人生哲学と仏教 第五章 「唯識の骨格A」
 
 

第五章  唯識の骨格A


仏教に「自利利他」という言葉がある。

これは自分が利益を得ることと他人に利益を与えることとは一致するという意味である。

つまり、他人に幸福を与えようと努めたならば、それがそのまま巡り巡って自分自身の幸福になるということである。
だから逆に、本当に自分が幸福になりたいと思うならば、他人の幸福のために尽くしなさい、ということになる。
「一致する」と言ったのはそういう意味であって、決して「自分の幸福だけを追求していけば他人も幸福になる」という意味ではないので誤解のないように。
  「他人に利益を与えれば自分が損をする」と思うのは近視眼的な見方であって、長い目で見れば確かに「自利利他」が真実であると分かる。
だから例えば財界においても、成功者は大概「自利利他」と同じ意味のことを言うものであるし、中にはそのような仏教的精神を積極的に取り入れようとする人もある。

「他人の利益を図らずに、自分が栄えることはできない。」(カーネギー)

また「情けは人のためならず」も「自利利他」を教えたことわざである。(最近では「情けを掛けることは、甘やかすことであり、その人のためにならない」の意味だと思っている人も多いが、誤りである。)
さて、「自因自果」の話に戻るが、今までの話で「自分の行為が自分の幸・不幸に影響を及ぼす」ことは理解できたであろう。
問題は、「自分の行為以外の何かが原因で、自分が結果を受けることはない」すなわち「他因自果」はありえないことが納得できるかどうかである。

例えば、自分は交通ルールを守って安全運転をしていたのに、無謀運転の車の巻き添えになって事故に遭った場合はどうか。
あるいは、自分はまじめに勉強してきたのに試験の時に隣に座った人が激しく貧乏揺すりをするのでそれが気になって調子が狂ってしまったという場合はどうだろう。
このような例は挙げればきりがないが、我々はこういう場合、どうしても「あいつのせいだ」「こいつのせいだ」としか思えない。
しかし、それでもやはり根本的には自分自身に責任があると説くのが「自因自果」である。ではなぜそう言えるのか?

交通事故の例で言えば、もし〈私〉がその時その場所を通っていなければ事故に遭わなかったはずである。
実際、走っていた時間や場所が違う人たちは何ともなかったのだから。
したがって、「無謀運転の車」が「〈私〉を事故に巻き込むもの」として存在するのは〈私〉の世界(〈私〉の阿頼耶識が生み出した世界)の内部のみにおいてである。
「その時その場所を通っていた」という自己の在り方(存在可能性)が、「〈私〉を事故に巻き込むものとしての車」をそこに存在せしめたのである。そのことを「阿頼耶識が生み出す」と言うのである。
ではなぜ〈私〉は「その時その場所を通っていた」のだろうか。
そのこと自体、一つの結果である。結果には必ず原因がある。
「その時その場所を通っていた」という存在可能性を持つのは〈私〉だけである。したがってそれは〈私〉の内部のものである。
だから、その原因も〈私〉の内部のもの(〈私〉の行為)でなければならない。
なぜなら、〈私〉の内部のものに影響を与えることができるのは〈私〉の行為だけであって、外部から入り込む余地は全くないのだから。だから、事故に遭った原因は根本的には自己の行為なのである。
事故が起きたことを客観的出来事としてとらえるならば、このような論理は理解できないであろう。
しかし、第三章から今までずっと論じてきた通り、「客観的出来事」というものはそもそも存在しないのである。
今ここで問題にしているのは「〈私〉がその事故に巻き込まれた」という主観的な体験の原因である。


さて、では「無謀運転の車」は全く悪くないのか。
また、放っておいてよいものだろうか。
今まで「因」とは単に「原因」と述べてきたが、正確には直接的(本質的)原因を仏教で「因」と言い、間接的(補助的)原因を「縁」と言う。
事故に遭ったことの「因」は過去の自分の行為であるが、無謀運転の車は悪い「縁」となったのである。

