光如来は、讃嘆門である」つまり、讃嘆門の教えを通して、阿弥陀仏の智慧を知る事ができるのである。

※阿弥陀仏を知るとは、阿弥陀仏のお徳を頂き、自分も徳が身についていく事。そして、阿弥陀仏のお力によって、世界のありのままの姿を照らし教えて頂き、自分の見ている世界が如何に偏見に満ちた歪んだ世界であるか知らされて正されていくこと。このことによって浄土へ往生することができる。では、どうしたら客観的に物事を見ることができるか?また、浄土へ往生するための徳を身に付けていくことができるのか?それが大事な問題となります。そのことについて、ここでは、それは讃嘆門の教えによって身につけることが出来るのだと教えられています。では、讃嘆門とは何か?

 後の長行の中に次のように教えられています。どのように讃嘆するのかと言えば、彼の如来の名をほめたたえることによって、彼の如来の持っておられる智慧の光明のように、自分も同じように智慧を身につけ、阿弥陀仏と同じ智慧を身に付けたいと思うからである。ここで、どのように阿弥陀仏の智慧と一致させていくのかと言えば、阿弥陀仏のお力によって真理が知らされ、それが正しいと心から信じる事ができ、そして、真理に対して自分の心を正し、等しくなろうとする。それは、たとえるなら、天秤のようなものである。天秤は物の重さを量る時に、分銅の重さを替えて、等しくなるように調整していく。同じように何が正しい事か知るために、弥陀は真理を教えてくれるが、それは正確に一度に教えてくれる訳ではなく、間違いを少しずつ正していくことによって、真理と一致させていくのである。このように真理と一致していくように、自分の心を正していくことを、天親菩薩はここで「尽十方無碍光如来」と言われているのである。すなわち、無礙光如来の名前の通り、説法を通して、煩悩を貫き、私たちに真実を照らし、知らせてくれるのである。この故に知らされる事は、「この尽十方無碍光如来というお言葉は説法を通して、真実を照らし、知らせてくれることを意味しているのである」次に「願生安楽国」とは、この言葉は作願門である。天親菩薩が浄土論の始めに、帰命尽十方無碍光如来と言われているが、この帰命の内容について教えられたものである。つまり、無礙光如来の命に帰するとは、無礙光如来の浄土に往生させたいという願いに従うということであり、その無礙光如来の願いによって、浄土に往生したいという願いのない私たちに往生したいという願いが起きるのである。
そこで、一つ疑問があります。「大乗経典を解釈されたものの中に、所々「衆生とは、肉体があって生まれる事や死ぬことがある様に見えるが、その心は生死に関係なく続いていくものであり、しかも、固定不変の我がある訳でもない。」と説かれている。もし、そうだとしたら、天親菩薩は「願生」と言われたのでしょうか?」
それについてお答えします。この生まれるという意味について2つの意味があります。1つは、凡夫が思っているような、肉体の生死の事を指します。私たちは生まれるとか死ぬとか言うと、肉体の生死のことしか考えられませんが、それは亀の背中に毛が生えているように見えるのと同じで、実際は毛は無いのに毛が生えているように見える亀と同じで、私たちの生死とは、本当は肉体のことではないのに、肉体の生死にとらわれ、死ぬとか生まれるとかは、肉体のことしか考えられない事を言います。もう一つの生まれるという意味は、因縁によって生じる、ということを生まれると言います。すべてのものは因縁によって生じます。だから、肉体が死ぬと言っても、それは、和合していた因縁が離れただけである。同じように、人間の死も、それは肉体の死であって、そこに宿る命は、肉体が亡んでも、続いていく。ここで天親菩薩が浄土論の始めに言われている、生まれるという意味は、肉体のことではなく、肉体に宿る命の事を言われたものです。肉体は死ねばなくなりますが、肉体に宿る命は、肉体が死んでも、因縁が変わらなければ変わりません。だから、天親菩薩が浄土へと生まれたいと言われているのは、「肉体が浄土へ生まれたい」という意味ではなく、「肉体に宿る命が煩悩に穢れた心を離れて、浄らかな心になりたい」ということなのです。でも、心が生まれ変わりたいと言われても分からないので、ここで仮に生まれるという言葉を使われているのです。
では、お尋ねします。「先程、浄土へ生まれるとは肉体のことではなく、肉体に宿る命の事であることは分かりました。では浄土に往生するとはどういう事を言われているのでしょうか?」
それについてお答えします。浄土へ往生するために五念門を実践している人にとって、前念は後念へと移るための因になります。穢土にいる人が浄土へ生まれると、生まれる前と比べて同じとは言えないし、違っているとも言えません。これは心においても同じことが言えますが、もし、同じとするならば、因果の道理に合いません。穢土の人は煩悩によって心を穢し、苦しみの世界へと堕ちていきますが、浄土の人は智慧によって、心を浄らかにし、苦しみのない穏やかな世界にいます。だから、穢土の人と浄土の人は同じではありません。では、全く違うものかと言えば、穢土の人が五念門を実践することによって浄土へ往生したので、浄土の人も元は穢土の人であったという点では、全く違うものとも言えません。これは、穢土の人が浄土へ往生するとはどういうことかをあらわしたものです。それは、たとえ肉体は同じであっても、その心が浄土へ往生したならば、その人は肉体は穢土にありながら、穢土の人ではなく浄土の人となります。そして、全く違うのかと言えばそうではなく、浄土へ往生すると言っても、それは段々と穢土を離れ、浄土へ往生していくので、何か一念で全く違うものや心になってしまうわけではないのです。このことは「中観論」に詳しく説かれています。これで、浄土論の始めの一行の意味を通して、五念門の初めの3つ礼拝門・讃嘆門・作願門について説明させて頂きました。次に、浄土論の「我依修多羅・真実功徳相説願偈総持与仏教相応」について説明させて頂きます。ここで、最初に"私は一切経をより所にする"と書かれていますが、これは何をより所にして何を得るために、どのようにすることを言われているのかと言えば、まず「何をより所にするのか」と言えば、それは、一切経をより所にします。次に「何のためにする」のかと言えば、阿弥陀仏を礼拝し心に思い描く事によって、真実の功徳を知り、真実の功徳と合わない自分の心を正す事によって、真実の徳を身につけ、仏になるためである。

