『六要鈔会本』
『教行信証六要鈔会本』第九巻 化身土巻
○教行信証六要鈔会本第九 化
◎又云。定散示観縁。
◎(序分義)また云わく、定善は観を示す縁なりと。KESINDO:SYOZEN2-151/HON-336,HOU-446
◎又云。散善顕行縁。
◎また云わく、散善は行を顕す縁なりと。KESINDO:SYOZEN2-151/HON-336,HOU-446
◎又云。浄土之要難逢。文。抄出。
◎(散善義)また云わく、浄土の要、逢いがたしと。文。抄出。KESINDO:SYOZEN2-151/HON-336,HOU-446
〇次言又云定善等者序分義文。即七縁中第六第七両縁名也。問云。何故略出二縁名乎。答。前所引之三心之中。第三之心所云。随喜過去今生一切凡聖三業所修。世出世間善根等者是定散也。是故散善為仏自開。顕往生行。定善答韋提請示往生観。此定散機。各帰他力得往生益。今表名題。蓋其意歟。問。如本書者。顕行在前。示観居後。今何前後。答。序分説相。夫人之意。先依当機雖請定善。如来為摂一切諸機。先開散善後示定善。正宗説相先応請問。後顕自開。今就正宗説相次第。前後如此。次一句者散善義奥後序文也。浄土要者。有其二意。一要門義。即定散也。二要法義。即念仏也。如事讃云故使如来選要法也。即真要義。是為本意。SYOZEN2-394/TAI8-658
〇次に「又云定善」等というは、「序分義」の文、即ち七縁の中の第六・第七、両縁の名なり。問うて云わく、何が故に略して二縁の名を出だすや。答う、前に引く所の三心の中に、第三の心にいう所の「過去・今生と一切の凡聖との、三業に修する所の世・出世間の善根を随喜して」等とは、これ定散なり。この故に散善は仏の自開として、往生の行を顕わす。定善は韋提の請に答えて往生の観を示す。この定散の機は、おのおの他力に帰して往生の益を得。今、名題を表するは、蓋しその意か。問う、『本書』の如きは、顕行は前に在り、示観は後に居す。今何ぞ前後するや。答う、序分の説相は夫人の意なり。まず当機に依りて、定善を請うといえども、如来は一切の諸機を摂せんが為に、まず散善を開き、後に定善を示す。正宗の説相は、まず請問に応じ、後に自開を顕わす。今は正宗の説相の次第に就きて、前後することかくの如し。次の一句は「散善義」の奥の後序の文なり。「浄土の要」とは、その二意あり。一には要門の義、即ち定散なり。二には要法の義、即ち念仏なり。『事讃』に「故使如来選要法(故に如来、要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしむ)」というが如し。即ち真要の義、これを本意とす。SYOZEN2-394/TAI8-658
◎又云。如観経説。先具三心必得往生。何等為三。一者至誠心。所謂身業礼拝彼仏。口業讃嘆称揚彼仏。意業専念観察彼仏。凡起三業必須真実故。名至誠心。乃至。三者回向発願心。所作一切善根悉皆回願往生故。名回向発願心。具此三心必得生也。若少一心即不得生。如観経具説。応知。乃至。又菩薩已免生死。所作善法回求仏果。即是自利。教化衆生尽未来際。即是利他。然今時衆生悉為煩悩繋縛。未免悪道生死等苦。随縁起行。一切善根具速回。願往生阿弥陀仏国。到彼国已。更無所畏。如上四修自然任運。自利利他無不具足。応知。
◎(往生礼讃)また云わく、『観経』の説のごとし。まず三心を具して必ず往生を得。なんらをか三とする。一には至誠心。いわゆる、身業にかの仏を礼拝す。口業にかの仏を讃嘆し称揚す。意業にかの仏を専念し観察す。おおよそ三業を起こすに、必ず真実を須いるがゆえに、至誠心と名づく。乃至。三には回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、故に回向発願心と名づく。この三心を具して必ず生ずることを得るなり。もし一心を少けぬれば、すなわち生ずることを得ず。『観経』に具に説くがごとし。知るべしと。乃至。また菩薩はすでに生死を免れて、所作の善法、回して仏果を求む。すなわちこれ自利なり。衆生を教化して未来際を尽くす。すなわちこれ利他なり。しかるに今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、未だ悪道生死等の苦を免れず。縁に随いて行を起こして、一切の善根具に速やかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん。かの国に到り已りて更に畏るるところなけん。上のごときの四修、自然任運にして自利利他具足せざることなしと、知るべし。KESINDO:SYOZEN2-151/HON-336,HOU-446,447
〇次所引文。往生礼讃前序文也。三心之釈。粗同疏釈。故不別解。言乃至者深心釈也。問。此中何略深心釈乎。答。深心之釈第二巻中。載智昇釈。既以引之。故今略之。次乃至者。所明五念四修文也。又菩薩下至足応知。明四修法之結文也。上正所明彼四修法之文意云。一者恭敬修。恭敬礼拝彼仏及彼一切聖衆等。二者無余修。専称彼仏名。専念専想専礼讃彼仏及聖衆等。不雑余業。三者無間修。相続恭敬礼拝称名讃嘆憶念観察回向発願。心心相続不以余業来間。又不以貪瞋煩悩来間。随犯随懺不隔念隔時隔日。常使清浄。四者長時修。畢命為期誓不中止。已上取意。問。四修法者。論蔵等論深位菩薩所修法也。謂倶舎論二十七云。一無余修。福徳智慧二種資糧修無遺故。二長時修。経三大劫阿僧祗耶修無倦故。三無間修。精勤勇猛刹那刹那修無廃故。四尊重修。恭敬所学無所顧惜。修無慢故。已上。此論文。与宗家釈義相違非一。無余修者。彼約福智資糧円満無遺余義。此約一行無雑余義。長時修者。彼約三大阿僧祇劫長遠之義。此約ー生畢命之期。何相違乎。答。論説雖然。就今修行随義転用。即今所引。已勉等者。顧彼論説所設釈也。所作善法已下三句。約自利行。此中含容無余無間尊重三修。教化衆生已下三句。就利他行約長時修。然今等者。彼大菩薩四修之行。今時煩悩繋縛凡夫。修行分絶。只発回願往生之心。明於一生一行分具四修義也。到彼以下。明論蔵等所説四修。於彼浄土自然任運具足益也。SYOZEN2-394,395/TAI8-661,662
