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◎恩徳讃とは(イントロダクション)
ここでは、恩徳讃について、お話します。
恩徳讃とは、浄土真宗の法話が終わった後に、よく歌われている、このようなお言葉です。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
(正像末和讃)
これは、親鸞聖人が書き残されたものですが、「親鸞、身を粉しても恩を返さねばならない方がある、骨を砕いても、御恩返ししなければならない方がある」と言われています。
“身を粉しても”“骨を砕いても”御恩返ししなければならない相手があるということですが、言葉をみると、“身を粉にする”“骨を砕く”とありますので、このようにしたら死んでしまうでないか、と思います。この人の為になら、死んでもよいということがあるでしょうか。
たとえば、世界中の医者に見捨てられた末期ガンの患者があったとします。その患者が、すべての医者に見捨てられた中、ある一人の貴い医者に助けられました。そうしたらどうでしょうか。「この人の為になら、何でもしよう」と思うでしょう。しかしどうでしょうか、「全財産投げうってもいい」とは思うかも知れませんが、「命を捨ててまで・・」とまでは思いません。命を助けてもらったのに、命を捨てていたら、何をしているかわかりません。
しかし、親鸞聖人は、「命を捨ててもよい、身を粉にしても、御恩返ししなければならない方がある、骨を砕いても、御恩を返さねばならない相手がある」と言われています。こんなこと、皆さん、体験したことがないと思います。想像もできないと思います。しかし、これは言葉だけではありません。恩徳讃は、形容詞ではないんです。
ではこの恩徳讃で、親鸞聖人は何を言われているのか、ここで知って頂きたいと思います。それにはまず、親鸞聖人は、どういう方から、どういう御恩を受けられたのか、知らなければなりません。
◎親鸞聖人と仏教
親鸞聖人は、今から800年前にお生まれになり、90才まで生きられ、700年前に亡くなられています。親鸞聖人は、こんにち、「世界の光」といわれていますが、それは、親鸞聖人が教えられたことが、世界の人が救われるたった一つの道だから、親鸞聖人の教えを世界の光といわれるのです。
親鸞聖人が教えられたことといいましても、仏教以外にありません。世界に宗教はたくさんあります。キリスト教、イスラム教だけでなく、天理教、創価学会、霊友会、生長の家など、いろいろありますが、三大宗教、二大宗教といっても、まず数えられるのが仏教です。
仏教とは、お釈迦様の教えです。お釈迦様は、釈尊(しゃくそん)ともいわれますが、今から二千六百年前、インドでご活躍された方です。今までの人類史で、三大聖人、二大聖人といっても、お釈迦様がトップです。お釈迦様以上の方はいません。その釈尊が仏のさとりをひらかれて教えられたのが仏教です。「さとり」といいましても、52ありますが、その52段目、最高のさとりをひらかれて、教えられたのが、仏教です。
お釈迦様は、八十才でお亡くなりになっておられます。ですから、仏教とは、釈尊80年の教え、釈尊一代の教えです。
仏教は、すべて「一切経(いっさいきょう)」に書き残されています。非常にたくさんのお経があり、七千余巻と言われます。一切経七千余巻を読めば、仏教はわかります。この一切経をすべて読まないと、仏教はわかりません。
親鸞聖人は、その一切経を何度も何度も読み破られて、仏教に何が教えられているか、『正信偈』の中に、明らかにされています。
如来所以興出世 唯説弥陀本願海 (正信偈)
「お釈迦様は、阿弥陀仏の本願一つを教えられたのだ」という親鸞聖人の断言です。ここで「唯説」というのは大事です。「唯」とは、唯一、ただ一つ、二つとない、ということです。「説」は、教えられた、説かれた、ということです。お釈迦様は、ただ一つのことを教えられました。一切経は非常にたくさんのお経がありますので、たくさんのことが教えられているんだろうと思いがちですが、一切経には、たった一つのことしか説かれていません。
