「八万の法蔵」の御文章
 
 

◎「八万の法蔵」の御文章(イントロダクション)

  ここでは、「八万の法蔵」の御文章についての解説をします。
  『御文章』は、蓮如上人の書かれたものです。
  蓮如上人とは、親鸞聖人の教えを、正確に、最も多くの人に、伝えられた方です。この点において、蓮如上人の右に出る人はいません。“正確に”というところが大事です。いくら多くの人に伝えても、正確でなければ尊敬に値しません。蓮如上人は、親鸞聖人の教えを、一器の水を一器の器に移すが如く正確に、伝えられました。それで私たち親鸞学徒は、親鸞聖人に次いで蓮如上人を尊敬いたします。
  朝晩の勤行(おつとめ)でも、親鸞聖人の『正信偈』を拝読した後、蓮如上人の『御文章』を拝読しています。親鸞聖人が“右へ行け”と教えられ、蓮如上人が“左へ行け”と教えられていたら、『正信偈』と『御文章』を、続けて読むことはできません。親鸞聖人の教えと蓮如上人の教えは、まったく同じなのであります。
  「八万の法蔵」の御文章は、蓮如上人の書かれたもので、『御文章』の5帖目に書かれています。以下、この御言葉について、解説していきます。

  八万の法蔵を知るというとも、後世を知らざる人を愚者とす。たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世を知るを智者とす (御文章5帖目第2通)

◎智者と愚者がいる

  この御言葉は、愚者とはどんな人か、また、智者とはどんな人か、について、親鸞聖人が教えられたことを、蓮如上人が、ひらがな混じりでわかりやすく教えられた御言葉です。
  世間では、「愚者」とは、バカ者ということです。字の縦横もわからない人、一万円札と千円札の違いがわからない人です。買い物で、一万円札と思って出したら、お客さん、これは、千円札だよと言われるような人です。
  反対に、「智者」とは、利口な人、聞いたら何でも答える人、百科事典が頭に入っているような人ということです。
  最近、教育が問題になっていますが、テストで、いつも0点を取っている人は、愚者です。逆に、いつもテストで100点を取っている人は、智者と思われています。
  愚者と智者、どちらになりたいかと聞かれたら、誰しも智者になりたいでしょう。皆、智者と言われたい、人から誉められたい、と思って生きています。人生の目的といってもよいです。人からバカとは言われたくないです。漫才で、アホ役がありますが、あれは、仕事でやっているだけです。アホ役がいないと、面白くないからやっているのです。誰しも、本当は智者になりたいと思っています。 

◎智者と愚者の基準

  では、どんな人が智者で、どんな人が愚者でしょうか。社会的地位のある人が、智者とは限りません。小学校しか出ていなくても、「あの人はやることは立派だ」と言われる人もいます。最近のニュースなどを見ていると、いろんなことを知っている人が、犯罪で捕まって、刑務所に入ったりしています。ですから、いろんなことを知っている人が、智者とは限らないということです。そういうニュースなどを聞くと、智者と愚者の基準が、ぐらぐらと揺らいでしまうのではないでしょうか。
  ところで、世間でいう“智者と愚者”と、親鸞聖人が教えられている“智者と愚者”は、全く違います。世間の常識と、親鸞聖人の教えとの違いを、よく知って頂かなければなりません。これを知りますと、私たちが考えている智者と愚者を、考え直さねばならないと、おわかりになると思います。親鸞聖人が教えられている“智者と愚者”は、どんな人なのでしょうか。
  親鸞聖人の教えられる、智者と愚者の基準は、ハッキリしています。
  親鸞聖人は、“後世を知る人”を智者、“後世を知らない人”を愚者と教えられています。そして、「早く智者になりなさい、愚者のままではいけませんよ」と教えられています。

◎後世を知らない人

  後世を知らない人とは、後生が暗い人ということです。後生暗い心がある人です。後生暗い心を、「無明の闇」と言います。また、「無明業障の恐ろしき病」とも言います。また、「疑情(ぎじょう)」とも言います。それぞれ言葉は違いますが、同じ意味です。
  蓮如上人は、「無明業障のおそろしき病のなおるということは、さらにもってあるべからざるものなり」と言われています。また、「過去、未来、現在の三世の業障、一時に罪消えて」とも言われています。「無明業障」の「無明」を略して、「業障」と言われています。
  親鸞聖人は、「無明の闇」と言われています。『教行信証』の一番最初に「無明の闇を破する慧日なり」と言われています。また、「疑網(ぎもう)」とも言われています。これも、『教行信証』の一番最初に言われています。「此のたび、疑網に覆蔽せられなば・・」と言われています。同じことですが、いろいろと言われています。
  後生暗い心とは、どういう心でしょうか。「後生」とは、「後世」のことです。死んだ後生まれる世界が「後生」で、死んだ後の世が、「後世」です。ですから、「後生」も「後世」も同じ意味です。後生(後世)は、私たちが、100%、入っていくところです。

