人生哲学と仏教 第四章 「唯識の骨格@」
 
 

第四章 唯識の骨格@


本章では、唯識学について概説する。

「唯識」とは文字通り、「ただ、識のみ」という意味であるが、「識」とは何か。日常使われる「心」という言葉と同じ意味なのだろうか。だとすれば「唯識」とは前章で否定した「唯心論」と同じになり、話が振り出しに戻ってしまう。この辺の疑問について、『唯識の探究』(竹村牧男著、春秋社)では、次のように明快に答えられている。

「唯識というと、何か心というものがあって、それが世界を産出するのみという「唯心論」のようなものと思われやすい。しかし唯識は、物−心二つに分けられたその一方の心のみにすべてを帰すような思想ではない。むしろ、物とか心とかがいわれる以前に、色が見えていたり、音が聞こえていたり、何かが考えられていたりする、その事実そのことを識で表し、ただその識のみがあり、物や心(もしくは我)などはその事実の上に後から仮に立てられているにすぎないのだ、ということを唯識は説くのである。
それは、原初にある「事」の世界の一つの論理化の形であり、したがって根本的には「事的世界観」なのである。」

現代になって「〈もの〉から〈こと〉へのパラダイム転換」が叫ばれるようになったことを前章で述べたが、まさしくそのような世界観(事的世界観)が、仏教ではすでに古来から説かれていたのである。これは驚嘆すべきことだ。

唯識学では「〈私〉にとって〈世界〉が存在する」ことを成立せしめている根源体を「阿頼耶識」という。
「物」も「心」もともに、この阿頼耶識によって表され(生み出され)ているにすぎず、そうでないものは何もない、というのが唯識学の根本命題で、「唯識無境」と一言で表現される。ここでは「物」と「心」とは全く同一の地平において論じられている。
まさに「色心不二」である。ここにこそ、物心二元論を超克した世界観、「識一元論の哲学」を見ることができる。
一切が阿頼耶識によって生み出されているということは、もし阿頼耶識がなければすべてが「無」であることになる。
それが「無境」の意味であるが、なぜそこまで言い切れるのか。

唯識無境の論証には、しばしば「夢のたとえ」が用いられる。
これは第三章の現象学の説明で引用したものとそっくりである。すなわち、夢は夢の中の自分にとっては「現実」としか思えないにもかかわらず実際には非現実であるように、今自分の見ている世界がどれほど確固たる「現実」と思えても、それが本当に現実である保証はどこにもない、という論法である。
ここで問題になるのは、「現実である保証はない」と「非現実である」の違いである。
夢が夢と分かるのは夢から覚めた時である。言い換えれば「夢の世界」から出た時である。同様に、今自分の見ている世界が「非現実である」と断言できるためには、その世界よりも一つ次元の高い立場、すなわち超越的な立場に立たねばならない。
しかしそれは原理的に不可能である。(もし自己の認識を超えた立場に立つことができたならば、その時点で「認識を超えた」立場でなくなってしまうからである。)したがって「夢のたとえ」から人間の理性で判断できるのは「現実である保証はない」が精一杯であって、「非現実である」とまでは断定できない。ところがそれを断言した命題が「唯識無境」なのである。これは一体どういうことなのだろうか。

そもそも、唯識学は仏教の学問である。仏教は仏(仏陀)の教えである。そして、仏とは「覚った人」「覚者」の意味であり、「夢のたとえ」で言えば文字通り「覚めた人」なのである。
だから唯識学は、我々にとっての「現実の世界」を超えた立場から説かれている学問である。
しかし、「だから人間の理性では理解できない」ということでは、学問としての存在意義がない。
超越的な真理を最大限、論理的・理論的に納得させようと努めてこそ、学問が成立するのである。そして実際、そのような努力の結晶として築き上げられた学問体系が唯識学なのである。「夢のたとえ」によって分かることは、今自分の見ている世界が「現実である保証はない」が精一杯なのだが、それによって少しでも「非現実である」という命題に対する信憑性が高まれば、このたとえが用いられた意図は十分に果たされていると言えよう。同時に言えることは、我々が超越的な立場に立つことはいずれにせよ不可能なのだから、「非現実である」かどうかまで問題にする必要はそもそもないということである。
仮に、世界が自己の認識とは独立に「実際に」存在するとしても、〈私〉にとって存在する世界は〈私〉が認識した限りの世界なのだから、認識外の世界はたとえ有っても無きに等しい。そういう意味で「無い」と断言して何らさしつかえないのである。(これは言わば唯識学の「現象学的理解」である。)

さて、「夢のたとえ」の説明のところで、「今自分の見ている世界がどれほど確固たる『現実』と思えても、……」と述べたが、そもそもそこで言っている「確固たる『現実』」が、そんな「確固たる」ものではない。仏教の旗印である「三法印」(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)にうたわれているよ
うに、諸法は無我である。つまり、いかなる存在も実体を有しないのである。

