顕浄土真実信文類三



  復有一臣名悉知義 昔者有王名曰羅摩害其父得紹王位
跋提大王毘楼真王 那コウ沙王 迦帝迦王
毘沙キョ王 月光明王 日光明王 愛王
持多人王 如是等王皆害其父得紹王位然無
一王入地獄者於今現在毘瑠璃王 優陀邪王
悪性王 鼠王 蓮華王 如是等王皆
害其父悉無一王生愁悩者 文

    顕浄土真実信文類序

           愚禿釈親鸞集

  それ以みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕正せり。
  しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く。しばらく疑問を至してついに明証を出だす。誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。浄邦を欣う徒衆、、穢域を厭う庶類、取捨を加うといえども、疑謗を生ずることなかれ、と。

至心信楽の願     正定聚の機

      顕浄土真実信文類三
              愚禿親鸞集
  謹んで往相の回向を案ずるに、大信有り。
  大信心はすなわちこれ、長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。

  この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく。また本願三心の願と名づく。また至心信楽の願と名づく。また往相信心の願と名づくべきなり。 しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。何をもってのゆえに。いまし如来の加威力に由るがゆえなり。博く大悲広慧の力に因るがゆえなり。

  たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもって極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。 至心信楽の本願の文、
  『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とを除く、と。已上

  『無量寿如来会』に言わく、もし我無上覚を証得せん時、余仏の刹の中のもろもろの有情類、我が名を聞き已りて、所有の善根心心に回向せしむ。我が国に生まれんと願じて、乃至十念せん。もし生まれずは菩提を取らじと。ただ無間悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんをば除く、と。已上

  本願成就の文、『経』(大経)に言わく、諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く、と。已上

  『無量寿如来会』に言わく、他方仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまえるを愛楽して、無量寿国に生まれんと願ぜば、願に随いてみな生まれ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間・誹謗正法および謗聖者を除く、と。已上

  (大経)また言わく、法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親友なり。このゆえに当に意を発すべし、と。已上

  (如来会)また意わく、かくのごときらの類は、大威徳の者なり。よく広大仏法異門に生ぜんと。已上 また言わく、如来の功徳は仏のみ自ら知ろしめせり。ただ世尊ましましてよく開示したまう。天・龍・夜叉及ばざるところなり。二乗自ずから名言を絶つ。もしもろもろの有情まさに作仏して、行普賢に超え彼岸に登って、一仏の功徳を敷衍せん時、多劫の不思議を逾えん。この中間において身は滅度すとも、仏の勝慧はよく量ることなけん。このゆえに信聞およびもろもろの善友の摂受を具足して、かくのごときの深妙の法を聞くことを得ば、まさにもろもろの聖尊に重愛せらるることを獲べし。如来の勝智、遍虚空の所説義言は、ただ仏のみ悟りたまえり。このゆえに博く諸智土を聞きて、我が教如実の言を信ずべし。人趣の身得ることははなはだ難し、如来の出世遇うことまた難し、信慧多き時方にいまし獲ん。このゆえに修せん者、精進すべし。かくのごときの妙法すでに聴聞せば、常に諸仏をして喜びを生ぜしめたてまつるなりと。抄出

  『論の註』に曰わく、「かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲うがゆえに」といえりと。「称彼如来名」とは、いわく無碍光如来の名を称するなり。「如彼如来光明智相」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴の中の闇を破するがごときにはあらざるなり。「如彼名義欲如実修行相応」とは、かの無碍光如来の名号よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまう、しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるに由るなり。いかんが不如実修行と名義不相応とする。いわく如来はこれ実相の身なり、これ物の為の身なりと知らざるなり。また三種の不相応あり。一つは信心淳からず、存せるがごとし、亡せるがごときのゆえに。二つには信心一ならず。
決定なきがゆえに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆえに。この三句展転して相成ず。信心淳からざるをもってのゆえに決定なし、決定なきがゆえに念相続せず、また念相続せざるがゆえに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆえ心淳からざるべし。これを相違せるを「如実修行相応」と名づく。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり、と。已上

  『讃阿弥陀仏偈』に曰わく、曇鸞和尚造なり あらゆるもの阿弥陀の徳号を聞きて信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。至心の者回向したまえり。生まれんと願ずれば、みな往くことを得しむ。ただ五逆と謗正法とをば除く。かるがゆえに我頂礼して往生を願ず、と。已上

  光明寺の『観経義』(定善義)に云わく、「如意」と言うは二種あり。一つには衆生の意のごとし、かの心念に随いてみなこれを度すべし。二つには弥陀の意のごとし、五眼円かに照らし六通自在にして、機の度すべき者を観そなわして、一念の中に前なく後なく、身心等しく赴き、三輪開悟して、おのおの益すること同じからざるなり、と。已上 (序分義)また云わく、この五濁五苦等は、六道に通じて受けて、未だ無き者はあらず、常にこれに逼悩す。もしこの苦を受けざる者は、すなわち凡数の摂にあらざるなり、と。抄出

  (散善義)また云わく、「何等為三」より下「必生彼国」に至るまで已来は、正しく三心を弁定してもって正因とすることを明かす。すなわちそれ二つあり。一つには、世尊機に随いて益を顕すこと、意密にして知り難し、仏自ら問いて自ら徴したまうにあらずは、解を得るには由なきを明かす。二つには、如来還りて自ら前の三心の数を答えたまうことを明かす。『経』に云わく、「一者至誠心」。「至」は真なり。「誠」は実なり。一切衆生の身・口・意業の所修の解行、必ず真実心の中に作したまえるを須いることを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。
一つには自利真実、二つには利他真実なり。乃至 不善の三業は、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。またもし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまいしを須いて、内外・明闇を簡ばず 、みな真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく。「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。また決定して深く、「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二法を証讃して、人をして欣慕せしむ」と信ず。また決定して、「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得」と深信するなり。また深信する者、仰ぎ願わくは、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依って、仏の捨てたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。
仏の去てしめたまう処をばすなわち去つ。これを「仏教に随順し、仏意に随順す」と名づく。これを「仏願に随順す」と名づく。これを「真の仏弟子」と名づく。また一切の行者、ただよくこの経に依って行を深信する者は、必ず衆生を誤らざるものなり。何をもってのゆえに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なるがゆえに、仏を除きて已還は、智行未だ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありて、未だ除からざるに由って、果願未だ円ならず。これらの凡聖は、たとい諸仏の教意を測量すれども、未だよく決了することあたわず。平章ありといえども、かならず須らく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称えば、すなわち印可して「如是如是」と言う。もし仏意に可わざれば、すなわち「汝等が所説この義不如是」と言う。印せざるは、すなわち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまうをば、すなわち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多・もしは少、すべて菩薩・人・天等を問わず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなわちこれ「了教」なり、菩薩等の説は、ことごとく「不了教」と名づくるなり、知るべしと。このゆえに、今の時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし、菩薩等の不相応の教を信用してもって疑碍を為し、惑を抱いて自ら迷いて、往生の大益を廃失すべからざれとなり。乃至 釈迦、一切の凡夫を指勧して、この一心を尽くして専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるれば、すなわち十方諸仏、ことごとくみな同じく讃め同じく勧め同じく証したまう。何をもってのゆえに、同体の大悲なるがゆえに。一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化はすなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説かく、「釈迦、極楽の種種の荘厳を讃嘆したまう。」また「一切の凡夫を勧めて、一日・七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、定んで往生を得しめたまう」と。
次下の文に云わく、「十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく、釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪無信の盛なる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生を勧励せしめて称念すれば必ず往生を得、と讃じたまう」、すなわちその証なり。また十方諸仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんを恐畏れて、すなわち共に同心・同時に、おのおのの舌相を出だして遍く三千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、汝等衆生、みなこの釈迦の所説・所賛・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少・時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。このゆえに、一仏の所説をば、すなわち一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを「人に就いて信を立つ」と名づくるなり。乃至 またこの正の中について、また二種あり。
一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるをば、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。もし礼誦等に依らば、すなわち名づけて「助業」とす。この正助二行を除きて已下の自余のもろもろの善は、ことごとく「雑行」と名づく、と。乃至 すべて「疎雑の行」と名づくるなり。かるがゆえに「深心」と名づく。「三者回向発願心」乃至 また回向発願して 生ずる者は、必ず決定して真実心の中に回向したまえる願を須いて得生の想を作せ。この心深信せること、金剛のごとくなる二よりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために、動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉って正直に進みて、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなわち進退の心ありて、怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなわち往生の大益を失するなり。問いて曰わく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来たりて相惑乱して、あるいは種種の疑難を説きて「往生を得じ」と道い、あるいは云わん、「汝等衆生、曠劫より已来、および今生の身・口・意業に、一切凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・謗法・闡提・破壊・破見等の罪を造りて、未だ除尽することあたわず。しかるにこれらの罪は、三界悪道に繋属す。いかんぞ一生の修福念仏をして、すなわちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや。」答えて曰わく、諸仏の教行数塵沙に越えたり、識を稟くる機縁、情に随いて一にあらず。たとえば世間の人、眼に見るべく信ずべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有を含み、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。これらのごときの事、ことごとく「待対の法」と名づく。すなわち目に見つべし。千差万別なり。いかにいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。随いて一門を出ずるは、すなわち一煩悩を出ずるなり。随いて一門に入るは、すなわち一解脱智慧の門に入るなりこれを為って縁に随いて行を起こして、おのおの解脱を求めよ。汝何をもってか、いまし有縁の要行にあらざるをもって、我を障惑する。しかるに我が所愛は、すなわちこれ我が有縁の行なり。すなわち汝が所求にあらず。汝が所愛は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。また我が所求にあらず。このゆえにおのおの所楽に随いてその行を修するは、必ず疾く解脱を得るなり。行者当に知るべし、もし解を学ばんと欲わば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで、一切碍なし、みな学ぶことを得るとなり。もし行を学ばんと欲わば、必ず有縁の法に籍れ、少しき功労を用いるに多く益を得ればなりと。また一切往生人等に白さく、今更に行者のために、一つの譬喩を説きて信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん。何者かこれや。譬えば、人ありて西に向かいて行かんと欲するに百千の里ならん、忽然として中路に二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし、正しく水火の中間に、一つの白道あり、闊さ四五寸許なるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交わり過ぎて道を湿す。その火焔また来りて道を焼く。水火あい交わりて常にして休息なけん。この人すでに空曠のケイなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競い来りてこの人を殺さんと欲す。死を怖れて直ちに走りて西に向かうに、忽然としてこの大河を見て、すなわち自ら念言すらく、「この河、南北辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きわめてこれ狭少なり、二つの岸、あい去ること近しといえども、何に由ってか行くべき。今日定んで死せんこと疑わず。正しく到り回らんと欲すれば、群賊悪獣漸漸に来り逼む。正しく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣毒虫競い来りて我に向かう。正しく西に向かいて道を尋ねて去かんと欲すれば、また恐らくはこの水火の二河に堕せんことを。」時に当たりて惶怖すること、また言うべからず。すなわち自ら思念すらく、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と。この念を作す時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念して直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。このひとすでに此に遣わし彼に喚うを聞きて、すなわち自ら正しく身心に当たりて、決定して道を尋ねて直ちに進みて、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚うて言わく、「仁者回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず。我等すべて悪心あってあい向うことなし」と。この人、喚う声を聞くといえどもまた回顧ず。一心に直ちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る。善友あい見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩なり。次に喩を合せば、「東岸」というは、すなわちこの娑婆の火宅に喩うるなり。「西岸」というは、すなわち極楽宝国に喩うるなり。「群賊悪獣詐り親む」というは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩うるなり。「無人空ケイの沢」というは、すなわち常に悪友に随いて、真の善知識に値わざるに喩うるなり。「水火二河」というは、すなわち衆生の貪愛の水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩うるなり。「中間の白道四五寸」というは、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩うるなり。いまし貪瞋強きによるがゆえに、すなわち水火のごとしと喩う。善心微なるがゆえに、白道のごとしと喩う。また「水波常に道を湿す」とは、すなわち愛心常に起こりてよく善心を染汚するに喩うるなり。また「火焔常に道を焼く」とは、すなわち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩うるなり。「人、道の上を行いて直ちに西に向かう」というは、すなわちもろもろの行業を回して直ちに西方に向かうに喩うるなり。「東の岸に人の声勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて直ちに西に進む」というは、すなわち釈迦すでに滅したまいて後の人、見たてまつらず、なお教法ありて尋ぬべきに喩う、すなわちこれを声のごとしと喩うるなり。「あるいは行くこと一分二分するに、群賊等喚び回す」というは、すなわち別解・別行・悪見の人等、妄に説くに見解をもって、迭いにあい惑乱し、および自ら罪を造りて退失すと喩うなり。「西の岸の上に人ありて喚う」というは、すなわち弥陀の願意に喩うるなり。「須臾に西の岸に到りて善友あい見て喜ぶ」というは、すなわち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し迷倒して、自ら纏うて解脱に由なし、仰いで釈迦発遣して指えて西方に向かえたまうことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまうに籍って、今二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念念に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命已後かの国に生まるることを得て、仏とあい見て慶喜すること何ぞ極まらんと喩うるなり。また一切の行者、行住座臥に、三業の所修、昼夜時節を問うことなく、常にこの偈を作し常にこの相を作すがゆえに、「回向発願心」と名づく。また「回向」というは、かの国に生じ已りて、還りて大悲を起こして、生死に回入して、衆生を教化する、また回向と名づくるなり。三心すでに具すれば行として成ぜざるなし、願行すでに成じてもし生まれずは、この処あることなしとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと。知るべし、と。已上