もしその悪縁がなければ、少なくともその時に事故に遭うのは避けられたであろう。だから、縁も放っておいてよいわけでない。
もし放っておくならば、その「放っておく」という自己の行為に対する結果をさらに受けねばならなくなる。
悪縁をなくそうと働き掛けるその行為が、「善因」となってやがて「善果」を自己にもたらすのである。

無謀運転の車は「縁」であると述べたが、それも自己の阿頼耶識の生み出したものであって、自己の外部のもの(すなわち「他」)ではない。だから、たとえ縁を因に収めて考えても「他因自果」ではない。

結局、「他因自果」が有り得ない理由を一言で言うなら、「自己を離れた〈他〉は本来存在しないから」となる。
以上のように「善因善果」「悪因悪果」「自因自果」の因果の道理が成り立つ。

「私は文科系の学問の数多くの偉大な学者の主張に共通な何ものかを探し出そうと努力した。こうして取り出されたのが『人間界における因果の法則』であった。それは、『善いことをすれば善い結果が得られ、悪いことをすれば悪い結果が得られる』と主張する。

人間界における因果律もまた、実証によってその正しさが証明される。」(竹内 均、地球物理学者)

さて、過去の行為が現在に結果をもたらし現在の行為が未来に結果をもたらすことを今まで述べてきたが、それが可能であるためには、行為の影響力がどこかに保存され、それが時間を隔てた後に顕在化するということでなければならない。
そのメカニズムを徹底的に解明しているのが唯識学である。

唯識学では行為の潜在的影響力を「種子」という。

では、種子はどこに蓄えられているのか。
行為は、〈私〉にとって存在するあらゆるものに影響を与えるのだから、
種子は、「あらゆるもの」を生み出す根源体すなわち阿頼耶識に蓄積されているということでなければならない。
そもそも阿頼耶識は、そういう観点から導入された概念なのである。
仮に、阿頼耶識が存在せず種子を蓄えているのは意識だとすると、種子を保持することは不可能である。
なぜなら意識の働きは、熟睡している時などには停止するからである。
すなわち意識にはトギレ(仏教では「間断」という)があるからである。
したがって、そのトギレをつないでゆく何かがなければならない。
その「何か」こそ、阿頼耶識なのである。
阿頼耶識は我々の行動いかんにかかわらず常に相続しているものであって、間断は一切ない。 種子という潜在的エネルギーが芽をふき、顕在的心理作用となったものが日常の諸経験である。その顕在的心理作用を「現行」という。

それは具体的には阿頼耶識以外の七識をさす。種子から現行が生ずる過程を「種子生現行」(種子が現行を生ずる)、現行が種子を阿頼耶識に植え付ける過程を「現行熏種子」(現行が種子を熏習する)という。

また、阿頼耶識の中で種子が次々と自己自身を生みながら生長する過程を「種子生種子」(種子が種子を生じる)という。「種子生現行」「現行熏種子」の二つの因果関係において、初めの「種子」と、それによって生じる「現行」と、その「現行」が阿頼耶識に熏習する「種子」の三つは同時に存在するとされ、このことを「三法展転因果同時」という。一方、「種子生種子」は「因果異時」であるとされている。この「種子生現行」「現行熏種子」「種子生種子」の三つのプロセスが、悠久の過去から永遠の未来に向かって、絶え間なくしかも果てしなく繰り返されているというのが仏教の世界観である。
さて、今述べたことをもう少し詳しく説明しよう。
まず、種子から現行すなわち七識が生じるのであるが、七識は「心王」であり心王には必ず「心所」が相応する。
心所の中の「遍行」に「思」というものがある。この「思」こそが我々の「意志」であり、一切の行為の原動力である。
(いわゆる「自由意志」もここにちゃんと確保されている!)我々の行為を仏教で「業」というが、これには次の三つがあり、「三業」という。