〇次所引の文は、『往生礼讃』の前序の文なり。三心の釈は、ほぼ『疏』の釈に同じ。故に別して解かず。「乃至」というは深心の釈なり。問う、この中に何ぞ深心の釈を略するや。答う、深心の釈は第二巻の中に智昇の釈を載せて既に以てこれを引く。故に今はこれを略す。次に「乃至」とは、五念・四修を明かす所の文なり。「又菩薩」の下、「足応知」に至るまでは、四修の法を明かす結文なり。上に正しく彼の四修の法を明かす所の文の意に云わく「一には恭敬修。彼の仏及び彼の一切の聖衆等を恭敬礼拝す。二には無余修。専ら彼の仏名を称して、讃じて彼の仏及び聖衆等を専念・専想・専礼して余業を雑えず。三には無間修。相続して恭敬礼拝し、称名讃歎・憶念観察・廻向発願す。心心相続して余業を以て来し間〈へだ〉てず。また貪瞋煩悩を以て来し間てず。随犯随懺し、念を隔て、時を隔て、日を隔てず、常に清浄ならしむ。四には長時修。畢命を期として誓いて中止せず」。已上取意。問う、四修の法とは、論蔵等に深位の菩薩の所修の法を論ずるなり。謂わく、『倶舎論』二十七に云わく「一には無余修。福徳と智慧と二種の資糧修して遺ることなきが故に。二には長時修。三大劫阿僧祗耶を経て修して倦むことなきが故に。三には無間修。精勤勇猛にして刹那刹那に修して廃することなきが故に。四には尊重修。所学を恭敬して顧惜する所なく修して慢なきが故に」。已上。この論文は宗家の釈義と相違して一にあらず。無余修とは、彼は福智の資糧円満して遺余なき義に約す。これは一行、余を雑ゆることなき義に約す。長時修とは、彼は三大阿僧祇劫、長遠の義に約す。これは一生畢命の期に約す。何ぞ相違するや。答う、論説は然りといえども、今の修行に就きて随義転用す。即ち今の所引「已勉〈免〉」等とは、彼の論説を顧て設くる所の釈なり。「所作善法」已下の三句は自利の行に約す。この中に無余・無間・尊重の三修を含容す。「教化衆生」已下の三句は、利他の行に就きて長時修に約す。「然今」等とは、彼の大菩薩の四修の行は、今時の煩悩繋縛の凡夫は修行分絶えたり。ただ回願往生の心を発せば、一生の一行に於いて分に四修を具する義を明かすなり。「到彼」以下は、論蔵等の所説の四修。彼の浄土に於いて自然任運に具足する益を明かすなり。SYOZEN2-394,395/TAI8-661,662
◎又云。若欲捨専修雑業者。百時希得一二。千時希得五三。何以故。乃由雑縁乱動失正念故。与仏本願不相応故。与教相違故。不順仏語故。係念不相続故。憶想間断故。回願不慇重真実故。貪瞋諸見煩悩来間断故。無有慚愧懺悔心故。懺悔有三品。乃至。上中下。上品懺悔者。身毛孔中血流。眼中血出者。名上品懺悔。中品懺悔者。遍身熱汗従毛孔出。眼中血流者。名中品懺悔。下品懺悔者。遍身徹熱。眼中涙出者。名下品懺悔。此等三品雖有差別。是久種解脱分善根人。致使今生敬法重人不惜身命。乃至小罪若懺。即能徹心髓。能如此懺者。不問久近。所有重障皆頓滅尽。若不如此。縦使日夜十二時急走。終是無益。差不作者。応知雖不能流涙流血等。但能真心徹到者。即与上同。已上。
◎(往生礼讃)また云わく、もし専を捨てて雑業を修せんと欲わんものは、百の時に希に一・二を得、千の時に希に五・三を得。何をもってのゆえに。いまし雑縁乱動して正念を失するに由るがゆえに、仏の本願と相応せざるがゆえに、教と相違せるがゆえに、仏語に順ぜざるがゆえに、係念相続せざるがゆえに、憶想間断するがゆえに、回願慇重真実ならざるがゆえに、貪瞋諸見の煩悩来りて間断するがゆえに、慚愧懺悔の心あることなきがゆえに。懺悔に三品あり。乃至。上・中・下なり。上品の懺悔は、身の毛孔の中より血を流し、眼の中より血出ずるものを、上品の懺悔と名づく。中品の懺悔とは、遍身に熱き汗、毛孔より出で、眼の中より血の流すものを、中品の懺悔と名づく。下品の懺悔とは、遍身徹って熱くして、眼の中より涙出ずるものを、下品の懺悔と名づく。これらの三品、差別ありといえども、これ久しく解脱分の善根を種えたる人なり。今生に法を敬い、人を重くして身命を惜しまず、乃至、小罪ももし懴すればすなわちよく心髄に徹りて、よくかくのごとく懴すれば、久近を問わず、所有の重障みな頓に滅尽せしむることをいたす。もしかくのごとくせざれば、たとい日夜十二時、急に走〈もと〉むれども終にこれ益なし。差〈たが〉いて作さざるは、知りぬべし、流涙流血等にあたわずといえども、ただよく真心徹到する者は、すなわち上と同じと。已上。KESINDO:SYOZEN2-151,152/HON-337,HOU-447,448