(般舟讃)また云わく、敬いて一切往生の知識等に白さく、大きに須らく慚愧すべし。釈迦如来は実にこれ慈悲の父母なり、種種の方便をもって我等が無上の信心を発起せしめたまえり、と。已上

  『貞元の新定釈教の目録』(円照編)巻第十一に云わく、『集諸経礼懴儀』上下、大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。貞元十五年十月二十三日に准えて勘編して入ると云々。『懴儀』の上巻は、智昇諸経に依って『懴儀』を造る中に、『観経』に依っては善導の『礼懴』の日中の時の礼を引けり。下巻は比丘善導の集記云々。かの『懴儀』に依って要文を鈔して云わく、二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで、疑心あることなし。かるがゆえに「深心」と名づく、と。乃至 それ、かの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一心を至せば、みな当に彼に生まるることを得べし、と。抄出

  『往生要集』に云わく、『入法界品』に言わく、「たとえば人ありて不可壊の薬を得れば、一切の怨敵その便りを得ざるがごとし。菩薩摩訶薩もまたかくのごとし。菩提心不可壊の法薬を得れば、一切の煩悩・諸魔・怨敵、壊ることあたわざるところなり。たとえば人ありて住水宝珠を得てその身に瓔珞とすれば、深き水中に入りて没溺せざるがごとし。菩提心の住水を宝珠を得れば、生死海に入りて沈没せず。たとえば金剛は百千劫において水中に処して、爛壊しまた異変なきがごとし。無量劫において生死の中・もろもろの煩悩業に処するに、断滅することあたわず、また損減なし」と。已上

  また云わく、我またかの摂取の中にあれども、煩悩眼を障えて見たてまつるにあたわずといえども、大悲惓となくして常に我が身を照らしたまう、と。已上

  しかれば、もしは行・もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと。知るべし。

  問う。如来の本願、すでに至心・欲生の誓を発したまえり。何をもってのゆえに論主「一心」と言うや。答う。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまうといえども、涅槃の真因はただ信心をもってす。このゆえに論主、三を合して一と為るか。私に三心の字訓をキ うに、三はすなわち一なるべし。その意何んとなれば「至心」と言うは、「至」はすなわちこれ真なり、実なり、誠なり。「心」はすなわちこれ種なり、実なり。「信楽」と言うは、「信」はすなわちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。「楽」はすなわちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。「欲生」と言うは、「欲」はすなわちこれ願なり、楽なり、覚なり、知なり。「生」はすなわちこれ成なり、作なり、為なり、興なり。

  明らかに知りぬ、「至心」はすなわちこれ真実誠種の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。「信楽」はすなわちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり。欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。「欲生」はすなわちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり、大悲回向の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。今三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑わることなし、正直の心にして邪偽雑わることなし。真に知りぬ、疑蓋間雑なきがゆえに、これを「信楽」と名づく。「信楽」はすなわちこれ一心なり。一心はすなわちこれ真実信心なり。このゆえに論主建めに「一心」と言えるなり、と。知るべし。

  また問う。字訓のごとき、論主の意、三をもって一とせる義、その理しかるべしといえども、愚悪の衆生のために、阿弥陀如来すでに三心の願を発したまえり、云何が思念せんや。答う。仏意測り難し、しかりといえども竊かにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、所有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

  ここをもって『大経』に言わく、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず、欲想・瞋想・害想を起こさず。色・声・香・味の法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして、染・恚・痴なし。三昧常寂にして、智慧無碍なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして意を先にして承問す。勇猛精進にして、志願惓きことなし。専ら清白の法を求めて、もって群生を恵利しき。三宝を恭敬し師長に奉事しき。大荘厳をもって衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむ、とのたまえりと。已上

  『無量寿如来会』に言わく、仏阿難に告げたまわく、かの法処比丘、世間自在王如来および諸天・人・魔・梵・沙門・婆羅門等の前にして、広くかくのごとき大弘誓を発しき。みなすでに成就したまえり。世間に希有にして、この願を発し、已りて実のごとく安住す。種種の功徳具足して、威徳広大清浄仏土を荘厳せり。かくのごとき菩薩の行を修習せること、時、無量・無数・不可思議・無有等等・億那由他百千劫を経るうちに、初めて未だかつて貪・瞋および痴・欲・害・恚の想を起こさず。色・声・香・味・触の想を起こさず。もろもろの衆生において、常に愛敬を楽うこと、なお親属のごとし。乃至 その性調順にして暴悪あることなし。もろもろの有情において常に慈忍の心を懐いて詐諂せず、また懈怠なし。善言策進してもろもろの白法を求めしめ、あまねく群生のために勇猛にして退なく世間を利益せしめ、大願円満したまえり、と。略出

  (散善義)光明寺の和尚云わく、この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲うは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行ぜし時、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心の中に作したまえるに由ってなり。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり、と。乃至 不善の三業をば、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。また、もし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまえるを須いて、内外・明闇を簡ばず、みな真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく、と。抄要

  しかれば、大聖の真言・宗師の釈義、まことに知りぬ、この心すなわちこれ不可思議不可称不可説の一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを「至心」と名づく。

  すでに「真実」と言えり。「真実」というは、
  『涅槃経』に言わく、実諦は一道清浄にして二あることなきなり。
「真実」というは、すなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ虚空なり。虚空はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ真実なり、と。已上

  『釈』(散善義)に、「不簡内外明闇」と云えり。「内外」とは、「内」はすなわちこれ出世なり、「外」はすなわちこれ世間なり。「明闇」とは、「明」はすなわちこれ出世なり、「闇」はすなわちこれ世間なり。また「明」はすなわち智明なり、「闇」はすなわち無明なり。
  『涅槃経』に言わく、「闇」はすなわち世間なり、「明」はすなわち出世なり。「闇」はすなわち無明なり、「明」はすなわち智明なり、と。已上

  次に「信楽」というは、すなわちこれ如来の満足大悲・円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし、かるがゆえに「信楽」と名づく。すなわち利他回向の至心をもって、信楽の体とするなり。しかるに無始より已来、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし。ここをもって無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得しがたし。一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しく如来、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念・一刹那も疑蓋雑わることなきに由ってなり。この心はすなわち如来大悲心なるがゆえに、必ず報土の正定の因と成る。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまえり。これを「利他真実の信心」と名づく。

  本願信心の願成就の文、
  『経』(大経)に言わく、諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん、と。已上

  (如来会)また言わく、他方仏国の諸有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せん、と。已上

  『涅槃経』(師子吼菩薩品)に言わく、善男子、大慈大悲を名づけて「仏性」とす。何をもってのゆえに。大慈大悲は常に菩薩に随うこと影の形に随うがごとし。一切衆生畢に定んで当に大慈大悲を得べし。このゆえに説きて「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。大慈大悲は名づけて「仏性」とす。「仏性」は名づけて「如来」とす。大喜大捨を名づけて「仏性」とす。何をもってのゆえに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つること能わずは、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わず。もろもろの衆生畢に当に得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。大喜大捨はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は「大信心」と名づく。何をもってのゆえに、信心をもってのゆえに菩薩摩訶薩はすなわちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は畢に定んで当に大信心を得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。大信心はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は「一子地」と名づく。何をもってのゆえに、一子地の因縁をもってのゆえに菩薩はすなわち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は畢に定んで当に一子地を得べきがゆえに、このゆえに説きて、「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。一子地はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり、と。已上

  (迦葉菩薩品)また言わく、あるいは阿耨多羅三藐三菩提を説くに、信心を因とす。これ菩提の因、また無量なりといえども、もし信心を説けば、すなわちすでに摂尽しぬ、と。已上

  また言わく、信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん、これを名づけて「信不具足」とす、といえり。已上抄出

