唯信鈔文意


 

「唯信抄」というは、「唯」は、ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。また「唯」は、ひとりというこころなり。「信」は、うたがいなきこころなり。すなわちこれ真実の信心なり。虚仮はなれたるこころなり。「虚」は、むなしという。「仮」は、かりなるということなり。「虚」は、実ならぬをいう。「仮」は、真ならぬをいうなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」という。「鈔」は、すぐれたることをぬきいだし、あつむることばなり。このゆえに「唯信鈔」というなり。また「唯信」はこれ、この他力に信心のほかに余のことならわずとなり。すなわち本弘誓願なるがゆえなればなり。

  「如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」ともうすは、無碍光如来なり。「尊号」ともうすは、南無阿弥陀仏なり。「尊」は、とうとくすぐれたるとなり。「号」は、仏になりたまうてのちの御なをもうす。「名」は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうすなり。この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり。

この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり。これすなわち誓願なるがゆえなり。「甚分明」というは、「甚」は、はなはだという、すぐれたりというこころなり。「分」は、わかつという、よろずの衆生ごとにとわかつこころなり。「明」は、あきらかなりという、十方一切衆生を、ことごとくたすけみちびきたまうということ、あきらかに、わかちすぐれたまえりとなり。「十方世界普流行」というは、「普」は、あまねく、ひろく、きわなしという。「流行」は、十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ、行ぜしめたまうなり。しかれば、大小の聖人、善悪の凡夫、みなともに、自力の智慧をもっては、大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆえに、この仏の智願海にすすめいれたまうなり。一切諸仏の智慧をあつめたまえる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。「但有称名皆得往」というは、「但有」は、ひとえに御なをとなうる人のみ、みな往生すとのたまえるなり。かるがゆえに「称名皆得往」というなり。「観音勢至自来迎」というは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり。この無碍光仏は、観音とあらわれ、勢志としめす。ある『経』には、観音を宝応声菩薩となづけて、日天子としめす。

これは無明の黒闇をはらわしむ。勢至を宝吉祥菩薩となづけて、月天子とあらわる。生死の長夜をてらして、智慧をひらかしめんとなり。「自来迎」というは、「自」は、みずからというなり。弥陀無数の化仏、無数の化観音、化大勢至等の、無量無数の聖衆、みずからつねに、ときをきらわず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそいたまいて、まもりたまうゆえに、みずからともうすなり。また「自」は、おのずからという。おのずからというは、自然という。自然というは、しからしむという。しからしむというは、行者の、はじめて、ともかくもはからわざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転ず。転ずというは、善とかえなすをいうなり。もとめざるに、一切の功徳善根を、仏のちかいを信ずる人にえしむるがゆえに、しからしむという。はじめて、はからわざれば、「自然」というなり。誓願真実の信心をえたるひとは、摂取不捨の御ちかいにおさめとりて、まもらせたまうによりて、行人のはからいにあらず、金剛の信心をうるゆえに、憶念自然なるなり。この信心のおこることも、釈迦の慈父、弥陀の悲母の方便によりて、おこるなり。

これ自然の利益なりとしるべしとなり。「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。すなわち他力をあらわす御ことなり。また「来」は、かえるという。かえるというは、願海にいりぬるによりて、かならず大涅槃にいたるを、法性のみやこへかえるともうすなり。法性のみやこというは、法身ともうす如来の、さとりを自然にひらくときを、みやこへかえるというなり。

これを、真実実相を証すとももうす。無為法身ともいう。滅度にいたるともいう。法性の常楽を証すとももうすなり。このさとりをうれば、すなわち大慈大悲きわまりて、生死海にかえりいりて、普賢の徳に帰せしむともうす。この利益におもむくを、「来」という。これを法性のみやこへかえるともうすなり。「迎」というは、むかえたまうという、まつというこころなり。選択不思議の本願、無上智慧の尊号をききて、一念もうたがうこころなきを、真実信心というなり。金剛心ともなづく。

この信楽をうるとき、かならず摂取してすてたまわざれば、すなわち正定聚のくらいにさだまるなり。このゆえに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと、金剛のごとくなるがゆえに、金剛の信心とはもうすなり。これを「迎」というなり。『大経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまえり。「願生彼国」は、かのくににうまれんとねがえとなり。「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという。すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるとのたまう御のりなり。これを「即得往生」とはもうすなり。「即」は、すなわちという。すなわちというは、ときをへず、日をへだてぬをいうなり。

おおよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となえられんとちかいたまえる、一乗大智海の誓願、成就したまえるによりてなり。『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにて、あきらかなり。証誠護念の御こころは、『大経』にもあらわれたり。また称名の本願は、選択の正因たること、この悲願にあらわれたり。この文のこころは、おもうほどはもうさず。これにておしはからせたまうべし。この文は、後善導法照禅師ともうす聖人の御釈なり。この和尚をば法道和尚と、慈覚大師はのたまえり。また『伝』には、廬山の弥陀和尚ともうす。浄業和尚とももうす。唐朝の光明寺の善導和尚の化身なり。このゆえに後善導ともうすなり。

「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)。「彼仏因中立弘誓」、このこころは、「彼」は、かのという。「仏」は、阿弥陀仏なり。「因中」は、法蔵菩薩ともうししときなり。「立弘誓」は、「立」は、たつという、なるという。「弘」は、ひろしという、ひろまるという。「誓」は、ちかいというなり。法蔵比丘、超世無上のちかいをおこして、ひろくひろめたまうともうすなり。超世は、よの仏の御ちかいにすぐれたまえりとなり。超は、こえたりというは、うえなしともうすなり。如来の、弘誓をおこしたまえるようは、この『唯信鈔』にくわしくあらわれたり。「聞名念我」というは、「聞」は、きくという。信心をあらわす御のりなり。「名」は、御なともうすなり。諸仏称名の悲願にあらわせり。憶念は、信心をえたるひとは、うたがいなきゆえに、本願をつねにおもいいずるこころのたえぬをいうなり。「総迎来」というは、「総」は、ふさねてという、すべて、みなというこころなり。「迎」は、むかうるという、まつという。他力をあらわすこころなり。「来」は、かえるという、きたらしむという。

法性のみやこへ、むかえいて、きたらしめ、かえらしむという。法性のみやこより、衆生利益のために、この娑婆界にきたるゆえに、「来」をきたるというなり。法性のさとりをひらくゆえに、「来」をかえるというなり。「不簡貧窮将富貴」というは、「不簡」は、えらばず、きらわずという。「貧窮」は、まずしく、たしなきものなり。「将」は、まさにという、もてという、いてゆくという。「富貴」は、とめるひと、よきひとという。これらを、まさにもてえらばず、きらわず、浄土へいてゆくとなり。「不簡下智与高才」というは、「下智」は、智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才」は、才学ひろきもの。これらをえらばず、きらわずとなり。「不簡多聞持浄戒」というは、「多聞」は、聖教をひろく、おおきく、きき、信ずるなり。「持」は、たもつという。たもつというは、ならいまなぶことを、うしなわず、ちらさぬなり。「浄戒」は、大小乗のもろもろの戒行、五戒八戒、十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、、六万の斎行、梵網の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」という。かようのさまざまの戒品をたもてる、いみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに、真実報土には往生をとぐるなり。みずからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては、実報土にはうまれずとなり。「不簡破戒罪根深」というは、「破戒」は、かみにあらわすところの、よろずの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらわずとなり。「罪根深」というは、十悪五逆の悪人、謗法闡提の罪人、おおよそ善根すくなきもの、悪業おおきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かようのあさましき、さまざまのつみふかきひとを、「深」という。ふかしということばなり。

すべて、よきひと、あしきひと、とうときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかいには、きらわず、えらばれず、これをみちびきたまうをさきとし、むねとするなり。真実信心をうれば実報土にうまるとおしえたまえるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。「総迎来」は、すべてみな浄土へむかえかえらしむといえるなり。「但使回心多念仏」というは、「但使回心」は、ひとえに回心せしめよということばなり。「回心」というは、自力の心をひるがえし、すつるをいうなり。実報土にうまるるひとは、かならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」ともうすなり。「多」は、大のこころなり。勝のこころなり。増上のこころなり。大は、おおきなり。勝は、すぐれたり。よろずの善にまされるとなり。増上は、よろずのことにすぐれたるなり。これすなわち他力本願無上のゆえなり。自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、みずからがみをよしとおもうこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず、ひとすじに、具縛の凡愚、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。具縛は、よろずの煩悩にしばられたるわれらなり。煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやますという。屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。

これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人なり。これらを下類というなり。「能令瓦礫変成金」というは、「能」は、よくという。「令」は、せしむという。「瓦」は、かわらという。「礫」は、つぶてという。「変成金」は、「変成」は、かえなすという。「金」は、こがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。摂取のひかりともうすは、阿弥陀仏の御こころにおさめとりたまうゆえなり。文のこころは、おもうほどはもうしあらわし候わねども、あらあらもうすなり。ふかきことは、これにておしはからせたまうべし。この文は、慈愍三蔵ともうす聖人の御釈なり。震旦には、恵日三蔵ともうすなり。


「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃)「極楽無為涅槃界」というは、「極楽」ともうすは、かの安楽浄土なり。よろずのたのしみつねにして、くるしみまじわらざるなり。かのくにをば安養といえり。曇鸞和尚は、ほめたてまつりて安養ともうすとこそのたまえり。また『論』には、「蓮華蔵世界」ともいえり。無為ともいえり。「涅槃界」というは、無明のまどいをひるがえして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」は、さかいという。さとりをひらくさかいなり。大涅槃ともうすに、その名無量なり。くわしくもうすにあたわず。おろおろ、その名をあらわすべし。「涅槃」をば、滅度という、無為という、安楽という、常楽という、実相という、法性という、真如という、一如という、仏性という、仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり。この如来を報身ともうす。誓願の業因にむくいたまえるゆえに、報身如来ともうすなり。報ともうすは、たねにむくいたるなり。この報身より、応化等の無量無数の身をあらわして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまうゆえに、尽十方無碍光仏ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明のやみをはらい、悪業にさえられず。このゆえに、無碍光ともうすなり。無碍は、さわりなしともうす。しかれば、阿弥陀仏は、光明なり。光明は、智慧のかたちなりとしるべし。「随縁雑善恐難生」というは、「随縁」は、衆生のおのおのの縁にしたがいて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを、極楽に回向するなり。すなわち八万四千の法門なり。これみな自力の善根なるゆえに、実報土にはうまれずと、きらわるるゆえに、「恐難生」といえり。「恐」は、おそるという。真の報土に、雑善・自力の善うまるということを、おそるるなり。「難生」は、うまれがたしとなり。「故使如来選要法」というは、釈迦如来、よろずの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものに、あたえたまえるものなりとしるべしとなり。これを「選」という。

ひろくえらぶというなり。「要」は、もっぱらという、もとむという、ちぎるというなり。「法」は、名号なり。「教念弥陀専復専」というは、「教」は、おしうという、のりという。釈尊の教勅なり。「念」は、心をおもいさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなわち選択本願の名号を一向専修なれと、おしえたまう御ことなり。「専復専」というは、はじめの「専」は、一行を修すべしとなり。「復」は、またという、かさぬという。しかれば、また「専」というは、一心なれとなり。一行一心をもっぱらなれとなり。「専」は、一ということばなり。もっぱらというは、ふたごころなかれというなり。ともかくもうつるこころなきを「専」というなり。この一行一心なるひとを摂取してすてたまわざれば、阿弥陀となづけたてまつると、光明寺の和尚は、のたまえり。この一心は、横超の信心なり。横は、よこさまという。超は、こえてという。よろずの法にすぐれて、すみやかに、とく生死海をこえて、仏果にいたるがゆえに、超ともうすなり。これすなわち大悲誓願力なるがゆえなり。この信心は、摂取のゆえに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を、世親菩薩は、願作仏心とのたまえり。この信楽は、仏にならんとねがうともうすこころなり。この願作仏心は、すなわち度衆生心なり。この度衆生心ともうすは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は、衆生をして無上涅槃にいたらしむ心なり。この心すなわち大菩提心なり。大慈大悲心なり。この信心すなわち仏性なり。すなわち如来なり。この信心をうるを慶喜というなり。慶喜するひとは、諸仏とひとしきひととなづく。慶は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。喜は、こころのうちに、よろこぶこころたえずして、つねなるをいう。うべきことをえてのちに、みにも、こころにも、よろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまえり。 この信心をえがたきことを、『経』(称讃浄土経)には「極難信法」とのたまえり。しかれば『大経』には「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過此難」とおしえたまえり。この文のこころは、「もしこの『経』をききて、信ずること、かたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなし」とのたまえる御のりなり。釈迦牟尼如来は、五濁悪世にいでて、この難信の法を行じて、無上涅槃にいたると、ときたまう。さてこの智慧の名号を、濁悪の衆生にあたえたまうとのたまえり。十方諸仏の証誠、恒沙如来の護念、ひとえに真実信心のひとのためなり。釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。われらがちち・はは、種々の方便をして、無上の信心をひらきおこしたまえるなりと、しるべしとなり。おおよそ過去久遠に、三恒河沙の諸仏のよにいでたまいしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にもうあうことをえたり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしゅうすることなかれとなり。