〇又云若欲捨専等者。判雑修失之解釈也。問。本書文中。具挙専雑二修得失。今之所引略失出得。有何意耶。答。第二巻中引判得文。当巻之中引判失釈。両処相照令知之也。就中雑修化土因故。此巻引之。乃由雑縁乱動等者。挙十三失。於中初四翻対四得。可知其義。如第二巻新本鈔解。第五以下自此四中開出。応知。問。第五之失云係念等。第六之失云憶想等。有何差別。答。係念等者。是約初心。憶想等者。約後心也。問。今所出失是至第九。不載第十以下之失。有何由乎。答。無別由歟。云専修得。既出四種。仍雑修失不出四種。是故四失十三之失只開合異。以之言之。四失之外広略引用須随時歟。雖然猶強求其由者非無其要。謂第九失。就云無有慚愧懺悔。出興釈文明懺悔相。示其懺悔。不関煩悩賊害劣機。終顕真心徹到勝利。其徹到心即至誠心。即顕三心発得義也。是大要故。為次前後懺悔文義。略自下失。引具懺悔之釈文耳。言乃至者。自前序終至六時下所引文前。省略故也。上中下下分別釈也。三品懺悔。其意可見。久種等者。為出離故。菩提心上所修之善。云解脱分善根者也。能如等者。顕聖人等如法懺悔。若不等者。是顕薄地底下之類。自力懺悔難成義也。如此下機。雖不能修三品懺悔。真心徹到。其功全同上所言之三品随分如法懺悔。是故今云与上同也。SYOZEN2-395,396/TAI8-672
〇「又云若欲捨専」等とは、雑修の失を判ずる解釈なり。問う、本書の文の中には具に専雑二修の得失を挙ぐ。今の所引に失を略して得を出だす。何の意かあるや。答う、第二巻の中に得を判ずる文を引き、当巻の中に失を判ずる釈を引く。両処あい照してこれを知らしむるなり。中に就きて、雑修は化土の因なるが故に、この巻にこれを引く。「乃由雑縁乱動」等とは、十三の失を挙ぐ。中に於いて初の四は四の得を翻対して、その義を知るべし。第二巻の新本の鈔に解するが如し。第五以下はこの四の中より開出す、知るべし。問う、第五の失に「係念」等といい、第六の失に「憶想」等という。何の差別かあるや。答う、「係念」等とは、これ初心に約す。「憶想」等とは、後心に約するなり。問う、今出だす所の失はこれ第九に至る。第十以下の失を載せざるは、何の由かあるや。答う、別の由なきか。専修の得をいうに、既に四種を出だす。よって雑修の失は四種を出でず。この故に四の失と十三の失とは、ただこれ開合の異なり。これを以て、これを言うに、四の失の外に、広略引用、須く時に随うべきか。然りといえども、なお強ちにその由を求めば、その要なきにあらず。謂く第九の失に、「無有慚愧懺悔」というに就きて、興の釈文を出して懺悔の相を明かす。その懺悔を示すに、煩悩賊害の劣機に関わらず、終に真心徹到の勝利を顕わす。その徹到の心は即ち至誠心なり。即ち三心発得の義を顕わすなり。これ大要なるが故に、前後懺悔の文義を次んが為に、自下の失を略して懺悔の釈文を引き具すらくのみ。「乃至」というは、前序の終わりより、六時の下の所引の文前に至るまで省略するが故なり。「上・中・下」の下は分別の釈なり。三品の懺悔は、その意見つべし。「久種」等とは、出離の為の故に、菩提心の上に修する所の善を、解脱分の善根というものなり。「能如」等とは、聖人等の如法の懺悔を顕わす。「若不」等とは、これ薄地底下の類は、自力懺悔は成に難き義を顕わすなり。かくの如きの下機は、三品の懺悔を修すること能わずといえども、真心徹到、その功は全く上に言う所の三品随分如法の懺悔に同じ、この故に今「上と同じ」というなり。SYOZEN2-395,396/TAI8-672
◎又云。総不論照摂余雑業行者。
◎(観念法門)また云わく、すべて余の雑業の行者を照摂すと論ぜず。KESINDO:SYOZEN2-152/HON-337,HOU-448
〇次所引文。又云総不論照等者。観念法門護念縁釈。是明弥陀摂取心光摂念仏人不亘余也。具文載在第三巻未。仍於其下粗註解畢。SYOZEN2-396/TAI8-685
〇次の所引の文、「又云総不論照」等とは、『観念法門』の護念縁の釈なり。これ弥陀摂取の心光は念仏の人を摂して、余に亘らざることを明かすなり。具なる文は載て第三巻の未に在り。仍てその下に於いて、ほぼ註解し畢わりぬ。SYOZEN2-396/TAI8-685
◎又云。如来出現於五濁。随宜方便化群萌。或説多聞而得度。或説少解証三明。或教福慧双除障。或教禅念座思量。種種法門皆解脱。
◎(法事讃)また云わく、如来、五濁に出現して、よろしきに随いて方便して群萠を化したまう。あるいは、多聞にして得度すると説き、あるいは、少しく解りて三明を証すと説き、あるいは、福慧双べて障を除くと教え、あるいは、禅念して座して思量せよと教え、種種の法門みな解脱す。KESINDO:SYOZEN2-152/HON-337,HOU-448
〇次所引文。又云如来出現等者。法事讃釈。此讃略標一代説教。遂勧念仏為其出要。如来等者。是依能於娑婆国土五濁悪世等之経文。随宜等者。対機意也。或説多聞。指声聞教。或説少解。約縁覚教。已上小乗。或教福慧。指菩薩教。此是大乗。加前二乗即為三乗。若依円宗。於菩薩乗。又摂大小。有三蔵教菩薩故也。言福慧者。六度之中。前五是福。後一慧也。或教禅念約仏心宗。故此中含大小権実教内教外一代意也。種種等即許随分得度之益。是就根性利者之類且所論也。於彼鈍根無智機者。難得其益。為之所設称名行也。是故結云無過念仏往西方也。問。所云結句誠宗旨也。但今除之失要須耶。答。一代化儀。聖道浄土転入教旨。利根鈍根潤益次第。念仏往生終窮極談。文意分明。而除一句故標其由。万善諸行化土業因。是故広引上之諸句種種已下至往西方。末後二句。於下別載。問。於下所載同是当巻二十願下所引之也。彼願即亦諸行願也。何為別乎。答。雖為植諸徳本之願。又説聞其名号故也。SYOZEN2-396,397/TAI8-687
