御臨末の書
 
 

◎御臨末の書(イントロダクション)

ここでは、親鸞聖人の「御臨末の書(ごりんまつのしょ)」といわれるものについての話です。
  こんにち、親鸞聖人は、「世界の光」といわれています。
  親鸞聖人は、今から八百年前にお生まれになりました。90才でお亡くなりになっておられます。今日、90才は、珍しくないですが、700年前は、珍しいといえます。
  親鸞聖人が、世界の光といわれるのは、親鸞聖人が、全世界、すべての人の救われる唯一の道を教えられたから、世界の光といわれます。
  その親鸞聖人が、死なれる時に、いわゆる遺言が、御臨末の書といわれるものです。

  【御臨末の書】
  我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、
  和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
  一人居て喜ばは二人と思うべし、
  二人居て喜ばは三人と思うべし、
  その一人は親鸞なり。
    我なくも法は尽きまじ和歌の浦
      あおくさ人のあらんかぎりは

◎我が歳きわまりて

  親鸞聖人は「我が歳きわまりて」と言われていますが、いよいよ親鸞、歳がきわまった、ということです。親鸞聖人は、まさに波瀾万丈の御一生で、大変な御一生でありました。そして、お亡くなりになられる時に、「我が歳きわまった、いよいよ親鸞、歳がきわまった」と言われています。
  これは親鸞聖人だけでなく、この世に生まれたすべての人は、必ず死んでいきます。“歳がきわまった”という時が必ずやってきます。まさか今日、自分の歳が極まる、命が極まるとは、思ってもいませんが、昨日、交通事故で死んだ人はたくさんいたし、今日、交通事故で死ぬ人もたくさんいます。そういう人は、昨日、自分の命の極まる日であった、今日、歳が極まる日であった、ということです。自分の命の極まる日は、今日であった、そういう日が必ずやってくることを、覚悟しなければなりません。計算しておかねばなりません。

◎安養浄土に還帰す

  では、死んだらどこへ行くのでしょうか。何にも無くなる、と思っている人もいれば、土と一緒になる、と思っている人もいます。また、墓の下に入る、と思っている人もいます。
  死んだらどこへ行くのか、ということについて、親鸞聖人は、「親鸞は、安養(あんにょう)浄土に還帰(げんき)す」、つまり、安養浄土に行くぞ、と言われています。
  「安養浄土」とは、何でしょうか。「安養」とは「安養仏」、つまり、阿弥陀仏のことです。阿弥陀仏のことを安養仏ともいわれます。阿弥陀仏には、いろいろなお名前があります。『正信偈』の初めに、「無量寿如来」、「不可思議光(如来)」とあります。これは、阿弥陀仏のことです。阿弥陀仏には、いろいろなお名前がありますが、その中の一つに「安養仏」があります。

◎阿弥陀仏とお釈迦様

  阿弥陀仏がましますこと、阿弥陀仏がおられることを、私たちは、どのようにして知ることができたのかというと、お釈迦様によるのです。お釈迦様とは、仏教を説かれた方です。世界に宗教といわれるものはたくさんあります。仏教、キリスト教、イスラム教など、いろいろありますが、よく知らされているのが、仏教です。仏教とは、お釈迦様の説かれた教えです。
  お釈迦様とは、今から二千六百年前、インドでご活躍された方です。35才の時に、52のさとりの中の最高のさとり、52段目のさとり(仏覚)に到達されました。仏のさとりをひらかれたのは、地球上では、お釈迦様だけです。
  世の中にはいろいろな人があって、「私は仏になった」という人が出てくる時もあります。今、刑務所に入っている人の中にもありますが、“自称仏”ではなく、自他共に認める仏は、地球上では、お釈迦様、釈迦牟尼仏だけです。
  ですから、お釈迦様の説かれた教えを、仏教といいます。お釈迦様は、三大聖人、二大聖人といっても、まず筆頭にあげられますから、地球上で、お釈迦様以上の人はいません。
  次に、阿弥陀仏についてですが、阿弥陀仏は、地球上の仏様ではありません。お釈迦様は、「阿弥陀仏は、本師本仏である」と教えられています。「本師」とは先生、「本仏」も、先生ということです。
  お釈迦様の先生が、阿弥陀仏です。地球上では、お釈迦様が一番偉いですが、そのお釈迦様が、手を合わせ、頭を下げられるお方が、阿弥陀仏なのです。
  本師本仏であると説かれている、御聖教(おしょうぎょう)を紹介します。

  ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば (御文章2帖目第8通)

