浄土三部経
仏説観無量寿経
曹魏 天竺三蔵 康僧鎧訳宋 元嘉中 良耶舎訳
「証信序」
かくのごとく我聞く。一時、仏、王舎城耆闍崛山の中にましまし、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。菩薩三万二千あり、文珠師利法王子を上首せり。
その時、王舎城に一りの太子あり、阿闍世と名づく。
調達悪友の教に随順し、父の王頻婆娑羅を収執し幽閉して七重の室の内に置き、もろもろの群臣を制して一りも往くことを得ざらしむ。
国の大夫人を韋提希と名づく。
大王を恭敬し、澡浴清浄にして酥蜜をもってショウに和し用いてその身に塗り、もろもろの瓔珞の中に蒲桃の漿を盛れ、密にもって王に上る。
その時、大王ショウを食し漿を飲み水を求め口を漱ぐ。口を漱ぎ已りて合掌恭敬し、耆闍崛山に向かいはるかに世尊を礼してこの言を作さく。
「大目ケン連はこれ吾が親友なり、願わくは、慈悲を興して我に八戒を授けたまえ」と。時に目ケン連、鷹隼の飛ぶがごとく疾く王の所に至る。
日々かくのごとくして王に八戒を授く。世尊また尊者富楼那を遣わし王のために説法をせしむ。
かくのごときの時の間三七日を経たり、王、ショウ蜜を食し、聞法を得るがゆえに顔色和悦せり。
時に阿闍世、守門者に問わく「父の王は今なお存在せりや」と。
時に守門人白して言さく、「大王、国の大夫人身にショウ蜜を塗り瓔珞に漿を盛れもって王に上る。
沙門目連および富楼那、空より来り王のために説法を説す、禁制すべからず」
時に阿闍世、この語を聞き已りてその母を怒りて曰わく、「我が母はこれ賊なり賊と伴なればなり、沙門は悪人なり幻惑の呪術をもってこの悪王をして多日死せざらしむ」と。
すなわち利剣を執りその母を害せんと欲す。
時に一臣あり、名づけて月光と曰う、聡明多智なり。
および耆婆と王のために、作礼し白して言さく、「大王、臣『毘陀論経』に説くを聞く、劫初よりこのかたもろもろの悪王あり、国位を貪るがゆえにその父を殺害すること一万八千なり。
未だかつて無聞に無道に母を害することあるを聞かず、王いまこの殺逆の事をなさば刹利種を汚さん、臣聞くに忍びず、これ栴陀羅なり、宜しく此に住すべからず。」
時に二大臣この語を説き竟りて手をもって剣を按じ却行して退く。
時に阿闍世、驚怖惶懼し耆婆に告げて言わく、「汝我がためにせざるや。」
耆婆白して言さく「大王、慎んで母を害することなかれ」と。
王この語を聞き懺悔求救し、すなわち剣を捨てて止りて母を害せず。
内官に勅語し深宮に閉置してまた出ださしめず。
時に韋提希、幽閉せられ已りて愁憂憔悴しはるかに耆闍崛山に向い仏の為に作礼してこの言を作さく。
「如来世尊、在昔の時、恒に阿難を遣わし来して我を慰問したまいき、我いま愁憂せり。
世尊は威重にして見ることを得るに由なし、願わくは目連と尊者阿難を遣わし我と相見えしめたまえ」と。
この語を作し已りて悲泣雨涙しはるかに仏に向かいて礼す。
未だ頭を挙げざる頃にその時、世尊耆闍崛山にましまし、韋提希の心の所念を知り、すなわち大目ケン連および阿難に勅し空よりして来らしめ、仏、耆闍崛山より没し王宮において出でたもう。
時に韋提希礼し已りて頭を挙ぐるに、世尊釈迦牟尼仏を見たてまつる。
身は紫金色にして百宝蓮華に坐したまえり。目連左に侍し阿難右にあり、釈梵護世の諸天虚空の中にありて普く天華を雨らしもって供養す。
時に韋提希、仏世尊を見たてまつり、自ら瓔珞を絶ち挙身投地し号泣して仏に向かいて白して言さく、「世尊、我宿何の罪ありてかこの悪子を生ぜる、世尊、また何等の因縁ありてか提婆達多と共に眷属たる」
唯願わくは世尊、我がために広く憂悩なき処を説きたまえ、我当に往生すべし。
閻浮提濁悪世をば楽わざるなり、この濁悪処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善のともがら多し。
願わくは我未来悪声を聞かず悪人を見ざらん。
いま世尊に向かいて五体投地し求哀懺悔す、唯願わくは仏日我を教えて清浄業処を観ぜしめたまえ」と。
その時世尊、眉間の光を放ちたもう。その光金色にして遍く十方無量の世界を照し、還りて仏頂に住し化して金台と為り、須弥山のごとし。
十方諸仏の浄妙の国土、みな中において現ず。
あるいは国土あり七宝合成せり、また国土ありもっぱらこれ蓮華なり、また国土あり自在天宮のごとし、また国土あり玻リ鏡のごとし、十方の国土、みな中において現ず。かくのごときらの無量の諸仏の国土あり、厳顕にして観つべし。韋提希をして見せしめたもう。時に韋提希、仏に白して言さく、「世尊この諸仏の土また清浄にしてみな光明ありといえども、我いま極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんと楽う。唯願わくは世尊、我に思惟を教え、我に正受を教えたまえ。」
その時、世尊、すなわち微笑したまもに五色の光あり仏口より出ず。一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。その時、大王、幽閉にありといえども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつり頭面に作礼し、自然に増進して阿那含を成ぜり。
その時、世尊、韋提希に告げたまわく、「汝いま知るやいなや阿弥陀仏此を去ること遠からず、汝当に繋念してあきらかに彼の国の浄業成者を観ずべし。我いま汝がために広く衆譬を説き、また未来世の一切凡夫、浄業を修せんと欲せん者をして西方極楽国土に生ずることを得しめん。
彼の国に生ぜんと欲する者は当に三福を修すべし、一には父母に孝養し師長に奉事し慈心にして殺さず十善業を修す。
二には三帰を受持し衆戒を具足し威儀を犯さず。
三には菩提心を発し因果を深信し大乗を読誦し行者を勧進ず。
かくのごときの三事を名づけて浄業となす」仏、韋提希に告げたまわく、「汝いま知るやいなやこの三種の業は過去・未来・現在三世の諸仏の浄業の正因なり。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「諦かに聴け、諦かに聴け善く之を思念せよ。
如来、いま未来世の一切衆生、煩悩賊の害する所となる者のために清浄の業を説かん。
善いかな韋提希、快くこの事を問えり。阿難、汝当に受持して広く多衆のために仏語を宣説すべし、如来、いま韋提希および未来世の一切衆生を教えて西方極楽世界を観ぜしめん。
仏力をもってのゆえに、当に彼の清浄の国土を見ぜしめん。
仏力をもってのゆえに、まさに彼の清浄の国土を見ること明鏡を執りて自ら面像を見るがごとくなるを得べし。
彼の国土の極妙楽事を見ば心歓喜するがゆえに時に応じてすなわち無生法忍を得ん。」
仏、韋提希に告げたまわく、「汝はこれ凡夫なり心想羸劣にして未だ天眼を得ざれば遠く観ることあたわず、諸仏如来に異の方便あり、汝をして見ることを得しむ。」
時に韋提希、仏に白して言さく、「世尊、我がごときはいま仏力をもってのゆえに彼の国土を見たてまつる。もし仏滅後のもろもろの衆生等は濁悪不善にして五苦に逼められん、いかんして当に阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき。」
「正宗分」
仏、韋提希に告げたまわく、「汝および衆生、当に専心に念を一処に繋け西方を想うべし。
いかんが想を作さん、おおよそ想を作すとは、一切衆生、生盲にあらざるよりは有目の徒、みな日没を見る。
当に想念を起こし正坐西向しあきらかに日を観ずべし、心堅住にして専想不移ならしめ、日没せんと欲して状懸鼓のごとくなるを見よ、すでに日を見已らば閉目・開目にみな明了ならしめよ、これを「日想」となし名づけて「初観」と曰う。
次に水想を作せ。水の澄清なるを見、また明了にして分散の意なからしめよ。
すでに水を見已らば当に氷想を起こすべし、氷の映徹せるを見て瑠璃想を作せ、この想成じ已らば瑠璃地の内外映徹せるを見ん、下に金剛七宝の金幢あり瑠璃地をささげたり、その幢八方にして八楞具足せり、一々の方面百宝の所成なり。
一々の宝珠に千の光明あり、一々の光明八万四千色あり、瑠璃地に映じて億千の日のごとく具に見るべからず。
瑠璃地の上には、黄金の縄をもって雑廁間錯し、七宝をもって界い、分斉分明なり、一々の宝中に五百色の光あり、その光華のごとくまた星月に似たり。
虚空に懸処して光明台と成る、楼閣千万にして百宝合成せり、台の両辺においておのおの百億の華幢あり、無量の楽器もって荘厳となす。
八種の清風、光明より出でこの楽器を鼓するに苦・空・無常・無我の音を演説す。これを「水想」となし「第二観」と名づく。」
「この想成ずる時、一々に之を観じて極めて了々ならしめ、閉目・開目に散失せしめざれ。
唯睡時を除きて恒にこの事を憶え、かくのごとく想する者を名づけて粗極楽国地を見るとなす。
もし三昧を得ば彼の国地を見ること了々分明にして具に説くべからず。これを「地想」となす「第三観」と名づく。」
仏、阿難に告げたまわく、「汝仏語を持ち、未来世の一切大衆の苦を脱れんと欲せん者のために、この観地の法を説け、もしこの地を観ずる者は八十億劫生死の罪を除き、身を捨てて他世に必ず浄国に生ぜん。心疑いなきを得よ、この観を作すをば名づけて「正観」となし、もし他観する者をば名づけて「邪観」となす。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「地想成じ已らば次に宝樹を観ぜよ。宝樹を観ぜずとは一々に之を観じ、七重行樹の想を作せ、一々の樹の高さ八千由旬なり。そのもろもろの宝樹七宝華葉具足せざるなし、一々の華葉、異宝色を作す、瑠璃色の中より金色の光を出し、玻リ色の中より紅色の光を出し、碼碯の色の中よりシャコの光を出し、シャコ色の中より緑真珠の光を出し、珊瑚・琥珀、一切衆宝をもって映飾となし、妙真珠網、樹上に弥覆せり。一々の樹上に七重の網あり、一々の網の間に五百億の妙華宮殿あり、梵王宮のごとし。諸天童子自然に中にあり、一々の童子五百億の釈迦毘楞伽摩尼宝、もって瓔珞となす。その摩尼の光百由旬を照らす、猶し百億の日月を和合せるがごとし、具に名づくべからず、衆宝間錯して色中の上なる者なり。このもろもろの宝樹、行々相当たり葉々相次げり、衆葉の間においてもろもろの妙華を生じ華上に自然に七宝の果あり。一々の樹葉、縦広正等にして二十五由旬なり、その葉千色にして百種の画あり、天の瓔珞のごとし。衆の妙華あり閻浮檀金色を作せり、旋火輪のごとく葉間に婉転せり、涌生せる諸果、帝釈のカメのごとし。大光明あり、幢幡無量の宝蓋を化成せり、この宝蓋の中に三千大千世界の一切の仏事を映現ず。十方仏国もまた中において現ず。この樹を見已らばまた当に次第に一々に之を観ずべし、樹茎・枝葉・華果を観見してみな分明ならしめよ、これを「樹想」となし「第四の観」と名づく。」