〇次の所引の文「又云如来出現」等とは、『法事讃』の釈なり。この讃は略して一代の説教を標して、遂に念仏はその出要たることを勧む。「如来」等とは、これ「能於娑婆国土五濁悪世」(小経)等の経文に依る。「随宜」等とは対機の意なり。「或説多聞」は声聞の教を指し、「或説少解」は縁覚の教に約す。已上小乗。「或教福慧」は菩薩の教を指す。これはこれ大乗なり。前の二乗に加えて、即ち三乗と為す。もし円宗に依らば、菩薩乗に於いて、また大小を摂す。三蔵教の菩薩あるが故なり。「福慧」というは、六度の中に、前の五はこれ福、後の一は慧なり。「或教禅念」は仏心宗に約す。故にこの中に大・小・権・実・教内・教外、一代の意を含するなり。「種種」等は即ち随分得度の益を許す。これ根性利者の類に就きて且く論ずる所なり。彼の鈍根無智の機に於いては、その益を得難し。これが為に設くる所は称名の行なり。この故に結して「念仏して西方に往くに過ぎたるはなし」(法事讃)というなり。問う、云う所の結句は誠に宗旨なり。ただ今これを除く、要須を失するをや。答う、一代の化儀、聖道浄土転入の教旨、利根鈍根潤益の次第、念仏往生終窮の極談、文意分明なり。しかるに一句を除くことは、故〈ことさら〉にその由を標す。万善諸行は化土の業因なり。この故に広く上の諸句「種種」已下、「往西方」に至るまでを引く。末後の二句は、下に於いて別して載す。問う、下に於いて載する所は、同じくこれ当巻二十の願の下にこれを引く所なり。彼の願、即ちまた諸行の願なり。何ぞ別と為すや。答う、植諸徳本の願たりといえども、また「聞其名号」と説くが故なり。SYOZEN2-396,397/TAI8-687
◎又云。万劫修功実難続。一時煩悩百千間。若待娑婆証法忍。六道恒沙劫未期。門門不同名漸教。万劫苦行証無生。畢命為期専念仏。須臾命断仏迎将。一食之時尚有間。如何万劫不貪瞋。貪瞋障受人天路。三悪四趣内安身。抄要。
◎(般舟讃)また云わく、万劫に功を修せんこと実〈まこと〉に続きがたし。一時に煩悩百たび千たび間〈まじ〉わる。もし娑婆にして法忍を証せんことを待たば、六道にして恒沙の劫にも未だ期あらじ。門門不同なるを漸教と名づく。万劫苦行して無生を証す。畢命を期として、専ら念仏すべし。須臾に命断すれば、仏迎将したまう。一食の時なお間〈ひま〉あり、いかんぞ万劫に貪瞋せざらん。貪瞋は人天を受くるの路を障う。三悪・四趣の内に身を安んず。抄要。KESINDO:SYOZEN2-152/HON-338,HOU-448
〇次所引文。又云等者般舟讃釈。万劫等者。是明十信一万劫之修行。長遠煩悩間隔。修功難続。是依瓔珞所説漸教。明此義相。為令引入観経所説之頓教也。門門等者。所引今文中間有五十句二十五行。除彼等偈如此被引。漸教難行修習説相義趣隣故。今引次之。即云修功。又云苦行。其功相同。云証法忍。云証無生。其益又同。而上文云六道恒沙劫未期。示難行不堪。今此讃云須臾命断仏迎将。勧易行頓益。上下相扶令勧入也。一食等者。或云一念。猶為短時。貪瞋等者。貪瞋是因。為能障路。人天是果。為或障報。言其生因五戒十善。而依貪瞋障彼戒善。是故不受人天善果。只徒安身三悪四趣。今示此義鈔大要耳。SYOZEN2-397/TAI8-692,693
〇次の所引の文、「又云」等とは『般舟讃』の釈なり。「万劫」等とは、これ十信一万劫の修行は長遠にして煩悩間隔し、修功続き難きことを明かす。これ『瓔珞』所説の漸教に依りてこの義相を明かす。『観経』所説の頓教に引入せんが為なり。「門門」等とは、所引の今の文の中間に五十句二十五行あり。彼等の偈を除きて、かくの如く引かるることは、漸教の難行修習の説相・義趣の隣るが故に、今、次てこれを引き、即ち「修功」といい、また「苦行」という、その功の相は同じ。「証法忍」といい、「証無生」という、その益また同じ。しかるに上の文には「六道にして恒沙の劫にも未だ期あらじ」といいて、難行の堪えざることを示して、今この讃には「須臾に命断すれば、仏迎将したまう」といいて、易行の頓益を勧む。上下あい扶けて勧入せしむるなり。「一食」等とは、或いは一念という、なお短時たり。「貪瞋」等とは、貪瞋はこれ因、能障の路たり。人天はこれ果、或障の報たり。その生因をいえば、五戒十善なり。しかるに貪瞋に依りて彼の戒善を障う。この故に人天の善果を受けず。ただ徒らに身を三悪四趣に安ず。今、この義を示して大要を鈔すらくのみ。SYOZEN2-397/TAI8-692,693
◎又云。定散倶回入宝国。即是如来異方便。韋提即是女人相。貪瞋具足凡夫位。已上。
◎(般舟讃)また云わく、定散ともに回〈ひるがえ〉して宝国に入れ、すなわちこれ如来の異の方便なり。韋提はすなわちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なりと。已上。KESINDO:SYOZEN2-153/HON-338,HOU-448
〇次所引文。又云定散倶回等者。上於料簡観経序分。汝是凡夫等句之下。出今定散倶回之文。又於解了諸仏如来等句之下。載今韋提即是之釈。各加愚解。可見当巻新本鈔也。SYOZEN2-398/TAI8-697
〇次の所引の文、「又云定散倶回」等とは、上に『観経』序分の「汝是凡夫」等の句を料簡する下において、今の「定散倶回」の文を出し、また「諸仏如来」等の句を解了する下において、今の「韋提即是」の釈を載せて、おのおの愚解を加う。当巻新本の鈔を見つべし。SYOZEN2-398/TAI8-697
◎論註曰。有二種功徳相。一者従有漏心生不順法性。所謂凡夫人天諸善。人天果報。若因若果。皆是顛倒。皆是虚偽。故名不実功徳。已上。
