御消息集
御消息拾遺
(一)このえん仏ぼうくだられ候う。こころざしのふかく候うゆえに、ぬしなどにもしられ申さずして、のぼられて候うぞ、こころにいれてむしなどにもおおせられ候うべく候う。この十日のよ、しょうもうにおうて候う。この御ぼうよくよくたずね候いて候うなり。こころざしありがたきように候ぞ。さだめてこのようは申され候わんずらん。よくよくきかせ給うべく候う。なにごともなにごともいそがしさにくわしう申さず候う。あなかしこ、あなかしこ。
十二月十五日 (花押)
真仏御房へ
(二)閏十月一日の御文、たしかにみ候う。かくねんぼうの御事、かたがたあわれに存じ候う。親鸞はさきだちまいらせ候わんずらんと、まちまいらせてこそ候いつるに、さきだたせ給い候う事、申すばかりもなく候う。かくしんぼう、ふるとしごろはかならずかならずさきだちてまたせ給い候うらん。かならずかならずまいりあうべく候えば、申すにおよばず候う。かくねんぼうのおおせられて候うよう、すこしも愚老にかわらずおわしまし候えば、かならずかならず一ところへまいりあうべく候う。明年の十月のころまでも、いきて候わば、このよの面謁うたがいなく候うべし。入道殿の御こころも、すこしもかわらせ給わず候えば、さきだちまいらせても、まちまいらせ候うべし。人々の御こころざし、たしかにたしかにたまわりて候う。なにごともなにごとも、いのちの候うらんほどは申すべく候う。また、おおせをかぶるべく候う。この御ふみみまいらせ候うこそ、ことにあわれに候え。なかなか、申し候うもおろかなるように候う。またまた、追って申し候うべく候う。あなかしこ、あなかしこ。
閏十月廿九日 親鸞(花押)
たかたの入道殿御返事
(三)おおせられたる事、くわしくききてそうろう。なによりは、あいみんぼうとかやともうすなる人の、京よりふみをえたるとかやともうされそうろうなる、返々ふしぎにそうろう。いまだ、かたちもみず、ふみ一度もたまわりそうらわず、これよりももうすことなきに、京よりふみをえたるともうすなる、あさましきことなり。また、慈信房のほうもんのよう、みょうもくをだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、よる親鸞がおしえたるなりと、人に慈信房もうされてそうろうとて、これにも常陸・下野の人々はみな、しんらんがそらごとをもうしたるよしを、もうしあわれてそうらえば、今は父子のぎはあるべからずそうろう。また、母のあまにもひしぎのそらごとをいいつけられたること、もうすかぎりなきこと、あさましうそうろう。みぶの女房のこれへきたりてもうすこと、じしんぼうがとうたるふみとて、もちてきたれるふみ、これにおきてそうろうめり。慈信房がふみとてこれにあり。そのふみ、つやつやいろわぬことゆえに、ままははにいいまどわされたるとかかれたること、ことにあさましきことなり。よにありけるを、ままははのあまのいいまどわせりいうこと、あさましきそらごとなり。また、この世にいかにしてありけりともしらぬことを、みぶのにょうぼうのもとへも、ふみのあること、こころもおよばぬほどのそらごと、こころうきことなりと、なげきそうろう。まことにかかるそらごとどもをいいて、六波羅のへん・かまくらなんどにひろうせられたること、こころうきことなり。これほどのそらごとは、このよのことなれば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、うたてきなり。いかにいわんや、往生極楽の大事をいいまどわして、ひたち・しもつけの念仏者をまどわし、おやにそらごとをいいつけたること、こころうきことなり。第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとにみなすてまいらせたりときこゆること、まことにほうぼうのとが、また五逆のつみをこのみて、人をそんじまどわさるること、かなしきことなり。ことに、破僧罪ともうすつみは、五逆のその一なり。親鸞にそらごとをもうしつけたるは、ちちをころすなり。五逆のその一なり。このことども、つたえきくこと、あさましさ、もうすかぎりなければ、いまは、おやということあるべからず、ことおもうことおもいきりたり。三宝・神明にもうしきりおわりぬ。かなしきことなり。わがほうもんににずとて、ひたちの念仏者みなまどわさんとこのまるるときくこそ、こころうくそうらえ。しんらんがおしえにて、ひたちの念仏もうす人々をそんぜよと、慈信房におしえたるとかまくらまできこえんこと、あさましあさまし。
五月廿九日 在判
慈信房御返事
(四)いやおんなのこと、ふみかきてまいらせられ候うなり。いまだ、いどころもなくて、わびいて候うなり。あさましくあさましくもてあつかいて、いかにすべしともなくて候うなり。あなかしこ。
三月廿八日 (花押)
わ ごぜんへ しんらん
(五)ひたちの人々の御中へこのふみをみせさせ給え。すこしもかわらず候う。このふみにすぐべからず候えば、このふみをくにの人々おなじこころに候わんずらん。あなかしこ、あなかしこ。
十一月十一日 (花押)
いまごぜんのははに
(六)このいまごぜんのははの、たのむかたもなく、そろうをもちて候わばこそ、ゆずりもし候わめ。せんしに候いなば、くにの人々、いとおしうせさせたまうべく候う。このふみをかくひたちの人々をたのみまいらせて候えば、申しおきて、あわれみあわせたまうべく候う。このふみをごらんあるべく候う。このそくしょうぼうも、すぐべきようもなきものにて候えば、申しおくべきようも候わず。みのかなわず、わびしう候うことは、ただこのこと、おなじことにて候う。ときにこのそくしょうぼうにも申しおかず候う。ひたちの人々ばかりぞ、このものどもをも御あわれみあわれ候うべからん。いとおしう、人々あわれみおぼしめすべし。このふみにて、人々おなじ御こころに候うべし。あなかしこ、あなかしこ。
十一月十二日 ぜんしん(花押)
ひたちの人々の御中へ
親鸞聖人御消息集(広本)
(一)かたがたよりの御こころざしのものども、かずのままに、たしかにたまわりてそうろう。明教坊ののぼられてそうろうこと、まことにありがたきことにそうろう。かたがたの御こころざし、もうしつくしがとうそうろう。明法御坊の往生のこと、おどろきもうすべきにはあらねども、かえすがえすうれしうそうろう。鹿島・行方・奥郡、かようの往生ねがわせたまうひとびとの、みなの御よろこびにてそうろう。また、ひらつかの入道殿の御往生とききそうろうこそ、かえすがえす、もうすにかぎりなくおぼえそうらえ。めでたさ、もうしつくすべくもそうらわず。おのおの、いよいよみな、往生は一定とおぼしめすべし。さりながらも、往生をねがわせたまうひとびとの御なかにも、御こころえぬことどももそうらいき。いまもさのみこそそうろうらめと、おぼえそうろう。京にも、こころえずして、ようようにまどいおうてそうろうめり。くにぐににも、おおくきこえそうろう。法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生なんどと、おもいたるひとびとも、この世にはみなようように法門もいいかえて、身もまどい、ひとをもまどわして、わずらいおうてそうろうなり。聖教のおしえもみずしらぬ、おのおののようにおわしますひとびとは、往生にさわりなしとばかりいうをききて、あしざまに御こころえたることおおくそうらいき。いまもさこそそうろうらめと、おぼえそうろうなり。浄土のおしえもしらぬ、信見房なんどがもうすことによりて、ひがざまにいよいよなりあわせたまいそうろうらんと、ききそうろうこそあさましくそうらえ。まず、おのおの御こころえは、むかしは弥陀のちかいをもしらず、阿弥陀仏をももうさずおわしましそうらいしが、釈迦・弥陀の御方便にもよおされて、いま弥陀のちかいをもききはじめておわしますおわします身にてそうろうなり。