・身業
・口業
・意業

まず、「身業」とは身体で何かを行うことである。
「口業」とは口で何かを言うことである。「意業」とは心で何かを思うことである。
普通、行為といえば身業だけをさすように思われるが、仏教では口業もさらに意業までも広い意味での行為とみなされ「業」と呼ばれる。
そして、三業の中でも中心となるのは意業であるとされる。
なぜなら心は元であり、心で思わないことを身体が行ったり口が言ったりすることはないからである。
まず心で思うのが先であり、その後で心が命じた通りに身体や口が動く。
そこで意業を「思業」とも言い、身業と口業をまとめて「思已業」と言う。

我々は「思」の心所で様々な三業をなす。そしてその影響力が即座に阿頼耶識に蓄えられる。
それが「現行熏種子」である。そして種子は「種子生種子」のプロセスによって、変化しながらも相続し保持されてゆく。そしてまた、それらの種子の中で因となるものと縁となるものとが和合して新たな果が生じる。

これが「種子生現行」である。ここで注意すべきことは、すべての種子が現行を生ずるわけではなく因縁和合した種子のみが現行を生ずる、という点である。しかし、たとえその時には結果となって現れなくとも、種子は永久に保存され、因縁和合の仕方次第でいつでも結果として現れる可能性をはらんでいる。

したがって、種子とは物理学でたとえるなら「位置エネルギー」のようなものである。

高い所に置かれている物体は、その高さに応じた位置エネルギーを持っている。

位置エネルギーは目に見えるものでないから、その物体が固定されている時は存在に気付きにくい。ところが、その物体を落とす何らかの「縁」に出くわすと、たちまち運動エネルギーと転じ変わり、急速な落下を始める。種子とはちょうどそのようなものである。また、こんな歌もある。

「年ごとに咲くや吉野の山桜 木を割りてみよ花の在処は」

奈良県の吉野山では毎年たくさんの桜の花が咲くが、冬に行ってみるとまるで枯れ木のように花びら一枚見当たらない。

そこであの膨大な花びらをどこに隠し持っているのかと木を割ってみたが花の在処はどこにもなかった、という意味である。

木の中には花そのものはないが、花を咲かせようとする力が蓄えられ、冬でも保存されている。
それが春という「縁」に触れたときに実際に花を咲かせるのである。このたとえで「花を咲かせる力」に当たるのが種子である。

種子は我々が自覚していようといまいと結果を引き起こす可能態として永久に保存される。このことを「業力不滅」という。だから種子(業力)は恐ろしい。


「ここ(唯識学)には、過去の経験が意識の深層に蓄えられていて、将来、何かの機縁を得たときよみがえる、との考え方があることになる。 現代の深層心理学もしくは精神分析等が明らかにしてきた事態が、すでに独自の哲学手法において解明されていたのである。両者はまず、意識下の世界の存在を設定することにおいて、同一の立場に立っている。幼児期の体験が、心の深層に隠伏させられていて、それが現在の行動を規制する大きな要因となっているというフロイトの所説も、阿頼耶識を説く唯識説によって容易に理解しうる。」
(竹村牧男『唯識の構造』)


ところで、「因是善悪、果是無記」という言葉がある。
行為には善・悪があり、それに応じて善果・悪果を受けるのであるが、その「善果を受ける」「悪果を受ける」こと自体は善でも悪でもないという意味である。
もし、善果を受けることが善で悪果を受けることが悪ならば、一度なした善・悪が雪ダルマ式に果てしなく増幅してゆくことになる。それはおかしい。
また、このことから言えるのは、善果・悪果を受けたならば、その分の善業・悪業は清算されるということである。
貯金を下ろしてしまえばそれ以上は下ろせないし、借金を返してしまえばそれ以上は返さなくてよいのと同じことである。ただし、「清算される」というのは、「無になる」ことではなく「無効になる」ことなので注意。