※仏になるためには、どうしたらいいのか?多くの人の浄土真宗の門徒は、阿弥陀仏を信じて、阿弥陀仏にお任せしたら、あとは勝手に死んだら浄土へと連れて行ってくれると思っている。確かに都合の良い教えだが、実際はそうではないのだなと思います。阿弥陀仏はあくまでも、私たちに真実を教えてくれる方なのです。私たちは、自分の見ている唯識の世界こそ真実だと思って生きています。しかし、実際は自分が「相手はきっとこのように思っているに違いない」と思ったからと言って、本当にそう思っているとは限りませんし、相手は全く違う事を思っているのかもしれません。でも、私たちは一度「相手はこの様に思っているに違いない」と思ってしまったら、もうそれ以外の可能性を考える事はできません。真実を知らないからです。だから、自分の見ている唯識の世界こそ真実だと思って、それを基準として行動してしまうのです。阿弥陀仏はそんな私たちに真実を知らせることによって、自分の見ている世界は自分の思い込みの世界であったと知らせ、間違いを少しずつ正していくのです。すべての苦しみは、自分にとって都合の良いように捻じ曲げられた唯識の世界を真実だと思い込み、それを物差しとして行動してしまう所から始まります。だから、どんなに頑張っても、自分の判断が間違っているので、苦しみから離れられず、余計に苦しまなければならないのです。だから、阿弥陀仏は間違った見方を、正しい見方へと正す事によって、苦しみから離れさせようと思われたのです。間違った見方は、間違った行いを生み出し、それによって苦しみます。間違った見方を正し、正しい見方へと変われば、行いが変わります。たとえば、今まで喜んで毒を食べていた人がいて、その人が自分が食べていたものが毒だと分かったならば、その毒を食べるでしょうか?どんなに「毒消しの薬があるから、この毒を飲みなさい」と言われても、飲む気にはならないものです。同じように、私たちは煩悩によって心を穢し、苦しんでいます。心を穢すとは、自分の心を傷付けるということです。心を傷付けたら、心が苦しみます。苦しいから人を恨むのです。そして、苦しみを誤魔化すために欲を起こすのです。欲を満たすのは確かに強烈な快感ですが、その喜びの大きさは、そのまま、苦しみの深さに比例します。心が苦しいからこそ、その苦しみを誤魔化せる欲が楽しみなのであって、欲を求める人は、それだけ大きな苦しみを抱えている人でもあるのです。一度、このことに気づいてしまった人は、もう欲を起こしたいとは思えなくなるし、自分の心を傷付けることもなくなっていきます。真実が知らされたならば、必ず行動が変わります。行動が変わらないのは、真実をまだ知らないからです。自分の心を傷付けても、そこには苦しみしかありません。この心の傷に気づかせて頂くのが、阿弥陀仏のお力なのです。