もとは、無明のさけにえいふして、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ、このみめしおうてそうらいつるに、仏の御ちかいをききはじめしより、無明のえいも、ようようすこしずつさめ、三毒もすこしずつこのまずして、阿弥陀仏のくすりをつねにこのみめす身となりておわしましおうてそうろうぞかし。しかるに、なお無明のえいもさめやらぬに、かさねてえいをすすめ、毒もきえやらぬに、なお三毒もすすめられそうろうらんこそ、あさましくおぼえそうらえ。煩悩具足の身なれば、こころにもまかせ、身にもすさまじきことをもゆるし、口にもいうまじきことをもゆるし、こころにもおもうまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにあるべしともうしおうてそうろうらんこそ、かえすがえす不便におぼえそうらえ。えいもさめぬさきに、なおさけをすすめ、毒もきえやらぬものに、いよいよ毒をすすめんがごとし。くすりあり毒をこのめ、とそうろうらんことは、あるべくもそうらわずとぞおぼえそうろう。仏のちかいをもきき、念仏ももうして、ひさしうなりておわしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとうしるし、この身のあしきことをいといすてんとおぼしめすしるしもそうろうべしとこそおぼえそうらえ。はじめて仏のちかいをききはじむるひとびとの、わが身のわるく、こころのわるきをおもいしりて、この身のようにてはいかが往生せんずるというひとにこそ、煩悩具したる身なれば、わがこころのよしあしをば沙汰せず、むかえたまうぞとはもうしそうらえ。かくききてのち、仏を信ぜんとおもうこころふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとい、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかいをも信じ、阿弥陀仏をもこのみもうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにて、あしきことをもおもい、あしきことをもふるまいなんどせしかども、いまは、さようのこころをすてんとおぼしめしあわせたまわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめ。また、往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえそうらえば、さりとも、まことのこころおこらせたまいなんには、いかでかむかしの御こころのままにてはそうろうべき。この御なかのひとびとも、少々はあしきさまなることもきこえそうろうめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんどしあわせたまうよしきこえそうろう。あさましくそうろう。すでに、謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。『浄土論』(論註)ともうすふみには、「かようのひとは、仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」とそうろうめり。また、至誠心のなかには、「かように悪をこのまんひとには、つつしみてとおざかれ、ちかづくことなかれ」とこそ、おしえおかれてそうらえ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ、ときおかれそうらえ。悪をこのむひとにもちかづき、善をせぬひとにもちかづきなんどすることは、浄土にまいりてのち、衆生利益にかえりてこそ、さようの罪人にもしたしみちかづくことはそうらえ。わがはからいにはあらず。弥陀のちかいにより、かの御たすけによりてこそ、おもうさまのふるまいもそうらわんずれ。当時は、この身どものようにては、いかがそうろうべからんとおぼえそうろう。よくよく案ぜさせたまうべくそうろう。往生の金剛心のおこることは、仏の御はからいによりおこりてそうらえば、金剛心をとりてそうらわんひとは、よも、師をそしり、善知識をあなどりなんどすることは、そうらわじとぞおぼえそうらえ。この文をもちて、鹿島・行方・南庄、いずかたにもこれにこころざしおわしまさんひとには、おなじ御こころによみきかせたまうべくそうろう。あなかしこ、あなかしこ。
建長四年壬子八月十九日 親鸞
(二)この明教坊ののぼられてそうろうこと、まことにありがたきこととおぼえそうろう。明法の御坊の御往生のことを、まのあたりにききそうろうもうれしくそうろう。また、ひとびとの御こころざしも、ありがたくおぼえそうろう。かたがた、このひとののぼり、不可思議のことにそうろう。この文を、たれたれにも、おなじ御こころによみきかせたまうべくそうろう。この文は奥郡におわします同朋の御なかに、おなじくみな御覧そうろうべし。あなかしこ、あなかしこ。としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめとこそ、おぼえそうらえ。よくよく御こころえそうろうべし。
(三)御文度々まいらせそうらいき。御覧ぜずやそうらいけん。なにごとよりも、明法の御坊の往生の本意とげておわしましそうろうこそ、常陸の国中のこれにこころざしおわしますひとびとの御ために、めでたきことにてそうらえ。大小の聖人だにも、とかくはからわで、ただ願力にまかせてこそ、おわしますことにてはそうろうなれ。まして、おのおののようにおわしますひとびとは、ただ、このちかいありときき、南無阿弥陀仏にあいまいらせんことこそ、ありがたく、めでたくそうろう御果報にてはそうろうなれ。おのおの、とかくはからわせたもうこと、ゆめゆめそうろうべからず。さきにくだしまいらせそうらいし、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』なんどの文どもにて、御覧そうろうべし。それこそ、この世にとりては、よきひとびとにてもおわします。また、すでに往生をもしておわしますひとびとにてそうらえば、その文どもにかかれてそうろうには、なにごともなにごとも、すぐべくもそうらわず。法然聖人の御おしえを、よくよく御こころえたるひとびとにておわしましそうらいき。さればこそ、往生もめでたくおわしましそうらえ。おおかたは、としごろ念仏もうしあわせたまうひとびとのなかにも、ひとえにわがおもうさまなることをのみ、もうしあわれてそうろうひとびとともそうらいき。いまもさこそそうろうらめとおぼえそうろう。明法坊なんどの往生しておわしますも、もとは不可思議のひがごとをおもいなんどしたるこころをも、おもいかえしなんどしてこそそうらいしか。われ往生すべければとて、すまじきことをもし、おもうまじきことをもいいなんどすることはあるべくもそうらわず。貪欲の煩悩にくるわされて、欲もおこり、瞋恚の煩悩にくるわされて、ねたむべきもなき因果をもやぶるこころもおこり、愚痴の煩悩にまどわされて、おもうまじきことなんどもおこるにてこそそうらえ。めでたき仏の御ちかいのあればとて、わざとすまじきことどもをもし、おもうまじきことどもをもおもいなんどせば、よくよく、この世のいとわしからず、身のわるきことをもおもいもしらぬにてそうらえば、念仏にこころざしもなく、仏の御ちかいにもこころざしのおわしまさぬにてそうらえば、念仏せさせたまうことも、その御こころざしにては、順次の往生もかたくやそうろうべからん。よくよくこのよしをひとびとに、きかせまいらせたまうべくそうらう。かようにも、もうすべくもそうらわねども、なにとなく、この辺のことを、御こころにかけあわせたまうひとびとにておわしましいてそうらえば、かくほども、もうしそうろうなり。この世の念仏の義は、ようようにかわりおうてそうろうめれば、とかくもうすにおよばずそうらえども、故聖人の御おしえを、よくよくうけたまわりておわしますひとびとは、いまももとのようにて、かわらせたまうことそうらわず。世かくれなきことなれば、きかせたまいおうてそうろうらん。浄土宗の義、みなかわりておわしましおうてそうろうひとびとも、ただ聖人の御弟子にてそうらえども、ようように、義をもいいかえなんどして、身もまどい、ひとをもまどわしおうてそうろうめり。あさましきことにてそうろうなり。京にも、おおくまどいおうてそうろうめり。まして、いなかは、さこそそうろうらめと、こころにくくもそうらわず。なにごとも、もうしつくしがとうそうろう。またまた、もうしそうろうべし。
