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◎歎異鈔第1章とは(イントロダクション)
『歎異鈔』は、仏教の書物の中でも非常に有名で、たくさんの人に読まれています。全部で18章ありますが、そんなに厚い書物ではありません。
また、この『歎異鈔』は、美文、名文としても知られており、『徒然草』『方丈記』などと並んで、三大美文などとも言われます。
今回は、その第1章について解説しますが、歎異鈔18章は、1章におさまると言えます。この1章に、あとの17章がおさまってしまうのです。ですから、この第1章がわからなければ、『歎異鈔』は全然わからなくなるという、大事なところです。
この『歎異鈔』は、親鸞聖人がお亡くなりになられた後、書かれました。親鸞聖人は、今から約800年前にお亡くなりになられましたので、『歎異鈔』は800年前の文章です。私たちに馴染まない、また、仏教の言葉でわかりにくいところがありますが、そういうところを解説していきたいと思います。
『「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、
往生をばとぐるなり」と信じて、「念仏申
さん」と思い立つ心の発るとき、すなわち
摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。
弥陀の本願には老少・善悪の人をえらばず、
ただ信心を要とすと知るべし。その故は、
罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがた
めの願にてまします。しかれば本願を信ぜ
んには、他の善も要にあらず、念仏にまさ
るべき善なきが故に、悪をもおそるべから
ず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき
が故に』、と云々。
(歎異鈔第1章 全文)
◎阿弥陀仏の本願
まず最初に「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて」とあります。弥陀の誓願不思議に、親鸞、助けられた、と言われています。「弥陀の誓願」というのは、「弥陀」とは阿弥陀仏という仏様のことで、「誓願」とは、本願のことです。ですから、「弥陀の誓願」とは、「阿弥陀仏の本願」のことです。ですから、「阿弥陀仏の本願」とは何かがわからないと、歎異鈔はわかりません。
世界に宗教といわれるものは、たくさんありますが、一番よく知られているのは、仏教でしょう。仏教とは、お釈迦様の教えです。「仏」とは、「仏のさとり」のことで、仏のさとりをひらいた人は、地球上では、お釈迦様しかおられません。弥勒菩薩、地蔵菩薩、観音菩薩、勢至菩薩などの“菩薩”は、まだ仏のさとりをひらいていません。仏になろうと頑張っている人のことを“菩薩”といいます。
仏のさとりをひらいた方は、地球上では、お釈迦様だけですから、世界の三大聖人、二大聖人といっても、お釈迦様がまず指折り数えられます。そのお釈迦様が教えられたのが仏教です。お釈迦様は、35才の時に仏のさとりをひらかれて、80才で死なれています。80才2月15日でお亡くなりになられるまでの45年間、教えられたのが、仏教です。
お釈迦様が45年間、教えられたことは、一切経(いっさいきょう)となって、残されています。その一切経を、徹底的に読まれた親鸞聖人は、「仏教は、阿弥陀仏の本願一つ教えられている」と断言されています。
阿弥陀仏の本願とは、「本願」とは「誓願」ともいい、「誓」とは、誓い、約束ということです。
【阿弥陀仏の本願】
設我得仏 十方衆生
至心信楽 欲生我国
乃至十念
若不生者 不取正覚
唯除五逆 誹謗正法
「説我得仏(せつがとくぶつ)」とは、この「我」とは、阿弥陀仏のことです。阿弥陀仏が仏になる前、法蔵(ほうぞう)菩薩と言われていましたが、その時に、「我」と言われています。私が仏になりましたならばということですが、阿弥陀仏は、すでに仏になっておられますので、こんにち特に問題にする必要はありません。
◎御約束の相手
では阿弥陀仏は、誰と約束しておられるのでしょうか。次にあります「十方衆生(じゅっぽうしゅじょう)」です。十方衆生とは、すべての人のことで、この中に入られない人は、ありません。阿弥陀仏の御約束に差別はない、ということです。
十方衆生と約束することは、不思議なことです。アメリカの大統領が選挙の時に、約束するといっても、アメリカの国民だけです。どこの国の大統領でも、その国の国民としか約束できません。阿弥陀仏は、十方衆生と約束する、すなわち、すべての人と約束すると誓われていますので、これ以上不思議なことはありません。それで、阿弥陀仏の本願のことを「弘誓(ぐぜい)」と言われます。弘誓とは、「弘」はひろい、「誓」は約束ということです。これ以上ひろいお約束はありませんので、阿弥陀仏の本願を「弘誓」とも言われます。
◎十方衆生はどんな者?