  『華厳経』(入法界品・晋訳)に言わく、この法を聞きて、信心を歓喜して疑いなき者は、速やかに無成道を成らん、もろもろの如来と等し、となり。

(入法界品・唐訳)また言わく、如来よく永く一切衆生の疑いを断たしむ。その信の所楽に随いて、普くみな満足せしむ、となり。

(賢首品・唐訳)また言わく、信は道の元とす、功徳の母なり。一切もろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出でて、涅槃無上道を開示せしむ。信は垢濁の心なし、清浄にして驕慢を滅除す、恭敬の本なり、また法蔵第一の財とす、清浄の手として衆行を受く。信はよく恵施して心に悋むことなし。信はよく歓喜して仏法に入る。信は智功徳を増長す。信はよく必ず如来地に到る。信は諸根をして浄明利ならしむ。信力堅固なればよく壊することなし。信はよく永く煩悩の本を滅す。信はよく専ら仏功徳に向かえしむ。信は境界において所着なし、諸難を遠離して無難を得しむ。信はよく衆魔の路を超出し無上解脱道を示現せしむ。信は功徳のために種を壊らず。信はよく菩提樹を成長す。信はよく最勝智を増益す。信はよく一切仏を示現せしむ。このゆえに行に依って次第を説く。信楽最勝にしてはなはだ得ること難し。乃至 もし常に諸仏に信*231奉すれば、すなわちよく大供養を興集す。もしよく大供養を興集すれば、かの人、仏の不思議を信ず、もし常に尊法に信奉すれば、すなわち仏法を聞くに厭足なし。もし仏法を聞くに厭足なければ、かの人、法の不思議を信ず。もし常に清浄僧に信奉すれば、すなわち信心退転せざることを得。もし信心不退転を得れば、かの人の信力よく動くことなし。もし信力を得てよく動くことなければ、すなわち諸根浄明利を得ん。もし諸根浄明利を得れば、すなわち善知識に親近すること得。すなわち善知識に親近することを得れば、すなわちよく広大善を修集す。もしよく広大善を修集すれば、かの人、大因力を成就す。もし人、大因力を成就すれば、すなわち殊勝決定の解を得。もし殊勝決定の解を得れば、すなわち諸仏の為に護念せらる。もし諸仏の為に護念せらるれば、すなわちよく菩提心を発起す。もしよく菩提心を発起すれば、すなわちよく仏の功徳を勤修せしむ。もしよく仏の功徳を勤修すれば、すなわちよく生まれて如来の家に在らん。もし生まれて如来の家に在ることを得れば、すなわち善をして巧方便を修行せん。もし善をして巧方便を修行すれば、すなわち信楽の心、清浄なることを得。もし信楽の心清浄を得れば、すなわち増上の最勝心を得。もし増上の最勝心を得れば、すなわち常に波羅蜜を修習せん。もし常に波羅蜜を修習すれば、すなわちよく摩訶衍を具足せん。もしよく摩訶衍を具足すれば、すなわちよく法のごとく仏を供養せん。もしよく如法に仏を供養すれば、すなわちよく念仏の心動ぜず。もしよく念仏の心動ぜざれば、すなわち常に無量仏を覩見せん。もし常に無量仏を覩見すれば、すなわち如来の体常住を見ん。もし如来の体常住を見れば、すなわちよく法永く不滅なるを知らん。もしよく法永く不滅なるを知れば、すなわち弁才無障碍を得ん。もし弁才無障碍を得れば、すなわちよく無辺の法を開演せん。もしよく無辺の法を開演せば、すなわちよく慈愍して衆生を度せん。もしよく衆生を慈愍し度すれば、すなわち堅固の大悲心を得ん。もし堅固の大悲心を得れば、すなわちよく甚深の法を愛楽せん。もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなわちよく有為の過を捨離せん。もしよく有為の過を捨離すれば、すなわち驕慢および放逸を離る。もし驕慢および放逸を離るれば、すなわちよく一切衆を兼利せん。もしよく一切衆を兼利すれば、すなわち生死に処して疲厭なけん、となり。略抄

  『論註』に曰わく、「如実修行相応」と名づく、このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。已上

  また言わく、経の始めに「如是」と称することは、心を彰して能入とす。已上

  次に「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。

  ここをもって本願の欲生心成就の文、
  『経』(大経)に言わく、至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと。唯五逆と誹謗正法とを除く、と。已上

  (如来会)また言わく、所有の善根回向したまえるを愛楽して、無量寿国に生まれんと願ずれば、願に随いてみな生ぜしめ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間・誹謗正法および謗聖者を除く、と。已上 『浄土論』(論註)に曰わく、「云何が回向したまえる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」とのたまえり。回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまうなり。還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往・もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがために、とのたまえり。このゆえに「回向為首得成就大悲心故」と言えり、と。已上

  また云わく、「浄入願心」とは、『論』に曰わく、「また向に観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏功徳成就・荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は、願心の荘厳したまえるなりと、知る応し」といえりと。「応知」とは、この三種の荘厳成就は、本四十八願等の清浄の願心を荘厳したまうところなるに由って、因浄なるがゆえに果浄なり、因なくして他の因あるにはあらざるなりと知る応しとなり、と。已上

  また『論』(浄土論)に曰わく、「出第五門」とは、大慈悲をもって一切衆生を観察して、応化の身を示して、生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを「出第五門」と名づくとのたまえり、と。已上 (散善義)光明寺の和尚の云わく、また回向発願して生まるる者は、必ず決定真実心の中に回向したまえる願を須いて、得生の想を作せ。この心深く信ぜること、金剛のごとくなるに由って、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉って、正直に進みて、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなわち進退の心ありて怯弱を生じ、回顧すれば、道に落ちてすなわち往生の大益を失するなり、と。已上

  真に知りぬ。二河の譬喩の中に、「白道四五寸」と言うは、「白道」とは、「白」の言は黒に対するなり。「白」は、すなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。「黒」は、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善なり。「道」の言は、路に対せるなり。「道」は、すなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃無上の大道なり。「路」は、すなわちこれ二乗・三乗・万善諸行の小路なり。「四五寸」と言うは、衆生の四大・五陰に喩うるなり。「能生清浄願心」と言うは、金剛の真心を獲得するなり。本願力回向の大信心海なるがゆえに、破壊すべからず。これを「金剛のごとし」と喩うるなり。

  『観経義』(玄義分)に、道俗時衆等、おのおの無上心を発せども、生死ははなはだ厭いがたく、仏法また欣いがたし。共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。正しく金剛心を受け、一念に相応して後、果、涅槃を得ん者と云えり。抄要

  (序分義)また云わく、真心徹到して、苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣いて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境、軽爾としてすなわち階うべからず。苦悩の娑婆、輙然として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにはあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。もし親り慈尊に従いたてまつらずは、なんぞよくこの永き歎きを勉れん、と。

(定善義)また云わく、「金剛」と言うは、すなわちこれ無漏の体なり。已上

  信に知りぬ。「至心」・「信楽」・「欲生」、その言異なりといえども、その意惟一なり。何をもってのゆえに、三心すでに疑蓋雑わることなし。かるがゆえに真実の一心なり、これを「金剛の真心」と名づく。金剛の真心、これを「真実の信心」と名づく。真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。また「如彼名義欲如実修行相応故」と言えり。

  おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず・善にあらず・頓にあらず・漸にあらず・定にあらず・散にあらず、正観にあらず・邪観にあらず・有念にあらず・無念にあらず・尋常にあらず・臨終にあらず・多念にあらず・一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。たとえば亜伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。

  しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪について、また二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。「竪超」・「竪出」は権実・顕密・大小の教に明かせり。略劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横について、また二種あり。一つには横超、二つには横出なり。「横出」は、正雑・定散・他力の中の自力の菩提心なり。「横超」は、これすなわち願力回向の信楽、これを「願作仏心」と曰う。願作仏心は、すなわちこれ横の大菩提心なり。これを「横超の金剛心」と名づくるなり。横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといえども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。

  『論註』に曰わく、王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生の中に行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、要ず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽間なきを聞きて、楽のために生まれんと願ぜん、また当に往生を得ざるべきなり。このゆえに言うこころは、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲うがゆえに」と。「住持の楽」とは、いわくかの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力に住持せられて、受楽間なきなり。おおよそ回向の名義を釈せば、いわく己が所集の一切の功徳をもって、一切衆生に施与したまいて、共に仏道に向えしめたまうなり、と。抄出

  (阿弥陀経義疏)元照律師の云わく、他の為すこと能わざるがゆえに甚難なり。世挙って未だ見たてまつらざるがゆえに希有なり、といえり。

  また云わく、念仏法門は愚痴・豪賎を簡ばず、久近・善悪を論ぜず。ただ決誓猛信を取れば、臨終悪相なれども十念に往生す。これすなわち具縛の凡愚・屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。「世間甚難信」と謂うべきなり。

  また云わく、この悪世にして修行成仏するを難とするなり。もろもろの衆生のためにこの法門を説くを二の難とするなり。前の二難を承けて、すなわち諸仏所讃の虚しからざる意を彰す。衆生聞きて信受せしめよとなり、と。已上

  律宗の用欽の云わく、法難を説く中に、良にこの法をもって凡を転じて聖と成すこと、掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆえに、おおよそ浅き衆生は、多く疑惑を生ぜん。すなわち『大本』(大経)に「易往而無人」と云えり。かるがゆえに知りぬ、難信なり、と。

  『聞持記』に云わく、不簡愚痴 性に利鈍あり、不択豪賎 報に強弱あり、不論久近功に浅深あり、不選善悪 行に好醜あり、取決誓猛信臨終悪相 すなわち『観経』の下品中生に地獄の衆火一時に倶に至る等、具縛凡愚 二惑全くあるがゆえに、屠沽下類刹那超越成仏之法可謂一切世間甚難信也 屠は謂わく殺を宰どる、沽はすなわちウン売、かくのごときの悪人、ただ十念に由ってすなわち超往を得、あに難信にあらずや、と。

  阿弥陀如来は、真実明・平等覚・難思議・畢竟依・大応供・大安慰・無等等・不可思議光と号したてまつるなり、と。已上

  『楽邦文類』の後序に曰わく、浄土を修する者常に多けれども、その門を得て径ちに造る者幾もなし。浄土を論ずる者常に多けれども、その要を得て直ちに指うる者あるいはすくなし。かつて未だ聞かず、自障自蔽をもって説を為すことある者、得るに因って、もってこれを言う。それ「自障」は愛にしくなし。「自蔽」は疑にしくなし。ただ疑・愛の二心了に障碍なからしむるは、すなわち浄土の一門なり。未だ始めて間隔せず。弥陀の洪願、常に自ずから摂持したまう、必然の理なり。已上

  それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念あり。「一念」は、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。

  ここをもって『大経』に言わく、諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと、と。

  (如来会)また、他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せん、と言えり。
  (大経)また、その仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲え、と言えり。

  (如来会)また、仏の聖徳の名を聞く、と言えり。已上
  『涅槃経』(迦葉菩薩品)に言わく、いかんが名づけて「聞不具足」とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じて、未だ六部を信ぜず。このゆえに「聞不具足」とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦に能わずして他のために解説するは、利益なけん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす、とのたまえり。已上

  (散善義)光明寺の和尚は、「一心専念」と云い、また「専心専念」と云えり、と。已上

  しかるに『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。「歓喜」と言うは、身心の悦予の貌を形すなり。「乃至」と言うは、多少を摂するの言なり。「一念」と言うは、信心二心なきがゆえに「一念」と曰う。これを「一心」と名づく。一心はすなわち清浄報土の真因なり。金剛の真心を獲得すれば、横に五趣・八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。宗師の「専念」と云えるは、すなわちこれ一行なり。「専心」と云えるは、すなわちこれ一心なり。

  しかれば、願成就の一念は、すなわちこれ専心なり。専心すなわちこれ深心なり。深心すなわちこれ深信なり。深信すなわちこれ堅固深信なり。堅固深信すなわちこれ決定心なり。決定心すなわちこれ無上上心なり。無上上心すなわちこれ真心なり。真心すなわちこれ相続心なり。相続心すなわちこれ淳心なり。淳心すなわちこれ憶念なり。憶念すなわちこれ真実一心なり。真実一心すなわちこれ大慶喜心なり。大慶喜心すなわちこれ真実信心なり。真実信心すなわちこれ金剛心なり。金剛心すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心すなわちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなわちこれ大菩提心なり。この心すなわちこれ大慈悲心なり。この心すなわちこれ無量光明慧に由って生ずるがゆえに。願海平等なるがゆえに発心等し、発心等しきがゆえに道等し、道等しきがゆえに大慈悲等し、大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆえに。

  『論の註』に曰わく、かの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、発無上菩提心を要す、とのたまえるなり。

  また云わく、「是心作仏」は、言うこころは、心よく作仏するなり。「是心是仏」は、心の外に仏ましまさずとなり。譬えば、火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもってのゆえに、すなわちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなわち火となるがごときなり。

  (定善義)光明の云わく、この心作仏す、この心これ仏なり、この心の外に異仏ましまさず、とのたまえり。已上

  かるがゆえに知りぬ。一心、これを「如実修行相応」と名づく。すなわちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり。三心すなわち一心なり、一心すなわち金剛真心の義、答え竟りぬ。知るべしと。

