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白骨の章
◎白骨の章とは(イントロダクション)
白骨の章は、蓮如上人という方が書かれたものです。『御文章(ごぶんしょう)』(『御文(おふみ)』ともいいます)の5帖目第16通にありますが、蓮如上人の『御文章』全80通の中では一番有名といえるでしょう。というのは、浄土真宗の葬儀などでは必ずと言っていいほど読まれますので、知人友人の葬式などに参列した時に、よく聞かれると思いますから、ご存知の方も多いと思います。
しかも、『御文章』の中でも特に名文といわれ、切々と人間の姿を書かれているので、よく知られています。五百年前に書かれたもので、中に仏教の言葉もありますので、どういうことがここで説明したい思います。
夫れ浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、
幻の如くなる一期なり。されば、いま
だ万歳の人身を受けたりということを
きかず。一生過ぎやすし。今にいたり
て、誰か百年の形体をたもつべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明
日とも知らず、遅れ先だつ人は、もと
の雫、末の露よりもしげしといえり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白
骨となれる身なり。すでに無常の風き
たりぬれば、すなわち二つの眼、たち
まちに閉じ、一つの息、ながく絶えぬ
れば、紅顔むなしく変じて、桃李の装
いを失いぬるときは、六親眷属集まり
て、なげき悲しめども、さらにその甲
斐、あるべからず。さてしもあるべき
ことならねばとて、野外に送りて、夜
半の煙となし果てぬれば、ただ白骨の
みぞ、残れり。あわれというも中々、
おろかなり。されば、人間のはかなき
ことは、老少不定のさかいなれば、誰
の人も、早く後生の一大事を心にかけ
て、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり。
(白骨の章 全文)
◎親鸞聖人と蓮如上人
蓮如上人は、今から約五百年前に亡くなられた方で、最近(平成11年)蓮如上人五百回忌が行われましたのが記憶にある方もあると思います。
蓮如上人とは、どんなことなされた方かというと、親鸞聖人の教えをそのまま教えられた方です。親鸞聖人は蓮如上人よりも、さらに二百年前の方で、90才でお亡くなりになられました。親鸞聖人90年の教えを、正確に、最も多くの人に伝えられた方で、蓮如上人以上の人は、今日までいません。日本中、浄土真宗が広まっているのは、ひとえに蓮如上人によると言ってもいいでしょう。
しかも“正確に”伝えられたのです。親鸞聖人の教えに少々反する、あるいは少し間違っていることを伝えていては、尊敬はできません。蓮如上人は、一器の水を一器に移すが如く、正確に、最も多くの人に伝えられたので、浄土真宗の私たちは、親鸞聖人に次いで、尊敬いたします。
浄土真宗の御仏壇は、阿弥陀如来が中央で、その右に親鸞聖人、左に蓮如上人の御写真があります。朝晩、「帰命無量寿如来〜」で始まる親鸞聖人の『正信偈』を読んだ後、蓮如上人の『御文章』を拝読するのが、浄土真宗の勤行(おつとめ)です。ということは、朝な夕な、親鸞聖人の教えを聞いているということですが、蓮如上人が、親鸞聖人の教えを正確に伝えられた方だからこそ、親鸞聖人の『正信偈』に続けて、蓮如上人の『御文章』を読むことができるのだと言えます。
◎人間の浮生なる相(すがた)
「夫れ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに」とは、人間の浮生なる姿をつらつら見てみると、ということです。
人間の浮生なる相とありますが、人生とは“浮いている”ということです。
浮いているとは、海や池などに浮かぶのが普通ですが、人生のことを親鸞聖人は、“難度海(なんどかい)”と教えられています。
私たちの人生は、苦しみ悩みの波がやってくる、絶えずにやってくる海のようなもので、難度海と言われています。60億の人は、みな難度海に浮いています。あっちふらふら、こっちふらふらと、根なし草のように、浮いています。
難度海で溺れている私たちは、何かにすがりたいと思います。何かにすがるとは、何かを信じることです。何かを信じ、あて力にしなければ生きていけません。難度海には、丸太や板きれが浮いてると喩えられます。丸太や板きれとは、金や財産、地位や名誉などです。金があれば、ヤレヤレと思います。また、財産があれば、いざとなっても大丈夫と思います。自分の老後は、子供をたよりにしようと思います。しかし、子供に見捨てられ、老人ホームに入らねばならないこともあります。そうなれば、お金が必要、財産が必要と、お金や財産にすがります。また、名誉があればと思う人もいれば、社会的地位があればと思う人もあります。