  お釈迦様が教えられていることを、蓮如上人が、書かれています。大宇宙には、地球のようなものは、数えきれないほどあります。大宇宙には、仏さまも、たくさんおられます。これを「十方諸仏」といいます。仏教で、大宇宙のことを、十方といいます。大宇宙のたくさんの仏様、これを十方諸仏といいますが、十方諸仏の本師本仏が阿弥陀仏である、と教えられているのです。
  「阿弥陀仏も、お釈迦様も、同じ仏さまだ」と思っている人がいます。また、「大日如来、薬師如来といっても、名前が違うだけ、レッテルが違うだけで、同じ仏さまだ」と思っている人がいますが、それでは、仏教は、わかりません。
  私たちは、お釈迦様によって、阿弥陀仏のましますこと、阿弥陀仏のおられることを知ることができました。では、お釈迦様八十年の教えに、何が説かれているのでしょうか。お釈迦様の教えは、「一切経(いっさいきょう)」といって、七千余巻のお経になって残されていますが、その中に教えられていることは何か、親鸞聖人が『正信偈』にあきらかに教えて下さっています。

  如来所以興出世 唯説弥陀本願海 (正信偈)

  これは、親鸞聖人が、一切経を何度も何度も読み破られて、言われたお言葉です。「唯説」とありますが、これは大事です。「唯説」の「唯」は、たった一つ、二つも三つもないということです。一切経はたくさんありますので、お釈迦様は、いろいろなことを教えられたと思っている人が多いですが、親鸞聖人は、「それは違う、たった一つのことを説かれたのだ」と言われています。ですから、ただ一つのことがわかれば、仏教すべてわかったことになる、一切経すべて読んだことになります。また、話をする者も、他のことは話さなくてもよい、たった一つのことを話せばよい、ということです。ですから、ただ一つのことを間違ったら、大変です。
  そのただ一つのこととは、「弥陀の本願海」です。「弥陀」とは、阿弥陀仏のことです。阿弥陀仏の本願ということですが、「本願」とは、約束ということです。弥陀の誓願ともいわれます。『歎異鈔』のはじめに、「弥陀の誓願」とあります。「誓願」の「誓」とは、誓いということで、約束ということです。阿弥陀仏は、私たちと固い約束をしておられます。それが、阿弥陀仏の本願です。
  そして「海」とありますが、海とは、広くて、深いものです。また、地上に降った雨は、最後は、海に流れ込まないと、落ちつきません。湖や池にしばらく滞留しても、最後は、海に流れ込まないと、すべての水は、落ちつきません。そのように、すべての人は、いろいろなものを信じていますが、それでは根本から救われるということはありません。根本から救われるには、阿弥陀仏の本願しかありません。それで、親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を、「海」といわれています。
  海のような阿弥陀仏の本願を、お釈迦様は、ただ一つ教えられました。阿弥陀仏とお釈迦様は、先生と弟子の関係です。弟子は、先生の本当の願いを伝えること、これが弟子のつとめですから、お釈迦様は、先生である阿弥陀仏の本願、先生の御心を伝えられました。お釈迦様が、阿弥陀仏の本願一つ教えられたことから、阿弥陀仏とお釈迦様は、先生と弟子の関係であることが、わかります。

◎お釈迦様と親鸞聖人

  お釈迦様が、阿弥陀仏の本願しか教えられませんでしたので、親鸞聖人も、阿弥陀仏の本願しか教えられませんでした。親鸞聖人は、常に、お釈迦様の教えしか伝えていないと言われていました。

  更に親鸞、珍しき法をも弘めず、如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり

  親鸞聖人は、お釈迦様の教えしか教えられませんでした。ですから、お釈迦様が、ただ一つ教えられた阿弥陀仏の本願しか、親鸞聖人は、教えられませんでした。
  ですから、御臨末の書でも、安養浄土と言われています。安養、安養仏とは、阿弥陀仏のことです。浄土とは、阿弥陀仏のましますところ、阿弥陀仏のおられるところです。安養浄土とは、阿弥陀仏がおられるお浄土のことです。
  親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願一つ教えられ、阿弥陀仏の本願に救いとられた方ですので、阿弥陀仏の浄土に、いつ死んでもいける身になっておられます。ですから、死なれる時、この世の縁が尽きた時、「親鸞は、死んだら、安養浄土へ行く、安養浄土に還帰する」と言われています。

