浄土真要鈔本
それ、一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなわち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願をとくなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行をとかず、「乃至十念の行者かならず往生をうべし」ととけるゆえなり。しかのみならず、おなじき『経』の三輩往生の文にみな通じて「一向専念無量寿仏」とときて「一向にもっぱら無量寿仏を念ぜよ」といえり。「一向」というは「ひとつにむかう」という、ただ、念仏の一行にむかえとなり。「専念」というは、「もっぱら念ぜよ」という。ひとえに、弥陀一仏を念じたてまつるほかに、二つをならぶることなかれとなり。これによりて、唐土の高祖、善導和尚は、正行と雑行とをたてて、雑行をすてて正行に帰すべきことわりをあかし、正業と助業とをわかちて、助業をさしおきて正業をもっぱらにすべき義を判ぜり。ここにわが朝の善知識、黒谷の源空聖人、かたじけなく如来のつかいとして、末代片州の衆生を教化したまう。そののぶるところ釈尊の誠説にまかせ、そのひろむるところもっぱら高祖の解釈をまもる。
かの聖人のつくりたまえる『選択集』にいわく、「速欲離生死 二種勝法中 且閣聖道門 選入浄土門 欲入浄土門 正雑二行中 且抛諸雑行 選応帰正行 正助二業中 猶傍於助業 選応専正定 正定之業 即是称仏名 称名必得生 依仏本願故」といえり。この文のこころは、「すみやかに生死をはなれんとおもわば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門をさしおきて、えらんで浄土門にいれ、浄土門にいらんとおもわば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすててえらんで正行に帰すべし。正行を修せんとおもわば、正助二業のなかに、なお助業をかたわらにしてえらんで正定をもっぱらにすべし。正定の業というは、すなわちこれ仏名を称するなり。みなを称すればかならずうまるることをう。仏の本願によるがゆえに」となり。すでに南無阿弥陀仏をもって、正定の業と、なづく。「正定の業」というは、まさしくさだめるたねというこころなり。これすなわち、往生のまさしくさだるたねは念仏の一行なりと、なり。
「自余の一切の行は、往生のためにさだまれるたねにあらず」ときこえたり。しかれば、決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもっぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。しかるにこのごろ浄土の一宗において、面々に義をたて行を論ずるいえいえ、みなかの黒谷のながれにあらずということなし。しかれども解行みなおなじからず。おのおの真仮をあらそい、たがいに邪正を論ず。まことに是非をわきまえがたしといえども、つらつらその正意をうかがうに、もろもろの雑行をゆるし諸行の往生を談ずる義、とおくは善導和尚の解釈にそむき、ちかくは源空聖人の本意にかないがたきものをや。しかるにわが親鸞聖人の一義は、凡夫のまめやかに生死をはなるべきおしえ、衆生のすみやかに往生をとぐべきすすめなり。そのゆえは、ひとえにもろもろの雑行をなげすてて、もっぱら一向専修の一行をつとむるゆえなり。
これすなわち余の一切の行はみなとりどりにめでたけれども、弥陀の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらず。念仏の一行はこれ弥陀選択の本願なり、釈尊付属の行なり。諸仏証誠の法なればなり。釈迦・弥陀および十方の諸仏の御こころにしたがいて念仏を信ぜんひと、かならず往生の大益をうべしということ、うたがいあるべからず。かくのごとく、一向に行じ、一心に修すること、わが流のごとくなるはなし。さればこの流に帰して修行せんひと、ことごとく決定往生の行者なるべし。しかるにわれらさいわいにそのながれをくみて、もっぱらかのおしえをまもる、宿因のもよおすところ、よろこぶべし、とうとむべし。
まことに恒沙の身命をすてても、かの恩徳を報ずべきものなり。釈尊・善導この法をときあらわしたまうとも、源空・親鸞出世したまわずは、われらいかでか浄土をねがわん。たといまた源空・善導この法をときあらわしたまうとも、源空・親鸞出世したまわずは、われらいかでか浄土をねがわん。たといまた源空・親鸞世にいでたまうとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の善知識ましまさずは、真実の信心をつたえがたし。善導和尚の『般舟讃』にいわく、「若非本師知識勧 弥陀浄土云何入」といえり。
文のこころは、もし本師・知識のすすめにあらずは、弥陀の浄土いかんしてかいらんと、なり。「知識のすすめなくしては浄土にうまるべからず」とみえたり。また法照禅師の『五会法事讃』にいわく、「曠劫已来流浪久 随縁六道受輪回 不遇往生善知識 誰能相勧得回帰」といえり。この文のこころは「曠劫よりこのかた流浪せしことひさし、六道生死にめぐりて、さまざまの輪回のくるしみをうけき、往生の善知識にあわずはたれかよくあいすすめて弥陀の浄土にうまるることをえん」となり。しかればかつは仏恩を報ぜんがため、かつは師徳を謝せんがために、この法を十方にひろめて、一切衆生をして、西方の一土にすすめいれしむべきなり。
『往生礼讃』にいわく、「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化真成報仏恩」といえり。こころは「みずからもこの法を信じ、ひとをしても信ぜしむること、かたきがなかにうたたさらにかたし、弥陀の大悲をつたえてあまねく衆生を化する、これまことに仏恩を報ずるつとめなり」というなり。