「引きよせて結べば柴のいおりにて 解くればもとの野原なりけり」

この歌の意味するところは、「いおり」というものは本来存在せず、引きよせて結んだときに仮にそこに「いおり」があると言っているだけだということである。
もっと身近な例で言うなら、今ここに自転車があるとしよう。
では本当に「自転車」というものがあるのだろうか。いや、そうではない。自転車といっても、ハンドルやサドルや車輪などの組み合わせに過ぎない。
それらの部品がうまく組み合わさって、いわゆる自転車としての役目を果たすものとして存在しているとき、そこに「自転車」があると言っているにすぎない。では、ハンドル・サドル・車輪などの部品は真の意味で存在しているのだろうか。
これも否である。例えば車輪はさらに、タイヤ・ホイール・軸などに分解できる。このように、我々が常識的に「有る」と思っている一切のものが、いくつかの要素の和合体に過ぎず、そのもの自体が真に「有る」のではない。
(このことを仏教で「仮和合」という。) そしてさらに、それらの各要素についてもまた同じことが言える。この論法を繰り返していくと結局どうなるのだろうか。

仏教では物質の最小単位(それが真に存在するかどうかはともかく)を仮に「極微」と呼ぶ。では、極微こそが真の実在だと説かれているのかというと、決してそうではない。
そもそも、極微などというものを想定すること自体が間違いだと説いているのである。
それは次のような論法による。もし、極微というものが存在するなら、それは大きさを持つか持たないかのいずれかである。
もし大きさを持たないとするならば、それがいくら和合しても大きさを持つことができないから、具体的事物を構成することはできない。
ゆえに、大きさを持たねばならない。
しかし、大きさを持つならば、それはさらに分割可能であるから、もはや「極微」とは言えない。(極微はあくまで「最小単位」と定義されていた。)
だから「極微」なる概念は形容矛盾なのである。
以上のことを数学的に言うなら、「最小の正の数」は存在しないと言っているのと同じことである。
どんなに小さな正の数を持ってきても、その数の二分の一はその数よりさらに小さな正の数である。だからいくらでも小さな正の数が存在するのであって「最小の正の数」というものは存在しない。もちろん、ゼロは正の数ではない。

物質の最小単位については、古代ギリシャのデモクリトスに始まり今日まで、あくことなき科学的探究がなされ、それがついに現代の素粒子物理学へと発展したのは周知のことであるが、「物質の最小単位は存在しない」という仏説は、一見、今日の科学と相反するように思える。なぜなら、科学には「原子」や「分子」といった概念があるからである。しかし、現代の素粒子物理学によれば、原子はさらに、原子核と電子に分かれる。原子核は陽子と中性子に分かれ、さらに陽子も中性子も「クオーク」と呼ばれるものから構成されている。

一方、電子は「レプトン」と呼ばれるものの一種である。つまり、万物を構成しているのは「クオーク」と「レプトン」であるというのが物理学の最先端の知見である。
ところが実は、(ここが肝心なのだが)クオークにしてもレプトンにしても生成したり消滅したりするものであり、したがって真の実在とは言えないとのことである。したがって、話を元に戻すなら、我々の認識している一切の物は本当の意味で実在するとは言えないことが現代科学によって証明されたと言ってよいだろう。このことは、「一切は仮和合であり、どれだけ分割しても〈実体〉には到達しない」すなわち「諸法無我」の仏説と、見事に一致する。

ここまでのことをたとえて言うなら次のようになる。テレビの映像は、赤・緑・青の点滅する「点」の組み合わせにすぎない。ところがそれを見て、我々はその映像の中に人や物が有ると錯覚する。我々がありありとした「現実」と呼んでいる世界も、ちょうどそれと同様である。「確固たる『現実』」と言えない理由は実にそこにある。

結局、我々が「これはいおりだ」「これは自転車だ」と意味付けあるいは概念設定(仏教では「仮設」という)している限りにおいて、そこに「いおり」や「自転車」が存在しているにすぎないのである。

ではその「意味付け」の仕方は自分の意志でどうにでもできるのだろうか。答えは否である。自己の在り方に応じて、意味付けの仕方は決められてしまっている。これを教えたのが有名な「一水四見」の譬えである。一水四見とは、同一の水でも天人は「ルリ」と見、人間は「水」と見、魚は「住みか」と見、餓鬼は「炎」と見る、という譬えである。

このことは、何も「天人」や「魚」や「餓鬼」を持ち出さなくても同様である。
要するに、自己の在り方(ハイデッガーの言葉を借りるなら「存在可能性」)に応じて、自己の認識している一切の物に対する意味付けの仕方が決まることを言ったものである。
したがって、自己の在り方が変われば、意味付けの仕方も変わって、そこにある物はもはや「別物」である。
しかしまた、自己の在り方が変わらない限り、そこにある物を「別物」とどれだけ思おうとしても思えるものでないし、もちろん「無い」と思うこともできない。「一切は自己の阿頼耶識によって生み出されたものにすぎない」「唯識無境」とは、今まで述べてきたような意味である。