(四)善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。同座をせざれとそうろうなり。されば、きたのこうりにそうらいし善証坊は、親をのり、善信をようようにそしりそうらいしかば、ちかづきむつまじくおもいそうらわで、ちかづけずそうらいき。明法の御坊の往生のことをききながら、そのあとをおろかにもせんひとびとは、その同朋にあらずそうろうべし。無明のさけにようたるひとに、いよいよ、えいをすすめ、三毒を、ひさしくこのみくうひとに、いよいよ毒をゆるして、このめともうしおうてそうろうらん、不便のことにそうろう。無明のさけにようたるかなしみ、三毒をこのみくうていまだ毒もうせはてず、無明のえいも、いまださめやらぬ身にて、おわしましおうてそうろうぞかし。よくよく、御こころえられそうろうべし。なにごとも、もうしつくしがたくそうろう。またまたもうすべし。あなかしこ、あなかしこ。
親鸞
(五)なにごとよりは、聖教のおしえをもしらず、また、浄土宗のまことのそこをもしらずして、不可思議の放逸無慚のものどものなかに、悪はおもうさまにふるまうべしと、おおせられそうろうなるこそ、かえすがえす、あるべくもそうらわず。きたのこうりにありし、善証坊といいしものに、ついに、あいむつるることなくてやみにしをばみざりけるにや。凡夫なればとて、なにごともおもうさまならば、ぬすみをもし、ひとをもころしなんどすべきかは。もと、ぬすみごころあらんものも、極楽をねがい、念仏もうすほどのことになりなば、もとひごうだるこころも、おもいなおしてこそあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、悪くるしからずということ、ゆめゆめあるべからずそうろう。煩悩にくるわされて、おもわざるほかに、すまじきことをもふるまい、いうまじきことをもいい、おもうまじきことをも、おもうにてこそあれ。あわらぬことなればとて、ひとのためにも、はらぐろく、すまじきことをもし、いうまじきことをもいわば、煩悩にくるわされたる義にはあらで、わざと、すまじきことをもせば、かえすがえす、あるまじきことなり。鹿島・行方のひとびとの、あしからんことをば、いいもとどめ、その辺のひとびとの、ことにひごうだることをば、制したまわばこそ、この辺よりいできたるしるしにてはそうらわめ。ただ、したからんことをばせよ、ふるまいなんども、こころにまかせよといえるとそうろうらん、あさましきことにそうろう。この世のわるきをすて、あしきことをせざらんこそ、世をいとい、念仏もうすことにてはそうろうに、としごろ、念仏をするひとなんどの、ひとのためにあしきことをもし、また、いいもせんは、世をいとうしるしもなし。されば、善導の御おしえには、「悪をこのまんひとをば、うやまいて、とおざかれ」(散善義意)とこそ、至誠心のなかには、おしえおかせおわしましてそうらえ。いつかは、わがこころのわるきにまかせてふるまえとはそうろう。おおかたは、経釈の文をもしらず、如来の御ことをもしらぬ身にて、ゆめゆめその沙汰あるべくもそうらわず。また、往生は、なにごともなにごとも、凡夫のはからいならず、如来の御ちかいに、まかせまいらせたればこそ、他力にてはそうらえ。ようようにはからいおうてそうろうらん、おかしくそうろう。あなかしこ、あなかしこ。
十一月二十四日 親鸞
(六)なにごとよりは、如来の御本願のひろまらせたまいてそうろうこと、かえすがえす、めでたく、うれしくそうろう。そのことに、おのおのところどころに、われはということをおもうてあらそうこと、ゆめゆめあるべからずそうろう。京に、一念多念なんどもうす、あらそうことのおおくそうろうようにあること、さらさらそうろうべからず。ただ、詮ずるところは、、『唯信鈔』・『後世物語』『自力他力』、この御文どもを、よくよくつねにみて、その御こころにたがえず、おわしますべし。いずかたのひとびとにも、このこころをおおせられそうろうべし。なおおぼつかなきことあらば、今日までいきてそうらえば、わざとも、これへたずねたまうべし。また、便にも、おおせたまうべし。鹿島・行方、そのならびのひとびとにも、このこころを、よくよくおおせらるべし。一念多念のあらそいなんどのように、詮なきこと、論じごとをのみ、もうしあわれてそうろうぞかし。よくよくつつしむべきことなり。あなかしこ、あなかしこ。かようのことを、こころえぬひとびとは、そのこととなきことを、もうしあわれてそうろうぞ。よくよくつつしみたまうべし。かえすがえす。
二月三日 親鸞
(七)六月一日の御文、くわしくみそうらいぬ。さては、鎌倉にての、御うったえのようは、おろおろうけたまわりてそうろう。この御文にたがわず、いけたまわりてそうらいしに、別のことは、よもそうらわじとおもいそうらいしに、御くだりうけしくそうろう。おおかたは、このうったえのようは、御身ひとりのことにはあらずそうろう。すべて、浄土の念仏者のことなり。このようは、故聖人の御とき、この身どもの、ようようにもうされそうらいしことなり。こともあたらしきうったえにてそうろうなり。性信坊ひとりの、沙汰あるべきことにはあらず。念仏もうさんひとは、みなおなじこころに、御沙汰あるべきことなり。御身をわらいもうすべきことにはあらずそうろうべし。念仏者のものにこころえぬは、性信坊のとがにもうしなされんは、きわまれるひがごとにそうろうべし。念仏もうさんひとは、性信坊のかたうどにこそ、なりあわせたまうべけれ。母・姉・妹なんど、ようようにもうさるることは、ふるごとにてそうろう。さればとて、念仏をとどめられそうらいしが、世にくせごとのおこりそうらいしかば、それにつけても、念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころをいれて、もうしあわせたまうべしとぞおぼえそうろう。御文のよう、おおかたの陳状、よく御はからいどもそうらいけり。うれしくそうろう。詮じそうろうところは、御身にかぎらず、念仏もうさんひとびと、わが御身の料は、おぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために、念仏もうしあわせたまいそうらわば、めでとうそうろうべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼしめして、御念仏そうろうべし。わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべしとぞおぼえそうろう。よくよく御案そうろうべし。このほかは、別の御はからい、あるべしとはおぼえずそうろう。なおなお、とく御くだりのそうろうこそ、うれしくそうらえ。よくよく御こころにいれて、往生一定とおもいさだめられそうらいなば、仏の御恩をおぼしめさんには、ことごとはそうろうべからず。御念仏こころにいれてもうさせたまうべしとおぼえそうろう。あなかしこ、あなかしこ。
七月九日 親鸞
性信御坊
