人生哲学と仏教 第三章 「二元論の超克」
 
 

第三章 二元論の超克


今ここに一台の飛行機があるとする。その飛行機は飛べば必ず墜落することになっている。さてあなたは、その飛行機に「乗りたい」と思うだろうか。もちろん思わないだろう。ところが実際、あなたはこの「百%確実に墜落する飛行機」にすでに乗っているのである。 人間が「生まれた」ことは、飛行機が「飛び立った」ことである。今「生きている」のは、「飛行中」なのである。

飛行機の燃料には限りがある。
いつまでも飛び続けることはできない。
それと同様、人間の寿命は有限であり、永遠に生きることはできない。
燃料は刻々と減っている。
一日生きれば一日生きた分だけ燃料計の針は確実にゼロに近づく。
燃料がなくなるのは時間の問題だ。
燃料が尽きればどうなるか。
どこかに降りねばならない。
では降りる場所はあるだろうか。
確保できているだろうか。
このままでは、大海原の中へ墜落あるのみである。
こんな危うい状況に全人類は置かれているのである。
にもかかわらず、人は、この危機から逃れる術を模索しようとはしない。
それどころか、この現実を見ようともしない。
そして、飛行機の中でのんきに機内食を食べたり映画を見たり音楽を聞いたりして平然としている。
それで本当に安心できるだろうか。
満足できるだろうか。たとえそういった「気晴らし」で一時は不安や不満を紛らわすことができても、やがて大変な事態が待ち受けている現実を覆すことはできない。
人は死ねばどうなるのか。
これほど差し迫った、現実的な問題はない。
第二章で徹底的に述べた通り、死は〈私〉自身に必ず降り懸かる出来事であり、しかもいつ襲って来てでもおかしくない。
我々は目の前にある日常的な用件を「現実的」な問題だと思い、「死ねばどうなるか」は、自分とは関係のない「非現実的」なことだと思っているが、全く逆さまである。

死に直面すれば日常的な用件こそが「夢・幻」であったと知らされ、「この先自分はどうなるのか」すなわち「死ねばどうなるか」こそが、「現実問題」となって眼前に立ちはだかるのである。
人は皆、死というベールに向かって突っ走っている。
ベールからまだ遠く離れている時は、平然としていられる。
ところが、今まさに死というベールを突破しなければならないとなった時、「ベールの向こう側はどうなっているのか」これこそが大問題となって胸一面を覆う。

これは単なる「疑問」などといったものではない。
「不安」であり「恐怖」なのだ。ガン告知の是非がしばしば論議される。
ガンの告知は事実上、死の宣告であるから、あまりにも衝撃的である。
にもかかわらず、ガン告知を望む人も中にはいる。
それらの人の考えはたいてい、「ガンであることを知らず、ただ漠然と生きているうちに人生が終わってしまうのではむなしすぎる。
ガンを告知されれば、残された人生を悔いのないように、充実した生き方ができる。」というものである。
これはちょっとおかしいのであって、ガンの告知をされようとされまいと、死は必ずやって来るのだから、残りの人生を真剣に生きねばならないことに変わりはない。
パスカルは、 「もし一週間の生涯でやるべきことならば、百年の生涯でもやるべきである。」と言っている。
では「生涯でやるべきこと」とは何であり、どうすれば「悔いのない人生」となるのだろうか?
突然だれかに殺されそうになったならば「待ってくれ!おれにはまだやり残したことがある!」と心が叫ぶが、その場合の「やり残したこと」とはいったい何なのか? 


