執持鈔
一 本願寺聖人の仰せに云わく、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆえに。臨終まつこと、来迎たのむことは、諸行往生のひとにいうべし。真実信心の行人は摂取不捨のゆえに正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。かるがゆえに臨終まつことなし。来迎たのむことなし。これすなわち第十八のこころなり。臨終をまち、来迎をたのむことは諸行往生をちかいまします第十九の願のこころなり。」
一 また、のたまわく、「「是非しらず 邪正もわかぬこの身にて 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」。往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをば、かえりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからうべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かえすがえす如来の御ちかいにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者とはいうなり。されば、われとして浄土へまいるべしとも、また地獄へゆくべしとも、さだむべからず。故聖人の黒谷源空聖人の御ことばなり の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもわるべし」と、たしかにうけたまわりしうえは、たとい地獄なりとも、故聖人のわたらせたまうところへまいるべしとおもうなり。このたびもし善知識にあいたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあずかりて、弥陀の本願をきき、摂取不捨のことわりをむねにおさめ、生死のはなれがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとい、弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつわりて往生浄土の業因ぞと、聖人さずけたまうにすかされまいらせて、われ地獄におつというとも、更にくやしむおもいあるべからず。そのゆえは明師にあいたてまつらでやみなましかば、決定、悪道へゆくべかりつる身なるがゆえに、となり。しかるに、善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりというとも故聖人のわたらせたまうところへまいらんと、おもいかためたれば、善悪の生所、わたくしのさだむるところにあらずというなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。」
一 また、のたまわく、「光明寺の和尚善導の御こと の『大無量寿経』の第十八の念仏往生の願のこころを釈したまうに、「善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁」(玄義分)といえり。このこころは、「善人なればとて、おのれがなすところの善をもって、かの阿弥陀仏の報土へうまるること、かなうべからず」となり。悪人またいうにやおよぶ。おのれが悪業のちから、三悪四趣の生をひくよりほか、豈、報土の正因たらんや。しかれば、善業も要にたたず、悪業もさまたげとならず。善人の往生するも、弥陀如来の別願、超世の大慈大悲にあらずは、かないがたし。悪人の往生、また、かけてもおもいよるべき報仏・報土にあらざれども、仏智の不可思議なる奇特をあらわさんがためなれば、五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを行じて、かかるあさましきものが、六趣四生よりほかはすみかもなく、うかぶべき期なきがために、とりわきむねとおこされたれば、悪業に卑下すべからずと、すすめたまうむねあり。されば、おのれをわすれて、あおぎて仏智に帰するまことなくは、おのれがもつところの悪業、なんぞ浄土の正因たらん。すみやかにかの十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて、三途八難にこそしずむべけれ、なにの要にかたたん。しかれば、善も極楽にうまるるたねにならざれば、往生のためにはその要なし。悪もさきのごとし。しかれば、ただ機生得の善悪なり。かの土ののぞみ、他力に帰せずは、おもいたえたり。これによりて、善悪凡夫のうまるるは大願業力ぞと、釈したまうなり。増上縁とせざるはなしというは、弥陀の御ちかいのすぐれたまえるにまされるものなしとなり。」
一 また、のたまわく、「光明名号の因縁ということあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきわなからん」とちかいたまえり。これすなわち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願、すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって、十方微塵世界をてらしたまいて、衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあう衆生、ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき、まさしく報土にうまるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。しかれば、名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとえに光明にもよおさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて、名号の因をうというなり。かるがゆえに、宗師善導大師の御ことなり「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(往生礼讃)とのべたまえり。「但使信心求念」というは、光明と名号と、父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといえども、子となりていでくべきたねなきには、ちち・ははと、なづくべきものなし。子のあるとき、それがために、ちちといい、ははという号あり。それがごとくに、光明をははにたとえ、名号をちちにたとえて、光明のはは、名号のちち、ということも、報土のまさしくうまるべき信心のたねなくは、あるべからず。しかれば、信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなえられ、光明もこれを摂取するなり。されば、名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来、摂取不捨のちかい、成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかいなくは、また、行者の往生浄土のねがい、なにによりてか成ぜん。されば、本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願という、このいわれなり。本願寺の聖人の御釈『教行証』にのたまわく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁そむきなん。光明・名号の父母、これすなわち外縁とす。真実信の業識、これすなわち内因とす。内外因縁和合して、報土の真身を得証す」(行巻)とみえたり。これをたとうるに、日輪須弥の半にめぐりて、他州をてらすとき、このさかい闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでにあくるがごとし。しかれば、日輪のいずるによりて夜はあくるものなり。世のひと、つねにおもえらく、「夜のあけて日輪はいず」と。いまいうところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて、無明の長夜、やみすでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなり、としるべし。」
一 わたくしにいわく、「根機つたなしとて、卑下すべからず。仏に下根をすくう大悲あり。行業おろそかなりとて、うたがうべからず。『経』(大経)に「乃至一念」の文あり。仏語の虚妄なし。本願にあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば、往生の業、まさしくさだまるゆえなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なお不定ならば、正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す。往生の業、すでに成弁することをよろこぶべし。かるがゆえに、臨終にふたたび名号をとなえずとも、往生をとぐべきこともちろんなり。「一切衆生のありさま、過去の業因まちまちなり。また、死の縁、無量なり。病におかされて死するものあり。剣にあたりて死するものあり。水におぼれて死するものあり。火にやけて死するものあり。乃至、寢死するものあり。酒狂して死するたぐいあり。これみな先世の業因なり。さらにのがるべきにあらず。かくのごときの死期にいたりて、一旦の妄心をおこさんほか、いかでか凡夫のならい、名号称念の正念もおこり、往生浄土の願心もあらんや。平生のとき期するところの約束、もしたがわば、往生ののぞみむなしかるべし。しかれば、平生の一念によりて往生の得否はさだまるものなり。平生のとき不定のおもいに任せば、かなうべからず。平生のとき善知識のことばのしたに、帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし。そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。この心あまねく万行万善をして、浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分)と釈したまえり。また殺生罪をつくるとき、地獄の定業をむすぶとも、臨終にかさねてつくらざれども、平生の業にひかれて地獄にかならずおつべし。念仏もまたかくのごとし。本願を信じ、名号をとなうれば、その時分にあたりて、かならず往生はさだまるなり、としるべし。」
本云
嘉暦元歳丙寅九月五日、拭老眼染禿筆、是偏為利益衆生也
釈宗昭五十七
先年如此予染筆、与飛騨願智坊訖。而今年暦応三歳庚辰十月十五日、随身此書上洛。 中一日逗留、十七日下国。仍於燈下馳老筆、書留之。為利益也。
宗昭七十一
永享弐年九月七日、京都自本所下給聖教也。他所不可遣