唯識学では阿頼耶識による「生み出され」方に、二通りあると説く。
一つは「分別変」、もう一つは「因縁変」である。「分別変」のものとは、意識が生み出した幻影である。(「意識が生み出した」といっても、意識も阿頼耶識が生み出したものであるから、根本的には阿頼耶識が生み出したことになる。)
「因縁変」のものとは要するに、意識の働きでは、消すことも「別物」と思うこともできないものをいう。
だから、もし唯識学が「分別変」のみを説いて「因縁変」を説かないとするならば、確かに唯心論・観念論と同じになってしまうが、「因縁変」を説いているところに唯心論・観念論との決定的な相違点がある。ただ確かに、唯識が「唯心論」と呼ばれることもあるし、唯識学がよりどころとしている経典の一つである華厳経にも「三界唯一心、心外無別法」という言葉がある。
しかし、そこで言う「心」とは阿頼耶識を指すのであって、常識的な意味での「心」とは全く異なる。
だから誤解をさけるために、私はあえて「唯心論ではない」という言い方をした。

ついでに言っておくならば、随所に述べてきた通り唯識学はフッサールやハイデッガーの存在論とある意味で似ている。
しかし相違点もある。フッサールやハイデッガーの存在論は、心理学的に見ればあくまで「意識」のレベルにとどまっている。
ところが後述するように、阿頼耶識はフロイトやユングの言うような「深層心理」としての側面を含んでいるから、唯識学では「意識」よりも心理学的にずっと深いレベルで存在論が展開されている。ここが相違点なのである。したがって、より深い意味で唯識学に近い学問となると、ハイデッガー哲学と深層心理学とをうまく掛け合わせたような学問を考えねばならない。
しかしそれでもなお、唯識学から見れば、理論のほんの一部分を表すことにしかならないであろう。それほどの深遠な哲理が仏教に説かれているのだから(再三言っているように)驚嘆せずにおれないのだ!
さて、一切は阿頼耶識によって生み出されたものであると述べてきたが、唯識学では、一切の存在(諸法)を百種類にまとめ、さらにそれらを五つに分類している。これを、「五位百法」と言い、次の通りである。


心王---眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識

心所---遍行(作意・触・受・想・思)・別境(欲・勝解・念・定・恵)・善(信・勤・
慚・愧・無貪・無瞋・無痴・軽安・不放逸・行捨・不害)・煩悩(貪・瞋・痴・慢・
疑・悪見)・随煩悩(忿・恨・悩・覆・誑・諂・驕・害・嫉・慳・無慚・無愧・不信・
懈怠・放逸・こん沈・掉挙・失念・不正知・散乱)・不定(睡眠・悪作・尋・伺)

色---眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・色境・声境・香境・味境・触境・法処所摂色 

不相応行---得・命根・衆同分・異生性・無想定・滅尽定・無想事・名・句・文・生・
老・住・無常・流転・定異・相応・勢速・次第・方・時・数・和合・不和合

無為---虚空・択滅・非択滅・不動・想受滅・真如


以上が五位百法であるが、まずこれらの概略のみ説明しよう。

「心王」とは心の中心体である。これに八種あるので、「八識」と言われる。
そのうち最初の五つを「前五識」と言い、現代的に言えば、順に視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感に相当する。
「意識」は通常の意味で言う「心」である。
「末那識」「阿頼耶識」については後で説明する。「心所」とは正式には「心所有法」と言い、心王が所有する細かい心作用である。
言ってみれば、心を「入れ物」と「中身」にあえて分けたときの「入れ物」に当たるのが心王で、「中身」が心所である。心所の一つ一つの説明は省略する。
「色」とは物質である。そのうち「眼根」から「身根」までを「五根」と言い、前五識を生ずる感覚器官である。
「色境」から「触境」までを「五境」と言い、前五識の認識対象である。「法処所摂色」は意識の認識対象である。

「不相応行」とは正式には「色心不相応行」と言い、物質でも精神でもなく、それらの上に設定された抽象的概念を言う。
言語・方角・時間・数などがこれに属する 。
「無為」は六種あるが最後の「真如」に収まる。
つまり、無為=真如である。
真如とは、いつでもどこでもすなわち時空を超越して成立する真理である。
それに対して不相応行までの四つを「有為」と言う。
有為とは「作られたもの」という意味で現象的存在を言う。
「諸行無常」と言うときの「諸行」とは有為のことであるが、しかし、「諸行無常」という命題自体は無為であり真如であって時空を超越して成立するのである。
したがって決して無常ではない。この例で有為と無為との違いが鮮明になったであろう。
以上の五位百法がすべて阿頼耶識によって生み出されていると主張するのが唯識学であるが、ではその仕組みをどのように解明しているのであろうか。
それを説明するには、ある重要な教説を避けて通るわけにいかない。
唯識学では、八識の一つ一つがみな「相分」「見分」「自証分」「証自証分」の四つの領域から成り立っていると説く。
これを「四分」と言う。四分説は、唯識学の中で大変重要な位置を占める。なぜこのように心を四つの領域に分けるのだろうか。このことは古来、次のようなたとえで説明されてきた。
物差しで何か物の長さを量るとき「量られる物」と「量るもの」すなわち物差しとがある。しかしそれだけでは不十分であり、それを何センチと理解する心がなければならない。
そして寸法を理解したならばそれをノートに書き込むものとしよう。この譬えで、量られる物に当たるのが相分、物差しに当たるのが見分、寸法を理解する心に当たるのが自証分、寸法を記帳するのが証自証分である。相分はいわゆる客観であり、見分は主観であるが、認識は客観と主観だけでは完結しない。
客観と主観との上に起こる認識作用をさらに確認するはたらきがなければならない。
それが自証分である。となると自証分の作用を確認するはたらきもなければならないことになる。それが証自証分である。
いわゆる「自分を高い所から見ているもう一人の自分」がいるのである。
この論理を進めていくと、証自証分の作用を確認する第五の領域、さらに第六の領域……と、無限遡行に陥ることになりそうだが、実は証自証分の作用を確認するのは自証分であると説かれている。つまり、自証分と証自証分とはちょうど、合わせ鏡のような関係になっている。二枚の鏡を向かい合わせると、それぞれの鏡の中に無限に多くの鏡があるように見えるが、実際に存在する鏡はあくまで二枚である。それと同様に、一つの認識が成立するのに必要な心の領域は無数にあるように思えるが、実際には四分で完結するのである。