問うていわく、「諸流の異義まちまちなるなかに、往生の一道において、あるいは平生業成の義を談じ、あるいは臨終往生ののぞみをかけ、あるいは来迎の義を執し、あるいは不来迎のむねを成ず。いまわが流に談ずるところ、これらの義のなかにいずれの義ぞや。」こたえていわく、「親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして、臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして、来迎の義を執せず。ただし、平生業成というは、平生に仏法にあう機にとりてのことなり。もし臨終に法にあわば、その機は臨終に往生すべし。平生をいわず、臨終をいわず。ただ信心をうるとき、往生すなわちさだまるとなり。これを、「即得往生」という。これによりて、わが聖人のあつめたまえる『教行証の文類』の第二、「正信偈」の文にいわく、「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」といえり。
この文のこころは、「よく一念歓喜の信心をおこせば、煩悩を断ぜざる具縛の凡夫ながらすなわち涅槃の分をう、凡夫も聖人も五逆も謗法もひとしくうまる。たとえばもろもろのみずの、うみにいりぬれば、ひとつうしおのあじわいとなるがごとく、善悪さらにへだてなし」というこころなり。ただ一念の信心さだまるとき、竪に貪・瞋・痴・慢の煩悩を断ぜずといえども、横に三界・六道輪回の果報をとずる義あり。
しかりといえどもいまだ凡身をすてず、なお果縛の穢体なるほどは、摂取の光明のわが身をてらしたまうをもしらず、化仏・菩薩の、まなこのまえにましますをもみたてまつらず。しかるに一期のいのちすでにつきて、いきたえまなことずるとき、かねて証得しつる往生のことわり、ここにあらわれて、仏・菩薩の相好をも拝し、浄土の荘厳をもみるなり。これさらに臨終のときはじめてうる往生にはあらず。されば、至心・信楽の信心をえながら、なお往生をほかにおきて、臨終のとき、はじめてえんとおもうべからず。したがいて、信心開発のとき、摂取の光益のなかにありて往生を証得しつるうえには、いのちのおわるときただそのさとりのあらわるるばかりなり。ことあたらしくはじめて聖衆の来迎にあずからんことを期すべからずとなり。
さればおなじきつぎじもの解釈にいわく、「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といえり。この文のこころは、阿弥陀如来の摂取の心光はつねに行者をてらしまもりて、すでによく無明のやみを破すといえども、貪欲・瞋恚等の悪業、くもきりのごとくして真実信心の天をおおえり。たとえば日のひかりの、くもきりにおおわれたれども、そのしたはあきらかにしてくらきことなきがごとしと、なり。されば信心をうるとき摂取の益にあずかる。摂取の益にあずかるがゆえに正定聚に住す。しかれば、三毒の煩悩は、しばしばおこれども、まことの信心はかれにもさえられず。顛倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。かるがゆえに、もしは平生、もしは臨終、ただ信心のおこるときは往生はさだまるぞと、なり。これを「正定聚に住す」ともいい、「不退のくらいにいる」ともなづくるなり。
このゆえに聖人またのたまわく、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆえに。臨終まつことと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいうべし。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚に住す。正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。滅度にいたるがゆえに、大涅槃を証するなり。かるがゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」といえり。これらの釈にまかせば、真実信心のひと、一向専念のともがら、臨終をまつべからず、来迎を期すべからずということ、そのむねあきらかなるものなり。
問うていわく、「聖人の料簡はまことにたくみなり、あおいで信ず。ただし経文にかえりて理をうかがうとき、いずれの文によりてか、来迎を期せず臨終をまつまじき義をこころうべきや。たしかなる文義をききて、いよいよ堅固の信心をらんとおもう。」
こたえていわく、「凡夫、智あさし。いまだ経釈のおもむきをわきまえず。聖教万差なれば、方便の説あり、真実の説あり。機に対すればいずれもその益あり。一遍に義をとりがたし。ただ祖師のおしえをききて、わが信心をたくわうるばかりなり。しかるに、世のなかにひろまれる諸流みな臨終をいのり来迎を期す。これを期せざるはひとりわがいえなり。しかるあいだこれをきくものはほとほとみみをおどろかし、これをそねむものははなはだあざけりをなす。しかれば、たやすくこの義を談ずべからず。他人謗法のつみをまねかざらんがためなり。それ、親鸞聖人は深智博覧にして内典・外典にわたり、恵解高遠にして聖道・浄土をかねたり。ことに浄土門にいりたまいしのちは、もっぱら一宗のふかきみなもとをきわめ、あくまで明師のねんごろなるおしえをうけたまえり。あるいはそのゆるされをこうぶりて製作をあいつたえ、あるいはかのあわれみにあずかりて真影をうつしたまわらしむ。としをわたり日をわたりて、そのおしえをうくるひと千万なりといえども、したしきといい、うときといい、製作をたまわり真影をうつすひとはそのかずおおからず。したがいて、この門流のひろまれること自宗・他宗にならびなく、その利益のさかりなること田舎・辺鄙におよべり。
化導のとおくあまねきは、智恵のひろきがいたすところなり。しかれば、相承の義さだめて仏意にそむくべからず。ながれをくむやから、ただあおいで信をとるべし。無智の末学なまじいに経釈について義を論ぜば、そのあやまりをのがれがたきか。よくよくつつしむべし。ただし、一分なりとも信受するところの義、一味同行のなかにおいてこれをはばかるべきにあらず。いまこころみに料簡するに、まず浄土の一門をたつることは三部妙典の説にいでたり。そのなかに、弥陀如来因位の本願をときて凡夫の往生を決すること、『大経』の説これなり。その説というは四十八願なり。