では、阿弥陀仏は、十方衆生を、どんな者と見てとられているでしょうか。
私たちでも、ふつう、約束をする時、相手が、男か女か、若い人か年輩の人か、既婚者か独身者か、そういうことを知らないで約束はしません。
わかりやすい例は、銀行がお金を貸す時です。銀行は、簡単にお金を貸してくれません。借りに来た人を、よく調べて、この人は既婚か独身か、事業者かサラリーマンか、年収はいくらか等、本当に返す力があるのか調べます。そして、この人なら返すことができるとわかったら、貸しますし、返せないと判断したら、1円たりとも貸しません。
そのように、阿弥陀仏は、十方衆生がどのような者か、見ておられます。それが「唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひぼうしょうぼう)」です。
◎五逆罪の者、法謗罪の者
「五逆」とは五逆罪を造っている者ということです。「誹謗正法」とは、法謗罪を造っている者ということです。この二つを略して、逆謗(ぎゃくほう)と言います。
阿弥陀仏は、十方衆生は、「唯除逆謗」の者と見てとられて、約束しておられます。
まず、五逆罪とはどういうことでしょうか。
五逆罪とは、五つの恐ろしい罪ということで、恐ろしい罪が五つ教えられています。この中で一番わかりやすいのは親殺しという罪です。子供がお父さんを殺す、あるいは子供がお母さんを殺す罪です。身にかけて殺すだけでなく、心で殺すこと、すなわち、心で親を“邪魔だな”と思っても、五逆罪なのです。
「殺(や)るよりも劣らぬものは思う罪」という歌がありますが、身体で殺すよりも、心で“殺したい”と思う方が重いということです。ですから、身で、出刃包丁で殺すだけでなく、心で親を邪魔に思う、早く死んでくれんかと思うのも、五逆罪を造っていることになります。
親鸞聖人はこのように言われています。
親を謗(そし)る者をば、五逆の者と申すなり (末灯鈔)
親を謗るのは、五逆罪であるということです。謗るということは、心の中で、親を“邪魔だ”と思うことですから、心の中で親を殺しています。怒りの心で、あるいは、欲の心で殺します。
例えば、寝たきりになった世話をしていると、“早く死んでくれんかな”と思います。これは、楽したいという欲の心で殺しています。また、財産が欲しいという心で、殺しています。
孝行しているな、と思われるようにしていても、それはみせかけであって、心の中では、実は殺しています。
◎見聞知の仏様
阿弥陀仏は、私たちの心のどん底で思っていることも見抜いておられます。仏様は、見聞知(けんもんち)のお方です。“どんなことでも見ておるぞ”、“どんなに小さい声で言ったことも聞いておるぞ”、“心で思っていることも知っておるぞ”ということで、すべてお見通しです。仏様の本師本仏(ほんしほんぶつ)の阿弥陀仏ですから、見聞知の方で、すべて、知っておられます。親を邪魔だと思う五逆罪を造っていない人があるでしょうか。
また、苦しいことがあると、“こんなことなら生まれてこなければよかった、死んだ方がましだ”と思うのは、人間に産んだ親を恨んでいますから、これも五逆罪です。
苦しいことがあると、親を恨まない人、死んだ方がましだと思わない人、あるでしょうか。
十方衆生で、五逆罪を造っていない人はいません。すべての人は、五逆罪を造っていますから、地獄に堕ちて当然ですし、幸せになれないのが、当然なのです。
◎法謗罪
次に「法謗罪」です。法謗罪とは、仏法を謗る罪で、五逆罪よりも重い罪です。五逆の罪は、一つ造っても無間地獄に堕ちますから、法謗の罪を造れば、無間地獄に堕ちます。親鸞聖人は、このように教えられています。
善知識をおろかに思い、師を謗る者をば、謗法の者と申すなり。 (末灯鈔)
仏法尊いと思って仏法を聞いている者でも、“今日の話は長かった”とか、“短かった”とか、“あそこは、もう少しうまく話できないものか”と思っています。
仏教聞きに行かない人は、“仏教なんか聞かなくていい”と思っていますから、聞きに行きません。仏教聞いている人は、長い、短いと思っています。ですから、皆、法謗罪を造っているのです。