『止観』の一に云わく、「菩提」は天竺の語、ここには「道」と称す。「質多」は天竺の音なり、この方には「心」と云う。「心」はすなわち慮知なり。已上

  「横超断四流」と言うは、「横超」は、「横」は竪超・竪出に対す、「超」は迂に対し回に対するの言なり。「竪超」は、大乗真実の教なり。「竪出」は大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。「横超」は、すなわち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また「横出」あり、すなわち三輩・九品・定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の傾に速やかに疾く無上正真道を超証す、かるがゆえに「横超」と曰うなり。

『大本』(大経)に言わく、無上殊勝の願を超発す、と。

また言わく、我、超世の願を建つ、必ず無上道に至らん、と。名声十方に超えて、究竟して聞こゆる所なくは、誓う、正覚を成らじ、と。

  また言わく、必ず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉じん。道に昇るに窮極なし。往き易くして人なし。その国逆違せず。自然の牽くところなり。已上

  『大阿弥陀経』支謙 に言わく、超絶して去つることを得べし。阿弥陀仏国に往生すれば、横に五悪道を截りて、自然に閉塞す。道に昇るに之極まりなし。往き易くして人あることなし。その国土逆違せず。自然の牽く随なり、と。已上

  「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」と曰うなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。また生・老・病・死なり。

  『大本』に言わく、かならず当に仏道を成りて、広く生死の流を度すべし、と。

  (平等覚経)また言わく、かならず当に世尊と作りて、将に一切生・老・死を度せんとす、と。已上

  『涅槃経』(師子吼菩薩品)に言わく、また涅槃は名づけて「洲渚」とす。何をもってのゆえに、四大の暴河に漂うことあたわざるがゆえに。何等をか四とする、一つには欲暴、二つには有暴、三つには見暴、四つには無明暴なり。このゆえに涅槃を名づけて「洲渚」とす、と。已上 (般舟讃)光明寺の和尚の云わく、もろもろの行者に白さく、凡夫生死、貪して厭わざるべからず。弥陀の浄土、軽めて欣わざるべからず。厭えばすなわち娑婆永く隔つ、欣えばすなわち浄土に常に居せり。隔つればすなわち六道の因亡じ、輪廻の果自ずから滅す。因果すでに亡じてすなわち形と名と頓に絶うるをや。

  (往生礼讃)また云わく、仰ぎ願わくは一切往生人等、善く自ら己が能を思量せよ。今身にかの国に生まれんと願わん者は、行住座臥に、必ず須らく心を励まし己に剋して、昼夜に廃することなかるべし。畢命を期として、上一形にあるは少しく苦しきに似如たれども、前念に命終して後念にすなわちかの国に生まれて、長時・永劫に常に無為の法楽を受く。乃至成仏まで生死を径ず、あに快しみにあらずや。知るべし、と。已上

  「真仏弟子」と言うは、「真」の言は偽に対し、仮に対するなり。「弟子」とは釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信・行に由って、必ず大涅槃を超証すべきがゆえに、「真仏弟子」と曰う。 『大本』に言わく、設い我仏を得たらんに、十方無量・不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が光明を蒙りてその身に触るる者、身心柔軟にして人天に超過せん。もし爾らずは、正覚を取らじ、と。

  設い我仏を得たらんに、十方無量・不可思議諸仏世界の衆生の類、我が名字を聞きて、菩薩の無生法忍・もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ、と。已上

  『無量寿如来会』に言わく、もし我成仏せんに、周遍十方無量・無辺・不可思議・無等界の衆生の輩、仏の威光を蒙りて照触せらるる者、身心安楽にして人天に超過せん。もし爾らずは、菩提を取らじ、と。已上 (大経)また、法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親友なり、と言えりと。

  また言わく、それ至心ありて安楽国に生まれんと願ずれば、智慧明らかに達し、功徳殊勝を得べし、と。

  (如来会)また、広大勝解者、と言えりと。

  また、かくのごとき等の類、大威徳の者、よく広大異門に生まる、と言えりと。

  (観経)また言わく、もし念仏する者は、当に知るべし。この人はこれ人中の分陀利華なり、と。已上

  『安楽集』に云わく、諸部の大乗に拠って説聴の方軌を明かさば、『大集経』に云わく、「説法の者においては、医王の想を作せ、抜苦の想を作せ。所説の法をば、甘露の想を作せ、醍醐の想を作せ。それ聴法の者をば、増上勝解の想を作せ、愈病の想を作せ。もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を紹隆するに堪えたり、常に仏前に生ぜん」と。乃至 『涅槃経』に依るに、「仏の言わく、もし人ただよく心を至して、常に念仏三昧を修すれば、十方諸仏恒にこの人を見そなわすこと、現に前に在すがごとし。」このゆえに『涅槃経』に云わく、「仏、迦葉菩薩に告げたまわく、もし善男子・善女人ありて、常によく心を至し専ら念仏する者は、もしは山林にもあれ、もしは聚落にもあれ、もしは昼・もしは夜、もしは座・もしは臥、諸仏世尊、常にこの人を見そなわすこと、目の前に現ぜるがごとし、恒にこの人のためにして受施を作さん」と。乃至

  『大智度論』に依るに、三番の解釈あり。第一には、仏はこれ無上法王なり、菩薩は法臣とす。尊ぶところ、重くするところ、ただ仏・世尊なり。このゆえに当に常に念仏すべきなり。第二に、もろもろの菩薩ありて、自ら云わく、「我曠劫より已来、世尊我等が法身・智身・大慈悲心を長養することを蒙ることを得たりき。禅定・智慧・無量の行願、仏に由って成ずることを得たり。報恩のためのゆえに、常に仏に近ずかんことを願ず。また大臣の、王の恩寵を蒙りて、常にその王を念うがごとし。」第三に、もろもろの菩薩ありてまたこの言を作さく、「我因地にして悪知識に遇いて、波若を誹謗して悪道に堕しき。無量劫を径て余行を修すといえども、未だ出ずることあたわず。後に一時において善知識の辺に依りしに、我を教えて念仏三昧を行ぜん。その時にすなわちよくしかしながら、もろもろの障、方に解脱を得しむ。この大益あるがゆえに、願じて仏を離れず」と。乃至 『大経』に云わく、「おおよそ浄土に往生せんと欲わば、発菩提心を須いるを要とするを源とす。」云何ぞ。「菩提」はすなわちこれ無上仏道の名なり。もし発心作仏せんと欲わば、この心広大にして法界に周遍せん。この心長遠にして未来際を尽くす。この心普く備に二乗の障を離る。もしよく一たび発心すれば、無始生死の有輪を傾く、と。乃至

  『大悲経』に云わく、「いかんが名づけて「大悲」とする。もし専ら念仏相続して断えざれば、その命終に随いて定んで安楽に生ぜん。もしよく展転してあい勧めて念仏を行ぜしむる者は、これらをことごとく、大悲を行ずる人と名づく」と。已上抄出

  (般舟讃)光明師の云わく、ただ恨むらくは衆生の疑うまじきを疑うことを。浄土対面してあい忤わず、弥陀の摂と不摂を論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり。乃至 あるいは道わく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜんと。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いずれの時・いずれの劫にか娑婆を出でん、と。乃至いかんが今日宝国に至ることを期せん。実にこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧にあらずは、弥陀の浄土、云何してか入らん、と。

  (往生礼讃)また云わく、仏世はなはだ値い難し、人信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむ、難きが中に転た更難し。大悲、弘く普く化する、真に仏恩を報ずるに成る、と。

  また云わく、弥陀の身色は金山のごとし。相好の光明は十方を照らす。ただ念仏するありて、光摂を蒙る。当に知るべし、本願最も強しとす。十方の如来舌を舒べて証したまう。専ら名号を称して西方に至る。かの華台に到りて妙法を聞く。十地の願行自然に彰る、と。

  (観念法門)また云わく、ただ阿弥陀仏を専念する衆生ありて、かの仏心の光、常にこの人を照らして摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁なり、と。已上

  (序分義)また云わく、「心歓喜得忍」と言うは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼前に現ぜん。何ぞ踊躍に勝えん。この喜びに因るがゆえに、すなわち無生の忍を得。また「喜忍」と名づく、また「悟忍」と名づく、また「信忍」と名づく。これすなわち玄に談ずるに、未だ得処を標さず、夫人をして等しく心にこの益をネガわしめんと欲う。勇猛専精にして心に見んと想う時に、方に忍を悟るべし。これ多くこれ十信の中の忍なり、解行已上の忍にはあらざるを明かすなり、と。

  (散善義)また云わく、「若念仏者」より、下「生諸仏家」に至るまで已来は、正しく念仏三昧の功徳超絶して、実に雑善をして比類とすることを得るにあらざることを顕す。すなわちそれに五あり。一つには、弥陀仏の名を専念することを明かす。二つには、能念の人を指讃することを明かす。三つには、もしよく相続して念仏する者、この人はなはだ希有なりとす、さらに物としてもってこれに方ぶべきことなきことを明かす。かるがゆえに「芬陀利」を引きて喩とす。「分陀利」と言うは、「人中の好華」と名づく、また「希有華」と名づく、また「人中の上上華」と名づく、また「人中の妙好華」と名づく。この華あい伝えて「蔡華」と名づくる、これなり。もし念仏の者は、すなわちこれ人中の好人なり。人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり四つには、弥陀の名を専念すれば、すなわち観音・勢至常に随いて影護したまうこと、また親友・知識のごとくなることを明かすなり。五つには、今生にすでにこの益を蒙れり。命を捨ててすなわち諸仏の家に入らん、すなわち浄土これなり。彼に到りて長時に法を聞き、歴時供養せん。因円に果満ず。道場の座、あにシャならんやということを明かす。已上 (龍序浄土文)王日休云わく、我『無量寿経』を聞くに、「衆生この仏名を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住す」と。「不退転」は、梵語にはこれを「阿惟越致」と謂う。『法華経』には謂わく、弥勒菩薩の所得の報地なり。一念往生、すなわち弥勒に同じ。仏語虚しからず。この『経』は往生の径術・脱苦の神方なり。みな信受すべし、と。已上

  『大経』に言わく、仏、弥勒に告げたまわく、「この世界より、六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一一の菩薩は、すでに曾無数の諸仏を供養せりき。次いで弥勒のごとし」と。

  (如来会)また言わく、仏、弥勒に告げたまわく、「この仏土の中に、七十二億の菩薩あり。彼は無量億那由他百千の仏の所にして、もろもろの善根を種えて不退転を成ぜるなり。当にかの国に生ずべし」と。抄出

  律宗の用欽師の云わく、至れること『華厳』の極唱・『法華』の妙談に如かんや。かつは未だ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得ることは、誠に謂うところの、不可思議功徳の利なり、と。已上

  真に知りぬ。弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。かるがゆえに「便同」と曰うなり。しかのみならず、金剛心を獲る者は、すなわち韋提と等しく、すなわち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなわち往相回向の真心徹到するがゆえに、不可思議の本誓に籍るがゆえなり。

  (楽邦文類)禅宗の智覚、念仏行者を讃めて云わく、奇なるかな、仏力難思なれば、古今も未だあらず、と。

  (同右)律宗の元照師の云わく、ああ、教観に明らかなること、熟か智者に如かんや。終わりに臨みて『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きんき。法界に達せること、熟か杜順に如かんや。四衆を勧め仏陀を念じて、勝相を感じて西に邁きき。禅に参わり性を見ること、熟か高玉・智覚に如かんや。みな社を結び仏を念じて倶に上品に登りき。業儒才ある、熟か劉・雷・柳子厚・白楽天に如かんや。しかるにみな筆を秉り誠を書して、かの土に生まれんことを願じき、と。已上