 どのようにして、真実の功徳を知るのかと言えば、五念門を実践することによって、真実の功徳を知り、身につけることができるのである。一般的に「一切経」とは、八万四千の膨大な教えがある中で、お釈迦様が直に説かれたものを指します。つまり、「四阿含」「三蔵」などを言います。また、それ以外のお経では、お釈迦様のみ心が正しく明らかにされた大乗経典も、また、この一切経の中に入ります。ここで、天親菩薩が一切経と言われているのは、阿含経等のお釈迦様が直に説かれた教えではなく、大乗経典の教えである。次に「真実功徳相」と言うのは、功徳と言っても、二種類あります。
一つは、欲を満たしたいとか、苦しみから逃げ出したいとか、欲望や迷いの心が発端となってする功徳で、それは真理に従ってなされたものではない。私たちのする善には、必ずそのような醜い煩悩が混じるので、その善によって得られる結果も幸せになるどころか、ますます自分を苦しめていくのである。また、人から否定されないための、心のない行いとなってしまうのです。だから、このような善を、真実ではない功徳と言われるのです。
二つ目は、菩薩が苦しんでいる人を救うために説法することにより、阿弥陀仏から正しき智慧を頂き、それによって煩悩の混じらない穢れなき心で善をしたいという心が起きる。これは、阿弥陀仏のお力によって起こされた善なので、それを実践していくことによって、心の穢れが取れていく。この法は実践する事によって、苦しみを生み出すことはなく、中身のない表面的な形だけの善になってしまうこともない。だから、真実の功徳というのです。

※後生の一大事という、恐怖から逃れるために善をする。そういう人が世の中にあるが、これこそ、まさに煩悩によって起こした不純な善である。仏教では、純粋な心で善をしなさいと説かれる。それは、それを実践していく事によって苦しみが取り除かれ、心が楽になっていくから。仏教でなぜ善を勧められるのか?それは、善をすることが幸せだからである。本当の善は心に喜びがある。そして、善をすることによって、自分だけでなく、他人も幸せになっていくものである。だから、恐怖から逃げるための善は自分も苦しいし、それを見た相手も決して喜べない。人が喜んでやっているものは、自分もやってみたくなる。また、欲を起こしてやった善は、自分の我を通すために相手をだましたり、傷付けたりする。そういう不純な心から離れられないものが、人間なのかもしれない。だから、自分は善いことをやっているつもりで、知らず知らずのうちに周りの人を傷付けているのかもしれない。

 どうして、善をしているつもりで悪をやって苦しむことがないのかと言えば、阿弥陀仏のお力によって智慧を頂き、真実を正しく知り、そして、どの様に実践していったらいいか、知る事が出来るからである。

※顛倒とは、さかさまということ、苦しみたくないと思いながら、苦しみへと進んでしまったり、幸せを求めながら、苦しんだりすること。それは、智慧がないために、目の前の損得にとらわれてしまうから。阿弥陀仏は智慧を与えて下されることによって、私達を顛倒から離れさせて下されるのです。