これらに対する常識的な答えは、例えば海外旅行のように「いつかはやりたい」と常日頃思いながらなかなかなできなかったことを、パーッと派手にやることであろう。

「生活のために」と蓄えておいたお金も「死んでしまえばどうせ使えなくなるのだから」と、やりたい放題のことをやって使い果たしてしまおうということになる。
しかし、それで本当に悔いのない一生と言えるのだろうか。
それらの「やりたいこと」をどれだけやってみても、しょせんは、飛行機の中での出来事である。
このままでは飛行機は必ず墜落する。墜落すれば後悔するのは明らかである。
この飛行機にとって最優先課題は言うまでもなく、降りる場所を確保することである。降りる場所を確保できない限り、飛行機の中でどれだけじたばたともがいても「悔いのない人生」など夢のまた夢である。
だから、「生涯でやるべきこと」とは、「死ねばどうなるか」という大問題に、何らかの解決策を見いだすことなのである。これ一つが、人間にとって本質的・根本的な課題であり、それ以外は皆、枝葉末節なことにすぎない。

ただ、「死ねばどうなるか」が余りに大問題で手に負えないために、問題の本質を「飛行機の中でのこと」にすりかえているだけなのである。死後の問題は、ちまたではオカルト的なこととして興味半分に扱われているが、決してそんな軽い問題ではない。
本章では、死後について真剣に論ずる。さて、「死ねばどうなるか」という問題とは、

・死後の世界は有るか無いか?

・もし有るとすればどんな世界か?

という問題であるが、本章ではとりあえず「有るか無いか」についてのみを論ずる。
人間の肉体は常に刻々と変化しているが、それにもかかわらず生命は、ふだんは維持されている。
しかしながら、病気・けが・老衰などで、肉体の状態が生命を維持するのに必要な或る一定の限度を超えて変化したならば、その時、生命は維持されなくなる。
すなわち「死」が訪れる。
だから、少なくとも物質的側面にのみ着目する限り、「死」とは「肉体の状態が或る一定の限度を超えて変化すること」と定義できる。
したがって、死後の世界の有無の問題は、「世界が有る」という事実が、肉体の状態の変化に依存するのかしないのかという問題に言い換えることができる。
さらに、「世界が有る」と認識しているのは「心」であるから、結局、死後の有無の問題は、肉体と精神との関係の問題(身心問題)に帰着する。
「肉体」は物質だから、物質と精神の関係と言っても同じである。
身心問題は、古今東西を問わず、哲学における最大のテーマである。
死後の有無がこのこと一つに懸かっていることを思えば、いかに重大な問題であるかが分かる。
パスカルは、 「魂が死すべきものか否かを知るのは、全生涯かけてでも成さねばならない。」と言っている。
さて、物質と精神の関係については、古来、大きく分けて次の三通りが考えられてきた。


(一)唯物論
(二)唯心論(観念論)
(三)物心二元論


まず、(一)の唯物論について述べる。

唯物論とは平たく言えば「物があるから心がある、物がなければ心もない」という考えである。

ここで「物」と言ったが、一番問題になるのは脳である。唯物論によれば、精神とは脳の働きに過ぎないのだから、死によって脳の活動が停止すれば、その人にとっては一切が無になる、すなわち「死後は無い」ことになる。

もし唯物論が正しいことが証明されれば、死後の世界は無いことが証明され、死の問題が本質的に解決されることになる。
そうなればそれで結構だが、果たして、唯物論は正しいのだろうか。
世の中には、科学が発達することによって唯物論の正しさが証明されると思っている人が多い。

特に現代人はそうである。
しかし、科学がどれだけ進歩しても、唯物論が正しいと証明されることは原理的にありえないのである。
「心」が「物」から生ずることを証明するためには、まず、「心」と「物」の双方を科学の対象としなければならない。
しかし、「心」は主観的なものであ
るから科学の対象とはなりえない。(科学の対象となるのは、せいぜい肉体という「物」から推測された「仮の心」であって、それが「心」そのものと一致する保証はどこにもない。) 
だから唯物論が科学的に証明されることはありえないのである。

大脳生理学の発達で、確かに脳の構造や脳と身体との関係はかなり解明されてきた 。
しかしそれは、あくまで脳や身体という「物体」そのものの仕組みを解明したということであって、決して「心」との関係を解明したわけではない。
一見、脳の仕組みが解明されれば、「心」を科学的に扱うことも可能なように思えるが、そう言えるためには、「心」が脳から生じたものであることが前提となっていなければならない。
ところが、この「前提」こそ証明すべき命題なのだから、循環論法に陥るだけである。