過去に何かをしたという事実が消えるはずはないのであって、あくまで「業力不滅」である。
使用済みのエネルギーはそれ以上使えないが、エネルギーが消えたわけではない(エネルギー保存の法則)。
エネルギーが使用不可能な状態に変わってしまったということである。それと同様にイメージすればよい。

このように言うと、「では悪果をどんどん受ければ悪業がどんどん清算されてスッキリするではないか」と思う人もあるかもしれない。
確かに、うそがばれないでいるよりも、ばれてひどい目にあって反省し謝罪した方がずっとスッキリする。そういう意味からすればその通りである。しかし、だからといって某宗教団体のように「カルマ落とし」と称して積極的に、自他ともに悪果が起きるように働きかけて喜んでいるのは、愚行以外の何物でもない。それはただ単に新たな悪業を造っているにすぎない。そもそもそんな発想には、懺悔が全く感じられない。
因果の道理が本当に分かっているのなら、悪果を受けた時に過去の悪行に対する懺悔の心が起きて当然である。

付け加えるならば、我々は悪果を受けた時、とかくやけっぱちになり冷静な判断ができなくなる傾向がある。
もしそこで反省し同じ過ちを繰り返さないように努力するならば、善い方向に事が運ぶのであるが、ついつい新たな悪業を造ってしまいがちである。
そしてその悪業が原因でまた悪果を受け、ますますやけっぱちになってゆく。

「因是善悪、果是無記」であるにもかかわらず、我々はこのような悪循環に陥ってしまう。
それを仏教で「惑業苦」という。まず、やけっぱちになって冷静な判断ができない状態が「惑」である。そしてそれによって悪業を造る。これが「業」である。
そうなると悪因悪果で苦しむ。それが「苦」である。その「苦」がまた新たな「惑」を生み出す。こうして惑→業→苦→惑→業→苦→……と果てしなく続いてゆき、しかもぐるぐる回れば回るほどますます深みにはまってゆき抜け出せなくなってゆく。

ついには地獄の苦しみを生み出す結果となる。だから大切なのは、悪果を受けた時、悪業を懺悔し、少しでも建設的で前向きな発想をするよう心掛けることである。

「一つのうそをつく者は、自分がどんな重荷を背負い込むのかめったに気がつかない。つまり、一つのうそを通すために別のうそを二十発明せねばならない。」    
(スウィフト、英・風刺作家)

「悪行はさらに多くの悪行を次々に生み出して際限がない。それが悪行の進路である。」(シラー)

さて、今まで因果の道理について説明してきたが、それの前に、三世があることを述べた。
因果の道理を徹底するなら、それは当然、三世を貫いて成立するということでなければならない。
これを「三世因果の道理」という(以下「三世因果」と略す)。そもそも、〈私〉はなぜ生まれて来たのか? 〈私〉が生まれたのは一つの結果である。
結果には必ず原因がある。なければならない。ではその原因は何か?
この疑問に対する常識的な答えは「両親の肉体が原因だ」である。
確かに両親の肉体から〈私〉の肉体が作られるメカニズムは生理学的にかなりのところまで解明されているであろうし今後ますます緻密になってゆくだろう。
しかし、問題の核心はそこではない。
ある特定の男女から特定の時間・特定の場所・特定の環境に特定の立場で生まれたその人間が、なぜ〈私〉であるのか? 何が〈その人間〉を〈私〉たらしめているのか? そしてまた〈その人間〉以外の何十億の人間はなぜ〈私〉でなく他人であるのか? 
それが問題の核心である。
例えば、もしも〈私〉とそっくりな肉体を持つ人間すなわちクローン人間がいたとしても、それは〈私〉ではない。
他人である。だから、たとえ〈私〉の肉体とそっくりな肉体を作ることが原理的に可能だとしても、〈私〉そのものを作ることは絶対に不可能である。

他人は〈私〉になれないし、〈私〉は他人になれない。〈私〉は〈私〉の視点からしか世界を見ることができない。
他人の視点から世界を認識することはできないのである。
ではなぜ〈私〉はそのような特定の視点からしか世界を見れない存在として限定され固定されてしまっているのか? どういう条件によってその「特定の視点」が決定されたのだろうか?