  「仮」と言うは、すなわちこれ聖道の諸機、浄土定散の機なり。 (般舟讃)かるがゆえに光明師の云わく、仏教多門にして八万四なり、正しく衆生の機、不同なるがためなり、と。

  (法事讃)また云わく、方便の仮門等しくして殊なし、と。

  (般舟讃)また云わく、門門不同なるを「漸教」と名づく、万劫苦行して無生を証す、と。已上

  「偽」と言うは、すなわち六十二見、九十五種の邪道これなり。

  『涅槃経』(如来性品)に言わく、世尊常に説きたまわく、「一切の外は九十五種を学びて、みな悪道に趣く」と。已上

  (法事讃)光明師の云わく、九十五種みな世を汚す、ただ仏の一道、独り清閑なり、と。已上

  誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。

  それ仏、難治の機を説きて、
  『涅槃経』(現病品)に言わく、迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。かくのごときの三病、世の中に極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。善男子、たとえば病あれば必ず死するに治なからんに、もし瞻病随意の医薬あらんがごとし。 もし瞻病随意の医薬なからん、かくのごときの病、定んで治すべからず。当に知るべし。この人必ず死せんこと疑わずと。善男子、この三種の人、またかくのごとし。仏・菩薩に従いて聞治を得已りて、すなわちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。もし声聞・縁覚・菩薩ありて、あるいは法を説き、あるいは法を説かざるあらん、それをして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむることあたわず、と。已上

  (梵行品)また言わく、その時に、王舎大城に阿闍世王あり、その性弊悪にしてよく殺戮を行ず、口の四悪、貪・恚・愚痴を具して、その心熾盛なり。乃至 しかるに眷属のために現世の五欲の楽に貪着するがゆえに、父の王辜なきに横に逆害を加す。父を害するに因って、己が心に悔熱を生ず。乃至 心悔熱するがゆえに、遍体に瘡を生ず。その瘡臭穢にして附近すべからず。すなわち自ら念言すらく、「我今この身にすでに華報を受けたり、地獄の果報、将に近づきて遠からずとす。その時に、その母韋提希后、種種の薬をもってためにこれを塗る。その瘡ついに増すれども降損あることなし。王すなわち母に白さく、「かくのごときの瘡は、心よりして生ぜり。四大より起これるにあらず。もし衆生よく治することありと言わば、この処あることなけん。」

  時に大臣あり、名づけて「月称」と曰う。王の所に往至して、一面にありて立ちて白して言さく、「大王、何がゆえぞ愁悴して顔容悦ばざる。身痛とやせん、心痛とやせん」と。王、臣に答えて言まわく、「我今身心あに痛まざることを得んや。我が父辜なきに、横に逆害を加す。我智者に従いて曾てこの義を聞きき。世に五人あり、地獄を脱れず、と。いわく五逆罪なり。我今すでに無量・無辺・阿僧祇の罪あり。いかんぞ身心をして痛まざることを得ん。また良医の我が身心を治せんものなけん」と。臣、大王に言さく「大きに愁苦することなかれ」と。すなわち偈を説きて言わく、「もし常に愁苦せば、愁ついに増長せん。人、眠を喜めば、眠すなわち滋く多きがごとし。淫を貪し酒を嗜むも、またかくのごとしと。王の言うところのごとし、「世に五人あり、地獄を脱れず」とは、誰か往きてこれを見て、来りて王に語るや。「地獄」と言うは、直ちにこれ世間に多く智者説かく、王の言うところのごとし、世に良医の身心を治する者なけん。今大医あり、「富闌那」と名づく。一切知見して自在を得て、定んで畢竟じて清浄梵行を修習して、常に無量・無辺の衆生のために無上涅槃の道を演説す。もろもろの弟子のために、かくのごときの法を説けり、「黒業あることなければ黒業の報なし。白業あることなければ白業の報なし。黒・白業なければ黒・白業の報なし。上業および外業あることなし」と。この師今、王舎城の中にいます。やや願わくは大王、屈駕して彼に往け、この師、身心を療治せしむべし」と。時に王、答えて言わまく、「審かによくかくのごとき我が罪を滅除せば、我当に帰依すべし」と。

  また一の臣あり、名づけて「蔵徳」と曰う。また王の所へ往きてこの言を作さく、「大王、何がゆえぞ面貌憔悴して、唇口乾ショし、音声微細なるや、と。乃至 何の苦しむるところあってか、身痛とやせん、心痛とやせん」と。王すなわち答えて言わく、「我今身心いかんぞ痛まざらん。我これ痴盲にして慧目あることなし。もろもろの悪友に近づきて、これよく提婆達多言に随いて、正法の王に横に逆害を加す。我昔かつて、智人の偈説を聞きき、もし父母・仏および弟子において、不善の心を生じ、悪業を起こさん。かくのごときの果報、阿鼻獄にあり、と。この事をもってのゆえに、我心怖して大苦悩を生ぜしむ、と。また良医の救療を見ることなけん」と。大臣また言わく、「やや願わくは大王、しばらく愁怖することなかれ。法に二種あり、一つには出家、二つには王法なり。王法は、いわく、その父を害せり、すなわち王国土これ逆なりと云うといえども、実に罪あることなけん。迦羅羅虫のかならず母の腹を壊りて、しかして後にすなわち生ずるがごとし。生の法かくのごとし。母の身を破るといえども、実にまた罪なし。騾腹懐妊等またかくのごとし。治国の法、法としてかくのごとくなるべし。父兄を殺すといえども、実に罪あることなけん。出家の法は、乃至蚊蟻を殺するもまた罪あり。乃至 王の言うところのごとし、「世に良医の身心を治する者なけん」と。いま大師あり、「末伽梨拘シャ梨子」と名づく。一切知見して衆生を憐愍すること、赤子のごとし、すでに煩悩を離れて、よく衆生の三毒の利箭を抜く、と。乃至 この師いま王舎大城にいます。やや願わくは大王、その所に往至して王もし見ば衆罪消滅せん」と。時に王答えて言わく、「審かによくかくのごとき我が罪を滅除せば、我当に帰依すべし」と。

  また一の臣あり、名づけて「実徳」と曰う。また王の所に到りて、すなわち偈を説きて言わく、「大王、何がゆえぞ身の瓔珞を脱ぎ、首の髪蓬乱せる。乃至かくのごときなるや、と。乃至 これ心痛とやせん、身痛とやせん。」王すなわち答えて言わく、「我いま身心あに痛まざることをえんや。我が父先王、慈愛仁惻して特に見て矜念せり、実に辜なきに、往きて相師に問う。相師答えて言さく、「この児生まれ已りて定んで正に父を害すべし」と。この語を聞くといえどもなお見て瞻養す。すかし智者のかくのごときの言を作ししを聞きき。「もし人、母と通じて、および比丘尼を汚し、僧祇物を偸み、無上菩提心を発せる人を殺し、およびその父を殺せん。かくのごときの人は、必定してまさに阿鼻地獄に堕すべし」と。我今身心あに痛まざることをえんや。」大臣また言わく、「やや願わくは大王、また愁苦することなかれ、と。乃至 一切衆生みな余業あり。業縁をもってのゆえにしばしば生死を受く。もし先王に余業あらしめば、王今これを殺せん、竟に何の罪かあらん。やや願わくは大王、意を寛にして愁うることなかれ。何をもってのゆえに、もし常に愁苦すれば、愁ついに増長す。人眠を喜めば、眠すなわち滋く多きがごとし。淫を貪し酒を嗜むも、またかくのごとし。」乃至「刪闍邪毘羅胝子」

  また一の臣あり、「悉知義」と名づく。すなわち王の所に至りて、かくのごときの言を作さく。乃至 王すなわち答えて言わまく、我今身心あに痛みなきことを得んや。乃至先王辜なきに、横に逆悪を興ず。我またかつて智者の説きて言いしを聞きき。「もし父を害することあれば、正に無量阿僧祇劫において、大苦悩を受くべし」と。我今久しからずして、必ず地獄に堕せん。また良医の我が罪を救療することなけん、と。大臣すなわち言さく、やや願わくは大王、愁苦を放捨せよ。王聞かずや、むかし王ありき、名づけて「羅摩」と曰いき。その父を害し已りて王位を紹ぐことを得たりき。跋提大王・毘楼真王・那ゴウ沙王・迦帝迦王・毘舎キャ王・月光明王・日光明王・愛王・持多人王、かくのごときらの王、みなその父を害して王位を紹ぐことを得たりき。しかるに一として王の地獄に入る者なし。いま現在に、毘瑠璃王・優陀邪王・悪性王・鼠王・蓮華王、かくのごときらの王、みなその父を害せりき。ことごとく一として王の愁悩を生ずる者なし。地獄・餓鬼・天中と言うといえども、誰か見る者あるや。大王、ただ二つの有あり、一つには人道、二つには畜生なり。この二つありといえども、因縁生にあらず、因縁死にあらず。もし因縁にあらずは、何者か善悪あらん。やや願わくは大王、愁怖を懐くことなかれ。何をもってのゆえに、もし常に愁苦すれば、愁ついに増長す。人眠を喜めば、眠すなわち滋く多きがごとし。淫を貪し酒を嗜むも、またかくのごとし、と。乃至 「阿耆多翅舎欽婆羅」。

  また大臣あり、名づけて「吉徳」と曰う。乃至 地獄と言うは、何の義ありとかせん、と。臣当にこれを説くべしと。「地は」地に名づく、「獄」は破に名づく。「地獄」を破せんに罪報あることなけん。これを「地獄」と名づく。また「地」は人に名づく、「獄」は天に名づく。その父を害するをもってのゆえに、人天に到らん。この義をもってのゆえに、婆蘇仙人唱えて言わく、「羊を殺して人天の楽を得、これを「地獄」と名づく」と。また「地」は明に名づく、「獄」は長に名づく。殺生をもってのゆえに寿命の長きを得。かるがゆえに「地獄」と名づく。大王、このゆえに当に知るべし。実に地獄なけん、と。大王、麦を種えて麦を得、稲を種えて稲を得るがごとし。地獄を殺しては、還りて地獄を得ん。人を殺害しては、還りて人を得べし。大王、今当に臣の所説を聴くに、実に殺害なかるべし、と。もし有我ならば実にまた害なし。もし無我ならばまた害する所なけん。何をもってのゆえに。もし有我ならば実に変易なし。常住をもってのゆえに、殺害すべからず。不破・不壊・不繋・不縛・不瞋・不喜は、虚空のごとし。いかんぞ当に殺害の罪あるべき。もし無我ならば、諸法無常なり。無常をもってのゆえに、念念に壊滅す。念念に滅するがゆえに、殺者・死者、みな念念に滅す。もし念念に滅せば、誰か当に罪あるべきや。
大王、火、木を焼くに、火すなわち罪なきがごとし。斧、樹を斫るに、斧また罪なきがごとし。鎌、草を刈るに、鎌実に罪なきがごとし。刀、人を殺すに、刀実に人にあらず、刀すでに罪なきがごとし。人、いかんぞ罪あらんや。毒、人を殺す、毒実に人にあらず。毒薬、罪人にあらざるがごとし。いかんぞ罪あらんや。一切万物、みなまたかくのごとし。実に殺害なけん。いかんぞ罪あらんや。やや願わくは大王、愁苦を生ずることなかれ。何をもってのゆえに、もし常に愁苦せば、愁ついに増長せん。人眠を喜めば、眠すなわち滋く多きがごとし。淫を貪し酒を嗜むも、またかくのごとし。いま大師あり。「迦羅鳩駄迦旃延」と名づく。