 どうして、形ばかりで中身がないことにならないのかと言えば、菩薩が阿弥陀仏のお力によって説く説法には、人々の心を浄らかにしていく力があるからである。

 次に「説願偈総持与仏教相応」とは、まず、漢字の意味から説明しますと、「持」とは、上手くまとめられていて大事なところが失われる事なく、「総」とは、多くの意味を少ない言葉であらわされているということ。「願」とは、浄土へ往生することを願い求めること。次に「与仏教相応」とは、箱の蓋と身がぴったりと、一致するようなものである。つまり、浄土論の初めの願生偈には、仏の説かれた教えの通りに自分もなることによって、浄土へ往生しようとする願いが、短い言葉で余す所なく、説かれています。では、どのようにして、浄土まで連れて行って下されるのかと言えば、「自分の力では、どうしても助ける事ができないような罪深い人を助けるために、弥陀はそんな人をお目当てにして、助けるために本願を建てられたのだ。」だから、悪しか出来ない者であっても、弥陀の浄土へ往生することができるのです。この弥陀のお力によって、私たちは浄土へ往生できるのであり、また、浄土からこの穢土へ戻って、苦しんでいる人を助ける事ができるのです。そこで、弥陀はどのようにして、私達を浄土へ連れていって下されるのかと言えば、ご自身の持っておられる功徳をすべての人に分け与えて、弥陀の功徳を受け取ることによって、心の穢れが取れ、浄らかな世界へ連れて行って下されるのです。

(真宗聖典p284)
『安楽集』に云く、「『観仏三昧経』に云く、父王を勧めて念仏三昧を行ぜしむ。父王、仏に曰さく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、何によりてか弟子をして、これを行ぜしめざる》と。仏、父王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。是れ凡夫の所行の境界に非ざるが故に、父王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつるなり》と。父王、仏に曰さく、《念仏の功、其の状いかんぞ》と。仏、父王に告げたまはく、《伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀あり。根芽ありといへども、猶未だ土を出でざるに、その伊蘭林、ただ臭くして香ばしきことなし。若し、その華菓を舐ずることあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽、漸く生長して、わづかに樹にならんとす。香気昌盛にして、遂に能くこの林を改変して、普く皆、香美ならしむ。衆生見るもの、皆、希有の心を生ぜんが如し》。仏、父王に告げたまはく、《一切衆生、生死の中にありて念仏の心も亦復是の如し。但能く念を繋けて止まざれば、定めて仏前に生ぜん。一度、往生を得れば、即ちよく一切の諸悪を改変して大慈悲を成ぜんこと、彼の香樹の伊蘭林を改むるが如し》。言う所の伊蘭林とは、衆生の身の内の三毒・三障、無辺の重罪に喩ふ。栴檀といふは、衆生の念仏の心に喩ふ。わづかに樹とならんと欲すといふは、謂く、一切衆生、但能よく念を積みて断えざれば、業道成弁するなり。問うて曰く、一切衆生の念仏の功を計るに、亦一切に応ず、知るべし。何に因りてか一念の功力、能く一切の諸障を断ずること、一つの香樹の四十由旬の伊蘭林を改めて、悉く香美ならしむるが如くならん。答へて曰く、諸部の大乗によりて、念仏三昧の功能の不可思議なるを顕さん。いかんとなれば『華厳経』に云うが如し。譬えば人ありて、獅子の筋を用ゐて、以て琴の絃と為せんに、音声一たび奏ずるに、一切の余の絃、悉くみな断壊するが如し。若し人、菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障、悉くみな断滅すと。また人ありて、牛・羊・驢馬一切の諸の乳を搾り取りて、一器の中に置かんに、もし獅子の乳一滴を以て、これを投ぐるに、直ちに過ぎて難なし。一切の諸乳、悉く皆、破壊して変じて清水となるが如し。若し人、但能く菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障、直ちに過ぎて難なし。又彼の『経』(華厳経)に云く、譬えば人ありて、翳身薬を以て処々に遊行するに、一切の余行、この人を見ざるが如し。若しよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪神、一切の諸障、この人を見ず。所詣の処に随ひて、よく遮障すること無し。何が故ぞ能くしかるや。此の念仏三昧を念ずるは、即ち是れ一切三昧の中の王なるが故なり、と。又云く、「『摩訶衍』の中に説きて云ふが如し。諸余の三昧は三昧ならざるには非ず。何を以ての故に、或は三昧あり、但能よく貪を除いて瞋・痴を除くこと能はず。或は三昧あり、但能く瞋を除いて痴・貪を除くこと能はず。或は三昧あり、但能く痴を除いて瞋を除くこと能はず。或は三昧あり、但能く現在の障を除いて過去・未来の一切諸障を除くこと能はず。若し能く常に念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来の一切諸障を問ふこと無く、皆除こるなり。又云く、「『大経の讃』(讃阿弥陀仏偈)に云く、若し阿弥陀の徳号を聞きて歓喜讃仰し、心に帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。則ち功徳の宝を具足すと為す。設ひ大千世界に満てらん火をも、亦直ちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞かば、復退せず。是の故に心を至して稽首し礼したてまつる、と。又云く、又『目連所問経』の如し。仏、目連に告げたまはく、譬えば万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず、すべて大海に会するが如し。世間も亦しかなり。豪貴富楽、自在なることありといへども、悉く生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となつて、更に甚だ困劇して仏の国土に生ずることを得ること能はず。この故に我、説かく、"無量寿仏国は往き易く取り易くして、しかも人、修行して往生すること能はず、かへりて九十五種の邪道に事ふ。我、是の人を説きて、眼無き人と名け、耳無き人と名く、と。経教、既にしかなり。何ぞ難を捨てて、易行道に依らざらんや、と。{以上}