◎行き先が明るいか

  飛行機に例えると、私たちが生まれた時は、飛行場を飛び立った時です。飛び立った飛行機は、必ず降りなければなりません。降りる飛行場がなかったら、大変です。飛行機が飛ぶとは、生きていくということです。どうやって生きていくかも大事ですが、それよりも、死んだらどこへ行くか、行き先の方が大事です。
  生まれた人は、必ず死にます。死んだらどこへ行くか、死んだらどうなるか。 親鸞聖人は、「親鸞は、安養浄土に還帰する、阿弥陀仏のおられる極楽浄土へいく」と言われています。死んだらどうなるかなぁ、というようなものではありません。いつ死んでも極楽へ行けると言われています。
  死んだらどうなるか、わからない心、これを、「後生暗い心」といいます。後生というのは、死んだ後の世界です。後生が暗い心、死後どうなるかわからない心を、後生暗い心といいます。降りる飛行場のない飛行機に乗っている人の気持ちです。
  親鸞聖人は、「死んだら、安養浄土に行く。明るく楽しいところに行く」と言われています。
  安養浄土のことを、「無量光明土(むりょうこうみょうど)」ともいいます。無量光明土とは、限りなく明るいところ、光明に限りのないところ、ということです。ですから、後生は明るい、行き先は明るいです。
  しかし、誰でも彼でも、死ねば、安養浄土に行けるのではありません。誰でも彼でも、死んだら極楽、死んだら仏、死んだら極楽、死んだら仏、と思われていますが、誰でも彼でも死んだら極楽、死んだら仏になれるのではありません。
  死んだらどこへ行くか、私たちは、百パーセント、死んでいきます。ですから、すべての人は、死んだらどうなるかという大問題を抱えています。親鸞聖人は、『教行信証』教巻の最初に、このように言われています。

  浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。一つにも往相、二つには還相なり

◎往生浄土の相状

  「浄土真宗」とは、阿弥陀仏の本願のことです。阿弥陀仏の本願とは、先程、話しましたように、阿弥陀仏のお約束ということです。阿弥陀仏は、二つのことを約束しておられます。それが、「二種の廻向(えこう)あり」ということです。「廻向」とは、与えてくださる、ということです。阿弥陀仏は、「二つのものを与えてやるぞ」と約束されていますので、「二種の廻向あり」と言われています。
  二つのものを与えてやるぞ、と言われている中の一つは、「往相(おうそう)」です。「往相」とは、「往生浄土の相状(そうじょう)」のことです。往生浄土の相状のことを、「往相」と言われています。往生浄土の相状とは、阿弥陀仏の極楽浄土へいって、弥陀同体、阿弥陀仏と同じ仏のさとりをひらいて、生まれるという姿、そういう身になったことを、往生浄土の相状といいます。
  一念というきわめて短い時間で、往相の身になります。阿弥陀仏に救いとられます。その時、いつ死んでも極楽行きの身、すなわち、往相の身になります。往相の身になることを、「信心決定(けつじょう)」ともいいます。往相の身になりますと、一日、生きれば、一日、極楽に近づく姿になります。往相の身にまだなっていない人は、死んで極楽どころではありません。死ねば、地獄に堕ちます。一日に生きれば、一日、地獄に近づく、一夜、明ければ、一夜、地獄に近づいている姿です。往相の身になれば、つまり、信心決定すれば、いつ死んでも極楽に行きます。

◎信心決定あれかし

  ですから、蓮如上人の御遺言は、「あわれあわれ存命の中に、皆々、信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」です。「朝な夕な、蓮如が思っていることは、早く皆さん信心決定してほしい。これ一つ思い続けている」と言われています。
  往相の身にならなければ、すなわち、信心決定しなければ、極楽どころではありません。地獄に堕ちます。それを、蓮如上人は、こう言われています。

  この信心を獲得(ぎゃくとく)せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり (御文章2帖目第2通)

  信心決定のことを、信心獲得ともいいます。信心獲得しなければ、極楽どころではない、必ず無間地獄に堕在するぞ、と蓮如上人、言われています。これをまた、親鸞聖人は、「八万劫中大苦悩ひまなくうく」と御和讃に教えられています。
  親鸞聖人は、29才の時に、信心決定、信心獲得されました。親鸞聖人は、阿弥陀仏に救いとられて、往相を頂かれました。ですから、親鸞聖人は、臨終の時に、親鸞は、安養浄土に行くぞ、安養浄土に還帰するとハッキリ、言われています。これは、降りる飛行場がハッキリしたということです。往相の身になるというのは、ハッキリするんです。ハッキリしたから、ハッキリ言われています。