「脳細胞が心理的な作業の本部であるというのは全く価値のない断言である。
なぜなら、脳細胞の内部で心理作業が行われるのを観察する方法は全くないのだから。」
(アレキシス・カレル、医学者)

一方、唯物論を否定することなら、「心」を科学の対象とせずになされうる。
唯物論が正しいと仮定して、矛盾を導けばよいからである。
そして実際、今日の大脳生理学では、唯物論では説明できない現象が脳の中で起きていること示す様々な実験結果を得ている。 
ノーベル章受賞者で今世紀を代表する大脳生理学者ジョン・エックルスは、著書『心は脳を超える』の中で、次のように述べている。

「私たちは自分の手足そのほか身体のいろいろな部分を自分の思うように動かすことができる。
すなわち〈随意運動〉を行うことができるのであって、これはある動機が、特定の意図を生み、それが肉体のある部分を動かしたのだと理解することができる。」
「随意運動を支える脳機構については、最近いくつかの実験的な研究によって画期的な知見がもたらされた。運動しようという意図が引き起こす脳の最初の反応は、大脳皮質の補足運動野と呼ばれる領野で生じることが明らかになってきたのである。…この領野が随意運動の際に他のどの領野よりも早く活動し始めることを示す実験上のデータが、次々と明らかになったのである。」


そしてその根拠として、三通りの実験をあげている。
「ロバート・ポーターとコビー・ブリンクマンの、サルに微小電極法を広範に適用した実験」「ニールス・ラッセンやペール・ローランドらのグループの、脳の局所血流量を神経活動の指標にした実験」「ハンス・コンヒューバーとルーダー・ディーケの、大脳皮質表面の特異な電位変化を測定する実験」である。(詳細は『心は脳を超える』を参照) そして、次のように言っている。


「ここで重要なのは、こうして生じる補足運動野の細胞の活動化は、補足運動野の中の他の細胞も含めて、脳のどこの神経細胞の作用によるものでもないということである。すなわち、補足運動野の細胞はそれぞれがまったく「自然発生的」な、しかもある目的に適切な活動化を起こす。」
「補足運動野の活動化の有無は、運動の随意性と自動性の区別と正確に一致する。」


「脳で生じる膨大な数の神経細胞の複雑多様をきわめる活動パターンから、
事物を瞬時に知覚し、その認知に基づいて直ちに即応的な行動を指令できるよ
うな仕組みを、脳そのものに見いだすことはできない。」

脳についてのこれらの性質は、唯物論・人間機械論では到底説明のつかない 事実である。 
ちなみにエックルス以前にも、これほど強烈ではないにして も、例えば、ワイルダー・ペンフィールド(元モントリオール神経学研究所 長)の説がある。

著書『脳と心の正体』の中で、ある実験結果を根拠に、次の ように述べている。

「脳は一種のコンピューターである。コンピューターは外部の何者かによっ てプログラムを与えられ、操作されて初めて役に立つ。心はそのプログラマー であるが、脳にはプログラマーの役割を担う場所はない。」
「脳のコンピューターの新しい配線は、意識的な注意の集中があって初めて 行われるが、この意識的集中を何に向けるかの決定は、心によってなされる。」

エックルスの説についての話で、注意すべきことが一つある。
「唯物論では 説明のつかない現象が脳の中で起きている」というのは、決して「脳が物理法 則に反した動き方をする」という意味ではない。
脳そのものはあくまで物体なのだから、物理法則に従わないはずがない。(もし万一、脳が物理法則に反し た動き方をするのなら、それは物理法則の方に不備があると考えざるをえな い。) 

