燃える言葉(4)
 
 

燃える言葉(4)

●人生は夢であると同時に真実との戦いです!
●“興廃の危機に立つ”最大の敵は心であり、最強の味方は心であるという言葉があ
  るが、敵は自惚れ心であり、味方は向上心であると思う。求道は自惚れ心との戦い
  だ!
●『踏まれても根強く忍べ道の草、やがて花咲く春の来るまで』若いときは目立たな
  いところでの苦労がより大切です。我々の努力は全て獲信の因縁になるもの、取捨
  選択せず、一生懸命果たすことです!
●“我、一死をもって大義に生く”
●生死を越えたところに真の勝利がある!
●自分の可能性に夢見るのが若者の特権!
●金もない!地位もない!徳も常識も身に備わっていない!そんな学生部の取り柄は
  何か!それは若さだ!では若さとは何か!情熱!純粋!やる気!闘志だ!これこそ、
  求道に一番必要なものだ!
●『若い人は高尚な理想を持たなければならない。そしてその理想を行う勇気がなけ
  ればならない。』(大隅重信)
●『若さとは人生のある時期のことではなく、心の在り方のことだ!人は歳月を重ね
  るから、老いるのではない!理想を失う時に老いるのである!
   歳月は皮膚に皺を刻むが、情熱の消滅は魂の皺を刻む。若くあるためには易きに
  つこうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない!
   全ての夢を失い、心の芯が悲観という雲、皮肉という氷に覆われるとき、その人
  は真に老いるのだ!人はその憶念に比例して若く、疑いに比して老いる』
(サミエル・ウルマン)
●暗いところはほっておけば、いつまでも暗い、明るくしようとしなければ、暗いま
  まだ!真実を知らされて、なぜ暗くなるのか!仏法を深く理解していないからであ
  り、仏法中心の生活をしていないからだ!
●『如何なる権威や恫喝にも屈せず、己が信念を貫く者こそ、その道のプロである。
  真のプロでなければ、大事を成し遂げることは出来ない。』
[プロの考える習慣]
1、プロは人間的成功を考える,アマは現状に甘える。
2、プロは自信と誇りを持つ,アマは愚痴っぽい。
3、プロは常に明確な目標を指向する,アマは目標が漠然としている。
4、プロは他人の幸福に役立つ喜びを持つ,アマは自分が傷つくことは回避する。5、
プロは可能性に挑戦し続ける,アマは経験に生きるだけである。
6、プロは思い信じ込むことが出来る,アマは不信が先立つ。
7、プロは自己訓練を習慣化する,アマは気まぐれである。
8、プロは時間を有効に組織化する,アマは時間の観念がない。
9、プロは成功し続ける,コンスタントに努力する,アマは失敗を繰り返す。
10、プロは自己投資を続ける,アマは享楽的資金を優先する。
11、プロは出来る方法を考える,アマは出来ない言い訳が先に出る。
12、プロは使命感を持つ,アマは途中で投げ出す。
13、プロは自分のシナリオを書く,アマは他人のシナリオが気になる。