◎往きやすくして、人無し

  誰でも彼でも死んだら極楽、死んだら仏ではありません。お釈迦様は、このような変なことを言われています。

  易往而無人

  これは、お釈迦様の変なお言葉です。「易往而無人」ですが、お経の読み方をしますと「いおうにむにん」と読みますが、崩して読みますと、「往きやすくして、人無し」と読みます。
  どうして変な言葉なのかといいますと、「易往」とは、「往きやすい」ということですが、どこに往ぎやすいのかというと、阿弥陀仏の極楽浄土へです。じゃ、誰でも彼でも、極楽にいけるのか、嬉しいな、と皆を喜ばせておいて、次に、「而無人」とあります。「而」とは「ケレドモ」ということです。阿弥陀仏の極楽浄土へは、往きやすいけれども、人無し、と言われています。
  往きやすいのならば、往っている人が多いはずなのに、「人無し」といわれています。人無しとは、人がいないということではなくて、人が少ないということです。往きやすいのならば、人が多いはずです。しかし、人無しと言われています。
  人が少ないのなら、あまり往きやすいところではありません。人無しが正しければ、往きやすいがおかしくなります。往きやすいところなら、人が多いはずです。それで、変な言葉なのです。
  おかしな人が言っているのでしたら、気にも止めませんが、お釈迦様が言われているお言葉です。蓮如上人は、これを解説しておられます。

  これによりて、大経には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文の意は「安心をとりて、弥陀を一向にたのめば、浄土へは参りやすけれども、信心をとる人稀なれば浄土へは往き易くして、人無し」といえるは、この文の意なり。(御文章2帖目第7通)

  「これによりて、大経には「易往而無人」とこれを説かれたり」というのは、「易往而無人」と、お釈迦様の『大無量寿経』というお経に説かれた、ということです。「この文の意は」というのは、これはどういう意味かというと、ということです。「安心をとりて」とは、信心決定して、信心獲得して、ということです。「弥陀を一向にたのめば」、これは、往相の身になれば、ということです。「浄土へは参りやすけれども」とは、いつ死んでも極楽往き間違いないということです。「信心をとる人稀なれば」というのは、信心をとる人、信心決定する人が稀だから、ということです。だから「浄土へは往き易くして、人無し」と説かれるのだ、と蓮如上人、解説されています。
  信心決定している人は、阿弥陀仏が往相を下されますから、浄土へ往きやすい、浄土へは往きやすいです。しかし、信心決定する人が少ないから、浄土へは往き易くして、人無しとなります。
  「人無し」とは、「人がいない」ということではありません。「人が少ない」ということです。私たちも、「無口な人」といいますが、「無口な人」とは、「口の無い人」のことではありません。口数の少ない人、余り喋らない人を、無口な人といいます。そのように、人無しとは、人が少ないということです。
  ですから、誰でも彼でも、死んだら極楽に往けるのではありません。生きている時に、往相の身になった人だけ、信心決定した人だけ、極楽に往くことができます。
  私たちは、往相の身になる為に生きています。そこまで、進むことができるのは、阿弥陀仏の、必ず往相の身にしてみせると、引っ張り出して下されるお力があるからです。そうでないと、私たちは、仏教を聞くということはありません。私たちには、真実のカケラもないからです。仏教は真実です。真実のカケラのない者が、真実に向かうことは、考えられません。
  阿弥陀仏が、何とかして往相の身にしてやりたいと引っ張りだして下されるお力、これを本願力ともいいますが、阿弥陀仏の本願力によって、私たちは、仏教を聞いているのです。
  ですから、人工的につくった信心ではいけません。人工信心で、助かったつもりになって喜んでいても、往生浄土には、間に合いません。人工信心で、極楽へいけるのなら、易往而無人ではなく、易往而多人でしょう。お釈迦様は、『大無量寿経』に「易往而無人」と言われ、それを蓮如上人も解説されていますので、一日で、何十人も、信心決定したということはありません。
  親鸞聖人は、往相の身になられましたから、「親鸞は、我が歳きわまった、安養浄土へ行くぞ、阿弥陀仏の極楽に往生するぞ」と言われています。誰でも彼でも、安養浄土に行けるのではありません。往相の身になった人、信心決定した人だけです。だから、早く往相の身になりなさい、早く安心をとりなさい、早く信心決定しなさいと言われていることも、ここで、知らなければなりません。