私たちが苦しむのは、どんな時か考えてみますと、信じていたものに裏切られた時です。
病気で苦しんでいるのは、健康に裏切られたからです。健康でなければ、お金があっても、財産があっても、楽しめません。だから、一番健康が大事と思っている人がほとんでではないでしょうか。
ということは、健康という丸太や板きれにすがっている人が一番多いということです。自分は、風邪一つひいていない、病院にいったことがないと健康を信じていましたが、急に病気になったり、事故にあったりして、苦しみます。
健康という丸太に裏切られて、苦しみます。夫に裏切られた妻、妻に裏切られた夫、子供に裏切られた親、親に裏切られた子供、最近、よく見聞きします。それら結局、すがっていた丸太や板きれに裏切られて、苦しんでいるのです。
総ての人間は、難度海で苦しんでいます。それを蓮如上人は、人間の浮生なる相と言われています。
◎火宅無常の世界
また、親鸞聖人は、歎異鈔にこのようにも言われています。
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、萬(よろず)のこと皆もって、そらごとたわごと真実(まこと)あることなきに、ただ念仏のみぞ、まことにておわします
欲や怒り、恨み嫉(ねた)み、これを煩悩といいますが、私たちは、煩悩の固まりですので、煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)と言われています。煩悩具足の凡夫とは、難度海で浮いている私たちのことです。
「火宅」とは、火のついた家、ということで、お釈迦様が言われています。自分の家のひさしに火がついているとします。そんな時に、今はちょうどお昼だから、消すのはご飯を食べてからにしよう、と思いますか。また、トイレに入っているから、消すのは全部出してから、と思いますか。ご飯なら食べかけ、トイレならそのままにして火を消そうとしますよね。火宅とは、自分の家のひさしに火がついたような、そういう不安な状態のことを言っています。
「無常」とは、家が焼けてしまう。今まであったものが燃えてしまう、自分が大事にしていたものがなくなってしまうことをいいます。こういう世界を「火宅無常の世界」ということです。
「萬のこと、皆もって」とは、例外はないということです。
結婚したときは、あなただけは真実、と思っています。君だけは真実、と。皆、この人だけは、これだけは、絶対裏切らないと、例外のように思っていますが、例外はありません。親鸞聖人の仰有るとおりです。
聖徳太子は、これを「世間虚仮(せけんこけ)」と言われています。世間に、まことは、一つもないということです。
それを蓮如上人は、「浮生なる相」と言われ、親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、萬のこと皆もって、そらごとたわごと真実あることなし」と言われています。
◎幻(まぼろし)の人生
「凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり」と続きます。「一期」とは、一生のことです。「この世の始中終」とは、始めとは、オギャッと生まれて、子供の時、そして、人生の中頃、終わりは、老人となって、最期は死んでいきます。
禅宗の一休和尚は、「世の中の娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで、婆(ばば)と散りゆく」と唄っていますが、これが人間の始中終です。始めは娘であり、中はお母さん、終はお婆さんです。
一生は、はかないもので、あっという間です。日本の平均寿命は、女性は85才ですが、85年間といっても、過ぎ去ってみれば、あっという間だ、と言われています。
これから、70年、80年と思うと、長いように思いますが、過ぎ去ってみれば、あっという間です。
幻の如くなる一期なり、幻とは、夢幻と言われるように、夢のようであるということです。
あの秀吉は、夢のようであったと臨終に言っています。
「おごらざる者もまたひさしからず、露と落ち、露と消えにし、我が身かな、難波のことも、夢の又夢」