「私は自分をとりまいている宇宙の恐ろしい空間を見る。そして自分がこの茫漠たる広がりの一隅につながれているのを見いだすが、なぜあそこよりもここにおかれているのか、なぜ私が生きるために与えられたこのわずかな時間が、私の先にあった全永遠と私の後に続く全永遠とのどこにも指定されないで、この点に指定されたのかを知らない。」
(パスカル『パンゼ』)

これらの問いは、科学では解答不可能である。
客観的世界がまずあって、そこに一個の肉体が生まれ、それが〈私〉になったという発想をしている限り、その肉体と〈私〉とがなぜ、どうやって結びついたのかという問題がつきまとって離れない。この問題を解決するには観点を百八十度転換する必要がある。

その「観点」とは今までずっと論じてきた通りの観点である。
つまり、「〈私〉にとって存在している世界」と〈私〉とは、もともと一つのものであり、ともに阿頼耶識によって生み出されているものである。
そして、いつ・どこで・どのような環境に・どのような立場で・どのような肉体を持つものとして生まれるかは、要するに〈私〉の「境遇」であって、それは因果の道理にしたがって決められたものである。〈私〉がある特定の境遇に生まれたのは「結果」であるが、結果には必ず原因があり、しかも結果より過去にある。

だから生まれたことの原因は、生まれた時よりも過去になければならない。
したがって、(〈私〉にとっての)過去世というものがあって、その時に〈私〉が行った行為が原因で、〈私〉が特定の境遇に生まれるという結果が生じたと考えざるをえない。
もし、過去世が無い、あるいは過去世が有ってでも因果の道理が現在世だけでしか通用しないとするならば、このことは到底説明できない。
だいたい、過去世を現在世と根本的に異質なものと見なさねばならない理由はどこにもない。
過去世の行為の結果を現在世で受けるというのは、昨日の行為の結果を今日受けるのと同じくらい自然なことである。
過去世と現在世との関係は、そのまま現在世と未来世との関係に当てはまる。
なぜなら、現在世はやがて過去世となり、未来世が現在世となるからである。一日たてば、今日は昨日になり、明日が今日になるのと同じである。

一人の人を殺した人がいるとする。
今仮に、その罪は死刑を受けることに清算されるものとしよう。
では、百人殺した人はどうなるか? 
死刑によって一人を殺した分の罪が清算されるとしても、残りの九十九人分はどうなるのだろう。

パッと消滅するのだろうか。だとすれば、もし一度人殺しをしてしまったならば、後はどれだけ殺しても同じという開き直った考え方もできてしまう。

もっと言うなら、死刑があろうとなかろうと、どうせ人間一度は死なねばならないことからすれば、どれだけ悪事の限りを尽くしても結果は一緒ということになる。
本当にそうだろうか? 死んでしまえば全くの御破算となるのだろうか? 