四十八願のなかに、念仏往生の一益をとくことは第十八の願にあり。しかるに第十八の願のなかに、臨終平生の沙汰なし、聖衆来現の儀をあかさず。かるがゆえに、十八の願に帰して念仏を修し往生をねがうとき、臨終をまたず来迎を期すべからずとなり。すなわち、第十八の願にいわく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」といえり。この願のこころは、「たといわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心をいたし信楽して、わがくににうまれんとおもうて、乃至十念せん、もしうまれずは正覚をとらじ」となり。
この願文のなかに、まったく臨終ととかず平生といわず、ただ至心信楽の機において十念の往生をあかせり。しかれば臨終に信楽せば臨終に往生治定すべし、平生に至心せば平生に往生決得すべし。さらに平生と臨終とによるべからず。ただ仏法にあう時節の分斉にあるべし。しかるに、われらはすでに平生に聞名欲往生の義あり。ここにしりぬ、臨終の機にあらず平生の機なりということを。かるがゆえにふたたび臨終にこころをかくべからずとなり。しかのみならず、おなじき第十八の願成就の文にいわく、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」といえり。
この文のこころは、「あらゆる衆生、その名号をききて、信心歓喜し、乃至一念せん、至心に回向したまえり、かのくににうまれんと願ずれば、すなわち往生をえ、不退転に住す」となり。こころは「一切の衆生、無碍光如来のみなをききえて、生死出離の強縁ひとえに念仏往生の一道にあるべし、とよろこびおもうこころの一念おこるとき、往生はさだまるなり。これすなわち、弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまえりしゆえなり」となり。この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき一念というは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。これすなわち、相好・光明等の功徳を観想する念にあらず、ただかの如来の名号をききえて、機教の分限をおもいさだむるくらいをさすなり。
されば、親鸞聖人はこの一念を釈すとして、「一念というは信心を獲得する時節の極促をあらわす」(信巻)と判じたまえり。しかればすなわち、いまいうところの「往生」というは、あながちに命終の時にあらず、無始已来、輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされて、涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり。すなわち、これを「即得往生 住不退転」とときあらわさるなり。「即得」というは、「すなわち、う」となり。「すなわち、う」というは、ときをへだてず日をへだてず念をへだてざる義なり。されば一念帰命の解了たつとき、往生やがてさだまるとなり。「うる」というはさだまるこころなり。この一念帰命の信心は凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。しかれば二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもって、一処には如来の願力にたとえ、一処には行者の信心にたとえたり。
「如来の願力にたとう」というは、「念念無遺 乗彼願力之道」(散善義)といえるこれなり。こころは「貪瞋の煩悩にかかわらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとう」というは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」(散善義)といえるこれなり。こころは「貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といわれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなわち、行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらわすなり。したがいて、「清浄の心」といえるも如来の智心なりとあらわすこころなり。
もし凡夫我執の心ならば清浄の心とは釈すべからず。このゆえに『経』(大経)には、「令諸衆生功徳成就」といえり。こころは「弥陀如来因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまう」となり。それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまう覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫已来の成道をとなえしたまいしは、果後の方便なり。これすなわち、「衆生往生すべくはわれも正覚をとらん」とちかいて、衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに、衆生の往生さだまりしかば、仏の正覚もなりたまいき。その正覚いまだなりたまわざりしいにしえ、法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまいしとき、未来の衆生を浄土に往生すべきたねをば、ことごとく成就したまいき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまったくひとつになるなり。