◎噫、弘誓の強縁は、多生にも値いがたく

  「往生浄土の相状」とは、いつ死んでも阿弥陀仏の極楽にいって、弥陀同体のさとりをひらいて、生まれる姿をいいます。親鸞聖人が、往相の身になられたのは29才の時ですが、親鸞聖人が、往相の身になられた喜びのお言葉を、『教行信証』の最初に書かれています。

  噫、弘誓の強縁は、多生にも値いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。若しまたこの廻(たび)疑網(ぎもう)に覆蔽(ふくへい)せられなば更(かえ)りてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序)

  ここで親鸞聖人、「噫(ああ)」といわれています。この「噫」とは、親鸞聖人の往相の身になられた驚き、喜びのお言葉です。後生の一大事を解決して、八万劫中大苦悩を受けるところを、いつ死んでも極楽参り間違いなしの身に、今、救われたという驚き、喜びを「噫」言われています。
  私たちは、どんな時に、「ああ」と言うでしょうか。唐がらしと知らずに、口に入れた時「ああ」と言います。また、しばらく会ってなかった旧友と、旅先の町でバッタリ会った時「あらっ」といいます。
  噫とは、親鸞聖人の言葉にならない言葉ですが、何に驚かれたのかというと、多生にもあわれぬ弘誓の強縁にあえたことにです。「弘誓の強縁は、多生にも値いがたく」といわれていますが、「弘誓の強縁」とは、阿弥陀仏の本願のことです。「多生にもあわれぬ弘誓の強縁に今、あえた」と言われています。
  弘誓の強縁に“あう”とは、どんなことでしょうか。どしゃぶりに“あう”とは、ずぶ濡れになるということです。火事に“あう”とは、家が燃えてしまうことです。洪水に“あう”とは、家や田んぼが流されるということです。
  では、弘誓の強縁に“あう”とは、どんなことか。弘誓の強縁、阿弥陀仏の本願は、往相の身にしてみせるというお約束ですがら、そのお約束通り、往相の身になったことが、弘誓の強縁に“あう”ということです。
  「多生」とは、多くの生、ということですが、これは、私たちの肉体のことではありません。肉体は死ねば焼いていくものです。これは私たちの生命のことです。私たちの生命は、生まれ変わり、死に変わりして、何億年、何兆年よりも昔から、続いてきました。これが多生ですが、多生もの間、あうことのできなかった弘誓の強縁に、今、あえた、と仰有っているのです。

◎真実の浄信は、億劫にも獲がたし

  次に「真実の浄信は、億劫にも獲がたし」ということですが、これは、億劫の間獲ることのできなかった真実の浄信を、今、獲ることができた、ということです。「真実の浄信」とは何でしょうか。私たちは、何かを信じなければ、生きていけません。このカレーにまさかヒ素は入っていないだろう、まさか青酸カリは入っていないだろう、という様にです。信じなければ、何も食べることができなくて、死んでしまいます。ですから、何かを信じなければ、生きていけません。飛行機に乗る時でも、他人の飛行機は落ちても自分の乗る飛行機だけは落ちない、と信じています。そう信じないと、飛行機ひとつ乗れません。
  皆、何かを信じて、生きていますが、私たちは、絶対に裏切らない、絶対に崩れない信心を求めています。信じていたものに裏切られた時に、苦しむからです。私たちは苦しみたくありません。ですから、絶対に裏切らない、絶対に崩れない信心を求めています。それが、真実の浄信なのです。
  真実の浄信とは、真実とは、絶対に崩れない、ということです。「浄」とは、清らかな、ということですから、浄信とは、清らかな信心ということです。真実の浄信は、億劫にも獲がたい、といわれています。「億劫」ということですが、これは、「一劫」とは4億3200万年で、その億倍ということですから、大変長い間のことです。億劫という大変長い間、獲ることのできなかった真実の信心を、今、獲ることができた、ということです。
  多生の間、あわれぬ弘誓の強縁にあうことができた、億劫の間、獲ることができなかった真実の浄信を獲ることができた、その驚き、喜びを、親鸞聖人は「噫、弘誓の強縁は、多生にも値いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし」と言われています。

◎遠く宿縁を慶べ

  次に「遇、行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と言われていますが、「行信」とは、「真実の浄信」と同じで、真実の信心のことです。真実の信心を獲たならば、「遠く宿縁を慶べ」と言われています。「宿縁」とは、何億年、何兆年も前から、「何とかして親鸞を助けてみせる」という阿弥陀仏の御念力のことで、これがなければ、真実の信心を獲ることができませんでしたから、阿弥陀仏がかかりはてて下された御恩を、喜ばずにおれない、と言われています。