ではどう理解すべきかといえば「脳は物理法則だけでは確定できない動き方をしている」ということなのである。
実際、ハイゼンベルグの不確定性 原理によればミクロの世界ではそういうことが起こりうる。
ドイツの物理学者 P・ヨルダンは次のように言っている。


「生物の神経組織、脳髄などの機構は、微細な原子や分子の規模のものである。
火薬を爆発させるには、ピストルの引き金をちょっと引けばすむように、 肉体の大きな筋肉を動かすにも、脳のほんの微細な部分の作用だけで十分なのだ。
微細な部分の変化で、大きな運動をするのが生物の特色である。」 エックルスの説は今日、身心問題に大きな影響を与えている。
哲学者の滝浦 静雄氏は、著書『「自分」と「他人」をどうみるか』の中で、 「エックルスのこの著書は、所々に今日の脳生理学の新しい知見がちりばめられており、その自我意識の分析などにも、きわめて興味深いものがある。」 と言っている。

ただ、エックルスは、物心二元論の立場をとっている。その点 での批判はよく見うけられるが、だからといって、唯物論を徹底的に否定した こと自体を批判するのは全くの見当違いであろう。 以上で、唯物論についての説明を終える。



次に、(二)の唯心論について述べる。

唯心論とは「『物がある』と認識し ているのは心であるから、心が根本であり、心がなければ物もない」という考えである。確かに、心がなければ「物がある」と認識することはできないが、 かといって「物はない」と断定することもできないはずである。
要は「判断で きない」と言うべきなのである。
心がなかったらどうなるかを知るのは原理的 に不可能である。
なぜなら、それを知ろうとしているのが心だからである。

唯心論にもいろいろな流儀があるだろうけれども、少なくとも、「心で『物 が有る』と思えば有る、『物は無い』と思えば無い」という、浅い意味での唯 心論は明らかに間違いである。もし本当に「物は無い」と思えば無いのであれば、たとえその人に石が飛んできても、よける必要がない。
「石は無い」と思 えばそれで済むのだから。


最後に、(三)の物心二元論について述べる。

物心二元論とは「物と心と は、どちらか一方が他方から生じるのではなく、物と心はそれぞれ独立に存在 している」という考えである。
この物心二元論における最大のネックは、「ではどうやって物と心とが作用しあうのか?」という疑問に答えられない点である。
物(身体)と心が相互作用しているのは明らかである。
ただし、「他人の心」については、その人の肉体から推測するしかないから何とも言えない。
しかし「自分の身体」と「自分の心」が相互作用しているのは、内観すれば明ら かに分かる。
身体に何か刺激が与えられればそれによって心が影響を受け し、また、心で自分の身体を動かそうと思えば動かすことができるからである。
物心二元論で、物と心が相互作用する仕組みを説明することは原理的に不可能である。
なぜなら、物と心を全く別の存在として切り離してしまった以上、 つながりようがないからである。全く当たり前な話である。もし、物と心を無理に結びつけようとして、物でもなく心でもない「第三の存在」を媒介にしよ うとするなら、それは「三元論」になってしまう。
それでは問題の解決どころ か、問題をますます複雑にしているだけである。


以上、唯物論、唯心論、物心二元論の三つについて論じてきたが、「これだ!」と言 えるものが見当たらない
。しかし組み合わせ論的には、「物は有り、心は無い」「物は 無く、心は有る」「物も有る、心も有る」、この三通りしかありえない。
( 「物も無く、心も無い」すなわち「何にも無い」というのは論外。) では、どう考えればよいのか。唯物論にしろ唯心論にしろ物心二元論にしろ、「物」 と「心」という対立する二つの概念をまず設定して、その上でそれらの関係を問題にしている点で共通している。
そもそも、その発想に無理があったのではなかろうか。
だと すれば、もっと根本的なところから掘り下げる必要がある。
「心」は主観であり、「物」は客観であるから、「心」と「物」の関係は、主観と客 観の関係と言い換えてもよい。