「次に当に水を想うべし、水を想すとは極楽国土に八池水あり、一々の池水七宝の所成なり。その宝柔軟にして如意珠王より生じ、分れて十四支となる。一々の支七宝色を作し黄金を渠となす、渠の下にみな雑色の金剛をもって、もって底沙となす、一々の水中に六十億の七宝蓮華あり、一々の蓮華、団円正等にして十二由旬なり、その摩尼水、華間に流注し樹を尋ねて上下す、その声微妙にして苦・空・無常・無我・諸波羅蜜を演説す。また諸仏の相好を讃歎する者あり。如意珠王より金色微妙の光明を湧出す、その光化して百宝色の鳥と為り、和鳴哀雅にして常に念仏・念法・念僧を讃ず。これを「八功徳水の想」となし「第五観」と名づく。」
「衆宝国土の一々の界上に五百億の宝楼閣あり。その楼閣の中に無量の諸天ありて天の伎楽を作し、また楽器ありて虚空に懸処せり、天の宝幢のごとく鼓せざるに自ら鳴る、この衆音の中にみな念仏・念法・念比丘僧を説く。この想成じ已るを名づけて粗極楽世界の宝樹・宝地・宝池を見るとなす。これを「総観想」となし「第六観」と名づく、もしこれを見る者は、無量億劫の極重悪業を除く。命終の後必ず彼の国に生ず。この観を作すをば名づけて「正観」となし、もし他観するをば名づけて「邪観」となす。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「あきらかに聴けあきらかに聴け善く之を思念せよ、仏当に汝がために除苦悩法を分別解説すべし。汝等憶持して広く大衆のために分別解説せよ」この語を説きたまう時、無量寿仏空中に住立し、観世音・大勢至この二大士左右に侍立せり。光明熾盛にして具に見るべからず、百千の閻浮檀金色も比となすことを得ず。時に韋提希無量寿仏を見たてまつり已りて接足作礼し、仏に白して言さく。「世尊、我いま仏力に因るがゆえに無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得たり、未来の衆生当にいかにしてか無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき。」
仏、韋提希に告げたまわく、「彼の仏を観んと欲せん者は当に想念を起こすべし。七宝の地の上において蓮華の想を作し、その蓮華の一々の葉をして百宝色を作さしめよ、八万四千の脈あり猶し天画のごとし、脈に八万四千の光あり、了々分明にみな見ることを得しめよ。華葉の小なる者、縦広二百五十由旬なり、かくのごとき蓮華に八万四千の葉あり、一々の葉の間におのおの百億の摩尼珠王ありもって映飾となす、一々の摩尼、千の光明を放つ、その光蓋のごとく七宝合成し遍く地上に覆えり。釈迦毘楞伽宝、もってその台となす、この蓮華台は八万の金剛・甄叔迦宝・梵摩尼宝・妙真珠網、もって交飾とす。その台上において自然にして四柱の宝幢あり、一々の宝幢百千万億の須弥山のごとし幢上の宝幔は夜摩天宮のごとし。五百億の微妙の宝珠ありてもって映飾となす、一々の宝珠に八万四千の光あり、一々の光八万四千の異種の金色を作す、一々の金色、その宝土に遍し、処々に変化しておのおの異相を作す。あるいは金剛台と為りあるいは真珠網と作りあるいは雑華雲と作り、十方面において随意に変現し仏事を施作す。これを「華座想」となし「第七観」と名づく。」
仏、阿難に告げたまわく、「かくのごときの妙華はこれ本法蔵比丘の願力の所成なり、もし彼の仏を念ぜんと欲せん者は当に先づこの華座の想を作すべし、この想を作す時雑観することを得ざれみな一々に之を観ずべし、一々の葉・一々の珠・一々の光・一々の台・一々の幢みな分明ならしめ、鏡中において自ら面像を見るがごとくせよ。この想成ぜば五万劫生死の罪を滅除し、必定して当に極楽世界に生ずべし、この観を作すをば名づけて「正観」となし、もし他観するをば名づけて「邪観」となす。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「この事を見已らば次に当に仏を想すべし。所以はいかん。諸仏如来はこれ法界身なり一切衆生の心想中に入りたもう。このゆえに汝等心に仏を想する時は、この心すなわちこれ三十二相・八十随形好なり。この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず、このゆえに応当に一心に繋念して彼の仏・多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。彼の仏を想せん者は先当に像を想すべし。閉目・開目に、一つの宝像の閻浮檀金色のごとくにして、彼の華上に坐ぜるを見よ、像の坐せるを見已らば心眼開くことを得、了々分明に、極楽国の七宝荘厳・宝地・宝池・宝樹行列し、諸天宝幔その上に弥覆し、衆宝羅網虚空の中に満つるを見ん。かくのごとき事を見ば極めて明了にして掌中を見るがごとくならしめよ、この事を見已らばまた当に更に一の大蓮華の左辺に在る作すべし、前の蓮華のごとく等しくして異あることなく、また一の大蓮華仏の右辺に在るを作し。一の観世音菩薩の像左の華座に坐すと想え、また金光を放つこと前のごとく異なく、一の大勢至菩薩の像、右の華座に坐すと想うえ。この想成ずる時、仏菩薩の像、みな光明を放ち、その光金色にしてもろもろの宝樹を照らす。
一々の樹下にまた三蓮華あり、もろもろの蓮華の上に、おのおの一仏・二菩薩の像ましまして彼の国に遍満す。この想成ずる時、行者当に水流・光明およびもろもろの宝樹・鳧雁・鴛鴦みな妙法を説くを聞くべし。出定・入定恒に妙法を聞かん。行者の所聞出定の時、憶持して捨てざれ、修多羅と合せしめよ。もし合せざれば名づけて妄想となし、もし合することあらば名づけて麁想に極楽世界を見るとなす。これを「像想」となし「第八観」と名づく。この観を作す者は無量億劫の生死の罪を除き、現身の中において念仏三昧を得ん。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「この想成じ已らば次に当に更に無量寿仏の身相光明を観ずべし。阿難当に知るべし、無量寿仏の身は百千万億の夜摩天の閻浮檀金色のごとし、仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり、眉間の白毫は右に旋りて婉転せり五須弥山のごとし、仏眼は四大海水のごとく清白分明なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出す、須弥山のごとし、彼の仏の円光は百億の三千大千世界のごとし。円光の中において百万億那由他恒河沙の化仏まします。一々の化仏また衆多無数の化菩薩あり、もって侍者となす。無量寿仏に八万四千の相あり、一々の相におのおの八万四千の随形好あり、一々の好にまた八万四千の光明まします。一々の光明遍く十方世界を照らしたもう、念仏の衆生をば摂取して捨てたまわず。その光明・相好および化仏具に説くべからず、但当に憶想して心眼をして見せしむべし。この事を見る者はすなわち十方一切の諸仏を見たてまつる、諸仏を見るをもってのゆえに「念仏三昧」と名づく。この観を作すをば「一切仏心を観ず」と名く。仏心を観ずるをもってのゆえにまた仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり、無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す。この観を作す者は身を捨て他世に諸仏の前に生じ無生忍を得ん。このゆえに智者応当に心を繋心して無量寿仏を諦観ずべし、無量寿仏を観ぜん者は一の相好より入れ、但眉間の白毫を観じて極めて明了ならしめよ、眉間の白毫を見ば八万四千の相好自然に当に現ずべし。無量寿仏を見たてまつる者はすなわち十方無量の諸仏を見たてまつる、無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆえに諸仏現前に授記す。これを「遍観一切色身想」となし「第九観」と名づく。
この観を作すをば名づけて「正観」となし、もし他観するをば名づけて「邪観」となす。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「無量寿仏を見たてまつること了々分明にし已りて、次にまた当に観世音菩薩を観ずべし。この菩薩身の長八十万億那由他由旬なり、身紫金色なりにして頂に肉髻あり項に円光あり面おのおの百千由旬なり、その円光の中に五百の化仏あり、釈迦牟尼仏のごとし。
一々の化仏、五百の化菩薩あり、無量の諸天もって侍者となす、挙身の光中に、五道の衆生の一切の色相、みな中において現ず。
頂上には毘楞伽・摩尼宝ありもって天冠となす、その天冠の中に一の立化仏あり高さ二十五由旬なり、観世音菩薩の面は閻浮檀金色のごとし、眉間の毫相、七宝の色を備えたり、八万四千種の光明を流出す。
一々の光明に無量無数百千の化仏あり、一々の化仏無数の化菩薩をもって侍者となす。変現自在にして十方世界に満てり、たとえば紅蓮華の色のごとし、八十億の光明ありもって瓔珞となす。その瓔珞の中に普く一切のもろもろの荘厳の事を現ず、手掌に五百億の雑蓮華の色を作す、手の十指端あり、一々の指端に八万四千の画あり猶し印文のごとし。一々の画に八万四千の色あり、一々の色に八万四千の光あり、その光柔軟にして普く一切を照らしこの宝手をもって衆生を接引す。
足を挙ぐる時足下に千輻輪の相あり、自然に五百億の光明台と化成せり、足を下す時金剛摩尼華あり、一切に布散し弥満せざることなし。
その余の身相衆好具足して仏のごとくして異なし、唯頂上の肉髻および無見頂の相世尊に及ばず。これを「観観世音菩薩真実色身想」となし「第十観」と名づく」仏、阿難に告げたまわく、「もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらん者は当にこの観を作すべし。この観を作す者は諸禍に遇わず、業障を浄除し無数劫生死の罪を除かん。かくのごときの菩薩は但その名を聞くに無量の福を獲、いかにいわんや、諦観せんをや。もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらん者は先頂上の肉髻を観じ次に天冠を観ぜよ。その余の衆相もまた次第に之を観じてまた明了なること掌中を観るがごとくならしめよ。この観を作すをば名づけて「正観」となし、もし他観するをば名づけて「邪観」となす。」
次にまた応に大勢至菩薩を観ずべし。
この菩薩の身量の大小、また観世音のごとし。
円光の面おのおの百二十五由旬なり、二百五十由旬を照らす。挙身の光明十方国を照らし紫金色を作す、有縁の衆生みなことごとく見ることを得。
但この菩薩の一毛孔の光を見ればすなわち十方無量諸仏の浄妙の光明を見る。
このゆえにこの菩薩を号して無辺光と名づく。
智慧光をもって普く一切を照らし三塗を離れしむるに無上力を得、このゆえにこの菩薩を号して大勢至と名づく。