(八)護念坊のたよりに、教念御坊より、銭二百文、御こころざしのもの、たまわりてそうろう。さきに、念仏のすすめのもの、かたがたの御なかよりとて、たしかにたまわりてそうらいき。ひとびとによろこびもうさせたまうべくそうろう。この御返事にて、おなじ御こころにもうさせたまうべくそうろう。さては、この御たずねそうろうことは、まことによき御うたがいどもにてそうろうべし。まず、一念にて往生の業因はたれり、ともうしそうろうは、まことにさるべきことにてそうろうべし。さればとて、一念のほかに念仏をもうすまじきことにはそうらわず。そのようは、『唯信鈔』にくわしくそうろう。よくよく、御覧そうろうべし。一念のほかに、あまるところの念仏は、十方の衆生に回向すべしとそうろうとも、さるべきことにてそうろうべし。十方衆生に回向すればとて、二念三念せんは往生にあしきことと、おぼしめされそうらわば、ひがごとにてそうろうべし。念仏往生の本願とこそ、おおせられてそうらえば、おおくもうさんも一念一称も往生すべし、とこそうけたまわりてそうらえ。かならず一念ばかりにて往生すといいて、多念をせんは往生すまじきともうすことは、ゆめゆめあるまじきことなり。『唯信鈔』を、よくよく御覧そうろうべし。また、有念無念ともうすことは、他力の法文には、あらぬことにてそうろう。聖道門にもうすことにてそうろうなり。みな、自力聖道の法文なり。阿弥陀如来の選択本願念仏は、有念の義にもあらず、無念の義にもあらずともうしそうろうなり。いかなるひとも、もうしそうろうとも、ゆめゆめ、もちいさせたまうべからずそうろう。聖道にもうすことを、あしざまにききなして、浄土宗にもうすにてぞそうろうらん。さらさら、ゆめゆめ、もちいさせたまうまじくそうろう。また、慶喜ともうしそうろうことは、他力の信心をえて、往生を一定してんずと、よろこぶこころをもうすなり。常陸国中の念仏者のなかに、有念無念の念仏沙汰のきこえそうろうは、ひがごとにそうろうともうしそうらいにき。ただ、詮ずるところは、他力のようは、行者のはからいにてはあらずそうらえば、有念にあらず、無念にあらずともうすことを、あしうききなして、有念無念なんどもうしそうらいけるとおぼえそうろう。弥陀の選択本願は、行者のはからいのそうらわねばこそ、ひとえに他力とはもうすことにてそうらえ。一念こそよけれ、多念こそよけれなんどもうすことも、ゆめゆめあるべからずそうろう。なおなお一念のほかにあまるところの御念仏を、法界衆生に回向すとそうろうは、釈迦・弥陀如来の御恩を、報じまいらせんとて、十方衆生に回向せられそうろうらんは、さるべくそうらえども、二念三念もうして往生せんひとを、ひがごととはそうろうべからず。よくよく、『唯信鈔』を御覧そうろうべし。念仏往生の御ちかいなれば、一念十念も、往生はひがごとにあらずとおぼしめすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
十二月二十六日 親鸞
教忍御坊御返事
(九)まず、よろずの仏・菩薩をかろしめまいらせ、よろずの神祇・冥道をあなずりすてたてまつるともうすこと、このこと、ゆめゆめなきことなり。世々生々に、無量無辺の諸仏・菩薩の利益によりて、よろずの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆえに、曠劫多生のあいだ、諸仏・菩薩の御すすめによりて、いま、もうあいがたき弥陀の御ちかいに、あいまいらせてそうろう御恩をしらずして、よろずの仏・菩薩をあだにもうさんは、ふかき御恩をしらずそうろうべし。仏法をふかく信ずるひとをば、天地におわします、よろずのかみは、かげのかたちにそえるがごとくして、まもらせたまうことにてそうらえば、念仏を信じたる身にて、天地のかみをすてもうさんとおもうこと、ゆめゆめなきkとなり。神祇等だにも、すてられたまわず、いかにいわんや、よろずの仏・菩薩をあだにももうし、おろかにおもいまいらせそうろうべしや。よろずの仏を、おろかにもうさば、念仏を信ぜず、弥陀の御名をとなえぬ身にてこそそうらわんずれ。詮ずるところは、そらごとをもうし、ひがごとをことにふれて、念仏のひとびとにおおせられつけて、念仏をとどめんと、ところの領家・地頭・名主の御はからいどものそうろうらんこと、よくよくようあるべきことなり。そのゆえは、釈迦如来のみことには、念仏のひとをそしるものをば、「名無眼人」ととき、「名無耳人」とおおせおかれたることにそうろう。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃)と、たしかに釈しおかせたまいたり。この世のならいにて、念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のようあることにてこそそうらわめ。とかくもうすべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをば、あわれみをなし、不便におもいて、念仏もねんごろにもうして、さまたげなさんを、たすけさせたまうべしとこそ、ふるきひとはもうされそうらいしか。よくよく御たずねあるべきことなり。つぎに、念仏せさせたまうひとびとのこと、弥陀の御ちかいは、煩悩具足のひとのためなりと、信ぜられそうろうは、めでたきようなり。ただし、わろきもののためなりとて、ことさらに、ひがごとをこころにもおもい、身にも口にももうすべしとは、浄土宗にもうすことならねば、ひとびとにもかたることそうらわず。おおかたは、煩悩具足の身にて、こころをもとどめがたくそうらいながら、往生をうたがわずせんとおぼしめすべしとこそ、師も善知識も、もうすことにてそうろうに、かかるわるき身なれば、ひがごとをことさらにこのみて、念仏のひとびとのさわりとなり、師のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまうべしともうすことは、ゆめゆめなきことなり。弥陀の御ちかいに、もうあいがたくしてあいまいらせて、仏恩を報じまいらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされてそうろうらんこそ、かえすがえすこころえずそうろう。あさましきことにそうろう。ひとびとの、ひがさまに御こころえどものそうろうゆえに、あるべくもなきことどもきこえそうろう、もうすばかりなくそうろう。ただし、念仏のひと、ひがごとをもうしそうらわば、その身ひとりこそ、地獄にもおち、天魔ともなりそうらわめ、よろずの念仏者のとがになるべしとは、おぼえずそうろう。よくよく、御はからいどもそうろうべし。なおなお、念仏せさせたまうひとびと、よくよくこの文を御覧じとかせたまうべし。あなかしこ、あなかしこ。
九月二日 親鸞
念仏人々御中へ
(十)ふみかきてまいらせそうろう。このふみを、ひとびとにもよみてきかせたまうべし。遠江の尼御前の御こころにいれて御沙汰そうろうらん、かえすがえすめでたく、あわれにおぼえそうろう。よくよく、京よりよろこびもうしよしをもうしたまうべし。信願坊がもうすよう、かえすがえす不便のことなり。わるき身なればとて、ことさらにひがごとをこのみて、師のため善知識のために、あしきことを沙汰し、念仏のひとびとのために、とがとなるべきことをしらずは、仏恩をしらず、よくよくはからいたまうべし。また、ものにくるうて死にけんひとのことをもちて、信願坊がことをよしあしともうすべきにはあらず。念仏するひとの死にようも、身よりやまいをするひとは、往生のようをもうすべからず。こころよりやまいをするひとは、天魔ともなり、地獄にもおつることにてそうろうべし。こころよりおこるやまいと、身よりおこるやまいとは、かわるべければ、こころよりおこりて死ぬるひとのことを、よくよく御はからいそうろうべし。信願坊がもうすようは、凡夫のならいなれば、わるきこそ本なればとて、おもうまじきことをこのみ、身にもすまじきことをし、口にもいうまじきことをもうすべきように、もうされそうろうこそ、信願坊がもうしようとはこころえずそうろう。往生にさわりなければとて、ひがごとをこのむべしとは、もうしたることそうらわず。かえすがえす、こころえずおぼえそうろう。詮ずるところ、ひがごともうさんひとは、その身ひとりこそ、ともかくもなりそうらわめ、すべてよろずの念仏者のさまたげとなるべしとは、おぼえずそうろう。また、念仏をとどめんひとは、そのひとばかりこそいかにもなりそうらわめ、よろずの念仏するひとのとがとなるべしとは、おぼえずそうろう。「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃)と、まのあたり善導の御おしえそうろうぞかし。釈迦如来は、「「名無眼人、名無耳人」と、とかせたまいてそうろうぞかし。かようなるひとにて、念仏をもとどめ、念仏者をもにくみなんどすることにてもそうろうらん。それは、かのひとをにくまずして、念仏を、ひとびともうして、たすけんとおもいあわせたまえとこそ、おぼえそうらえ。あなかしこ、あなかしこ。