「おごらざる者もまたひさしからず」とは、どういうことでしょうか。秀吉は、平家物語を読んで、平家が続かなかったのは、おごったからだと知りました。それで、秀吉は、おごらないようにしようと、自戒しました。「あれで、おごらないようにしたのか」と言いたくなりますが、「ノミはノミの糞をする、象は象の糞をする」といったところでしょうか。
秀吉は、おごらないようにしようとしましたが、それでも長続きはしませんでした。
「露と落ち、露と消えにし、我が身かな」。露とは、儚いものです。太陽が出て、2、3時間も消えずに残っている露はありません。草場にあった露は、太陽が出ると、すぐ消えてしまう儚いものです。ですから、露とは、儚いものの代名詞、そういうものとして使われています。秀吉は、露のように儚い人生であったと言っています。
「難波のこと夢の又夢」。天下をとり、大坂城を建てたことは、夢の中で夢を見ているようなものであった、と、臨終に知らされたのです。大坂城は、いわば秀吉の家でした。大坂城を建て、日本中の富を手に入れましたが、それも夢の中の夢のようなものであったと言っています。
私たちが朝から晩まで、あくせくして求めているものは、秀吉からすればずっとずっとかわいいものです。金、財産、地位、名誉、どれだけ思い通りのものが手に入ったとしても、秀吉でさえ“夢の又夢”ですから、“夢の又、又、又・・・夢”かわかりません。
秀吉は、命をかけて、このようなものを求めました。それが、夢の又夢と儚いものでありました。秀吉に、人間に生まれてきてよかったという真実の幸せはありませんでした。夢の中で、金や財産や天下を追い求めているようなものです。蓮如上人は、幻の如くなる一期なり、夢幻のような一期ではないかと言われています。この後、一期について、端的に、詳しく教えられています。
では、私たちは、何の為に生まれてきたのでしょうか。何の為に生きているのか、根っこのある、私たちを裏切られないものは、ないのでしょうか。蓮如上人は、この後に、「はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」と言われ、親鸞聖人は、
難思の弘誓は、難度海を度する大船
難度海を明るく楽しく渡す大きな船があるんだ、それは、難思の弘誓、阿弥陀仏の本願であると言われています。また、歎異鈔には「ただ念仏のみぞ、まことにておわします」、ただ念仏のみがまことなんだと教えられていますが、そのまこととは何か、後ほど詳しく説明します。
◎一生すぎやすし
次は「さればいまだ万歳の人身を受けたりということを聞かず」。これは、今までに何万年生きたという人を聞いたことがない、ということです。
次は「一生すぎやすし」。一生は、あっという間、ということです。蝉は、今、鳴いていますが、蝉の命は、わずか一週間といわれます。人間の平均寿命は、男性で76才、女性は85才です。
私たちから、蝉を見れば、一週間の命は、儚いなぁと思います。しかし、仏様の目からみれば、私たちが蝉を見るよりも、もっと
儚くみえるでしょう。
次は「今にいたりて、誰か百年の形体をたもつべきや」。今までに誰か百年、生きた人があるでしょうか。もっとも、金さん銀さんは百才を超えていましたし、日本には、百才を超えている人は、何千人といるそうですが、これは「いまだ万歳の人身を受けたりということを聞かず」と同じことで、千年も万年も生きた人など、今まで聞いたことがありません。
◎我や先、人や先
次は「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず」。私たちは、死と聞くと、他人の死しか思えません。死といえば、自分以外の他人の死を思います。ですから、本当は「人や先、人や先」と思っています。死にたくないという希望が、そのように思わせるのでしょうが、自分だけは死なない、死といえば他人、人や先、人や先、と思っているのです。
少し自覚のある人でも、「人や先、我や先」としか思えません。他人が死んで、最期に自分が死ぬ、ということです。
しかし、ここで蓮如上人は、「我や先、人や先」、私が先に死ぬんだと言われていることを、気をつけねばなりません。
「鳥辺山、昨日の煙、今日もたつ、眺めて通る、人もいつまで」という歌があります。鳥辺山とは、昔、死体を燃やした山で、こんにちの火葬場のことです。昨日、通った人が、「今日は、煙が出ているな。誰か死んだのだろうか」と思って過ぎていきました。今日も、通ってみると煙が出ているので、「あっ、今日もまた誰か焼かれているのか。何と多くの人が死んでいるのだろうか」と思って、通りすぎました。でもこの人は、いつまでも、人が焼かれた煙を見ることはできません。やがて、自分が焼かれた煙を他の人に見られる時がやってきます。そういう覚悟をしているのか、ということです。