この菩薩の天冠に五百の宝華あり、一々の宝華に五百の宝台あり、一々の台中に十方諸仏の浄妙の国土広長の相あり、みな中において現ず。
頂上の肉髻は鉢頭摩華のごとし、肉髻の上において一の宝ビョウあり、もろもろの光明を盛れ普く仏事を現ず、余のもろもろの身相、観世音のごとく等しくして異あることなし。
この菩薩行きたもう時は十方世界一切震動す、地の動ずる処に当たりて五百億の宝華あり、一々の宝華、荘厳高顕にして極楽世界のごとし。
この菩薩坐する時は七宝国土一時に動揺す、下方の金光仏刹より乃至上方の光明王仏刹まで、その中間において無量塵数の分身の無量寿仏・分身の観世音・大勢至みなことごとく極楽国土に雲集し空中に側塞して蓮華座に坐し妙法を演説し苦の衆生を度す。この観を作すをば名づけて「正観」となし、もし他観するをば名づけて「邪観」となす。大勢至菩薩を見る、これを「観大勢至色身想」となし「第十一観」と名づく。この菩薩を観ずる者は無数劫阿僧祇の生死の罪を除く、この観を作す者は胞胎に処せず、常に諸仏浄妙の国土に遊ぶ。この観を成じ已るを名づけて「具足して観世音・大勢至を観ず」となす。」
この事を見る時当に自心を起し、西方極楽世界に生じ、蓮華の中において結跏趺座し、蓮華合する想を作し蓮華開く想をば作すべし。
蓮華開く時、五百の光あり来りて身を照らすの想、眼目開くの想をせよ。
仏・菩薩虚空の中に満つるを見、水鳥・樹林および諸仏所出の音声みな妙法を演ぶ、十二部経と合せしめ、出定の時憶持して失せざれ。この事を見已るを「無量寿仏の極楽世界を見る」と名づく。これを「普観想」となし「第十二観」と名づく。無量寿仏の化身無数にして観世音・大勢至と、とも常にこの行人の所に来至したもう。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく。「もし至心に西方に生れんと欲せん者は先づ当に一の丈六の像、池水の上に在るを観ずべし。先の所説のごとき、無量寿仏身量無辺なり、これ凡夫心力の所及にあらず、然るに彼の如来宿願力のゆえに、憶想することある者は必ず成就することを得しむ。
但仏像を想するに無量の福を得、何にいわんや仏の具足の身相を観ぜんをや。阿弥陀仏は神通如意にして十方国において変現自在なり、あるいは大身を現じて虚空の中に満ちあるいは小身を現じて丈六八尺なり。
所現の形みな真金色なり、円光・化仏および宝蓮華上の所説のごとし。
観世音菩薩および大勢至、一切処において身同じ。衆生但首相を観じてこれ観世音と知りこれ大勢至と知る。この二菩薩、阿弥陀仏を助けて普く一切を化す。これを「雑想観」となし「第十三観」と名づく。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「上品上生」とは、もし衆生ありて彼の国に生ぜんと願ぜん者は三種の心を発してすなわち往生す。
何等をか三とする。
一には至誠心・二には深心・三には回向発願心なり。
三心を具する者は必ず彼の国に生ず。
また三種の衆生あり当に往生を得べし。何等をか三とする。
一には慈心にして殺さずもろもろの戒行を具う。
二には大乗方等経典を読誦す。
三には六念を修行し回向発願して彼の国に生れんと願ず。この功徳を具すること、一日乃至七日にすなわち往生を得、彼の国に生ずる時、この人精進勇猛なるがゆえに阿弥陀如来、観世音・大勢至・無数の化仏・百千の比丘・声聞大衆・無数の諸天・七宝宮殿とともにし、観世音菩薩金剛台を執り、大勢至菩薩と行者の前に至る。
阿弥陀仏大光明を放ち行者の身を照らし、もろもろの菩薩と授手迎接したもう。
観世音・大勢至、無数の菩薩と行者を讃歎しその心を勧進す。行者見已りて歓喜踊躍し自らその身を見れば金剛台に乗ぜり。
仏後に随従して弾指の頃のごとくに彼の国に往生す、彼の国に生じ已りて仏の色身衆相具足せるを見、もろもろの菩薩の色相具足せるを見る。
光明の宝林妙法を演説す。
聞き已りてすなわち無生法忍を悟り、須臾の間を経て諸仏に歴事し十方界に遍し、諸仏の前において次第に授記せられ、本国に還到して無量百千の陀羅尼門を得。これを「上品上生の者」と名づく。
「「上品中生」とは、必ずしも方等経典を受持読誦せざれども、善く義趣を解り第一義において心驚動せず、深く因果を信じ、大乗を謗せず。
この功徳をもって回向して極楽国に生まれんと願求す。
この行を行ずる者命終らんと欲る時、阿弥陀仏、観世音・大勢至・無量の大衆眷属のために囲繞せられ、紫金台を持し行者の前に至り、讃じて言わく「法子、汝大乗を行じ第一義を解す、このゆえに我いま来りて汝を迎接す」と。
千の化仏と一時に授手す、行者自ら見れば紫金台に坐せり。合掌叉手して諸仏を讃歎す、一念の間のごとくにすなわち彼の国の七宝池中に生ず。
この紫金台大宝華のごとし、宿を経てすなわち開く。
行者の身紫磨金色と作り足下にまた七宝の蓮華あり、仏および菩薩倶時に光明を放ち行者の身を照らすに目すなわち開明なり。
前の宿習に因って、普く衆声を聞くにもっぱら甚深の第一義諦を説く、すなわち金台より下り礼仏合掌し世尊を讃歎す、七日を経て時に応じてすなわち阿耨多羅三藐三菩提において不退転を得。
時に応じてすなわち能く飛行し遍く十方に至り諸仏に歴事す、諸仏の所においてもろもろの三昧を修す、一小劫を経て無生忍を得、現前に授記せらる。
これを「上品中生の者」と名づく。」
「「上品下生」とは、また因果を信じ大乗を謗せず但無上道心を発す。
この功徳をもって回向して極楽国に生ぜんと願求す。
行者命終わらんと欲する時、阿弥陀仏および観世音・大勢至もろもろの眷属と金蓮華を持し五百の化仏を化作しこの人を来迎す。五百の化仏、一時に授手し讃じて言わく、「法子、汝いま清浄にして無上道心を発せり我来りて汝を迎う」と。
}
この事を見る時、すなわち自ら身を見れば金蓮華に坐せり、坐し已りて華合し、世尊の後に随いてすなわち七宝池中に往生することを得。一日一夜にして蓮華すなわち開け、七日の中にすなわち仏を見たてまつることを得。
仏身を見るといえども、衆の相好において心明了ならず、三七日の後においてすなわち了々に見る。
衆の音声を聞くにみな妙法を演ぶ。十方に遊歴して諸仏を供養し、諸仏の前において甚深の法を聞き、三小劫を経て百法明門を得、歓喜地に住す。これを「上品下生の者」と名づく。これを「上輩生想」と名づけ「第十四観」と名づく。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「中品上生」とは、もし衆生ありて五戒を受持し八戒斎を持ち諸戒を修行し五逆を造らず衆の過患なからん。
この善根をもって回向して西方極楽世界に生ぜんと願求す。
命終の時に臨んで阿弥陀仏もろもろの比丘眷属のために囲繞せられ、金色の光を放ちその人の所に至り、苦・空・無常・無我を演説し、出家して衆苦を離るるを得ることを讃歎したもう。
行者見已りて心大きに歓喜す、自ら己身を見れば蓮華台に坐せり。
長跪合掌し仏の為に礼を作す、未だ頭を挙げざる頃にすなわち極楽世界に往生することを得、蓮華すなわち開く。
華の敷く時に当たりて衆の音声を聞くに四諦を讃歎す、時に応じてすなわち阿羅漢道を得、三明六通ありて八解脱を具す。これを「中品上生の者」と名づく。」
「「中品中生」とは、もし衆生ありて、もしは一日一夜八戒斎を受持し、もしは一日一夜沙弥戒を持ち、もしは一日一夜具足戒を持ち、威儀欠くることなし。この功徳をもって回向して極楽国に生ぜんと願求す。戒香薫修せるかくのごときの行者命終わらんと欲る時阿弥陀仏もろもろの眷属と金色の光を放ち七宝の蓮華を持し行者の前に至りたまうを見る。行者自ら聞くに空中に声あり、讃じて言わく、「善男子、汝がごときは善人なり、三世諸仏の教に随順するがゆえに、我来りて汝を迎う」と。
行者自ら見れば蓮華の上に坐せり。蓮華すなわち合し西方極楽世界に生じて宝池の中にあり、七日を経て蓮華すなわち敷く、華すでに敷け已りて目を開き合掌して世尊を讃歎したてまつる。聞法歓喜して須陀オンを得、半劫を経已りて阿羅漢を成ず。これを「中品中生の者」と名づく。」
「「中品下生」とは、もし善男子・善女人ありて父母に孝養し世の仁慈を行ぜん。この人命終わらんと欲る時、善知識のそがために広く阿弥陀仏国土の楽事を説き、また法蔵比丘の四十八願を説くに遇わん。この事を聞き已りてすなわち命終す。
たとえば壮士の臂を屈伸する頃のごとくにすなわち西方極楽世界に生ず。生じて七日を経て観世音および大勢至に遇い聞法歓喜す。一小劫を経て阿羅漢を成ず、これを「中品下生の者」と名づく。これを「中輩生想」と名づけ「第十五の観」と名づく。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「下品上生」とは、あるいは衆生ありて衆の悪業を作らん、方等経典を誹謗せずといえども、かくのごときの愚人多く衆悪を造り慚愧あることなけん。命終わらんと欲る時、善知識のために大乗十二部経の首題の名字を讃ずるに遇わん。
かくのごときの諸経の名を聞くをもってのゆえに千劫の極重悪業を除却す。智者また教えて合掌叉手し南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに五十億劫の生死の罪を除く。その時彼の仏、すなわち化仏・化観世音・化大勢至を遣わし行者の前に至り、讃じて言わく、「善男子汝仏名を称するがゆえに、もろもろの罪消滅す、我来りて汝を迎う」と。この語を作し已りて行者すなわち化仏の光明のその室に遍満せるを見る。見已りて歓喜しすなわち命終す、宝蓮華に乗じ、化仏の後に随いて宝池の中に生ず。
七々日を経て蓮華すなわち敷く、華敷くる時に当たって大悲観世音菩薩および大勢至大光明を放ちてその人の前に住し、ために甚深の十二部経を説く。聞き已りて信解して無上道心を発す。十小劫を経て百法明門を具し初地に入ることを得、これを「下品上生の者」と名づく。仏名・法名を聞きおよび僧名を聞くことを得、三宝の名を聞きてすなわち往生を得。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「「下品中生」とは、あるいは衆生ありて五戒・八戒および具足戒を毀犯せん。かくのごときの愚人、僧祇の物を偸み、現前の僧物を盗み、不浄説法して慚愧あることなく、もろもろの悪業をもって自ら荘厳せん。
かくのごときの罪人、悪業をもってのゆえにまさに地獄に堕すべし、命終わらんと欲する時、地獄の衆火一時に倶に至らん。善知識の大慈悲をもってために阿弥陀仏の十力威徳を説き、広く彼の仏の光明神力を説き、また戒・定・慧・解脱・解脱知見を讃ずるに遇わん。この人聞き已りて八十億劫の生死の罪を除く。地獄の猛火、化して清涼の風と為り、もろもろの天華を吹く。華上にみな化仏菩薩ありてこの人を迎接す。一念の頃のごとくに、すなわち七宝池中の蓮華の内に往生することを得、六劫を経て蓮華すなわち敷く。華敷く時に当りて観世音・大勢至梵音声をもって彼の人を安慰し、ために大乗甚深の経典を説かん。この法を聞き已りて時に応じてすなわち無上道心を発さん。これを「下品中生の者」と名づく。」