この〈主観/客観〉の難問を解決するための基本的態度を明らかにしたのが、フッサールの現象学である。
まず、竹田青嗣氏の『現象学入門』から少し引用してみよう。

フッサールはデカルトの考え方に注目した。デカルトは次のように考えた。人
間の理性は、いったんこの現実を疑おうと思えば、どんな事柄でもそれが「本当に存在 するのか」を疑う権利を常に持っている。なんとなれば夢について考えてみよう。
私たちは全く現実と違わないありありとした現実感をもった夢をみることがありうる。その
場合、どれほど確実な現実だと思えたとしても、さめてみて初めて非現実であることが分かる。
これを逆に言えば次のようなことになる。私たちはだれでもこの現実を確かな 「現実」であり、自分は疑いなく「現実の世界」の中を生きていると思っている。しか しその確信がいくら強固なものであっても、いま自分の見たり感じたりしていることが 決して夢でない保証はどこにもない、ということだ。


いま目の前に一つの石ころがあるとする。私たちは普通、この石ころを、明らかなもの、疑えないものとして見ている。
ところが私たちが日常的な態度を離れてこれを 厳密に考えだすと、奇妙な問題が生じる。私たちは果たして本当にこの石ころを正しく見ているのだろうか。私たちはごく一般的には、次のように考えざるをえない。まず 〈私〉が見ているのは、〈私〉の目に映った石ころの像(認識としての石ころ)である。
そしてこの像は、石ころそれ自身(対象としての石ころ)からやってきたものだ、 というふうに。
そして「難問」は次のようなかたちをとる。
この〈認識としての石こ ろ〉と〈対象としての石ころ〉が同じものだという保証は、いったいどこにあるのか。
この問題を〈主観/客観〉問題という。『実存からの冒険』(毎日新聞社)には次のように書かれている。

主観・客観問題は、〈それ自体として存在する客観に、主観はどうやったら一致 できるのだろうか〉という問いのかたちにまとめられる。

でも、ちょっと考えてみてほしい。
この問いはもともと絶対に解答不可能なのである。なぜなら、「それ自体として存在する客観」を捕らえた、と思ったとしよう。
でもその瞬間、その知はもう主観の内部のものになってしまうからだ。
それはもう客観自体ではなくなり、客観と主観が一致 しているということの保証はどこにもなくなってしまう。
客観と主観を別々のものとして立てる限り、知はいつも主観内部のものなのだから、知と客観が一致することを確かめるのは原理的にできないのである。
もともと問い自体が解答不可能なものだったのだから、「どうやったら主客が一致するか」の解答を探そうとするのは無駄なのであって、問い自体を解体するという方向しかないのである。
フッサールの解き方は簡単といえば簡単である。〈客観的現実という項目を廃棄 して、すべては主観(意識)の中で生じると考えればいい〉というのだ。

「何だって、 じゃあ現実なんてない、と言うのか。でも、目の前にあるコップはまぎれもない現実 じゃないか。おれが勝手に消してしまうわけにいかないだろう」と思った人もいるん じゃないかな。
全く仰せの通りです。
でも、フッサールは「現実なんてない」と言った わけではないのだ。
確かに、目の前にあるコップは消すことができない。それは「現実」だ。でも、ちょっと発想をひっくり返してみよう。
むしろ、私たちは消せないものを現実と呼んでいるのだ。 まとめると次のようになる。
〈私〉が認識している一切の対象は、「本当に」存在しているのかどうかは分からない。
しかし「〈私〉が(その対象を)認識しているということ」それ自体は疑いようのない事実であり「現実」である。
つまり、その対象は 〈私〉にとっては「存在している」のである。
「夢」の中に出てくるのものは、実際には存在しないのだが、夢の中の〈私〉にとっては「存在する」。