●世に言う天才は1パーセント足らずと言われる。何故に、では能力に差が出来るの
  か。答えは明らかである。
  “過ちを繰り返すか!”“同じ石で二度つまずかぬの心がけか!”限られた時間と
  体力で結果は大違い!大苦悩の地獄へ再び戻りはしないぞ!と涙の決意して這い出
  てきた我々、出世の本懐を忘れず、日々、努力を怠らない者こそ、世の師俵と光り、
  人生の勝利者と輝く学生部員となるのである!
●『授かりし、使命ひたすら果たすのみ』
●人生には身命を顧ずして求めねばならないことがある!
●一番大切なのは生きて何をするか!ということに、そろそろ気付かねばならない!
●人の心を動かす時は、忍辱の実践が必要です!相手方を理論においては納得させ、
  その上は情熱で体当たりし!相手の心を揺さぶるしか方法はありません!
●日々の精進を怠る者は必ず求道に行き詰まり、やがてこの道も挫折することになろ
  う!我々はたとえ、歩みは蝸牛のようにのろくとも必ずや鬼瓦の頂上まで登り、善
  知識の洪恩に報いなければならない!
●若者の特権は行動力!若いときに動けるだけ動くこと!真宗改革の闘士として骨を
  埋める!
●確固たる基礎と強い信念は全ての扉を開くと信じます!
●『叫ばなん、この世の終りかもしれぬと今の一息に命を懸けよ。躓いたら立ち上が
  る、転んだら起き上がる、挫けず、下がらず、倒れるときは一歩でも半歩でも前に
  向かって、倒れたときが弥陀と念じます。』
●人に駄目な奴と言われると余計に燃える!ピンチは好きや!そんな時、自分にいつ
  も言い聞かせるんや!“草魂”植木は人の手を借りないと育たないが、雑草はコン
  クリートを割ってでも生えて来よる!投げるとき、草魂!打たれても草魂!ワシは
  弱い人間や!おまけに不器用や!だからこそ草魂にワシは生きる!
●“決死はすべての道を開く”と言われるが、何が何でもしなければならぬ、と覚悟
  が決まれば出来るものである。
●若者よ!人生という戦場で傷つき、悩む若者よ!君は苦しむ為に生まれてきたのか?
  本当の喜びを知らないで、一人涙する若者よ!君の若さも力も何のためにあるのか!
  求め給え!全てを懸けて悔いなき道を!命懸けの完全燃焼の人生を!今こそ求め給
  え!
●闘魂だけでは続かない!忍耐だけでは燃え上がらない!耐えるときと燃え上がると
  き!この二つこそ、私の求道、布教活動に最も大切なものではないか!
   燃え上がれば、あとは怒濤の進撃あるのみ。!
   凄いプレッシャーを一身に背負っての戦いだが、これを乗り越えることこそが、
  自己を鍛える唯一の道と思えば、猛然と闘魂が沸いてきます!

燃えよ、全てを賭けて!
“若人は常に熱く”一切の妥協を許さず、敢然と邪に立ち向かう!これこそ我々の信
条である!この一年、果たして真実に熱く燃えたか否か!振り返って深く反省しなけ
ればならない!
  人生如何に生きるべきか!全人類が生涯知りえないであろう、この大問題を我々は
若くして知り得た幸せ者である!ならば目蓮、フルナの如く、真実に燃え!勇猛果敢
な戦いを展開しても不思議ではなかろう!
  一切のことに完全燃焼は若者の特権のはず!まず我々から熱い姿勢を示すべきでは
ないか!

●命を賭けて求道しなければならない!口先だけでなく!本気で命を賭けないと信心
  決定はとても出来ない!
●命を賭ける!口で言うのは簡単だ!だが、なまじっかの覚悟でやって いたのでは、
  命を取られてしまうぞ!と私は思う。
   命を賭けるとは、繊細な神経で、細心の注意を払いながら私心を全く捨て切って、
  積極的に力の限り、徹底して一つのことに突進することである!
   人が8時間働くなら、私は16時間働く!人が265日働くなら、私は365日
  働く!人が100%で完遂というのなら、私は105%を自分に課して走り回る!
  生か死か!このぎりぎりの戦いが自分自身の可能性を最大限に発揮し、不可能を可
  能にし、自分でも想像し得ない意義あることを実現させる!と私は信じている!
●この二河の道を進んでこそ、求道があるのであり、より厳しければ厳しいだけ、そ
  れは求道の前進を意味している!それ故、楽は楽であっても決して本当の楽にはな
  らない。
   どんな道でもそうだ!スポーツでも習いごとでも、求めることは苦しいことだ!
  ところがその苦しみに身を沈めて、たゆまぬ努力を重ねないかぎり、成功は有り得
  ない!
   ただ同じやるにしても、いやいや仕方なくやっているのでは意味がない!記録を
  目指し!資格を狙う意思がなければ、何事も成就しないはずだ!
●仏法に盆やお祭りなかりけり、やがて嵐の吹かぬ間に。
●宮本武蔵の貫いた信念の中に『我事において後悔せず』というのがあるが、私の好
  きな言葉の一つである。ああすれば良かった、こうすれば良かった、とクヨクヨ悩
  むのではなく、自分が全力を挙げてやったことだから、後悔しない、という生き方
  である。
●今こそ、経験を積む時!長い人生には成功した時、培える信念と、失敗した時に培
  える経験が共に必要なんだ!今はその経験を思う存分、学ぼうじゃないか!
●有難や、南無の六字に救われて、燃ゆる心の尊さよ。
●後生とは、遥か向こうに思うなよ、息の切れ目が後生なり。
●有難や、南無の六字に燃やされて、叫ばにゃおれぬ、寝ている人に。
●悪人が弥陀に抱かれて極楽浄土、仏の国の懐かしや。
●生き仏、顔で笑って心で泣いて、信じてくれよとお呼びづめ。
●浮気では六字の真、頂けぬ、燃ゆる心で惚れ込んでみよ。
●弥陀仏の智恵と慈悲とに生かされて、生きるこの身の尊さよ。
●仏法は他人事と思うなよ、後生生死の一大事なり。
●籠の鳥、弥陀の光に包まれて、籠を離れて、野にも山にも。
●弥陀仏の智恵の光に照らされて、燃ゆる心の楽しけれ。
●『親しむべき友とは本当に助けになる人、苦楽を共にする人、忠言を惜しまない人、
  同情心の深い人のことである。』
  『不真面目にならないように注意を与え、陰に回って心配をし、災難にあった時は
  慰め、必要なときは助力を惜しまず、秘密を暴かず、常に正しい方へ導いてくれる
  人は親しむべき友である。』
   想像するだけで涙が出そうな友である。しかし現実はどうか、嫌われたくないか
  ら、友の悪事を注意しない。災難に遭えば、内心ほくそ笑む。
   あり余る財を持ちながら、わずかな援助で恩着せがましく迫る。平気で秘密を暴
  き、日本の政治を変える芸者が出てくる時代だ!
   名誉と利益のみで、動く世間にあって仕方のないことかも知れぬ。万人共通の目
  的、後生の一大事の解決を知らねば、“親しむ仕える友”との出会いはますます難
  しい。