この前は、誰々の葬式の手伝いに行ってきた、この前は、誰々の葬式に参列してきたと、葬式といえば、自分は手伝うもの、参列するもの、と思っていますが、いつまでも他人の葬式の手伝いや参列に行くのではありません。やがて自分の葬式の手伝いを、隣や向かいの人が手伝いにくる時が必ずやってくるのです。
世界には、六十億以上の人がいると言われていますが、世界で一秒間に、七人の人が亡くなっているという統計があります。時計の針がカッチンと動くたびに、世界で七人の人が亡くなっているのです。それが、いつまでも他人に回っているのではありません。やがてその七人の中に自分が入る時が必ずやってきます。蓮如上人はそれを「我や先、人や先」と仰有り、私たちの迷いの心を破っておられます。
◎今日とも知らず、明日とも知らず
次は「今日とも知らず、明日とも知らず」。死んでいくのは、今日とも知れず、明日とも知れずということです。男や女、若いとか、年をとっているとか、関係ありません。今日も交通事故などでたくさんの人が亡くなったでしょう。明日も、たくさんの人が、交通事故などで亡くなります。今日、交通事故で亡くなった人は、今朝、今日が最後の日と思っていたでしょうか。いつもの変わらなかったはずです。しかし、今日が最期だったのです。
一日たてば、一日たっただけ、死に近づくのは紛れもない事実です。一夜明ければ、一夜明けた分、死に近づいているのです。死ぬのは嫌だといいながらも、死に近づいていますし、墓場は嫌いだといいながら、墓場に行進しているのが、私たちなのです。
これは、100パーセント、間違いのないことです。いつ死ぬか、わかりませんが、死んでいく日には間違いなく近づいています。
◎お釈迦様の苦悩
次は「遅れ先だつ人は、もとの雫、末の露よりもしげしといえり」。ものすごい多くの人が亡くなっていることを言われています。
お釈迦様に、お弟子が「お釈迦様は、仏のさとりをひらかれた方なので、一切の苦しみはないのでしょうか」とお聞きすると、釈尊は「一切の苦しみはないがただ一つだけ苦しみがある」と仰有いました。「それは何でしょうか」と尋ねたお弟子に、釈尊は「仏のさとりの目には、多くの人が雨が降るが如く、死んでいくのが見える。多くの人が死に、地獄に堕ちていくのを見るのが苦しい」と言われています。
◎朝には紅顔ありて
次は「されば、朝には紅顔(こうがん)ありて、夕には白骨となれる身なり」。「紅顔」とは、生きている人の顔です。「朝、元気に出ていったのにまさか」と思うことがあります。交通事故で、夫や子供が亡くなったりします。朝、普通、「行ってきまーす」と言って出ていきます。「行ってきます」とは、「行って、来ます」ということで、「また来るぞ」という思いがあります。でも、出ていって、家に戻れないということがあります。その日の朝、これが最後の朝と思い、涙を流しながら、洗顔した人はいません。いつもと同じ朝でした。しかしそれが、最後の朝であったという日が必ずやって来るのです。
次は「すでに無常の風きたりぬれば、すなわち二つの眼、たちまちに閉じ、一つの息、ながく絶えぬれば」。これをお釈迦様は、お経に、次のように言われています。
出息入息不待命終(しゅっそくにゅうそくふたいみょうじゅう)
出る息は、入る息を待たず、命が終わるということです。出る息、入る息とは、吐いた息、吸った息ということで、吐いた息が吸えなければ、吸った息が吐き出せなければ、死んでいくのだ、ということです。死と聞くと、遠い先のことと思っていますが、吸う息、吐く息の中に、生と死が触れ合っているのです。
ですから、無常の風ほど恐ろしいものはありません。それで、お釈迦様は、例えで、無常の風をどう猛な虎で教えられています(人間の実相の講義参照)。私たちは、生まれた時から、後ろに無常の虎がついてきています。六十億人いたら、六十億人全員に、虎がついてきているのです。
次の「紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬる時は」とは、赤ら顔、元気な顔も変わってしまって、桃やスモモのような血色のいい艶やかな装いを失ってしまったら、ということです。
次に「六親眷属集まりて、嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず」とあります。テレビなどで、亡くなった人に「もう一度、目を開けて」「もう一度、笑って」と叫んでいる様子を見ますが、どれだけ言っても、目も開けませんし、返事もしません。だからまさに「さらにその甲斐あるべからず」です。こういうことは、私たちにも、肉親を亡くされた方があったり、テレビ等で見たことがあると思います。そういう時が、生まれた時から、百%、刻々と近づいています。