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、「下品下生」とは、あるいは衆生ありて不善業を作り、五逆・十悪、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕し、多劫を経歴して受苦無窮なるべし。かくのごときの愚人、命終の時に臨み、善知識の種々安慰してために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人苦に逼められて念仏するに遑あらず、善友告げて言わく、「汝もし念ずること能わずば応に無量寿仏を称すべし」と。
かくのごとく至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せん。仏名を称するがゆえに念々の中において八十億劫の生死の罪を除き、命終の時、金蓮華の猶し日輪のごとくしてその人の前に住するを見ん。一念の頃のごとくにすなわち極楽世界に往生することを得。蓮華の中において十二大劫を満ち蓮華方に開く。観世音・大勢至大悲の音声をもってそれがために広く諸法実相・除滅罪の法を説かん、聞き已りて歓喜し、時に応じてすなわち菩提の心を発さん。これを「下品下生の者」と名づく。これを「下輩生想」と名づけ「第十六観」と名づく。」
『得益分』
この語を説きたもうの時、韋提希五百の侍女と仏の所説を聞き、時に応じてすなわち極楽世界広長の相を見たてまつる。仏身および二菩薩を見ることを得て心歓喜を生じ未曾有と歎じ廓然として大悟し無生忍を得たり。五百の侍女、阿耨多羅三藐三菩提心を発して「彼の国に生ぜん」と願ず。世尊ことごとく記したまわく、「みな当に往生すべし、彼の国に生じ已りて諸仏現前三昧を得ん」と。無量の諸天、無上道心を発せり。
『流通分』
その時、阿難、すなわち座より起ち前んで仏に白して言さく、「世尊、当にいかんがこの経を名づくべき、この法の要当にいかんが受持すべき。」
仏、阿難に告げたまわく、「この経をば『観極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩』と名づけ、また『浄除業障生諸仏前』と名づく。
汝当に受持し忘失せしむることなかるべし、この三昧を行ずる者は、現身に無量寿仏および二大士を見ることを得。
もし善男子・善女人、但仏名・二菩薩名を聞くすら無量劫生死の罪を除かん、いかにいわんや憶念せんをや。
もし念仏する者は当に知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友と為りたもう、当に道場に坐し諸仏の家に生ずべし」仏、阿難に告げたまわく、「汝好くこの語を持て、この語を持てとはすなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。」
仏、この語を説きたまう時、尊者目ケン連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。
『耆闍分』
その時世尊足虚空を歩し、耆闍崛山に還りたもう。その時阿難、広く大衆のために如上の事を説くに、無量の諸天および龍・夜叉、仏の所説を聞きてみな大に歓喜し、仏を礼して退きぬ。
仏説観無量寿経
訳
宋元嘉中こう良耶舎訳す
[序文] 次のように、わたしは聞かせていただいた。あるとき、釈尊は王舎城の耆闍崛山においでになって、千二百五十人のすぐれた弟子たちとご一緒であった。また、文殊菩薩を中心とする三万二千の菩薩たちも加わっていた。
[1.禁父縁] そのとき王舎城に阿闍世という王子がいて、提婆達多という悪友にそそのかされて父の頻婆娑羅王を捕え、七重にかこまれた牢獄に閉じこめ、家来たちに命じてひとりもそこに近づくことを許さなかった。王妃韋提希は深く王の身の上を気づかい、自分の体を洗いきよめて、小麦粉に酥蜜をまぜたものを塗り、胸飾りの一つ一つにぶどうの汁をつめて、ひそかに王のもとに行き、それを差しあげた。頻婆娑羅王はこれを食べ、水で口をすすいでから、合掌してうやうやしく耆闍崛山の方に向かい、遠く山上の釈尊に礼拝して、次のように申しあげた。 「 世尊のお弟子の目連尊者はわたしの親しい友でございます。どうかお慈悲をもって尊者をお遣わしになり、わたしに八斎戒をお授けください 」
そこで目連は、神通力によってまるで鷹や隼が飛ぶようにすみやかに頻婆娑羅王のもとへ行った。そして毎日このようにして王に八斎戒を授けた。釈尊はまた、富楼那をお遣わしになり、王のために教えを説かせられた。こうして三週間が過ぎたが、頻婆娑羅王はその間、韋提希の運ぶものを食べ、尊い教えを聞くことができたので、表情もおだやかで喜びに満ちていた。
[2.禁母縁] ちょうどそのころ、阿闍世王が牢獄の門番に向かって尋ねた。
「 父はまだ生きているか 」
門番は答えて申しあげた。 「 王さま、母君が小麦粉に酥蜜をまぜてお体に塗り、胸飾りにぶどうの汁をつめて、父君に差しあげておられます。また、仏弟子の目連尊者や富楼那尊者が神通力により空から飛んできて、父君に教えを説いておられます。わたしどもにはとても制止することができません 」 阿闍世王はこれを聞いて、母の韋提希を怒って言った。 「 母は罪人だ、罪人である父の味方をするのだから。仏弟子どもも悪人だ。あやしげな術を使って悪王である父をたすけ、何日も生かしておくとはもってのほかだ 」
そして剣をとって、母の韋提希を殺害しようとした。そのとき聡明で思慮深い月光という大臣が、同僚の耆婆とともに阿闍世王に一礼して申しあげた。
「 王さま、わたしどもの聞くところでは、毘陀論経の中には、この世 が始まって以来多くの悪王がいて、王位を望んで父を殺害したものが一万八千人にも及ぶと説かれているそうです。しかし母を殺害するという非道な行いをしたものなど、今まで一度も聞いたことがありません。それにもかかわらず、今王さまが母君を殺害なさるなら、それは王族の家柄を汚すものです。わたしどもはとうてい聞くに忍びません。このようなことは旃陀羅のすることです。もはやここにいるわけにはまいりません 」
こういってふたりの大臣は、剣のつかに手をかけてじりじりと後ずさりした。そこで阿闍世王は驚き、恐れをなして耆婆にいった。 「 お前はわたしの味方になってくれないのか」
耆婆が申しあげた。 「 王さま、どうか母君を殺害するようなことだけはおやめください 」
阿闍世王は、この耆婆の言葉を聞いて自分の行いを悔い、ふたりの大臣に許しを求め、ただちに剣を捨てて、母を殺害することを思いとどまった。そして宮中の役人に命じて、母を王宮の奥深くに閉じこめ、一歩も外へ出ることができないようにした。
[3.厭苦縁] こうして閉じこめられた韋提希は、悲しみと憂いにやつれはて、遠く耆闍崛山の方に向かい、釈尊に礼拝して申しあげた。 「 世尊、あなたは以前から、いつも阿難尊者を遣わしてわたしをいたわってくださいましたが、わたしは今深く憂いに沈んでおります。世尊をここにお迎えするなどということは、あまりにも恐れ多いことでありますから、どうか目連尊者と阿難尊者をお遣わしになって、わたしに会わせてください 」 韋提希はこういいおわると、悲しみに涙を流し、遠く釈尊に向かって礼拝した。するとまだその頭をあげないうちに、釈尊は耆闍崛山にあって韋提希の思いをお知りになり、ただちに目連と阿難のふたりに命じて王宮に飛んでいかせ、またご自身も耆闍崛山からその姿を消して王宮にお出ましになったのである。韋提希が礼拝を終えて頭をあげると、そこに釈尊のお姿があった。そのお体は金色にまばゆく輝き、さまざまな宝でできた蓮の花の上にお座りになっており、左に目連、右に阿難がつきそっている。そして、帝釈天や梵天や四天王などが、空から一面に天の花を降らして釈尊を供養している。韋提希はこのお姿を仰ぎ見て、すすんで胸飾りをかなぐり捨て、その足もとに身を投げ出して声をあげて泣きくずれ、釈尊に向かって申しあげた。 「 世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらっしゃるのでしょうか。
[4.欣浄縁] どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」
そこで釈尊は眉間の白毫から光を放たれた。その金色に輝く光は、ひろく数限りない世界を照らし、もとへもどって釈尊の頭の上にとどまり、それがまた金色に輝く台の形となる。それはちょうど須弥山のようであった。そして、その中にすべての仏がたの清らかな国土が現れた。すなわち、七つの宝でできた国、また蓮の花ばかりが満ちあふれた国、また他化自在天の宮殿のような国、また水晶でできた鏡のように澄みきった国、それらさまざまな国々がすべて現れたのである。釈尊は、このような数限りない仏がたの世界がうるわしいすがたをそなえているのを、韋提希にお見せになったのである。
そこで韋提希は釈尊に申しあげた。
「 世尊、このさまざまな仏の世界はみな清らかで光り輝いておりますが、わたしは今、中でも極楽世界の阿弥陀仏のもとに生れたいと思います。どうか世尊、わたしにその極楽世界のすがたを想い描く方法をお教えください。そして、そのすがたとわたしの心が一つになり、観が成就する方法を教えてください」
[5.散善顕行縁] すると釈尊はにこやかにほほえまれ、五色の光がその口から輝き出て、その一つ一つが頻婆娑羅王の頭を照らした。そのとき頻婆娑羅王は、王宮の奥深く閉じこめられていたけれども、少ししもさまたげられることなく心の目で遠く釈尊を仰ぎ見て、頭を地につけて礼拝した。すると心がおのずから開かれて、二度とこの迷いの世界に帰ることのない位に至ることができたのである。
そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
「 そなたは知っているだろうか。阿弥陀仏はこの世界からそれほど遠くないところにおいでになるのである。だからそなたは思いを極楽世界にかけ、清らかな行を完成して仏になられた阿弥陀仏をはっきりと想い描くがよい。わたしは今、そなたのために極楽世界のすがたを想い描くためのいろいろな方法を説き、また清らかな行を修めたいと願う未来のすべての人々を西方の極楽世界に生れさせよう。その世界に生れたいと願うものは、次の三種の善い行いを修めるがよい。
一つには、親孝行をし、師や年長の者に仕え、やさしい心を持ってむやみに生きものを殺さず、十善を修めること。
二つには、仏・法・僧の三宝に帰依し、いろいろな戒めを守り、行いを正しくすること。
三つには、さとりを求める心を起し、深く因果の道理を信じ、大乗の経典を口にとなえて、他の人々にそれを教え勧めること。
このような三種を清らかな行いというのである」
釈尊は続けて仰せになる。