九月二日 親鸞
慈信坊 御返事
(十の追伸)入信坊・真浄坊・法信坊にも、このふみをよみきかせたまうべし。かえすがえす不便のことにそうろう。性信坊には、春のぼりそうらいしに、よくよくもうしてそうろう。くげどのにも、よくよくよろこびもうしたまうべし。このひとびとの、ひがごとをもうしおうてそうらえばとて、道理をばうしなわれそうらわじとこそおぼえそうらえ。世間のことにもさることのそうろうぞかし。領家・地頭・名主のひがごとすればとて、百姓をまどわすことはそうらわぬぞかし。仏法をやぶるひとなし。仏法者のやぶるにたとえたるには、「師子の身中の虫の師子をくらうがごとし」とそうらえば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげそうろうなり。よくよくこころえたまうべし。なおなお御ふみにはもうしつくすべくもそうらわず。
(十一)九月二十七日の御ふみくわしくみそうらいぬ。さては、御こころざしの銭五貫文、十一月九日にたまわりてそうろう。さては、いなかのひとびとみなとしごろ念仏せしは、いたずらにてありけりとて、かたがた、ひとびとようようにもうすなることこそ、かえすがえす不便のことにてきこえそうらえ。ようようのふみどもをかきてもてるを、いかにみなしてそうろうやらん、かえすがえすおぼつかなくそうろう。慈信坊のくだりて、わがききたる法文こそまことにてはあれ、ひごろの念仏はみないたずらごとなりとそうらえばとて、おおぶの中太郎のかたのひとびとは、九十なん人とかや、みな慈信坊のかたへとて、中太郎入道をすてたるとかやききそうろう。いかなるようにてさようにはそうろうぞ。詮ずるところ、信心のさだまらざりけるとききそうろう。いかようなることにて、さほどにおおくのひとびとのたじろきそうろうらん、不便のようとききそうろう。また、かようのきこえなんどそうらえば、そらごともおおくそうろうべし。また、親鸞も偏頗あるものとききそうらえば、ちからをつくして、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』の文のこころども、二河の譬喩なんどかきて、かたがたへ、ひとびとにくだしてそうろうも、みなそらごとになりてそうろうとこきこえそうろうは、いかようにすすめられたるやらん、不可思議のこととききそうろうこそ不便にそうらえ。よくよくきかせたまうべし。あなかしこ、あなかしこ。
十一月九日 親鸞
慈信御坊
真仏坊・性信坊・入信坊、このひとびとのこと、うけたまわりそうろう。かえすがえす、なげきおぼえそうらえども、ちからおよばずそうろう。また、余のひとびとのおなじこころならずそうろうらんも、ちからおよばずそうろう。ひとびとのおなじこころならずそうらえば、とかくもうすにおよばず。いまは、ひとのうえももうすべきにあらずそうろう。よくよくこころえたまうべし。
慈信御坊 親鸞
(十二)さては、念仏のあいだのことによりて、ところせきようにうけたまわりそうろう。かえすがえすこころぐるしくそうろう。詮ずるところ、そのところの縁ぞつきさせたまいそうろうらん。念仏をさえらるなんどもうさんことに、ともかくもなげきおぼしめすべからずそうろう。念仏とどめんひとこそ、いかにもなりそうらわめ。もうしたまうひとはなにかくるしくそうろうべき。余のひとびとを縁として念仏をひろめんとはからいあわせたまうこと、ゆめゆめあるべからずそうろう。そのところに、念仏のひろまりそうらわんことも、仏天の御はからいにそうろうべし。慈信坊がようようにもうしそうろうなるによりて、ひとびとも御こころどものようようにならせたまいそうろうよし、うけたまわりそうろう。かえすがえす不便のことにそうろう。ともかくも、仏天の御はからいにまかせまいらせさせたまうべし。そのところの縁つきておわしましそうらわば、いずれのところにても、うつらせたまいそうろうておわしますように御はからいそうろうべし。慈信坊がもうしそうろうことをたのみおぼしめして、これよりは余のひとを強縁として念仏ひろめよともうすこと、ゆめゆめもうしたることそうらわず。きわまれるひがごとにてそうろう。おどろきおぼしめすべからず。ようように慈信坊がもうすことを、これよりもうしそうろうと御こころえそうろう、ゆめゆめあるべからずそうろう。法門のようも、あらぬさまにもうしなしてそうろうなり。御耳にききいれらるべからずそうろう。きわまれるひがごとどものきこえそうろう。あさましくそうろう。入信坊なんども不便におぼえそうろう。鎌倉にながいしてそうろうらん、不便にそうろう。当時それもわずらうべくてぞ、さてもそうろうらん。ちからおよばずそうろう。奥郡のひとびと、慈信坊にすかされて、信心みなうかれおうておわしましそうろうなること、かえすがえすあわれにかなしうおぼえそうろう。これもひとびとをすかしもうしたるようにきこえそうろうこと、かえすがえすあさましくおぼえそうろう。それも日ごろひとびとの信のさだまらずそうらいけることの、あらわれてきこえそうろう。かえすがえす、不便にそうらいけり。慈信坊がもうすことによりて、ひとびとの日ごろの信のたじろきおうておわしましそうろうも、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらわれてそうろう。よきことにてそうろう。それを、ひとびとは、これよりもうしたるようにおぼしめしおうてそうろうこそ、あさましくそうらえ。日ごろようようの御ふみどもをかきもちておわしましおうてそうろう甲斐もなくおぼえそうろう。『唯信鈔』、ようようの御文どもは、いまは、詮なくなりてそうろうとおぼえそうろう。よくよくかきもたせたまいてそうろう法門は、みな詮なくなりてそうろうなり。慈信坊にみなしたがいて、めでたき御ふみどもはすてさせたまいおうてそうろうときこえそうろうこそ、詮なくあわれにおぼえそうらえ。よくよく、『唯信鈔』・『後世物語』なんどを御覧あるべくそうろう。年ごろ、信ありとおおせられおうてそうらいけるひとびとは、みなそらごとにてそうらいけりときこえそうろう。あさましくそうろう、あさましくそうろう。なにごともなにごとも、またまたもうしそうろうべし。
正月九日 親鸞
真浄御坊
(十三)くだらせたまいてのち、なにごとかそうろうらん。この源藤四郎殿におもわざるにあいまいらせてそうろう。便のうれしさにもうしそうろう。そののちなにごとかそうろう。念仏のうったえのこと、しずまりてそうろうよし、かたがたよりうけたまわりそうらえば、うれしくこそそうらえ。いまは、よくよく念仏もひろまりそうらわんずらんと、よろこびいりてそうろう。これにつけても、御身の料はいまさだまらせたまいたり。念仏を御こころにいれてつねにもうして、念仏そしらんひとびと、この世のちの世までのことを、いのりあわせたまうべくそうろう。御身どもの料は、御念仏はいまはなにかはせさせたまうべき。ただ、ひごうだる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかいにいれとおぼしめしあわば、仏の御恩を報じまいらせたまうになりそうろうべし。よくよく御こころにいれてもうしあわせたまうべくそうろう。聖人の廿五日御念仏も、詮ずるところは、かようの邪見のものをたすけん料にこそもうしあわせたまえと、もうすことにてそうらえば、よくよく、念仏そしらんひとをたすかれとおぼしめして、念仏しあわせたまうべくそうろう。また、なにごとも度々便にはもうしそうらいき。源藤四郎殿の便にうれしうてもうしそうろう。あなかしこ、あなかしこ。入西御坊のかたへも、もうしとうそうらえども、おなじことなれば、このようをつたえたまうべくそうろう。あなかしこ、あなかしこ。