◎『論註』に曰わく、二種の功徳相あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いわゆる凡夫・人天の諸善、人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒す。みなこれ虚偽なり。故に不実の功徳と名づく。已上。KESINDO:SYOZEN2-153/HON-338,HOU-448,449
〇次所引文論註釈者。上巻所解本論真実功徳相文之註釈也。今引不真実功徳之文。翻対所顕真実功徳之釈。具在第二巻中。SYOZEN2-397/TAI8-701
〇次の所引の文『論註』の釈は、上巻に本論の真実功徳相の文を解する所の註釈なり。今、不真実功徳の文を引きて、真実功徳を顕わす所の釈に翻対す。具には第二巻の中に在り。SYOZEN2-397/TAI8-701
◎安楽集云。引大集経月蔵分言。我末法時中。億億衆生起行修道。未有一人得者。当今末法。是五濁悪世。唯有浄土一門可通入路。
◎『安楽集』に云わく、『大集経』の「月蔵分」を引きて言わく、我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人として得る者あらじと。当今は末法、これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。KESINDO:SYOZEN2-153/HON-338,HOU-449
〇次所引者安楽集文。上巻釈也。十二門内。大文第三有四番釈。其第三番亦有五番。今所引者第五番也。大集等者。大集一部三十巻外。有日蔵分及月蔵分各一十巻。故云大集月蔵分也。我末法者。是明滅後三時之中。於末法時。聖道修行難得証也。問。本経之中未勘此文。如何。答。取意文也。此集上巻大文第一明教興由。約時機下所截文也。謂彼経中具顕五箇五百年間法住及以隠没之相。明説初三五百年中。如次戒定及慧堅固。第四五百。造寺堅固。第五五百。闘諍堅固白法隠没之文意也。此正文言。当巻之奥重引此集。有此文也。問。起行修道無簡別言。可亘浄土。何限聖道。答。聖道修行在戒定慧。是策自力。浄土得道帰功他力。故綽公意。深達聖道修入方軌。設此釈也。問。聖道之教末法之中。修行得果非無其証。何云未有一人等乎。答。今釈之意少是属無。約多分歟。不遮末法少分又有諸教証也。当今等者。綽公釈也。問。依綽公伝。大宋貞観一十九年乙已入滅。年八十四。仏滅時代。雖有異説。且拠一説。仏滅已来至彼乙已。一千一百九十三年。然者正像各千年内像法半也。何云末法。答。今所問者是依正像各千年説。此是一義。今存正法五百年説。如此釈也。問。如前答者。不遮聖道少有修証云云。而今釈云唯有一門。唯言遮余。何矛盾乎。答。聖道修行少分得道。浄土修行全分獲益。皆蒙仏加。不一而虚。故云唯也。SYOZEN2-398,399/TAI8-703,704
〇次の所引は『安楽集』の文、上巻の釈なり。十二門の内、大文第三に四番の釈あり。その第三番に、また五番あり。今の所引は第五番なり。「大集」等とは、『大集』一部三十巻の外に「日蔵分」と及び「月蔵分」おのおの一十巻あり。故に「大集月蔵分」というなり。「我末法」とは、これ滅後の三時の中に、末法の時において、聖道の修行は証を得ること難きことを明かすなり。問う、本経の中に、未だこの文を勘えず、いかん。答う、取意の文なり。この集の上巻大文第一に教興の由を明かし、時機に約する下に截する所の文なり。謂わく、彼の経の中に具に五箇の五百年の間、法住および隠没の相を顕わす。明らかに初の三の五百年の中には、次の如く戒・定及び慧は堅固なり、第四の五百には造寺堅固なり、第五の五百には闘諍堅固にして白法隠没することを説く文の意なり。この正文の言は、当巻の奥に重ねてこの集を引くに、この文あるなり。問う、起行・修道、簡別の言なし。浄土に亘るべし。何ぞ聖道に限らん。答う、聖道の修行は戒・定・慧あり。これ自力を策む。浄土の得道は功を他力に帰す。故に綽公の意は、深く聖道修入の方軌に達して、この釈を設くるなり。問う、聖道の教は末法の中に、修行得果、その証なきにあらず。何ぞ「未有一人」等というや。答う、今の釈の意は、少はこれ無に属し、多分に約するか。末法に少分また諸教の証あらんことを遮せざるなり。「当今」等とは、綽公の釈なり。問う、綽公の伝に依るに、大宋貞観一十九年乙已入滅、年八十四なり。仏滅の時代は異説ありといえども、且く一説に拠れば、仏滅已来、彼も乙已に至るまで、一千一百九十三年なり。然れば、正像おのおの千年の内の像法の半ばなり。何ぞ末法というや。答う、今問う所は、これ正像おのおの千年の説に依る。これはこれ一義なり。今、正法五百年の説を存して、かくの如く釈するなり。問う、前の答の如くんば、聖道に少しき修証あらんことを遮せずと、云云。しかるに今の釈に「唯有一門」という。唯の言は余を遮す。何ぞ矛盾せるや。答う、聖道の修行は少分に得道す。浄土の修行は全分に益を獲。みな仏加を蒙りて、一として虚しからず。故に唯というなり。SYOZEN2-398,399/TAI8-703,704
◎又云。未満一万劫已来。恒未免火宅。顛倒墜堕。故各用功至重。獲報偽也。已上。
◎(安楽集)また云わく、未だ一万劫を満たざる已来は、恒に未だ火宅を免れず。顛倒墜堕するがゆえに。おのおの功を用いること至りて重く、報を獲ること偽なりと。已上。KESINDO:SYOZEN2-153/HON-338,HOU-449
〇次又云者。同下巻文。大門第七有両番内。二番釈也。上具文云。第二段中明此彼修道用功経重而獲報真偽者。若欲発心帰西者。単用少時礼観念等。随寿長短。臨命終時光台迎接。迅至彼方位階不退。是故大経云。十方人天来生我国。若不畢至滅度。更有退転者。不取正覚。此方多時具。修施戎忍進定慧。已上。又下依経具述横截五悪趣義。其大意云若得往生弥陀浄刹。娑婆五道一時頓拾。故名横截之文等也。依繁略之。SYOZEN2-399/TAI8-706