「 韋提希よ、そなたは知っているだろうか。この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、さとりを得る正しい因なのである 」
[6.定善示観縁] 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 そなたたちはわたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめぐらすがよい。わたしは今、煩悩に苦しめられる未来のすべての人々のために、清らかな行いを説き示そう。
韋提希よ、よくこのことを尋ねた。
阿難よ、そなたはこれからわたしが説く教えを忘れずに心にとどめ、多くの人々に説きひろめるがよい。わたしは今、韋提希と未来のすべての人々が西方の極楽世界を想い描くことのできるようにしよう。仏の力によって、ちょうどくもりのない鏡に自分の顔かたちを映し出すように、その清らかな国土を見ることができるのである。そしてその国土のきわめてすぐれたすがたを見て、心は喜びに満ちあふれ、そこでただちに無生法忍を得るであろう」
さらに釈尊は韋提希に仰せになった。
「 そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである 」
そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。
「 世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか 」
(定善) [1.日想観] そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
「 そなたや未来の人々は、ただひたすら西方に思いをかけて、その世界を想い描くがよい。では、どのようにして西方を思い描くのだろうか。それにはまず、生れながら目が見えないのでない限り、目が見えるものはみな日没の光景を見るがよい。その観を始めるにあたってはまず姿勢を正して西に向かって座り、はっきりと夕日を思い描くがよい。そして心を乱さず、思いを一点に集中して他のことに気をとられずにいられたなら、次に、夕日がまさに沈もうとして、西の空に太鼓が浮んでいるようになっているのを見るがよい。それを見おわった後、目を閉じても開いても、その夕日のすがたがはっきりと見えるようにするのである。このように想い描くのを日想といい、第一の観と名づける。
[2.水想観] 次に水を想い描くがよい。
水の清く澄みきったようすをはっきりと心に想い描き、心を乱さないようにするのである。水を想い描きおわったなら、次にその水が氷となったようすを想うがよい。そして氷の透きとおったようすを想い描き、それが瑠璃であるという想いを起すがよい。この想いを成しおえたなら、極楽世界の瑠璃の大地が内にも外にも透きとおり映りあうようすを見るであろう。その下には清らかな七つの宝で飾られた金の柱があって、瑠璃の大地をささえている。それは八角形の柱であり、その八つの面はそれぞれ百もの宝玉で飾られている。それぞれの宝玉は千の光にきらめき、それぞれの光にはまた八万四千の色があって、それが瑠璃の大地に映え輝いているありさまはまるで千億もの太陽を集めたようであり、とてもまばゆくて見ることはできない。またその極楽世界の瑠璃の大地には、黄金の道が縦横に通じていて、しかもそれぞれの区域が七つの宝で整然と仕切られている。その一つ一つの宝には五百の色の光があり、その光は花のようであり、また星や月のように輝き、大空にのぼって光明の台となる。その台の上には百の宝でできた千万の楼閣がそびえている。また台の両側には、それぞれ百億の花で飾られた幡と数限りないさまざまな楽器があり、その台を飾っている。そしてその光の中から清らかな風がおこり、いたるところから吹き寄せてこれらの楽器を鳴らすと、苦・空・無常・無我の教えが響きわたるのである。このように想いを描くのを水想といい、第二の観と名づける。
[3.地想観] さてこの観が成就したなら、さらにそのようすを一つ一つ想い描き、それがきわめてはっきりと見えるようにして、目を閉じても開いても目の前から消え失せないようにしなければならない。そしてただ眠っているときを除いて、常にこのことを想い続けるがよい。
このように想い描くことができれば、ほぼ極楽世界の大地を見たということができる。さらにすすんで三昧の境地に入ったなら、その国の大地を一層はっきりと見ることができるのであるが、そのありさまを一々詳しく説くことはできない。このように想い描くのを地想といい、第三の観と名づける。
ここで釈尊が阿難に仰せになった。
「 阿難よ、そなたはこの教えを心にとどめて、苦しみを逃れたいと思う未来のすべての人々のために、極楽世界の大地を想い描く方法を説き聞かせるがよい。もしこの大地を観ずるなら、八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が消えて、命を終えた後には必ずその清らかな国に生れるのである。このことは決して疑ってはならない。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである 」
[4.宝樹観] 釈尊が阿難と韋提希に仰せになった。 「 地想観が成就したなら、次には極楽世界の宝の樹を想い描くがよい。宝の樹を想い描くには、まず一つ一つの樹を思い描き、それらが七重の並木になったようすを想うがよい。それぞれの樹の高さは八千由旬であり、これらの宝の樹は等しくみな七つの宝ででき花や葉をつけていて、その花や葉の一つ一つがまた異なった宝の色を持っている。瑠璃色の中からは金色の光を出し、玻璃色の中からは紅色の光を出し、瑪瑙色の中からは蝦蛄の光を出し、蝦蛄色の中からは緑真珠の光を出し、その他、珊瑚、琥珀などすべての宝の光でさまざまに輝いている。また樹々の上には美しい真珠でできた網が一面におおっていて、それぞれの樹に七重に重なっている。その網と網の間には五百億の美しい花で飾られた宮殿があって、それはまるで梵天の宮殿のようである。その宮殿の中には多くの天の童子がいて、それぞれ五百億の宝玉でできた胸飾りを身につけている。それらの宝玉の光は遠く百由旬を照らし、まるで百億の太陽や月を一つにあわせたようで、そのみごとさは言葉に表しようがない。さまざまな宝の輝きが互いに入りまじり、その色どりは実に美しい。また、これらの宝の樹々は整然と向かいあって列をなし、葉の並びもよくととのっていて少しも乱れることがない。それぞれの葉と葉の間にはさまざまな美しい花が咲きそろい、花の上には七つの宝でできた実をつけている。この葉の一つ一つは長さも広さも等しく二十五由旬であり、その葉には千の色と百種の模様があって、まるで天の宝玉の飾りのようである。たくさんの美しい花は金色に輝き、まるで火の輪のようにきらめきながら、葉と葉の間でまわっている。
ちょうど帝釈天の宝の瓶のように、その花からは次から次へと多くの実がわき出ている。そしてその実が放つ大いなる光明は、幡と数限りない宝に飾られた天蓋となる。その中には、世界中でなされる仏のすぐれたはたらきのすべてが映し出され、さらにさまざまな仏がたの国々も、みな映し出されている。
このように極楽世界の宝の樹を想い描きおわったなら、またそのすがたを一つ一つ順々に想うがよい。そしてそれらの幹や枝や葉や花や実などを、すべてはっきりと想い描くのである。このように想い描くのを樹想といい、第四の観と名づける。
[5.宝池観] 次に極楽世界の池の水を想い描くがよい。
極楽世界には八つの池がある。そのそれぞれの池の水は、七つの宝の輝きを映して美しくきらめき、実になめらかであって、それはもっともすぐれた宝玉からわき出ているのである。そして分れて十四の支流となり、それぞれがみな七つの宝の色をたたえている。その水路は黄金でできていて、底には汚れのない色とりどりの砂が敷かれている。一つ一つの流れには七つの宝でできた六十億もの蓮の花があり、その花の形はまるくふっくらとして大きさはみな十二由旬である。宝玉からわき出たその水は、花の間をゆるやかに流れ、また樹々をうるおしている。その流れからおこるすばらしい響きは、苦・空・無常・無我や六波羅蜜などの教えを説き述べ、あるいは仏がたのすがたをほめたたえる声となる。また、宝玉からは金色のすばらしい光が輝き出ている。その光は百もの宝の色を持つ鳥となり、そのやさしく美しい鳴き声は常に仏を念じ、法を念じ、僧を念じることをほめたてている。このように想い描くのを八功徳水想といい、第五の観と名づける。
[6.宝楼観] また、そのようにいろいろな宝で飾られた国土の各地には、五百億のみごとな宝の楼閣がある。その楼閣の中には数限りない天人がいて、すばらしい音楽を奏でている。また空には楽器が浮んでおり、兜率天にいる宝幢神の楽器のように、奏でるのもがなくてもおのずから鳴り、その響きはみな等しく仏を念じ、法を念じ、僧を念じることを説くのである。
このように想い描きおわったなら、ほぼ極楽世界の宝の樹と宝の大地と宝の池を見たということができる。これを総観想といい、第六の観と名づける。
もしこのように観ずるなら、はかり知れない長い間のきわめて重い罪が消えて、命を終えた後には必ずその国に生れるのである。このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである 」
[7.華座観] 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。 「 そなたたちは、わたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめぐらすがよい。わたしは今そなたたちのために、苦悩を除く教えを説き示そう。そなたたちはしっかりと心にとどめ、多くの人々のために説きひろめるがよい 」
釈尊のこのお言葉とともに、無量寿仏が突然空中に姿を現してお立ちになり、その左右には観世音、大勢至の二菩薩がつきそっておられた。その光明はまばゆく輝いて、はっきりと見ることができない。黄金の輝きをどれほど集めても、そのまばゆさにくらべようもなかった。ここに韋提希は、まのあたりに無量寿仏を見たてまつることができのたで、釈尊の足をおしいただき、うやうやしく礼拝して申しあげた。
「 世尊、わたしは今世尊のお力によって、無量寿仏と観世音・大勢至の二菩薩を拝ませていただくことができましたが、世尊が世を去られた後の世の人々は、どうすれば無量寿仏とその菩薩がたを見たてまつることができるでしょうか 」
そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
「 韋提希よ、その仏を見たてまつりたいと思うなら、次のように想い 描くがよい。