(赤穂浪士に学ぶ)
  日本人にとって不滅のドラマ『忠臣蔵』は単なる娯楽の領域を越え、仏法者が学ぶ
べき多くのものを含んでいる。
  まず赤穂四十七士の主君の仇、吉良上野介を討つ目的達成への執念と忍耐!敵を欺
くべく京都山科で遊興に耽り、遊女の小唄に手拍子を打つ大石内蔵助は、世間から『
大石、軽石』と罵言嘲笑を浴びた。
  その中で大石は「手を一つ打つにつけても討つという仇のことは忘れざりけり』と
心底に執念を燃やし続けたのである!
  蓮如上人は『後生の一大事を心にかけて』と仰有る。我々もあらゆる非難に耐え、
一大事解決への執念を燃やさなければならない!
  また四十七士は二者択一を迫られれば、親を捨て、兄弟を捨て、恋人を捨て、仇討
ち以外の一切を振り捨てた!
  我々の求道においても群賊悪獣の妨害、帝釈天の試練がある。異性、家族、名利に
道を迷うか!後生の一大事の解決を選ぶか!二者択一を誤ったら、末路は悲惨である。
浅野内匠頭の切腹直後、決死報恩を誓った百二十余名の赤穂浪士は、やがて六十余名
となり、ついには四十七名となってしまう。
  脱落した者は生涯、不義不忠の士として世間に入れられず、死後に名の残ることも
ない。
  仏法もしかり、善知識は常に『光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走る者は
滅ぶ』と仰有る。二者択一を誤れば、敗北と破滅の人生あるのみだ!
  また報恩に死を賭した四十七士の純粋さは我々を感動せしめずにはおかない。釈尊
は『恩を知らざる者は畜生にも甚だしい』と説いておられるが、知恩、感恩、報恩は
人間として、仏法者としての条件である。
  我々は決して如来聖人、善知識から受けた大恩を仇で返す背恩の徒になってはなら
ぬ。四十七士は吉良の白髪首一つに命を賭けたが、我々は後生の一大事の解決に全て
をかける!
  五十年、百年の彼等の本懐と、未来永劫を左右する我々の出世本懐とは桁違いであ
る。我々の目指す人生の大事業は、その意義深さにおいては、四十七士の比ではない。
されば本懐成就に至る労苦もまた、四十七士の一年九ヶ月の苦難の数倍、数十倍して
も当然であろう!
  無上仏の本願を求める平成の四十七士たれ!