◎ただ白骨のみ
次の「さてしもあるべきことならねばとて」とは、だからといってそのまましておくわけにはいかないので、ということです。どういうことかといいますと、六親眷属が集まって、嘆き悲しむようなことがありますが、そのままにしておくわけにはいきません。そのまましておくわけにはいかないので、いつ、葬式にしようか、いつ燃えそうかと考えねばなりません。そのことを仰有っています。
続けて、「野外に送りて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり」とあります。例えでいいますと、人間関係で苦しい中、金や財産の丸太や板きれにどれだけすがっても、どれだけ手に入れても、裏切られ、最後は、土左衛門になります。そうなったら、手に入れた金や財産は、一つも持っていけません。すべて置いていかねばなりません。だから、「あわれというも中々、おろかなり」、人間とは、何とあわれな者なのかと言われています。蓮如上人のお言葉は、ピタッときますね。人間とは、おろかな者だと言われています。
◎老少不定のさかい
次は「されば、人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば」。「老少不定のさかい」とは、若い人が残って、年寄りが先に死ぬ、ということは、定まっていないということです。若い者が先に死んで、年寄りが残っている、変わっておればよかったのに、と言われることがいくらでもあります。これを、老少不定といいます。 人間界というのは、そういう世界、境界(きょうがい)ですから「さかい」と言われています。
ですから、無常の風の前では、年齢は関係ないのです。
◎後生の一大事をこころにかけよ
だから「誰の人も後生の一大事を心にかけて」と言われています。「後生の一大事」とはどういうことでしょうか。「後生」とは、一息切れた世界が後生です。後生と聞くと、何十年後のことと思いますが、お釈迦様が、出る息は入る息を待たない命と言われてい
る通り、吸った息が吐けなければ、後生です。今晩、死ねば、今晩から、後生です。
「一大事」とは、お釈迦様は、「必堕無間(ひつだむけん)」と教えられています。無間とは、無間地獄のことです。私たちは、生きている時は、難度海で苦しんでいますが、死ねば、無間地獄に堕ちるのです。仏教で、苦しみのことを地獄といいます。インドの言葉では、ナラカといいます。無間地獄に、“ひょっとしたら”堕ちるのかというと、そうではありません。必堕無間、“必ず”堕ちます。ひょっとしたら私は、地獄に堕ちるんじゃなかろうといっている人がありますが、必ず堕ちます。死ねは、八万劫中、大苦悩を受けると、親鸞聖人、教えられています。八万劫とは、八万年と、比べものになりません。八万劫中大苦悩ひまなく受けます。八万劫中大苦悩ひまなく受くと、お釈迦様は、説きたまうと、親鸞聖人、教えられています。
私たちは、生きている時は、難度海で苦しんでいます。丸太や板きれにすがっては、裏切られて、苦しみ、土左衛門になって、死んでいきます。死ねば、無間地獄で苦しみます。この世も苦しみ、未来も苦しみます。
それをお釈迦様は「従苦入苦」と教えられています。有名な大無量寿経に
従苦入苦 従冥入冥(じゅうくにゅうく じゅうみょうにゅうみょう) (大無量寿経)
と教えられています。苦より苦に入り、冥より冥に入るということです。始めの苦は、この世の苦しみのことです。難度海で、丸太に裏切られて、苦しみ、暗い心になります。この世で苦しんでいる者は、死んでも、無間地獄で苦しみます。後の苦は地獄の苦しみのことです。この世で苦しんでいるのに、死ねば楽になる。そういうように思っているから、自殺するのでしょうが、従苦入楽ということにはなりません。従苦入苦です。この世で苦しんでいる者は、死んでからも苦しみます。また、この世、暗い心の者は、死んでからも暗いです。冥とは“暗い”ということです。従冥入明、冥より、明るくなる、ということもありません。従冥入冥です。
それが後生の一大事です。後生の一大事のない人はありません。老少不定で、無常の前では、年齢はありませんので、「誰の人も早く後生の一大事を心にかけて」と言われています。後生の一大事を心にかけよ、何の為に生まれてきたのか、何の為に生きているのか。これでは、苦しむ為に生まれてきた、苦しむ為に生きていることになってしまいます。そういうことを心にかけよ、忘れるな、と、蓮如上人はお諭しになっています。
◎阿弥陀仏を深くたのめ
後生の一大事を心にかけて、どうせるのか、というと、「阿弥陀仏 を深くたのみまいらせて」と書かれてありますが、阿弥陀仏を深くたのみまいらせよとということです。