すべての人は、五逆罪、法謗罪を造っています。だから、地獄より他に行き場はありませんし、金輪際、助かる縁手掛かりはありません。だから、「唯除」と言われています。「唯除」とは、金輪際、助かる縁手掛かりがないということです。善導大師(ぜんどうだいし)のお言葉でいいますと「出離(しゅっり)の縁あることなし」です。絶対に助からないということです。
お釈迦様のお言葉でいいますと「必堕無間(ひつだむけん)」です。
阿弥陀仏は、十方衆生を、「唯除五逆誹謗正法」の者、すなわち、逆謗で、唯除された者、と見てとられています。
◎御約束の内容
では、阿弥陀仏は、十方衆生と、どんな約束をしておられますか。「至心信楽欲生我国乃至十念(ししんしんぎょうよくしょうがこくないしじゅうねん)」です。「至心信楽欲生我国」とは、「信楽」の心にしてみせるということです。
「信楽」の、「信」とは明るい心のことで、後生暗い心を明るくしてみせる、ということになります。
私たちは、嫌じゃと言いながら、死に近づいています。百パーセント、確実な未来が死です。後生暗い心を明るくしてみせるというのが「信」です。
「楽」とは、私たちは日々、苦しい、苦しいと言っていますから、死ねば、地獄に堕ちるに間違いありません。それを、“いつ死んでも極楽参り間違いなしの身にして、この世、楽しく渡らしてみせる”というのが楽です。
ですから、信楽とは、“晴れて大満足の心にしてみせる”ということです。これが「至心信楽欲生我国」ということです。
もう一つの、「乃至十念」とは、お礼の念仏を称えさせてみせるということです。信楽の身に救われたお礼の念仏です。
阿弥陀仏は、信楽と乃至十念の念仏と、二つのことを約束しておられます。
◎若不生者不取正覚
このような阿弥陀仏の本願を聞きますと、本当に私は、阿弥陀仏に救われるのか、本当にそういうことがあるのかと、本願を疑います。これを「本願疑惑」といいます。
阿弥陀仏の本願の疑いを破る為に、阿弥陀仏は「若不生者不取正
覚(にゃくふしょうじゃふしゅしょうがく)」と約束されています。
これは、阿弥陀仏が、私たちの疑心を破る、晴らす為に誓われています。若し、信楽の身に生まれさせることができなければ、「正覚」を取らじとありますが、「正覚」とは、仏のさとりのことです。仏にとって仏のさとりは命です。阿弥陀仏は、生まれさせることができなければ命を捨てる、と誓われています。正覚という命を
かけて、必ず信楽の身にしてみせると約束しておられるのが、この阿弥陀仏の本願なのです。それだけ私たちの疑いの心が強いということであり、必ず疑いの心を晴らしてみせると約束しておら
れるということです。
私たちが銀行からお金を借りる時に、銀行に担保を差し出すでしょう。担保に、どれだけ投げ売りしても5000万にはなる金塊を積めば、100万、200万のお金くらい、銀行は喜んで貸してくれます。もっと借りてもいいですよと言ってきます。
阿弥陀仏は、一番大切なものを担保に入れておられます。ここまですれば信じ切ってくれるのかと、命を担保に入れてまで約束なされているのです。これが「若不生者不取正覚」です。
私たちは、逆謗で金輪際助かる縁手掛かりのない唯除された者とは思っていません。自惚れているからです。何とかしたら、何とかなれると思っています。
どうにもなれない者、金輪際助かる縁手掛かりのない者、地獄より他に行き場のない者であった、と知らされます。それと同時に、若不生者不取正覚のお言葉、すなわち、若し信楽の身に生まれさせることができなければ、正覚を投げ捨てるぞ、という約束なされた阿弥陀仏の本願はまことであったと知らされます。
私の本当の姿は、唯除逆謗であったと知らされるのと、若不生者の御念力によって信楽の身に生まれるのが、一念同時なのです。
◎弥陀の誓願不思議
助かる者が助かっても、不思議ではありません。絶対助からん者が信楽に助かりますから、これ以上の不思議はありません。それで、親鸞聖人は、「弥陀の誓願不思議」と言われています。
大きなお腹をした女性が、子供を産んだというのは、全然、不思議ではありませんが、男が子供を産んだ、となりますと、これは、不思議です。