◎老後と死後

  私たちの確実な未来が後生(後世)ですが、その前にあるのが、「老後」です。
  老後が心配だということで、国を挙げて、対処しています。老後になって、体が動かなくなったら、どうするか、と不安です。誰が介護するか、若い者はアテにできなから、それで、元気な時から保険料を払うようにしようと、問題になっています。これらすべて、老後が心配だからです。
  老後のない人はあっても、後生(後世)のない人はいません。今日も、交通事故で、たくさんの人が亡くなっています。それは、年寄りだけではありません。まだまだ若いからと言っても、今日、死ぬかもしれません。若くして死んだ人には、老後はありません。本当のことを言うと、老後は、あるかないかわからないのです。しかし、後生は確実にやってきます。あるかないかわからないの老後の心配はしても、確実にやってくる後生の心配をしている人がいないのではないでしょうか。
  「死んだ後のことはわからん、死んだら死んだ時だ」と言う人がいます。それならば、老後についても、「老後になったら老後になった時だ、老後になってから、対処すればいい」と言えばいいんです。国会で、問題にする必要はありません。しかし、そんなこと言う人はいません。これは、本当はおかしなことです。
  老後は保険などである程度明るくすることはできても、後生は依然として暗いままです。暗いとは、ハッキリしない、わからないということです。

◎「死んだ後はない」のか

  「死んだ後はない」と言う人がいます。「死んだ後は、ひとつまみの灰になる、骨になるだけ」と口では言っていながら、肉親や知人が亡くなると、墓を立てて参ったりします。また、生きている時に酒が好きだったからといって、墓に酒をかけている人もいます。
  また、慰霊祭をやっています。慰霊祭とは、死んだ人の霊を慰める儀式のことです。8月15日には、日本武道館で、日本中から集まって、慰霊祭をしています。
  死んだ後がないのであれば、霊もありませんし、墓もいりません。墓の下に何もないのですから、墓参りすることもありません。墓石に酒をかけているのは、バカの骨頂ということになります。武道館に集まって慰霊祭をやる必要もないでしょう。
  墓を立てたり、慰霊祭をやったりするのは、死んだ後、後生、後世があると認めているからでしょう。
  さらに言えば、慰霊とは、“霊を慰める”ということです。自分よりもずっとずっと幸福な人を、“慰めよう”とは思いません。自分より幸福な人には、こちらが慰めてもらいたいです。
  “慰める”のは、自分よりも、お気の毒な人です。例えば、大地震で、たくさんの人が避難所生活をしていると聞くと、義援金を出したりするでしょう。私たちは、自分よりお気の毒な人、可哀相な人、苦しんでいる人を、慰めようと思います。
  武道館に集まって、霊を慰めるのは、死んだ人の霊が、苦しんでいる、恨んでいると思うからです。地獄に堕ちて、苦しんでいるじゃないだろうか、餓鬼界で苦しんでいるんじゃないだろうかと思うから、霊を慰め、“安らかにお眠り下さい”と言ったりします。
  “安らかにお眠り下さい”と言うのは、苦しくて眠れないと思っているからです。心の奥では、そう思わずにおれないのです。「死んだ後はない」なんて言っているのは、深い心の奥で思っていることに気づかずに、浅い知識だけで言っています。ですから、死んだ後はないと言っているのは、口だけです。
  皆、一度は、死んだらどうなるか、考えてみますが、考えてもわかりません。わかるものではないと思いますから、「死んだら死んだ時だ」と、諦めています。「諦めは、よくない」と言っている人でも、こればかりは諦めてしまっています。しかし、諦めて、安心できるわけではありません。諦めは、ものの解決ではありません。
  結局、死んだらどうなるのか、死んだ後があるのかないのか、わかりません。後生は暗いです。ということは、真っ暗なところに向かって、進んでいるということですから、これでは、真の安心はありません。
 
