必至滅度の願
難思議往生
愚禿釈親鸞集
謹んで真実証を顕さば、すなわちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなわちこれ必至滅度の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。必ず滅度に至るは、すなわち常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ法性なり。法性はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化種種の身を示し現わしたまうなり。
必至滅度の願文、『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、国の中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずは、正覚を取らじ、と。已上
『無量寿如来会』に言わく、もし我成仏せんに、国の中の有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ、と。已上
願成就の文、『経』に言わく、それ衆生ありて、かの国に生まるれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中にはもろもろの邪聚あよび不定聚なければなり、と。
また言わく、かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥オンの道に次し。それもろもろの声聞・菩薩・天・人、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するがゆえに、人・天の名あり。顔貌端政にして余に超えて希有なり。容色微妙にして天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり、と。
(如来会)また言わく、かの国の衆生、もしは当に生まれん者、みなことごとく無上菩提を究竟し、涅槃の処に到らしめん。何をもってのゆえに。もし邪定聚および不定聚は、かの因を建立することを了知することあたわざるがゆえなり、と。已上、要を抄す。
『浄土論』(論註)に曰わく、「荘厳妙声功徳成就」は、「偈」に「梵声悟深遠 微妙聞十方」のゆえにと言えりと。これいかんぞ不思議なるや。『経』に言わく、「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生まれんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなわち正定聚に入る。」これはこれ国土の名字仏事をなす、いずくんぞ思議すべきや、と。
「荘厳主功徳成就」は、「偈」に「正覚阿弥陀 法王善住持」のゆえにと言えり。これいかんが不思議なるや。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや。「住」は不異不滅に名づく、「持」は不散不失に名づく。不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在くにコ がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし。何をもってのゆえに。不朽薬の力なるがゆえなり。もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火の中に生まるといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。何をもってのゆえに。正覚阿弥陀の善く住持を径るをもってのゆえにと。
「荘厳眷属功徳成就」は、「偈」に「如来浄華衆 正覚華化生」のゆえにと言えり。これいかんぞ不思議なるや。おおよそこの雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属若干なり、苦楽万品なり、雑業をもってのゆえに。かの安楽国土は、これ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆえに。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり。眷属無量なり。いずくんぞ思議すべきや。
また言わく、往生を願う者、本はすなわち三三の品なれども、今は一二の殊なし。またシ ジョ食陵の反 の一味なるがごとし。いずくんぞ思議すべきや。
また『論』(論註)に曰わく、「荘厳清浄功徳成就」は、「偈」に「観彼世界相 勝過三界道」のゆえにと言えり。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得れば、三界の繋業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得、いずくんぞ思議すべきや。已上抄要
『安楽集』に云わく、しかるに二仏の神力、また斉等なるべし。ただ釈迦如来己が能を申べずして、故にかの長ぜるを顕したまうことは、一切衆生をして斉しく帰せざることなからしめんと欲してなり。このゆえに釈迦、処処に嘆帰せしめたまえり。須らくこの意を知るべしとなり。このゆえに曇鸞法師の正意、西に帰るがゆえに、『大経』に傍えて奉讃して曰わく、「安楽の声聞・菩薩衆・人天、智慧ことごとく洞達せり。身相荘厳殊異なし。ただ他方に順ずるがゆえに名を列ぬ。顔容端政にして比ぶべきなし。精微妙躯にして人天にあらず、虚無の身、無極の体なり。このゆえに平等力を頂礼したてまつる」(讃弥陀偈)と。已上 光明寺の『疏』(玄義分)に云わく、「弘願」と言うは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生を得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなしとなり。また仏の密意弘深なれば、教門をして暁りがたし。三賢十聖測りてキ うところにあらず。況や我信外の軽毛なり。あえて旨趣を知らんや。仰ぎて惟みれば、釈迦はこの方にして発遣し、弥陀はすなわちかの国より来迎す。彼に喚ばい此に遣わす。あに去かざるべけんや。ただねんごろに法に奉えて、畢命を期として、この穢身を捨てて、すなわちかの法性の常楽を証すべし、と。