ですから、ただ一つのことがわかれば、仏教すべてわかったことになります。ただ一つのことを知れば、一切経すべて知ることができます。
それでは、その、お釈迦様がただ一つ教えられたこと、というのが大事になってきます。ここを間違ったら、大変です。
それは、「弥陀の本願海」だと言われています。「弥陀」とは、阿弥陀仏のことです。阿弥陀仏のことを「弥陀」といわれています。ですから「弥陀の本願」とは、阿弥陀仏の本願のことです。そして「海」とありますが、これは、終帰をあらわします。地上に降った雨水は、最後は海に入らないと落ち着かないように、すべての人は、いろいろな宗教を信じていますが、それは、一時的な安心や満足でしかなく、最後、阿弥陀仏の本願によらねば、本当の安心、本当の満足もない、ということを「海」の一字であらわしています。
だからこそ、地球上で一番尊いお釈迦様は、阿弥陀仏の本願一つ、教えられたのです。
◎阿弥陀仏とお釈迦様の関係
では、阿弥陀仏とお釈迦様は、どういう関係があるのでしょうか。
阿弥陀仏もお釈迦様も、同じ仏様だろうと思っている人が非常に多いです。しかしそうではありません。
阿弥陀仏とお釈迦様の関係について、『御文章』にはこう書かれています。
ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば (御文章2帖第8通)
如来も仏も同じですから、阿弥陀如来、つまり、阿弥陀仏は、「三世十方の諸仏の本師本仏」であると教えられています。「三世十方」とは、大宇宙のことです。大宇宙には、地球のようなものは、数えきれないほどあります。それぞれにまた仏さまがおられますので、大宇宙には、数え切れないほどの仏様がましますのです。これを「三世十方の諸仏」と言われています。その、諸仏方の、「本師本仏」が阿弥陀仏である、とのことですが、「本師」とは、先生ということ、「本仏」も、先生ということですから、大宇宙の諸仏方の先生が、阿弥陀仏であるということです。
ですから、お釈迦様も、三世十方の諸仏の一員ですから、阿弥陀仏とお釈迦様の関係は、“師匠”と“弟子”の関係にあたります。
弟子は、先生の本当の願いを間違いなく伝えるのが仕事であり、この他に弟子の仕事はありません。ですから、お釈迦様は、自分の先生の阿弥陀仏の本願一つ教えられましたということは、お釈迦様が、弟子の使命を全うなされたということにほかなりません。お釈迦様は、「我は、阿弥陀仏の弟子なり」という自覚をもっておられましたので、阿弥陀仏の本願一つ教えられました。
ですから、阿弥陀仏もお釈迦様も一緒な仏様だ、というのは、いかに間違っているかがおわかりになると思います。一緒だと思っている人は、この『御文章』は読めません。このことは、親鸞聖人、『教行信証』に書かれていますし、お釈迦様のお経にも教えられています。それを、蓮如上人は、『御文章』にわかりやすく教えられているのです。
お釈迦様が阿弥陀仏の本願一つ教えられたように、また親鸞聖人も、阿弥陀仏の本願一つ教えられているのです。
◎平生業成の教え
この阿弥陀仏の本願を、親鸞聖人は、漢字4字で教えられています。それは、「平生業成(へいぜいごうじょう)」です。「平生業成」という言葉は、世間でも使われていますが、「平生の行い」という意味で使われています。平生業成が“良い”とか、“悪い”とか、使われています。
しかし、平生業成とは、親鸞聖人から出た言葉で、今から800年前、親鸞聖人がお生まれになられない前は、なかった言葉ですが、その平生業成という言葉を正しい意味で使わないと、混乱してしまいます。正しい意味で使わないと、言葉の意味がなくなります。
平生業成の、「平生」とは、死んだ後ではない、生きている時、ということです。死んでからでは、平生ではありません。平生とは、実は、今のことです。生きている時、と聞くと、「私はあと30年ある」とか、「あと20年ある」とか、「私はあと10年ある」と思いますが、今晩死ねば、生きている時は、今日しかありません。交通事故で亡くなる人もいます。年齢は関係ありません。私たちの命は無常であり、不定の命ですから、若い人といっても、交通事故で亡くなります。
今晩死んだら、平生は、今日しかありません。いや、吸った息が吐けなければ、平生は、今しかありません。ですから、平生業成の平生とは、「今」ということが、おわかりになったと思います。