(大石一生の不覚)
  我々はどれ程、心を燃やしているだろうか!後生の一大事の解決に!である。
“濁り絵の濁りに魚は潜むとも、なぜ川蝉の取らでおくべき”大石内蔵助、執念の歌
である。赤穂浪士と仇討ちを誓った大石は、まず敵を欺くため、京の祇園で遊蕩三昧
に耽る。
  来る日も来る日も、酒池肉林、余りの徹底ぶりは大石が本当に仇討ちを忘れてしま
ったのでは、と疑念を抱く者が味方にも出るほどである。
  そこである武士が大石の真意を知りたいと、一計を案じた。一幅の掛け軸を手に、
大石が祇園の帰路、必ず立ち寄る峠の茶屋を訪ね、あることを依頼した。
  やがて千鳥足の大石が遊女を伴って現れた。『大石様、本日は店の絵に賛をお願い
できないでしょうか?』茶屋の主人の頼みに大石は、一人、奥の間に入り、広げられ
た絵をキッと別人のように見つめる。
  酔ったふりをしていただけである。軸には古池に突き出た杭の上に魚獲りの名手の
川蝉が濁った池の中の魚を狙っている様子が描かれている。
  筆を手にした大石は、やがて上記の歌を鮮やかに記したのである。再び、酩酊を装
い、女達と茶屋を去った。山科の自宅に着いた時、である。“しまった!大石、一生
の不覚、誰かあの絵を金に糸目をつけずに買ってまいれ!”と叫んだ。
  大石はついに、絵の賛に本心を吐露していたのである。川蝉が一度、狙った獲物は
逃さぬように、この大石も必ず吉良の白髪首を挙げ、本懐を果たして見せるぞと。
  幸いにも絵は敵方に渡らなかった。討ち入り成功後、大石は“手を一つ、討つにつ
けても討つという敵のことは忘れざりけり”と祇園当時を回顧している。
  酔い知れて、なお酒を求め、手を打った時にも『討つ』という敵のことば忘れなか
ったのである。
  今日、なお感動を与え続ける赤穂浪士の快挙は、こうした大石らの凄まじい執念の
結実であったのである。その大石らとは桁違いに無上仏は、煩悩の濁水に戯れる逆謗
の屍たる我々を『必ず救ってみせる』と狙いを定め、命懸けに決起して下さっている。
  その無上仏を念じ、我々も『後生の一大事を心にかけよ!』との善知識の命に信順
し、常に大石のように、人生の目的、信心決定の本懐を念じ、進まねばならない。
  世間事の仇討ちにさえ、人は捨て身の執念を燃やす!未来永劫の一大事の解決にお
いておや!