四分は、ある一つの認識の四つの作用にすぎず、四種の心の実体があるのではない。
そもそも心とは、物を知るはたらき・作用そのものである。ただ、四分の中で特に自証分が中心的存在となっているので、それを心の本体とみなし「自体分」とも言う。相分と見分の二分はともに自体分が変化することによって生ずる。このことを、「自体転じて二分に似る」と表現する。つまり、自体分が一方は客観に他方は主観に分化し、その二元的対立の上に認識作用が成立するのである。さていよいよ、五位百法がすべて阿頼耶識によって生み出されていると、なぜ言えるかについて説明しよう。まず心王すなわち八識についてであるが、阿頼耶識以外の七識は阿頼耶識の中の「種子」が変化することによって生ずると説かれている。(種子については後述する。)心所は心王が思う内容であって、心王と別にあるのではない。

色が一番問題なのだが、まず阿頼耶識の相分として「種子」と「有根身」と「器世間」が存在する。
有根身とは身体・肉体であり、器世間とは自然界・環境世界である。したがって、肉体も自然界も阿頼耶識の自体分が変化して生じたものということになる。
そして、色の中の五根は「根を有する身」である有根身に備わったものである。一方、五境および法処所摂色は、前五識および意識の相分であり、器世間の「影像」として存在する。
不相応行は、色と心の上に仮に立てられたものにすぎない。無為は、色と心と不相応行との真実の相である。
以上の理由で、一切は阿頼耶識によって生み出されていると言えるのである。
さて、ここでいよいよ第三章で予告した通り、死後の世界の有無について論ずる。

もし、唯識学の教説を全面的に受け入れるのであれば、話は簡単である。第三章で述べたように、「死」とは「肉体の状態が或る一定の限度を超えて変化すること」であるが、肉体は阿頼耶識によって生み出されているものであるから、肉体がどのように変化しようとも、阿頼耶識が念々に相続しているという事実には何の影響も与えない。ゆえに、阿頼耶識は死後も相続する。阿頼耶識は「〈私〉にとって〈世界〉が存在する」ことを成立せしめている根源体であり、それが死後も相続するのであるから、死後も〈私〉にとって(何らかの)世界が存在することになる。すなわち、死後の世界は(〈私〉にとって)存在する。

このことを唯識学を前提とせずに説明するなら次のようになる。〈私〉にとって存在している世界の内容は刻々と変化しているにもかかわらず、そのように「〈私〉にとって〈世界〉が存在する」こと自体は常に相続し全く変化していない。しかるに、死とは肉体の変化であり、肉体の変化は〈私〉にとって存在している世界の内容の変化であるから、それは「〈私〉にとって〈世界〉が存在する」こと自体には何の影響も与えない。
ゆえに、死後も〈私〉にとって(何らかの)世界が存在するのである。

このことをたとえて言うと、「〈私〉にとって〈世界〉が存在する」という現象はテレビ画面に(何らかの)映像が映っていることに相当する。そして、〈私〉の経験する一切の出来事は、その映像の中での出来事である。
したがって〈私〉が死ぬことも、映像の内部のことである。

しかるに、映像の中でどんな出来事が起きようとも、それによって映像そのものが消えるということはありえない。
それと同様に、「〈私〉にとって〈世界〉が存在する」という現象が、その現象の内部で起きる出来事が原因で、消えることはありえないのである。
もし、映像を消そうとするなら、映像の外の世界に出てテレビのスイッチを切るなり、テレビを壊すなりしなければならない。
しかし、それに相当することは現実にはできない。〈私〉は〈私〉にとって存在している世界の内部に閉じ込められている(世界内存在)のであって、超越的な立場には立てないからである。
〈私〉が死ぬことも、まぎれもなく、〈私〉の世界(〈私〉が生きている日常的世界)の内部で突如起きる出来事であって、決して〈私〉の世界を超越した得体の知れないところから漠然とやってくるものではない。だから、死によって「〈私〉にとって〈世界〉が存在する」という現象が消えることはありえないのである。

