◎真実の自己とは(イントロダクション)
真実の自己とは、本当の私の姿、ということです。
「人のことはわからないが、自分のことは、自分がよくわかっている」と皆、思っています。「自分のことは、自分がよく知っている」皆、信じています。ところが、私たちが、一番わからないのが、自分の姿なんです。自分の姿以上に、わからないものはないと言われています。
「知るとのみ、思いながらに、なによりも、知られぬものは、己なりけり」という歌もあります。人のことはわからないが、自分のことは自分がよくわかっているというのが、「知るとのみ、思いながら」ということです。しかし、なによりもわからないもの、つまり「知られぬもの」は、「己なりけり」、己の姿なんですよ、ということです。これ以上わからないものはないのです。
◎近すぎて見えない
それは、どうしてかといいますと、自分に近すぎるからです。
例えていうと、私たちは、目で何でも見ています。しかし、遠すぎるものは見えませんね。人工衛星とか、たくさん飛んでいるでしょうが、見ることはできません。遠すぎるからです。でも、近すぎるものも見ることができません。目のお隣にある眉毛を見ることができますか。できません。また、鼻を見ることができますか。ちょっとは見えますが、全部は見えませんね。それは、目から近すぎるからです。そのように、私の姿も、近すぎるので、わかりません。
では、私たちは、目に近い眉毛や、鼻を見る時は、どうするかといいますと、鏡を使います。鏡にうつる姿を見るより仕方がありません。
◎仏教とは、法鏡(ほうきょう)
仏教とは、法鏡です。世界の三大宗教、二大宗教といわれても、まず数えられるのが仏教、お釈迦様の教えです。お釈迦様のことを釈尊(しゃくそん)といいます。お釈迦様が、お亡くなりになる時に、お弟子が、「お釈迦様が教えられたことは、一言でいうと、何でしょうか」と尋ねたところ、お釈迦様は、「仏教は、法鏡である」と言われています。
法鏡とは、法の鏡ということですが、「法」とは「真実」ということで、真実の姿、ありのまんまをうつすということです。ですから、仏教を聞くとは、法鏡にうつった本当の私の姿を聞く、これが仏教を聞くということになります。本当の自分の姿がわからなければ、幸せにはなれないのは、当然であります。
では法鏡にうつる真実の姿とは、どのような姿なのでしょうか。
お釈迦様は、全人類は、例外なしに、このような姿をしていると、仰っておられます。
心常念悪(しんじょうねんあく)
口常言悪(くじょうごんあく)
身常行悪(しんじょうぎょうあく)
曽無一善(ぞうむいちぜん)
◎身口意の三業
お釈迦様は、本当の私たちの姿をこのように言われていますが、ここで私たちが、気をつけることは、私たちを心と口と身の三つから見ていることです。
心と口と身を、仏教では、身口意の三業(しんくいのさんごう)といいます。業は「ごう」と読みます。
それぞれ身業(しんごう)、口業(くごう)、意業(いごう)といい、意業とは、心の行いということで、「意」は「心」と同じです。口業とは、口でしゃべること、身業とは、身でやる行いです。業とは、行いのことです。私たちは、心と口と身の三業で、いろいろな行いをしています。
お釈迦様は、まず心を言われています。それは、口を動かしているのも、心であり、身を動かしているのも、心だからです。心で嫌い、憎いと思っていると、口で憎たらしいことを言います。憎たらしいことを言うのは、心で憎いと思っているからです。それが口業に現れます。また、皆さんが身体で何かをするのは、心で思っている通りの行為をしています。
心が口を動かしていますし、身を動かしていますので、口や身は、いわば心の奴隷です。心の思った通りに、口や身は動きます。ですから、心が一番大事です。口が悪いことを言ったならば、口も悪いですが、それを言わせた心は、もっと悪いのです。また、身が悪いことをやったならば、身も悪いですが、それをやらせた心は、もっと悪いということです。
◎心で思う罪
仏教では、心を一番大切にしていることは、理解して頂けたでしょうか。
一方、世間の、法律、道徳倫理などは、身や口の行いは大いに問題にしますが、心は問題にしません。心で、「殺したい」と思っても、殺さなければ、問題になりません。また、口に言わなければ、問題ありません。口で脅せば、脅迫罪になります。しかし、法律は、心を問題にしていません。していないというよりも、問題にできないのです。倫理道徳は、法律よりもそういうことを細かくみていますが、それでも限界があります。