親鸞聖人は、絶対に助からん者が、助かったから、「不思議」と言われています。これは言亡慮絶で、言葉になりません。心も言葉もたえはてた世界で、親鸞聖人は、それで、「噫(ああ)」と言われています。
弥陀の誓願不思議とは、そういうことです。これさえわかれば、『歎異鈔』はよくわかります。これがわからないと『歎異鈔』は、全部わかりません。
それでは『歎異鈔』を読んでいても、名文だなぁと感情的にはいいですが、親鸞聖人が言われた御心は全くわかりませんし、それどころか、とんでもない聞き誤りをしやすいところがこの『歎異鈔』にたくさんありますので、注意しなければなりません。
◎流転輪廻の際なきは、疑情のさわりにしくぞなき
人生の目的は何か、全人類の中で、答えられる人は、どれだけあるでしょうか。アメリカの大統領から、ホームレスにいたるまで、誰も知りません。その、人生の目的のわからない心を、「無明の闇」といいます。一番大事な人生の目的を知らない無明の闇が、苦悩の根源です。
無明の闇のことを、「疑情(ぎじょう)」ともいいます。無明の闇イコール疑情であり、疑情イコール無明の闇です。
疑情について、言われた親鸞聖人のお言葉を挙げます。
真の知識に値うことは
かたきが中になおかたし
流転輪廻の際なきは
疑情のさわりにしくぞなき
(高僧和讃)
流転輪廻とは、前に話したように、このように、ゴールのない円周上を歩き続けるということです。「流転輪廻の際なきは」とは、苦しみの際(きわ)がないのは、ということです。それは、「疑情のさわりにしくぞなき」、疑情一つがさわりになっているだ、ということがハッキリ教えられています。「しくぞなき」とあ、これしかないんだ、といことです。
◎真の知識
「流転輪廻の際なきは、疑情のさわりにしくぞなき」とは、まさに、苦悩の根源は疑情一つである、ということです。
こんなことを言っている人は、ありませんね。
しかし、これがまことなんです。このまことを教えられる方が、「真の知識(しんのちしき)」です。
仏教で、「知識」とは、仏教の先生、仏教の教師、仏教を伝える人、ということです。「知識」というと、世間では「あの人は科学的知識が豊富だ」とか、「社会の知識に乏しい」とか言い、知っていることを知識といいますが、仏教ではそういう意味ではありません。「知識」とは、先生のことですが、先生といっても、習字の先生でも、数学の先生でもありません。仏教の先生のみを、知識といいます。
しかも、仏教の先生は、たくさんいますが、「真の知識にあうことは、かたきが中になおかたし」と言われています。
「かたきが中になおかたし」とは、難しい中でも難しい、非常に難しいということです。なぜ難しいのかというと、真の知識がいないからです。真の知識といわれる方は、あこにもここにもおられる、という方ではないからです。
親鸞聖人は、29才まで比叡山で法華経の修行に打ち込まれました。ところが、魂の解決ができず、泣く泣く山を下りられました。そして法然上人にめぐりあわれ、法然上人から、苦悩の根源は「無明の闇」と教えられ、無明の闇が晴れて大満足の身になられたのです。無明の闇が破れた、ということは、救われた、ということです。
親鸞聖人は、救われられて、「真の知識は、おられないなぁ、真の知識にあうことは難しいなぁ、“流転輪廻の際なきは疑情のさわりにしくぞなき”だと教える人は、いないなぁ」と言われているのです。
◎解決の道
では、苦悩の根源の解決の道は何でしょうか。それについて、親鸞聖人は、「無碍(むげ)の光明(こうみょう)は、無明の闇を破する慧日(えにち)なり」と言われています。夜の闇を晴らすのは、太陽の光ですが、私たちの苦悩の根源である無明の闇を晴らすのは、阿弥陀仏の“智恵の太陽”の光です。無碍の光明とは、阿弥陀仏の無碍の光明、すなわち、阿弥陀仏のお力、のことです。地球の闇は、太陽の光が晴らすように、無明の闇は、阿弥陀仏の智恵の太陽が、破ってくださるのです。
光が差し込みますと、空気中のチリがキラキラ照らされて、知らされます。電気の光などではわかりませんが、太陽の光が差し込みますと、空気中のチリが照らされて、「こんなチリだらけの中で大きな口開けて息をしていたのか!」と驚かされます。