 安楽集の中に、観仏三昧経を引用されて、次のように教えられています。
お釈迦様は、お父さんである浄飯王に対し、念仏三昧を勧められました。それに対し、父である浄飯王は
「あなたは仏のさとりを開かれる事によって、世界をありのままに見る力を身につけ、また、今見ている世界は夢であり、すべては移り変わりゆく無常のものだと知り、見ている世界に執着したり、とらわれることが無くなったと聞きました。どうして、お弟子の方々に、あなたが悟られたことを伝え、実践させないのですか?」
それに対し、お釈迦様は
「私が仏のさとりを開くことによって得た徳は、これは、仏のさとりを開かなければ分からないもの。だから、まだ、仏のさとりを開いていないものが、どんなに頑張ったとしても、それは境界の違うものだから分からないものなのです。だから、お父さんには、誰でも実践できる念仏三昧を勧めているのです。」
「では、お釈迦様、あなたが勧める念仏三昧とは、どのような功徳があるのでしょうか?」
「それについて、一つのたとえをもって示しましょう。ある所に、北海道の四分の一位の広さのある伊蘭という木が生えている林があったとしましょう。その中に一本だけ、栴檀の木が生えていた。その木は地中に根はあったが、まだ地上に顔を見せる所までは育っていなかった。一方、その林は伊蘭の発する臭気によって臭く、心地良く感じる事はなく、もしその実を食べてしまったのなら、発狂して死んでしまうほどの毒を持っている。やがて栴檀の木が段々と成長して、やっと大人の木になると、その木から栴檀のいい香りが吹き出して、ついに、この伊蘭の発する臭気が栴檀の香りへと変わってしまうのです。そして、その光景を目のあたりにした人々は、みんな不思議な気持ちになるようなものである。」
このたとえによって、すべての人々の抱えている苦しみを、どうやって念仏によって取り除いていくか、教えられているのです。ちょうど、この栴檀の木が段々と成長していくように、念仏を続けていったならば、必ず仏様の目の前に生まれる事ができます。そして、浄土に往生したならば、その人の抱えている悪が消え、大慈悲の心が起きることは、先程のたとえで言うのなら、栴檀の木の香りが伊蘭の臭気を変えてしまったようなものです。ここで、「伊蘭林」とは、何をたとえているのかと言えば、人々の身の内に宿る煩悩のこと。一方、「栴檀」とは念仏の心のことです。「段々と成長して大人の木になる」といういのは、どんな人であっても念仏を続けていったならば、浄土へ往生することが出来るのです。
では、お尋ねします。「念仏の功徳の力を知りたいと思うのですが、一念を突破した後の念仏には、一本の栴檀の香りが伊蘭林の臭さを変えてしまったように、煩悩に満ち溢れた心を浄らかな心にする力があるのでしょうか?」
それについてお答えしますと、「諸の大乗仏教の教えを根拠として、念仏三昧が如何に不思議な功徳があるか明らかにしますと、「華厳経」の中に、次の様に教えられています。たとえば人が獅子の筋で琴の糸を作り、これを一たび、奏でるならば、その他のもので作った絃は、みな断ち切られる。それと同じように、人が阿弥陀仏のお力によって菩提心を起こして、その人が念仏三昧をしたならば、すべての煩悩、そして、煩悩によって起こる様々な障りが、ことごとく断ち切られ無くなってしまう。