性信御坊へ 親鸞
(十四)四月七日の御ふみ、五月廿六日たしかにたしかにみ候いぬ。さては、おおせられたる事、信の一念、行の一念、ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆえは、行と申すは、本願の名号をひとこえとなえておうじょうすと申すことをききて、ひとこえをもとなえ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかいをききてうたがうこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこえするとききてうたがわねば、行をはなれたる信はなしとなしとききて候う。また、信をはなれたる行なしとおぼしめすべく候う。これみな、みだの御ちかいと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかいを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。いのち候わば、かならずかならずのぼらせ給うべく候う。
五月廿八日 (花押)
覚信御房御返事
専信坊、京ちかくなられて候うこそたのもしうおぼえ候え。また、御こころざしのぜに三百文、たしかにたしかにかしこまりて、たまわりて候う。
(十五)たずねおおせられて候う事、かえすがえすめでとう候う。まことの信心をえたる人は、すでに仏にならせ給うべき御みとなりておわしますゆえに、如来とひとしき人と経にとかれ候うなり。弥勒はいまだ、仏になりたまわねども、このたびかならずかならず仏になりたまうべきによりて、みろくをばすでに弥勒仏と申し候うなり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしとおおせられて候うなり。また、承信房の弥勒とひとしと候うも、ひが事には候わねども、他力によりて信をえてよろこぶこころは如来とひとしと候うを、自力なりと候うらんは、いますこし承信房の御こころのそこのゆきつかぬようにきこえ候うこそ、よくよく御あん候うべくや候うらん。自力のこころにて、わがみは如来とひとしと候うらんは、まことにあしう候うべし。他力の信心のゆえに、浄信房のよろこばせ給い候うらんは、なにかは自力にて候うべき。よくよく御はからい候うべし。このようは、この人々にくわしう申して候う。承信の御房といまいらせさせ給うべし。あなかしこ、あなかしこ。
十月廿一日 親鸞
浄信御房御返事
(十六)他力のなかには自力ともうすことはそうろうとききそうらいき。他力のなかにまた他力ともうすことはききそうらわず。他力のなかに自力ともうすことは、雑行雑修・定心念仏・散心念仏とこころにかけられてそうろうひとびとは、他力のなかの自力のひとびとなり。他力のなかにまた他力ともうすことはうけたまわりそうらわず。なにごとも、専信坊のしばらくいたらんとそうらえば、そのときもうしそうろうべし。あなかしこ、あなかしこ。
十一月廿五日
真仏御坊御返事
(十七)ひとびとのおおせられてそうろう十二光仏の御ことのよう、かきしるしてくだしまいらせそうろう。くわしくかきまいらせそうろうべきようもそうらわず。おろおろかきしるしてそうろう。詮ずるところは、無碍光仏ともうしまいらせそうろうことを本とせさせたまうべくそうろう。無碍光仏は、よろずのもののあさましきわるきことにさわりなく、たすけさせたまわん料に、無碍光仏ともうすとしらせたまうべくそうろう。あなかしこ、あなかしこ。
十月廿一日
唯信御坊御返事
(十八)諸仏称名の願ともうし、諸仏咨嗟の願ともうしそうろうなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また、十方衆生の疑心をとどめん料ときこえてそうろう。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のようにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまいらせそうろう。念仏往生の願は、如来の往相回向の正業正因なりとみえてそうろう。まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ、「如来とひとし」とも、諸仏のほめさせたまいたりとこそ、きこえてそうらえ。また、弥陀の本願を信じそうらいぬるうえには、義なきを義とすとこそ、大師聖人のおおせにてそうらえ。かように義のそうろうらんかぎりは、他力にあらず、自力なりときこえてそうろう。他力ともうすは、仏智不思議にてそうろうなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりをえそうろうなることをば、仏と仏とのみ御はからいなり。さらに行者のはからいにあらずそうろう。しかれば、義なきを義とすとそうろうなり。義ともうすことは、自力のひとのはからいをもうすなり。他力には、しかれば、義なきを義とすとそうろうなり。このひとびとのおおせのようは、これにはつやつやと、しらぬことにてそうらえば、とかくもうすべきにあらずそうろう。また、「来」の字は、衆生利益のためには、きたるともうす。方便なり。さとりをひらきては、かえるともうす。ときにしたがいて、きたるとも、かえるとももうすとみえてそうろう。なにごともなにごとも、またまたもうすべくそうろう。
二月廿五日 親鸞
慶西御坊御返事
御消息集(善性本)
(一)一のイ
畏申候
『[大無量寿]経』に「信心歓嘉[喜]」と候う。[『華厳経』を引きて『浄土]和讃にも、「信心よろこぶその人を 如来とひとしと説きたまう 大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり」と仰せられて候うに、専修の人の中に、ある人、心得ちがえて候うやらん、「信心よろこぶ人を如来とひとしと同行達ののたまうは自力なり。真言にかたよりたり」と申し候うなる。人のうえを知るべきに候わねども申し候う。また、「真実信心うる人は すなわち定聚のかずの[に]入る 不退の位に入りぬれば かならず滅度をさとらしむ](大経讃)と候うは、この度この身の終わり候わん時、真実信心の行者の心、報土にいたり候いなば、寿命無量を体として、光明無量の徳用はなれたまわざれば、如来の心光に一味なり、このゆえ「大信心は仏性なり、仏性すなわち如来なり」(涅槃経)と仰せられて候うやらん。これは、十一・二・三の御誓と心得られ候う。罪悪の我等がためにおこしたまえる大悲の御誓のめでたく、あられにましますうれしさ、こころもおよばれず、ことばもたえて申しつくしがたき事かぎりなく候う。自無始広[曠]劫以来、過去遠々に、恒沙の諸仏の出世の所にて、自力ノ[大]菩提心おこすといえども、さとり[自力]かなわず、二尊の御方便にもよおされまいらせて、雑行雑修・自力疑心のおもいなし。無碍光如来の摂取不捨の御あわれみのゆえに、疑心なくよろこびまいらせて、一念するに[までの]往生定まりて、誓願不思議と心得候いなんには、聞見る[候う]にあかぬ浄土の御[聖]教も、知識にあいまいらせんとおもわんことも、摂取不捨も、信も、念仏も、人のためとおぼえられ候う。今、師主の教によりて[御教えのゆえ]、心をぬきて御こころむきをうかがい候うによりて、願意をさとり、直道をもとめえて、正しき真実報土にいたり候わんこと、この度、一念とげ候いぬる[聞名にいたるまで]うれしさ御恩のいたり、その上『弥陀経義集』におろおろ明らかにおぼえられ候う。しかるに、世間のそうそうにまぎれて、一時もしは二時・三時、おこたるといえども、昼夜にわすれず、御あわれみをよろこぶ業力ばかりにて、行住座臥に時所の不浄をもきらわず、一向に金剛の信心ばかりにて、仏恩のふかさ、師主の御とく[恩徳]のうれしさ、報謝のためにただ、みなをとなうるばかりにて、日の所作とせず、この様ひがざまにか候うらん。一期の大事ただこれにすぎたるはなし。しかるべくは、よくよくこまかに仰を蒙り候わんとて、わずかにおもうばかりを記して申し上げ候う。さては、京に久しく候いしに、そうそうにのみ候いて、こころのしずかにおぼえず候いし事のなげかれ候いて、わざといかにしてもまかりのぼりて、こころしずかに、せめては五日、御所に候わばやとねがい候うなり。あ[噫]、こうまで申し候うも御恩のちからなり。