このくらいに無碍光如来の光明、かの帰命の信心を摂取してすてたまわざるなり。これを『観無量寿経』には、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」ととき、『阿弥陀経』には、「皆得不退転 於阿耨多羅三藐三菩提」ととけるなり。「摂取不捨」というは、弥陀如来の光明のなかに念仏の衆生をおさめとりて、すてたまわずとなり。これすなわちかならず浄土に生ずべきことわりなり。「不退転をう」というは、ながく三界・六道にかえらずして、かならずして、かならず無上菩提をうべきくらいにさだまるなり。
浄土真要鈔本
本願寺住持存如(花押)
大谷本願寺上人之御流之聖教也
浄土真要鈔末
問うていわく、念仏の行者一念の信心さだまるとき、あるいは「正定聚に住す」といい、あるいは「不退転をう」ということ、はなはだおもいがたし。そのゆえは、正定聚というはかならず無上の仏果にいたるべきくらいにさだまるなり。不退転というは、ながく生死にかえらざる義をあらわすことばなり。そのことばことなりといえども、そのこころおなじかるべし。これみな浄土にうまれてうるくらいなり。しかれば、「即得往生 住不退転」といえるも、浄土にしてうべき益なりとみえたり。いかでか穢土にしてたやすくこのくらいに住すというべきや。 こたえていわく、土につき機につきて退・不退を論ぜんときは、まことに、穢土の凡夫、不退にかなうということあるべからず。浄土は不退なり、穢土は有退なり。菩薩のくらいにおいて不退を論ず。凡夫はみな退位なり。しかるに薄地底下の凡夫なれども、弥陀の名号をたもちて金剛の信心をおこせば、よこさまに三界流転の報をはなるるゆえに、その義、不退をうるにあたれるなり。これすなわち、菩薩のくらいにおいて論ずるところの位・行・念の三不退等にはあらず。いまいうところの不退というは、これ心不退なり。されば、善導和尚の『往生礼讃』には、「蒙光触者心不退」と釈せり。こころは、「弥陀如来の摂取の光益にあずかりぬれば、心不退をう」となり。まさしくかの『阿弥陀経』の文には、「欲生阿弥陀仏国者 是諸人等 皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提」といえり。「願をおこして阿弥陀仏のくににうまれんとおもえば、このもろもろのひとらみな不退転をう」といえる、現生において願生の信心をおこせば、すなわち不退にかなうということ、その文、はなはだあきらかなり。またおなじき『経』のつぎかみの文に、念仏の行者のうるところの益をとくとして、「是諸善男子善女人 皆為一切諸仏 共所護念 皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提」といえり。こころは、「このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて、みな不退転を阿耨多羅三藐三菩提をう」となり。しかれば、阿弥陀仏のくににうまれんとおもうまことなる信心のおこるとき、弥陀如来は遍照の光明をもって、これをおさめとり、諸仏はこころをひとつにしてこの信心を護念したまうがゆえに、一切の悪業煩悩にさえられず、この心すなわち不退にしてかならず往生をうるなり。これを「即得往生 住不退転」ととくなり。「すなわち往生をう」といえるは、やがて往生をうというなり。ただし、「即得往生 住不退転」といえる、浄土に往生して、不退をうべき義を遮せんとにはあらず。まさしく往生ののち、*708三不退をもえ、処不退にもかなわんことはしかなり。処々の経釈そのこころなきにあらず。与奪のこころあるべきなり。しかりといえども、いま「即得往生 住不退転」といえる本意には、証得往生現生不退の密益をときあらわすなり。これをもってわが流の極致とするなり。かるがゆえに、聖人、『教行証の文類』のなかに、処々にこの義をのべたまうなり。かの『文類』の第二にいわく、「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(正信偈)といえり。こころは、「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に、すなわちのとき、必定にいる、ただつねに如来のみなを称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」となり。「すなわちのとき」というは、信心をうるときをさすなり。「必定のいる」というは、正定聚に住し、不退にかなうというこころなり。この凡夫の身ながら、かかるめでたき益をうることは、しかしながら弥陀如来の大悲願力のゆえなれば、「つねにその名号をとなえてかの恩徳を報ずべし」とすすめたまえり。またいわく、「十方群生海、この行信に帰命するものを摂取してすてず。かるがゆえに阿弥陀となづけたてまつる。これを他力という。ここをもって龍樹大士は「即時入必定」といい、曇鸞大師は「入正定之聚」といえり。あおいでこれをたのむべし、もっぱらこれを行ずべし」といえり。「龍樹大士は即時入必定という」というは、『十住毘婆沙論』に「人能念是仏 無量力功徳 即時入必定 是故我常念」といえる文これなり。この文のこころは、「日とよくこの仏の無量力功徳を念ずれば、すなわちのとき必定にいる。このゆえにわれつねに念ず」となり。「この仏」といえるは阿弥陀仏なり。「われ」といえるは龍樹菩薩なり。さきにいだすところの「憶念弥陀仏本願力」の釈も、これ龍樹の論判によりてのべたまえるなり。「曇鸞大師は入正定之聚といえり」というは、『論註』の上巻に「但以信仏因縁 願生浄土 乗仏願力 便得往生 彼清浄土 仏力住持即入大乗正定之聚」といえる文これなり。文のこころは「ただ仏を信ずる因縁をもって、浄土にうまれんとねがえば、仏の願力に乗じて、すなわち、かの清浄の土に往生することをう。仏力住持してすなわち大乗正定の聚にいる」となり。これも文の顕説は、浄土にうまれてのち正定聚に住する義をとくににたりといえども、そこには願生の信を生ずるとき不退にかなうことをあらわすなり。なにをもってかしるとならば、この『註論』の釈は、かの『十住毘婆沙論』のこころをもって釈するがゆえに、本論のこころ現身の益なりとみゆるうえは、いまの釈もかれにたがうべからず。