「具三心者 必生彼国」(観経)というは、三心を具すれば、かならずかのくににうまるとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(往生礼讃)とのたまえり。「具此三心」というは、みつの心を具すべしとなり。「必得往生」というは、「必」は、かならずという。「得」は、うるという。うるというは、往生をうるとなり。「若少一心」というは、「若」は、もしという、ごとしという。「少」は、かくいう。すくなしという。一心かけぬればうまれずというなり。一心かくるというは、信心のかくるなり。信心かくというは、本願真実の三信のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを、一心をうるとはもうすなり。このゆえに『大経』の三信心をえざるをば、一心かくるともうすなり。この一心かけぬれば、真の報土にうまれずというなり。『観経』の三心は、定散二機の心なり。定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば「即不得生」というなり。「即」は、すなわちという。「不得生」というは、うまるることをえずというなり。三信かけぬるゆえに、すなわち報土にうまれずとなり。雑行雑修して定機散機の人、他力の信心かけたるゆえに、多生曠劫をへて、他力の一心をえてのちにうまるべきゆえに、すなわちうまれずというなり。もし胎生辺地にうまれても、五百歳をへ、あるいは億千万衆の中に、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことを、よくよくこころえねがうべきなり。

「不得外現 賢善精進之相」(散善義)というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。内は、うちという。こころのうちに煩悩を具せるゆえに、虚なり、仮なり。虚は、むなしくして実ならぬなり。仮は、かりにして、真ならぬなり。このこころは、かみにあらわせり。この信心は、まことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつわらず、へつわらず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にあらず、賢人にもあらず。賢人というは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし。懈怠のこころのみにして、うちは、むなしく、いつわり、かざり、へつらうこころのみ、つねにして、まことなるこころなきみなりとしるべしとなり。「斟酌すべし」(唯信鈔)というは、ことのありさまにしたごうて、はからうべしということばなり。

「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)というは、もろもろの戒をやぶり、つみふかきひとを、きらわずとなり。このようは、はじめにあらわせり。よくよくみるべし。

「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経)というは、選択本願の文なり。この文のこころは、乃至十念の御なをとなえんもの、もしわがくににうまれずは仏にならじとちかいたまえる本願なり。「乃至」は、かみ・しもと、おおき・すくなき・ちかき・とおき・ひさしきをも、みなおさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかいなり。

「非権非実」(唯信鈔)というは、法華宗のおしえなり。浄土真宗のこころにあらず。聖道家のこころなり。かの宗のひとにたずぬべし。 「汝若不能念」(観経)というは、五逆十悪の罪人、不浄説法のもの、やもうのくるしみにとじられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ、くちに南無阿弥陀仏ととなえよとすすめたまえる御のりなり。これは、称名を本願とちかいたまえることをあらわさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのたまえるは、このこころなり。「応称」は、となうべしとなり。「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪」(観経)というは、五逆の罪人は、そのみにつみをもてること、と八十億劫のつみをも*559てるゆえに、十念南無阿弥陀仏ととなうべしと、すすめたまえる御のりなり。一念にと八十億劫のつみをけすまじきにはあらねども、五逆のつみのおもきほどをしらせんがためなり。「十念」というは、ただくちに十辺をとなうべしとなり。しかれば、選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(往生礼讃)ともうすは、弥陀の本願は、とこえまでの衆生、みな往生すとしらせんとおぼして、十声とのたまえるなり。念と声は、ひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし。声をはなれたる念なしとなり。この文どものこころは、おもうほどはもうさず。よからんひとにたずぬべし。ふかきことは、これにてもおしはかりたまうべし。

南無阿弥陀仏
いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、たびたびとりかえしとりかえし、かきつけたり。こころあらんひとは、おかしくおもうべし。あざけりをなすべし。しかれども、おおかたのそしりをかえりみず、ひとすじに、おろかなるものを、こころえやすからんとて、しらせるなり。

康元二歳正月二十七日   愚禿親鸞八十五歳 書写之