次は「業成」についてです。「業」とは、一般には「ぎょう」と読みます。大事業とか、卒業とか、営業とかです。仏教では「ごう」と読みます。業成の「業」とは、大事業の「業」の字です。
大事業と聞きますと、本田宗一郎が本田技研をつくったとか、松下幸之助が松下電器をつくったとかを思いますが、そうではありません。ここで、大事業とは、“人生の大事業”ということです。
人生の大事業とは、人間に生まれてきた目的、他の言葉でいえば、人生の目的です。それを、親鸞聖人は、「業」と言われています。
「成」とは、完成の「成」の字です。ですから、業成とは、人生の大事業が完成する、ということです。
◎人生の目的
生まれてきた目的、生きている目的は、生きている私たちにとって、これ以上、大切なものはありません。
皆、「生きろ、生きろ」と言っています。病気になったら、病気を治そうと一生懸命になります。食べなければ生きていけませんので、「一生懸命働け、働け」と言います。生きるのは、苦しいです。「こんな苦しいなら死んだ方がましだ」と思った人は、自殺します。子供から大人まで、自殺しています。自殺する勇気がない人は、死ぬまで惰性で生きています。ですから、人命は地球よりも重い、人命は尊いといっても、絵空事になっています。
現在日本で、小学校、中学校含めて、一万人の人が登校拒否しているそうです。勉強するのは、何の為かわからない、と言っているのです。苦労して勉強して、働いて、そして生きていく目的がわからないのです。なぜ人命が地球よりも重いか、尊いか、わかりません。教える人もいません。尊いどころか、多くの人が殺されています。地球上で、テロが頻発しています。他の人の命も、自分の命も、尊いとは思っていません。“地球よりも重い”“人命は尊い”が、そらごとたわごとになっています。
“人間に生まれてきてよかった、この為に人間に生まれてきたのか”という満足を知りません。それで、食て寝て起きて糞たれて、食て寝て起きて糞たれての繰り返しをしています。
しかも、禅僧一休がいうように「元旦や冥土の旅の一里塚」で、死ぬのは嫌じゃ嫌じゃといいながら、死に近づいています。墓場は嫌じゃ嫌じゃといいながら、墓場に近づいています。「冥土」とは、死んだ世界のことです。元旦になったということは、一年、死に近づいたことなのに、めでたいめでたいと言っています。死に近づいたことが、そんなにめでたいのでしょうか。めでたいと言っている人の頭がめでたいのではないでしょうか。元旦とはどこに向かっての旅の一里塚なのか、これほど、大事なことはありません。
◎悲劇的な人生
私たちを飛行機に例えますと、生まれた時が飛び立った時です。今、20才の人は、20年間飛んでいるのです。30才の人は、30年前に飛び立った飛行機です。飛び立った飛行機にとって、一番大切なのは、目の前の乱気流をどう乗り切るか、ということではありません。それも大事ですが、それよりも、どこに降りるのか、という目的地が、一番大事です。それがわからなければ、墜落あるのみだからです。
そのように、生まれた目的、生きている目的は、生きている私たちにとって、一番大事です。政治、経済、科学、医学など、人間のやってること総ては、生きる為にあります。しかし生きる目的は、教えてはいません。ですから、全人類は、目的も知らずに、飛んでいる飛行機なのです。ラジオやテレビ、新聞などのマスメディアが言っていることは、飛行機でいうと、飛び方ばかりです。そんな飛行機、そんな飛行機に乗っている乗客と、私たちは同じです。これでは、悲劇あるだけです。
◎秀吉でさえも夢の又夢
豊臣秀吉が死んでいく時に言った言葉は皆さんご存知でしょう。「おごらざる者もまた久しからず、露と落ち、露と消えにし、我が身かな、難波のことも、夢の又夢」です。
日本で成功者と言えば、秀吉か、家康か、といわれます。秀吉は、今の総理にあたる地位まで登りつめましたが、実際は総理どころではありません。日本中を手に入れたのです。
ある時、秀吉が可愛がっていた鶴を、飼育係が油断して逃がしてしまいました。飼育係は必死に探しましたが、結局見つからず、秀吉に報告しました。そのとき秀吉は「よいよい、鶴は、日本から出てはいまい」と言ったそうです。日本中が庭だと思っているからです。
