浄土三部経

仏説無量寿経  (下巻)


曹魏 天竺三蔵 康僧鎧訳

仏、阿難に告げたまわく、「それ衆生ありてかの国に生ずる者はみなことごとく正定之聚に住す。
ゆえんはいかん。かの仏国の中にはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。
十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃歎したもう。
諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。唯五逆と正法を誹謗せんとをば除く。」
仏、阿難に告げたまわく、「十方世界の諸天人民それ至心に彼の国に生ぜんと願ずるあらん。およそ三輩あり、その上輩とは家を捨て欲を棄てて沙門と作り、菩提心を発し、一向に専ら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修して、彼の国に生ぜんと願ぜん。
これらの衆生は寿終の時に臨みて無量寿仏もろもろの大衆とその人の前に現ぜん。すなわち彼の仏に随いてその国に往生し、すなわち七宝華の中において自然に化生し、不退転に住し、智慧勇猛にして神通自在ならん。このゆえに阿難、それ衆生ありて、今世において無量寿仏を見んと欲せば無上菩提の心を発し、功徳を修行し、かの国に生ぜんと願ずべし。」

仏、阿難に語りたまわく、「その中輩とは、十方世界の諸天人民、それ至心に彼の国に生ぜんと願ずるあらん。行じて沙門と作り大に功徳を修すること能わずといえども、当に無上菩提の心を発し一向に専ら無量寿仏を念ずべし。多少に善を修し、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめて、絵を懸け、燈を然し、散華・焼香し、これをもって回向して彼の国に生ぜんと願ぜん。その人臨終に無量寿仏、その身を化現し、光明相好つぶさに真仏のごとく、もろもろの大衆とその人の前に現ぜん。すなわち化仏に随いてその国に往生し不退転に住し、功徳、智慧次いで上輩の者のごとくならん。」

仏、阿難に告げたまわく、「その下輩とは、十方世界の諸天人民、それ至心に彼の国に生ぜんと欲するあらん。たとえもろもろの功徳を作すこと能わずとも、当に無上菩提の心を発し、一向専意を専に乃至十念、無量寿仏を念じ、その国に生ぜんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜず、乃至一念、彼の仏を念じ、至誠心をもってその国に生ぜんと願ぜば、この人臨終に夢のごとく彼の仏を見たてまつり、また往生を得、功徳・智慧次いで中輩の者のごとくならん。」

仏、阿難に告げたまわく、「無量寿仏の威神極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、称歎せざるはなし。彼の東方恒沙の仏国において、無量無数のもろもろの菩薩衆、皆ことごとく無量寿仏の所に往詣し、恭敬供養し、もろもろの菩薩・声聞・大衆に及ぼさん、経法を聴受し、道化を宣布す。南・西・北方・四維・上・下もまたまたかくのごとし。」その時世尊、しかも頌を説きて曰わく、
東方諸仏国 その数恒沙のごとし
彼の土の菩薩衆 無量覚に往覩したてまつる。
南・西・北・四維・ 上・下もまたまた然り
彼の土の菩薩衆 無量覚に往覩したてまつる。
一切のもろもろの菩薩 おのおの天の妙華
宝香・無価衣をもたらして 無量覚を供養したてまつる。
咸然として天楽を奏し 和雅の音を暢発し
最勝尊を歌歎し 無量覚を供養したてまつる
神通慧を究達し 深法門を遊入し
功徳蔵を具足し 妙智等倫なし。
慧日世間を照らし 生死の雲を消除す
恭敬し繞ること三ゾウして 無上尊を稽首したてまつる。
彼の厳浄の土の 微妙難思議なるを見て
因りて無上心を発し 我が国もまた然らんと願ず。
時に応じて無量尊 容を動かし欣笑を発し
口より無数の光を出して 遍く十方国を照らす。
光を回して身を囲繞し 三ゾウして頂より入る
一切天人衆 踊躍してみな歓喜す。
大士観世音 服を整え稽首して問い
仏に白さく何に縁りて笑みたまえる 唯然り願くは意を説きたまえ。
梵声、猶し雷震のごとし 八音妙響を暢ぶ
当に菩薩の記を授くべし 今説かんなんじ諦に聴け。
十方より来れる正士 吾ことごとく彼の願を知れり
厳浄の土を志求し 受決して当に作仏すべし。
一切の法は 猶し夢・幻・響のごとしと覚了すれども
もろもろの妙願を満足して 必ずかくのごときの刹を成ぜん。
法は電影のごとしと知れども 菩薩の道を究竟し
もろもろの功徳本を具し 受決して当に作仏すべし。
諸法の性は 一切空・無我なりと通達すれども
専ら浄仏土を求め 必ずかくのごときの刹を成ぜん。
諸仏、菩薩に告げて 安養仏に覩えしむ
法を聞き楽しみて受行し  疾く清浄処を得よ。
彼の厳浄国に至りては すなわち速やかに神通を得
必ず無量尊において 受記して等覚を成ぜん。
その仏の本願力 名を聞きて往生せんと欲えば
みなことごとく彼の国に到りて 自ら不退転に致らん。
菩薩至願を興し 己が国も異なることなけんと願ず
普く一切を度せんと念じ 名顕れて十方に達せん。
億の如来に奉事し 飛化して諸刹に遍し
恭敬し歓喜し去いて 還りて安養国に到る。
もし人善本なくんば この経を聞くことを得ず
清浄有戒の者 いまし正法を聞くことを獲。
むかしかつて世尊を見しもの すなわち能くこの事を信ず
謙敬にして聞きて奉行し 踊躍して大いに歓喜す。
驕慢と蔽と懈怠は もってこの法を信じ難し
宿世に諸仏を見しもの かくのごときの教を楽聴せん。
声聞あるいは菩薩 能く聖心を究むるなし
たとえば生まれてより盲いたるもの 行きて人を開導せんと欲するがごとし。
如来の智慧海は 深広にして涯底なし
二乗の測るところにあらず  唯仏のみ独明了せり。
たとえ一切人 具足してみな道を得
浄慧本空を知り 億劫に仏智を思い、
力を窮め講説を極め 寿を尽くすともなお知らず
仏慧の無辺際なる かくのごとく清浄に致る。
寿命甚だ得難く 仏世また値い難し
人信慧あること難し もし聞かば精進に求めよ。
法を聞き能く忘れず 見て敬い得て大いに慶ばば
すなわち我が善親友なり このゆえに当に意を発すべし。
たとえ世界に満てらん火をも 必ず過ぎて要めて法を聞かば
会ず当に仏道を成じ 広く生死の流を済うべし。

仏、阿難に告げたまわく、「彼の国の菩薩、みな当に一生補処を究竟すべし。その本願、衆生のためのゆえに、弘誓の功徳をもって自ら荘厳し、普く一切衆生を度脱せんと欲せんをば除く。


阿難、彼の仏国の中のもろもろの声聞衆は身光一尋なり、菩薩の光明は百由旬を照らす。
二菩薩あり、最尊第一なり、威神の光明、普く三千大千世界を照らす。」
阿難、仏に白さく、「かの二菩薩、その号いかん。」仏の言わく、「一をば観世音と名づけ、二を大勢至と名づく。この二菩薩、この国土において菩薩の行を修し、命終転化して彼の仏国に生ぜり。
阿難、それ衆生ありて彼の国に生ずる者はみなことごとく三十二相を具足す。
智慧成満し、深く諸法に入りて要妙を究暢し、神通無碍にして諸根明利なり。
その鈍根の者は二忍を成就し、その利根の者は不可計の無生法忍を得。
また彼の菩薩、乃至成仏まで悪趣に更らず、神通自在にして常に宿命を識る。
他方五濁悪世に生じ、示現して彼に同じ、我が国のごとくならんをば除く。」
仏、阿難に告げたまわく、「彼の国の菩薩、仏の威神を承けて、一食の頃に十方無量の世界に往詣し、諸仏世尊を恭敬し供養す。心の所念に随い、華香・伎楽・絵蓋・幢幡、無数無量の供養の具自然に化生し、念に応じてすなわち至る。
珍妙殊特にして世のある所有にあらず、すなわちもって諸仏・菩薩・声聞・大衆に奉散す。
虚空の中にありて化して華蓋を成ず。光色イク爍にして香気普く熏ず。その華周円四百里なる者あり、かくのごとく転た倍してすなわち三千大千世界を覆う。
その前後に随い、次をもって化没す。そのもろもろの菩薩、僉然として欣悦し、虚空の中において共に天楽を奏し、微妙音をもって仏徳を歌歎し、経法を聴受して歓喜無量なり。仏を供養し已りて未だ食せざるの前に忽然として軽挙し、その本国に還る。」
仏、阿難に語りたまわく、「無量寿仏、もろもろの声聞・菩薩・大衆のために法を班宣したまう時、すべてことごとく七宝講堂に集会す。
広く道教を宣べ、妙法を演暢したもうに、歓喜に心解し得道せざるはなし。即時に四方より自然に風起りて普く宝樹を吹くに、五つの音声を出し、無量の妙華を雨らして、風に随い周遍す、自然の供養、かくのごとく絶えず。
一切の諸天、みな天上の百千の華香・万種の伎楽をもたらして、その仏およびもろもろの菩薩・声聞・大衆に供養す。普く華香を散じ、もろもろの音楽を奏し、前後来往して更相に開避す。この時に当りて、熈怡快楽勝げて言うべからず。」

仏、阿難に語りたまわく、「彼の仏国に生ずるもろもろの菩薩等は講説すべき所に常に正法を宣べ、智慧に随順して違なく失なし。その国土所有の万物において、我所の心なく、染着の心なし。
去来進止情係くる所なく、随意自在にして適莫する所なし。彼なく我なく競なく訟なく、もろもろの衆生において大慈悲にして饒益之心、柔軟調伏にして無忿恨の心、離蓋清浄にして無厭怠の心・等心・勝心・深心・定心・愛法・楽法・喜法の心の、もろもろの煩悩を滅して悪趣を離るるの心を得たり。
一切菩薩の所行を究竟し、無量の功徳を具足成就せり。深禅定・諸通明慧を得、志を七覚に遊ばしめ、心を仏法に修す。肉眼清徹にして分了ならざるなく天眼通達して無量無限なり、法眼観察して諸道を究竟す。
慧眼真を見て能く彼岸に度す、仏眼具足して法性を覚了す。
無碍智をもって人のために演説す。「三界は空、無所有なり」と等観して仏法を志求し、もろもろの弁才を具し、衆生の煩悩の患を除滅す。
如より来生して法の如々を解し、善く習滅の音声・方便を知りて世語を欣ばず、楽んで正論にあり。もろもろの善本を修し、仏道を志崇す。
「一切の法はみなことごとく寂滅なり」と知り、生身・煩悩二余倶にに尽たり。甚深の法を聞きて心疑懼せず、常に能く修行す。
その大悲は深遠微妙にして覆載せざるなく、一乗を究竟して彼岸に至る。疑網を決断し慧心に由りて出づ、仏の教法において該羅して外なし。
智慧大海のごとく、三昧山王のごとし、慧光明浄にして日月に超逾せり。
清白の法具足し円満す、猶し雪山のごとし、もろもろの功徳を照らし等一にして浄きがゆえに。猶し大地のごとし、浄穢好悪、異心なきがゆえに。
猶し浄水のごとし、塵労もろもろの垢染を洗除するがゆえに。
猶し火王のごとし、一切煩悩の薪を焼滅するがゆえに。
猶し大風のごとし、もろもろの世界に行じて障碍なきがゆえに。
猶し虚空のごとし、一切の有において所着なきがゆえに。
猶し蓮華のごとし、もろもろの世間において汚染なきがゆえに。
猶し大乗のごとし、群萠を運載して生死を出でしむるがゆえに。
猶し重雲のごとし、大法雷を震い未覚を覚するがゆえに。
猶し大雨のごとし、甘露の法を雨らし、衆生を潤すがゆえに。
金剛山のごとし、衆魔・外道動かすこと能わざるがゆえに。
梵天王のごとし、もろもろの善法において最上首なるがゆえに。
尼拘類樹のごとし、普く一切を覆うがゆえに。
優曇鉢華のごとし、希有にして遇い難きがゆえに。
金翅鳥のごとし、外道を威伏するがゆえに。
衆の遊禽のごとし、蔵積する所なきがゆえに。
猶し牛王のごとし、能く勝つものなきがゆえに。
猶し象王のごとし、善く調伏するがゆえに。
師子王のごとし、畏るる所なきがゆえに。
曠きこと虚空のごとし、大慈等しきがゆえに。
嫉心を摧滅せり、勝れるを忌まざるがゆえに。
専ら法を楽求して心厭足なく、常に広説を欲して、志疲倦なし、法鼓を撃ち法幢を建て、慧日を曜かし、痴闇を除く。
六和敬を修し、常に法施を行ず。
志勇精進にして心退弱せず。
世の燈明と為りて最勝の福田なり。
常に導師と為りて等しく憎愛なく、唯正道を楽い、余の欣戚なし。
もろもろの欲刺を抜きもって群生を安んず。
功慧殊勝にして尊敬せざるなし。
三垢の障を滅しもろもろの神通に遊ぶ。因力・縁力・意力・願力・方便之力・常力・善力・定力・慧力・多聞之力・施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧之力・正念・正観・諸通明力、如法調伏諸衆生力・かくのごとき等の力、一切具足せり。身色・相好・功徳・弁才・具足荘厳して共に等しき者なし。
無量の諸仏を恭敬供養し、常に諸仏のために共に称歎せらる。菩薩の諸波羅蜜を究竟し、空・無相・無願三昧・不生・不滅・もろもろの三昧門を修す。声聞・縁覚の地を遠離せり。阿難、彼のもろもろの菩薩はかくのごとき無量の功徳を成就せり。我ただ汝がためにこれを略説するのみ、もし広説せば百千万劫にも窮尽すること能わじ。」