◎行き先が暗い

  行き先が真っ暗ですから、“人間に生まれてよかった”という喜びはありません。安心も満足もあるはずがありません。真っ暗なところに向かっているんですから。
  ですから、後世を知ることこそが、一番大事だとわかるでしょう。その、一番大事なことを知らない人は、「愚者」であり、一番大事なことを知っている人は、「智者」と言われるのです。他にどんなことを知っていても、一番大事なことを知らなければ、智者ではありません。
  無明の闇、無明業障のおそろしい病、疑情、これらすべて同じことで、後生暗い心、後世暗い心とも言います。死んだらどうなるか、わからない心です。「死んだ後はあるような気もするし、ないような気もする」、「このままでは極楽へはいけないんじゃなかろうか」、「地獄に堕ちるような気もするし、餓鬼界に堕ちるような気もする」、これら、死んだらどうなるかハッキリしない心が、後生暗い心です。
  後生暗い心がハッキリするとは、無明の闇が晴れるということであり、無明業障の恐ろしき病が治るということであり、疑情がなくなるということです。

◎往生一定、おん助け治定

  では、どのようにハッキリするのでしょうか。蓮如上人はそれを、「往生一定(いちじょう)、おん助け治定(じじょう)」と言われています。『領解文(りょうげもん)』に言われています。

  もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生、御助け候えとたのみ申して候。たのむ一念のとき、往生一定、おん助け治定と存じ

  「往生一定」とは、いつ死んでも極楽へ往って、仏に生まれるのが、ハッキリしたということです。「一定」とは、ハッキリする、一つに定まる、ということです。合否が発表される前は、合格できるか、できないか、ハッキリしていません。発表されると一つに定まりハッキリします。一定とは、そういうことで、ハッキリしたことを言います。「往生一定」とは、いつ死んでも極楽参り間違いなしとハッキリすることです。
  「おん助け治定」とは、これも「往生一定」と同じことで、無明の闇を破って下されたことがハッキリしたということです。「治定」とは、ハッキリしたということで、「一定」と同じです。
  無明の闇が無くなったこと、無明業障の恐ろしき病が治ったこと、疑情が晴れたこと、後生暗い心が明るい心になったこと、いろいろに言えますが、これを『領解文』では、往生一定、おん助け治定と言われています。
  「たのむ一念のとき」とありますが、「一念」とは、あっという間もない時間です。その一念で、往生一定の身に、おん助け治定の身に、後生暗い心が明るい心になります。

◎苦しみの根元は疑情

  後生暗い心とは、必ず行かねばならない行き先が真っ暗がりということです。ですから、今からして、心は暗くなります。後生暗い心は、苦しみの根元です。それを教えられた親鸞聖人のお言葉がこれです。

  真の知識に値(あ)うことは
  かたきが中になおかたし
  流転輪廻の際(きわ)なきは 
  疑情のさわりにしくぞなき

  「流転輪廻」とは、車の輪がぐるぐる回ることを言います。「るてんりんね」と読みます。「流転」とは、ぐるぐる回るということ、「輪廻」とは、輪が回るということです。 毎日、同じことの繰り返しをやっています。これでは、何の為に生まれてきたのか、何の為に生きているか、わかりません。同じところをぐるぐる回っています。これは、苦しみ以外の何ものでもありませんから、流転輪廻とは、仏教で苦しみのことをいいます。
  「際なき」とは、果てしがない、キリがない、ということです。苦しみに果てがないことを言われています。
  「この坂を越えたなら〜」という歌詞の歌があります。この坂を越えても、また坂があり、その坂を越えても、また、坂があると歌っています。人生はこの繰り返しです。家康は、死ぬまで苦しみの重荷を下ろせなかったと言っています。死ぬまで、苦しみ悩みは、なくなりません。家康のように、天下を取った人でもそうですから、天下を取れないような人は、なおさらそうです。これでは、悲劇あるだけで、苦しむ為に生まれてきた、苦しむ為に生きているということになります。
  苦しみ悩みがキリがありません。その原因は何でしょうか。それについて「疑情のさわりにしくぞなき」と教えられています。「しくぞなき」とは、これ一つだ、ということです。疑情一つが原因なんだ、と言われています。
  疑情とは、先に述べましたが、無明の闇であり、無明業障の恐ろしき病であり、後生暗い心です。後生が真っ暗ですから、今に、希望の光もありません。ですから、科学が進歩しても、経済が繁栄しても、物が豊かになっても、苦しみはなくなりません。世界中で、殺したり、殺されたり、目を覆いたくなるような悲惨な殺し合いが起きている原因は、ここにあります。