進上、聖人の御所へ 蓮位御房申させ給え
慶信上(慶信の花押)
十月十日
一のロ
追申上候
念仏申し候う人々の中に、南無阿弥陀仏ととなえ候うひまには、無碍光如来ととなえまいらせ候う人も候う。これをききて、ある人の申し候うなる、「南無阿弥陀仏ととなえてのうえに、きみょう尽十方無碍光如来と、となえまいらせんことは、おそれある事にてこそあれ。いまめかわしく」と申し候うなる、このよういかが候うべき。
一のハ
「南無阿弥陀仏をとなえてのうえに無碍光仏と申さんは、あしき事なり」と候うなるこそ、きわまれる御ひがごとときこえ候え。帰命は南無なり。無碍光仏は光明なり。智慧なり。この智慧はすなわち阿弥陀仏。阿弥陀仏の御かたちをしらせ給わねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまいらせんとて、世親菩薩御ちからをつくしてあらわし給えるなり。このほかのことは、しょうしょうもじをなおして、まいらせ候うなり。
(蓮位添状)
一 この御文のよう、くわしくもうしあげて候う。「すべて、この御ふみのよう、違わず候う」と、仰せ候うなり。ただし、「一念するに往生定まりて、誓願不思議とこころえ候う」と、おおせ候をぞ、「よきように候えども一念にとどまるところ、あしく候う」とて、御ふみのそばに、御自筆をもって、あしく候うよしを、いれさせおわしまして候う。蓮位に、「かくいれよ」と、おおせをかぶりて候えども、御自筆は、つよき証拠におぼしめされ候いぬと、おぼえ候うあいだ、おりふし、御がいびょうにて御わずらいにわたらせたまい候えども、もうして候うなり。また、のぼりて候いし人々、「くにに論じもうす」とて、あるいは、「「弥勒にひとし」ともうし候う人々候う」よしを、もうし候いしかば、しるしおおせられて候うふみの候う。しるしてまいらせ候うなり。御覧あるべく候う。また、「弥勒とひとし」と候うは、弥勒は等覚の分なり。これは因位の分なり。これは十四・十五の月の円満したまうが、すでに八日・九日の月のいまだ円満したまわぬほどをもうし候うなり。これは自力修行のようなり。われらは信心決定の凡夫、くらい正定聚のくらいなり。これは因位なり。これ等覚の分なり。かれは自力なり、これは他力なり。自他のかわりこそ候えども、因位のくらいはひとしというなり。また弥勒の妙覚のさとりはおそく、われらが滅度にいたることはことはとく候わんずるなり。かれは五十六億七千万歳のあかつきを期し、これはちくまくをへだつるほどなり。かれは漸頓のなかの頓、これは頓のなかの頓なり。滅度というは妙覚なり。曇鸞の『註』にいわく、「樹あり、好堅樹という。この木、地の底に百年わだかまりいて、おうるとき一日に百丈おい候う」なるぞ。この木、地の底に百年候うは、我等が娑婆世界に候いて、正定聚のくらいに住する分なり。一日に百丈おい候うなるは、滅度にいたる分なり。これにたとえて候うなり。これは他力のようなり。松の生長するはとしごとに寸をすぎず。これはおそし、自力修行のようなり。また、如来とひとしというは、煩悩成就の凡夫、仏の心光にてらされまいらせて、信心歓喜す、信心歓喜するゆえに、正定聚のかずに住す。信心というは、智なり。この智は他力の光明に摂取せられまいらせぬるゆえに、うるところの智なり。かるがゆえに、おなじというなり。おなじというは、信心をひとしというなり。歓喜地というは、信心を歓喜するなり。わが信心を歓喜するゆえに、おなじというなり。くわしく御自筆にしるされて候うを、かきうつしてまいらせ候う。また、南無阿弥陀仏ともうし、また無碍光如来ととなえ候う御不審も、くわしく自筆に、御消息のそばにあそばして候うなり。かるがゆえにそれよりの御ふみをまいらせ候う。あるいは阿弥陀といい、あるいは無碍光ともうし、御名ことなりといえども、心は一なり。阿弥陀というは梵語なり。これには無量寿ともいう、無碍光とももうし候う。梵漢ことなりといえども、心おなじく候うなり。そもそも、覚信坊の事ことにあわれにおぼえ、またとうとくもおぼえ候う。そのゆえは、信心たがわずしておわられて候う。またたびたび、信心ぞんちのよういかようにかと、たびたびもうし候いしかば、当時までは、たがうべくも候わず。いよいよ信心のようはつよくぞんずるよし候いき。のぼり候いしに、くにをたちてひといちともうししとき、やみいだして候いしかども、同行たちはかえれなんどもうし候いしかども、「死するほどのことならば、かえるとも死し、とどまるとも死し候わんず。また、やまいはやみ候わば、かえるともやみ、とどまるともやみ候わんず。おなじくは、みもとにてこそおわり候わめとぞんじて、まいりて候うなり」と、御ものがたり候いしなり。この御信心まことにめでたくおぼえ候う。善導和尚の『釈』(散善義)の二河の譬喩におもいあわせられて、よにめでたくぞんじ、うらやましく候うなり。おわりのとき、「南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議光如来」と、となえられて、てをくみてしずかにおわられて候いしなり。また、おくれさきだつためしは、あわれになげかしくおぼしめされ候うとも、さきだちて滅度にいたり候いぬれば、かならず最初引接のちかいをおこして、結縁・眷属・朋友をみちびくことにて候うなれば、しかるべくおなじ法文の門にいりて候えば、蓮位もたのもしくおぼえ候う。また、おやとなりことなるも、先世のちぎりともうし候えば、たのもしくおぼしめさるべく候うなり。このあわれさ、とうとさ、もうしつくしがたく候えば、とどめ候いぬ。いかにしてかみずからこのことをもうし候うべきや。くわしくはなおなおもうし候うべく候う。このふみのようを、御まえにて、あしくもや候うとて、よみあげて候えば、「これに過ぐべくも候わず、めでたく候う」と、おおせをかぶりて候うなり。ことに、覚信坊のところに、御なみだをながさせたまいて候うなり。よにあわれにおもわせたまいて候うなり。
十月廿九日
慶信御坊へ 蓮位
(二)二のイ
一 無碍光如来の慈悲光明に摂取せられまいらせ候うゆえに、名号をとなえつつ、不退のくらいにいりさだまり候いなんには、このみのために、摂取不捨をはじめてたずぬべきにはあらずととおぼえられて候う。そのうえ、『華厳経』に、「聞此法歓喜信心無疑者 速成無上道 与諸如来等」とおおせられて候う。また、第十七の願に「十方無量の諸仏にほめとなえられん」とおおせられて候う。また、願成就の文に、「十方恒沙の諸仏」とおおせられて候うは、信心の人とこころえて候う。この人はすなわち、このよより如来とひとしとおぼえられ候。このほかは、凡夫のはからいをばもちいず候うなり。このようをこまかにおおせかぶり給うべく候う。恐々謹言。
二月十二日 浄信
二のロ