仏、弥勒菩薩諸天人等に告げたまわく、「無量寿国の声聞・菩薩の功徳・智慧称説すべからず。またその国土は、微妙安楽にして清浄なることかくのごとし。
何ぞ力めて善をなし、道の自然なるを念じ、上下なく洞達無辺際なるを著さざる。
宜しくおのおの勤精進し、努力して自ら之を求むべし。必ず超絶し去りて安養国に往生することを得ば、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉づ。
道に昇ること窮極なし。
往き易くして人なしその国逆違せず、自然の牽く所なり。何ぞ世事を棄て、勤行して道徳を求めざる。極長生を獲て寿楽極まりあることなかるべし。然るに世人薄俗にして共に不急之事を諍う。
この劇悪極苦の中において勤身営務しもって自ら給済す。

尊となく卑となく、貧となく富となく、少長・男女共に銭財を憂う。
有無同然にして憂思適に等し。屏営として愁苦し累念積慮し、心のために走使せられ、安き時あることなし。
田あれば田を憂い宅あれば宅を憂う、牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、また共に之を憂う。
重思累息し憂念愁怖す。
横に非常の水火・盗賊・怨家・債主のために焚漂劫奪せられ、消散摩滅し、憂毒シュ々として解くる時あることなし。
憤りを心中に結び、憂悩を離れず、心堅く意固くして適に縦捨することなし。
あるいは摧砕に坐して、身亡び命終りぬれば、之を棄捐して去る、誰も随う者なし。
尊貴・豪富もまたこの患えあり、憂懼万端にして勤苦かくのごとし。
衆の寒熱を結び、痛みと共に居す。
貧窮下劣は困乏して常に無なり。
田なければまた憂えて田あらんことを欲し、宅なければまた憂えて宅あらんことを欲す。
牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なければ、また憂いて之あらんことを欲す。
適一つあればまた一つ少く、これあればこれを少きぬ、あること斉等ならんを思う。
適に具さにありと欲えばすなわちまた糜散す。
かくのごとく憂苦して当にまた求索すれども、時に得ること能わず。
思想益なく身心倶に労して坐起安からず、憂念相随い勤苦かくのごとし。
また衆の寒熱を結び痛みと共に居す。
ある時は之に坐して身を終え命を夭す。
肯て善をなし道を行じ徳に進まず。
寿終り身死して当に独遠く去るべし。
趣向する所あれども善悪の道能く知る者なし。
世間の人民・父子・兄弟・夫婦・室家・中外の親属、当に相敬愛して相憎嫉することなく、有無相通じて貪惜を得ることなく、言色常に和して相違戻することなかるべし。
ある時は心に諍い恚怒する所あり、今世の意恨微しく相憎嫉すれば、後世に転た劇しくして大怨を成すに至る。所以は何ん、世間の事更相に患害す、即時に応に急に相破すべからずといえども、然も毒を含み怒りを畜え、憤りを精進に結び、自然に剋識して相離るることを得ず、みな当に対生し更相に報復すべし。人世間愛欲の中にありて独生じ独死し独去り独来る。行に当りて苦楽の地に至趣す、身自ら之に当る、代る者有ことなし。善悪変化し殃福処を異にす、あらかじめ厳待して当に独趣入すべし。

遠く他所に到りぬれば能く見る者なし、善悪自然に行を追いて生ずる所、窈々冥々として別離久長なり、道路同じからずして会い見ること期なし、甚だ難く甚だ難し、また相値うことを得んや。
何ぞ衆事を棄てておのおの強健の時に曼んで努力して善を勤修し、精進に度世を願ぜらる。
極長生を得べし、如何ぞ道を求めざらん。
安所ぞ待つべき所ある、何の楽を欲するや。かくのごときの世人、善を作して善を得道を為して道を得ることを信ぜず。
人死して更りて生じ、恵施して福を得ることを信ぜず。
善悪の事すべて之を信ぜず、之を然らずと謂えり。
終にとするあることなし。但これに坐するがゆえに且く自ら之を見、更相に瞻視して先後同然なり。
父の余せる教令を転た相承受す。先人・祖父素より善を為さず道徳を識らず、身愚に神闇く心塞り意閉づ、死生の趣・善悪の道自ら見ること能わず、語る者あることなし。吉凶・禍福競いておのおのこれを作す、一も怪しむものなし。
生死の常道転た相嗣立す、あるいは父子を哭しあるいは子父を哭す、兄弟・夫婦更相に哭泣す。顛倒上下無常根本なり、みな当に過去すべし、常に保つべからず。教語開導すれども之を信ずる者は少し。
ここをもって生死流転休止あることなし。
かくのごときの人、曚冥抵突にして経法を信ぜず。
心に遠慮なし、おのおの快意を欲す。愛欲に痴惑し道徳に達せず、瞋怒に迷没し財色を貪狼す。
之に坐して道を得ず、当に悪趣の苦に更り生死窮已なかるべし。哀れなるかな甚だ傷むべし。
ある時は室家・父子・兄弟・夫婦、一は死し一は生まる。
更相に哀愍し恩愛思慕す、憂念結縛し、心意痛着して迭相に顧恋す、日を窮め歳を卒えて解け已むことあることなし。
道徳を教語すれども心開明ならず。
恩好を思想して情欲を離れず、昏曚閉塞して愚惑に覆われ、深思熟計して心自ら端正に、専精に道を行じて世事を決断すること能わず。便旋として竟りに至る、年寿終尽すれども得道すること能わず、奈何ともすべきことなし。
総猥ケ擾にしてみな愛欲を貪る。
道に惑える者は衆く之を悟る者は寡し。
世間ソウ々として レイ頼すべきことなし。
尊卑・上下・貧富・貴賎・ソウ務に勤苦し、おのおの殺毒を懐く、悪気窈冥としてために妄に事を興す。
天地に違逆し人心に従わず。自然の非悪、先づ随って之に興し、恣に所為を聴してその罪極まるを待ち、その寿未だ尽きざるにすなわち頓に之を奪い、悪道に下入し累世に勤苦す、その中に展転して数千億劫出づる期あることなし。痛言うべからず。甚だ哀愍すべし。」
仏、弥勒菩薩・諸天人等に告げたまわく、「我今汝に世間の事を語ぐ。
人これを用うるがゆえに坐して得道せず。当に熟思計し衆悪を遠離し、その善者を択んで勤めて之を行ずべし。
愛欲栄華常に保つべからず、みな当に別離すべし、楽しむべき者なし。仏の在世に曼んで当に勤めて精進すべし。
それ至心に安楽国に生れんと願ずることあらん者は、智慧明達功徳殊勝なることを得べし。
心の所欲に随いて経戒を虧負し、人の後にあることを得ることなかれ。もし疑意ありて経を解らざる者は具さに仏に問いたてまつるべし。
当にために之を説くべし。」弥勒菩薩長跪して白して言さく、「仏は威神尊重にして、所説快善なり。仏の経語を聴き心を貫して之を思うに、世人実に爾り、仏の所言のごとし。
今仏、慈愍して大道を顕示したまう。
耳目開明して長く度脱を得、仏の所説を聞き歓喜せざるなし、諸天・人民・蠕動の類みな慈恩を蒙り憂苦を解脱す。
仏語の教誡は甚だ深く甚だ善なり、智慧明らかに見て八方・上下・去来今の事究暢せざるはなし。
今我が衆等、度脱を得ることを蒙る所以は、みな仏の前世道を求むるの時謙苦せしが致す所なり。恩徳普く覆い、福祿魏々たり、光明徹照し、空に達すること無極なり。泥オンに開入し典攬を教授す、威制消化し、十方を感動すること無窮無極なり。仏は法王たり尊きこと衆聖に超ゆ、普く一切天人の師と為り心の所願に随いみな得道せしむ。今仏に値い、また無量寿仏の声を聞くことを得て歓喜せざるなし、心開明を得たり。」
仏、弥勒菩薩に告げたまわく、「汝が言是なり、もし仏を慈敬することある者は実に大善たり。
天下久々にして乃ちまた仏あり。
今我この世において作仏し、経法を演説し、道教を宣布し、もろもろの疑網を断じ、愛欲の本を抜き、衆悪の源を杜づ。
三界に遊歩して拘碍する所なし。
典攬智慧衆道の要、綱維を執持して昭然分明に、五趣を開示し、未度の者を度し、生死泥オンの道を決正す。
弥勒当に知るべし、汝無数劫よりこのかた菩薩の行を修し、衆生を度せんと欲することそれすでに久遠なり。
汝に従い得道し、泥オンに至るもの、称数すべからず。
汝および十方の諸天・人民・一切四衆、永劫己来五道に展転し、憂畏勤苦具さに言うべからず、乃至今世まで生死絶えず。
仏と相値うて経法を聴受し、またまた無量寿仏を聞くことを得たり。
快いかな甚だ善し。
吾爾を助けて喜ばしむ。汝今また自ら生・死・老・病・痛苦を厭うべし。
悪露不浄にして楽しむべき者なし。
宜しく自ら決断し、身を端し行を正し、益諸善を作し己を修め体を潔くし、心垢を洗除し、言行忠信に、表裏相応すべし。
人能く自ら度し、転た相拯済し精明に求願し、善本を積累せよ。
一世に勤苦すといえども須臾の間なり、後に無量寿仏国に生れ快楽無極なり。
長く道徳と合明し、永く生死の根本を抜き、また貪・恚・愚痴・苦悩の患なし。
寿一劫・百劫・千万億劫ならんと欲し、自在随意にみな之を得べし。
無為自然にして泥オンの道に次し、汝等宜しくおのおの精進に心の所願を求むべし。
疑惑中悔して自ら過咎を為し、彼の辺地七宝の宮殿に生じ、五百歳の中にもろもろの厄を受くることを得ることなかれ。」
弥勒、仏に白して言さく、「仏の重誨を受け、専精に修学し、教えのごとく奉行し、敢て疑うことあらじ」と。
仏、弥勒に告げたまわく、「汝等能くこの世において、端心正意を正にして衆悪を作さざれば甚だ至徳となす、十方世界に最も倫匹なし。
所以は何ん。

諸仏国土は天人の類、自然に善を作し、大いに悪を為さざれば、開化すべきこと易し。今我この世間において作仏し、五悪・五痛・五焼の中に処す、最も劇苦たり。
群生を教化し、五悪を捨てしめ、五痛を去らしめ、五焼を離れしめ、その意を降化して、五善を持ちその福徳度世・長寿・泥オンの道を獲しめん。」仏の言わく、「何等か五悪、何等か五痛、何等か五焼、何等か五悪を消化し、五善を持ち、その福徳度世・長寿・泥オンの道を獲しむる。」