※このたとえは、どういう事をたとえられたものだろうか?獅子とは、仏教で智慧をたとえたもの、仏教の正しき智慧は私たちの迷いの根を断ち切り、真実を明らかにしてくれる。ちょうど、獅子の筋から発する音は、他の絃を断ち切っていくように、真実の説法は、私たちの迷いをブチブチと断ち切っていくのである。また、ある人が牛や羊、またロバ等、様々な動物から乳を搾り取って、一つの器にいれ、そこに獅子の乳を一滴落としたならば、他の乳に混ざることなく、それらの乳がことごとく破壊され、清らかな水となってしまう。それと同じように阿弥陀仏のお力によって、菩提心を起こして頂き、念仏三昧を実践したならば、念仏の力によって、心が浄らかになり、すべての悪魔や様々な障りによって、その行いが妨げられることはない。

※ここで、様々な乳が混ざった水とは、現在なら、油汚れがこびりついた食器にたとえることができます。油汚れがべっとりとこびりついた食器でも、強力な洗剤を一滴たらしたら、油汚れが分解されて、食器がきれいになります。ここで、油汚れの酷い食器とは、様々な間違った考えがこびりついて、正しく物事を考える事が出来ない状態の事です。そのような間違った考えにとらわれている状態でも、念仏によって真実の智慧を与えて頂いたならば、一瞬にして間違った考えが正される。真実の智慧とは、油汚れのようにこびりついた間違った考えを、一瞬のうちに打ち破る洗剤のようなものであることを教えられています。

 また、「華厳経」に「たとえるなら、ある人がいて、姿を消す薬を持って、各地を布教したならば、すべての余の人たちが、その人を見て妨害することはない。それと同じように、阿弥陀仏のお力によって菩提心を起こして頂き念仏三昧をしたならば、すべての悪神、また求道を妨げるすべての障害が、この人を見ることができず、好きなところに行くことができて、自由に布教することができる。どうして、このようにできるのかと言えば、それは念仏三昧こそ、すべての三昧の中の王だからである」

※ここで、姿を消すとは、どういう事を言われているのでしょうか?悪神とは、仏法を伝える事を邪魔する様々な障害、また人を言うのではないかと思います。真実の仏法を伝えていくと必ず邪魔が入ります。お前の信心は間違っているとか、お前の教えは間違っているとか、いろいろな非難があります。誰しも自分の信じているものを非難されて、気持ちのいい人はいません。だから、どうしても非難をしてきた人の方に向いてしまい、何とかして自分の正しさを証明しようとしてしまうのです。私は思うことですが、自分を非難してくる人に対して自分の正しさを分かってもらおうとすることは、意味のない事だと思います。仏教の目的は抜苦与楽。大事な事は自分の正しさを証明することではなく、苦しんでいる人をどれだけ助けてあげられるかということです。ちょっと非難されると、すぐに非難してきた人に目がいってしまう私たちが、常に苦しんでいる人に向かい、その人の心の救済に全力を注いでいけるようにして下さるのが、念仏三昧の働きなのかなと思いました。

 「摩訶衍」(龍樹菩薩の書かれた「智度論」)の中に、次のように教えられています。「念仏三昧以外の三昧も、三昧でない訳ではない。それはどういうことかと言えば、ある三昧は貪欲を除くだけで、瞋恚や愚痴の心を取り除くことはできない。また、ある三昧はただ瞋恚を取り除くだけで、愚痴や貪欲を除くことはできない。また、ある三昧は愚痴を取り除くだけで、貪欲や瞋恚を除くことはできない。また、ある三昧は現在の苦しみを取り除くだけで、その他の未来や過去の苦しみを除くことはできない。もし常に念仏三昧を実践したならば、現在・過去・未来など時間の違いに関係なく、すべての障りを皆取り除くことができる。」