如来の誓願を信ずる心のさだまる時と申すは、摂取不捨の利益にあずかるゆえに、不退の位にさだまると御こころえ候うべし。真実信心さだまると申すも金剛信心のさだまると申すも、摂取不捨のゆえに申すなり。さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。これを、不退のくらいとも、正定聚のくらいにいたるとも申し、等正覚にいたるとも申すなり。このこころさだまるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまうなり。このゆえに、まことの信心の人をば、諸仏にひとしと申すなり。また、補処の弥勒とおなじと申すなり。このよにて、真実信心の人をばまぼらせ給えばこそ、『阿弥陀経』には、十方恒沙の諸仏護念すとは申す事にて候え。安楽浄土へ往生してのちはまもりたまう、と申すことにては候わず、娑婆世界(に)いたるほど護念すと申す事なり。信心まことなる人のこころを、十方恒沙の如来のほめたまえば、仏とひとしとは申す事なり。また、他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからう事を義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆえに、仏と仏との御はからいなり。凡夫のはからいにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからうべき人は候わず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人の仰せに候いき。このこころのほかには往生にいるべきこと候わず、屠沽ころえてまかりすぎそうらえば、人の仰せごとにはいらぬものにて候うなり。諸事恐々謹言
二のハ
安楽浄土にいりはつれば、すなわち、大涅槃をさとるとも、滅度にいたるとももうすは、み名こそかわりたるようなれども、これはみな法身ともうす仏となるなり。法身ともうす仏をさとりひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかいを、法蔵菩薩われらに回向したまえるを、往相の回向ともうすなり。この回向せさせたまえる願を、念仏往生の願とはもうすなり。この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修ともうすなり。如来の二種の回向ともうすことは、この二種の回向の願を信じ、ふたごころなきを、真実の信心ともうす。この真実の信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからいよりおこり他りとしらせたまうべく候う。あなかしこ、あなかしこ。
二月廿五日 親鸞
浄信御坊御返事
(三)一 この御ふみのようくわしくもうしあげてそうろうーーー『善性本御消息集』(一)イ・ロ・ハの次に移して掲載した。この一通は、慶信の上書に対する聖人の御加筆および慶信の追申に対する聖人の御返信などについて蓮位が慶信に書き送った添状であるから、いま便宜上、前期の位置に掲げた。
(四)たずねおおせられてそうろう摂取不捨の事は、『般舟三昧行道往生讃』と申すにおおせられて候うをみまいらせて候えば、「釈迦如来・弥陀仏、われらが慈悲の父母にて、さまざまの方便にて、我等が無上信心をばひらきおこさせ給う」と候えば、まことの信心のさだまる事は、釈迦・弥陀の御はからいとみえて候う。往生の心うたがいなくなり候うは、摂取せられまいらするゆえとみえて候う。摂取のうえには、ともかくも行者のはからいあるべからず候う。浄土へ往生するまでは、不退のくらいにておわしまし候えば、正定聚のくらいとなづけておわします事にて候うなり。まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからいにて、発起せしめ給い候うとみえてそうらえば、信心のさだまると申すは、摂取にあずかる時にて候うなり。そののちは、正定聚のくらいにて、まことに浄土へうまるるまでは、候うべしとみえ候うなり。ともかくも、行者のはからいをちりばかりもあるべからず候えばこそ、他力と申す事にて候え。あなかしこ、あなかしこ。
十月六日 親鸞(花押)
しのふの御房の御返事
(五)一 性信御房 親鸞
信心をえたる人はかならず正定聚のくらいに住するがゆえに等正覚のくらいともうすなり。いまの『大無量寿経』に、摂取不捨の利益にさだまるを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には、等正覚ととき給えり。その名こそかわりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつくらいなり。等正覚ともうすくらいは、補処の弥勒とおなじくらいなり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆえに、弥勒におなじととき給えり。さて、『大経』には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならいは申すなり。しかれば、弥勒におなじくらいなれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来と申すこともあるべしとしらせ給え。弥勒すでに無上覚にその心さだまりて、あかつきにならせ給うによりて、三会のあかつきと申すなり。浄土真実の人もこのこころをこころうべきなり。光明寺の和尚の『般舟讃』には、「信心の人はその心すでに浄土に居す」と釈し給えり。居すというは、浄土に、信心の人のこころ、つねにいたりというこころなり。これは弥勒とおなじくということを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心の人は如来とひとしと申すこころなり。
正嘉元年丁巳十月十日 親鸞
性信御坊
(六)これは『経』の文なり。『華厳経』に、「信心歓喜者与諸如来等」というは、信心をよろこぶひとはもろもろの如来とひとしというなり。如来とひとしというは、信心をえて、ことによろこぶひとは、釈尊のみことには、「見敬得大慶 則我善親友」(大経)とときたまえり。また、弥陀の第十七の願には、「十方世界無量諸仏 不悉咨嗟称我名者 不取正覚」とちかいたまえり。願成就の文には、よろずの仏にほめられ、よろこびたまうとみえたり。すこしもうたがうべきにあらず。これは如来とひとしという文どもをあらわししるすなり。
十月十五日
真仏御坊 親鸞
(七)七のイ
一 或人云
往生の業因は一念発起信心のとき、無碍の心光に摂護せられまいらせ候いぬれば同一なり。このゆえに不審なし。このゆえに、はじめてまた信不信を論じたずね申すべきにあらずとなり。このゆえに他力なり。義なきがなかの義となり。ただ、無明なること、おおわるる煩悩ばかりとなり。恐々謹言
十一月一日 専信上
七のロ
おおせ候うところの往生の業因は、真実信心をうるとき摂取不捨にあずかるとおもえば、かならずかならず如来の誓願に住すと悲願にみえたり。「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」とちかい給えり。正定聚に、信心の人は住し給えりとおぼしめし候いなば、行者のはからいのなきゆえに、義なきを義とすと、他力をば申すなり。善とも、悪とも、浄とも、穢とも、行者のはからいなきみとならせ給いて候えばこそ、義なきを義とすとは申すことにて候え。十七の願に、「わがなをとなえられん」とちかい給いて、十八の願に、「信心まことならば、もしうまれずは、仏にならじ」とちかい給えり。十七・十八の悲願みなまことならば、正定聚の願は、せんなく候うべきか。補処の弥勒におなじくらいに、信心の人は、ならせたまうゆえに、摂取不捨とはさだめられて候え。このゆえに、他力と申すは、行者のはからいのちりばかりもいらぬなり。かるがゆえに、義なきを義とすと申すなり。このほかにまたもうすべきことなし。ただ、仏にまかせまいらせ給えと、大師聖人のみことにて候え。
十一月十八日 親鸞
専信御坊御報