●数多くの力士を育てた二子山親方が連日の荒稽古で、みんなが逃げ出したくなった
  時、心を込めて言って聞かせた。
『稽古はすぐに効果が上がるものではないから苦しいのだ。三年先に効果が出ると信
  じて死ぬ気でやれ!』と。
『人間辛抱』という座右の銘がある。二子山部屋におしん横綱の隆の里がいる。力士
  には致命傷の糖尿病を食事療法で見事に克服し、横綱にまでなった。
   かつてこんな力士はいなかった。辛抱して努力を続けていれば、必ず花が咲くと
  いう見本である。現代人はスピード時代からか、すぐ結果を求める。成果が、しか
  しすぐ現れたら、誰も苦労はしない。この世のことでさえ、みんな苦労しているの
  だ。
   我々の究極の目的は信心決定であり、絶対の幸福である。破邪顕正の戦いの苦し
  いのは当然と覚悟してなければならない!
   如実の聴聞も難しいが、破邪顕正も苦しい。親鸞聖人も難中の難事だと仰有って
  いる。顕正は人間の出来る最も崇高な行為であるから、少々の苦しみに挫けてはな
  らない。万苦に負けず、死にも恐れぬ絶対の生き方を目指しているのだから、世間
  の嘲笑や軽蔑が気になるような意気地無しでは、到底、絶対無礙の世界へは出させ
  て貰えないのだ!
   真実一路進む人は、必ず無上仏に守られ、十方の仏、菩薩に称讃され、無礙の世
  界に雄飛することが出来るのだ!善知識の仰せに従い、血みどろになってやり抜く
  かどうか!それ一つにかかっている!
●(1)男が一度決意した道、意地でも貫け!
  (2)誰よりも向上心が強いと言われる者になれ!
●中国の春秋時代、呉王は越王勾践と戦って完敗した。その子、夫差はこの仇を討と
  うと、朝夕、薪の上に寝て、復讐心に燃え、遂に会稽山で勾践を降伏せしめた。
   恥を晒した勾践は国に帰ってから、日夜、苦い肝を嘗めて伏し、心中、この雪辱
  を晴らさんと苦労を重ね、遂に呉王夫差を滅ぼした。
『仇を討つために大変な苦労、苦心を重ねる』ことを臥薪嘗胆といわれる所以である。
“人生は敗者復活戦だ!”と私は思う。最初から何もかもうまくはいかぬ。
   失敗し、叱られ、惨めで、赤っ恥をかいて泣いた!
   そんな人が悔しさを忘れず、立ち上がり、失敗をバネに飛躍して最後に大勝利を
  おさめるのだ!我ら仏法者の仇討ちは後生の一大事の解決、ただ一つ!
“こんな失敗したら、取り返しがつかない。とてもこんな壁は乗り越えられない”と
  落ち込み、傷ついたときに思い出す!『臥薪嘗胆!』臨終に泣く心を今、出して、
  泣き泣き仏法を求めた者にこそ、真に笑いうる者になれるのだ!
●聞法の座に出席しながら、居眠り半分、細い目をして聞いている人は臨終の時にど
  んぐり目をむくことは間違いない!
●人生は演劇であり、人間は舞台で演ずる役者である。舞台で観客をうならせる名優
  も幕が降り、楽屋へ戻り、衣装を解き、化粧を落とせば、本来の自分に立ち返る。
   人生という演劇の幕が閉じ、地位や名誉や財産や学問などの衣装や化粧が剥がれ
  た時、どのような自分が現れてくるか!
   親鸞聖人の教えを聞かなければ分からない!
●臨終にはいくら金があっても、木の葉を積んであるのと変わりはない。肉親家族が
  集まっても、藁人形を並べてあるのと変わりはない!
●たった今、死んだらどうするか!造った罪をどうするか!とそこまで切り込んでく
  れる人はいない。
●自分を迷わすものは自分である。友達が自分を迷わすならば、友達と絶交すればよ
  い。しかし自分が自分を迷わすから、どこまでも迷ってゆくのである!
●体は遠く離れていても、心が近いのを近いというのである。
●体は焼けば灰になり、埋めれば土になるが、罪は焼いても灰にならぬし、埋めても
  土にはならぬ。
●親がテレビを見ながら、子供に寝よ、と言っても寝るわけはない。親が寝床の中に
  いながら、子供に起きよ、といっても起きる訳はない。
   仏法もその通りである!口先だけで人を導けるわけはない!
●朝夕の正信偈、御和讃や念仏は口先だけでなく、腹の底から出なければならぬ。
●小慈小悲もなき身が、無限の慈悲を伝えねばならないから、難しいのである。
●親鸞聖人の教えは浄土門仏教発展の頂点に立つものであり、これは倫理以上に超出
  するが、一歩誤れば、倫理以下に頽落するという危険性に晒されている。
●新興宗教、迷信邪教の教祖は自分が神様になって人を見下すが、真実信心は全ての
  物の下に心を置く事ができる。
●唯物論者の場合、理論と感情の間に矛盾がある。仏教こそ、矛盾のない教えである。
●親鸞聖人を如来の化身と見る場合と、人間と見る見方とが一挙に成立せねばならな
  い。
●凡夫は聞く気のない奴である!地獄まで逃げてゆくのだ!地獄の釜をこじあけてま
  で救ってやりたいというのが如来の慈悲である!
●凡夫は罪も人も憎む、道徳は罪を憎んで人を憎まない、真の宗教は罪も人も哀れむ。
●植物は不浄なものを清浄なもの、美しいものに変える。仏様と同じである。人間は
  反対である。
●執着は不自由ということである。例えば、煙草の好きな人は外出のとき、マッチと
  煙草を忘れてはいないか、と懐中に手を入れねばならぬ。これは不自由の証拠であ
  る。
●どんな小さな動物でも何よりも命を惜しんでいる。人間が生きるために、他の動物
  を犠牲にしてよい、という正当な理由はどこにもない。
●教行信証をお書きになったのは親鸞聖人であるが、書かせたのは阿弥陀如来である。
●「どうにもならないものをこのまま」と臭いものに蓋をするように説教を握って喜
  んでいてはいけない。それは不渡り手形だ。臨終には金にはならぬ。
●落ちるこのままのお助けではない、落ちてこい!落としはせぬぞ!の御呼び声であ
  る。
●人生はいわば、結婚を頂点として、次第に下降線を辿る。
●この世は思うようにならないのが当たり前である。『世は住み憂きは厭うたよりな
  り』と横川法語にあるが、思うようにならないということが、信心を求める縁にな
  る。
●電車で他人の足を踏んだ人は忘れているが、踏まれた人は覚えている。
●悪人には敬遠主義を取るのがよい。悪人に近付くのは死んで仏になってからである。
●衣食の中に道心なし、道心の中に衣食あり。
●いつまでも自分の誤りに気がつかないのは善知識に会わないからである。
●罪の説教をすると自分の罪を探す馬鹿者がいる!
●仏教では霊魂ということは言わないが、求道する場合、霊魂は不滅であると考えて
  いるほうがいい。いわゆる無の見は求道心を遮閉することはなはだしい。
●差別即平等、平等即差別が真理である。
●親鸞聖人の教えは力強い現実肯定であるが、しかし、それは直接肯定ではない。絶
  対的な否定即肯定である。
●肉体の快楽は、根本的には空しいものである。
●親鸞聖人はこの人生を昿劫流転の一角と断じられた。
●凡夫は絶対に死ぬとは思わぬものである。顛倒の妄念である。たとえ病にとりつか
  れても病と寿命は別だと言って、ごまかしている。
●信心獲得とは心のコペルニクス的転換である。
●死んだら極楽と聞いて帰るから、信心が頂けないのだ!死んだら地獄と聞いて帰り
  なさい!