聖人ふかくこのこころをえたまいて、信心をうるとき正定のくらいに住する義を、ひき釈したまえり。「すなわち」といえるは、ときをうつさず、念をへだてざる義なり。またおなじき第三に、領解の心中をのべたまうとして、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず」といえり。これすなわち、定聚のかずにいることをば現生の益なりとえて、これをよろこばずと、わがこころをはじしめ、真証のさとりをば生後の果なりとえて、これをちかづくことをたのしまずと、かなしみたまうなり。「定聚」といえるはすなわち不退のくらい、また必定の義なり。「真証のさとり」といえるはこれ滅度なり。また「常楽」ともいう、「法性」ともいうなり。また、おなじき第四に、第十一の願によりて真実の証をあらわすに、「煩悩成就の凡夫・生死罪濁の群萠、往相回向の心行をうれば、すなわちのときに大乗正定聚のかずにいる。正定聚に住するがゆえにかならず滅度にいたる。かならず滅度にいたるは、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり実相はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり」といえる、すなわちこのこころなり。聖人の解了、常途の所談におなじからず。甚深の教義、よくこれをおもうべし。
問うていわく、『観経』の下輩の機をいうに、みな臨終の一念・十念によりて往生をうとみえたり。まったく平生往生の義をとかず、いかん。
こたえていわく、『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆえに、うまれてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業をつくることをのみしれり。しかるに、臨終のときはじめて一念・十念の往生をとぐといえり。これすなわち、つみふかく悪おもき機、行業いたりてすくなけれども、願力の不思議によりて刹那に往生をとぐ。これあながちに臨終を賞せんとにはあらず、法の不思議をあらわすなり。もしそれ平生に仏法にあわば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。
問うていわく、十八の願について因位の願には十念と願じ、願成就の文には一念ととけり。二文の相違いかんこころうべきや。 こたえていわく、因願の中に「十念」といえるは、まず三福等の諸善に対して十念の往生をとけり。これ易行をあらわすことばなり。しかるに成就の文に「一念」といえるは、易行のなかになお易行をえらびとるこころなり。そのゆえは「観経義」の第二に、「十三定善のほかに三福の諸善をとくことを釈す」として、「若依定行 即摂生不尽 是以如来方便 顕開三福 以応散動根機」(序分義)といえり。文のこころは「もし定行によれば、すなわち生を摂するにつきず、ここをもって、如来、方便して三福を開顕して散動の根機に応ず」となり。いうこころは「『観経』のなかに、定善ばかりをとかば、定機ばかりを摂すべきゆえに、散機の往生をすすめんがために散善をとく」となり。これになずらえてこころうるに、散機のなかに二種のしなあり。ひとつには善人、ふたつには悪人なり。その善人は三福を行ずべし。悪人はこれを行ずべからざるがゆえに、それがために十念の往生をとくとこころえられたり。しかるに、この悪人のなかにまた長命・短命の二種あるべし。長命のためには十念をあたう。至極短命の機のためには一念の利生を成就すとなり。これ他力のなかの他力、易行のなかの易行をあらわすなり。一念の信心さだまるとき往生を証得せんこと、これその証なり。
問うていわく、因縁には「十念」ととき、成就の文には「一念」ととくといえども、処々の解釈おおく十念をもって本とす。いわゆる『法事讃』には「上尽一形至十念」といい、『礼讃』には「称我名号 下至十声」といえる釈等これなり。したがいてよのつねの念仏の行者をみるに、みな十念をもって行要とせり。しかるに一念をもってなお「易行のなかの易行なり」ということ、御没かなし、いかん。
こたえていわく、処々の解釈、十念と釈すること、あるいは因縁のなかに、十念とときたれば、その文によるとこころえぬれば相違なし。よのつねの行者のもちいるところ、またこの義なるべし。「一念」といえるも、また経釈の明文なり。いわゆる経には『大経』の成就の文、おなじき流通の文等これなり。成就の文はさきにいだすがごとし。下輩の文というは「乃至一念念於彼仏」といえる文これなり。流通の文*712というは「其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至十念 当知此人 為得大利 即是具足 無上功徳」といえる文これなり。この文のこころは、「それ、かの仏の名号をきくことをえて、歓喜踊躍して乃至一念することあらん。まさにしるべし、このひとは大利をうとす。すなわち、これ無上の功徳を具足するなり」となり。釈には、『礼讃』のなかに、あるいは、「弥陀本弘誓願 及称名号 下至十声 一声等 定得往生 乃至一念無有疑心」といい、あるいは「歓喜至一念 皆当得生彼」といえる釈等これなり。おおよそ「乃至」のことばをおけるゆえに、「十念」といえるも十念にかぎるべからず、「一念」といえるも、一念にとどまるばからず。一念のつもれるは十念、十念のつもれるは一形、一形をつづむれば十念、十念をつづむれば一念なれば、ただこれ修行の長短なり。かならずしも十念にかぎるべからず。しかれば『選択集』に諸師と善導和尚と、第十八の願において名をたてたることのかわりたる様を釈するとき、このこころあきらかなり。そのことばにいわく、「諸師の別して、十念往生の願といえるは、そのこころすなわちあまねからず。しかるゆえは、かみ一形をすて、しも一念をすつるがゆえなり。善導の総じて「念仏往生の願」といえる、そのこころすなわちあまねし。しかるゆえは、かみ一形をとり、しも一念をとるがゆえなり」となり。しかのみならず、『教行証文類』の第二に、『安楽集』をひきていわく、「十念相続というはこれ聖者のひとつのかずの名ならくのみ。