仏の言わく、「その一悪とは、諸天人民・蠕動の類、衆悪を為さんと欲す、みな然らざるなし。
強き者は弱きを伏し、転た相剋賊し、残害殺戮し、迭相に呑噬す。
善を修することを知らず、悪逆無道にして後に殃罰を受け、自然に趣向す。神明記識して犯す者は赦さず。
ゆえに貧窮・下賎・乞匈・孤独・聾盲・オンア・愚痴・弊悪あり、オウ狂・不逮の属あるに至る。また尊貴・豪富・高才・明達なるあり。
みな宿世に慈孝にして善を修し、徳を積むの致す所に由る。
世に常道、王法の牢獄あれども肯えて畏慎せず、悪を為し罪に入りその殃罰を受く。
解脱を求望すれども免出を得難し。
世間にこの目前の見事あり。
寿終わりて後世に深く尤も劇し。
その幽冥に入り、転生して身を受く、たとえば王法の痛苦極刑のごとし。
ゆえに自然の三塗無量の苦悩あり。
その身を転貿し形を改め道を易え、受くる所の寿命あるいは長くあるいは短し、魂神・精識自然に之に趣く。
当に独り値向し相従い共に生じ、更相に報復して絶已あることなかるべし。
殃悪未だ尽きざれば相離るることを得ず、その中に展転して出期あることなし。
解脱を得難し、痛み言うべからず。天地の間自然にこれあり、即時卒暴に善悪の道に至るべからずといえども会ず当に之に帰すべし。
これを一大悪・一痛・一焼となす。
勤苦かくのごとし、たとえば大火の人身を焚焼するがごとし。
人能く中において一心に意を制し、端身正行を正にして独り諸善を作し、衆悪を為らざれば身独り度脱してその福徳、度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを一の大善とするなり。」
仏の言わく、「その二つの悪とは、世間の人民・父子・兄弟・室家・夫婦すべて義理なく、法度に順ぜず。
奢婬・ケウ縦にしておのおの快意せんと欲し、心に任せて自ら恣にし、更相に欺惑し、心口おのおの異に、言念実なく佞諂不忠にして巧言諛媚し、賢を嫉み善を謗り、怨枉に陥入す。主上不明にして臣下を任用す、臣下自在にして機偽多端なり。
度を践み能く行い、その形勢を知る。位にありて正しからざれば、それがために欺かれ、妄りに忠良を損じ、天心に当たらず。
臣はその君を欺き、子はその父を欺く、兄弟・夫婦・中外・知識更相に欺誑す。おのおの貪欲・瞋恚・愚痴を懐き、自ら己を厚くせんと欲し、欲貪して多くす。
尊卑・上下心倶に同じく然なり。家を破り身を亡し、前後を顧みず、親属・内外之に坐して滅す。
ある時は室家・知識・郷党・市里・愚民・野人転た共に従事し、更相に利害して忿成し怨結す。
富有なれども慳惜して肯て施与せず、愛宝貪重して、心労し身苦しむ。
かくのごとくにして竟りに至り、恃怙するところなし、独り来り独り去り、一りとして随う者なし。
善悪・禍福命を追うて生ずる所なり、あるいは楽処にあり、あるいは苦毒に入る。
然して後乃ち悔ゆとも当にまた何ぞ及ぶべき。世間の人民心愚かに智少し。
善を見ては憎謗して慕及せんことを思わず、但悪を為さんと欲し妄に非法を作す。
常に盗心を懐き他の利を怖望す。
消散糜尽してまた求索す。
邪心不正にして人の色ることあらんことを懼る。
あらかじめ思計せず事至りて乃ち悔ゆ。
今世に現に王法の牢獄あり、罪に随いて趣向しその殃罰を受く。
その前世に道徳を信ぜず、善本を修せざるに因りて今また悪を為れば、天神剋識してその名藉を別つ、寿終り神逝きて悪道に下入す。
ゆえに自然の三塗無量の苦悩あり、その中に展転して世々累劫に出期あることなし、解脱を得難し痛み言うべからず。
これを二大悪・二痛・二焼となす。
勤苦かくのごとし、たとえば大火の人身を焚焼するがごとし。
人能く中において一心に意を制し、端身正行にして独り諸善を作し、衆悪を為らざれば、身独度脱してその福徳度世上天・泥オンの道を獲ん。これを二つの大善とするなり。」

仏の言わく、「その三悪とは、世間の人民相因りて寄生し、共に天地の間に居す、処年寿命能く幾何もなし。上に賢明・長者・尊貴・豪富あり、下に貧窮・廝賎・オウ劣・愚夫あり。中に不善の人あり。
常に邪悪を懐き、但婬イツを念じ煩胸中に満てり。
愛欲交乱し坐起安らかならず。
貪意守惜し但唐得を欲す。
細色を眄ライし邪態外に逸なり、自妻を厭憎し、私かに妄に入出す。
家財を費損し、事非法を為し、交結聚会し、師を興して相伐ち、攻劫・殺戮し強奪不道なり。
悪心外にあって自ら業を修せず。
盗竊して趣かに得れば、欲繋に事を成す、恐熱迫脅して妻子に帰給す。
心を恣にし意を快し、身を極めて楽を作す。
あるいは親属において尊卑を避けず、家室・中外患いて之を苦しむ。
またまた王法の禁令を畏れず。
かくのごときの悪、人鬼に著せられ、日月照見し、神明記識す。
ゆえに自然の三塗無量の苦悩あり、その中に展転し、世々累劫に出期あることなし、解脱を得難し、痛言うべからず。
これを三大悪・三痛・三焼となす。勤苦のごとし、たとえば大火の人身を焚焼するがごとし。人能く中において一心に意を制し、端身正行にして独諸善を作し衆悪を為さざれば身独度脱してその福徳度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを三の大善とするなり。」
仏の言わく、「その四悪とは、世間の人民善を修することを念わず、転た相教令して共に衆悪を為す。両舌・悪口・妄言・綺語・讒賊・闘乱し、善人を憎嫉し、賢明を敗壊し、傍において快喜して二親に孝せず、師長を軽慢し、朋友に信なく、誠実を得難し。尊貴自大にして己道ありと謂い、横に威勢を行じて人を侵易す。自ら知ること能わず、悪を為して恥づることなし。自ら強健をもって人の敬難を欲す。天地・神明・日月を畏れず、肯て善を作さず降化すべきこと難し。
自らもちいて偃ケンとして常に爾るべしと謂い、憂懼する所なし。
常にケウ慢を懐けり。
かくのごときの衆悪天神記識す。
その前世に頗る福徳を作ししに頼りて小善扶接し営護して之を助く。
今世に悪を為して福徳尽く滅し、もろもろの善鬼神おのおの共に之を離る。
身独空立してまた依る所なし。
寿命終尽し、諸悪の帰する所自然に迫促し、共に趣きて之に頓る。
またその名籍神明に記在せり。
殃苦牽引し、当に往きて趣向すべし。
罪報自然にして従って捨離することなし、但前行して火钁に入ることを得て身心摧砕し、精神痛苦す。この時に当たりて悔ゆともまた何ぞ及ばん。
天道自然にして蹉跌を得ず。
ゆえに自然の三塗・無量の苦悩あり、その中に展転し世々累劫出期あることなし。
解脱を得難し、痛み言うべからず。
これを四大悪・四痛・四焼となす。
勤苦かくのごとし、たとえば大火の人身を焚焼するがごとし。
人能く中において一心に意を制し、端身正行にして独り諸善を作し、衆悪を為さざれば、身独度脱してその福徳度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを四の大善とするなり。」
仏の言わく、「その五悪とは、世間の人民徙倚懈惰にして、肯て善を作し身を治め業を修せず。
家室・眷属、飢寒・困苦す。
父母教誨すれば目を瞋らし怒りこたう、言令和せず、違戻反逆なり、たとえば怨家のごとし、子なきに如かず。取与節なく、衆共に患厭す、恩に負き義に違い、報償の心あることなし。貧窮困乏してまた得ること能わず、辜較縦奪し放恣遊散す、唐得を串数し、用いて自ら賑給す。酒に耽り美を嗜み飲食度なし。肆心蕩逸し、魯扈抵突にして人情を識らず、強いて抑制せんと欲す。人の善あるを見ては憎嫉して之を悪み、無義無礼にして顧難する所なし。
自ら用いて職当して諌暁すべからず。
六親眷属所資の有無、憂念すること能わず、父母の恩を惟わず、師友の義を存せず。

心常に悪を念じ、口常に悪を言い、身に常に悪を行じ、曾て一善なし。

先聖諸仏の経法を信ぜず、道を行じて度世を得べきことを信ぜず、死後神明更生ずるを信ぜず、善を作して善を得、悪を得して悪を得るを信ぜず。
真人を殺し衆僧を闘乱せんと欲し、父母・兄弟・眷属を害せんと欲す、六親憎悪してそれをして死せしめんと願う。
かくのごときの世人心意倶に然り。
愚痴矇昧にして自ら以って智慧とす。生の従来する所、死の趣向する所を知らず。
不仁・不順にして天地に悪逆す。
しかもその中において 倖僥を怖望し、長生を欲求すれども会ず当に死に帰すべし。
慈心教誨し、それをして善を念ぜしめ、生死・善悪の趣、自然にこれあることを開示すれども肯て之を信ぜず。
苦心に与に語れどもその人に益なし、心中閉塞し意開解せず。
大命将に終わらんとして悔懼交至る、あらかじめ善を修せず、窮まるに臨みて方に悔ゆ。
之を後に悔ゆとも将何ぞ及ばんや。
天地の間に五道分明なり、恢廓窈窕、浩々茫々として善悪報応し禍福相承く。
身自ら之に当る、誰も代わる者なし。
数の自然にしてその所行に応ず、殃苦命を追いて縦捨を得ることなし。
善人は善を行じて楽より楽に入り明より明に入る、悪人は悪を行じて苦より苦に入り、冥より冥に入る。
誰か能く知る者ぞ、独仏知るのみ。
教語開示すれども信用する者は少なし。
生死休まず悪道絶えず。
かくのごときの世人具さに尽すべきこと難し。
ゆえに自然の三塗、無量の苦悩あり、その中に展転し、世々累劫に出期あることなし、解脱を得難し痛み言うべからず。
これを五大悪・五痛・五焼となす。
勤苦かくのごとし、たとえば大火の人身を焚焼するがごとし。
人能く中において一心に意を制し、端身正念にして言行相副い、所作至誠にして語、語のごとく、心口転ぜず、独諸善を作し、衆悪を為らざれば、身独度脱してその福徳度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを五大善とするなり。」

仏、弥勒に告げたまわく、「吾汝等に語ぐ、この世の五悪、勤苦かくのごとし。五痛・五焼展転相生ず、但衆悪を作し、善本を修せざればみなことごとく自然にもろもろの悪趣に入る。
あるいはその今世に先殃病を被り、死を求むるに得ず、生を求むるに得ず。罪悪の招く所、衆に示して之を見しむ。身死し、行に随いて三悪道に入り、苦毒無量にして自ら相ソウ然す。その久しき後に至りて共に怨結を作し、小微より起こりて遂に大悪と成る。
みな財色に貪着し施恵すること能わざるに由る。痴欲に迫られ、心の思想に随いて煩悩結縛し、解已あることなし。己を厚くし利を諍い、省録するところなし、富貴・栄華時に当たりて快意し、忍辱すること能わず。
務めて善を修せず。威勢幾くもなし、随いてもって磨滅す。身労苦に坐し、久しくして後大に劇し。天道施張し自然に糺挙し、綱紀・羅網上下相応ず、煢々シュ々として当にその中に入るべし。古今にこれあり、痛ましきかな傷むべし。」

仏、弥勒に語りたまわく、「世間かくのごとし。仏みな之を哀み威神力をもって衆悪を摧滅し、ことごとく善に就かしむ。所思を棄捐し経戒を奉持し、道法を受行して違失する所なくば、終に度世泥オンの道を得ん。」
仏の言わく、「汝いまの諸天人民および後世の人、仏の経語を得、当に之を熟思し、能くその中において端心正行すべし。
主上善を為してその下を率化し、転た相勅令して、おのおの自ら端守、聖を尊び善を敬い、仁慈博愛にして仏語の教誨敢えて虧負することなく、当に度世を求め、生死衆悪の本を抜断すべし。当に三塗無量の憂畏苦痛の道を離るべし。
汝等ここにおいて広く徳本を植え恩を布き施恵して、道禁を犯すことなかれ。
忍辱・精進・一心・智慧、転た相教化し、徳を為し善を立て、正心正意にして斎戒清浄なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善を為すこと百歳するに勝れたり。
所以は何ん。彼の仏国土は無為自然にしてみな衆善を積み、毛髪の悪もなけばなり。ここにおいて善を修すること十日十夜すれば、他方諸仏国土において善を為すこと千歳するに勝れり。所以は何ん。
他方仏国は善を為す者は多く悪を為す者は少なし、福徳自然にして造悪なきの地なり。
ただこの間のみ悪多く自然なるあることなし、勤苦求欲し、転た相欺紿す、心労し形困しみ、苦を飲み毒を食う、かくのごとくソウ務して未だ甞て寧息せず。
吾汝等天人の類を哀み、苦心に誨喩し、教えて善を修せしむ。
器に随いて開導し経法を授与するに、承用せざるなし、意の所願にありてみな得道せしむ。
仏の遊履する所、国邑・丘聚化を蒙らざるはなし。天下和順に、日月清明に、風雨時をもてし、災レイ起こらず、国豊かに民安く、兵戈用いることなく、徳を崇び仁を興し、務めて礼譲を修す。」
仏の言わく、「我、汝等諸天人民を哀愍すること、父母の子を念うよりも甚だし。
今我、この世間において作仏し、五悪を降化し、五痛を消除し、五焼を絶滅し、善をもって悪を改め、生死の苦を抜き、五徳を獲、無為の安きに昇らしむ。吾世を去りて後経道漸く滅し、人民諂偽にしてまた衆悪を為し、五痛・五焼還って前の法のごとくならん。
久しくして後転た劇し。ことごとく説くべからず、我但汝がために略して之を言うのみ」
仏、弥勒に語りたまわく、「汝等おのおの善く之を思い、転た相教誡し、仏の経法のごとく、犯すことを得ることなかれ」ここにおいて弥勒菩薩、合掌して白して言さく、「仏の所説は甚だ苦なり、世人実に爾り、如来普慈哀愍しことごとく度脱せしむ。仏の重誨を受けて敢えて違失せざれ。」