 『信決定の人を見て、“あの如くならでは、と思えばなるぞ”蓮如上人御一代記聞
  書にある一章である。
   信心決定している人を見て、あのようになるのだ、という強い気持ちで求めれば、
  必ず信心決定出来るという意味だ!信心決定出来たら良いが、出来なくても仕方が
  ない、という気持ちでは、とてもおぼつかない!
   大石内蔵之助が主君の仇討ちにかける執念は凄まじいものであった!悲願を成就
  するためには、いかなる苦労も乗り越えたのだ!まして真実の仏法を聞かせて頂い
  ている我々はそれ以上に、目標に向かって情熱を燃やさなければならない!
   一つ一つの目標に、必ずやって見せる、最後の最後までアキラメないという執念
  が必要だ!難中の難、突破する執念こそが出来ないことも可能にさせるのである!
  執念こそが、全てを決める!
●その昔、幕末の志士は日本の歴史を変えんと、文字通り、命を捨てた!吉田松陰は
  刑死、坂本龍馬は暗殺、久坂玄瑞は戦死、高野長英は捕吏に囲まれて自決、真実の
  幸福に程遠い歴史の改革にさえ、彼等は命を散らしたのである!
   まして真宗の歴史の流れを変え、全人類を絶対の幸福に導かんとする我々が真実
  開顕に命を捨てるは明らかではないか!
『浮かぶか、沈むか、生きるか、死ぬかのところまで泳いでみよ!その試験に落第す
  るようでは駄目だ!』維新を成し遂げた、勝海舟の言葉である。
   真の仏弟子ならば、意気においても、行動においても、幕末の志士に劣ってはな
  らない!
●『心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成らざらん』という詞にもある如く、目標達
  成の鍵は、偏にわが心にあることを再認識して、真実一路、邁進しようではないか!
●顕正とは鉄板に種を撒くようなもの!
●邪を憎む気持ちは真実が判らなければ絶対に起きてこない!
●顕正とは情熱!真剣に仏教の話をすること!相手の幸福を念じて「判ってほしい」
  の心で精一杯やることだ!
●顕正とは口だけではなく、体全体で示していかねばならないものだ!