身や口だけを取り締まろうとしているのは、大空に舞う火の粉を消そうとしているようなものです。どれだけ火の粉を消そうとしても、火の元から火の粉が出てくるのですから、なくなりません。心が火の元で、口や身は、火の粉なのです。
最近、アメリカなどで、銃で多くの人を殺したとか、問題になっています。それで、銃の規制をしようと言われていますが、それは、身のことです。身を動かしているのは心ですから、殺してはならないという心の防波堤が必要なのです。
身で造る悪を取り締まるのも、大事です。口で造る悪を取り締まるのも、大事です。しかし、それよりももっと大事なのは、口に言わせる、身に悪いことをやらせる心を見つめ、心を管理することです。これは、すべての人がわかっているのでしょうが、どうしようもないと、大いなるあきらめに陥っているのが現状です。
しかし、お釈迦様は、心を修めないと、幸せになれない、と仰せです。真実の自己とは、本当の私たちの心ということです。それで、一番大事な心を修めなさいということで、心を口や身よりも先に教えられています。
◎心と格闘なされた親鸞聖人
親鸞聖人ほど、徹底して、私たちの心を明らかにされた方はおられません。
親鸞聖人が、比叡山で、修行なされていた時、たくさんの俄(にわか)坊主がいました。それらは平家の落ち武者たちでした。俄坊主は、源氏の目はごまかす為に、山に入っていましたが、それを見られた親鸞聖人は、「源氏の目はごまかせても、仏様の目は、ごまかせないのだぞ。俺だけでも法華経で教えられている通りの修行をするぞ!」と決意なされ、修行されました。ところが厳しい修行をすればするほど、身や口は、俄坊主と同じことはしていない、言っていないけれど、心ではとんでもないことを思い続けている、と知らされたのです。親鸞聖人は、「お釈迦様が『心常念悪』と言われた通りであった」と知らされられました。
また、弁円(べんねん)が関東で布教していましたが、親鸞聖人が関東に来られると、弁円の弟子や信者が、親鸞聖人の元へ参詣するようになりました。それで、弁円は、剣をかざして、白昼、親鸞聖人のお命を狙ったのです。その弁円をも、親鸞聖人は、済度なされています。
親鸞聖人は、白昼、命を狙ってきた弁円に、「私も弁円殿のような同じ立場に立ったら、同じように、命を狙ったでしょう」と言われています。そのように言われたということは、常に、心を見つめておられたからです。
また、殺しに来た弁円が一転して、「お弟子にして下さい」と言ってきた時、親鸞聖人は、「あなたは、正直な人だ」と言われています。親鸞聖人は「親鸞は不正直な人間だ。本当言うと、親鸞こそ、あなたを殺したい気持一杯だが、それを隠すのに迷惑している。そんな親鸞も、阿弥陀仏に救いとられましたから、弁円殿、あなたは、より救われます」と言われています。
それを聞いた弁円は、皮肉としか思えませんでした。殺しにきた者に、正直な人と言われるのですから、皮肉としか思えませんでした。しかし、親鸞聖人は、皮肉で言われていたのではありません。心のままに言われています。
◎愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑する
お釈迦様は、心は常に悪を念じている、と教えられていますが、それを親鸞聖人は、教行信証に、このように言われています。
悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の大山(たいせん)に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず、恥ずべし、傷むべし。
「愛欲の広海に沈没し」ということですが、「沈没」と言われています。水面に浮いたりしていると、沈没とは言いません。海の底についている、沈みきっているのを沈没といいます。
親鸞聖人は、沈没と言われていますが、それをお釈迦様は「常に」と言われています。
愛欲とは、異性を求める心です。それだけでなく、かわいいとか、憎いと思うのも、愛欲です。親鸞聖人は、「親鸞は、愛欲の広海に沈没している」と言われています。
「名利」とは、名誉欲と利益欲です。私たちは、朝から晩まで、人から褒められたい、綺麗な人と言われたい、正直な人と言われたいと思っています。朝、髪にクシを入れて来るのも、かっこいいと言われたいという心です。そういう心で、人に言えないことを思っています。夫にも妻にも言えません。心で思ったことを、すべて、人に言えるでしょうか。「言えるよ」という人は、偽善者か、我が身知らずです。親鸞聖人は、我が身知らずであったと知らされました。心で思ったことを、すべて言うことはできません。ですから、いつも人を騙していることになります。