〇次に「又云」とは、同じく下巻の文、大門第七に両番ある内に、二番の釈なり。上の具なる文に云わく「此彼の修道に功を用いる軽重あって、報を獲る真偽を明かすとは、もし発心して西に帰せんと欲する者は、単に少時に礼観念等を用いて、寿の長短に随いて、臨命終時に光台迎接して、迅く彼の方に至りて、位、不退に階う。この故に大経に云わく、十方の人天、我が国に来生せんもの、もし畢に滅度に至らずして更に退転あらば、正覚を取らじと。この方は多時に具に施・戒・忍・進・定・慧を修す」已上(安楽集)。また下に経に依りて具に横に五悪趣を截る義を述ぶ。その大意に「もし弥陀の浄国〈浄刹〉に往生することを得つれば、娑婆の五道一時に頓ちに捨つ。故に横截五悪趣と名づく」(安楽集)といえる文等なり。繁に依りてこれを略す。SYOZEN2-399/TAI8-706
◎然今拠大本。超発真実方便之願。亦観経顕彰方便真実之教。小本唯開真門無方便之善。是以三経真実。撰択本願為宗也。復三経方便。即是修諸善根為要也。
◎(御自釈)しかれば今『大本』(大経)に拠るに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には方便・真実の教を顕彰す。『小本』には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもって三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなわちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。KESINDO:J:SYOZEN2-153/HON-338,339,HOU-449-
〇然今以下至之願也。四丁半余百十二行私御釈也。於中為三。一自文之始至云一異之義答竟。就三経意委明信心一異之義。又判諸機心行往生差別相等。二次下問答。又就三経明隠顕義。終成三経一心之義。三夫濁世下。為引所標第二十願。先粗叙顕意。又出願名。初段之中。自初至云是也二十一行余者。粗亘三経述自解義。一流深義難及短解。有志与智之後弟等。且稟師伝。且加料簡可領解耳。SYOZEN2-399/TAI9-24,25
〇「然今」以下、「之願也」に至るまで、四丁半余、百十二行は私の御釈なり。中において三とす。一に文の始より「一異之義答竟」というに至るまでは、三経の意に就きて委しく信心一異の義を明かし、また諸機の心行、往生の差別の相等を判ず。二に次下の問答は、また三経に就きて隠顕の義を明かして、終に三経一心の義を成ず。三に「夫濁世」の下は、標する所の第二十の願を引かんが為に、まずほぼ顕意を叙じ、また願名を出だす。初段の中に、初より、「是也」というに至るまでの二十一行余は、ほぼ三経に亘りて自解の義を述ぶ。一流の深義、短解に及び難し。志と智とあらん後弟等、且つは師伝を稟け、且つは料簡を加えて領解すべからくのみ。SYOZEN2-399/TAI9-24,25
◎依此按方便之願。有仮有真。亦有行有信。願者即是臨終現前之願也。行者即是修諸功徳之善也。信者即是至心発願欲生之心也。依此願之行信。顕開浄土之要門方便権仮。従此要門出正助雑三行。就此正助中。有専修有雑修。就機有二種。一者定機。二者散機也。又有二種三心。亦有二種往生。二種三心者。一者定三心。二者散三心。定散心者。即自利各別心也。二種往生者。一者即往生。二者便往生。便往生者。即是胎生辺地双樹林下往生也。即往生者。即是報土化生也。
◎(御自釈)これに依りて方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願はすなわちこれ臨終現前の願なり。行はすなわちこれ修諸功徳の善なり。信はすなわちこれ至心発願欲生の心なり。この願の行信に依りて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出だせり。この正助の中に就きて、専修あり雑修あり。機につきて二種あり。一には定機、二には散機なり。また二種の三心あり。また二種の往生あり。二種の三心とは、一には定の三心、二には散の三心なり。定散の心とは、すなわち自利各別の心なり。二種の往生とは、一には即往生、二には便往生なり。便往生とは、すなわちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。即往生とは、すなわちこれ報土化生なり。KESINDO:J:SYOZEN2-153,154/-HON-339,HOU-349,350-
◎亦此経有真実。斯乃開金剛真心。欲顕摂取不捨。然者。濁世能化釈迦善逝。宣説至心信楽之願心。報土真因。信楽為正故也。
◎(御自釈)またこの経に真実あり。これすなわち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまう。報土の真因は信楽を正とするが故なり。KESINDO:J:SYOZEN2-154/-HON-339,340,HOU-450-
◎是以。大経言信楽。如来誓願。疑蓋無雑故言信也。観経説深心。対諸機浅信故言深也。小本言一心。二行無雑故言一也。復就一心有深有浅。深者利他真実之心是也。浅者定散自利之心是也。