我々はふだん、自分の見ているこの世界こそが確固たる現実であり、自己の認識と無関係に客観的に存在しているものと堅く信じ込んでいる。

すなわち、この世界を絶対視している。だから「〈私〉の見ている世界は〈私〉の阿頼耶識の生み出した固有の世界である」という視点に立つことができず、それゆえ第三章からここまでの話がなかなかピンとこないのである。
ところが、自分の死を自覚したとき様相が一変する。自己の周りに存在する一切のものは、自分が死ねば自分にとってはなくなってしまうという真実に目覚める。
すると、自分の見ている世界は、決して絶対的なものではなく、夢・幻のごときものであり、〈私〉が生きている間だけ〈私〉にとって存在しているにすぎないと気付く。

自分の死を自覚することによって初めてそのような「世界観のコペルニクス的転回」が起こり、フッサールやハイデッガーの言う世界観、ひいては仏教的世界観の真実性が(特別に理屈をつけなくても無意識のうちに)知らされるのである。このことを竹田青嗣氏は『現代思想の冒険』の中で、「〈死〉の観念は、人をいわば実践的な(理論的なではなく)独我論者かつ実存主義者にするのだ。」と述べている。

そもそもハイデッガーが、日常性における人間の在り方を「非本来性」と呼び、死の事実を自覚した在り方を「本来性」と呼んだのも、人間は自己の死を自覚して初めて物事の正しい判断ができると言いたかったからではなかろうか。
人はだれでも、今自分の見ているこの世界が、あるとき突然パッと消えることなど絶対にないと無意識のうちに認めている。だからこそ、その思いが平生は「自分は永久に死なない」という思いに結び付いている。ところがやがて死に直面し「永久に死なない」という思いが根底から覆された時、それでもなお自分の見ている世界がパッと消えるなんてことは信じられない。そうなると、自分は死ぬけれども自分にとっての世界はなくならないと思わざるをえない。

すなわち、死後の世界を認めざるをえなくなるのである。

実際、平生は「死後の世界なんて有るはずがない」と言っていた人が臨終に「私は死んだらどうなるのか」と真剣に周囲の人に問い掛けるようになったという例は枚挙に暇がない。
「死後はない」という信念を最後まで貫くことができたのであれば「死んだらどうなるか」を問題にする必要はないはずである 。
「死後の世界」と聞くと神秘的で信じられないと思うのが普通だが、よくよく考えてみると、「この世」が存在することもある意味で神秘以外の何物でもない。
そういう神秘的な出来事が実際に現在起きているのだから、死後に起きても何らおかしくはない。
むしろ(再三言っているように)パッと消えることの方がよほど不自然である。
また「この世」の存在を神秘でなく当然の出来事と思うのであれば、「死後の世界」の存在も当然の出来事と言えるはずである。
そうでなければ論理に一貫性がない。さて、私がここまでで言いたかったことを仏教学者のひろさちや氏は非常にうまく表現しているので、引用しておこう。

ときどき、死後の世界など存在しないと、したり顔をして言う人がいる。あれはお笑いぐさである。全然わかっていない人である。
死後の世界が本当に「ない」とわかったら、普通の人間であれば、まずは発狂するだろう。
これほど恐ろしい観念はない。いま、自分はここに生きている。生きて存在していると思っている。それが、ある一瞬ののちにまったくの「無」になってしまうのだ。そんなことが本当に信じられたら、わたしなどは生きていけない。なんのために生きているのか、わからなくなる。それを信じて、気が違わないでいられる保証はない。死後の世界は「ない」としたり顔で言う人は、彼自身それを信じているわけではない。
ただなんとなく、死後の世界はありそうにないなあ……と思っているだけだ。それが証拠に、その人も肉親や知人の葬儀を営み、そこに列席する。死後は「無」になるのであれば、葬儀など不要である。
たいていの人は、自分というものがこのままいつまでも相続するものだと思っている。死後の世界は「ない」とは言うが、それはなまじな科学的知識なるものに毒されて、「ない」と言っておくほうがつじつまがあいそうだと思っているにすぎない。ある日突然、「自分」というものがパッと消え去る。
どこにも「自分」がない。そんな状態をまともに信じている人などいない。
人間というものは、いつも「自分」の連続性を思っている。なんとなく、「自分」というものが続いていくように思っている。
無意識のうちに、そう思っているのだ。       
(『どの宗教が役に立つか』)


さて、ここまでは、死んだ後の世界について、「〈有〉から〈無〉は生じない」という論理で話を進めてきたが、生まれる前の世界も同様に、「〈無〉から〈有〉は生じない」という論理で、やはり存在すると言える。

仏教では生まれる前の世界を「過去世」、生まれてから死ぬまでの世界を「現在世」、死んだ後の世界を「未来世」と言い、この三つを「三世」と言う。過去世があると聞くと「記憶にないじゃないか」と思うかもしれない。確かに記憶にはない。しかし、「記憶にない」ことと「無い」こととは違う。
生まれてからものごごろをつくまでのことは記憶にないが、かといってその間〈私〉にとってこの世が無かったかというと、決してそうではない。だから「記憶にない」ことを根拠に「無い」とは言えないのである。