もしこの不条理を黙認できるなら、次のように考えてみるとよい。一日働けば一万円の給料がもらえる仕事があるとしよう。
もしその仕事を百日やっても一万円しか給料が支払われないとしたら、それでもあなたは納得できるだろうか。
因果の道理はあくまで三世を貫くのであって、九十九人殺した分の報いは必ず未来世で受けねばならないのだ。
余談になるが、私は死刑制度には反対である。死刑肯定論者の根底にあるのは「殺られたら殺り返せ」の報復主義である。
この報復主義こそ因果の道理の精神と真っ向から対立する思想である。確かに殺った者は殺り返されて当然であり、それが「因果応報」の摂理である。
しかし、殺られた側からすれば殺り返すのが当然ではない。この二つを断じて混同してはならない。もし殺り返したならば、それが悪因となってまた殺られることになり果てしなき悪循環に陥っていく。
報復主義こそ全人類を惑業苦の泥沼に陥れる最悪の思想である。
銃社会の問題にしても、国家間の戦争にしても、諸悪の根源は報復主義である。
「あんな凶悪な人間が死刑にならないなんて納得できない」と思うのも無理はないが、たとえ死刑制度がなくても、やがて必ず悪果を受けることになるのだから、人為的に悪果を受けさせる必要はない。
それよりも「人為的に悪果を受けさせる」ために国家が人殺しをすることの方がよほど問題である。

「いかなる理由があろうと殺人の罪は重い」と死刑肯定論者は言う。全くその通りだ。
では、殺す相手が殺人犯で殺す側が国家であるという理由ならば「いかなる理由」に含まれないのだろうか。

殺人の罪の重さの見せしめのために国家が殺人をする。これほどの矛盾があるだろうか! これでは説得力ゼロであって、「場合によっては人殺しをしてもよい」と国民にアピールしているようなものである。

これでは、凶悪犯罪の抑止どころか逆効果である。「国家が」殺すというと抽象的で責任がうやむやになるが、国家を構成しているのは一人一人の国民であるから、死刑制度を支持する国民全員が人殺しをしていることになる。また、死刑を実際に執行する仕事をさせられている人も余りに気の毒である。上官の命令で人殺しをせねばならない兵士や、教祖の命令で毒ガスをまかねばならなかった某宗教団体の信者の立場と、どこが異なるだろう。なんと野蛮な制度だろう。

「どうせ人間一度は死なねばならないのだから」と開き直ってしまった人間にとっては、死刑制度は何の歯止めにもならない。本当に凶悪犯罪を抑止しようと思うならばやはり、三世因果を、国民全員いや全人類に徹底するしかない。それが世の中を、ひいては世界を平和にする唯一の道であると私は信ずる。

報復主義に関連して一つの歴史上の事実がある。
法然上人の父、漆間時国が政敵であった源 定明の夜襲により横死をとげる時、一子勢至丸(のちの法然上人)があだ討ちを誓った。
その時、「勢至丸よ、私が非業の死を遂げるのは私自身の前世の業縁によるものだ。
もしそなたがあだ討ちをしたならば、あだの子は今度、そなたをあだとねらって、あだ討ちは幾世代にもわたって絶えないであろう。

愚かなことだ。父の事を思ってくれるのなら、出家して日本一の僧となって、菩提を弔ってくれ…」と時国は言い残して死んでいった。
実際にそういう場面に遭遇した時、そのようなことはなかなか言えるものではないが、それが言えたのは何とすばらしいことだろう。

話を戻そう。
昔中国に、顔回という孔子の門弟がいた。
彼は大変な人格者であったが、極貧な生活で、しかも若死にした。一方、盗跖という大泥棒は悪事の限りを尽くしながら、富貴栄華を極めて死んだ。
孔子は、この二人の人生を対照して「あゝ、天道、是か、非か」と嘆息している。このようなことは、我々の身辺には、いくらでもある。

いくらまじめに仕事をしているからといって、必ず成功するものでもないし、悪人だからといってて、必ず不成功に終わるとも言い切れない。善人の失敗者も多いが、悪人の成功者も少なくない。だから「正直者はばかをみる、やりたい放題やりちらせ」と自暴自棄になる人もいる。
このように、世の中は不平等としか思えない事柄で満ちているがどういうわけなのだろう。この疑問は三世因果を知れば一挙に氷解する。

すなわち、顔回が不幸な一生を送ったのは過去世の行いが悪かったからであり、一方、盗跖の悪事の報いは必ず未来世に待ち受けているのである。
このように因果の道理は、三世因果となって初めて完結したものになるのである。