ここで、なぜ名誉欲(人から褒められたいという心)が悪いのか、という人があると思いますが、名誉欲は、自分は、あの人よりも優れていると、自惚れているので、これは、心の中の足で相手を踏みつけていることになります。「オレの方が優れている」と、心の足で、踏みつけている、だから浅ましい心なのです。
それで、お釈迦様は、心常念悪、心は常に悪を念じと言われています。
名誉欲で、どれだけお金がかかっても、どれだけ痛い目にあっても、綺麗と言われたいという心があります。だから、整形手術が流行っています。
次に利益欲は、少しでもお金が欲しい、文句を言わせずに人の金を取ろうと思っています。そういう利益欲が、大きな山ほどあると親鸞聖人は、言われれているのです。
親鸞聖人は、名利の心は大きな山ほどあって、迷惑していると言われています。ですから、名利の塊、愛欲名利の塊です。それをお釈迦様は、「心は常に悪を念じ」と言われ、親鸞聖人は、「馬鹿な、情けない親鸞だ」ということで、「悲しきかな、愚禿鸞」と言われています。
◎喜ぶこころもない
次に「定聚の数に入ることを喜ばず」とあります。「定聚の数に入る」とは、阿弥陀仏に救われることです。『歎異鈔』には、無碍の一道(むげのいちどう)と言われ、一切のさわりがなくなった世界へ出ます。絶対の救いにあずかるということです。
「定聚の数に入ることを喜ばず」とは、阿弥陀仏に救われても喜ぶ心はない、と言われています。これを聞き誤って、阿弥陀仏に救われても、喜ぶ心は起きないんだと思っている人があります。特に歎異鈔第9章が、間違いやすいです。
歎異鈔第9章には、「阿弥陀仏に救われても喜ぶ心が起きません」と、唯円房(ゆいねんぼう)が親鸞聖人に言いましたら、「親鸞も同じである」と言われています。
念仏申し候えども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の心、疎(おろそか)に候こと、また、急ぎ浄土へ参りたき心の候はぬは、いかにて候べきことにて候やらんと申し入れて候いしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。よくよく案じみれば、天に躍り、地に踊るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。
これをわかりやすく言うとこうです。
「阿弥陀仏に救われても、喜ぶ心がありません」と唯円房が、親鸞聖人に言ったところ、親鸞聖人は、「親鸞も同じ心である」と言われました。親鸞聖人は、「喜ぶ心がない」と言われていますが、その後で、喜んでおられます。たのもしく思えると言われています。
これは、喜ぶ心がないと知らされれば知らされるほど、喜ばずにおれない喜びを言われています。阿弥陀仏に救われても、喜ぶ心はないと言っているのは、歎異鈔のはじめの方しか読んでいません。その後を読むと、喜んでおられます。喜ぶ心がないと、知らされれば知らされるほど、喜ばずにおれない喜びを知りません。
ここでは、「真実の自己」についての講義ですので、歎異鈔の詳しい説明は他の講義に譲りますが、私たちの本当の姿は、阿弥陀仏に救われても喜ぶ心がないのです。それを親鸞聖人は「定聚の数に入ることを喜ばず」と言われています。
次に親鸞聖人は「真証の証(しんしょうのさとり)に近くことを快(たのし)まず」と言われています。真証の証とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往くことです。真証の証に近くとは、私たちは、一日生きれば、その分、死に近づきます。定聚の数に入った人、つまり、阿弥陀仏に救われた人は、そのまま阿弥陀仏の極楽浄土に近づきます。阿弥陀仏に救われた人は、いつ死んでも極楽参り間違いなしの身になりますから、阿弥陀仏の極楽に近づくのはどんなに楽しいだろうと思いますが、親鸞聖人は、「楽しむ心はない」と言われています。
いつ死んでも極楽参り間違いなしで、阿弥陀仏の極楽浄土に近づいているのに、それを楽しむ心がないとは、どこどこまでも、バカな奴だ、悪しか向いていない奴だ、と親鸞聖人は「恥ずべし、傷むべし」と言われています。