その秀吉は、平家物語を読んでいて、平家のようにおごらないように、おごらないようにと自戒していました。私たちからすれば「あれで自戒していたのか」と思いますが。秀吉は、「おごらないようにと自戒していたが、それでも永く続かなかった」と言っています。そして、自身の人生を、露のように儚かった、と言っています。露は、朝、葉っぱの上にありますが、日光が出ると、サーッと消えていってしまい、どこにあったか、わからなくなります。そして、「難波のことも夢の又夢」だったと言っています。大坂城から天下を眺めたことも、夢の中の夢のようなものであった、と言っています。
秀吉が手に入れたものは、皆、「欲しいなぁ」と思っているものばかりです。秀吉の財力、権力、地位は、私たちのやることとは、ケタが違います。それでも夢の又夢なんです。私たちが一生かかって、家を建てたとか、名誉を得たとかいっても、それは夢の又又又又・・・夢です。ノーベル賞をとっても、文化勲章とっても、念願の何とか大臣になっても、秀吉と比べたら、たいしたことではありません。秀吉のやったことでさえ、皆、消えていったのです。
人生の大事業とは、そういう消えていくものではありません。人生の大事業を完成し、人間に生まれてきてよかった、と味わう生命の大歓喜は、永遠に消えません。
これを釈尊は「人身受け難し、今已に受く」と言われています。人生の大事業を完成した喜びは、永遠に消えないのです。
◎阿弥陀仏の本願
この人生の大事業を明らかにし、必ず果してみせる、完成させてみせると約束されたのが、阿弥陀仏です。これが阿弥陀仏の本願ですが、「本願」とは、誓願ともいいます。『歎異鈔』第1章のはじめに、「弥陀の誓願」といわれています。誓願の「誓」は、誓いということで、お約束ということです。阿弥陀仏は、必ず人生の大事業を完成させてみせると約束されていますので、親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を、「平生業成」と言われています。人生の大事業が完成するのは、死んでからではなく、生きている時なので、平生業成と言われています。
「この世はどうにもなられません、死んだらお助け、死んだら極楽です」と言っている人がありますが、今、溺れて苦しんでいる人に、「今は、助けられんが、死んだら助けてやる」という人は、無慈悲な人です、今、溺れて苦しんでいるんですよ。それなのに、「死んだら助けてやる」というのは、鬼のような、カレーに毒を入れるような、無慈悲な人です。ましていわんや、仏様、それも本師本仏と仰がれる阿弥陀仏が、「死んだら助ける」というバカなことを言われるはずがありません。今のひとおもい(一念)で、人生の大事業を完成させてみせると約束されていますので、平生業成と言われています。
では、人生の大事業とは、何か、その人生の大事業を完成して頂いた御恩には、身を粉しても、返さずにおれないというのも当然ですし、その人生の大事業を教えて下された師主知識の御恩に、骨を砕いても、返さずにおれないといわれるのも、当然だということは、知ることができると思います。
◎念仏者は、無碍の一道
人生の大事業とは、別の言葉で言いますと、「無碍の一道(むげのいちどう)」です。無碍の一道とは、一切がさわりにならない素晴らしい世界、これを、無碍の一道といいます。無碍の一道とは、どんな世界か、『歎異鈔』に短い言葉で教えられています。
念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれ如何となれば、信心の行者には、天神地祇も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道も障碍(しょうげ)することなし、罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に、無碍の一道なり(歎異鈔第7章)