◎無明の闇が晴れた人が智者

  この無明の闇、後生暗い心が明るい心になった人が、智者です。無明の闇、後生暗い心を持っている人は、愚者です。蓮如上人の御教導は、非常にハッキリしています。智者と愚者の違いは、後世を知っているか、知っていないか、無明の闇が晴れたか、晴れていないかで決まる、ということです。
  無明の闇が破れた人、無明業障の恐ろしき病が全快した人、疑情がなくなった人、後生暗い心が後生明るい心になった人が、智者です。
  無明の闇がある人、無明業障の恐ろしい病に罹っている人、疑情がある人、後生暗い心の人が、愚者です。これを教えられたのが、お釈迦様であり、親鸞聖人であり、蓮如上人です。
  すべての人は、幸福を求めて生きていますが、苦しみの根元を知りません。無明の闇、無明業障の恐ろしき病、疑情が、苦しみの根元であることを知りません。
  苦しみの根元は、無明の闇であり、無明業障の恐ろしき病であり、疑情であると教え、どうすれば、無明の闇を破ることができるか、無明業障の恐ろしき病を完治することができるか、疑情を晴らすことができるか、これを教えられたのが、仏教であり、親鸞聖人であり、蓮如上人であり、その蓮如上人の御言葉が、冒頭の「八万の法蔵」の御文章です。

◎真の知識

  すべての人の苦しみの根元は、疑情のさわり、これ以外にありません。これを教えられるのが、真の知識です。仏教で、「知識」とは、仏教の先生のことをいいます。世間では違うでしょう。世間では、「あの人は科学的知識がある人だ」と言ったりしますが、仏教では、仏教の先生のことを、「知識」といいます。
  真の知識とは、本当の仏教を教える人、ということです。本当の苦しみの根元を教える人ということです。真の知識は、中々、おられません。中々、あえません。それを「真の知識に値うことは、かたきが中になおかたし」と言われています。
  親鸞聖人は、9才の時に、滋賀県にある比叡山で、仏教を求められました。当時、比叡山には、日本中の仏教の学者が集まっていました。親鸞聖人は、比叡山で、20年間、仏教の学問修行をなされました。しかし、本当の苦しみの根元を教えてくれる人は、いませんでした。日本中の有名な仏教の学者が集まっている比叡山にも、本当の苦しみの根元を教えてくれる人はいなかったのです。それで、親鸞聖人29才の時に、山を下りられました。そして、京都の吉水というところで、法然上人にお会いし、はじめて、本当の苦しみの根元を聞かれました。
  ですから、「真の知識に値うことは、かたきが中になおかたし」は、親鸞聖人の体験から、言われたお言葉です。本当の苦しみの根元は何か、探したことのない人にとっては、ピンと来ないかもしれません。親鸞聖人は、20年間、本当の苦しみの根元は何か、探し求められた末、法然上人より、教えて頂き、「真の知識に値うことは、かたきが中になおかたし」と、言わずおれなかったのです。

◎無明の闇を破るお力

  では、どうすれば無明の闇を破ることができるのでしょうか。親鸞聖人の教えられたお言葉がこれです。

  難思の弘誓は、難度海を度する大船、無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり

  「無碍の光明」とは、阿弥陀仏のことです。大日如来、薬師如来、阿弥陀仏、お釈迦様など、有名な仏様はありますが、地球上で、仏のさとりをひらいた方は、今日まで、お釈迦様だけです。さとりといっても、52段あります。最高のさとりが、仏のさとりですが、そこまでたどり着いたのは、今日まで、地球上では、お釈迦様だけです。
  大宇宙には、数えきれないほど、仏様がおられます。これを、「十方諸仏」といいます。「十方」とは、大宇宙ということです。大宇宙には、地球のようなものは数えきれないほどあります。大宇宙を、大きな部屋としますと、地球は、その部屋に漂うチリみたいなものです。部屋に強い光が射し込みますと、無数のチリがムラムラしているのがわかりますが、地球はそのチリの一つです。地球上に現れた仏様はお釈迦様しかおられませんが、大宇宙には、数えきれないほどの仏様がおられます。これを「十方諸仏」とか、「一切の諸仏」と言われています。
  十方諸仏の「本師本仏」が、阿弥陀仏です。一切の諸仏は、阿弥陀仏を、ともに誉め讃えられていますが、それは、本師本仏だからです。
  阿弥陀仏が本師本仏である根拠を挙げましょう。

  ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば (御文章2帖目第8通)

  「本師本仏」とは、十方諸仏の先生、ということです。大宇宙の仏方は、阿弥陀仏のお弟子です。ですから、大宇宙の仏は、阿弥陀仏を誉め讃えておられます。自分の先生をバカにする弟子はいません。最近、学校崩壊とか言われていますが、いろいろと原因はあるでしょうが、先生を尊敬しなければ、教育になりません。それで、学校崩壊が起きているのでしょう。
  阿弥陀仏には、いろいろなお名前があります。「光明」とは、仏のお力、のことを仏教で、光明といいます。世間でも、“親の七光”といって、親の力を「光」で表します。七つの光が出ているのではありません。
  「無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」とは、阿弥陀仏は、無明の闇を破る、智恵の太陽である、ということです。「慧日」とは、智恵の太陽ということです。「慧」は、「智恵」ということで、無明の闇を破る働きをいいます。「日」は、太陽です。太陽は、「天に二日なし」と言われるように、世に二つ三つもありません。阿弥陀仏のお力だけが、無明の闇を破ることができるということです。

◎智慧光仏とは

  それを教えられたのが、親鸞聖人の御和讃がこれです。

  無明の闇を破するゆえ
  智恵光仏と名づけたり
  一切諸仏三乗衆   
  ともに嘆誉したまえり

  阿弥陀仏だけが、無明の闇を破ることができます。慧日の「慧」は、智恵です。「慧」と「恵」は、同じです。智恵とは、無明の闇を破る働きをいいます。それで、阿弥陀仏のことを、智恵光仏とも言います。阿弥陀仏だけが、無明の闇を破ることができます。無明業障の恐ろしき病を治すことができます。
  大宇宙に、どれだけ仏様がおられても、無明の闇を破ることはできません。どれだけたくさんの医者がいても、無明業障の恐ろしき病を治すことはできないということです。一切の諸仏は、無明の闇を破ることはできません。それで、阿弥陀仏を、偉い仏だと、嘆誉して、誉め讃えています。一切の諸仏に、無明の闇を破る力のないことは、蓮如上人は『御文章』に教えられています。

  夫れ十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も、空しく皆、十方三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり (御文章2帖目第8通)

  私たちは、十方諸仏に見捨てられた、ということです。無明の闇、無明業障の恐ろしき病なので、十方諸仏は、私たちを見捨てました。見捨てたということは、治すことができないということです。医者が診察して、「他の病院へ行ってくれ」と見捨てるのは、その病院では治せないからです。
  十方諸仏は無明業障の恐ろしき病を治すことができないと見捨てた、と言われても、私たち、驚きもしないでしょう。医者から見捨てられたら、普通、驚きます。「あなたは、肝臓も腎臓も肺も、皆、ガンです、どうしようもありません」、そう言われたら、驚きます。しかし、十方諸仏に見捨てられたと言われても、ちっとも驚きません。肉体の病気が治っても、たかだか百年のことなのに、未来永遠苦しめる無明の闇を破ることはできないと、見捨てられたと聞いても、平気です。自覚症状がありません。ですから、無明業障の恐ろしき病と言われています。
  阿弥陀仏だけが、無明の闇を破ることができます。「無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」と教えられるように、阿弥陀仏だけが、無明の闇を破ることができる智恵の太陽なのです。
  ですから、一切の諸仏は、「すごい仏様だ、偉い仏様だ」と褒めたたえます。「三乗衆」とは、一切の諸仏の下の者達です。「諸仏」の下が、「菩薩」、「菩薩」の下が「縁覚(えんがく)」、「縁覚」の下が「声聞(しょうもん)」です。これらを、三乗衆といいます。無明の闇を破ることは、一切の諸仏でさえも、できないことなので、その下の三乗衆にできるはずはありません。それで、一切諸仏と、三乗衆は、ともに、阿弥陀仏を褒めたたえます。

◎阿弥陀仏だけ

  阿弥陀仏だけが、無明の闇を破ることができます。それで、「難思の弘誓は、難度海を度する大船」と言われています。「難思の弘誓」とは、阿弥陀仏の本願のことです。阿弥陀仏の本願とは、阿弥陀仏のお約束ということでが、十方諸仏が破ることができなかった無明の闇を、必ずぶち破ってみせるというお約束です。
  これは、『御文章』に教えられています。

  然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、五障三従の女人をば、弥陀にかぎりて、「われ一人たすけん」という超世の大願を発して (御文章2帖第8通)