仏教では、生まれたと同時にそれまで覚えていたこと(過去世のこと)を忘れてしまうのだ、と説かれておりそれを「即生覚忘」と言う。もし記憶ということであえて言うなら、過去世のことは「意識」は記憶していないが、「阿頼耶識」が過去のすべてを記憶しているのである。(詳細は後述する。)

さて次に、第三章で提起した二番目の問題である「死後の世界はどんな世界か?」について考察することにしよう。
そしてそれには、死後に限らず一般に、我々の幸・不幸といった「境遇」は、何によって決まるのかについて考えねばならない。
これについて、大きく分けて四通りの見解がある。それは、

・偶然論
・自由論
・運命論
・因果論

である。

まず偶然論であるが、これは一切の現象には何ら規則性・法則性はなく、ただすべてが偶然に起きるという考えである。こ

れは無知の代名詞であり、理論上からいっても実践上から考察しても何ら意味も価値もない迷妄だと言わなければならない。
確かに、ある出来事が「偶然に」起きたという言葉遣いをすることがよくあるが、それは、どういう因果関係でそうなったのかがあまりに複雑で、単に「分からない」だけである。
次に自由論であるが、これは我々の境遇は自分の意志でどうにでもできるという考えである。我々にはできることとできないことがあるのだから、これは大変極端な見解である。自由論は、自分の心の持ちようで何でもできると言うのだから、観念論でもある。


運命論とは、我々がどんな出来事、どんな境遇に出くわそうとも、それらはすべて「運命」であり、そうなることは「神」の意図や自然法則などによってあらかじめ決定していたのだ、という考えである。

これを別名「アキラメ主義」と言う。我々は今より少しでも幸福になれるようにと日々さまざまな努力をしているが、運命論によれば、我々がどう頑張ってみても「運命」を変えることは絶対に不可能なのだから、努力というものはすべてムダ・無意味になる。

これはおかしい。
ところが運命論者はこう反論するのである。「『努力が報われた』といっても、そのように努力しようと思ったこと自体が運命だ」と。
つまり、運命論者は「自由意志」の存在を一切認めないのである。
人間に「自由意志」は有るか無いか? これは難問である。確かに、森羅万象の出来事が自然法則によって完全に決定されるのであれば、そこに自由意志が介入する余地はない。
しかし、自然法則(物理法則)から言っても第三章で述べたように、ミクロの世界では「不確定性原理」によって、決定論は否定されているのである。
だから、物理学から言っても、自由意志が無いとは断定できない。
では、自由意志が「有る」と証明できるのか、すなわち、物理的に不確定な部分と人間の自由意志とがうまく対応しているのかどうか、が問題になるが、これは今なお専門家たちを常に悩ませ続けている超難問であり、未解決問題である。だからそれについて、門外漢である私にはとやかく言う資格はない。
ただ私は、ここにおいてもやはり「現象学的態度」を取るべきであると思う。
すなわち、我々が自由だと思っている意志が、客観的に見て本当に自由なのかどうかは分からない。
しかしそれは、少なくとも〈私〉にとっては自由なのだから、それでよいではないかと。そもそもすべての物事は、根本的には「〈私〉にとってどうか」だけが問題なのである。客観的に見たならばどうかは分かりえないし分かる必要もない。
これが現象学的態度であり、第三章で詳しく論じた通りである。だから、自由意志は
「有る」と断言して何ら差し支えない。
未来については様々な可能性や選択肢があるにもかかわらず、その時になれば「現実」は一つに決まる。運命論とはしょせん、この「結果的に一つに決まる」ことを、「もともと決まっていたのだ」と、すりかえるところから起きる発想にすぎない。
これに関して、おもしろい話がある。「怠け者のパラドックス」と呼ばれているものである。試験には受かるか落ちるかのどちらかである。もしどうせ受かるならば、勉強しなくても大丈夫であり、もしどうせ落ちるならば、勉強しても無駄である。ゆえに、いずれにせよ勉強する必要がない、という話である。なぜこんな奇妙な帰結になってしまう
のか、よく考えてみて頂きたい。

最後に因果論とは何かを論ずる。最初に断っておかねばならないのは、ここで言う因果論とは決して、すべての現象(人間の意志も含めて)が因果の系列によって完全に決定されてしまうという考えではない。もしそうなら運命論と同じになってしまう。運命論と自由論とは両極端な見解であり、いわば時計の振り子のようなものである(偶然論は問題外)。

我々はとかく、法則性を追求するあまり運命論に陥るか、逆に自由意志の存在を重視するあまり自由論に陥るか、どちらかになりやすい。しかしここで言う因果論とは、どちらでもない。自由意志の存在を認め、それを含んだ形での因果律の成立を主張するのが因果論である。
したがって、因果論とは運命論と自由論とを止揚した、より高次の理論なのである。
この因果論に立脚しているのが仏教であり、仏教では因果律を「因果の道理」とか「因果の理法」とも呼んでいる。

因果の道理は、どんな結果にも必ず原因があり、原因なくして結果は現れない、逆に、原因があれば必ず結果が現れるという真理である。
俗な言葉で言えば「まかぬ種は生えぬ、まいた種は必ず生える」ということである。さて、そもそも「原因」とは何か、「結果」とは何か。これについて、論理学では次のように定義されている。