「念仏者は無碍の一道なり」ということですが、「念仏者」とは、阿弥陀仏の本願に救われた人のことです。阿弥陀仏の本願に救われた人は、無碍の一道に出るんだ、ということです。「そのいわれ如何となれば」とは、「無碍の一道とは、どんな世界かというと」ということです。次の「信心の行者」とは、阿弥陀仏の本願に救われた人のことです。阿弥陀仏の本願に救われた人、イコール、念仏者、イコール、信心の行者、イコール、無碍の一道へ出た人です。
「信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」ですが、「天神地祇も敬伏し」とは、天地のあらゆる神々が敬伏する、ということです。「敬伏」とは、敬って平伏するということです。いやいやではなく、尊い方だと敬って心から頭を下げるのです。普通神々といったら、私たちが頭を下げる対象だと思っていますが、そうではなく、弥陀に救われた人に、あらゆる神々が敬って頭を下げるのです。そういう素晴らしい世界です。
「魔界外道も障碍することなし」ですが、これは、何者も、阿弥陀仏の本願に救われた人の活動なり前進なりを妨げることはできない、ということです。たとえ、魔の世界の者、外道の者であっても、妨げることはできない、ということです。ですから、たくましい人生を送ることができます。
次に「罪悪も業報も感ずることあたわず」とありますが、阿弥陀仏の本願に救われても、欲や怒りの心は無くなりませんので、罪悪は造りますが、それが、菩提(ぼだい)に転ずるのです。だから、業報を感じません。御恩喜ぶ種となります。
次に「諸善も及ぶことなき故に」ということですが、これは、どんな一生懸命善をしてどんなすばらしい結果がかえってきても、弥陀に救われた素晴らしい世界とは比べものにならない、ということです。それだけ無碍の一道という世界が、ずば抜けているということです。
この世界に出ることが、人生の大事業です。阿弥陀仏は、すべての人を、人生の大事業、完成させてみせる、無碍の一道へ出させてみせる、と約束されています。
◎言葉にならない驚き
阿弥陀仏のお約束通り、無碍の一道へ出た驚きを言われたお言葉がこれです。『教行信証』の最初の方に出ています。
噫、弘誓の強縁は、多生にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。若しまたこの廻(たび)疑網(ぎもう)に覆蔽(ふくへい)せられなば更(かえ)りてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序)
「噫」とは、無碍の一道へ出た驚き、言葉にならない驚き、を言われています。私たちが驚いた時に「あらっ」というのに、当たります。無碍の一道へ出ますと、神に頭を下げるのが普通なのに、あらゆる神々に頭を下げられるようになりますので、驚きます。とうがらしと知らずに、口に入れると、「あらっ辛い」と言います。「あら辛と言うは、後から、とうがらし」で、あらっと言った後から、辛い、唐がらしだったか、と言います。「あらっ」と驚いた後の言葉が、次に言われています。
「弘誓の強縁は、多生にも値いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし」です。「弘誓の強縁」ですが、「弘誓」とは、阿弥陀仏の本願のことです。「強縁」とは、強い力ということです。阿弥陀仏は、私たちを、ものすごい力で、無碍の一道に引きずり出そうとしておられます。ですから、阿弥陀仏の本願のことを、阿弥陀仏の本願力ともいいます。この阿弥陀仏の本願力を、妨げるものは、何一つありません。
「弘誓の強縁は、多生にも値いがたく」とは、弘誓の強縁、すなわち、阿弥陀仏の本願は、多生にも値いがたいのに、今、値うことができた、と言われています。ここで、弘誓の強縁に値うと言われていますが、弘誓の強縁に値うとは、無碍の一道へ出るということです。どしゃぶりに“あう”とは、ずぶ濡れになるということです。火事に“あう”とは、すべて燃えてしまうということです。弘誓の強縁に“あう”ということは、無碍の一道へ出るということです。
弘誓の強縁にあうのは、多生にもあうことができません。「多生」とは、多くの生ということですが、私たちは、生まれ変わり死に変わりを繰り返してきました。ですから、百年や二百年どころではありません。その多生の間、あうことができなかった弘誓の強縁にあうことができましたから、身を粉しても、骨を砕いても、つまり、命を捨ててでも、返さずにおれなくなるのです。