すなわちよく念をつみ、おもいをこらして、他事を縁ぜざれば、業道成弁せしめて、すなわちやみぬ。またいたわしくこれを頭数をしるさず」といえり。「十念」といえるは、臨終に仏法にあえる機についていえることばなり。されば、経文のあらわなるについて、ひとおおくこれをもちいる。これすなわち臨終をさきとするゆえとみえたり。平生に法をききて畢命を期とせんひと、あながちに十念をこととすべからず。さればとて十念を非するにはあらず。ただ、おおくも、すくなくも、ちからのたえんにしたがいて行ずべし、かならずしもかずをさだむべきにあらずとなり。いわんや、聖人の釈義のごとくは、一念といえるについて、行の一念と信の一念とをわけられたり。いわゆる「行の一念」をば真実行のなかにあらわして、「行の一念というは、いわく、称名の遍数について選択易行の至極を開顕す」といい、「信の一念」をば真実信のなかにあらわして、「信楽に一念あり、一念というは、これ、信楽開発の時剋の極促をあらわし、広大難思の慶心をあらわす」といえり。かみにいうところの十念・一念は、みな行について論ずるところなり。信心についていわんときは、ただ一念開発の信心をはじめとして一念の疑心をまじえず、念念相続してかの願力の道に乗ずるがゆえに、名号をもってまったくわが行体とさだむべからざれば、「十念」とも、「一念」ともいうべからず。ただ他力の不思議をあおぎ、法爾往生の道理にまかすべきなり。
問うていわく、来迎は念仏の益なるべきこと経釈ともに歴然なり。したがいて、諸流みなこの義を存せり。しかるに来迎をもって諸行の益とせんこと、すこぶる浄土宗の本意にあらざるをや。
こたえていわく、あにさきにいわずや。この義はこれ、わが一流の所談なりとは。他流の義をもって当流の義を難ずべからず。それ、経釈の文においては自他ともに依用す。ただ料簡のまちまちなるなり。まず、来迎をとくことは、第十九の願にあり。かの願文をあきらめて、こころうべし。その願にいわく、「設我得仏 十方衆生 発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国 臨終終時 仮令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚」といえり。この願のこころは、「たといわれ仏をえたらんに、十方の衆生、菩提心をおこし、もろもろの功徳を修して、心をいたして、願をおこして、わがくににうまれんとおもわん、いのちおわるときにのぞみて、たとい大衆と囲繞して、そのひとのまえに現ぜずは、正覚をとらじ」となり。「修諸功徳」というは諸行なり。「現其人前」というは来迎なり。諸行の修因にこたえて来迎にあずかるべしということ、その義あきらかなり。されば、得生は十八の願の益なり。この両願のこころをえなば、経文にも解釈にも来迎をあかせるは、みな十九の願の益なりとこころうべきなり。ただし、念仏の益に来迎あるべきようにみえたる文証、ひとすじにこれなきにはあらず。しかれども、聖教において、方便の説あり、真実の説あり、一応の義あり、再往の義あり。念仏において来迎あるべしとみえたるは、みな浅機を引せんがための、一往方便の説なり。深理をあらわすときの再往真実の義にあらずとこころうべし。当流の料簡かくのごとし。善導和尚の解釈にいわく、「道理雖遥 去時一念即到」(序分義)といえり。こころは「浄土と穢土と、そのさかいはるかなるににたりといえども、まさしくさるときは、一念にすなわちいたる」というこころなり。往生の時分一念なれば、そのあいだには、さらに来迎の儀式もあるべからず。まどいをひるがえして、さとりをひらかんこと、ただたなごころをかえすへだてなるべし。かくのごときの義、もろもろの有智のひとそのこころをえつべし。
問うていわく、経文について十八・十九の両願をもって、得生と来迎とにわかちあつる義、一流の所談ほぼきこえおわりぬ。ただし解釈についてなお不審あり。諸師の釈はしばらくこれをさしおく。まず善導一師の釈において処々に来迎を釈せられたり。これみな念仏の益なりとみえたり。いかがこころうべきや。
こたえていわく、和尚の解釈に来迎を釈することはしかなり。ただし一往は念仏の益ににたれども、これみな方便なり。実に諸行の益なるべし。そのゆえは、さきにのぶるがごとく、念仏往生のみちをとくことは第十八の願なり。しかるに、和尚、処々に十八の願をひき、釈せらるるに、まったく来迎の義を釈せられず。十九の願にとくところの来迎、もし十八の願の念仏の益なるべきならば、もっとも十八の願をひくところに来迎を釈せらるべし。しかるにその文なし。あきらかにしりぬ、来迎は念仏の益にあらずということを。よくよくこれをおもうべし。
問うていわく、第十八の願をひき、釈せらるる処々の解釈というはいずれぞや。
こたえていわく、まず『観経義』の「玄義分」に二処あり。いわゆる序題門・二乗門の釈これなり。まず序題門の釈には「言弘願者 如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗 阿弥陀仏 大願業力 為増上縁」といえり。こころは「弘願といは『大経』にとくがごとし。一切善悪の凡夫うまるることをうるものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせずということなし」となり。これ十八の願のこころなり。つぎに二乗門の釈には「若我得仏 十方衆生 称我名号 願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚」といえり。また『往生礼讃』には「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」といい、『観念法門』には「若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚」といえり。これらの文そのことばすこしき加減ありといえども、そのこころおおきにおなじ。文のこころは*716「もしわれ成仏せんに、十方の衆生わがくにに生ぜんと願じて、わが名字を称すること、しも十声にいたらん、わが願力に乗じてもしうまれずは、正覚をとらじ」となり。あるいは「称我名号」といい、あるいは「乗我願力」といえる、これらのことばは本経になけれども、義としてあるべきがゆえに、和尚のこの句をくわえられたり。しかれば、来迎の益も、もし、まことに念仏の益にしてこの願のなかにあるべきならば、もっともこれらの引文のなかにこれをのせらるべし。しかるにその文なきがゆえに、来迎は念仏の益にあらずとしらるるなり。処々の解釈においては来迎を釈すというとも、「十八の願の益」と釈せられずは、その義、相違あるべからず。