〈私〉にとって存在していることだけは確かなのだからそれでよいではないか、〈私〉の認識と無関係に「本 当に」存在しているかどうかは絶対に知りえないし、知る必要もないではないか、とい うのが現象学の発想の核心なのである。
さて、〈私〉にとって存在している一切の物は、単なる〈物体〉として存在しているのではない。
必ず、〈私〉にとっての何らかの意味や価値を伴って〈私〉に与えられている。
このことについて、『現象学入門』には次のように書かれている。
いま〈私〉の目の前には机があり、その上に原稿用紙や本や、ペン、ハサミなどがある。
これらの事物は、「〈私〉にとっては」決して単に「たまたまあるときに与えられている事物存在なのではない。

原稿用紙や本やペン等々は、原稿を書こうという 〈私〉の「関心」に応じて〈私〉にとって存在し、まさしくその理由で、固有の意味と価値の秩序として存在しているのである。
もしもペンの調子が悪ければ、〈私〉は新しいペンを机の引き出しから取り出して使おうとするだろう。
予備のペンやそれを入れておく机の引き出しは、そのとき、調子よく書くためのペン、それをしまっておくための 引き出しというそれぞれの意味と価値をはらんで存在する。
また、ペンや引き出しとい う存在の意味−価値の秩序は、原稿を書くこと、書くことで生きていることといった 〈私〉の生のありようの「意味」にまでつながっているのである。
このように、〈私〉 のまわりに存在する一切の事物は、〈私〉の生の実践的関心の応じてだけ様々な意味− 価値の秩序の「地平」をそのつど形成しているのだ。
ところでこのように言うと、それは事物の意味と価値の話であって、例えば机それ自体、ペンそれ自体は、人間の関心に対応して現れる意味−価値の秩序には関係なく 存在しているはずだ、という考え方が出てくるだろう。
しかしよく考えてみるとそうで はないのだ。この机が確かに机であるのは、〈私〉が例えば、それに向かって原稿を書 こうという「実践的関心」を持ち、机という対象がその関心にかなうものとして存在する限りにおいてなのだ。
もし人間が、書いたり、座ったり、食事をしたりという「関心」をそもそも持たないならば、およそ机というものは存在しない。

机とは、「そこで 書いたり食べたりするという関心」にとってかなうもの、としてだけ存在するものだからである。
フッサールの現象学を発展させたのが、ハイデッガーの存在論である。右の文章の中で「〜するための」という言葉が出てきたが、これに関連して『実存からの冒険』から 次の文章を引用しておこう。
ハンマーは「くぎを打つためのもの」であり、ハサミは「紙や布を切るためのもの」である。
役に立たなければそれはもうハンマーでもなければハサミでもない。このような「〜するのに役立つ」「〜するのに用いられる」という在り方のことを、ハイデ ガーは〈用在性〉と名付けている。

…「客体」としてのモノの在り方をハイデガーは〈客体性〉と呼んでいる。
ところで、数学者の末綱恕一氏の次の文章を呼んでみてほしい。 「仏教の思惟では、主観に対抗する客観というようなものは存在しない。そして何 よりも実践を重んずるために、主体的面が絶対優位を占めている。仏教でものごとを考えるのに、必ず体用ということを言うが、体というのも実践的には用を離れては考えら れない。
一つの包丁を取ってみても、これをどんなに分析してみたところで、料理のために切るものであることを考えなければ、その体性を捕らえることにならない。しかも 仏教で用というのは、ギリシャ思想等のように単にものごとに備わる客観的な徳用の意味でなく、能く主体的に自己の用と看取したところのものである。

包丁の用というのは、ひっきょう私が切ることである。」 もうお気付きのことと思うが、ここに出てくる〈体〉と〈用〉という言葉は、ハイ デッガーのいう〈客体性〉〈用在性〉という言葉にそれぞれ非常によく似ている。
これは興味深い事実である。
さて、〈私〉が認識している一切の物は、〈私〉にとっての意味や価値を伴って、 〈私〉にとって存在している、と述べてきた。したがって、〈私〉は、〈私〉の固有の 〈世界〉の中に閉じ込められた存在であることになる。
これをハイデッガーは、「世界内存在」と言った。(「世界内存在」とは決して、客観的な世界がまず存在していて、 その中に人間が住んでいるという意味ではない。) 
ここにおいて〈私〉と〈世界〉、 〈主観〉と〈客観〉、〈心〉と〈物〉とは、密接不可分に融合しており、それらを切り 離して考えることはナンセンスになる。
〈私〉というものが確実な存在なのか、〈世界〉というものが確実な存在なのか、ではなく、「〈私〉にとって〈世界〉が存在す る」ということが確実なのである。