「現象Aが起きるとそれによって必ず現象Bが起きるならば、AはBの十分条件としての原因である。
現象Aによらなければ決して現象Bは起きないならば、AはBの必要条件としての原因である。
AがBの必要かつ十分条件としての原因であるとき、Aを単に原因と言い、Bを結果と言う。」

なぜこんな面倒な話を持ち出したのかと言えば、我々はしばしば因果関係でないものを因果関係であると誤認することがあるからである。その典型が、論理学で伝統的に、「〈この後に、だからこのゆえに (post hoc ergo propter hoc)〉の虚偽」と呼ばれているものである。

これは「Aの後でBが起きた」ことから直ちに、「Aが原因でBという結果が起きた」と推論することである。
確かに原因は結果に先行する。しかし、時間的な前後関係だけで因果関係を認定するのは誤りである。
それには二つの理由がある。一つには、「Aの後でBが起きた」といっても、ごく少数の例についてたまたまそうなっただけかもしれないからである。
こんな単純な間違いが、どういうわけか巷ではたくさんまかりとおっている。
健康食品の宣伝や新興宗教の勧誘の手段は、ほとんどがこれだといってもよいだろう。
「これを拝めば病気が治る」「これを拝めば金がもうかる」などと宣伝し、そして実際にその通りになったという人の体験談を、大々的に言い触らすのである。

その体験談自体も本当かどうか疑わしいが、たとえその「体験」が事実だとしても、そのことから直ちに「どんな人でもこれを拝めば必ず…」というのはあまりに短絡的である。
世の中のすべてのものは常に移り変わっているのだから、何を拝もうと拝むまいと、病気にかかる人もいれば、治る人もある。
お金を失う人もいれば、もうかる人もある。

だから、何かを拝んだ後で、病気が治ったり、お金がもうかったりする人も、中には当然いるだろう。
しかしそれはごく少数の例であって、その裏には全く効果がなかった大多数の人がいるのだ。ところが彼らはそのことに少しも触れず、効果があったと言う人の例ばかりを強調するのである。またそういう「体験」をした当人は、実際にはごく少数の例に自分がたまたま当てはまっただけであるのに、その人にとってはその「体験」は百%確実な事実であるがゆえに、どんな場合でも必ずそうなると信じ込んでしまうのである。

これが彼らの勧誘の手口である。
だます方も悪質であるが、だまされる方も愚かである。では、十分な統計をもとに「Aの後には必ずBが起きる」という法則が認められたならばそれで因果関係が認められるかというと、ところが、それでもなお不十分である。
なぜなら、AとBの両方が共通の原因Cに対する結果かもしれないからである。これが(時間的前後関係だけから因果関係を認定できない)第二の理由である。これについてしばしば引き合いに出される例が、稲妻と雷鳴との関係である。

稲妻は必ず雷鳴に先行するが、決して稲妻が雷鳴の原因なのではない。
稲妻と雷鳴の両方が放電現象という共通の原因に対する結果である。
では一般に、AとBとが因果関係であるか否かはどうすれば区別できるだろうか。
それには単に現象Aと現象Bを観察しているだけでは不可能であって、現象Aを意図的に起こしたらあるいは意図的に除去したら現象Bは起きるか起きないか、それを実験あるいは思考実験で確かめることによって初めて可能になる。

先程の例で言うなら、稲妻と同じぐらい強烈な光を何らかの方法で起こしたらどうなるかを思考実験してみればよい。
稲妻はあくまで光であり、雷鳴は音である。光が原因で音が出るはずはないことを我々は既に知っているから、稲妻は雷鳴の原因でないと判定できる。
そして、科学の発達で放電現象という共通の原因が突き止められたことによって、その判断はより確実なものとなった。
もう一つ別の例を挙げておこう。
風邪を引くと熱が出て、その後で必ずせきが出て止まらなくなる人がいるとしよう。
ではこの場合、熱が出たことがせきが止まらない原因なのかというと、そうではない。なぜなら、もし無理やりその人の身体を冷やして体温を下げたならばせきが止まるかというとそう
ではなく、むしろますます悪化することはだれが考えても分かることだからである。あくまで風邪を引いたことが発熱とせきの両方の原因である。
このように、因果関係を論ずる際には十分慎重でなければならない。
さて、論理学の話はこれぐらいにして、話を元に戻そう。そもそも、因果関係について論じてきたのは、我々の幸・不幸などの「境遇」が何によって決まるかを明らかにするためであって、自然現象・物理現象を解明するためではない。そういうことは、専門家の仕事であって、この本の趣旨とは無関係である。つまり、我々がここで問題とすべきは、我々の境遇についての因果関係である。したがって、「原因と結果」と言うときの「結果」とは、境遇のことである。

では、その場合「原因」は何であるのか。
すなわち、何が我々の境遇を決定するのか。
それは、我々の行為である。このことは、だれもが認めている事実である。
だからこそ、我々は今よりも幸せな境遇に身を置きたいと思った時、いろいろと努力するのである。
「努力」とはすなわち行為である。