◎危ないところを救われた

  次に「若しまた、此のたび、疑網に覆蔽せられなば、更りて、また、昿劫を逕歴せん」ということですが、「疑網」、疑いの網と書きますが、これは、疑いの心、阿弥陀仏の本願を疑う心です。「疑情」ともいいます。「疑網に覆蔽される」とは、いつ死んでも極楽にいける身、往相の身に、まだなっていない、ということです。往相の身になるまでには、安楽椅子があります。そんなところで止まっていたら、極楽どころか、地獄に堕ちます。求めていって、一念で、往相の身、いつ死んでも極楽にいける身になります。この安楽椅子に止まっていると、蓮如上人が言われていますように、信心獲得せずば、極楽どころか無間地獄に堕在します。
  安楽椅子で止まってしまっていたら、「更りて、また、昿劫を逕歴せん」とありますように、昿劫の間、逕歴するところであった、後生は一大事であった、それが、阿弥陀仏に救われて、往相の身になった、危ないところを救われた、と言われています。ここで「昿劫」とありますのも、大変長い間、ということです。「逕歴」とは、経(へ)巡る、ということです。

◎人生の目的

  私たちは、この、往相の身になる為に生まれてきました。この身になるまでは、どんなに苦しくても、死んでならなりません。生きていかねばなりません。そこが、私たちが仏教を聞く決勝点です。
  だから、これが人生の目的です。私たちが人間に生まれてきた、生きている目的です。皆、人生の目的を知りません。だから、世の中が混乱し、自殺者が後を絶ちません。「こんなに苦しいのに、なぜ生きねばならないの」という新聞の投書もたくさん届いています。これは、すべての人の切実な問題でしょう。この人生の目的を明らかにしている人は誰もいません。だから、誰も知りません。人生の目的を、明らかにしているのは、親鸞聖人だけです。
  政治、経済、科学、医学などは、生き方のことばかりです。毎日毎日、国会は、大変です。テレビでやっていますので、皆さんも知っておられると思いますが、金融危機、世界恐慌の前触れと言われていますが、これも、生き方の問題、どう生きるかです。生きて何をするか、人生の目的を誰もいいません。生きる目的を言わずに、手段ばかり言っています。
  親鸞聖人は、人生の目的を、ここで、体験を通して、明らかにしておられます。

◎誠なるかなや

  次に「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」といわれています。「摂取不捨の真言」も、阿弥陀仏の本願、「超世希有の正法」も、阿弥陀仏の本願のことです。
  「阿弥陀仏の本願、ウソではなかった、まことだった」ということです。阿弥陀仏の本願まことだったといえるのは、阿弥陀仏の本願通りに救われた時、言えます。百万円、友人に貸したとします。「今年中に返す」と約束しているが、この約束が本当だったとわかるのは、百万円返してもらった時です。返すまでは、「本当に返すだろうか」と思っていますが、返してもらった時に「本当だった」と思います。親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願に救いとられて、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」と言われています。

◎御恩返しのお気持ち

  多生にもあわれぬものにあわせて頂いた、億劫にも獲られぬものを獲させて頂いた、その御恩は、この世のものと比べものになりません。その御恩返しのお気持ちを、親鸞聖人は、このように言われています。

  如来大悲の恩徳は、身を粉にしても、報ずべし
  師主知識の恩徳も、骨を砕きても、謝すべし   (恩徳讃)

  まず「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし」ということですが、「如来大悲の恩徳」とは、阿弥陀如来の大慈悲のことです。往相の身になったのは、阿弥陀仏が、往相を下されたからです。ですから、すべて阿弥陀仏のお力によります。「この身に救われたのは、親鸞の力は、少しも間に合わなかった、すべて阿弥陀仏の大慈悲であった」と知らされます。
  その御恩には、菓子箱3つぐらい持っていけば済むというものではないです。親鸞聖人は、「身を粉にしても報ずべし」と言われています。身を粉にしたら、死んでしまいますが、親鸞聖人は、日野左衛門という男を済度される為、石を枕に、雪を褥に休まれました。また、親鸞聖人を恨みに思い、剣を振りかざして殺しにきた弁円をも済度なされています。これらは、身に粉にしての思いがないと、できないことです。
  次に「師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし」ということですが、「師主知識」とは、お釈迦様をはじめとして、親鸞聖人まで、阿弥陀仏の本願を伝えて下された方々のことです。阿弥陀仏の本願がありましても、親鸞聖人にまで伝えて下される方がいなければ、知ることはできませんでした。それで「師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし」と、報謝に立ちあがられています。(詳しくは恩徳讃の講義参照)
  如来大悲の御恩、師主知識の御恩の報謝には、これで終わった、これで卒業、決勝点ということはありません。しかし、信心には卒業があります。多生にもあわれぬものにあった、億劫にも獲がたいものを獲たと言われていますから、信心に卒業はあります。阿弥陀如来、師主知識の御恩報謝は、まだ足らん、まだ足らんで、卒業もなければ、決勝点もありません。しかし、魂の解決は、救われた一念で卒業します。そこが決勝点です。だから、「平生業成(へいぜいごうじょう)」といわれます。平生に業事成弁、人生の大事業が完成します。これが、往相です。