よく、この世の悪行の報いを死んでから受けると仏教が説くのは悪いことをさせないための手段であって実際にそんなことがあるはずはない、と言う人がいるが、それがいかに暴言であるかは、これまで述べてきたことが分かれば理解できるはずである。   

「正直者で失敗するのは、正直のために失敗するのではない。他に事情があるのである。不正直で成功するのは、不正直で成功するのではなく、他に事情があるからである。」 
(三宅雪嶺、評論家)

この章を終える前に、付け加えておきたい重要事項がある。
それは「無我説」である。無我には「人無我」と「法無我」の二つがある。そのうち「法無我」は「諸法無我」のことであるからすでに説明した。
ここでは「人無我」について説明しよう。
人無我の「我」とは「常一主宰」なるものと定義されている。「常一」とは常かつ一ということで、変わらないもの、永遠に自己同一を保つものである。「主宰」とは主体である。したがって「人無我」とは固定不変な〈私〉は存在しないという意味である。

そもそも〈私〉とは何か? 

この肉体全体が〈私〉でないことは明らかである。
なぜなら、もしそうなら、つめや髪の毛を切ったなら、あるいは手や足を失ったなら、〈私〉が減ることになるからである。では、この肉体の一部分に〈私〉がいるのか?
もしそうならどこにいるのか? 
脳の中か? 

しかし、脳はあくまで物体であって、脳をどれだけ分析してもそれは物体としての機能が解明されるだけであって、どこにも〈私〉なるものを見いだすことはできない。
結局、〈私〉がどこかにあるという考えは行き詰まってしまう。
それをとうの昔に見抜いて、仏教では人無我と教えられたのである。
では我々が普通〈私〉と呼んでいるものは一体何か? それは「仮我」言われ、本来は存在せず仮に「我」と呼んでいるにすぎないとされている。なぜか? それは「五蘊仮和合」だからと教えられている。「五蘊」とは「色蘊」「受蘊」「想蘊」「行蘊」「識蘊」の五つであり、要するに、物質的要素と精神的要素のすべてである。

したがって「五蘊仮和合」とは、さまざまな物質的要素と精神的要素の組み合わせ上に仮に〈私〉という概念を設定しているにすぎないという意味である。
そしてさらにそれらの物質的要素や精神的要素も本来存在しないというのが法無我であって、それらはみな〈私〉の阿頼耶識によって生み出されたものであることはすでに述べた通りである。

ただここで「〈私〉の阿頼耶識」と言ったのは決して「〈私〉が所有している阿頼耶識」という意味でないことに注意していただきたい。「〈私〉を生み出している阿頼耶識」という意味である。

もちろん、阿頼耶識自身も固定不変なものでない。
そのことを世親(ヴァスバンドゥ)は『唯識三十頌』に「恒転如暴流」(恒に転ずること暴流のごとし)と説いている。
「暴流」とは滝のような激しい水の流れをいう。
滝を遠くから眺めると、一枚の布を垂れ下げたように見えるが、しかし実際には「滝」というものを取り出すことはできない。
我々が「滝」と呼んでいるのは、水が激しく落下しているその状態をさして言っているにすぎないからである。

阿頼耶識は一瞬一瞬、生じては滅し生じては滅しを繰り返しながら相続してゆく。
そうやって阿頼耶識の中の情報(種子)が受け継がれてゆく。
だから現在の阿頼耶識と未来の阿頼耶識との関係は「不一不異」と言われる。
一瞬一瞬に生まれ変わっているのだから同一ではない。
それが「不一」の意味である。しかし、変化しながらも相続し、種子が連鎖しているのだから、全く異なっているわけでもない。
それが「不異」である。