これは、どういうことでしょうか。
私たちの後生の一大事を解決する力のある仏は、阿弥陀仏しかおられません。これは、お釈迦様が教えられています。ですから、お釈迦様は、
一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)
と教えられています。一向専念無量寿仏とは、お釈迦様が説かれた仏教の結論です。
阿弥陀仏しか私たちを助ける力はありません。他の仏や菩薩や神には、私たちを助ける力はありません。
そういうことは、『御文章』に明らかであります(2帖目第8通)。
夫れ十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も、空しく皆、十方三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、五障三従の女人をば、弥陀にかぎりて「われ一人助けん」という超世の大願を発して
阿弥陀仏以外の諸仏や菩薩や神に、後生の一大事を解決する力はありません。それで私たちを捨てました。私たちからいうと、見捨てられたのです。これが「諸仏の悲願に洩れて」ということです。 助ける力があるのは、本師本仏の阿弥陀仏だけです。阿弥陀仏は、われ一人助けてみせると約束されています。その約束を果たす力を、阿弥陀仏はもっておられます。阿弥陀仏しか助ける力はありませんので、阿弥陀仏一つに向け、阿弥陀仏だけ専念せよ、阿弥陀仏だけを信じよと教えられました。
蓮如上人は、ここで「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」と言われています。
お釈迦様を深くたのみまいらせよ、とも言われていませんし、大日仏を深くたのみまいらせよ、とも言われていません。また、薬師仏を深くたのみまいらせよ、とも言われていません。阿弥陀仏しか助ける力がないので、阿弥陀仏を深くたのみまいらせよ、と教えられています。
親鸞聖人は、教行信証の最初に「難思の弘誓は、難度海を度する大船」と言われています。「度する」とは、明るく楽しく渡す、ということです。難度海で苦しんでいる私たちを、大きな船に乗せて、難度海を明るく楽しく渡して下される、その“大きな船”が、「難思の弘誓」である、と教えられているのです。
「難思の弘誓」とは、阿弥陀仏の本願のことです。
親鸞聖人は、大悲の願船とも仰っておられますが、この大きな船に早く乗りなさいと教えられています。私たちは、難度海で、丸太や板きれしか見えず、それらにすがっていますが、丸太や板きれでは、私たちを助ける力はなかったと知らされた時に、この船に乗ることができます。
この船のことを、親鸞聖人は、先ほどの歎異鈔に、「ただ念仏のみぞまこと」と言われているのです。阿弥陀仏の本願まことだった、まことだったと言われているのです。
教行信証には
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法
とあります。阿弥陀仏の本願、誠だった、誠だった、と言われています。それを歎異鈔には「ただ念仏のみぞまこと」と言われているのです。早くこの船に乗りなさいよ、ということです。
この船は、極楽に行きますから、必ず極楽に行くことができます。極楽へいって、弥陀同体のさとりをひらきます。
それを蓮如上人は「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」と言われています。
「たのみまいらせて」とは、阿弥陀仏に、助けて下さい、とお願いするという意味ではありません。阿弥陀仏の仰せに従って、この船に乗りなさい、ということです。
この船に早く乗りなさい、早く阿弥陀仏に救われないと言われているのが「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」というお言葉なのです。
そして、「念仏申すべきものなり」とあります。阿弥陀仏に救われた嬉しさから、称えずにおれない念仏が吹き上がってきます。
この大きな船に乗ったならば、難度海が光明の広海になります。明るく楽しくなります。それで、この船に、阿弥陀仏のお力によって、乗せて頂けましたので船をつくって下された阿弥陀仏に対して、御恩報謝の念仏を称えずにおれなくなります。この念仏は御恩報謝の念仏です。阿弥陀仏に深くたのみまいらせて、お礼の念仏を申すべきものなりと、蓮如上人言われています。
これが、白骨の章の大体の意味です。
(END)
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