まず七つの宝でできた大地の上に蓮の花があると想い、その蓮の花びらの一つ一つが百の宝の色を持っていると想い描くのである。その花びらには八万四千のすじがあって、まるで天の美しい絵のようである。またそのすじは、それぞれ八万四千の光に輝いている。それらが一つ一つはっきりと見えるようにするがよい。花びらは小さいものでも大きさが二百五十由旬はある。この蓮の花には、このような花びらが八万四千もあるのである。その花びらと花びらの間はそれぞれ百億の宝玉で飾られていて、それぞれの宝玉は千の光明を放っている。その光明はまるで七つの宝でできた天蓋のようにひろく地上をおおっている。蓮の花の芯は釈迦毘楞伽宝でできた台座となっており、さらにそれが八万の金剛宝・甄叔迦宝・梵摩尼宝や美しい真珠の網でいろいろに飾られている。そしてその台座の上には四本の宝柱があり、それぞれの宝柱は百千万億の須弥山を重ねたように高く、宝柱の上の幔幕はちょうど夜摩天の宮殿のようであり、五百億もの美しい宝玉で飾れている。それぞれの宝玉には八万四千の光があり、その光はそれぞれ八万四千の異なった金色に輝き、さらにそれらの金色の輝きがひろく宝の大地に満ちわたり、いたるところでさまざまなすがたとなる、すなわち金剛の台ともなり、真珠の網ともなり、あるいは色とりどりの花の雲ともなるというように、いたるところで見るものの思うままのすがたをとり、仏のすぐれたはたらきをあらわしている。このように想い描くのを華座想といい、第七の観と名づける 」
さらに釈尊が阿難に仰せになった。
「 阿難よ、このようなすばらしい花は、もともと法蔵菩薩の本願の力によってできあがったものである。もしその仏を想い描こうとするなら、まずこの蓮の台座を想い描く観を行うがよい。ただしこの観を行うときには、決して雑然と想い描いてはならない。その花びら、宝玉、光、台座、宝柱をそれぞれ一つ一つ正しく想い描いて、ちょうど鏡に自分の顔かたちを映し見るように、それらをみなはっきりと想うがよい。この観が成就したなら、五万劫という長い間の迷いのもとである罪が消えて、必ず極楽世界に生れることができる。 このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである 」
[8.像観] 釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。
「 この観が終わったなら、次に仏を想い描くがよい。 なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入り満ちてくださっているからである。このため、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏となるということになり、そして、この心がそのまま仏なのである。まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心にしたがって現れてくださるのである。だからそなたたちはひたすら阿弥陀仏に思いをかけて、はっきりと想い描くがよい。
阿弥陀仏を思い描くには、まずその像を思い描くのである。目を閉じていても開いていても、金色に輝く一体の仏像が、その蓮の花に座っておいでになるようすを常に想い浮べるがよい。
こうして仏像が蓮の花に座っておられるのを思い描きおわったなら、心の目が開いて、明らかにはっきりと七つの宝で飾られた極楽世界の大地や池や立ち並ぶ樹々を見、その上を美しい宝の幔幕がひろくおおい、またいろいろな宝で飾られた網が大空一面にかかっているのを見るであろう。これらのようすが、まるで自分の手の中にあるもののように、きわめてはっきりと見えるようにするのである。
この観が終わったなら、さきほどの蓮の花をまったく同じ大きな蓮の花が一つ、仏の左側にあると想うがよい。また大きな蓮の花がもう一つ、仏の右側にあると想うがよい。そしてその左側の蓮の花に観世音菩薩の像が座って、仏と同じように金色の光を放っているのを想い描き、また、右側の蓮の花に大勢至菩薩の像が座っているのを想い描くがよい。
この観が成就したとき、阿弥陀仏の像と観世音・大勢至の二菩薩の像がみな金色の光明を放って、宝の樹々を照らすのを見るであろう。それぞれの宝の樹の下にはまた三つの蓮の花があって、それらの蓮の花に一仏と二菩薩の像が座っておいでになり、そのような一仏二菩薩の像がその国に満ちわたっているのを見るのである。
以上の観が成就したなら、行者は、極楽の水の流れや光明、またさまざまな宝の樹や鴨や雁や鴛鴦などが、みなすぐれた教えを説くのを聞くであろう。その観に入るときから観を終わるまで、常にすぐれた教えを聞くのである。そこで行者はその聞いたことを、観が終わってからも心にとどめて忘れないようにするがよい。そして、それらを経典に説いてあることと照らしあわせてみて、もしそれと相違するならそれは妄想であり、もし合致するならそれはほぼ極楽世界を見たということができる。このように想い描くのを像想といい、第八の観と名づける。
この観が成就したなら、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が消えて、この身のままで念仏三昧に入ることができるのである 」
[9.真身観] さらに釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 この観が成就したなら、次に無量寿仏の真のおすがたと光明を想い描くがよい。阿難よ、よく知るがよい。無量寿仏のお体は百千万億の夜摩天の黄金のようにまばゆく輝き、その高さは六十万億那由他恒河沙由旬である。また眉間の白毫は右にゆるやかにめぐり、その大きさはちょうど須弥山を五つあわせたほどであって、その目は四大海水のようにひろびろとしており、清らかに澄みきっている。またお体の毛穴から放たれる光明はまるで須弥山のように大きく、その頭の後ろにある円光の広さは百億の三千大千世界をあわせたほどである。その円光の中には百万億那由他恒河沙の化身の仏がおいでになり、それぞれの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつきそっている。 また、無量寿仏のお体には八万四千のすぐれたところがあり、そのそれぞれにはまた八万四千のこまかな特徴がそなわっている。さらにそのそれぞれにまた八万四千の光明があり、その一つ一つの光明はひろくすべての世界を照らして、仏を念じる人々を残らずその中に摂め取り、お捨てになることがないのである。その光明やお体の特徴、そして化身の仏について詳しく説くことはとてもできない。ただ思いをこらし、心の目を開いて明らかに見るがよい。
このように想い描くものは、さまざまな世界の仏がたをすべて見たてまつることになる。すべての仏がたを見たてまつるのであるから、この観を念仏三昧と名づける。また、この観を行えばすべての仏のおすがたを想い描くことになり、仏のおすがたを想い描くのであるから、仏の心を見たてまつることになる。その仏の心は大いなる慈悲の心であり、このわけへだてのない慈悲をもって、仏はすべての人々を摂め取られるのである。
この観が成就すれば、来世には仏がたの前に生れ、無生法忍を得ることができる。だから智慧のすぐれたものは心を一つにして、はっきりと無量寿仏を想い描くがよい。そして無量寿仏を想い描こうとするものは、その仏の特徴の一つを想い描くことから始めるがよい。それにはまず、眉間の白毫をきわめてはっきりと想い描くことである。眉間の白毫を想い描くなら、八万四千のすぐれた特徴を持つおすがたがおのずから現れてくる。
こうして無量寿仏を見たてまつるなら、それはすなわちさまざまな世界の数限りない仏がたを見たてまつることになる。さまざまな仏がたを見たてまつることによって、仏がたは目の前でさとりを得ることを約束してくださるであろう。このように想い描くのをひろくすべての仏のおすがたを想い描く想といい、第九の観と名づける。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである 」
[10.観音観] 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 さて、無量寿仏をはっきりと想い描きおわったなら、次に観世音菩薩を想い描くがよい。 この菩薩は、高さ八十万億那由他由旬であり、そのお体は金色に輝いて、頭には肉髻があり、その後ろには縦横がともに百千由旬の円光がある。その円光の中にはわたしと同じようなすがたの五百の化身の仏がおいでになる。その化身の仏にはそれぞれ五百の化身の菩薩と数限りない天人がつきそっている。
また全身から放たれる光明は、迷いの世界にいる人々すべてを照らし、そのすがたがそこに現れている。頭には宝玉でできた立派な冠をつけていて、その中には高さ二十五由旬の化身の仏が立っておいでになる。
この菩薩の顔は金色に光り輝き、眉間の白毫は七つの宝の色をそなえ、その白毫から八万四千の光明が放たれている。その光明の一つ一つには数限りない多くの化身の仏がおいでになり、そのそれぞれの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつきそい、それらの化身の仏と菩薩が、自由自在にさまざまなすがたをとって、すべての世界に満ちておいでになる。そのようすはたとえていえば紅の蓮の花の色のようである。 またこの菩薩は八十億の光明でできた胸飾りをつけていて、その中に極楽世界のうるわしいようすをすべてみな映し出している。また手のひらには五百億ものさまざまな蓮の花の色があり、十本の指先のそれぞれには印を押したような八万四千の絵模様がある。そのそれぞれの絵模様には八万四千の色がそなわり、それぞれの色はまた八万四千の光を放っている。その光明はやわらかで、ひろくすべての人々を照らしている。菩薩はこのすばらしい手をさしのべて人人をお導きになるのである。
またこの菩薩が足をおあげになるときには、足の裏にある千輻輪の相がおのずから五百億の光明でできた台座となり、足をおろされるときには、宝玉でできた花があたり一面に散り、行きわたらないところがない。
その他、さまざまな特徴をその身にすべてそなえておられるのは仏と同じであり、ほとんど異なることがない。ただ、頭の肉髻と無見頂の相とが仏に及ばないだけである。このように想い描くのを観世音菩薩の真のおすがたを想い描く想といい、第十の観と名づける 」
また釈尊は阿難に仰せになった。
「 もし観世音菩薩を想い描こうとするなら、この観を行うがよい。この観を行うなら、さまざまなわざわいにあわず、これまでの悪い行いもさまたげとはならず、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる。この菩薩は、ただその名を聞くだけでもはかり知れない功徳が得られるのである。ましてそのおすがたをはっきりと想い描くなら、それ以上の功徳が得られることはいうまでもない。