問うていわく、念仏の行者は十八の願に帰して往生をえ、諸行の行人は十九の願をたのみて来迎にあずかるといいて、各別にこころうることしかるべからず。そのゆえは念仏の行者の往生をうというは、往生よりさきには来迎にあずかるべし。諸行の行人の来迎にあずかるというは、来迎ののちには往生をうべし。なんぞ各別にこころうべきや。
こたえていわく、親鸞聖人の御意をうかがうに、念仏の行者の往生をうるというは化仏の来迎にあずからず。もしあずかるというは、報仏の来迎なり。これ摂取不捨の益なり。諸行の行人の来迎にあずかるというは真実の往生をとげず。もしとぐるというもこれ胎生辺地の往生なり。念仏と諸行と、ひとつにあらざれば、往生と来迎と、またおなじかるべからず。しかれば、他力真実の行人は、第十八の願の信心をえて、第十一の必至滅度の願の果をうるなり。これを「念仏往生」という。これ真実報土の往生なり。この往生は一念帰命のときさだまりて、かならず滅度にいたるべきくらいをうるなり。このゆえに聖人の『浄土文類聚鈔』にいわく、「必至無上浄信暁 三有生死之雲晴 一如法界真身顕」といえり。文のこころは、「かならず無上浄信のあかつきにいたれば、三有生死のくもはる。清浄無碍の光耀ほがらかにして、一如法界の真身あらわる」となり。「三有生死のくもはる」というは、三界流転の業用よこさまにたえぬとなり。「一如法界の真身あらわる」というは、寂滅無為の一理をひそかに証すとなり。しかれども、煩悩におおわれ業縛にさえられて、いまだその理をあらわさず。しかるにこの一生をすつるとき、このことわりあらわるるところをさして、和尚は「この穢身をすててかの法性の常楽を証す」と釈したまえり。されば「往生」といえるも、生即無生のゆえに、実には不生不滅の義なり。これすなわち、弥陀如来清浄本願の無生の生なるがゆえに、法性清浄畢竟無生なり。さればとて、この無生の道理をここにして、あながちにさとらんとはげめとにはあらず、無智の凡夫は法性無生のことわりをしらずといえども、ただ仏の名号をたもち、往生をねがいて浄土にうまれぬれば、かの土はこれ無生のさかいなるがゆえに、見生のまどい、自然に滅して、無生のさとりにかなうなり。この義くわしくは曇鸞和尚の『註論』にみえたり。しかればひとたび安養にいたりぬればながく生・滅・去・来等のまどいをはなる。そのまどいをひるがえして、さとりをひらかん一念のきざみには、実には来迎もあるべからずとなり。来迎あるべしといえるは方便の説なり。このゆえに高祖善導和尚の解釈にも、「弥陀如来は娑婆にきたりたまう」とみえたるところもあり、また「浄土をうごきたまわず」とみえたる釈もあり。しかれども当流のこころにては、「きたる」といえるはみな方便なりとこころうべし。『法事讃』にいわく、「一坐無移亦不動 徹窮後際放身光 霊儀相好真金色 魏魏独坐度衆生」といえり。こころは「ひとたび坐してうつることなく、またうごきたまわず。後際を徹窮して身光をはなつ、霊儀の相好真金色なり、魏魏としてひとり坐して衆生を度したまう」となり。この文のごとくならば、「ひとたび正覚をなりたまいしよりこのかた、まことの報身はうごきたまうことなし。ただ浄土に坐してひかりを十方にはなちて、摂取の益をおこしたまう」とみえたり。おおよそしりぞいて他宗のこころをうかがうにも、「まことにきたる」と執するならば、大乗甚深の義にはかないがたきをや。されば、真言の祖師善無畏三蔵の解釈にも、「弥陀の真身の相を釈す」として、「理智不二 名弥陀身 不従他方 来迎引接」といえり。こころは「法身の理性と報身の智品とこのふたつきわまりて、ひとつなるところを弥陀仏となづく。他方より来迎引接せず」となり。「真実報身の体は来迎の義なし」とみえたり。自力不真実の行人は、第十九の願にちかいましますところの「修諸功徳 乃至 現其人前」の文をたのみて、のぞみを極楽にかく。しかれどももとより諸善は本願にあらず。浄土の生因にあらざるがゆえに、報土の往生をとげず。もしとぐるもこれ胎生辺地の往生なり。この機のためには臨終を期し、来迎をたのむべしとみえたり。これみな方便なり。されば願文の「仮令」の句は、現其人前も一定の益にあらざることをときあらわすことばなり。この機は聖衆の来迎にあずからず。臨終正念ならずしては辺地・胎生の往生もなお不定なるべし。しかれば本願にあらざる不定の辺地の往生を執せんよりは、仏の本願に順じて臨終を期せず来迎をたのまずとも、一念の信心さだまれば平生に決定往生の業を成就する念仏往生の願に帰して、如来の他力をたのみ、かならず真実報土の往生をとぐべきなり。
問うていわく、諸行の往生をもって辺地の往生ということ、いずれの文証によりてこころうべきぞや。
こたえていわく、『大経』のなかに胎生・化生の二種の往生をとくとき、「あきらかに仏智を信ずるものは化生して、仏智を疑惑して善本を修習するものは胎生する」義をとけり。しかれば「あきらかに仏智を信ずるもの」というは第十八の願の機、これ至心信楽の行者なり。その「化生」というはすなわち報土の往生なり。つぎに「仏智を疑惑して善本を修習するもの」というは第十九の願の機、修諸功徳の行人なり。その「胎生」といえるはすなわち辺地なり。この文によりてこころうるに、諸行の往生は胎生なるべしとみえたり。されば、十八の願に帰して念仏を行じ仏智を信ずるものは、得生の益にあずかりて、報土に化生し、十九の願をたのみて諸行を修するひとは、来迎の益をえて化土に胎生すべし。「化土」というはすなわち辺地なり。