(定善義)また云わく、西方寂静無為の楽には、畢竟逍遥して、有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳意に随いて出ず。群生を見る者、罪みな除こる、と。また賛じて云わく、帰去来、魔境に停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、尽くみな径たり。いたるところに余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らん、と。已上
それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。かるがゆえに、もしは因もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざることあることなし。因浄なるがゆえに、果また浄なり。知るべしとなり。
二つに還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり。すなわちこれ「必至補処の願」より出でたり。また「一生補処の願」と名づく。また「還相回向の願」と名づくべきなり。『註論』に顕れたり。かるがゆえに願文を出ださず。『論の註』を披くべし。 『浄土論』に曰わく、「出第五門」とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを「出第五門」と名づく、と。已上
『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えり。
また言わく、「すなわちかの仏を見れば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆえに」とのたまえり。「平等法身」とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。(「寂滅平等」とはすなわちこの法身の菩薩の所証の)寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもってのゆえに、名づけて「平等法身」とす。平等法身の菩薩の所得なるをもってのゆえに、名づけて「寂滅平等の法」とするなり。この菩薩は報生三昧を得。三昧神力をもって、よく一処、一念、一時に十方世界に遍じて、種種に一切諸仏および諸仏大会衆海を供養す。善く無量世界に仏法僧ましまさぬところにして、種種に示現し、種種に一切衆生を教化し度脱して、常に仏事を作す。初めに往来の想・供養の想・度脱の想なし。このゆえにこの身を名づけて「平等法身」とす。この法を名づけて「寂滅平等の法」とす。
「未証浄心の菩薩」とは、初地已上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず。作心をもってのゆえに、名づけて「未証浄心」とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見るとき、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し、と。龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生まれんと願ずるは、当にこのためなるべしならくのみと。問うて曰わく、『十地経』を案ずるに、菩薩の進趣階級、ようやく無量の功勲あり。多くの劫数を径。しこうして後、いましこれを得。いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきや。答えて曰わく、畢竟とは、未だすなわち等しというにはあらずとなり、と。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆえに、等しと言うならくのみ、と。問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ初地に登れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の菩薩と等しと言うや。答えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、仏道を捨てて実際を証せんとす。その時にもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須らく畢竟平等と言うべし。また次に『無量寿経』の中に、阿弥陀如来の本願に言わく、「設い我仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじ」と。この『経』を案じて、かの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。「十地の階次」というは、これ釈迦如来、閻浮提にして、一つの応化道ならくのみ、と。他方の浄土は、何ぞ必ずしもかくのごとくせん。五種の不思議の中に仏法最も不思議なり。もし「菩薩必ず一地より一地に至りて、超越の理なし」と言わば、未だ敢えて詳らかならざるなり。