◎還来穢国の相状

  阿弥陀仏は、二つのものを下されると約束されています。一つには、往相、二つには、還相です。阿弥陀仏は、まず往相を下されます。往相とは、往生浄土の相状ですが、これについては説明してきました。では、還相とは、どういうことでしょうか。
  還相とは、「還来穢国(げんらいえこく)の相状」のことです。還来穢国の相状の「還」と相状の「相」で、還相と言われています。還来穢国の相状とは、どんなことでしょうか。往相の身、いつ死んでも極楽浄土にいける身になった人は、死ねば、阿弥陀仏の極楽に生まれますが、「穢国」とは、汚れた世界、ということで、苦しみ悩みの娑婆世界のことです。
  苦しみ悩んでいる人がたくさんいる、そういう娑婆世界に戻ってくる姿を、還来穢国の相状といいます。
  親鸞聖人は、「御臨末の書」で、往相と還相を言われています。「わが歳きわまりて安養浄土に還帰すというとも」、これは、「親鸞、この世の命がきわまって、安養浄土に還帰す、すなわち、阿弥陀仏の極楽にいくけれども」ということです。
  次の「和歌の浦曲の片男波の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」ということですが、和歌の浦曲の片男波とは、和歌山の片男波海岸のことです。そこに波が寄せては返し、寄せては返しを繰り返しています。波は、往復運動を繰り返しています。これで、波が来なくなったということはありませんね。その波のように、「親鸞は、一度は、極楽に往くが、すぐに戻ってくるぞ」と言われています。今晩、極楽にいくなら、今晩中に、帰ってくるぞ、と言われています。
  この世には、苦しみ悩んでいる人が、たくさんいます。人生の目的を知らない人ばかりです。人生の目的を教えてほしいと新聞に投書する人だけが知らないのではありません。 すべての人の魂は、人生の目的を知りたいと叫んでいます。後生の一大事も知りません。死んだら、墓に入るくらいに思っています。だから、お盆になると、墓の下に死んだ人がいると思って、手をあわせ、拝んでいます。そんなところにいれると思っているのは後生の一大事を知らないからです。すべての人は、人生の目的も、後生の一大事も知りません。だから、親鸞聖人は、とても極楽で休んではおれません。
  親鸞聖人は、29才の時に、往相に身になられ、90才でお亡くなりになっておられますが、90才でお亡くなりになるまでの61年間の御恩報謝の活動は、先程も説明しましたが、石を枕に、雪を褥にされたり、また、剣を振りかざしてやってきた弁円をも済度なされたり、「ただ仏恩の深重なるを念じて、人倫の弄言を恥じず」と、進んでいかれました。それでも、親鸞聖人は、「まだ済まん、まだ済まん」と言われています。
  それで、「一度は、極楽へ往くが、すぐ戻ってくるぞ」ということで、「安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男波の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」と言われています。これは、阿弥陀仏から頂いた、還来穢国の相状を言われています。

◎その一人は、親鸞なり

  「親鸞聖人は、極楽に行かれて、百味の御食を食べられて、八功徳水につかっておられるのだろう。娑婆にいる時、日野左衛門にはひどい目にあわされたし、弁円にも殺されかけたし、大変だったから、今ごろ極楽の八功徳水の温泉につかって、応報の妙服を着て、ステレオを聞いて、カリョウビンガの声を聞いて、ゆっくり休んでおられるのじゃないか」と思っておられる人もあるかもしれませんが、そうとは思えません。
  親鸞聖人は、次のように言われています。「一人居て喜ばば、二人と思うべし、二人居て喜ばば、三人と思うべし、その一人は、親鸞なり」です。一人で仏法聞いて喜んでいる人は二人と思いなさいよ、二人で仏法を聞いている人、悲しんでいる人も、苦しんでいる人もそうですが、三人と思いなさいよ、そなたたちの近くに、親鸞が来ているのだから、ということです。「その一人は、親鸞なり」とありますように、親鸞聖人は、すぐ戻ってきて、私たちの側におられるのです。私たちの目に見えないだけで、私たちの側に、親鸞聖人は、来て、共に喜び、共に悲しみ、共に苦しんでおられるのです。
  これは、私たちの魂に、親鸞聖人、叫ばれています。私たちの魂に連れはいません。独りぼっちで、魂は、寂しく、苦しんでいます。それを、お釈迦様は、