仏、阿難に告げたまわく、「汝起ちて、更に衣服を整え、合掌恭敬し、無量寿仏を礼すべし。
十方国土の諸仏如来、常に共に彼の仏の無着無碍なるを称揚讃歎したまう。」
ここにおいて阿難起ちて、衣服を整え、正身西面し、恭敬合掌五体投地し、無量寿仏を礼し、白して言さく、「世尊、彼の仏の安楽国土およびもろもろの菩薩・声聞大衆を見んと願ず」と。
この語を説き已るに即時に無量寿仏大光明を放ちて普く一切諸仏世界を照らしたまう。
金剛囲山・須弥山王・大小の諸山・一切所有、みな同じく一色なり。
たとえば劫水の世界に弥満せるに、その中の万物沈没して現ぜず、滉瀁浩汗として唯大水を見るがごとく、彼の仏の光明もまたまたかくのごとし。
声聞・菩薩の一切の光明みなことごとく隠蔽して唯仏光の明曜顕赫なるを見る。
その時阿難、すなわち無量寿仏を見たてまつるに、威徳巍々として須弥山王の高く一切のもろもろの世界の上に出づるがごとし。
相好光明照曜せざるはなし。この会の四衆一時にことごとく見る。
彼にこの土を見るこもまたまたかくのごとし。
その時、仏、阿難および慈氏菩薩に告げたまわく、「汝彼の国を見るに、地より已上浄居天に至るまで、その中の所有微妙・厳浄自然の物、ことごとく見るとせんや、いなや」阿難、対えて曰く、「唯然りすでに見る」「汝むしろまた無量寿仏の大音一切世界に宣布し、衆生を化したまうを聞くや、いなや」阿難対えて曰く「唯然りすでに聞けり」「彼の国の人民、百千由旬の七宝の宮殿に乗じ、障碍することあることなし遍く十方に至り諸仏を供養す、汝また見るやいなや」対えて曰く「すでに見る。」
「彼の国の人民、胎生の者あり、汝また見るやいなや。」
対えて曰く「すでに見る。」「その胎生の者、処する所の宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬、おのおのその中においてもろもろの快楽を受くることトウ利天上のごとし、またみな自然なり。」
その時、慈氏菩薩、仏に白して言さく、「世尊、何の因、何の縁ぞ、彼の国の人民胎生・化生なる」仏、慈氏に告ぐ、「もし衆生ありて、疑惑の心をもってもろもろの功徳を修し彼の国に生れんと願じ、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、この諸智において疑惑して信ぜず。しかも猶罪福を信じ、善本を修習し、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、彼の宮殿に生じ、寿五百歳、常に仏を見ず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず。このゆえに彼の国土において之を「胎生」と謂う。もし衆生ありて明らかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳を作し、信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾の頃に身相光明・智慧功徳もろもろの菩薩のごとく具足し成就す。」
「また次に慈氏、他方仏国の諸大菩薩、発心して無量寿仏を見たてまつり、およびもろもろの菩薩・声聞の衆を恭敬し供養せんと欲せん。
彼の菩薩等、命終りて無量寿国に生ずることを得、七宝華中において自然に化生せん。弥勒、当に知るべし、彼の化生の者は、智慧勝るるがゆえに。
その胎生の者はみな智慧なし。五百歳の中において、常に仏を見ず、経法を聞かず、菩薩・もろもろの声聞衆を見ず、仏を供養するに由なし。
菩薩の法式を知らず、功徳を修習することを得ず。当に知るべし、この人は宿世の時、智慧あることなし。疑惑の致す所なり。」
仏、弥勒に告げたまわく、「たとえば転輪聖王の別に七宝の宮室ありて種々に荘厳し、床帳を張設し、もろもろの絵幡を懸けたらん。
もしもろもろの小王子ありて罪を王に得ば、すなわち彼の宮中に内れて繋ぐに金鎖をもてし、供給に飲食・衣服・床褥・華香・伎楽を供給転輪王のごとく乏少する所なけんがごとし。
意において云何ん、このもろもろの王子、むしろ彼の処を楽わんやいなや。」
対えて曰く、「いななり、但種々に方便し、もろもろの大力を求め、自ら免出するを欲せん。」
仏、弥勒に告げたまわく、「このもろもろの衆生もまたまたかくのごとし。
仏智を疑惑するをもってのゆえに彼の宮殿に生ず。
刑罰乃至一念の悪事あることなく但五百歳の中において三宝を見ず、供養しもろもろの善本を修することを得ず。
これをもって苦となし、余の楽ありといえども猶彼の処を楽わず。
もしこの衆生、その本罪を識り、深く自ら悔責し、彼の処を離れんと求むれば、すなわち意のごとく無量寿仏の所に往詣し、恭敬供養することを得、また遍く無量無数諸余の仏の所に至り、もろもろの功徳を修することを得ん。

弥勒、当に知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ずる者は大利を失すとす。
このゆえに応当に明らかに諸仏無上の智慧を信ずべし。」
弥勒菩薩、仏に白して言さく、「世尊、この世界において幾所の不退の菩薩ありて彼の仏国に生ぜん。」
仏、弥勒に告げたまわく、「この世界において六十七億の不退の菩薩ありて彼の国に往生せん。一々の菩薩、すでに曾て無数の諸仏を供養し、次いで弥勒のごとき者なり。もろもろの小行の菩薩、および少功徳を修習する者、称計すべからず、みな当に往生すべし」

仏、弥勒に告げたまわく、「但我が刹のもろもろの菩薩等彼の国に往生するのみならず、他方の仏土、またまたかくのごとし。
その第一仏を名づけて遠照と曰う、彼に百八十億の菩薩ありみな当に往生すべし。
その第二の仏を名づけて宝蔵と曰う、彼に九十億の菩薩ありみな当に往生すべし。
その第三の仏を名づけて無量音と曰う、彼に二百二十億の菩薩ありみな当に往生すべし。
その第四仏を名づけて甘露味と曰う、彼に二百五十億の菩薩ありみな当に往生すべし。
その第五仏を名づけて龍勝と曰う、彼に十四億の菩薩ありみな当に往生すべし。
その第六の仏を名づけて勝力と曰う、彼に万四千の菩薩ありみな当に往生すべし。
その第七仏を名づけて師子と曰う、彼に五百億の菩薩ありみな当に往生すべし。
その第八仏を名づけて離垢光と曰う、彼に八十億の菩薩ありみな当に往生すべし。
その第九仏を名づけて徳首と曰う、彼に六十億の菩薩ありみな当に往生すべし。
その第十仏を名づけて妙徳山と曰う、彼に六十億の菩薩ありみな当に往生すべし。
その第十一の仏を名づけて人王と曰う、彼に十億の菩薩ありみな当に往生すべし。
その第十二仏を名づけて無上華と曰う、彼に無数不可称計のもろもろの菩薩衆ありみな不退転にして智慧勇猛なり、すでに曾て無量の諸仏を供養し、七日の中においてすなわち能く百千億劫大士の所修堅固の法を摂取せり、これらの菩薩みな当に往生すべし。その第十三仏を名づけて無畏と曰う、彼に七百九十億の大菩薩衆あり、もろもろの小菩薩および比丘等称計すべからず、みな当に往生すべし」仏、弥勒に語りたまわく、「但この十四仏国の中のもろもろの菩薩等の当に往生すべきのみにあらず、十方世界無量仏国、その往生の者もまたまたかくのごとく甚だ多く無数なり。我但十方諸仏の名号および菩薩・比丘の彼の国に生ぜん者を説かんに、昼夜一劫すとも尚未だ竟ること能わじ、我今汝がために略して之を説くのみ。」
『流通分』
仏、弥勒に語りたまわく、「それ彼の仏の名号を聞くことを得るありて、歓喜踊躍し乃至一念せん。
当に知るべし。この人大利を得となす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり。
このゆえに弥勒たとえ大火の三千大千世界に充満するあれども、要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞き、歓喜信楽し、受持・読誦し、如説に修行すべし。
所以は何ん。
多く菩薩あり、この経を聞かんと欲すともしかも得ること能わず。
もし衆生ありてこの経を聞く者は無上道において終に退転せじ。
このゆえに応当に専心に信受し、持誦説行すべし。」
仏の言わく、「吾今もろもろの衆生のためにこの経法を説き、無量寿仏およびその国土の一切の所有を見しめん。
当に為すべき所の者はみな之を求むべし。
我が滅度の後をもってまた疑惑を生ずるを得ることなかれ。
当来の世に経道滅尽せん、我慈悲をもって哀愍し、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。
それ衆生ありてこの経に値う者は意の所願に随いてみな得度すべし。」
仏、弥勒に語りたまわく、「如来の興世は値い難く見難し。諸仏の経道も得難く聞き難し。菩薩の勝法・諸波羅蜜は聞くことを得るもまた難し。善知識に遇い法を聞きて能く行ずる、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽・受持せんは、難中の難、この難に過ぎたるなし。このゆえに我が法はかくのごとく作し、かくのごとく説き、かくのごとく教う。応当に信順し如法に修行すべし。」

その時、世尊、この経法を説きたもうに、無量の衆生みな無上正覚の心を発し、万二千那由他の人清浄法眼を得。
二十二億の諸天人民阿那含果を得。
八十万の比丘漏尽意解し、四十億の菩薩不退転を得。
弘誓の功徳をもって自ら荘厳す。将来の世において当に正覚を成ずべし。
その時、三千大千世界六種に震動し、大光普く十方国土を照らし、百千の音楽自然にして作り、無量の妙華粉々として降る。
仏、経を説き已りたもうに、弥勒菩薩および十方来の諸菩薩衆・長老阿難・もろもろの大声聞・一切の大衆、仏の所説を聞きて歓喜せざるはなし。」

仏説無量寿経巻下




曹魏の天竺三蔵康僧鎧訳す

(往因)[1.念仏往生] 釈尊が阿難に仰せになった。
「 さて、無量寿仏の国に生れる人々はみな正定聚に入る。なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものはいないからである。
(十七願成就文) 大宇宙のガンジス河の砂の数ほどの仏がたは、みな共に口をそろえて阿弥陀仏の名号のすばらしさ、はかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。
(本願成就文) 生きとし生けるものすべてが、その阿弥陀仏の名号を聞いた一念で大きな喜びが起きる。阿弥陀仏の方からまことの心をさしむけてくだされる。その極楽浄土に往生することがハッキリして、もう退転することがない。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。
さて、無量寿仏の国に生れようとする人々はみなこの世で正定聚に入る。なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものが生れることはないからである。すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。

[2.諸行往生] また阿難に仰せになる。
「 すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものに、大きく分けて上輩・中輩・下輩・三種がある。まず上輩のものについていうと、家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひらすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願うのである。このものたちが命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのである。だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい 」釈尊が続けて仰せになる。
「 次に中輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。そして善い行いをし、八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身のお姿を現してくださる。その身は光明もお姿もすべて報身そのままであり、多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのである。そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」
さらに続けて仰せになる。
「 次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにして限りなく無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心が無くなり、一念で無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである 」

[3.諸仏讃嘆] 釈尊が阿難に仰せになった。
「 無量寿仏の大いなる徳はこの上なくすぐれており、すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる。そのため、ガンジス河の砂の数ほどもある東の仏がたの国々から、数限りない菩薩たちがみな無量寿仏のおそばへ往き、その仏を敬って供養するのであって、その供養は菩薩や声聞などの聖者たちにまで及んでいる。そうして教えをお聞きして、人々にその教えを説きひろめるのである。南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々の菩薩たちも、また同様である」