譬えば樹あり、名づけて好堅と曰う。この樹、地より生じて百歳ならん。いまし具に一日に長高なること百丈なるがごとし。日日にかくのごとし。百歳の長を計るに、あに修松に類せんや。松の生長するを見るに、日に寸を過ぎず。かの好堅を聞きて、何ぞよく即日を疑わざらん。人ありて、釈迦如来、羅漢を一聴に証し、無生を終朝に制すとのたまえるを聞きて、これ接誘の言にして称実の説にあらずと謂えり。この論事を聞きて、また当に信ぜざるべし。それ非常の言は常人の耳に入らず。これをしからずと謂えり。またそれ宜しかるべきなり。「略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就したまえるを示現したまえるなりと、知るべし」(論)。これはいかんが次第なるとならば、前の十七句は、これ荘厳国土の功徳成就なり。既に国土の相を知んぬ。国土の主を知るべし。このゆえに次に仏荘厳功徳を観ず。かの仏もし荘厳をなして、いずれの処にしてか座すると。このゆえにまず座を観ずべし。既に座を知りぬ。すでに宜しく座主を知るべし。このゆえに次に仏、身業を荘厳したまうを観ず。既に身業を知りぬ。いかなる声名かましますと知るべし。このゆえに次に仏、口業を荘厳したまえるを観ず。既に名聞を知りぬ。宜しく得名の所以を知るべし。このゆえに次に仏の心業を荘厳したまえるを観ず。既に三業具足したまえるを知りぬ。人天の大師となって化を受くるに堪えたる者は、これ誰ぞと知るべし。このゆえに次に大衆の功徳を観ず。既に大衆、無量の功徳いますことを知りぬ。宜しく上首は誰ぞと知るべし。このゆえに次に上首を観ず。
上首はこれ仏なり。既に上首恐らくは長幼に同じきことを知りぬ。このゆえに次に主を観ず。既にこの主を知りぬ。主いかなる増上かましますと。このゆえに次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。菩薩を観ぜば、「いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行功徳成就したまえることありと、知るべし」(論)。真如はこれ諸法の正体なり。体、如にして行ずれば、すなわちこれ不行なり。不行にして行ずるを、如実修行と名づく。体はただ一如にして、義をして分かちて四とす。このゆえに四行、一をもって正しくこれをカ ぬ。「何ものをか四とする。一には、一仏土において身動揺せずして十方に遍す。種種に応化して実のごとく修行して、常に仏事を作す。「偈」に「安楽国は清浄にして常に無垢の輪を転ず。化仏菩薩は、日の須弥に住持するがごときのゆえに」と言えり。もろもろの衆生の淤泥華を開くがゆえに」(論)とのたまえり。八地已上の菩薩は、常に三昧にありて、三昧力をもって、身本処を動ぜずしてよく遍く十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す。「無垢輪」とは仏地の功徳なり。仏地の功徳は、習気・煩悩の垢ましまさず。仏、もろもろの菩薩のために常にこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩、またよくこの法輪をもって、一切を開導して暫時も休息なけん。かるがゆえに常転と言う。法身は日のごとくして、応化身の光、もろもろの世界に遍ずるなり。「日」と言わば、未だもって不動を明かすに足らざれば、また如須弥住持と言うなり。「淤泥華」とは『経』(維摩経)に言わく、「高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ず。」これは、凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩う。諒にそれ三宝を紹隆して常に絶えざらしむと。「二には、かの応化身、一切の時、前ならず後ならず、一心一念に、大光明を放ちて、ことごとくよく遍く十方世界に至りて、衆生を教化す。
種種に方便し、修行所作して、一切衆生の苦を滅除するがゆえに。「偈」に「無垢荘厳の光、一念および一時に、普く諸仏の会を照らして、もろもろの群生を利益するゆえに」と言えり」(論)。上に「不動にして至る」と言えり。あるいは至るに前後あるべし。このゆえにまた「一念一時無前無後」と言えるなり。「三には、かれ一切世界において、余なくもろもろの仏会を照らす。大衆余なく広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し恭敬し讃嘆す。「偈」に「天の楽・華・衣・妙香等を雨りて、諸仏の功徳を供養し讃ずるに、分別の心あることなきがゆえに」と言えり」(論)と。「無余」とは、遍く一切世界一切諸仏の大会に至りて、一世界一仏会として至らざることあることなきを明かすなり。肇公の言わく、「法身は像なくして形を殊にす。ならびに至韻に応ず。言なくして玄籍いよいよ布き、冥権謀なくして動じて事を会す」(注維摩詰経序)と。けだしこの意なり。「四には、かれ十方一切の世界に、三宝ましまさぬ処において、仏法僧宝功徳大海を住持し荘厳して、遍く示して、如実の修行を解らしむ。「偈」に「何等の世界にか、仏法功徳宝ましまさざらん。我願わくは、みな往生して、仏法を示して仏のごとくせん」と言えるがゆえに」(論)と。上の三句に「遍く至る」と言うといえども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句なくは、すなわちこれ法身、所として法ならざることあらん。上善、所として善ならざることあらん。観行の体相竟りぬ。