問うていわく、いかなるをか「胎生」といい、いかなるをか「化生」となづくるや。
こたえていわく、おなじき『経』(大経)にまず「胎生の相をとく」としては、「生彼宮殿 寿五百歳 常不見仏 不聞経法 不見菩薩 声聞聖衆 是故於彼国土 謂之胎生」といえり。こころは「かの極楽の宮殿にうまれて、いのち五百歳のあいだ、つねに仏をみたてまつらず、経法をきかず、菩薩・声聞・聖衆をみず。このゆえにかの国土において、これを「胎生」という」なり。これ疑惑のものの生ずるところなり。つぎに「化生の相をとく」としては、「於七宝花中 自然化生 跏趺而坐 須臾之頃 身相光明 智恵功徳 如諸菩薩 具足成就」といえり。こころは「七宝のはなのなかにおいて、自然に跏趺してしかも坐す。須臾のあいだには、身相・光明・智恵・功徳、もろもろの菩薩のごとくして具足し成就す」となり。これ仏智を信ずるものの生ずるところなり。
問うていわく、なにによりてかいまいうところの胎生をもってすなわち辺地とこころうべきや。
こたえていわく、「胎生」といい、「辺地」といえる、そのことばことなれども別にあらず。『略論』(略論安楽浄土義)のなかにいまひくところの『大経』の文をいだして、これを結するに、「謂之辺地 亦曰胎生」といえり。「かくのごとく宮殿のなかに処するをもって、これを辺地ともいい、または、胎生とも、なづく」となり。またおなじき釈のなかに、「辺言其難 胎言其闇」といえり。こころは、「「辺」はその難をいい、「胎」はその闇をいう」となり、これすなわち、報土のうちにあらずして、そのかたわらなる義をもっては「辺地」という。これその難をあらわすことばなり。また仏をみたてまつらず法をきかざる義については、「胎生」という。これそのくらきことをいえる名なり、というなり。されば辺地にうまるるものは、五百歳のあいだ、仏をもみたてまつらず、法もきかず、諸仏にも歴事ぜず。報土にうまるるものは、一念須臾のあいだに、もろもろの功徳をそなえて、如来の相好をみたてまつり、甚深の法門をきき、一切の諸仏に歴事供養して、こころのごとく自在をうるなり。諸行と念仏とその因おなじからざれば、胎生と化生と勝劣ははるかにことなるべし。しかればすなわちその行因をいえば、諸行は難行なり。はやく難行をすてて易行に帰すべし。その益を論ずれば、来迎は方便なり、得生は真実なり。もっとも方便にとどまらずして真実をもとむべし。いかにいわんや来迎は不定の益なり、「仮令不与 大衆囲繞」ととくがゆえに。得生は決定の益なり、「若不生者 不取正覚」というがゆえに。その果処をいえば、胎生は化土の往生なり、化生は報土の往生なり。もっぱら化土の往生を期せずして、直に報土の無生をうべきものなりされば真実報土の往生をとげんとおもわば、ひとえに弥陀如来の不思議の仏智を信じて、もろもろの雑行をさしおきて、専修専念一向一心なるべし。第十八の願には諸行をまじえず、ひとえに念仏往生の一道をとけるゆえなり。
問うていわく、一流の義きこえおわりぬ。それにつきて信心をおこし往生をえんことは、善知識のおしえによるべしということ、かみにきこえき。しからば、善知識といえる体をばいかがこころうべきや。
こたえていわく、総じていうときは真の善知識というは諸仏・菩薩なり。別していうときは、われらに法をあたえたまえるひとなり。いわゆる『涅槃経』にいわく、「諸仏菩薩名知識 善男子 譬如船師 善度人故 名大船師 諸仏菩薩 亦復如是 度諸衆生 生死大海 以是義故 名善知識」といえり。この文のこころは「もろもろの仏・菩薩を善知識となづく。たとえば船師のよくひとをわたすがごとし。かるがゆえに大船師となづく。もろもろの仏・菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもってのゆえに善知識となづく」となり。されば真実の善知識は仏・菩薩なるべしとみえたり。しからば仏・菩薩のほかには善知識はあるまじきかとおぼゆるに、それにはかぎるべからず。すなわち、『大経』の下巻に仏法のあいがたきことをとくとして、「如来興世 難値難見 諸仏経道 難得難聞 菩薩勝法 諸波羅蜜 得聞亦難 遇善知識 聞法能行 此亦為難」といえり。文のこころは「如来の興世にあいがたく、みたてまつりがたし。諸仏の経道えがたくききがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜きくことをうることまたかたし。善知識にあいて法をきき、よく行ずることこれまたかたしとす」となり。されば「如来にもあいたてまつりがたし」といい、「菩薩の勝法もききがたし」といいて、そのほかに「善知識にあい法をきくこともかたし」といえるは、仏・菩薩のほかにも衆生のために法をきかしめんひとをば善知識というべしときこえたり。またまさしくみずから法をときてきかするひとならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識となづく。いわゆる「妙荘厳王の雲雷音王仏にあいたてまつり、邪見をひるがえし仏道をなり、二子夫人の引導によりしをば、かの三人をさして善知識ととけり。」また法花三昧の行人の五縁具足のなかに、「得善知識」といえるも、行者のために依怙となるひとをさすとみえたり。されば善知識は諸仏・菩薩なり。諸仏菩薩の総体は阿弥陀如来なり。その智恵をつたえ、その法をうけて、直にもあたえ、またしれらんひとにみちびきて法をきかしめんは、みな善知識なるべし。しかれば仏法をききて生死をはなるべきみなもとは、ただ善知識なり。このゆえに『教行証文類』の第六に、諸経の文をひきて善知識の徳をあげられたり。いわゆる『涅槃経』には「一切梵行の因は善知識なり、一切梵行の因無量なりといえども、善知識をとけばすなわちすでに摂在しぬ」といい、『華厳経』には「なんじ善知識を念ぜよ、われを生ずること父母のごとし、われをやしなうこと乳母のごとし、菩薩分を増長す」といえり。ひとたびそのひとにしたがいて仏法を行ぜんひとは、ながくそのひとをまもりてかのおしえを信ずべきなり。
浄土真要鈔広末
永享十年戊午八月十五日奉書之畢
右筆蓮如
大谷本願寺上人之御流之聖教也
本願寺住持存如(花押)