[4.往勧之偈] そこで釈尊は、そのことを次ぎのように重ねてお説きになった。
東の仏がたの国はガンジス河の砂の数ほどに多いが、その国々の菩薩たちは、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見る。 南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々もまた同様であり、それらの国の菩薩たちも、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見るのである。菩薩はみなそれぞれに、うるわしい花とかぐわしい香と最上の衣をささげて、無量寿仏を供養したてまつる。
みなともに美しい音楽を奏で、みやびやかな音色を響かせ、すぐれた徳をうたいたたえて、次のように無量寿仏を供養したてまつる。 「 実にみ仏は神通力と智慧をきわめ尽し、深い教えの門に入り、すべての功徳をそなえ、そのすばらしい智慧は並ぶものがありません。その智慧の光明は世を照らし、迷いの雲を除いてくださいます 」 と。 うやうやしく三度右まわりにめぐって、伏してこの上なく尊いこの仏を礼拝したてまつる。その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしいことを知り、菩薩はこの上ないさとりを求める心を起こし、自分の国もこのようにありたいと願う。
そのとき無量寿仏はにっこりとほほえまれ、口から無数の光を放って、ひろくすべての国々をお照らしになる。もどってきた光は仏のお体を三度めぐって、その頭におさまり、すべての天人や人々はこれを見て、みなおどりあがって喜ぶのである。そこで観世音菩薩は服装を正し、伏して礼拝して問う。 「 み仏がほほえまれたのは、どのような理由からでしょうか。どうぞ、そのお心をお説きください 」 と。仏は雷鳴がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる。「 今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。これからそのことを説くから、よく聞くがよい。わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに必ず仏になることができる。すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。
すべては、稲妻や幻影のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである 」
仏がたは自分の国の菩薩たちに、無量寿仏を仰ぎ見るよう、次のようにお勧めになる。
「 この仏の教えを聞き、求めて修行し、速やかに清らかな世界を得るがよい。無量寿仏の清らかな国に往ったなら、すぐさま神通力を得て、無量寿仏によって仏となることが約束され、必ずさとりを得ることができるのである。この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る。そこで菩薩はすぐれた願をたて、自分の国もこの国に異なることがないようにと願い、ひろくすべてのものを救いたいと思い、その名をすべての世界にあらわしたいと望む。そして数限りない如来に仕えるため、神通力によりさまざまな国に往き、如来を敬い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである。もし人が功徳を積んでいなければ、この教えを聞くことはできない。清らかに戒を守ったものこそ正しい教えを聞くことができる。以前に仏を仰ぎ見たものは、無量寿仏の本願を信じ、うやうやしく教えを尊び、仰せのままに修行をして喜びが満ちあふれるに至る。おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のある人々は、この教えを信じることができない。
過去世に仏がたを仰ぎ見たものは、喜んでこの教えを聞くことができる。
声聞や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。ただ仏だけがお知りになることができる。たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。そもそも人として生れることは難しく、仏のお出ましになる世に生まれることもまた難しい。その中で信心の智慧を得ることはさらに難しい。もし教えを聞くことができたなら、努め励んでさとりを求めるがよい。教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそわたしのまことの善き友である。だからさとりを求める心を起すがよい。たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、教えを聞くがよい。そうすれば必ず仏のさとりを完成して、ひろく迷いの人々を救うであろう 」 と。

(果報)[1.一生補所] 釈尊が阿難に仰せになった。
「 その国の菩薩たちは、みな一生補処の位に至ることができる。ただし、その菩薩の願によっては、人々のために尊い誓願の功徳を身にそなえて、その位につかないでひろくすべての人々を救うこともできる。
阿難よ、その国の声聞たちが身から放つ光は一尋であるが、菩薩の放つ光は百由旬を照らす。中でもふたりのも菩薩がもっともすぐれていて、その神々しい光はひろく世界中を照らすのである」
ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「 そのふたりの菩薩は何というお名前なのでしょうか」
釈尊が仰せになる。
「 ひとりを観世音といい、ひとりを大勢至という。このふたりの菩薩は、かつてこの娑婆世界で菩薩の修行をし、命を終えた後、無量寿仏の国に生れたのである。
阿難よ、だれでもその国に生れたものは、みな仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえて、智慧に満ちあふれ、すべてのものの本性をさとって教えのかなめをきわめ尽し、自由自在な神通力を得て、すべてを明らかに知ることができる。そして、資質に応じてあるものは音響忍や柔順忍を得、あるものは尊い無生法忍を得るのである。またその菩薩たちは、仏になるまで二度と迷いの世界に帰ることがなく、自由自在な神通力で常に過去世のことを知り尽くしている。ただし、わたしがこの国に出てきたように、菩薩自身の願によって、他の五濁に満ちた悪い世界に生れ、そこの人々と同じ姿を現すことも自由である」

[2.供養諸仏] 続けて釈尊が仰せになる。
「 その国の菩薩たちは無量寿仏のすぐれた神通力を受けて、一度食事をするほどの短い時間のうちにすべての数限りない世界に行き、さまざまな仏がたを敬い供養する。香り高い花・音楽・天蓋・幡など、思いのままに数限りない供養の品々がすぐさまおのずから現れてくるのであるが、みなとりわけすぐれて珍しく、この世では見られないものばかりである。菩薩がそれらの品々を仏がたや菩薩や声聞たちにささげると、まかれた花は空中で花の天蓋となってきらきら輝き、香りがあたり一面に広がる。この花の天蓋は、周囲が四百里のものから、だんだん大きくなって世界中をおおうほどのものまである。そしてそれらの花の天蓋は、新しいものが現れるにしたがい、前のものから次々と消えてなくなる。菩薩たちはともに喜びにひたり、空中にあって美しい音楽を奏で、すばらしい歌声で仏の徳をほめたたえ、教えを聞いて限りない喜びを得る。このようにして仏がたを供養しおわり、食事の時までに、たちまち身もかるがると無量寿仏の国に帰るのである 」

[3.聞法供養] さらに釈尊が阿難に仰せになる。
「 無量寿仏が声聞や菩薩たちに法をお説きになるとき、すべてのものは七つの宝で飾られた講堂に集まる。そこでひろく教えを説き、すばらしい法をお述べになると、これを聞いてみな喜び、心に受けとめて、さとりを開かないものはない。そのとき、あたり一面からおのずから風がおこって宝の樹々に吹きわたると、さまざまな音を出し、数限りなく美しい花を降らし、その花が風に運ばれて国中に散りしかれる。このような供養がおのずからおこり、絶えることがない。また天人はみな、数えきれないほどの香り高い花や万にものぼるさまざまな種類の音楽で、無量寿仏をはじめ菩薩や声聞たちを供養する。香り高い花をひろく散らし、さまざまな音楽を奏で、自由に行き交うのであるが、そのときの快さ楽しさはとても言葉にいい尽くすことができないほどである 」

[4.説法自在] さらに釈尊が阿難に仰せになる。
「 無量寿仏の国に生れた菩薩たちは、教えを説く相手に対して常に正しい法を説き述べ、仏の智慧にかなって決して誤ることがない。 その国土のすべてについて自分のものだという思いはなく、それに執着する心もない。どの国へ行くのも帰るのも、進むのもとどまるのも、自分の思いにとらわれることがなく自由自在であって、何ものも疎んじることがない。自分と他人とにへだてがなく、人と競い争うこともない。あらゆるものに大いなる慈悲をもって利益を与えようとするのである。いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持たず、煩悩を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない。つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、すぐれた志、深い慈悲、乱れることのない静かな心、あるいは教えを愛し楽しみ喜ぶ心ばかりで、すべての煩悩を滅し迷いの心を離れているのである。 

[5.二利円満] またすべての菩薩の修行をきわめて、はかり知れない功徳をすべてその身にそなえ、深い禅定とさまざまな智慧を得て、七菩提分を修行し、仏のさとりを求める。その眼は五眼の徳をそなえており、清く澄みとおって、明らかでないものは何もなく、すべての世界を自由に見とおし、さまざまな道を見きわめ、平等の真理に到達し、すべてのものの本性をさとり尽している。こうして、何ものにもさまたげられない智慧によって、人々のために法を説く、迷いの世界はみな空であり、とらわれるようなものはないと見きわめて、仏のさとりを求め、巧みな弁舌の智慧によって人々の煩悩のわずらいを除くのである。真如の世界から現れ出た菩薩であるから、すべてのもののまことのすがたをさとっており、人々に善を積ませ悪を除かせる手だてを心得ていて、世俗の理屈を好まず、まことの道理だけを楽しむのである。
これらの菩薩たちは、さまざまな功徳を積んで仏のさとりを敬い求め、すべては本来空であるとさとり、肉体も煩悩も、迷いの因果はともに尽き、奥深い教えを聞いて疑いためらうことなく、常によく修行する。その大いなる慈悲は実に深くすぐれており、すべてをわけへだてることがない。
大乗の教えをきわめて、人々をさとりの世界に至らせ、疑いの網をすべて断ち切り、智慧はその心からわき出て、仏の教えをすべて残すことなく知り尽している。その智慧は大海のように深く広く、その禅定は須弥山のように揺らぐことがない。智慧の光が清く明らかなことは太陽や月に越えすぐれており、清らかな功徳はすべて欠けることなくそなわっている。 それはまた雪山のようである。すべての功徳を等しく清らかに照らし輝かすから。また大地のようである。清らかなものも汚れたものも善いものも悪いものも、わけへだてなくその上に載せるから。また清らかな水のようである。さまざまな煩悩の汚れを洗い除くから。またさかんに燃える火のようである。煩悩の薪をみな残らず焼き尽くすから、また激しく吹く風のようである。 どの世界にあってもさまたげられることなく活動するから。 また大空のようである。すべてのものにとらわれないから。 また蓮の花のようである。世俗の中にあっても汚れに染まらないから。 また大きな乗りもののようである。多くの人々を載せて迷いの世界から運び出すから。 また厚い雲のようである。雷鳴をとどろかせるように法を説き、目覚めていない人々の目を覚すから。 また大雨のようである。すぐれた教えを甘露のように降りそそいで人々を潤すから。 また鉄囲山のようである。さまざまな悪魔や外道のものも揺り動かすことができないから。 また梵天のようである。さまざまな善い教えで人々を導くもっともすぐれたものであるから。 また尼狗類樹のようである。すべてのものをおおってその木陰に入れるから。 また優曇華のようである。世に出ることがまれであって容易に出会うことはできないから。 また金翅鳥のようである。すぐれた力により外道のものをひれ伏させるから。 また小鳥のようである。決して余分にはたくわえないから。また牛の王のようである。何ものにも負かされないから。 また象の王のようである。すべてを巧みに制御するから。 また獅子の王のようである。何ものをも恐れることがないから。 その慈悲の広いことは大空のようである。すべての人々を平等に慈しむから。
また、菩薩たちは嫉妬心を滅ぼして、人をねたむようなことがないから、ひたすら教えを願い求めて飽きることがなく、いつも人々のために法を説こうと思い、疲れることがない。太鼓を打ち旗を立てて勇ましく進むように仏法をひろめ、智慧の光を輝かせて愚かさの闇を除き、互いに敬いあい、常に法を説き、雄々しく努め励んで、志が中途でひるむようなことはない。菩薩たちは、世を照らす灯となり、また人々のもっともすぐれた功徳のもととなる。いつも人々のために指導者となり、すべてのものに対して等しくわけへだてをせず、ひたすら正しい法を説こうと願い、他に喜び憂えることは何もない。さまざまな欲望の刺を抜いて、多くの人々を心安らかにするのである。このようにその功徳や智慧や実にすぐれているから、だれひとりとしてこれらの菩薩を尊敬しないものはない。
この菩薩たちは、煩悩の汚れを滅し、さまざまな神通力を自由に使うことができる。
因の力、縁の力、意思の力、誓願の力、方便の力、不断に努める力、功徳を積む力、禅定の力、智慧の力、聞法の力、六波羅蜜を行ずる力、正しく念じ正しく観ずる不可思議な力、教えのままに人々を導く力など、このような力をすべてその身にそなえているのである。
その国の菩薩たちは、すぐれた姿やさまざまな功徳や弁舌の智慧などをそなえて世間に並ぶものがない。また、数限りない仏がたを敬い供養したてまつり、そしてその仏がたもみな、いつもこの菩薩をほめたたえておいでになる。さらに菩薩が修める六波羅蜜の行をきわめ、空・無相・無願三昧や、不生不滅をさとる三昧などのさまざまな三昧を修めて、声聞や縁覚の位をはるかに超えすぐれている。
阿難よ、その国の菩薩たちはこのようなはかり知れない功徳をそなえているのである。今、わたしはそなたのためにそのほんの一部を説いたのであって、もし詳しく説けば、どれほど長い年月をかけても説き尽すことはできない 」