已下はこれ解義の中の第四重なり。名づけて「浄入願心」とす。「浄入願心」とは「また、さきに観察荘厳仏土功徳成就、荘厳仏功徳成就、荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は願心の荘厳したまえるなりと、知るべし」(論)といえり。「知るべし」とは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄の願心の荘厳せるところなるによって、因浄なるがゆえに果浄なり。因なくして他の因のあるにはあらずと知るべしとなり。「略して入一法句を説くがゆえに」(論)とのたまえり。上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを「広」とす入一法句は、「略」とす。何がゆえぞ広略相入を示現するならば、諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。このゆえに広略相入して、カ ぬるに法の名をもってす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他にあたわず。「一法句とは、いわく清浄句なり。清浄句は、いわく真実の智慧無為法身なるがゆえに」(論)とのたまえり。この三句は展転して相入る。何の義に依ってか、これを名づけて法とする、清浄をもってのゆえに。何の義に依ってか、名づけて清浄とする、真実の智慧無為法身をもってのゆえなり。真実の智慧は実相の智慧なり。実相は無相なるがゆえに、真智は無知なり。無為法身は法性身なり。法性寂滅なるがゆえに、法身は無相なり。無相のゆえによく相ならざることなし。このゆえに相好荘厳すなわち法身なり。無知のゆえによく知らざることなし。このゆえに一切種智すなわち真実の智慧なり。真実をもってして智慧に目くることは、智慧は作にあらず、非作にあらざることを明かすなり。無為をもってして法身を樹つることは、法身は色にあらず非色にあらざることを明かすなり。非にあらざれば、あに非のよく是なるにあらざらんや。けだし非なき、これを是と曰うなり。自ずから是にして、また是にあらざることを待つことなきなり。是にあらず非にあらず、百非の喩えざるところなり。このゆえに清浄句と言えり。清浄句とは、いわく真実の智慧無為法身なり。「この清浄に二種あり、知るべし」(論)といえり。上の転入句の中に、一法の通じて清浄に入る。清浄に通じて法身に入る。今将に清浄を別ちて二種を出だすがゆえなり。かるがゆえに「知るべし」と言えり。「何等か二種。一つには器世間清浄、二つには衆生世間なり。器世間清浄とは、さきに説くがごときの十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、さきに説くがごときの八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就と、これを衆生世間清浄と名づく。かくのごときの一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべし」とのたまえり。それ衆生は別報の体とす。国土は共報の用とす。体用一ならず。このゆえに、知るべし。しかるに諸法は心をして無余の境界を成ず。衆生および器、また異にして一ならざることを得ず。すなわち義をして分かつに異ならず。同じく清浄なり。器は用なり。謂わくかの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆえに、名づけて器とす。浄食に不浄の器を用うれば、器不浄なるをもってのゆえに、食また不浄なり。不浄の食に浄器を用うれば、食不浄なるがゆえに、器また不浄なるがごとし。かならず二ともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。ここをもって一の清浄の名、必ず二種を摂す。問うて曰わく、衆生清浄と言えるは、すなわちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人天、この清浄の数に入ることを得んや、いなや。答えて曰わく、清浄と名づくることを得るは、実の清浄にあらず。譬えば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもってのゆえに、名づけて比丘とす、凡夫の出家の者をまた比丘と名づくるがごとし。また潅頂王子初生の時、三十二相を具して、すなわち七宝のために属せらる。未だ転輪王の事を為すことあたわずといえども、また転輪王と名づくるがごとし。それ必ず転輪王たるべきをもってのゆえに。かのもろもろの人天も、またかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じて当に清浄法身を得べし。当に得べきをもってのゆえに、清浄と名づくることを得るなりと。
「善巧摂化」とは、「かくのごとき菩薩は、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就して、柔軟心なり」(論)とのたまえり。柔軟心とは、謂わく広略の止観、相順し修行して、不二の心を成ぜるなり。譬えば水をもって影を取るに、清と静と相資けて成就するがごとしとなり。「実のごとく広略の諸法を知る」(論)とのたまえり。如実知とは、実相のごとくして知るなり。広の中の二十九句、略の中の一句、実相にあらざることなきなり。「かくのごとき巧方便回向を成就したまえり」(論)とのたまえり。「かくのごとき」というは、前後の広略、みな実相なるがごときなり。実相を知るをもってのゆえに、すなわち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄の相を知れば、すなわち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、すなわち真実の帰依を起こすなり。慈悲と帰依と巧方便とは、下にあり。「何者か菩薩の巧方便回向。菩薩の巧方便回向とは、謂わく礼拝等の五種の修行を説く。所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず。一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆえに、作願して一切衆生を摂取して、共に同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。