◎(御自釈)ここをもって『大経』には信楽と言えり。如来の誓願、疑蓋雑わることなきがゆえに信と言えるなり。『観経』には深心と説けり。諸機の浅信に対せるがゆえに深と言えるなり。『小本』には一心と言えり、二行雑わることなきがゆえに一と言えるなり。また一心に就きて深あり浅あり。深とは利他真実の心、これなり。浅とは定散自利の心、これなり。KESINDO:J:SYOZEN2-154/-HON-340,HOU-450,451-
◎依宗師意。云依心起於勝行。門余八万四千。漸頓則各称所宜。随縁者則皆蒙解脱。
◎(玄義分)宗師の意に依るに、心に依りて勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸・頓すなわちおのおの所宜に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れりと云えり。KESINDO:J:SYOZEN2-154/-HON-340,HOU-451-
◎然常没凡愚。定心難修。息慮凝心故。散心難行。廃悪修善故。是以立相住心尚難成。故言縦尽千年寿法眼未曽開。何況無相離念誠難獲。故言如来懸知末代罪濁凡夫。立相住心。尚不能得。何況離相而求事者。如似無術通人居空立舎也。
◎(御自釈)しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたし。故に、(定善義)たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けずと言えり。いかに況や無相離念、誠に獲がたし。故に、(定善義)如来懸〈はる〉かに末代罪濁の凡夫を知ろしめし、立相住心なお得ることあたわじ〈と言えり〉、いかに況や相を離れて事を求むるは、術通なき人の、空に居して舎を立てんがごときと言えり。KESINDO:J:SYOZEN2-154/-HON-340,341,HOU-451-
◎言門余者。門者即八万四千仮門也。余者則本願一乗海也。
◎(御自釈)門余と言うは、門はすなわち八万四千の仮門なり。余はすなわち本願一乗海なり。KESINDO:J:SYOZEN2-154/-HON-341,HOU-451-
◎凡就一代教。於此界中入聖得果。名聖道門。云難行道。就此門中。有大小・漸頓・一乗・二乗・三乗・権実・顕蜜・竪出竪超。則是自力利他教化地方便権門之道路也。於安養浄刹入聖証果。名浄土門。云易行道。就此門中。有横出・横超・仮真・漸頓・助正・雑行・雑修・専修也。正者五種正行也。助者除名号已外五種是也。雑行者。除正助已外悉名雑行。此乃横出・漸教・定散・三福・三輩・九品・自力仮門也。横超者。憶念本願離自力之心。専修者。唯称念仏名。離自力之心。是名横超他力也。斯即専中之専。頓中之頓。真中之真。乗中之一乗。斯乃真宗也。已顕真実行之中畢。
◎(御自釈)おおよそ一代教に就きて、この界の中にして入聖得果するを聖道門と名づく。難行道といえり。この門の中に就きて、大小、漸頓、一乗・二乗・三乗、権実、顕密、竪出・竪超あり。すなわちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく。易行道といえり。この門の中につきて、横出・横超、仮真、漸頓、助・正・雑行、雑修・専修あるなり。正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて已外の五種これなり。雑行とは正助を除きて已外をことごとく雑行と名づく。これすなわち横出、漸教、定散、三福、三輩、九品、自力仮門なり。横超とは、本願を憶念して自力の心を離る。専修とは、ただ仏名を称念して自力の心を離る。これを横超他力と名づくるなり。これすなわち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり。これすなわち真宗なり。すでに真実行の中に顕し畢りぬ。KESINDO:J:SYOZEN2-154,155/-HON-341,342,HOU-451,452-
◎夫雑行・雑修。其言一而其意惟異。於雑之言摂入万行。対五種正行有五種雑行。雑言人天菩薩等解行雑故曰雑。自本非往生因種。廻心回向之善。故曰浄土之雑行也。復就雑行。有専行有専心。復有雑行有雑心。専行者。専修一善故曰専行。専心者。専回向故曰専心。雑行雑心者。諸善兼行故曰雑行。定散心雑故曰雑心也。
◎(御自釈)それ雑行・雑修、その言一にして、その意、これ異なり。雑の言において、万行を摂入す。五種の正行に対して、五種の雑行あり。雑の言は、人天菩薩等の解行雑せるがゆえに、雑と曰えり。本より往生の因種にあらず、回心回向の善なり、故に浄土の雑行というなり。また雑行に就きて、専行あり、専心あり。また雑行あり、雑心あり。専行とは、専ら一善を修するが故に専行と曰う。専心とは、回向を専らにするがゆえに専心と曰えり。雑行・雑心とは、諸善兼行するがゆえに雑行と曰う。定散の心雑するがゆえに雑心というなり。KESINDO:J:SYOZEN2-155/-HON-342,HOU-452,453-
◎亦就正助。有専修有雑修。就此雑修。有専心有雑心。就専修有二種。一者唯称仏名。二者有五専。就此行業。有専心有雑心。五専者。一専礼。二専読。三専観。四専称。五専讃嘆。是名五専修。専修其言一而其意惟異。即是定専修。復散専修也。専心者。専五正行而無二心故曰専心。即是定専心。復是散専心也。雑修者。助正兼行故曰雑修。雑心者。定散心雑故曰雑心也。応知。