「どうすればもっと金持ちになれるか」
「どうすればもっと高い地位につけるか」
「どうすればもっと成績が上げられるか」
「どうすればもっと健康になれるか」

というように我々は常に考えているが、「どうすれば」というのは「行為」であって、それを「金持ちになる」「高い地位につく」「成績が上がる」「健康になる」といった境遇と結びつけて考えているのだから、これは正しく「境遇は行為によって作られる」ことを認めている証拠である。
誰もがそう認めているのだから、これ以上議論する必要はない。
行為と境遇の関係について、仏教では次のように教えられている。

・善因善果
・悪因悪果
・自因自果

まず「因」とはもちろん「原因」であり「行為」のことである。「果」とは「結果」であり「境遇」のことである。したがって、善因善果・悪因悪果・自因自果とは、それぞれ、

「善い行為が善い境遇をもたらす」
「悪い行為が悪い境遇をもたらす」
「自分の行為が自分の境遇を決める」

という意味である。もう少し砕いて言うなら、

「善いことをすれば幸福になる」
「悪いことをすれば不幸になる」
「自分のしたことが自分の幸・不幸を決める」

となる。では、なぜそう言えるのか。

まず「原因」「結果」という言葉の定義から、当然、結果は原因に応じて決まるものだといえる。
すなわち、原因が同じならそれに対する結果も同じであり、原因が異なればそれに対する結果も異なる。
そこで、あらゆる結果を大きく幸福と不幸とに分けたとき、幸福をもたらす行為を「善」と呼び、不幸をもたらす行為を「悪」と呼ぶ。

(これは常識的にも妥当であるし、仏教でもそう教えられている。)だから「善因善果」「悪因悪果」なのである。当然といえば当然である。
(その「幸福をもたらす行為」「不幸をもたらす行為」として具体的にどんな行為が当てはまるかについては次の章で述べる。)

「善因善果」「悪因悪果」を理解する上で大切なのは、「何が善で何が悪か」という議論よりも、結果はとにかく原因に応じて決まるものだという点である。
(この「応じて」というところが重要である。)したがって、一つの行為が、ある場合は善果をもたらし、ある場合は悪果をもたらすということは絶対にないのである。
もし、結果が異なったとすれば、それは原因が異なっていたということである。
逆に、ほんの少しでも原因が異なれば、その分だけ結果も必ず異なる。
そうでなければおかしい。「応じて」と言ったのはそういう意味である。
ちなみに、「因」と「果」をそれぞれ「善」と「悪」に真っ二つに分けるのが気に入らなければ「無記因無記果」(善でも悪でもない行為は幸福でも不幸でもない結果をもたらす)を加えて三つにしてもよいし、厳密に言えばどれだけでも細かく分けることができる。

しかし、どのように分けようと、因に応じて果が決まるという点に相違はない。あるはずがない。ある行為に対して、その結果が、いつ、どんな形で現れるかは千差万別である。また、結果が現れるまでのプロセスもいろいろある。しかし、たとえいつどんな形でどのようなプロセスを経て結果が現れようと、「善因悪果」や「悪因善果」は絶対にありえない。

このことを植物でたとえるなら、大根の種をまけば必ず大根ができるし、カボチャの種をまけば必ずカボチャができるということである。

いつどんな形でどのようなプロセスを経て実ができるかは、水・空気・日光・温度・養分などさまざまな条件に左右されるが、それでも決して、大根の種からカボチャができたり、カボチャの種から大根ができたりすることはありえない。(どんな場合にでも)大根ができてこそその種を「大根の種」と呼ぶのであって、そうでなければ「大根の種」とは言えない。

「大根の種」とはそういうものである。同様に、(どんな場合にでも)善果をもたらす行為を我々は「善」と呼んでいるのであって、そうでなければその行為は「善」とは言えない。「善」とはそういうものである。

「悪」についても同じである。

よく、結果が出るまでのプロセスが単純な場合は納得できるが複雑なプロセスを経た場合はどうなるか分からない、と言う人がいる。
「複雑なプロセス」といっても、しょせんは単純なプロセスの組み合わせにすぎないのだから、同じことである。

「善」「悪」はどこまでいっても、それぞれ「善果」「悪果」を引き起こす方向に作用するのであって、プロセスの複雑さがある限度を超えた時点で、その方向性が突如変わってしまうなどということは考えられない。
どんな複雑な経路を通ろうとも「水は高きより低きに流れる」のであって、それが「道理」というものである。

次に、「自因自果」について論ずる。「自因自果」は世間一般に「自業自得」とも言われている。「自業自得」というと、普通、「悪因悪果」のときだけに使われるが、本来は善・悪どちらに使ってもよい。
「業」とは梵語「カルマ」の訳語で、「行為」の意味である。さて、「善(悪)」を「幸福(不幸)をもたらす行為」と前に定義したが、そこでは「だれに」幸福(不幸)をもたらすのか、については何も触れていなかった。
しかし、「自因自果」であるならば、その答えは「自分に」である。ところが常識的には、「善(悪)」とは「他人を幸福(不幸)にする行為」と考えられている。
では、自分が幸福になることと他人が幸福になることとは、あい反するのだろうか?


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