これを菩薩の巧方便回向成就と名づく」(論)とのたまえり。王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生の中に、行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなけん。この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、かならず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽無間なるを聞きて、楽のために生まれんと願ずるは、また当に往生を得ざるべきなり。このゆえに「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆえに」と言えり。住持楽とは、謂わくかの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なきなり。おおよそ回向の名義を釈せば、謂わく己が所集の一切の功徳をもって、一切衆生に施与して、共に仏道に向かえしめたまうなりと。巧方便とは、謂わく菩薩願ずらく、「己が智慧の火をもって、一切衆生の煩悩の草木を焼かんと。もし一衆生として成仏せざることあらば、我仏に作らじ」と。しかるに衆生未だことごとく成仏せざるに、菩薩すでに自ら成仏せんは、火 聴念の反 して、一切の草木を 聴歴の反 んで、焼きて尽くさしめんと欲するに、草木未だ尽きざるに、火 すでに尽きんがごとし。その身を後にして、身を先にするをもってのゆえに、方便と名づく。この中に方便と言うは、謂わく作願して一切衆生を摂取して、共に同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国は、すなわちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。
「障菩提門」とは、「菩薩、かくのごとき、善く回向成就したまえるを知れば、すなわちよく三種の菩提門相違の法を遠離するなり。何等か三種。一つには智慧門に依りて自楽を求めず、我心、自身に貪着するを遠離せるがゆえに」(論)とのたまえり。進むを知りて退くを守るを智と曰う。空無我を知るを慧と曰う。智に依るがゆえに自楽を求めず、慧に依るがゆえに我心、自身を貪着するを遠離せり。「二つには慈悲門に依れり。一切衆生の苦を抜いて、無安衆生心を遠離せるがゆえに」(論)とのたまえり。苦を抜くを慈と曰う。楽を与うるを悲と曰う。慈に依るがゆえに一切衆生の苦を抜く。悲に依るがゆえに無安衆生心を遠離せり。「三つには方便門に依れり。一切衆生を憐愍したもう心なり。自身を供養し恭敬する心を遠離せるがゆえに」(論)とのたまえり。正直を方と曰う。外己を便と曰う。正直に依るがゆえに、一切衆生を憐愍する心を生ず。外己に依るがゆえに自身を供養し恭敬する心を遠離せり。これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく。
「順菩提門」とは、「菩薩は、かくのごとき三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法満足することを得たまえるがゆえに。何等か三種。一つには無染清浄心。自身のために諸楽を求めざるをもってのゆえに」(論)とのたまえり。菩提はこれ無染清浄の処なり。もし身のために楽を求めば、すなわち菩提に違しなん。このゆえに無染清浄心は、これ菩提門に順ずるなり。「二つには安清浄心。一切衆生の苦を抜くをもってのゆえに」(論)とのたまえり。菩提はこれ一切衆生を安穏する清浄の処なり。もし作心して一切衆生を抜きて生死の苦を離れしめずは、すなわち菩提に違しなん。このゆえに一切衆生の苦を抜くは、これ菩提門に順ずるなりと。「三つには楽清浄心。一切衆生をして大菩提を得しむるをもってのゆえに、衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもってのゆえに」(論)とのたまえり。菩提はこれ畢竟常楽の処なり。もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめずは、すなわち菩提に違しなん。この畢竟常楽は何に依りてか得る、大義門に依るなり。大義門は、謂わくかの安楽仏国土これなり。このゆえにまた「衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもってのゆえに」と言えり。これを「三種の随順菩提門の法満足せり」と名づくと、知るべしと。
「名義摂対」とは、「さきに、智慧・慈悲・方便、三種の門、般若を摂取す。般若、方便を摂取すと説きつ。知るべし」(論)とのたまえり。般若は如に達するの慧の名なり。方便は権に通ずるの智の称なり。如に達すれば、すなわち心行寂滅なり。権に通ずれば、すなわち備に衆機に省くの智なり。備に応じて無知なり。寂滅の慧、また無知にして備に省く。しかればすなわち智慧と方便と相縁じて動じ、相縁じて静なり。動、静を失せざることは智慧の功なり。静、動を廃せざることは方便の力なり。このゆえに智慧と慈悲と方便と、般若を摂取す。般若、方便を摂取す。「知るべし」とは、謂わく智慧と方便は、これ菩薩の父母なり。もし智慧と方便とに依らずは、菩薩の法則、成就せざることを知るべし。何をもってのゆえに。もし智慧なくして衆生のためにする時んば、すなわち顛倒に堕せん。もし方便なくして法性を観ずる時んば、すなわち実際を証せん。このゆえに知るべし、と。「さきに遠離我心貪着自身・遠離無安衆生心・遠離供養恭敬自身心を説きつ。この三種の法は障菩提心を遠離するなりと、知るべし」(論)とのたまえり。諸法におのおの障碍の相あり。風はよく静を障う。土はよく水を障う。湿はよく火を障う。五黒・十悪は人天を障う。四顛倒は声聞の果を障うるがごとし。この中の三種は、菩提を障うる心を遠離せずと。