そのように、無明の闇がなくなりますと、煩悩のチリがキラキラ照らされて、煩悩一杯の自分が知らされます。「自分は、煩悩の塊であった」という懺悔となり、「こんな者がどうして救われたのか!」という歓喜となります。木の例えで言うと、幹が切られる、無明の闇がなくなると、苦しみの枝葉は、しぼんでしまいます。
阿弥陀仏の本願を聞いていくと、一念で無明の闇が破れるところがあります。一念(いちねん)とは、「信楽開発(しんぎょうかいほつ)の時尅の極促(じこくのごくそく)と親鸞聖人は教えられています。「時尅の極促」とは、時間の極まり、ということで、あっという間もないくらいの短い時間のことです。無明の闇が晴れるのに、時間がかからないということです。
親鸞聖人は、“無碍の光明は、無明の闇を一念で破る智恵の太陽である”と言われています。私たちの苦悩の根源である無明の闇が本当に一念でなくなるのか、と思います。ですから、親鸞聖人は、「難思」と言われています。「難思」とは、想像できないということです。無明の闇が一念でなくなることは、誰にも想像できないので、難思と言われているのです。
◎千古の闇室
このことを、曇鸞大師(ぜんどうだいし)も言われています。千古の闇室と言われ、「千年間、闇に閉ざされた部屋があるが、その部屋に光が差し込んだ一念で、闇はなくなる」と教えられています。その通りですね。千年間、闇に閉ざされた部屋であっても、闇が晴れるのは、光が射し込んだ一念です。千年暗かろうが、万年暗かろうが、明るくするのは一念です。
無明の闇は、生まれた時からあるのではありません。私たちの生命、何億年×何億年×何億年という昔から、無明の闇はあります。それが、阿弥陀仏のお力によって、一念で破れるのです。
無明の闇がなくなった時に、「大悲の願船(だいひのがんせん)」に乗ります。無明の闇が破れた時に、大きな船に乗るのだ、と親鸞聖人は言われています。その大きな船に乗った時、無明の闇は、なくなります。
◎三世の業障
また、蓮如上人は、「三世の業障(さんぜのごうしょう)」と言われています。三世の業障とは、無明の闇と同じことで、過去、現在、未来と、私たちを苦しめる重荷、ということです。「業障」とは、「業」とは「重荷」、「障」とは「さわり」ということです。 ですから、過去、現在、未来と、私たちを苦しめる根源ということです。
過去、未来、現在の三世の業障、一時に罪消えて (御文章5帖目第6通)
三世の業障は、「なくなったのかどうか、わからない」というものではありません。「三世の業障、一時に罪消えて」と言われている通りです。三世の業障が消えた時、無明の闇が破れた時が、大悲の願船に乗った時です。
◎順境でよし、逆境で又よし
次に親鸞聖人は「至徳の風静かに衆禍の波転ず」と言われています。これは、順境の時は、感謝となるぞ、逆境の時は、懺悔となり、こんな者がどうして救われたのかと、転悪成善(てんなくじょうぜん)で、歓喜となるぞ、と教えられているのです。
順逆ともに、阿弥陀仏からの御恩にどうして報いるか、無明の闇が破れたのはすべて阿弥陀仏のお力、全く自分の力は微塵も間にあわなかった、ひとえに阿弥陀仏のお力でありましたから、阿弥陀仏の御恩に、身を粉して、骨を砕いて、報いようとします。「仏恩の深きことを念じて、人倫の弄言を恥じず」と言われ、どんな非難攻撃を受けても、それを問題にしてはおれないんだ、と突き進んでおられます。
親鸞聖人の御一生をご覧の方は、親鸞聖人はまさに最後の一息まで、阿弥陀仏の御恩に報いようと、なされたり、言われたり、されたりしていることがわかります。
そのお叫びは、あたかも大悲の願船に帆先に立たれて、難度海で苦しんでいる全人類に、「早く大きな船に乗れよ!」と、叫んでおられるようです。そして、事実、その親鸞聖人のお叫びによって、私たちは、大悲の願船に乗るところまで導かれるのです。
苦悩の根源は、無明の闇であり、人生の目的のわからない心、明らかでない心、なぜ生きるかがハッキリしない心です。その解決の道は、阿弥陀仏の本願を、真の知識から聞かせて頂くしかありません。
(END)
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