  また一の臣あり、「無所畏」と名づく。いま大師あり、「尼乾陀若提子」と名づく。乃至

  その時に大医、名づけて「耆婆」と曰う。王の所に往至して、白して言さく、「大王、安くんぞ眠ることを得んや、不や」と。王、偈をもって答えて言わまく、乃至 耆婆、我今病重し、正法の王において悪逆害を興ず。一切の良医・妙薬・呪術・善巧瞻病の治することあたわざるところなり。何をもってのゆえに。我が父法王、法のごとく国を治む、実に辜なし。横に悪逆を加す、魚の陸に処するがごとし。乃至 我昔かつて智者の説きて言うことを聞きき、身口意業もし清浄ならずは当に知るべし、この人必ず地獄に堕せん、説。我またかくのごとし。いかんぞ当に安穏に眠ることを得べきや。今我また無上の大医なし、法薬を演説せんに、我が病苦を除きてんや。耆婆、答えて言わく、善いかな、善いかな、王、罪を作すといえども、心に重悔を生じて慚愧を懐けり。大王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、「二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は中に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慚愧」と名づく。「無慚愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。慚愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。
善いかな大王、具に慚愧あり、と。乃至 王の言うところのごとし、よく治する者なけん。大王、当に知るべし。迦毘羅城に浄飯王の子、姓は瞿曇氏、悉達多と字く。師なくして自然に覚悟して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり、と。乃至 これ仏世尊なり。金剛智ましまして、よく衆生の一切悪罪を破せしむること、もしあたわずと言わば、この処あることなけん、と。乃至 大王。如来、弟提婆達多あり。衆僧を破壊し、仏身より血を出だし、蓮華比丘を害す、三逆罪を作せり。如来ために種種の法要を説きたまうに、その重罪よりして微薄なることを得しめたまう。このゆえに如来を「大良医」とす、六師にはあらざるなり、と。乃至 (虚空よりの声)「大王、一逆を作れば、すなわち具にかくのごとき一罪を受く。もし二逆罪を造らば、すなわち二倍ならん。五逆具ならば、罪もまた五倍ならん、と。大王、今定んで知りぬ。王の悪業、必ず勉るることを得じ。やや願わくは、大王、速やかに仏の所に往ずべし。仏世尊を除きて余は、よく救くることなけん。我今汝を愍れむがゆえに、あい勧めて導くなり」と。その時に大王、この語を聞き已りて、心に怖懼を懐けり。身を挙げて戦慄す、五体掉動して芭蕉樹のごとし。仰ぎて答えて曰わく、「天にこれ誰とかせん、色像を現ぜずしてただ声のみあることは。」「大王、我これ汝が父頻婆娑羅なり。汝今当に耆婆の所説に随うべし。邪見六臣の言に随うことなかれ。」時に聞き已りて、悶絶躄地す。身の瘡増劇して臭穢なること、前よりも倍えり。冷薬をもって塗り瘡を治療すといえども、瘡蒸し。毒熱ただ増せども損ずることなし、と。已上略出

大臣、名づけて月称と曰う、 富闌那と名づく。

蔵徳、             末伽利拘シャ梨子と名づく。
一臣あり、名づけて実徳と曰う、 刪闍邪毘羅胝子と名づく。
一臣あり、悉知義と名づく、   阿耆多翅舎欽婆羅と名づく。
大臣、名づけて吉徳と曰う、   迦羅鳩駄迦旃延。
無所畏、            尼乾陀若提子と名づく。
  (梵行品)また言わく、善男子、我が言うところのごとし、阿闍世王の「為」に涅槃には入らず。かくのごときの密義、汝未だ解することあたわず。何をもってのゆえに、我、「為」と言うは一切凡夫、「阿闍世」は普くおよび一切、五逆を造る者なり。また「為」は、すなわち一切有為の衆生なり。我ついに無為の衆生のためにして世に住せず。何をもってのゆえに。それ無為は衆生にあらざるなり。「阿闍世」は、すなわちこれ煩悩等を具足せる者なり。
また「為」は、すなわちこれ仏性を見ざる衆生なり。もし仏性を見んものには、我ついにために久しく世に住せず。何をもってのゆえに、仏性を見る者は衆生にあらざるなり。「阿闍世」は、すなわちこれ一切、未だ阿耨多羅三藐三菩提心を発せざる者なり。乃至 また「為」は、名づけて仏性とす。「阿闍」は、名づけて不生とす。「世」は、怨に名づく。仏性を生ぜざるをもってのゆえに、すなわち煩悩の怨生ず。煩悩の怨生ずるがゆえに、仏性を見ざるなり。煩悩を生ぜざるをもってのゆえに、すなわち仏性を見る。仏性を見るをもってのゆえに、すなわち大般涅槃に安住することを得。これを「不生」と名づく。このゆえに名づけて「阿闍世」とす。善男子、「阿闍」は不生に名づく、「不生」は涅槃と名づく。「世」は世法に名づく。「為」は不汚に名づく。世の八法をもって汚さざるところなるがゆえに、無量・無辺・阿僧祇劫に涅槃に入らずと。このゆえに我「阿闍世の為に無量億劫に涅槃に入らず」と言えり。善男子、如来の密語、不可思議なり。仏・法・衆僧、また不可思議なり。菩薩摩訶薩また不可思議なり。『大涅槃経』また不可思議なり。

  その時に、世尊大悲導師、阿闍世王の為に月愛三昧に入れり。三昧に入り已りて大光明を放つ。その光清涼にして、往きて王の身を照らしたまうに、身の瘡すなわち癒えぬ。乃至 王言わまく、「耆婆、彼は天中の天なり。何の因縁をもってこの光明を放ちたまうぞや」と。「大王、今この瑞法はおよび王のためにあい似たり。先ず言わまく、世に良医の身心を療治するものなきがゆえに、この光を放ちてまず王の身を治す。しかして後に心に及ぶ。」王の耆婆に言わまく、如来世尊、また見たてまつらんと念うをや、と。耆婆答えて言わく、たとえば一人して七子あらん。
この七子の中に、(一子)病に遇えば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなわち偏に重きがごとし。大王、如来もまた爾なり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなわち偏に重し。放逸の者において仏すなわち慈念したまう。不放逸の者は心すなわち放捨す。何等をか名づけて「不放逸の者」とすると。謂わく六住の菩薩なりと。大王、諸仏世尊、もろもろの衆生において、種姓・老少・中年・貧富・時節・日月・星宿・工巧・下賎・僮僕・婢使を観そなわさず。ただ善心ある者を観そなわす。もし善心あれば、すなわち慈念したまう。大王、当に知るべし。かくのごときの瑞法は、すなわちこれ如来、月愛三昧に入りて放つところの光明なり、と。王すなわち問うて言わまく、何等をか名づけて「月愛三昧」とする、と。耆婆答えて言わまく、たとえば月の光よく一切の優鉢羅華をして開敷し鮮明ならしむるがごとし。月愛三昧もまたかくのごとし、よく衆生をして善心開敷せしむ。このゆえに名づけて「月愛三昧」とす。たとえば月の光よく一切、路を行く人心に、歓喜を生ぜしむるがごとし。月愛三昧もまたかくのごとし、よく涅槃道を修習せん者の心に、歓喜を生ぜしむ。このゆえにまた「月愛三昧」と名づく、と。乃至 諸善の中の王なり、甘露味とす。一切衆生の愛楽するところなり。このゆえにまた「月愛三昧」と名づく、と。乃至 その時に、仏、もろもろの大衆に告げて言わく、一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提に近づく因縁のためには、善友を先とするにはしかず。何をもってのゆえに。
阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日、必定して命終に阿鼻獄に堕せん。このゆえに日に近づきにたり、善友にしくことなかれ。阿闍世王また前路において聞く、「舎婆提に毘瑠璃王、船に乗じて海辺に入りて、災して死ぬ。瞿伽離比丘、生身に、地に入りて阿鼻獄に至れり。須那刹多は、種種の悪を作りしかども、仏所において衆罪消滅しぬ」と。この語を聞き已りて、耆婆に語りて言わく、吾今かくのごときの二つの語を聞くといえども、なお未だ審かならず、定んで汝来れり、耆婆、吾、汝と同じく一象に載らんと欲う。たとい我当に阿鼻地獄に入るべくとも、冀わくは汝捉持して、我をして堕さしめざれと。何をもってのゆえに。吾昔かつて聞きき、得道の人は地獄に入らず、と。乃至 (仏、阿闍世に告げたまわく)云何ぞ説きて定んで地獄に入ると言わん。大王、一切衆生の所作の罪業におよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るは、すなわち名づけて「軽」とす。身と口と心とに作るは、すなわち名づけて「重」とすと。大王、心に念い口に説きて身に作さざれば、得るところの報、軽なり。大王、むかし口に殺せよと勅せず、ただ「足を削れ」と言えりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、立ちどころに王の首を斬らまし。坐の時にすなわち斬るとも、なお罪を得じ。いわんや王勅せず、云何ぞ罪を得ん。王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまうべし。何をもってのゆえに。汝が父、先王頻婆沙羅、常に諸仏においてもろもろの善根を種えたりき。
このゆえに今日王位に居することを得たり。諸仏もしその供養を受けたまわらざらましかば、すなわち王たらざらまし。もし王たらざらましかば、汝すなわち国のために害を生ずることを得ざらまし、と。もし汝父を殺して当に罪あるべくは、我等諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得たまうことなくは、汝独り云何ぞ罪を得んや。大王、頻婆沙羅むかし悪心ありて、毘富羅山にして遊行し、鹿を射猟して曠野に周遍しき、ことごとく得るところなし。ただ一の仙の五通を具足せるを見る。見已りてすなわち瞋恚悪心を生じき。「我今遊猟す、得ざる所以は、正しくこの人の駆逐して去らしむるに坐る」と。すなわち左右に勅してこれを殺せしむ。その人、終わりに臨みて瞋って悪心を生ず。神通を退失して、しかして誓言を作さく、「我実に辜なし。汝、心口をもって横に戮害を加す。我来世において、また当にかくのごとく還りて心口をもってして汝を害すべし」と。時に王聞き已りて、すなわち悔心を生じて死屍を供養しき。先王かくのごとく、なお軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。いわんや王、しからずして当に地獄の果報を受くべけんや。先王自ら作りて還りて自らこれを受く。いかんぞ王をして殺罪を得しめん。王の言うところのごとし。父の王辜なくは、大王いかんぞ失なきに罪ありと言わば、すなわち罪報あらん。悪業なくは、すなわち罪報なけん。汝が父先王、もし辜罪なくは、いかんぞ報あらん。頻婆沙羅、現世の中において、また善果および悪果を得たり。
このゆえに先王また不定なり。不定をもってのゆえに、殺もまた不定なり。殺不定ならば、云何してか定んで地獄に入ると言わんと。大王、衆生の狂惑におよそ四種あり。一つには貪狂、二つには薬狂、三つには呪狂、四つには本業縁狂なり。大王、我が弟子の中にこの四狂あり。多く悪を作るといえども、我ついにこの人を戒を犯せりと記せず。この人の所作、三悪に至らず。もし還りて心を得ば、また犯と言わず。王、本国を貪してこれ父の王を逆害す。貪狂の心をもって与に作せり。いかんぞ罪を得ん。大王、人耽酔してその母を逆害せん、すでに醒悟し已りて心に悔恨を生ぜんがごとし。当に知るべし。この業もまた報を得じ。王今貪酔せり。本心の作せるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。大王、たとえば幻師の、四衢道の頭にして種種の男女・象馬・瓔珞・衣服を幻作するがごとし。愚痴の人は謂うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。
凡夫は実と思えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、たとえば山谷の響の声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂えり、有智の人はそれ真にあらずと知れり。殺もまた、かくのごとし。凡夫は実と謂えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人の怨あるが詐り来りて親附するがごとし。愚痴の人は謂うて実に親しむとす、智者は了達すなわちそれ虚しく詐れりと知る。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂う、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人、鏡を執りて自ら面像を見るがごとし。愚痴の人は謂うて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂う、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、熱の時の炎のごとし愚痴の人はこれはこれ水と謂わん、智者は了達してそれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂わん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人は謂うて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知せしめたまえり。大王、人の夢の中に五欲の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれを謂うて実とす、智者は了達して真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂えり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、殺法・殺業・殺者・殺果および解脱、我みなこれを了れり、すなわち罪あることなけん。王、殺を知るといえども、いかんぞ罪あらんや。大王、たとえば人主ありて酒を典れりと知れども、もしそれ飲まざればすなわちまた酔わざるがごとし。また火と知るといえども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといえども云何ぞ罪あらんや。大王、もろもろの衆生ありて、日の出ずる時において種種の罪を作る、月の出ずる時においてまた劫盗を行ぜん。日月出でざるに、すなわち罪を作らず。日月に因ってそれ罪を作らしむるといえども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。乃至