そこでこの菩薩を想い描こうとするなら、まずその頭の肉髻を想い描き、次に宝冠を想い描くがよい。こうして順々に他のいろいろな特徴へと及んでいって、それらのようすもまた、まるで自分の手の中にあるもののように、きわめてはっきりと見えるようにするのである。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。
[11.勢至観] 次にまた大勢至菩薩を想い描くがよい。
この菩薩のお体の大きさは、前の観世音菩薩と同じである。しかしその円光は縦横がともに百二十五由旬で、二百五十由旬を照らしている。そして全身から放たれる光明は、ひろくすべての国々を照らして金色に輝き、縁のある人々はみな拝することができる。また、この菩薩のわずか一つの毛穴から放たれる光明を見るだけで、すべての仏がたの清らかな光明を見ることができるのである。そのためこの菩薩を無辺光と名づける。またこの菩薩は智慧の光でひろくすべてを照らし、地獄や餓鬼や畜生の世界の苦しみから人々を救うのに、この上なくすぐれた力を持っておいでになる。そのためこの菩薩を大勢至と名づけるのである。
この菩薩の宝冠には五百の宝の花があり、その一つ一つの花にはそれぞれ五百の宝の台があって、その一つ一つの台の中にはすべての仏がたの清らかな国土の広大なすぐれた光景がみな映し出されている。またこの菩薩の頭の肉髻は紅の蓮の花のようである。その肉髻の上には一つの宝の瓶があって、さまざまな光明に満ち、ひろく仏のはたらきが現れる。その他の姿かたちはすべて観世音菩薩と同じで少しも異なるところがない。
この菩薩を歩まれるときにはすべての世界が揺れ動く、その揺れ動くところには五百億の宝の花が咲き、それぞれの花のうるわしさはちょうど極楽世界のように気高くすぐれている。この菩薩を座られるときには七つの宝でできた極楽世界の大地がいっせいに揺れ動き、下方は金光仏の国土から上方は光明王仏の国土まで、その大地もまた揺れ動く。そしてそのすべての世界におられる数限りない無量寿仏の分身と観世音・大勢至の分身とが、みな極楽世界に集まり、大空一面に満ちあふれて蓮の花の台座に座り、尊い教えを説き示して苦しみ悩む人々をお救いになるのである。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。こうして大勢至菩薩を見たてまつるのを、大勢至菩薩のおすがたを想い描く想といい、第十一の観と名づける。
この菩薩を想い描くなら、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる。この観を行うなら迷いの世界に生まれるようなことは二度となく、常に仏がたの清らかな国にいることができる。この観が成就しおわることを、余すところなく観世音・大勢至の二菩薩を想い描いたというのである。
[12.普観] 以上の観を行ったなら、次には自分が往生するという想いを起すがよい。
まず西方極楽世界に生れて、蓮の花の中で両足を組んで座り、その蓮の花に包まれているありさまを想い描き、次にその蓮の花が開くありさまを想い描くのである。そしてその蓮の花が開くときには五百の色の光が放たれ、自分を照らすのを想い描くがよい。また自分の目が開くのを想い描くがよい。そこで仏や菩薩が大空一面に満ちわたっておられるようすを見るのである。さらにまた水の流れも鳥のさえずりも樹々の間のさざめきも、そして仏がたの声もまた、みな尊い教えを説き述べており、それは経典に説いてあることと合致している。この観を終えてからも、その教えをよく心にとどめて忘れないようにするのである。この観が終わったなら、無量寿仏の極楽世界を見たといえる。このように想い描くのを普観想といい、第十二の観と名づける。
無量寿仏は数限りない化身を現して、観世音・大勢至の二菩薩とともに、このような観を修めるもののもとにおいでになり、常にその身を守られるのである 」
[13.雑想観] 釈尊は続いて阿難と韋提希に仰せになった。
「 もし、心から西方極楽世界に生れたいと思うなら、まず池の上に一丈六尺の無量寿仏の像がおいでになると想い描くがよい。 さきに説いたように、無量寿仏のお体の大きさははかり知れないほどであるから、愚かな人間ではとうてい想いの及ぶものではない。しかしながら、無量寿仏が菩薩のときにおたてになった願の力により、よく心をこらして想い描くなら、必ずその仏の真のおすがたを見たてまつることができるのである。ただ仏の像を想い描くだけでも、はかり知れない功徳が得られるのである。まして無量寿仏のおすがたにそなわったすべての特徴を想い描くなら、それ以上の功徳が得られることはいうまでもない。 阿弥陀仏は神通力を思いのままにはたらかせ、すべての世界で自由自在にさまざまなおすがたを現される。ときには大空一面に満ちわたるほどの大きなおすがたを現し、ときには一丈六尺、または八尺の小さなおすがたを現される。そしてこのように現されたおすがたは、みな金色に輝いている。また円光の中の化身の仏や宝の蓮の花などは、前に説き示した通りである。 観世音・大勢至の二菩薩は、どこでも同じおすがたをしておいでになるから、人々はただ二菩薩の頭の特徴を見ることによって、これが観世音菩薩であり、これが大勢至菩薩であると知るのである。この二菩薩はともに阿弥陀仏を助けてひろくすべての人々をお導きになる。このように想い描くのを雑想観といい、第十三の願となづける 」
(散善) (上輩観) [1.上品上生] ここで釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 極楽世界に往生するものには、上品上生から下品下生までの九種類がある。その中で、まず上品上生から説き始めよう。 人々の中でその国に生れたいと願うものは、三種の心を起して往生するのである。その三種の心とは何かといえば、一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心である。この三種の心をそなえるものは、必ずその国に生れるのである。
次の三種の行を修める人々はみな往生することができる。それはどのようなものかといえば、一つにはやさしい心を持ち、むやみに生きものを殺さず、いろいろな戒を守って修行するもの、二つには大乗の経典を口にとなえるもの、三つには六念の行を修めるものである。この人々がそれらの功徳をもってその国に生れたいと願い、一日から七日の間この功徳を積んだなら、ただちに往生することができる。
その国に生れるときには、その人が懸命に努め励んだことにより、阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ、数限りない化身の仏や数えきれないほどの修行僧や声聞たち、さらには数限りない天人は七つの宝でできた宮殿とともに迎えにおいでになる。すなわち、観世音菩薩は金剛でできた台座をささげて大勢至菩薩とともにその人の前においでになり、阿弥陀仏は大いなる光明を放ってその人を照らし、菩薩たちとともに手をさしのべてお迎えになるのである。
このとき観世音・大勢至の二菩薩は、数限りない菩薩たちとともにその人をほめたたえてその心を励まされる。この人は来迎をまのあたりにしておどりあがって喜び、ふと自分を見ればその身はすでに金剛の台座に乗っている。そして仏の後につきしたがって、たちどころにその国に生れるのである。
このようにして極楽世界に生れると、阿弥陀仏のおすがたにそなわったさまざまな特徴と菩薩たちにそなわった特徴を見る。そして光り輝く宝の林が尊い教えを説き述べると、それを聞きおわってただちに無生法忍をさとるのである。さらにわずかの間に次々と仏がたに仕え、ひろくすべての世界を訪れる。そしてそれらの仏がたからさとりを得ることを約束され、ふたたび極楽世界に帰ってくると、教えを記憶して決して忘れない力を限りなく得ることができるのである。これを上品上生のものと名づける。
[2.上品中生] 次に上品中生について説こう。必ずしも大乗の経典を心にたもって口にとなえるとは限らないが、その意味をよく理解し、真実の道理を聞いても驚き戸惑うようなことはなく、深く因果の道理を信じて大乗の教えをけなさず、この功徳をもって極楽世界に生れたいと願い求めるものがいる。
このように修行する人がその命を終えようとするとき、阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ数限りない聖者たちとともに、従者に取りかこまれて現れ、金色に光り輝く台座を持たせてその人の前においでになり、< 仏の子よ、そなたは大乗の教えにかなった行いをし、真実の道理をよく理解したから、わたしは今ここに来てそなたをわたしの国に迎えるのである >と、ほめたたえて仰せになる。こうして千の化身の仏がたとともに、皆でいっせいに手をさしのべてお導きになる。この人がふと自分を見ればその身はすでに金色の台座に座っている。そして合掌して仏がたをほめたたえると、たちまち極楽世界の七つの宝でできた池の中に生れる。その金色の台座は大きな宝の花のようであり、一夜が過ぎるとその花が開く。その人の体は金色に光り輝き、足の下にはまた七つの宝でできた蓮の花がある。そして仏と菩薩がいっせいに光明を放ってその身をお照らしになると、目が開いてすべてをはっきりと見ることができる。また、すでに大乗の教えを聞いていたことにより、極楽世界のさまざまな音がみな奥深い真実の道理を説くのを聞くことができるのである。そこでその人は金色の台座から降り、礼拝し合掌して仏をほめたたえるのである。そして七日を経て後に、ただちにこの上ないさとりから退くことのない位に至り、また空中を飛行して、ひろくすべての世界に行って仏がたに仕え、そのもとでいろいろな禅定を修行する。このようにして一小劫を経て無生法忍の位に至り、仏がたから直接さとりを得ることを約束されるのである。これを上品中生のものと名づける。
[3.上品下生] 次に上品下生について説こう。また因果の道理を信じて大乗の教えをけなさず、ひたすらこの上ないさとりを求める心を起こし、その功徳をもって極楽世界に生れたいと願い求めるものがいる。
この人がその命を終えようとするとき、阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ多くの聖者たちとともに現れ、金色に輝く蓮の花を持たせ、さらに五百の化身の仏を出現させてその人をお迎えになる。このとき五百の化身の仏はいっせいに手をさしのべ、< 仏の子よ、そなたは今心が清らかで、この上ないさとりを求める心を起したから、わたしはここに来てそなたを迎えるのである> と、ほめたたえて仰せになる。この人はこのようすをまのあたりにし、ふと自分を見ればその身はすでに金色の蓮の花に座っている。すると花は閉じ身を包み、仏の後につきしたがって、ただちに極楽世界の七つの宝でできた池の中に生れることができる。こうして一日一夜が過ぎると花が開き、七日のうちに仏を見たてまつることができるが、はじめのうちはそのさまざまなすぐれた特徴をはっきりと見ることができない。二十一日経って後に、はじめてはっきりと見たてまつることができる。そして極楽世界のさまざまな音がみな尊い教えを説くのを聞くことができるのである。またその人はひろくすべての世界をめぐって仏がたを供養し、その仏がたから奥深い教えを聞き、三小劫を経てすべての教えをさとる智慧を得、心に大きな喜びを得る初地の位に至る。これを上品下生のものと名づける。