次に「真実の浄信は億劫にも獲がたし」ということについてですが、まず「億劫」について、「1劫」とは、4億3200万年のことですから、その億倍が「億劫」です。「真実の浄信」とは、「浄」も真実ということで、真実の真実の信心ということです。ですから、どこにでもある信心ではありません。「真実の浄信は、億劫にも獲がたし」とは、億劫という永い永い間かかっても獲がたい真実の浄信を獲ることができた、ということです。
次の「遇、行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」ですが、「行信」とは、「真実の浄信」のことで、言葉を換えて言われています。「遠く宿縁を慶べ」とは、ずっと過去から、阿弥陀仏は、親鸞をどれだけかわいく思われていたか、どんな御縁があったか、喜ばずにおれない、ということです。
多生にもあうことのできない弘誓の強縁にあうことができ、億劫にも獲がたい真実の浄信を獲ることができましたので、阿弥陀仏が、今までどれほど親鸞にかかり果ててきたか知らされ、喜ばれておられます。
次の「若しまた、此の廻、疑網に覆蔽せられなば、更りてまた昿劫を逕歴せん」ですが、これは「もし無碍の一道へ出ることができなければ、また、地獄で苦しんでいたであろう、危ないところであったなぁ」ということです。
◎弥陀の本願、まことだった
次の「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」ですが、これは、「誠だったなぁ、本当だったなぁ、阿弥陀仏の本願、ウソではなかったなぁ」ということです。「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」も、ともに阿弥陀仏の本願のことです。
阿弥陀仏の本願が、「死んだら助ける」という本願ならば、死んでみないと、誠だった、と知らされません。恩徳讃は、生きている時です。死んだらお助けならば、死んでからの恩徳讃になります。平生、生きている時に、人生の大事業が完成し、無碍の一道へ出ますので、阿弥陀仏の本願、まことだったと知らされるのです。
最後に「聞思して、遅慮することなかれ」ですが、これは、「ぐずぐずするなよ、急ぎなさいよ」と言われているのです。
このような身になりましたのは、ものすごく強い阿弥陀仏の本願力でありますから、阿弥陀仏の本願を建てられた如来大悲の御恩には、身を粉しても、返さずにおれない、また、師主知識(ししゅちしき)の恩徳、これは、阿弥陀仏の本願を正しく伝えて下された師主知識方の恩徳ということですが、これも骨を砕いても、足りない、と親鸞聖人言われています。報ずべし、謝すべし、で「報謝」です。「如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳は、身を粉にしても、骨を砕きても、報謝せずにおれないのだ」、これが、親鸞聖人が恩徳讃を言われている御心です。親鸞聖人はこの恩徳讃の通りの90年の生涯でありました。
◎親鸞聖人の御恩報謝
ここまでの話でおわかりと思いますが、救われたのやら救われていないのやら、ハッキリしないような救いではありません。ハッキリした救いですから、身を粉にしても、骨を砕いてもと、恩徳讃が出てきます。
また、「これで救われたのでしょうか」と人に聞いて、「救われてますよ」と言われて「救われたのか」とわかるようなボヤッとした、不浄な信心ではありません。多生にもあうことができない弘誓の強縁をあうことができたんです、億劫にも獲がたい真実の浄信を獲ることができたんですから、阿弥陀仏の御恩、身を粉にしても、骨を砕いても返さずにおれなくなります。
親鸞聖人が、多生にもあうことができない弘誓の強縁をあうことができたのは、29才の御時、建仁元年でした。29才の時、億劫にも獲がたい真実の浄信を獲ることができました。
そして、親鸞聖人は29才から90才まで、身を粉にしても、骨を砕いてもと、阿弥陀仏の御恩に報いようとされました。29才からこの恩徳讃の活動が始まったのです。