  大王、たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといえども、慚愧の人はすなわちすなわち非有とす。無慚愧の人はすなわち非無とす。果報を受くる者、これを名づけて「有」とす。空見の人は、すなわち「非有」とす。有見の人は、すなわち「非無」とす。有有見の者は、また名づけて「有」とす。何をもってのゆえに、有有見の者は果報を得るがゆえに、無有見の者はすなわち果報なし。常見の人はすなわち「非有」とす。無常見の者はすなわち「非無」とす。常常見の者は「無」とすることを得ず。何をもってのゆえに、常常見の者は「無」とすることを得ず。この義をもってのゆえに、非有非無にしてまたこれ有なりといえども、大王、それ「衆生」は出入の息に名づく、出入の息を断つがゆえに、名づけて「殺」とす。諸仏、俗に随いて、また説きて「殺」とす。乃至

  (大王、仏に白さく)世尊、我世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。我今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。「伊蘭子」は、我が身これなり。「栴檀樹」は、すなわち我が心、無根の信なり。「無根」は、我初めて如来を恭敬することを知らず、法・僧を信ぜず、これを「無根」と名づく。世尊、我もし如来世尊に遇わずは、当に無量阿僧祇劫において、大地獄に在りて無量の苦を受くべし。我今仏を見たてまつる。これ仏を見るをもって得るところの功徳、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ、と。仏の言わく、「大王、善いかな、善いかな、我いま、汝必ずよく衆生の悪心を破壊することを知れり。」「世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。」その時に摩伽陀国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。かくのごときらの無量の人民、大心を発せるをもってのゆえに、阿闍世王所有の重罪、すなわち微薄なることを得しむ。王および夫人、後宮・采女、ことごとくみな同じく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。その時に阿闍世王、耆婆に語りて言わまく、耆婆、我いま未だ死せざるにすでに天身を得たり。短命を捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ。乃至諸仏の弟子、この語を説き已りて、すなわち種種の宝幢をもって、乃至 また偈頌をもって讃嘆して言さく、

  実語ははなはだ微妙なり、 善巧、句義において
  甚深秘密の蔵なり、 衆のためのゆえに、
  所有広博の言を、顕示す。 衆のためのゆえに略して説かく、
  かくのごときの語を具足して、 よく衆生を療す。
  もしもろもろの衆生ありて、 この語を聞くことを得る者は、
  もしは信および不信、 定んでこの仏説を知らん。
  諸仏常に軟語をもって、 衆のためのゆえに麁を説きたまう。
  麁語および軟語、 みな第一義に帰せん。
  このゆえに我いま、 世尊に帰依したてまつる。
  如来の語は一味なること、 なお大海の水のごとし。
  これを第一義諦と名づく。 かるがゆえに無無義の語にして、
  如来いま説きたまうところの 種種の無量の法、
  男女・大小、聞きて、 同じく第一義を獲しめん。
  無因また無果なり、 無生また無滅なり、
  これを「大涅槃」と名づく。 聞く者、諸結を破す。
  如来、一切のために、 常に慈父母と作りたまえり。
  当に知るべし、もろもろの衆生は、 みなこれ如来の子なり。
  世尊大慈悲は、 衆のために苦行を修したまうこと、
  人の鬼魅に着わされて、 狂乱して所為多きがごとし。
  我いま仏を見たてまつることを得たり。 得るところの三業の善、
  願わくはこの功徳をもって、 無上道に回向せん。
  我いま供養するところの 仏・法および衆僧、
  願わくはこの功徳をもって、 三宝常に世にましまさん。
  我いま当に獲べきところの 種種のもろもろの功徳、
  願わくはこれをもって、 衆生の四種の魔を破壊せん。
  我悪知識に遇うて、 三世の罪を造作せり。
  いま仏前にして悔ゆ、 願わくは後にまた造ることなからん。
  願わくはもろもろの衆生、等しく ことごとく菩提心を発せしむ。
  心を繋けて常に、 十方一切仏を思念せん。
  また願わくはもろもろの衆生、 永くもろもろの煩悩を破し、
  了了に仏性を見ること、 猶妙徳のごとくして等しからん、と。

  その時に、世尊、阿闍世王を讃めたまわく、「善いかな、善いかな、もし人ありてよく菩提心を発せん。当に知るべし、この人はすなわち諸仏大衆を荘厳すとす。大王、汝昔すでに毘婆尸仏のみもとにして、初めて阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。これより已来、我が出世に至るまで、その中間において、未だかつてまた地獄に堕して苦を受けず。大王、当に知るべし、菩提の心はいましかくのごとき無量の果報あり。大王、今より已往に、常に当に菩提の心を懃修すべし。何をもってのゆえに。この因縁に従って、当に無量の悪を消滅することを得べきがゆえなり。」その時に阿闍世王および摩伽陀国の人民挙って座よりして起ちて仏を遶ること三ゾウして、辞退して宮に還りにき、と。已上抄出

  (迦葉品)また言わく、善男子、羅閲祇の王頻婆沙羅、その王の太子、名づけて「善見」と曰う。業因縁のゆえに悪逆の心を生じて、その父を害せんとするに便りを得ず。その時に悪人提婆達多、また過去の業因縁に因るがゆえに、また我が所において不善の心を生じて、我を害せんとす。すなわち五通を修して、久しからずして、善見太子と共に親厚たることを獲得せり。太子のためのゆえに、種種の神通の事を現作す。門にあらざるより出でて門よりして入りて、門よりして出でて門にあらざるよりして入る。ある時は象馬・牛羊・男女の身を示現す。善見太子見已りて、すなわち愛心・喜心・敬信の心を生ず。これを本とするがゆえに、厳しく種種の供養の具を説きて、これを供養す。また白して言さく、大師聖人、我いま曼陀羅華を見んと欲う、と。時に提婆達多、すなわち法として三十三天に至りて、かの天人に従うてこれを求索するに、その福尽くるがゆえにすべて与うる者なし。すでに華を得ず。この思惟を作さく、曼陀羅樹は我・我所なし、もし自ら取らんに当に何の罪かあるべき。すなわち前んで取らんと欲するに、すなわち神通を失えり。還りて己身を見れば王舎城にあり。心に慚愧を生ずるに、また善見太子を見ることあたわず。またこの念を作さく、我いま当に如来の所に往至して、大衆を求索すべし、と。仏もし聴さば、我当に意に随いて、教えてすなわち舎利弗等に詔勅すべし、と。その時に提婆達多、すなわち我が所に来たりてかくのごときの言を作さく、唯願わくは如来、この大衆をもって我に付嘱せよ、我当に種種に法を説きて、教化してそれをして調伏せしむべし、と。我、痴人に言わく、舎利弗等、大智を聴聞して、世に信伏するところなり、我なお大衆をもって付嘱せじ。いわんや汝痴人、唾を食らう者をや、と。時に提婆達多、また我が所においてますます悪心を生じて、かくのごときの言を作さく、瞿曇、汝いままた大衆を調伏すといえども、勢いまた久しからじ。当に見に磨滅すべし、と。この語を作し已るに、大地即時に六反震動す。提婆達多、すなわちの時に地に躄れて、その身の辺より大暴風を出だして、もろもろの塵土を吹きてこれを汚フンす。提婆達多悪相を見已りて、またこの言を作さく、もし我、この身、現世に必ず阿鼻地獄に入らば、我が悪、当にかくのごときの大悪を報うべし、と。時に提婆達多、すなわち起ちて、善見太子の所に往至す。善見見已りてすなわち聖人に問わく、何がゆえぞ、顔容憔悴して憂の色あるや、と。提婆達多言わく、我常にかくのごとし、汝知らずや、と。善見答えて言わく、願わくはその意を説くべし。何の因縁あってか爾る、と。提婆達多の言わく、我いま汝がために極めて親愛を成す。外人汝を罵りて、もって非理とす。我この事を聞くに、あに憂えざることを得んや、と。善見太子、またこの言を作さく、国の人、いかんぞ我を罵辱する、と。提婆達の言わく、国の人汝を罵りて「未生怨」とす。善見また言わく、何がゆえぞ我を名づけて「未生怨」とする。誰かこの名を作す、と。提婆達の言わく、汝未だ生まれざりし時、一切相師みなこの言を作さく、この児生まれ已りて当にその父を殺すべし、と。このゆえに外人みなことごとく、汝を号して「未生怨」とす。一切内の人、汝が心を護るがゆえに、謂うて「善見」とす。毘提夫人この語を聞き已りて、すでに汝を生まんとして、身を高楼の上より、これを地に棄てしに、汝が一の指を壊れり。この因縁をもって、人また汝を号して「婆羅留枝」とす。我これを聞き已りて、心に愁憤を生じてまた汝に向かいてこれを説くことあたわず。提婆達多、かくのごときらの種種の悪事をもって、教えて父を殺せしむ。もし汝が父死せば、我またよく瞿曇沙門を殺せん、と。善見太子、一の大臣に問わく、名づけて「雨行」と曰う。
大王何がゆえぞ我が字を立てんとするに「未生怨」と作るや、と。大臣すなわちためにその本末を説く、提婆達の所説のごとくして異なけん。善見聞き已りて、すなわち大臣とともにその父の王を収って、これを城の外に閉ず、四種の兵をもって、これを守衛せしむ。毘提夫人、この事を聞き已りてすなわち王の所に至る。時に王を守りて、人をして遮りて入ることを聴さず。その時に夫人、瞋恚の心を生じて、すなわちこれを呵罵す。時にもろもろの守人、すなわち太子に告ぐらく、大王の夫人、父の王を見んと欲うをば、不審、聴してんや不や、と。善見聞き已りてまた瞋嫌を生じて、すなわち母の所に往きて、前んで母の髪を牽きて、刀を抜きて斫らんとす。その時に耆婆白して言さく、大王、国を有ってより已来、罪極めて重しといえども、女人に及ばず、いわんや所生の母をや、と。善見太子、この語を聞き已りて、耆婆のためにすなわち放捨して、遮りて大王の衣服・臥具・飲食・湯薬を断つ。七日を過ぎ已るに、王の命すなわち終わりぬと。善見太子、父の喪を見已りて、方に悔心を生ず。雨行大臣、また種種の悪邪の法をもって、ためにこれを説く、大王、一切の業行すべて罪あることなし。何がゆえぞいま悔心を生ずるや、と。耆婆また言わく、大王、当に知るべし。
かくのごときの業は、罪業二重なり。一つには父の王を殺す、二つには須陀オンを殺せり。かくのごときの罪は、仏を除きてさらによく除滅したまう者ましまさず、と。善見王言わく、「如来は清浄にして穢濁ましますことなし。我等罪人いかんしてか見たてまつることを得ん。」善男子、我このことを知らんと。阿難に告げたまわく三月を過ぎ已りて吾当に涅槃すべきがゆえに、と。善見聞き已りて、すなわち我が所に来れり。我ために法を説きて、重罪をして薄きことを得しめ、無根の信を獲しむ。善男子、我がもろもろの弟子この説を聞き已りて、我が意を解らざるがゆえに、この言を作さく、「如来定んで畢竟涅槃を説きたまえり。」善男子、菩薩に二種あり、一つには実義、二つには仮名なり。仮名の菩薩、「我三月あって当に涅槃に入るべし」と聞きて、みな退心を生じてこの言を作さく、「もしそれ如来無常にして住したまわずは、我等いかがせん。この事のためのゆえに、無量世の中に大苦悩を受けき。如来世尊は無量の功徳を成就し具足したまいて、なお壊することあたわず、かくのごときの死魔をや。いわんや我等が輩、当によく壊すべけんや。」善男子、このゆえに我かくのごとき菩薩のためにして、この言を作さく、「如来は常住にして変易あることなし。」我がもろもろの弟子、この説を聞き已りて我が意を解らざれば、定んで言わく、如来は終に畢竟じて涅槃に入りたまわず、と。已上抄出