このような発想の転換を、「〈もの〉から〈こと〉 へのパラダイム転換」という。
ちなみに、このような世界観は、哲学だけでなく、物理学からも要請されてきた。いわゆる「量子力学の観測問題」がそれである。

「現代の自然科学の自然像、それは実はもはや自然の〈像〉ではなく、自然と我々と の〈関係の像〉である。一方に客観的な時空間、他方にそれを写し取る精神、この二つ に分ける従来の分割 −デカルト的区別 −は、もはや適切ではない。自然科学はもは や観察者として自然に向き合っているのではなく、人間と自然との相互作用の一部である。」(ハイゼンベルグ)

「主体と客体は、一つのものである。それらの境界が、物質科学の最近の成果でこわ れたということはできない。なぜなら、そんな境界など存在しないから。」 (シュ レーディンガー)

「我々は単なる自然の観客ではなく、自然との共演者である。」(ボーア)

今まで見てきたように、哲学や科学の最先端では、〈物〉と〈心〉は密接不可分であるという世界観が提唱されている。
ところがとうの昔に、仏教では「色心不二」と教え られている。「色」とは物質、「不二」とは密接不可分という意味であるから、まさ に、時代を先取りする世界観が展開されていたのである。
これは驚嘆すべきことだ。
「量子力学に観測問題という未解決の課題がある。
これを解決しようという試みの中 で多くの物理学者は釈尊の言う宇宙大の心の概念に近づいて来ていると私は考えている。」(高田明和、生理学者)

余談になるが『般若心経』の「色即是空 空即是色」の中の「色」も物質のことである。
「空」とは形のない状態をいうのだから、これをもし「エネルギー」と解釈したな らば、「色即是空 空即是色」とは「物質とエネルギーは等価」、すなわち相対性理論 の "E = mc^2" を表していることになる。

こういうところから仏教に関心を持つ物理学者 も少なくない。
本章はもともと、死後の有無について考えることが目的で、ここまでの議論はそのためになされてきた。
その結果、物心二元論、主客二元論を超えた世界観に立って考える べきであるという結論に到達した。そして、そういう世界観について、今日の哲学や科学よりもはるかに詳しく教えられているのが仏教、特に唯識学である。そこで、次章で は唯識学の論理の骨格を明らかにし、その上で死後の有無の問題について、明快な解答 を出すつもりである。

「フッサールの現象学は主観と客観との対立を意識の認識作用の二つの要因にすぎないものと考えてその二元論を解消しようとしている。その場合、主観と客観とはいわば 磁石の南極と北極の如きものにすぎず何ら独立した二つの存在ではないと考えられる。 このようにフッサールの現象学は二元論を克服するが、……、二元論を真に克服する思 想は東洋特に仏教の中に見る事ができる。…客観に対立する主観としての心のごときも のを絶対化することをやめて、主観・客観を相互依存的なものとしてとらえる。心と物 は相即する。

かくて「物我一如」となり、これを個人についていえば、「身心一如」となる。
それゆえ、身体の活動を離れた単純に主観だけの心作用もなく、心作用を離れた 単純に客観だけの身体活動もない。
それゆえ人間のあらゆる営みは身心相即して営まれるものと考えられる。
ここにおいて主観・客観の二元論は完全に克服される。
したがって仏教にあっては西洋思想にみられるような純粋の観念論は存在しない。」 
(『現代哲学事典』講談社現代新書)

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