  「弥陀にかぎりて」とありますから、阿弥陀仏だけです。十方諸仏ができなかった無明の闇を必ずぶち破ってみせると約束されています。しかも、“一念”で、破ってみせると約束されています。
  「一念」とは、何兆分の一秒よりも、短い時間です。一念で、無明の闇は破れます。無明業障の恐ろしき病が治るのは、一念です。一念で、後生暗い心が明るい心になります。
  明るい心とは、「往生一定」です。これを蓮如上人は、「たのむ一念のとき、往生一定」と言われています。『領解文』に、「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候えとたのみ申して候。たのむ一念のとき、往生一定」とあります。
  「たのむ一念」の時に、後生暗い心が明るい心になります。一念で、いつ死んでも極楽参り間違いなしの心になります。
  一念で、無明の闇が破れることを、蓮如上人は、別のお言葉では「過去、未来、現在の三世の業障、一時に罪消えて」と言われています。「一時」とは、「一念」のことです。「罪」とは、無明の闇、無明業障の恐ろしき病のことです。一念で、無明の闇が破れる、無明業障の恐ろしき病が治ると言われています。

◎正定聚の位、等正覚の位とは

  そうなりますと、「正定聚の位、また、等正覚の位なんどにさだまるものなり」と教えられています。「正定聚」になる、「等正覚」になる、と言われています。「正定聚」とは、さとりは全部で52ありますが、その51段目を言います。「等正覚」も、同じです。あと一段で、仏になるという位です。「正定聚」とは、間違いなく仏になると決まっているということで、「往生一定」と同じです。

◎難思の弘誓とは

  必ず無明の闇を破ってみせると阿弥陀仏は約束されています。それを、親鸞聖人は、「難思の弘誓」と言われています。「弘」は、「ひろい」ということです。阿弥陀仏は、すべての人と約束されています。
  「難思の弘誓は、難度海を度する大船」と言われています。「難度海」とは、太平洋とか、日本海とか、地図に載っている海ではありません。「難度海」とは、私たちの人生のことです。海には、大きな波やら、小さな波があります。波とは、苦しみ悩みです。苦しみの波が次から次へとやって来て、それを乗り越えると、また次の波がやって来ます。「この坂を越えたなら、幸せが待っている、そんな言葉を信じて、超えた七坂四十路坂」の歌の通りです。「いつか幸せがやって来るよ」、そんな言葉にだまされて、この年になってしまったということです。難度海とは、苦しみの人生のことです。
  その難度海を明るく楽しく渡す大きな船が、「難思の弘誓」です。これは、阿弥陀仏の本願のことです。阿弥陀仏の本願は、苦しみの根元である無明の闇を、必ず破ってみせると、約束されていますので、難度海を明るく楽しく渡す大きな船になるのです。

◎親鸞聖人の告白

  親鸞聖人は、29才の時に、無明の闇が破れた驚きを、このように言われています。

  噫、弘誓の強縁は、多生にも値いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。遇、行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。若しまた、此のたび、疑網に覆蔽せられなば、更りて、復、昿劫を逕歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ (教行信証)

  「多生にもあわれぬものにあわせて頂いた、億劫にも獲られぬものを獲させて頂いた」と言われています。これは阿弥陀仏の本願のことです。親鸞聖人は、「何の間違いがあって、この身にさせて頂けたのか。もし無明の闇を破って頂くことができなければ、永遠に地獄に堕ちて、苦しんでいたであろう」と言われています。
  さらに、「阿弥陀仏の本願まことだった、阿弥陀仏の本願まことだった」と言われ、「早く、阿弥陀仏によって、無明の闇を破ってもらいなさい。そして、早く、智者になりなさい」と言われています。私たちは、親鸞聖人の仰るとおり、本当の智者になる為に生まれてきたんです。
  いろんなことを知っていても、頭だけです。勉強して、大学の学長、また、ノーベル賞をとっても、何かの病気で、忘れたら、どうなるでしょう。パソコンで入力していたのが、何かの間違いで、全部、消えてしまうようなものです。そうなったら、何も残りません。どんなにたくさんのことを知っていても、一番大事なことを知らなければ愚者です。一番大事なこととは、後世を知ることです。阿弥陀仏のお力によって、無明の闇を破って頂いて、いつ死んでも極楽参り間違いない身になってこそ、本当の智者です。お釈迦様も、親鸞聖人も、蓮如上人も、早く、本当の智者になりなさいと教えられているのです。
(END)

 
 
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