◎地獄は一定すみか
また親鸞聖人は、こうも言われています。
いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。(歎異鈔)
「いづれの行」について、「行」とは「善」ですから、「いづれの行」とは「微塵の善」ということです。
「いづれの行も及び難き身なれば」ですから、「微塵の善もできない親鸞だから」ということです。
だから「とても地獄は一定すみかぞかし」、つまり、地獄行き間違いなしだ、他の人が極楽へいっても親鸞は地獄行き間違いなしだ、地獄が住み家だ、と言われています。
「すみか」とは、決まっているということです。
これを、お釈迦様のお言葉で言いますと、「必堕無間(ひつだむけん)」です。お釈迦様は、私たちは、心も口も身も、悪、悪、悪ですから、かって一善もなし、一つの善もありません。だから、必堕無間と言われています。親鸞聖人は、いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかしと言われています。
◎八億四千の憶い
善導大師は、心について、このように教えられています。
一人(いちにん)一日のうちに、八億四千の憶(おも)いあり、念々になすところこれみな三塗(さんず)の業なり。
一人とありますが、善導大師のことです。一日で、八億四千遍、心が変わると言われています。心(ココロ)と言われるようになったのは、コロコロからきています。盆の上の卵のように、コロコロ変わるので、ココロと言われるようになったのです。私たちの心は、あれを思っていたら、他のことを思います。しばらくしたら、また、他のことを思っています。それで、一日のうちに、八億四千遍、心が変わっています。しかも、八億四千遍、心で思っていることは、どんなことかといいますと、善導大師は、「念々になすところ、これみな三塗の業なり」と仰有います。「三塗の業」とは、地獄行きの行い、ということです。
では、善導大師は、本当の私はどんな姿をしているか、このように言われています。
自身は現に是、罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫(ぼんぶ)、昿劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没(もっ)し、常に流転(るてん)して、出離(しゅっり)の縁有ること無しと深信(じんしん)す
◎罪悪生死の凡夫
「深信す」とは、ハッキリした、ということです。
これは、誰のことを言われているのかと言いますと、善導大師は、ここで隣の人のことでも、親のことでもなく、善導大師御自身のことを言われています。
「自身は現に是、罪悪生死の凡夫」とありますが、「罪悪生死の凡夫」とは、罪悪を造って苦しんでいる者、ということです。仏教で「生死」と言えば、生きている者にとって、死ぬこと以上に苦しいことはありませんから、苦しみのことです。罪悪生死の凡夫とは、親鸞聖人のお言葉でいうと、愛欲、名誉欲、利益欲、また、阿弥陀仏に救われても喜ばない心、阿弥陀仏の極楽に近づいても、楽しまない心、ということです。
「凡夫」とは、人間のことですから、ここで善導大師は、「私は、罪悪を造り続けて苦しんでいる人間であった」と言われています。
「昿劫より已来」とありますが、「昿劫」とは、何万年よりもっともっと前、ということです。罪悪生死の凡夫であったのは、昨日今日からではありません。去年は、そうでなかったが、今年からそうなった、というのでもありません。昿劫より已来、ずっと前からです。
これは、私たちの肉体のことではありません。肉体のことなら、日本の平均寿命でいえば、七十年ぐらいですが、これは、肉体のことではなく、私たちの果てしなく流れる生命のことで、私たちの生命は、昿劫より現在に流れ、また、未来へと流れていきます。罪悪生死の凡夫は、昨日、今日のことではなく、昿劫より已来、昿劫より今まで、罪悪生死の凡夫であったということです。
次の「常に没し、常に流転して」ですが、「没し」とは、親鸞聖人のお言葉でいうと、「愛欲の広海に沈没し」で、沈みきっている、ということです。「常に流転して」とは、ゴールのない円周上を回り続けるということで、仏教では、これを流転輪廻(るてんりんね)といいます。「流転」とは、流れ転がる、ということです。「輪廻」とは、車の輪が回るということで、円周上をくるくる回り続けることをいいます。