  独生独死 独去独来 (大無量寿経)

と言われています。これは、『大無量寿経』というお経にあります。生まれてきたのも独り、死んでいくのも独り、この世に来たのも独りなら、去っていくのも独りです。手をつないで、生まれてきた人はいません。また、独りで死んでいきます。ですから、魂に、連れはいません。肉体の連れのことではありません。親や子供、夫も妻、兄弟、友人など、肉体の連れはいると思います。ここで釈尊は、肉体の連れのことではなく、魂の連れがいないということを言われています。自分の本心を、本当にわかってくれる人は、誰もいません。
  死んでから地獄に堕ちるのではなく、この世、孤独地獄で苦しんでいます。東京や大阪
の都会ほど、孤独苦で苦しんでいる人は多いです。自分の本心を言うことはできません。
  人に言うことができるのは、私たちの本心ではありません。本当に言えないことが、私たちの本心です。誰も、わかってくれる人はいません。そういう私たちの魂に、親鸞聖人は「一人居て喜ばば、二人と思うべし」と叫ばれています。「一人で、苦しんでいたら、悲しんでいたら、二人と思いなさい。二人居て喜んでいたら、三人と思いなさい、その一人は親鸞だ」。このお言葉は、私たちの孤独な魂に叫ばれたお言葉であります。

◎遊煩悩林現神通

  最後は「われなくも法は尽きまじ和歌の浦、あおくさ人のあらんかぎりは」です。「親鸞が死んでも、阿弥陀仏の本願は、なくならないから、和歌の浦の人よ、伝え続けてくれ」と言われています。
  往相の身に救われたのは、すべて阿弥陀仏のお力ですが、「阿弥陀仏、師主知識の御恩報謝は、自分で、そういう心をおこしてするのではないか」と思いますが、御恩報謝も、阿弥陀仏が下された心なのです。阿弥陀仏は、往相と還相の二つを下されます。往相とは、阿弥陀仏がいつ死んでも極楽にいける身にして下さるということですが、還相も、阿弥陀仏が下される心です。
  ですから、日野左衛門の済度で、石を枕に、雪を褥に休まれた親鸞聖人は、苦しまれたのかというと、楽しまれています。喜ばれています。「寒くとも、たもとに入れよ、西の風、弥陀の国より吹くと思えば」と言われています。
  弁円の時もそうです。衆生済度が楽しくなります。喜びになります。それを『正信偈』には

  遊煩悩林現神通 (正信偈)

と教えられています。「煩悩」ということですが、私たちには百八の煩悩があります。欲や怒り、愚痴で、私たちを煩わせ悩ませるもので、一人に百八あります。煩悩の林とありますが、百人の人がいたら、一万八百の煩悩があるということで、まさに“林”です。もし一万人の人がいたら、百八万の煩悩が集まっていることになります。まさに煩悩のジャングルになります。これでおわかりだと思いますが、「煩悩林」とは、大衆のことです。
  大衆の中で衆生済度するのが“遊び”、楽しい、喜びだ、遊びだ、と言われています。
  親鸞聖人が、阿弥陀仏に救いとられてからの御恩報謝のお姿を見ますと「寒くともたもとに入れよ、西の風、弥陀の国より吹くと思えば」と言われたり、また、弁円の済度を見ますと、還相としか思えません。
  本来から言えば阿弥陀仏に救われてからの一日一日が往相、浄土に往ってからが還相、ということでしょうが、阿弥陀仏に救われるまでを往相、阿弥陀仏に救われてからが還相、このように、味わってもいいのではないかと思います。死んで、仏になってから、縦横無尽な衆生済度をすることと比べれば十分ではありませんが、少しなりとも、衆生済度をしようという心になります。これも阿弥陀仏から頂いた心ですが。ですから、阿弥陀仏に救われてからが還相、このように、味わってもいいのではないかと思います。
  御臨末の書では、阿弥陀仏の極楽浄土へ行くが、必ず戻ってくると言われていますので、往相と還相を、ハッキリと言われています。
(END)

 
 
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