ビリヤードで、赤玉の速力とその方向は必ず白玉の動く方向と速力とを決定する。
だから赤玉と白玉は同一のものではないが、その間に密接不離な関係があるようなものである。
〈私〉は阿頼耶識によって生み出されているのだから、現在の〈私〉と未来の〈私〉とが不一不異であると言ってもよい。
〈私〉は心身ともに常に変化しているのだから、そういう意味では時間がたてば別人であるとも言える。

だからといって借金の返済を要求された時、「借りた時の私と今の私とは別人だから、借りた時の私に要求してくれ」と言っても通用しないし、「試験を受けるのは明日の私だから、今日の私には関係ない」などと言っていたら、ひどい目にあう。
そういう意味ではやはり同一人物なのである。
阿頼耶識はそのように常に変化しているにもかかわらず、それを固定不変な〈私〉だと思い込んでいる心が奥底にある。
それが実は末那識なのである。すなわち末那識とは潜在的自我意識である。そのように「〈私〉がいる」と思うところから「これは私のものだ」と、さまざまなものに対する執着を常に起こしているのである。仏教が否定する常一主宰なる「我」とは「霊魂」と言ってもよい。すなわち無我説はそのまま無霊魂説である。
仏教以外の宗教で「死後の世界」を説くものはたくさんあるが、それらはみな、この世とは別にどこかにそういう客観的世界が実在していて死ねば霊魂がそこに飛んでゆく、という発想をしている。
仏教ではそのような見解を「有の見(常見)」と呼んで徹底的に否定している。
それと同時に、死ねば何もかもが無になるという見解を「無の見(断見)」と呼んでこれもまた否定している。それを示す経文が『阿含経』の「因果応報なるがゆえに来世なきに非ず、無我なるがゆえに常有に非ず。」

である。また親鸞聖人の『正信偈』には、「龍樹大士出於世 悉能摧破有無見」

とある。これは、龍樹(ナーガールジュナ)によって有・無の邪見がことごとく論破されたという意味である。

では仏教で過去世や未来世が存在すると説くのはどういう意味なのか。
次のように考えればよい。「昨日の世界」や「明日の世界」は今日はどこにもない。
しかし確かに昨日、〈私〉にとって世界が存在していたのだし、また、明日になれば〈私〉にとって何らかの世界が存在することになる。
明日になれば〈私〉の阿頼耶識は〈私〉にとっての世界を生み出すのである。
それを「明日の世界」と呼んでいるのである。それと同様に「過去世」や「未来世」が現在どこかにあるのではない。
しかし死ねば〈私〉の阿頼耶識が〈私〉にとっての何らかの世界を生み出すのである。それを「未来世」と呼んでいるのである。
「過去世」も同様である。
したがって、仏教でよく「六道輪廻」と言われるのは、断じて、客観的世界が六つ実在していて霊魂がそれらの世界をルーレットのようにぐるぐる回るという意味ではない。
〈私〉の阿頼耶識が因果の道理にしたがって念々刻々と〈私〉にとっての世界を生み出してゆくことが「輪廻」であり、生み出される境界を大きく六つに分類したものが「六道」なのである。

では、〈私〉の過去世や未来世はどんな世界なのだろうか。『因果経』には、

「過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ、
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ。」

と説かれている。
三世因果の教えを一言で言えばそうなる。
したがって、過去世・未来世は現在世に収まってしまう。
しかしながら、過去世・現在世・未来世の三世は、縮めれば去年・今年・来年であり、もっと縮めれば先月・今月・来月であり、さらに昨日・今日・明日、前の一時間・今の一時間・今からの一時間、前の一分・今の一分・今からの一分、吐いた息・今の一息・吸う息となって、結局、三世は現在のこの一念(一瞬)に収まってしまう。逆に、現在の一念を引き伸ばせば三世になる。現在の一念の中に、悠久の過去と永遠の未来とがすべて収まっているのである。だから、

「現在の一念における自己の相を徹底的に凝視せよ」

これが三世因果の教えの結論である。

 
 
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