キリのある命で、キリのない道を歩いていたら、どうなるでしょうか。悲劇あるのみです。ですから、これを仏教では、「迷い」といいます。「常に流転して」とは、「迷い続けている」悲劇ということです。
◎出離の縁有ること無し
次の「出離の縁」ですが、「出離」とは、出て離れる、ということです。どこから出て離れるかというと、流転輪廻からです。私たちは、同じことを繰り返しています。朝起きてから、いろいろやっているうちに、夜になって、寝ます。また、明くる朝になって、起きて、また、寝ます。布団を押し入れから、出して、入れて、また出して、入れてを繰り返しています。あるいは、台所で口に入れて、それをトイレで出して、入れて、出して、入れて、出してを繰り返しています。そうしているうちに、女性なら、「世の中の娘が嫁と花咲いて、嬶(かかあ)としぼんで、婆と散りゆく」となります。そして、最後、死んでいきます。
流転輪廻の道を歩くということは、私たちは、死ぬ為に生きていることになります。こういうところを歩いていたら、あるいは走っていたら、どうなるでしょうか。歩き倒れ、走り倒れになるだけです。飛行機なら、墜落するだけです。燃料には限りがあります。燃料に限りがあるのに、ぐるぐると飛んでいたら、どうなるか明らかです。墜落する為に飛んでいることになります。ですから、私たちは、流転輪廻から、出なければなりません。出離とは、そういうことを意味しています。別の言葉で言えば「助かる」ということです。
「縁」とは、縁手掛かり、ということですから、出離の縁とは、助かる縁手掛かり、ということです。
「出離の縁有ること無し」ということですが、ここで気をつけねばならないのは、「出離の縁無し」と言われずに、「出離の縁有ること無し」と言われていることです。どう違うのでしょうか。
例えで説明します。ある人が、お金がなくて、友人にお金を借りに行ったとします。「どうか百万円、貸してくれ。そうしないと、一家心中しなければならないんだ」と言ったところ、友人は「俺の家には、百万円は、ないよ」と言いました。また、他の友人のところへいったら、「俺の家には、百万円は、あることはないよ」と言いました。百万円あることがない、ということは、百万円は永久にない、ということですから、そんな家に、どれだけ頼みにいっても、どうしようもありません。「百万円はない」と言った友人は、今はないが、将来、あるかもしれないという含みがあります。そこが違います。
話を戻しまして、「出離の縁有ること無し」ということは、助かる縁手掛かりは、金輪際なかった、永遠になかった、ということです。「出離の縁無し」だと、今は、助かる縁手掛かりはないが、後から助かる縁手掛かりが出てくるかもしれない望みがあることになります。善導大師は「出離の縁有ること無し」と言われていますから、助かる縁手掛かりは金輪際、なかったと言われているのです。
これを、親鸞聖人は、とても地獄は一定すみかぞかし、地獄行きに間違いないと言われています。それをお釈迦様のお言葉でいうと、「必堕無間」です。ただ地獄に堕ちるとは言われていません。必堕無間、“必ず”堕ちると言われています。“ひょっとしたら”ではない、必ず堕ちると言われています。ひょっとしたら堕ちるのであれば、ひょっとしたら助かるかもしれないということです。しかし、ひょっとしたらではなく、必ず堕ちると言われています。必堕無間、必ず地獄に堕ちると言われています。
◎仏教とはまさに法鏡
お釈迦様、善導大師、親鸞聖人方は、私たちの本当の姿を以上のように言われています。これが、本当の私たちの姿なのです。本当の私たちの姿を、徹底して教えられたのが、法鏡といわれる仏教です。
仏教を聞くということは、法鏡にうつれた自分の姿が知らされるということです。仏教を聞きながら、親鸞聖人や善導大師のように自分の姿が知らされていないということは、法鏡に向いていないか、法鏡の前に座っていても、目をつむっているか、あるいは法鏡からずっと離れたところから、鏡を見て、まんざらでもないなと思っているか、どれかです。
仏教を聞いていても、法鏡に向いていないか、法鏡の前に座っていても、目を瞑っているか、鏡を見ていても、丸い鏡だ、四角い鏡だ、また、この鏡は、何でできているかと、鏡の材質をみている、これでは、仏教を聞いたとはいえません。
仏教を聞くということは、法鏡にうつれた自分の姿を知らせて頂くということです。
(END)
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