  ここをもって、今大聖の真説に拠るに、難化の三機・難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまう。たとえば醍醐の妙薬の一切の病を療するがごとし。濁世の庶類・穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと。知るべし。

  それ諸大乗に拠るに、難化の機を説けり。今『大経』には「唯除五逆誹謗正法」と言い、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及誹謗聖人」(如来会)と言えり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には、難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。

  報えて道わく、『論の註』に曰わく、問うて曰わく、『無量寿経』に言わく、「往生を願ぜん者みな往生を得しむ。唯五逆と誹謗正法とを除く」と。『観無量寿経』に、「五逆・十悪もろもろの不善を具せるもの、また往生を得」と言えり。この二経云何が会せんや。答えて曰わく、一経には二種の重罪を具するをもってなり。一つには五逆、二つには誹謗正法なり。この二種の罪をもってのゆえに、このゆえに往生を得ず。一経はただ、十悪・五逆等の罪を作ると言うて、「正法を誹謗す」と言わず。正法を誹謗せざるをもってのゆえに、このゆえに生を得しむ、と。

  問うて曰わく、たとい一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、『経』に得生を許す。また一人ありて、ただ正法を誹謗して五逆もろもろの罪なきもの、往生を願ぜば、生を得るやいなや。答えて曰わく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといえども、必ず生を得じ。何をもってこれを言わば、『経』(大品般若経信毀品意)に言わく、「五逆の罪人、阿鼻大地獄の中に堕して、具に一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は、阿鼻大地獄の中に堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄の中に至る。かくのごとく展転して、百千の阿鼻大地獄を径。」仏出ずることを得る時節を記したまわず、誹謗正法の罪極重なるをもってのゆえなり。また正法はすなわちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず。いずくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たといただかの安楽に生まるることを貪して生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし、あに得る理あらんや。

  問うて曰わく、何等の相かこれ誹謗正法なるや。答えて曰わく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法と言わん、かくのごときらの見をもって、もしは心に自ら解り、もしは他に従いて、その心を受けて決定するを、みな「誹謗正法」と名づく、と。

  問うて曰わく、かくのごときらの計は、ただこれ己が事なり、衆生において何の苦悩あればか、五逆の重罪に踰えんや。答えて曰わく、もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。汝ただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆえに謗正法の人はその罪もっとも重なり、と。

  問うて曰わく、『業道経』に言わく、「業道は称のごとし、重き者を先ず牽く」と。『観無量寿経』に言うがごとし。「人ありて五逆・十悪を造り、もろもろの不善を具せらん。悪道に堕して多劫を径歴して無量の苦を受くべし。命終の時に臨みて、善知識教えて南無無量寿仏を称せしむるに遇わん。かくのごとき心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足すれば、すなわち安楽浄土に往生することを得て、すなわち大乗正定の聚に入りて、畢竟じて不退ならん、三途のもろもろの苦と永く隔つ。」「先ず牽く」の義、理においていかんぞ。また曠劫より已来備にもろもろの行を造れる、有漏の法は三界に繋属せり。ただ十念をもって阿弥陀仏を念じてすなわち三界を出でば、繋業の義、また云何がせんとするや。答えて曰わく、汝、五逆・十悪・繋業等を重とし、下下品の人の十念をもって軽として、罪のために牽かれて先ず地獄に堕して、三界に繋在すべしと謂わば、今当に義をもって、軽重の義を校量すべし。心に在り、縁に在り、決定に在り、時節の久近・多少に在るにはあらざるなり。いかんが心に在る、と。かの罪を造る人は、自らが虚妄顛倒の見に依止して生ず。この十念は、善知識、方便安慰して実相の法を聞かしむるに依って生ず。一は実、一は虚なり、あに相比ぶることを得んや。たとえば千歳の闇室に、光もししばらく至ればすなわち明朗なるがごとし。闇あに室にあること千歳にして去らじと言うことを得んや。これを「在心」と名づく。いかんが縁に在る、と。かの罪を造る人は、自らが妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生に依って生ず。この十念は、無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳・真実清浄・無量功徳の名号に依って生ず。たとえば人ありて毒の箭を被りて中るところ筋を截り骨を破るに、滅除薬の鼓を聞けばすなわち箭出け毒除こるがごとし。『首楞厳経』に言わく、たとえば薬あり、名づけて滅除と曰う。もし闘戦の時にもって鼓に塗るに、鼓の声を聞く者、箭出け毒除こるがごとし。菩薩摩訶薩もまたかくのごとし、首楞厳三昧に住してその名を聞く者、三毒の箭、自然に抜出すと。
あに「かの箭深く毒ハゲしからん、鼓の音声を聞くとも箭を抜き毒を去ることあたわじ」と言うことを得べけんや。これを「在縁」と名づく。いかんが決定に在ると。かの罪を造る人は、有後心・有間心依止して生ず。この十念は、無後心・無間心に依止して生ず。これを「決定」と名づく。三つの義を校量するに、十念は重なり。重き者先ず牽きて、よく三有を出ず。両経一義なるならくのみ、と。

  問うて曰わく、幾ばくの時をか、名づけて「一念」とするや。答えて曰わく、百一の生滅を「一刹那」と名づく。六十の刹那を名づけて「一念」とす。この中に「念」と云うは、この時節を取らざるなり。ただ阿弥陀仏を憶念して、もしは総相・もしは別相、所観の縁に随いて、心に他想なくして十念相続するを、名づけて「十念」とすと言うなり。ただし名号を称することも、またかくのごとし。

  問うて曰わく、心もし他縁せば、これを摂して還らしめて、念の多少を知るべし。ただ多少を知らば、また間なきにあらず。もし心を凝らして想を注めば、また何に依ってか念の多少を記することを得べきや。答えて曰わく、『経』に「十念」と言うは、業事成弁を明かすならくのみと。必ずしも須らく頭数を知るべからざるなり。ケイ蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや、と言うがごとし。知る者これを言うならくのみと。「十念業成」とは、これまた神に通ずる者、これを言うならくのみと。ただ念を積み相続して、他事を縁ぜざればすなわち罷みぬ、また何ぞ仮に念の頭数を知ることを須いんや。もし必ず知ることを須いば、また方便あり、必ず口授を須いよ、これを筆点に題することを得ざれ、と。已上

  (散善義)光明寺の和尚云わく、問うて曰わく、四十八願の中のごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて往生を得しめず。今この『観経』の下品下生の中には、誹謗を簡いて五逆を摂するは、何の意かあるや。答えて曰わく、この義仰いで抑止門の中について解す。四十八願の中のごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、直ちに阿鼻に入りて、歴劫周章して出ずべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」と言えり、またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生の中に、五逆を取りて謗法を除くことは、それ五逆は已に作れり、捨てて流転せしむべからず、還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は未だ為らざれば、また止めて「もし謗法を起こさばすなわち生まるることを得じ」と言う。
これは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。彼に生を得といえども、華合して多劫を径ん。これらの罪人、華の内にある時、三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じと。これを除きて已外は、さらにもろもろの苦なけん。『経』(悲華経)に云わく、「なお比丘の三禅の楽に入るがごときなり」と。知るべし。華の中にありて、多劫開けずといえども、阿鼻地獄の中にして、長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや。この義、抑止門について解し竟りぬ、と。已上 (法事讃)また云わく、永く機嫌を絶ち、等しくして憂悩なし。人天、善悪、みな往くことを得。彼に到りて殊ることなし、斉同不退なり。何の意か然るとならば、いまし弥陀の因地にして、世饒王仏の所にして、位を捨てて家を出ず、すなわち悲智の心を起こして、広く四十八願を弘めしめたまいしに由ってなり。仏願力をもって、五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く、と。抄出
  「五逆」と言うは、もしシ 州に依るに、五逆に二つあり。
  一つには三乗の五逆なり。いわく、一つにはことさらに思いて父を殺す、二つにはことさらに思いて母を殺す、三つにはことさらに思いて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもって仏身より血を出だす。恩田に背き福田に違するをもってのゆえに、これを名づけて「逆」とす。この逆を執する者は、身壊れ命終えて、必定して無間地獄に堕して、一大劫の中に無間の苦を受けん、「無間業」と名づくと。

  また『倶舎論』の中に、五無間の同類の業あり。かの頌に云わく、「母、無学尼を汚す 母を殺す罪の同類、住定菩薩 父を殺す罪の同類、および有学・無学 羅漢を殺す同類を殺す、僧の和合縁を奪う 破僧罪の同類、卒都波を破壊する 仏身より血を出だす。」 二つには大乗の五逆なり。『薩遮尼乾子経』に説くがごとし。一つには、塔を破壊し経蔵を焚焼する、および三宝の財物を盗用する。二つには、三乗の法を謗りて聖教にあらずと言うて、障破留難し、隠蔽覆蔵する。三つには、一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し、還俗せしめ、駆使債調し断命せしむる。四つには、父を殺し、母を害し、仏身より血を出だし、和合僧を破し、阿羅漢を殺すなり。五つには、謗じて因果なく、長夜に常に十不善業を行ずるなり、と。已上  かの『経』(十輪経)に云わく、一つには不善心を起こして独覚を殺害する、これ殺生なり。二つには羅漢の尼を婬する、これを邪行と云うなり。三つには所施の三宝物を侵損する、これ不与取なり。四つには倒見して和合僧衆を破する、これ虚誑語なり。
略出

顕浄土真実信文類三