阿弥陀仏の御恩に報いるには、阿弥陀仏が一番喜ばれることを知らなければなりません。苦労さえすればそれでよいのではありません。一番喜ばれることをしなければなりません。親孝行をするにも、親が一番喜ぶことをしなければ本当の孝行になりません。かえって不孝になることさえあります。ですから、阿弥陀仏の御恩に報いるには、阿弥陀仏の喜ばれることを間違えてはなりません。
親鸞聖人は、間違えられたことがありました。
親鸞聖人は、阿弥陀仏が一番喜ばれることは、お経を読むことだと思われたことがありました。しかし、「私は間違っていた、阿弥陀仏が一番喜ばれることは、阿弥陀仏の本願を伝えることであった」と、善導大師のお導きにより間違いに気付かれました。これが、その善導大師のお言葉です。
自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩 (善導大師)
阿弥陀仏が一番喜ばれることは、阿弥陀仏の本願を伝える以上のことはなかったと知らされ、すぐ布教を行かれました。
親鸞聖人でも間違えられたことがありましたので、阿弥陀仏が一番喜ばれることは何か、間違えないようにしなければなりません。
◎人倫の弄言を恥じず
親鸞聖人は、29才から、90才まで、阿弥陀仏の本願を伝えられました。そうしますと、四方八方から、「人倫(じんりん)の弄言(ろうげん)」が起きてきました。人倫の弄言が起きたとは、親鸞聖人に対して、非難攻撃が起きたということです。いろいろな人が、いろいろな非難攻撃をしてきました。権力者たちは、「偏執者の親鸞」と非難しました。特に言われた言葉が、「偏執者」です。親鸞聖人は、「一向専念無量寿仏」を叫ばれたからです。「一向専念無量寿仏」は、一切経の結論ですので、お釈迦様もこれ一つ教えられましたし、親鸞聖人も、徹底して教えられました。「一向専念無量寿仏」ということですが、「無量寿仏」とは、阿弥陀仏のことです。ですから、「阿弥陀仏以外の仏は助ける力がない、菩薩にも助ける力がない、神にも助ける力がない、阿弥陀仏しか、私たちを助ける力はない。だから阿弥陀仏一つに向け、阿弥陀仏だけを信じよ」と教えられたということです。
このことは『御文章』に明らかです。
夫れ十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も、空しく皆、十方三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、五障三従の女人をば、弥陀にかぎりて、「われ一人たすけん」という超世の大願を発して (御文章2帖目第8通)
阿弥陀仏以外の仏にも、菩薩にも、神にも、助ける力はない、阿弥陀仏しか助ける力はないので、一向専念無量寿仏、阿弥陀仏一つに向け、阿弥陀仏だけを信じよ、と親鸞聖人は教えられました。
そうしますと、世間の人は、動乱しました。阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神を捨てろ、阿弥陀仏だけを信じよと、偏ったことをいう者がある、と動乱しました。権力者は、秩序が動乱することを恐れます。それで、権力者は、偏執者の親鸞だ、と非難攻撃し、親鸞聖人は、流刑となりました。はじめは、死刑という宣告を受けられましたが、関白九条兼実公の計らいによって、「何とかならんか、死刑だけは」「わかった、しかし、京都に置いておく訳にはいかん」ということで、越後(新潟県)に流刑となられました。親鸞聖人は、権力者から、偏執者という非難攻撃を受けられました。
他には、聖道仏教の者から、「肉食妻帯の堕落僧」という非難攻撃を受けられました。聖道仏教ということは、当時の大衆から、非難攻撃を受けられたということです。親鸞聖人の御一生をご存知の方多いと思いますが、親鸞聖人は、私たちと同じような生活をされました。それで、親鸞聖人は、「肉食妻帯の破戒僧」とか、「仏教を破壊する悪魔」、「気違い」だ、「狂人だ」と非難攻撃を受けられました。
他には、「背師自立(はいしじりゅう)の横着者」という非難攻撃を受けられました。これは、親鸞聖人は、友達三百八十余人の信心を、非難されましたからです。それが、三大諍論ですが、その為に、親鸞聖人は、友達から、「師匠に背き、自分の教えが正しいと立てた、背師自立の横着者だ」と非難攻撃を受けられました。