(1.総勧誡)
釈尊は弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになった。
「 無量寿仏の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧がすぐれていることは、言葉に表し尽せない。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。 それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。

(2.三毒訓誡)[1.貪欲之誡] ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。
田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩む。
それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ちつくときがない。怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉して気の晴れることがない。また災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできない。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがある。その悩みや心配は実にさまざまである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。
また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでいる。田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品品に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのである。
たまたま一つが得られると他の一つが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりはすべてを取りそろえたいと思う。そうしてやっとこれらのものがみなそろったと思っても、すぐにまた消え失せてしまう。そこで嘆き悲しんでふたたびそれを求めるが、もうそのときには得ることができず、ただ思い悩むばかりで身も心も疲れはて、何をしていても安まることがない。いつも憂いに沈んで、このように苦しむのである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。またときには、そういう苦悩のために、命を縮めて死んでしまうことさえある。善い行いをせず、修行して功徳を得ようともしないで、寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていく。行いに応じて行く先は決っているが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのである。

[2.瞋恚之誡] 世間の人々は、親子・兄弟・夫婦などの家族や親類縁者など、互いに敬い親しみあって、憎みねたんではならない。また持ちものは互いに融通しあって、むさぼり惜しんではならない。そしていつも言葉や表情を和らげて、逆らい背きあってはならない。争いを起して怒りの心を生じることがあれば、この世ではわずかの憎しみやねたみであっても、後の世にはしだいにそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなるのである。なぜならこの世では、人が互いに傷つけあうと、たとえその場ではすぐ大事に至らないにしても、悪意をいだき怒りをたくわえ、その憤りがおのずから心の中に刻みつけられて恨みを離れることができず、後にはまたともに同じ世界に生れて対立し、かわるがわる報復しあうことになるからである。
人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代わってくれるものはない。善い行いをしたものは楽しい世界に生れ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生れるというように、おのおのその行く先が異なっており、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生れて行くのである。そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできない。それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。ふたたび会うことなど、まことに難しい限りである。
それなのにどうして人々は世間の雑事をふり捨てないのか。各自が元気なうちにつとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生れたいと願うなら、限りない命が得られるのである。どうしてさとりを求めないのだろうか。何を期待しているのだろうか。いったいどういう楽しみを望んでいるのだろうか。

[3.愚痴之誡] このような世間の人々は、善い行いをして善い結果を得ることや、仏道を修めてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることや、人に恵み施せば福が得られることを信じない。善悪因果の道理をまったく信じないで、そのようなことはないと思い、あくまで認めようとしない。このように因果の道理を信じないから、自分の誤った見方にとらわれ、またそれをかわるがわる見習って、先のものも後のものも同じように誤る。そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのである。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもない。善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもない。
生れ変り死に変りして絶えることのないのが世の常である。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあう。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。これが無常の道理である。すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできない。この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。そのためいつまでも生れ変り死に変りして、とどまるときがないのである。
こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかリである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぼることは、まるで飢えた狼のようである。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか。
あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、一方が死に一方が残されることになり、互いに別れを悲しみ、切ない思いで慕いあって憂いに沈み、心を痛め思いをつのらせる。そうして長い年月を経ても相手への思いがやまず、仏の教えを説き聞かせてもやはり心が開かれず、昔の恩愛や交流を懐かしみ、いつまでもその思いにとらわれて離れることがない。心は暗く閉じふさがり、愚かに迷っているばかりで、落ちついて深く考え、心を正しくととのえてさとりの道に励み、世俗のことを断ち切ることができない。こうしてうかうかしているうちに一生が過ぎ、寿命が尽きてしまうと、もはやさとりを得ることができず、どうするすべもない。世の中すべてが濁り乱れており、みな欲望をむさぼって、迷うものが多く、さとるものが少ないのである。まことに世間はあわただしくて、何一つ頼りにすべきものがない。それにもかかわらず、身分の高いものも低いものも、富めるものも貧しいものも、みなともにあくせくと世渡りのために苦しんでいる。そして各自が毒を含んだ恐ろしい思いをいだき、外にはその思いを見せないで、みだりに悪事を犯すのである。これは世の道理に背き、人の道にもはずれた行いである。
このような人々は、これまでの悪い行いが必ず悪い縁となって、またほしいままに悪い行いを重ねるのである。ついにその罪が行きつくところまで行くと、定まった寿命が尽きないうちに、とつぜん命を奪われて苦しみの世界に落ち、繰り返しその世界に生れ変り死に変りして、何千億劫もの長い間、浮び出ることができない。その痛ましさはとうてい言葉にいい表せない。実に哀れむべきことである 」

[4.釈尊之勧説] 続けて釈尊が弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになる。 「 わたしは今、そなたたちに世間のありさまを語った。人々はこういうわけでさとりの道に入ることがないのである。そなたたちはじっくりとよく考えていろいろな悪を遠ざけ、善い行いに励むがよい。欲望にまかせた生活も、またどのような栄華も、いつまでも続くものではなく、すべて失われてしまう。本当に楽しむべきものは何一つない。さいわいにも今は仏が世にいるのであるから、努め励んでさとりを求めるがよい。まごころをこめて無量寿仏の国に生れたいと願うものは、明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである。欲にまかせて仏の戒めに背き、人に後れを取るようなことがあってはならない。もし疑問があって、わたしの教えることがよく分からないようなら、どのようなことでも尋ねるがよい。わたしはそのもののために説いて答えよう 」
弥勒菩薩がうやうやしくひざまずいて申しあげる。
「 世尊の神々しいお姿は実に尊く、お説きになった教えはまことにありがたく存じます。世尊の教えを聞かせていただいて、よくよく考えてみますと、世の人々のありさまはまことに仰せの通りであリます。今、世尊が哀れみの心を持ってまことの道をお示しくださいましたので、わたしたちは真実を聞く耳と真実を見る目を得て、この先長く迷いを離れることができました。世尊の教えをお聞きして喜ばないものはありません。天人や人々をはじめ小さな虫などに至るまで、みなそのお慈悲によって煩悩を離れることができます。
世尊の教えは、実に深く実に巧みであります。その智慧は、明らかにすべての世界、すべての時を見とおして、きわめ尽くさないことがありません。今わたしたちが迷いを離れることができのは、ひとえに、世尊の前世においてさとりをお求めになったとき、ご苦労していただいたおかげであります。世尊の恩徳はひろく人々をおおい、さとりの徳は高くすぐれ、光明は余すところなく照らし、空の道理をきわめ尽しておいでになリます。さらに、さとりの道を開いて人々を導き入れ、教えのかなめを説き述べ、誤った考えを正し、すべての世界を打ち震わせることは、まことにきわまりがありません。世尊は法門の王として、他の聖者がたに超えすぐれてひときわ尊く、ひろくすべての天人や人々の師として、その願いに応じて、みなさとりを得させてくださるのであります。今わたしたちは世尊にお会いすることができ、また無量寿仏のことを聞かせていただいて、喜ばないものはひとりもおりません。みな心が開かれて、くもりが除かれました 」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 そなたのいう通りである。仏を敬愛することは実に大きな功徳となる。仏が世に出るのはきわめてまれなことであるが、今わたしはこの世で仏となって法を説き、教えをひろめ、さまざまな疑いを断ち切り、執着を根本から抜き去り、すべての悪の源を閉じふさぎ、迷いの世界へ行って自由自在に人々を導いている。教えを取りまとめる仏の智慧はすべてのさとりの道のかなめであり、教えは筋道を固くたもってはっきりしている。そしてこれを迷いの世界の人々に開き示して、まだ救われていないものを救い、迷いの世界とさとりの世界を正しく明かすのである。
弥勒よ、知るがよい。そなたは、はかり知れないほどの遠い昔から菩薩として修行をし、人々を救おうと願い、今日まで限りない時を経てきた。そしてその間、そなたによって仏道に入り、さとりを開いたものは数えきれないほど多い。しかしながら、そなたをはじめ、さまざまな世界の天人や人々は、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、みなはるかな昔から迷いの世界に生れ変り死に変りして憂え苦しみ続けてきたのであって、そのありさまを詳しく述べ尽くすことはできない。そして、今もなお迷いの世界にとどまり続けている。このたびそなたたちは仏に出会い、教えを聞き、また無量寿仏のことを聞くことができた。まことに喜ばしく、実に善いことである。わたしもそれをともに喜びたい。
そなたたちは、今こそ生・老・病・の苦しみを離れようと思うがよい。この世は醜く汚れに満ちていて、楽しむべきものは何もない。すすんで決断して、身も行いも正しくし、より多くの善い行いをし、身をつつしんで心の汚れを洗いきよめ、言葉と行いに偽りなく、裏表のないようにするがよい。そして自分が迷いを離れるとともに他の人々をも救い、往生してさとりを得ることをひたすら願って、功徳を積むがよい。一生涯、努め励み苦しんだとしても、それはほんのしばらくの間であって、後には無量寿仏の国に生れてきわまりない楽しみを受けるのである。それから先はずっとさとりにかなって智慧が明らかとなり、永遠に迷いの世界から離れ、ふたたび貪りや怒りや愚かさのために苦しむことはない。寿命は一劫でも百劫でも、あるいは千万億劫でも、自由自在に得ることができる。まことにその国ははからいを離れた世界であり、涅槃のさとりに至るのである。だから、そなたたちはそれぞれに努め励んで、往生を求めるがよい。疑いを起して途中でやめ、すすんで罪をつくることとなり、その国土のほとりにある七つの宝でできた宮殿に生れ、五百年の間、仏を見たてまつらないなどのわざわいを受けるようなことがあってはならない 」
そこで弥勒菩薩がお答えした。
「 世尊の懇切丁寧な教えをいただきましたからには、ひたすらさとりを求めて仰せの通りに修行し、決して疑うようなことはございません 」

(3.五悪訓誡) [1.総誡] 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 そなたたちが、この世において心を正しくして、いろいろな悪を犯さなければ、それはきわめてすぐれた徳であり、すべての世界に類をみないことであろう。なぜなら、他の仏がたの国の天人や人人はおのずから善い行いができ、悪を犯すことがほとんどなく、さとりの世界に導き入れることがたやすいからである。今わたしがこの世界で仏となって、次に述べるような五悪と、五痛と、五焼に満ちた世の中にいることは、たいへんな苦労なのである。しかしその中で人々を教え導いて、五悪をやめさせ、五痛を遠ざけ、五焼を離れさせ、そしてその悪い心を抑えて、五善をたもたせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させたいと思う 」
釈尊が続けて仰せになる。「 それでは、その五悪、五痛、五焼とは何であるか、また、五悪を除いて五善をたもたせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させるとはどういうことか、これから説き述べよう 」

[2.第一悪] 釈尊が仰せになる。
「 第一の悪とは次のようである。天人や人々をはじめ小さな虫のたぐいに至るまで、すべてのものはいろいろな悪を犯しているのであって、強いものは弱いものをしいたげ、互いに傷つけあい殺しあっている。善い行いをすることを知らず、五逆十悪の罪を犯して道にはずれているものは、後にその罪の罰としておのずから悪い世界へ行かなければならない。天地の神々がその人の犯した罪を記録していて、決して許さない。それでこの世には、貧しいものや、身分の低いものや、身よりのないものや、身心の不自由なものや、才知の劣ったものなどさまざまな不幸な人がいるのである。また身分の高いものや、裕福なものや、才知のすぐれたものなどがいるのは、みな過去世で人を慈しみ、親に孝行を尽すというような善い行いをして徳を積んだことによるのである。世の中には法令に定められた牢獄があるのに、少しも恐れないで悪い行いをし、罪を犯しその刑罰を受ける。それをどれほど逃れたいと思っても、逃れることはできない。この世にも現にこのような苦痛がある。さらに命を終えて後の世には、ひときわ深く激しい苦痛を受けなければならない。苦しみの世界に生れ変ることは、この世界でもっともきびしい刑罰を受けるのと同じほどの苦痛である。
このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受ける。次々とその身を変え姿を変えて苦しみの世界をめぐり、長短の寿命を受けるのであってそのこころはおのずから行くべきところに行くのである。そしてたとえひとりで行っても、前世に憎みあったもの同士は同じところに生れあわせ、かわるがわる報復しあって尽きることがなく、犯した罪が消えない限り、互いに離れることができない。こうして地獄や餓鬼や畜生の世界を転々とめぐって、浮かび出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。世の中にはこのような因果の道理がある。たとえ善悪の行いによって、すぐにその結果が現れなくても、いつかは必ずその報いを受けなければならない。これを第一の大悪、第一の痛、第一の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければその人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第一の大善というのである」