以上のことを上品のものの往生の想といい、第十四の観と名づける 」
(中輩観) [1.中品上生] 釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。 「 次に中品上生について説こう。五戒を受け、八斎戒をたもち、その他さまざまな戒律を守って五逆の罪をつくらず、またいろいろなあやまちを犯さないように努め、それらの功徳をもって西方極楽世界に生れたいと願い求めるものがいる。
この人がその命を終えようとするとき、阿弥陀仏は、多くの修行僧や聖者とともに従者に取りかこまれて現れ、金色の光を放ってその人の前においでになり、苦・空・無常・無我の道理を説いて、出家のものがいろいろな苦しみを離れることができるのをほめたたえられる。この人はこのようすをまのあたりにして大いに喜び、ふと自分を見ればその身はすでに蓮の花の台座に座っている。そこでひざまずいて合掌し仏に向かって礼拝すると、まだその頭をあげないうちにたちまち極楽世界に生まれることができ、身を包んでいた蓮の花が開く。そしてその花の開くとき、その世界のさまざまな音がみな四諦の道理をほめたたえるのを聞くことができる。そこでこの人はただちに阿羅漢のさとりを開き、過去・現在・未来を知る智慧と神通力を得、煩悩を離れる八種の禅定を身につけることができるのである。これを中品上生のものと名づける。
[2.中品中生] 次に中品中生について説こう。一日一夜の間、あるいは八斎戒を守り、あるいは沙弥戒を守り、あるいは具足戒を守って、少しも行いを乱さず、その功徳をもって極楽世界に生れたいと願い求めるものがいる。
このように戒律を守りその徳が身にそなわった人は、その命を終えようとするとき、阿弥陀仏が多くの聖者とともに現れ、金色の光を放ち、七つの宝でできた蓮の花を持たせてその人の前においでになるのを見る。このとき空中に声がして、< 善良なものよ、そなたはまことによい功徳を積んだ。過去・現在・未来の仏がたの教えによくしたがったから、わたしはここに来てそなたを迎えるのである > と、ほめたたえて仰せになるのが聞こえる。その人がふと自分を見ればその身はすでに蓮の花に座っている。蓮の花はすぐに閉じてその身を包み、西方極楽世界に生れる。そして宝の池の中で七日を経てはじめて花が開くのである。
蓮の花が開くとこの人は目を開き、合掌して仏をほめたたえ、尊い教えを聞いて喜び、須陀おんの位に至る。そして半劫を経て後に阿羅漢となるのである。これを中品中生のものと名づける。
[3.中品下生] 次に中品下生について説こう。善良なもののうち、親に孝行を尽し、人々に思いやりの心を持つものがいる。
この人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のために阿弥陀仏の国の清らかで楽しいようすや、法蔵菩薩の四十八願について説くのを聞く。これらのことを聞きおわりその命を終えると、たとえば元気な若者がすばやくひじを曲げ伸しするくらいのわずかな間に、西方極楽世界に生れる。そして七日を経て後に、観世音・大勢至の二菩薩に会い、尊い教えを聞いて喜び、一小劫を経て阿羅漢となるのである。これを中品下生のものと名づける。
以上のことを中品のものの往生の想といい、第十五の観と名づける 」
(下輩観) [1.下品上生] 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品上生について説こう。さまざまな悪い行いをするものがいる。大乗の経典をけなすようなことはしないが、このような愚かな人は、多くの悪い行いをしても少しも恥じることがない。 この人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のために大乗経典の経題をほめたたえるのを聞く。このいろいろな経題を聞くことにより、千劫の間のきわめて重く悪い行いの罪が除かれる。
さらに善知識は合掌して南無阿弥陀仏と称えるように教える。この教えにしたがって仏の名を称えることにより、五十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれるのである。 このとき阿弥陀仏は、化身の仏と化身の観世音・大勢至の二菩薩をお遣わしになり、これらの仏と菩薩がその人の前においでになり、 <善良なものよ、そなたは仏の名を称えたことにより、さまざまな罪がなくなったから、わたしはここに来てそなたを迎えるのである> と、ほめたたえて仰せになる。この言葉が終わるとその人は、化身の仏の光明が部屋中に満ちあふれているのを見る。そしてその光を見て喜び、そのまま命を終えると、宝の蓮の花に乗り、その仏の後につきしたがって極楽世界の宝の池の中に生れるのである。
こうして四十九日を経て後にはじめて蓮の花が開く。その花が開くとき、深い慈悲を持つ観世音・大勢至の二菩薩が大いなる光明を放ってその人の前においでになリ、経典の奥深い教えをお説きになる。その人はこれを聞き、信じてよく理解し、この上ないさとりを求める心を起すのである。このよにして十小劫を経て、すべての教えをさとる智慧を身につけ、初地の位に至る。これを下品上生のものと名づける。
また、仏・法・僧の三宝の名を聞くことができたものも、ただちに極楽世界に生まれることができるのである」
[2.下品中生] 釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品中生について説こう。五戒や八斎戒や具足戒などを犯し破っているものがいる。このような愚かな人は、教団の共有物を奪い、僧侶に施されたものをも盗み、さらに私利私欲のために教えを説いて少しも恥じることがなく、いろいろな悪い行いを重ねてそれを誇ってさえいる。このような罪深い人は、その犯した悪事のために地獄に落ちることになる。
この人がその命を終えようとするとき、地獄の猛火がいっせいにその人の前に押し寄せてくる。そこで、善知識にめぐりあい、哀れみの心からその人のために阿弥陀仏の持つ力のすぐれた徳と、光明の持つさまざまな不可思議な力を説き、またその戒・定・慧・解脱・解脱知見のすぐれた徳をほめたたえるのを聞く、その人はこれを聞いて、ただちに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれ、地獄の猛火はたちまちさわやかな風に変って、多くの美しい花を吹き散らす。花の上にはみな化身の仏と菩薩がおいでになって、その人をお迎えになる。するとたちまち極楽世界に生まれることができ、七つの宝でできた池の中にある蓮の花に包まれて、六劫を経て後にはじめてその花が開くのである。その花が開くとき、観世音・大勢至の二菩薩が清らかな声でその人を心安らかにし、大乗の奥深い教えをお説きになる。そこでその教えを聞いてただちにこの上ないさとりを求める心を起すのである。これを下品中生のものと名づける 」
[3.下品下生] 続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、< もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい > と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と限りなく称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。
その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。
以上のことを下品のものの往生の想といい、第十六の観と名づける 」
(得盆分) 釈尊がこのようにお説きになると、韋提希は五百人の侍女とともにその教えを聞いて、たちまち極楽世界の広大なすぐれた光景を見たてまつった。さらに阿弥陀仏と観世音・大勢至の二菩薩を見たてまつることができて、心から喜び、これまでにはない尊いことであるとほめたたえ、すべての迷いが晴れて無生法忍のさとりを得た。
そして五百人の侍女も、それぞれこの上ないさとりを求める心を起して、その国に生れたいと願った。そこで釈尊はすべてのものに対して、みな往生することができ、その国に生れたなら諸仏現前三昧を得ると約束され、これを聞いた数限りない天人も、みなこの上ないさとりを求める心を起したのである。
(流通分) そのとき阿難は座から立ち、釈尊の前に進み出て申しあげた。
「 世尊、ただいまの教えは何と名づけたらよいでしょうか。またこの教えのかなめはどのようにたもてばよいのでしょうか」
釈尊は阿難に仰せになった。
「 この教えは < 極楽世界と無量寿仏および観世音菩薩・大勢至菩薩を観ずる経 > と名づけ、また < これまでの悪い行いもさまたげとはならず、仏がたの前に生れる経 > と名づける。
そなたはこの教えをたもち、決して忘れてはならない。この観仏三昧を行うものは、その身はこの世にありながら、無量寿仏および観世音・大勢至の二菩薩を見たてまつることができる。善良なものたちがただ無量寿仏の名と観世音・大勢至の二菩薩の名を聞くだけでも、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれるのであるから、ましてそれらを心に念じ、常に思い続けるなら、なおさらのことである。
もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。このような人は、観世音・大勢至の二菩薩がすぐれた友となリ、さとりの場に座り、仏がたの家である無量寿仏の国に生れるのである」
釈尊は阿難に仰せになった。
「 そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである 」
釈尊がこのようにお説きになったとき、目連や阿難および韋提希たちは釈尊のこの教えを聞いて、みな大いに喜んだのである。
[5.耆闍分] こうして釈尊は大空を歩んで耆闍崛山にお帰りになり、阿難は山上で、そこに集うすべてのもののために、この釈尊の教えを説き聞かせた。数限りない天人や竜や夜叉も、その説法を聞いてみな大いに喜び、うやうやしく釈尊を礼拝して立ち去ったのである。
仏説観無量寿経 終