 「大経讃」(曇鸞大師の書かれた「讃阿弥陀仏偈」)の中に次のように教えられています。もし、ある人がいて、その人が善知識の説かれる説法を聞く事を通して、苦しみが取り除かれ、喜び、人にも伝えていきながら、その説かれる教えに対し、心から従いなさい。そうすれば、その人は浄土に往生する一念まで、大変な幸せを得られるであろう。それは念仏を通して、仏の徳がそなわっていくからである。たとえ、目の前にどれだけ不安な事があったとしても、仏の教えを信じ、教えを聞いていきなさい。そうすれば、その不安の火が、どれだけ心の中を覆いつくしていたとしても、その不安に屈して逃げてしまうことなく克服することができるであろう。この故に善知識の説かれる教えに対し、心から信じ従っていくのである。

※このお言葉とは何を意味しているのであろうか?きっと、浄土へ往生していく道はそんな簡単なものではなく、不安の火を突破して進んでいくことによって、到達できる道なのかなと思います。多くの人は不安なことがあると、不安と向き合う事なく逃げてしまいます。しかし、阿弥陀仏を信じている人は、阿弥陀仏から智慧を頂くことによって、不安と向き合い、不安を克服して、浄土へ進んでいくことを、ここで教えられているのだと思いました。

 また、「目連所問経」の中に、次のように教えられています。お釈迦様は目蓮尊者に次のように仰った。たとえるのなら、川に浮かぶ草木が流れ流れすべて最後には海に入っていくように、この世の人も、どんなに経済に豊かで何でも思い通りにすることができたとしても、生老病死の苦しみから逃れる事はできない。ただ仏教を信じ、教えに従っていこうとしないために、後の世において人として生まれたとしても、その愚かさのために苦しみ、仏の御国に生まれる事はできない。この故に私が言いたいことは、無量寿仏の国は善知識の説かれる教えを心から信じ、どんなに不安の火が山のように襲いかかったとしても、ひたすらその火を突破し教えを聞いていく者には、甚だ往き易いところであるが、そこまで善知識を信じることができないために、たとえ人間に生まれたとしても、その愚かさのために苦しまなければならない。この道は、決して、自分の力で修行に励んで進んでいける道ではない。そういう人は智慧がないために、真実の道を進んでいるつもりが、返って外道の教えに従ってしまうことになる。私はこのような人を、「智慧の眼を持ってない人」と名付け、また、「真実の教えを聞く耳のない人」と名付ける。このようにお経の中に教えられている。どうして、愚かな自分の智慧を信じて進む難行道を捨てて、善知識の教えを信じて進む易行道を選ばないのか。

※ここでは、仏教を信じるとはどういうことか、という事が教えられています。それは一言でいうのなら、大宇宙が火の海になったとしても、それを突破して聞けということです。もちろん、大宇宙が火の海になる事はありませんから、この火は譬えです。では、何を火にたとえられているのかと言えば、私たちの抱える不安や恐怖です。私たちは、未知なるもの、まだ経験していないものに対して、恐怖を抱きます。そして、その恐怖に対して、無意識のうちに逃げることによって問題を見ないようにするのです。しかし、いくら問題から逃げて見えなくなったとしても、問題が解決した訳ではありません。それどころか、問題から逃げれば逃げるほど、問題に対する不安は大きくなり、その不安を誤魔化すために、欲や怒りが起きるのです。私たちは先を見通す智慧がないために問題が起きると、目先の楽へ楽へと流れてしまいます。それは、結果的に苦しみを招くことになってしまうのですが、智慧がないために、自分が苦しむことが分からないのです。仏教とは、いつも私たちが幸せになる方向を指し示してくれます。そして、それは不安の火を乗り越えた先にしかありません。善知識は、私たちの目となって幸せになるための道を指し示しているのに、私たちは真実を聞く耳がないために、善知識の教えを疑い、楽な方へと流れて苦しんでいるのです。


 

 
 
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