[3.第二悪] 釈尊が言葉をお続けになる。
「 第二の悪とは次のようである。世間の人々は、親子も兄弟も夫婦など一家のものも、道義をまったくわきまえず、規則にしたがわず、贅沢を好み、みだらで、人を見下し、勝手気ままで、各自が快楽を求め、思いのままに互いを欺き惑わしあっている。言葉と思い
が別々で、そのどちらも誠実でなく、へつらい上手でまごころに欠け、言葉巧みにお世辞をいい、賢いものをねたみ、善人を悪くいい、他人をけなしおとしいれるのである。
もし上に立つものが愚かであり、よく考えずに下のものを用いると、下のものは、思うがままにいろいろな策を弄して巧みに悪事をはたらく。国法を守り世情によく通じたものがいても、上に立つものがその地位にふさわしい力量をそなえていないから、そのために欺かれて、忠義を尽すものはかえって不遇な目にあうばかりである。これは道理に反している。このように下のものが上のものを欺き、子は親を欺き、兄弟・夫婦・親族・知人に至るまで、互いに欺きあっているのである。それは各自が貪りと怒りと愚かさをいだいて、できるだけ自分が得をしようと思うからであって、この心は身分や地位にかかわらず、みな同じである。そのために家を失い身を滅ぼし、先のことも後のこともよく考えないで、親類縁者まで被害にあって破滅してしまう。
あるときは、親族や知人、町や村のもの、また素姓の知れないものたちが、ともに悪事にたずさわり、互いに利益を争って腹を立て、恨みをいだくこともある。また裕福でありながらも物惜しみして人に施し与えようとせず、財産に執着するばかりで身も心もすりへらしてしまう。こうしていよいよ命が終わる時には、何もあてにできるものがなく、結局、独り生れ来て独り世を去るのであって、何も持っていくことはできない。善も悪も禍も福も、すべては因果の道理にしたがうのであり、天人や人間として生れるものもいれば、地獄や餓鬼や畜生の世界に生れるものもいる。そうなってからいくら後悔しても、もはやどうにもならない。
世間の人々は愚かで智慧も浅く、善い行いを見ればそれを悪くいい、その行いを見習おうと思わず、ただ悪事を好んで、道理に背いたことばかりをするのである。他人が得をしていると、それを見ていつもうらやみ、盗んで手に入れようと思い、盗めばすぐに使いはたして、また手に入れようとする。心がよこしまで正しくないから、いつも人の顔色をうかがい恐れ、先のことなど考えもせず、事が起きてようやく後悔するというありさまである。
この世には現に法令に定められた牢獄があるから、罪に応じてその刑罰を受けなければならない。前世においてさとりの徳を信じず、功徳を積まずに、この世でまた悪を犯すなら、天の神がその罪を漏らさず記録しているから、命が終われば悪い世界に落ちなければならないのである。このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを、第二の大悪、第二の痛、第二の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第二の大善というのである 」

[4.第三悪] さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「 第三の悪とは次のようである。世間の人々は、みな寄り集って同じ世界の中に住んでいるが、その生きている年月はそれほど長くはない。しかしその短い生涯の中にも、上は賢いものや力のあるもの、また身分の高いものや裕福ものなど、下は貧しいものや身分の低いもの、また力のないものや愚かなものなどに分かれる。そしてそのどちらの中にも、善くないものがいるのである。
そのものはいつもよこしまな思いをいだき、みだらなことばかり考えて、悶々と思い悩み、愛欲の心が入り乱れて、何をしていても安まることがない。そしてあくまで執念深く、みだらな思いをとげようとばかりする。きれいな人を見ては流し目を使ってみだらな振舞いをし、自分の妻をうとましく思ってひそかに他の女性のところに出入りする。そのために家財を使いはたして、ついには法を犯すようになるのである。 あるものは徒党を組んで互いに争い、相手をおどかし攻め殺してまで、欲しいものを強奪するという非道な行いに及ぶ。あるものは他人の財産に目をつけ、自分の仕事をおこたり、それを盗んで少しでも得られると、欲にかられて一層大きな悪事をはたらくようになり、ついには、びくびくしながらも他人をおどして財産を奪い取り、それによって妻子を養い、手当たり次第にみだらな楽しみをむさぼる。ときには親族に対してさえも、年の上下に関係なく礼儀を乱して、家族や親類などがそのために憂え苦しむのである。
このような人々も法令で禁じていることを恐れないものであるが、こういう悪は人にも鬼神にも知られ、太陽や月の光も照らし出し、天地の神も記録している。このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第三の大悪、第三の痛、第三の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないようにと努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第三の大善というのである 」

[5.第四悪] さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「 第四の悪とは次のようである。世間の人々は善い行いをしようとせず、互いに次々と人をそそのかして、さまざまな悪を犯している。二枚舌を使い、人の悪口をいい、嘘をつき、言葉を飾りへつらって、人を傷つけ争いを起すのである。
あるいは善人をねたみ賢いものをおとしめて、自分は陰にまわって喜んでいる。また両親に孝行をせず、恩師や先輩を軽んじ、友人に信用なく、何ごとにも誠実さを欠いている。しかも自分自身は尊大に構えて、自分ひとりが正しいと思い、むやみに威張って人を侮り、自分の誤りを知らずに、悪を犯して恥じることがない。また自分の力を誇って、人が敬い恐れることを望むというありさまである。
このような人々は天地の神々や太陽や月に知られることを恐れず、教え導いても善い行いをせず、まったく手の施しようがない。自身は横着を決めこんで、いつまでもそうしていられると思い、将来を憂えることなどなく、いつも傲慢な心をいだいているのである。
このようなさまざまな悪は天の神によって残らず記録される。だから、その人が前世で少しばかり功徳を積んでいたことにより、しばらくの間はそのおかげで都合よくいくとしても、この世で悪を犯して功徳が尽きてしまえば、多くの善鬼神に見放され、ひとりきりとなり、もはや何一つ頼るものがなくなってしまう。そうして寿命が尽きると、これまでに犯したさまざまな悪がおのずからその身に集まってきて、その人とともに次の世に至る。また天の神がその行いをすべて記録しているから、その罪に引かれて行くべきところへ行くのである。罪の報いは必然の道理で、決して逃れることができない。やがては必ず地獄の釜に入って、身も心も粉々に砕かれて痛み苦しむことになる。そのときになってどのように後悔しても、もはや取り返しはつかない。まことに因果の道理は必然であって、少しのくい違いもないのである。
このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知るない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第四の大悪、第四の痛、第四の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第四の大善というのである 」

[6.第五悪] さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「 第五の悪とは次のようである。世間の人々は、おこたりなまけてばかりいて、善い行いをし、身をつつしみ、自分の仕事に励もうとはいっこうにせず、一家は飢えと寒さに困りはてる。親が諭しても、かえって目を怒らせ、言葉も荒く口答えをする。その逆らうようすはまるでかたきを相手にするようであって、こんな子ならむしろいない方がいいと思われるくらいである。
また物のやりとりにしまりがなく、多くの人々に迷惑をかけ、恩義を忘れ、報いる心がない。そのためますます貧困に陥って、取り返しのつかないようになる。そこで、自分の得だけを考えて、他人のものまで奪い取り、好き放題に使ってしまう。それが習慣となって、ひとり贅沢な生活をし、むやみに美食を好み美酒にふける。そうして勝手気ままに振舞い、自分の愚かさは省みずに人と衝突する。相手の気持ちを考えることなく、無理に人を押えつけようとし、人が善いことをするのを見てはねたんで憎み、義理もなければ礼儀もなく、わが身を省みず、人にはばかるところがない。それでいて自分は正しいものとうぬぼれているのであるから、戒め諭すこともできない。親兄弟や妻子など、一家の暮しむきがどうあろうと、そんなことには少しも気を配らない。親の恩を思わず、師や友への義理もわきまえない。心にはいつも悪い思いをいだき、口にはいつも悪い言葉をいい、身にはいつも悪い行いをして、今まで何一つ善い行いをしたことがないのである。
また古の聖者たちや仏がたの教えを信じない。修行により迷いの世界を離れてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることを信じない。善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果を招くことを信じない。さらに心の中では、聖者を殺し、教団の和を乱し、親兄弟など一家のものを傷つけようとさえ思っている。そのため身内のものから憎みきらわれて、そんなものは早く死ねばいいと思われるほどである。
このような世間の人々の心はみな同じである。道理が分らず愚かでありながら、自分は智慧があると思っているのであって、人がどこからこの世に生れてきたか、死ねばどこへ行くかということを知らない。また思いやりに欠け、人のいうことにも耳を貸さない。このように道にはずれたものでありながら、得られるはずもない幸福を望み、長生きしたいと思っている。しかし、やがては必ず死ぬのである。それを哀れに思って教え諭し、善い心を起させようとして、生死・善悪の因果の道理が厳然としてあることを説き示すのであるが、これを信じようとしない。どれほど懇切丁寧に語り聞かせても、それらの人には何の役にもたたず、心のとびらを固く閉ざして、少しも智慧の眼を開こうとしない。そして、いよいよこの世の命が終ろうとするとき、心に悔いと恐れがかわるがわる起きるのである。以前から善い行いをせずにいて、そのときになってどれほど後悔しても、もはや取り返しはつかない。
この世界は五道輪廻の因果の道理が明白であって、それは実に広く深いものである。善い行いをすれば自分自身にしあわせをもたらし、悪い行いをすれば自分自身にわざわいをもたらすのであって、だれもこれに代わるものはない。まことに因果応報の道理は必然である。悪い行いをすれば罪はそのものにつきしたがい、決して捨て去ることはできない。善人は善い行いをして、より好ましい世界へ生れ変り、ますますさとりの世界へ近づくのであり、そして悪人は悪い行いをして、より苦しい世界へ生れ変り、ますます深く迷いの世界へ沈むのである。この道理はだれも知るものがなく、ただ仏だけが知っている。そのため、わたしはこの道理を人々に教え示しているのであるが、信じるものは少ない。それでいつまでも生れ変り死に変りして、迷いの世界を離れることができないのである。このような世間の人々のありさまは、そのすべてを述べ尽くすことなどとてもできない。
このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第五の大悪、第五の痛、第五の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に焼かれるようである。
もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も心も正しくし、言行を一致させ、行いも言葉もすべて誠実で、思いと言葉が相違せず、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第五の大善というのである 」