「知るべし」とは、もし無障を得んと欲わば、当にこの三種の障碍を遠離すべしとなり。「さきに無染清浄心・安清浄心・楽清浄心を説きつ。この三種の心は略して一処にして妙楽勝真心を成就したまえりと、知るべし」(論)とのたまえり。楽に三種あり。一つには外楽、謂わく五識所生の楽なり二つには内楽、謂わく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三つには法楽五角の反 楽魯各の反、 謂わく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起これり。これは遠離我心と、遠離無安衆生心と、遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもってのゆえに。勝の言は三界の中の楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり。
「願事成就」は、「かくのごとき菩薩は智慧心・方便心・無障心・勝真心をもって、よく清浄仏国土に生ぜしめたまえりと、知るべし」(論)とのたまえり。「知るべし」とは、謂わくこの四種の清浄の功徳、よくかの清浄仏国土に生ずることを得しむ。これ他縁をして生ずるにはあらずと知るべしとなり。「これを菩薩摩訶薩、五種の法門に随順して、所作意に随いて自在に成就したまえりと名づく。さきの所説のごとき身業・口業・意業・智業・方便智業、法門に随順せるがゆえに」(論)とのたまえり。随意自在とは、言うこころは、この五種の功徳力、よく清浄仏土に生ぜしめて、出没自在なるなり。身業とは礼拝なり。口業とは讃嘆なり。意業とは作願なり。智業とは観察なり。方便智業とは回向なり。この五種の業和合せり、すなわちこれ往生浄土の法門に随順して、自在の業成就したまえり、と言えりと。
「利行満足」とは、「また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就したまえりと、知るべしと。何ものか五門。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五には園林遊戯地門なり」とのたまえり。この五種は、入出の次第の相を示現せしむ。入相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。謂わく大乗正定聚に入るは、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。浄土に入り已るは、すなわち如来の大会衆の数に入るなり。衆の数に入り已りぬれば、当に修行安心の宅に至るべし。宅に入り已れば、当に修行所居の屋宇尤挙の反 に至るべし。修行成就し已りぬれば、当に教化地に至るべし。教化地はすなわちこれ菩薩の自娯楽の地なり。このゆえに出門を園林遊戯地門と称すと。「この五種の門は、初めの四種の門は入の功徳を成就したまえり。第五門は出の功徳を成就したまえり」(論)とのたまえり。この入出の功徳は、何ものかこれや。釈すらく、「入第一門というは、阿弥陀仏を礼拝して、かの国に生ぜしめんがためにするをもってのゆえに、安楽世界に生まるることを得しむ。これを入第一門と名づく」(論)。仏を礼して仏国に生まれんと願ずるは、これ初めの功徳の相なりと。「入第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆し、名義に随順して、如来の名を称せしめ、如来の光明智相に依って修行せるをもってのゆえに、大会衆の数に入ることを得しむ。これを入第二門と名づく」(論)とのたまえり。如来の名義に依って讃嘆する、これ第二の功徳相なりと。「入第三門とは、一心に専念し作願して、彼に生じて奢摩他寂静三昧の行を修するをもってのゆえに、蓮華蔵世界に入ることを得しむ。これを入第三門と名づく」(論)。寂静止を修せんためのゆえに、一心にかの国に生まれんと願ずる、これ第三の功徳相なりと。「入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむるをもってのゆえに、かの所に到ることを得て、種種の法味の楽を受用せしむ。これを入第四門と名づく」(論)とのたまえり。種種の法味の楽とは、毘婆舎那の中に、観仏国土清浄味・摂受衆生大乗味・畢竟住持不虚作味・類事起行願取仏土味あり。かくのごときらの無量の荘厳仏道の味あるがゆえに、種種と言えり。これ第四の功徳相なりと。「出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく」(論)とのたまえり。示応化身とは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。遊戯に二の義あり。一には自在の義。菩薩、衆生を度す。譬えば師子の鹿を摶つに所為難らざるがごときは、遊戯するがごとし。二には度無所度の義なり。菩薩、衆生を観ずるに畢竟じて所有なし。無量の衆生を度すといえども、実に一衆生として滅度を得る者なし。衆生を度すと示すこと、遊戯するがごとし。本願力と言うは、大菩薩、法身の中において、常に三昧にましまして、種種の身、種種の神通、種種の説法を現ずることを示すこと、みな本願力より起これるをもってなり。譬えば阿修羅の琴の鼓する者なしといえども、音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づくとのたまえり。已上抄出
しかれば大聖の真言、誠に知りぬ。大涅槃を証することは、願力の回向に藉りてなり。還相の利益は、利他の正意を顕すなり。ここをもって論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萠を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎて奉持すべし、特に頂戴すべしと。
顕浄土真実証文類四