また、84才の時、長男の善鸞が、仏教をねじ曲げたので、勘当しておられます。その時に、「子供さえ助けられん奴だ」と非難攻撃を受けられました。
権力者から、聖道仏教の者から、世間から、また友達から、果ては家庭からも、非難攻撃を受けられました。親鸞聖人は、90才でお亡くなりになるまで、一人ぼっちでした。親鸞聖人は、死ぬまで、四方八方から、人倫の弄言を受けられましたが、
誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の弄言を恥じず
と言われました。
「人倫の弄言を恥じず」とは、人倫の弄言(人間の非難中傷など)は、恥とも思わない、苦しいとは思わない、ということです。また、他のところでも、
唯、仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥ず。
と言われています。ここでは「人倫の嘲」と言われています。
人倫の弄言は、苦しいとは思わない、謗る者には謗らせよ、と言われています。私たちは、非難攻撃を受けると、食欲ががた落ちしたり、眠れない時もありますが、親鸞聖人は違うように思われます。それは「誠に仏恩の深重なるを念じて」とありますように、阿弥陀仏の深くて重い御恩を思うと、苦しいとは思わないと、乗り越えておられるのです。
「仏恩の深重なるを念じて」があって、恩徳讃があります。これがなければ、親鸞聖人も、人倫の弄言に負けておられたのです。しかし、親鸞聖人は、阿弥陀仏の深くて重い御恩を思うと、人倫の弄言などは苦しいとは思わない、と言われています。ですから、阿弥陀仏に救われて、阿弥陀仏の深くて重い御恩を思わなければ、人倫の弄言を乗り越えることはできません。
「人倫の弄言を恥じず」と親鸞聖人が言われているのを聞くと、私たちと違うのではないかと思いますが、親鸞聖人も、非難攻撃を受けられれば、嫌な気持ちになるのです。しかし、「誠に仏恩の深重なるを念じて」とありますので、阿弥陀仏の深くて重い御恩を思うと、人倫の弄言など恥とは思わない、苦しいとは思わないんだ、ということなんです。多生にもあうことのできない弘誓の強縁にあえた、億劫にも獲られない真実の浄信を獲た御恩を思うと、身を粉にしても、骨を砕いても、返さずにおれなくなるので、恩徳讃の活動が出てくるのです。
◎真仮を知りなさい
もう一つ、親鸞聖人のお言葉を紹介します。
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。(教行信証真仏土巻)
親鸞聖人のように、「身を粉にしても、骨を砕いても、弥陀の御恩に報いよう」という気持ちが起きないのは、真仮を知らないからだ、と言われています。「如来広大の恩徳を迷失す」とは、弥陀如来の広大な御恩がわからない、ということです。どうして親鸞聖人のような恩徳讃の気持ちがわからないのか、想像できないのか、というと、真仮を知らないからです。
真仮とは、「真」と「仮」ということです。阿弥陀仏に救われた世界、すなわち、無碍の一道のことを、「真実」といいます。そこまでの道のりのことを「方便」といいます。「方便」のことを、「仮」ともいいます。ですから、「真仮を知らざるによりて」とは、「真実と方便を知らないから」ということです。真実に入らないと、もちろん真実はわかりませんが、方便も、方便とわかりません。わかりやすくいうと、夢のようなものです。夢を見ている時は、夢が夢とわかりません。夢が夢とわかりませんから、トイレの夢を見て、布団の中でやってしまいます。しまった、と夢から覚めた時、夢が夢とわかります。そのように、真実に入って、方便が方便と知らされるのです。
ですから、「真仮を知らざるによりて」とは、真実の世界に入っていないから、つまり、阿弥陀仏に救われていないから、ということで、だから如来広大の恩徳がわからないんだ、早く真仮を知りなさいよ、と親鸞聖人が言われているのです。
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