[7.釈尊之勧説] 続けて釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 今わたしがそなたたちに語ったように、世の人々はこの五悪のために苦しんでいるのであって、その五悪から次々に五痛・五焼の報いが生れるのである。いろいろな悪ばかりを犯して功徳を積まないなら、みなおのずからさまざまな苦しみの世界に生れる。あるものはこの世で難病をわずらい、死にたいと思っても死ぬことができず、生きたいと思っても生きることができないで、罪の報いを世の人々の前にさらすのである。そして命が終われば、その行いに応じて地獄や餓鬼や畜生の世界に沈み、はかり知れない苦しみにその身を焼き焦がして苦しむのである。
長い時を経てふたたび人間界に生れても、また互いに憎みあって、小さな悪から始まりやがて大きな悪を犯すようになる。これはすべて、財欲や色欲をむさぼって人に恵みを施すことができないからである。人々は愚かな欲望に追い回されて、わがままな考えをいだき、いつまでも煩悩に縛られたままで、自分の利益ばかりを考えて他人と争い、悪い行いを反省してすすんで善い行いをしようとはしない。たまたま裕福になり繁栄しても、一時の快楽にふけり、耐え忍ぶことがなく、すすんで善い行いをしようとしないために、その勢いも長続きしないですぐに落ちぶれてしまう。身に受ける苦しみは尽きることなく、後の世になるほどその激しさを増すのである。
因果の道理はちょうど網を広げたように世界中をおおい、一つの罪も見逃すことなく数えあげ、その張りめぐらされた網にすべてのものは捕えられて、逃れることができない。ただひとりおののきながら、その網にかかって報いを受けるのである。これは今も昔も変ることがない。まことに痛ましい限りではないか」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 世の人々がこういうありさまであるから、仏がたはみなこれを哀れみ、すぐれた神通力によりさまざまな悪を砕き、すべてのものを善い行いに向かわせてくださるのである。誤った思いを捨てて仏の戒めを守り、教えを受けて修行し、途中で教えに背いたりやめたりしないなら、必ず迷いの世界を離れてさとりを得ることができるであろう 」 さらに釈尊が仰せになる。
「 そなたをはじめとして、この世の天人や人々および後の世のものは、仏の教えを聞いてよく思いをめぐらし、この迷いの世界にあっても、心も行いも正しくするがよい。上に立つものは善い行いをして下のものを導き、次々と仏の戒めを伝えていくがよい。各自がその戒めを守って、聖者を尊び善人を敬い、ひろく人々に愛情をそそぎ慈悲の心を垂れて、決して仏の教えに背くことがあってはならない。そしてさとりの世界を求めて、迷いの世界にとどまる原因を断ち、さまざまな悪をその根本から抜き去り、地獄や餓鬼や畜生などのはかり知れない苦悩の世界から離れよ。そなたたちはこの世界でひろく功徳を積み、恵みを施し、仏の戒めを破ってはならない。よく耐え忍んで努め励み、心を静めて智慧をみがき、次々と互いに導きあって、すすんで徳を積み善い行いをするがよい。心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかにたもつなら、それは無量寿仏の国で百年間善い行いに励むよりもまさっているといえる。なぜなら、無量寿仏の国はさとりにかなった世界であって、だれでも多くの善い行いをすることができ、まったく悪のないところだからである。またこの世界で昼夜十日間善い行いに励んだなら、他のさまざまな仏がたの国で千年間善い行いに励むよりも、さらにまさっているといえる。なぜなら他の仏がたの国は、善い行いをするものが多く悪い行いをするものが少なく、功徳がおのずからそなわり、悪を犯すことのない世界だからである。ただこの娑婆世界だけが悪が多くて、功徳がおのずからそなわることなどなく、苦労して欲望を満たそうとし、互いに欺きあって身も心も疲れはて、苦を飲み毒を食らって暮しているようなありさまで、いつもあくせくとして、これまで少しの間も安らいだことがない。わたしは、そなたたち天人や人々を哀れみ、懇切丁寧に教え諭して功徳を積ませ、相手に応じた導き方で教えを授けるのであるから、これを信じて修めないものはない。すべてのものは願いのままにさとりを得るのである。
仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである 」
釈尊が仰せになる。
「 わたしがそなたたち天人や人々を哀れむのは、親が子を思うよりもなお一層深い。だからわたしは今この世界で仏となって、五悪を打ち負かし、五痛を取り除き、五焼をすべてなくして、善をもって悪を攻め滅ぼし、迷いの世界の苦しみを抜き去り、五徳を得させて、安らかなさとりの世界に至らせるのである。しかしわたしがこの世を去った後には、仏の教えがしだいに衰えて、人々は偽りが多くなり、ふたたびいろいろな悪を犯して、五痛と五焼の報いをもと通り受けるようになる。それは時を経るにしたがってますます激しくなるであろう。そのようすを一々詳しく説くことはできないが、今はただ、そなたたちのために簡単に述べたのである」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 そなたたちはそれぞれにこのことをよく考え、互いに教えあい戒めあって、仏の教えを正しく守り、決してこれに背くようなことがあってはならない 」
そこで弥勒菩薩は合掌してうやうやしくお答えした。 「 世尊はたいへん懇切丁寧にお説きくださいました。世の人々のありさまについては、実に仰せの通りであります。そのために如来は、これらの人々を慈しみ哀れんで、すべてのものをお救いくださるのです。わたしたちもまた、世尊の丁重な教えをいただいて、決して背くことはありません 」

(4.疑惑訓誡) 釈尊はさらに阿難に仰せになった。
「 阿難よ、そなたは立って衣をととのえ、合掌してうやうやしく無量寿仏を礼拝するがよい。すべての世界の仏がたは、いつもみなともに、その仏が何ものにもとらわれずさまたげられないことをほめたたえておられるのだから 」
そこで阿難は、仰せ通り座を立って衣をととのえ、姿勢を正して西方に向かい、うやうやしく合掌し、大地に身を伏して、はるかに無量寿仏を礼拝して申しあげた。
「 世尊、どうぞ無量寿仏とその国土、そしてそこにおられる菩薩や声聞の方々を、まのあたりに拝ませてください」
この言葉が終わるとすぐさま無量寿仏は大いなる光明を放ち、ひろくすべての仏がたの国々をお照らしになった。すると、鉄囲山や須弥山やその他大小の山々など、すべてのものが等しく金色に輝いた。ちょうど、この世の終わりに際して大洪水が世界中に満ちあふれるとき、さまざまなものがみなその中に沈み去って、見わたす限り一面にただ水ばかりが見えるように、無量寿仏の光明のために声聞や菩薩などのすべての光明はみなおおい隠されてしまい、ただその仏の光だけが明るく輝いたのである。
そのとき阿難は、無量寿仏のお姿が、ちょうど須弥山がすべての世界の上に高くそびえているように、実に気高く、そのお体から放たれる光明がすべての世界を残らず照らすようすをまのあたりに見たてまつった。ただ阿難だけでなく、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、ここに集まっていたものはみな同時に見たてつり、また無量寿仏の国からも同じようにこの世界を見たのである。
そこで釈尊は阿難と弥勒菩薩に仰せになった。
「 そなたたちは、その国の大地から天空に至るまでの間にあるすべてのものが、実にすぐれて清らかなことをよく見ただろうか」 阿難がお答えする。
「 はい、その通りに見させていただきました」
「 ではそなたは、無量寿仏が、すべての世界に響きわたる声で教えを説き述べて、人々を導いておられるのを聞いたか」
「 はい、その通りに聞かせていただきました」
「 では、その国の人々が、百千由旬もある大きな七つの宝でできた宮殿にいながら、何のさまたげもなく、ひろくすべての世界へ行き、さまざまな仏がたを供養しているのを見たか」
「 はい、見させていただきました 」
「 ではまた、その国の人々の中に胎生のものがいるのを見たか」
「 はい、それも見させていただきました」
釈尊が仰せになる。
「 その胎生のもののいる宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬という大きさで、みなその中でとう利天と同じように何のさまたげもなくさまざまな楽しみを受けているのである」
そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。
「 世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか 」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。
これに対して、無量寿仏の五種の智慧を疑いなく信じてさまざまな功徳を積み、まごころからその功徳を持ってこの国に生れようとするものは、ただちに七つの宝でできた蓮の花に座しておのずから生れる。これを化生といい、たちまちその姿を光明や智慧や功徳などを、他の菩薩たちと同じように、欠けることなく身にそなえるのである。
また弥勒よ、他の仏がたの国のさまざまなすぐれた菩薩たちも、さとりを得ようとして無量寿仏を見たてまつり、その仏をはじめとして菩薩や声聞たちに至るまで敬い供養したいと思うのである。これらの菩薩たちも、命を終えて後に無量寿仏の国に生れ、七つの宝でできた蓮の花におのずから化生するのである。
弥勒よ、よく知るがよい。化生のものは智慧がすぐれているが、胎生ものもは智慧が劣っていて、五百年の間まったく無量寿仏を見たてまつらず、教えを聞かず、菩薩や声聞たちを見ず、また他の仏を供養することもできない。菩薩の自利利他の修行ができず、功徳を積むことができない。よく知るがよい。これらのものは、過去世において智慧がなく、仏の智慧を疑ったからにほかならない」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。
「 たとえば転輪聖王が王の宮殿とは別に七つの宝でできた宮殿を持っているとしよう。そこにはさまざまな装飾が施されており、立派な座が設けられ、美しい幕が張られ、いろいろな旗などがかけられている。その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、その宮殿の中に入れられて黄金の鎖でつながれるのであるが、食べものや飲みもの、衣服や寝具、香り高い花や音楽など、すべて父の王と同じように何一つ不自由することがない。さてその場合、王子たちはそこにいたいと願うだろうか 」
弥勒菩薩がお答えする。
「 いいえ、そのようなことはないでしょう。いろいろな手だてを考え、力のある人を頼ってそこから逃れ出たいと思うでしょう」
そこで釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 胎生のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにその宮殿の中に生れたのであって、何のとがめもなく、少しもいやな思いをしないのであるが、ただ五百年の間、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、仏がたを供養してさまざまな功徳を積むこともできない。このことがまさに苦なのであり、他の楽しみはすべてあるけれども、その宮殿にいたいとは思わないのである。
しかしこれらのものが、その苦は仏の知恵を疑った罪によると知り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願うなら、すぐさま思い通り無量寿仏のおそばへ行き、うやうやしく供養することができる。また、ひろく数限りない仏がたのもとへ行ってさまざまな功徳を積むこともできる。
弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである。そうであるから、無量寿仏のこの上ない智慧を疑いなく信じるがよい 」
弥勒菩薩がお尋ねした。
「 世尊、この世界から、不退転の位にある菩薩がどれくらい無量寿仏の国に生れるでしょうか 」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 この世界からは、六十七億の不退転の位にある菩薩がその国に往生するであろう。その菩薩たちはみなすでに数限りない仏がたを供養しており、その位は、弥勒よ、そなたと同じである。その他、行の劣った菩薩やわずかな功徳しか積んでいないものも数えきれないほどいるが、どのものもみなその国に往生するであろう」
釈尊が続けて仰せになる。
「 この世界のものだけが無量寿仏の国に往生するわけではない。他の仏の国からもまた同様に数多くその国に往生するのである。
第一に遠照仏の国からは、百八十億の菩薩がみな往生するであろう。第二に宝蔵仏の国からは、九十億の菩薩がみな往生するであろう。第三に無量音仏の国からは、二百二十億の菩薩がみな往生するであろう。第四に甘露味仏の国からは、二百五十億の菩薩がみな往生するであろう。第五に龍勝仏の国からは、十四億の菩薩がみな往生するであろう。第六に勝力仏の国からは、一万四千の菩薩がみな往生するであろう。第七に師子仏の国からは、五百億の菩薩がみな往生するであろう。第八に離垢光仏の国からは、八十億の菩薩がみな往生するであろう。第九に徳首仏の国からは、六十億の菩薩がみな往生するであろう。第十に妙徳山仏の国からは、六十億の菩薩がみな往生するであろう。第十一に人王仏の国からは、十億の菩薩がみな往生するであろう。第十二に無上華仏の国には、数えきれないほどの菩薩がいて、みな不退転の位にあり、すぐれた智慧をそなえている。すでに数限りない仏がたを供養し、普通なら百千億劫にもわたって修めなければならない尊い行を、わずか七日のうちに修めたほどのすぐれた菩薩であるが、これらの菩薩もみな往生するであろう。第十三に無畏仏の国には、七百九十億のすぐれた菩薩たちをはじめ、行の劣った菩薩や修行僧も数えきれないほどいるが、みな往生するであろう 」
続けて釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 この十四の仏の国のものだけが往生するわけではない。数限りないすべての仏の国からも同じようにその国に往生するのであり、その数は実に限りなく多い。わたしが、ただそのすべての仏がたの名とそれぞれの国から無量寿仏の国に生れる菩薩や修行僧の数をあげるだけでも、夜となく昼となく、一劫という長い間をかけても説き尽すことはできない。今はそなたのために、そのほんの一部を説いたに過ぎない 」

(3.流通文)[1.付属流通] 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、一念で、この人は大きな利益を得ると知るがよい、すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」 釈尊が仰せになる。
「 わたしは今、すべてのもののためにこの教えを説き、さらに無量寿仏とその国土のようすを残らず見せた。この上にまだ尋ねたいことがあるなら、ためらうことなく問うがよい。わたしがこの世を去った後に疑いを起すようなことがあってはならない。やがて将来わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。
「 如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くことも難しい。菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くのも難しく、善知識に会って教えを聞き、修行することもまた難しい。ましてこの教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。そうであるから、わたしはこのように仏となり、さまざまなさとりへの道を示し、ついにこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである。そなたたちは、ただこれを信じて教えのままに修行するがよい 」

[2.聞経得盆] 釈尊がこの教えをお説きになると、数限りない多くのものが、みなこの上ないさとりを求める心を起した。一万二千那由他の人々が清らかな智慧の眼を得、二十二億の天人や人々が阿那含果を得て、八十万の修行僧が煩悩を滅し尽して阿羅漢のさとりに達し、四十億の菩薩が不退転の位に至り、人々を救う誓いをたて、さまざまな功徳を積んでその身にそなえ、やがて仏となるべき身となったのである。

[3.現瑞衆喜] そのとき、天も地もさまざまに打ち震え、大いなる光明はひろくすべての国々を照らし、実にさまざまな音楽がおのずから奏でられ、数限りない美しい花があたり一面に降りそそいだ。
釈尊がこの教えを説きおわられると、弥勒菩薩をはじめ、さまざまな世界から来た菩薩たちや、阿難などの声聞の聖者たち、ならびにそこに集うその他すべてのものは、その尊い教えを承って、だれひとりとして心から喜ばないものはなかった。

仏説無量寿経 下巻 終