決定的な言葉とは?
  決定的な言葉はない!もしある人が一つの言葉で判ったとすれば、それまでその人
に対して、長い間、話し続けて来たからだ!その長い努力があったなればこそ、判っ
たのです。努力もせず、決定的な言葉、一言で判らせることは出来ない!

●宿善を求める道は、努力の積み重ね!仏法に真剣になればなるほど、勉強との両立
  に苦しむようになる。
●我々はやがて必ず死なねばなりません。だから『後生はどうなるか』は万人の大問
  題です!
●本当に自分自身が後生の一大事を解決したいと思うなら、人並みのことをしていて
  も、それは出来ないことは目に見えて明らかだ!
●後生の一大事の重さが知らされたら、その解決の道は行学に徹し切るしかないので
  ある!
●我々には真の信念がある!相手がどんな信念をもっていようが、真実の言葉は着実
  に相手の心に尽き刺さる!すぐには分かって貰えないかも知れない。しかし必ず撒
  いた種は生えるのである!
   ただひたすら叫べ!声を限りに叫べ!それが我々の聖使命であり、自分の後生の
  一大事の解決へとつながるのである!真実開顕に命を燃やせ!
●求道の過程において求め過ぎという言葉がない以上、真実開顕にやりすぎというこ
  とはない!この世のことでも、鼻風邪を治してくれた医者より、癌を治してくれた
  医者のことを話さずにおれないように、事の重大さを知らされた度合いに応じて、
  破邪顕正の熱も違ってくる!
●真宗改革は如来聖人の厳命だ!
●『疑いも、誹謗も、中傷も、すべて仏法を伝える縁』と喜ばれ、破邪顕正を敢行な
  された、親鸞聖人の厳しさ、激しさを!
●悪魔の誘いは巧妙だ!いろんな弱い心が起きてくる。しかし、その心に負けてはい
  けない!一つ心を許したら、惑業苦を繰り返し、そのまま無間の火城に突っ込むだ
  けだ!挫けそうになったら、その時こそ、真実を叫べ!何回も何回も叫べ!真実の
  かけらもない自己が見えてくるであろう!
●しかも最後は『言葉の壁ではなく、心の壁だ』と善知識は仰有っています。心の壁
  を破るにはたゆまぬ顕正しかありません!
●破邪顕正はまさに人から人への真実の送り火である!
●今も昔も人生の目的を知らぬまま、一生を終える人のいかに多いことであるか!
●『花の香りは風に逆らっては、流れませんが、善知識の真実の言葉は世の風に逆ら
  って流れ響きます。』
●『仏法を聞いて貰えなければ、聞くまで顕正する!仏法を聞くようになれば、納得
  するまで顕正する!納得したならば、その人が自ら聴聞するところまで顕正する!
  自ら聴聞するようになれば、人に伝えずにおれないところまで、重ねて顕正する!
  そこまでいかないと真の顕正とは言えない!』
●求め切れるか否かは、偏に人生の目的の大切さが分かっているかである。
●今の一秒を大切に、それは私の人生そのもの。
●難問は常に投げ掛けられる。その苦しみから逃げれば地獄!その苦しみに真正面か
  らぶつかれば必ず道は開ける!
●顕正は話術ではない!その言葉に込められた信念!それこそが相手を引き付ける!
●我々が知らされた人生の目的とは、哲学、文学など、どれだけ捏ね回しても明らか
  にされなかった大問題であり、かつ、人間が人間たりうる最高の真実である!
●“千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす”剣豪、宮本武蔵の言葉である。剣の
  道を極めようと、来る日も来る日も休むことなく、修練を積み重ねていった男。
  しかしなお、『剣の道は極め難し』と嘆じている。所詮は相対のもの、卒業もなけ
  れば、真の幸福もない、しかしそのようなものに向かってさえ、武蔵は、あれだけ
  の気迫と鍛練をもって精を出しているのである!
●大衆の迷いは深い、だから真実を伝える者はもっと強くならねばならない!
●仏法は迅速なる無常との戦い!仏法に明日はない!
●やがて一切は滅びゆく!急がねば!人生の日が暮れぬうちに!

●“地球を救う使命を帯びて、戦う男、燃ゆるロマン。誰かがこれをやらねばならぬ
  、期待の人が俺達ならば”(宇宙戦艦大和)

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