◎(御自釈)また、正・助に就きて、専修あり、雑修あり。この雑修につきて、専心あり、雑心あり。専修に就きて二種あり。一にはただ仏名を称す。二には五専あり。この行業につきて、専心あり、雑心あり。五専とは、一には専礼、二には専読、三には専観、四には専名、五には専讃嘆なり、これを五専修と名づく。専修、その言一にして、その意、これ異なり。すなわちこれ定専修なり、また散専修なり。専心とは、五正行を専らにして二心なきがゆえに、専心と曰う。すなわちこれ定専心なり。またこれ散専心なり。雑修とは、助正兼行するがゆえに雑修と曰う。雑心とは、定散の心雑するがゆえに雑心というなり。知るべし。KESINDO:J:SYOZEN2-155,156/-HON-342,343,HOU-453-
◎凡於浄土一切諸行。綽和尚云万行。導和尚称雑行。感禅師云諸行。信和尚依感師。空聖人依導和尚也。拠経家披師釈。雑行之中雑行雑心。雑行専心。専行雑心。亦正行之中。専修専心。専修雑心。雑修雑心。此皆辺地胎宮懈慢界業因。故雖生極楽。不見三宝。仏心光明不照摂余雑業行者也。仮令之誓願。良有由哉。仮門之教。忻慕之釈。是弥明也。
◎(御自釈)おおよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は万行といい、導和尚は雑行と称し、感禅師は諸行と云えり。信和尚は感師に依れり。空聖人は導和尚に依りたまうなり。経家に拠りて師釈を披くに、雑行の中の雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行の中の専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。故に極楽に生ずといえども、三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願、良に由あるかな。仮門の教、忻慕の釈、これいよいよ明らかなり。KESINDO:J:SYOZEN2-156/-HON-343,344,HOU-453,454-
◎二経之三心。依顕之義異也。依彰之義一也。三心一異之義答竟。
◎(御自釈)二経の三心、顕の義に依れば異なり。彰の義に依れば一なり。三心一異の義、答え竟りぬ。KESINDO:J:SYOZEN2-156/-HON-344,HOU-454-
〇然常没下。又借大師釈義之言。粗弁定散難成之義。息慮廃悪序題門意。立相住心像観意也。縦尽等者。華座観釈。無相離念以下。又是像観意也。言門依者。拠上所引序題門釈。竪出竪超横出横超是等名義在第三本。是故愚解載彼下畢。已顕真実行之中者。問。指第二巻何釈文乎。答。彼巻終。挙念仏諸善比校対論。初出四十八対已来。終至于云他力真宗之正意也。二丁有余。殊嘆浄土超勝至徳。指彼等歟。復就等者。又問。或云専行。或云雑心。又云五専。此等名目出何典耶。答。強無本拠。有所対故。以義名之。既云雑行。可有専行。対専雑故。已云専心。可有雑心。所対同前。又云雑行。可有雑心。対心行故。合五種時。蓋言五専。今師処処被用如此之名目等。最以為巧。愚禿鈔中。云七深信。云六決定。又云六即三印三無三随順等。蓋一轍也。SYOZEN2-399,400/TAI9-29,30
〇「然常没」の下は、また大師釈義の言を借りて、ほぼ定散難成の義を弁ず。「息慮」「廃悪」は序題門の意なり。「立相住心」は像観の意なり。「縦尽」等とは「華座観」の釈なり。「無相離念」以下は、またこれ像観の意なり。「門余〈門依〉」というは、上の所引の序題門の釈に拠る。竪出・竪超・横出・横超、これらの名義は第三の本に在り。この故に愚解は彼の下に載せ畢るなり。「已顕真実行之中」とは、問う、第二巻の何の釈文を指すや。答う、彼の巻の終に、念仏諸善の比校対論を挙ぐ。初に四十八対を出だすより已来、終り「他力真宗之正意也」というに至るまで、二丁有余は、殊に浄土超勝の至徳を嘆ず。彼等を指すか。「復就」等とは、また問う、或いは「専行」といい、或いは「雑心」といい、また「五専」という。これらの名目は何の典に出でたるぞや。答う、強に本拠なし。所対あるが故に、義を以てこれに名づく。既に雑行という、専行あるべし。専雑に対するが故に。已に専心という、雑心あるべし。所対は前に同じ。また雑行という、雑心あるべし。心行対するが故に。五種を合する時、蓋〈なん〉ぞ五専といわざらん。今師、処処にかくの如きの名目等を用いらる。最も以て巧なりとす。『愚禿鈔』の中に、「七深信」といい、「六決定」といい、また「六即・三印・三無」「三随順」等という。蓋し一轍なり。SYOZEN2-399,400/TAI9-29,30
◎又問。大本・観経三心与小本一心。一異云何。答。今就方便真門誓願。有行有信。亦有真実有方便。願者即植諸徳本之願是也。行者此有二種。一者善本。二者徳本也。信者即至心回向欲生之心是也。二十願也。就機有定有散。往生者此難思往生是也。仏者即化身。土者即疑城胎宮是也。
◎(御自釈)また問う、『大本』と『観経』の三心と、『小本』の一心と、一異いかんぞや。答う、いま方便真門の誓願について、行あり、信あり、また真実あり、方便あり。願とは、すなわち植諸徳本の願これなり。行とは、これに二種あり。一には善本、二には徳本なり。信とは、すなわち至心回向欲生の心これなり。二十願なり。機について定あり、散あり。往生とは、これ難思往生これなり。仏とは、すなわち化身なり。土とは、すなわち疑城胎宮これなり。KESINDO:J:SYOZEN2-156/-HON-344,HOU-454,455-
◎准知観経。此経亦応有顕彰隠密之義。言顕者。経家嫌貶一切諸行少善。開示善本徳本真門。励自利一心。勧難思往生。是以経説多善根多功徳多福徳因縁。釈云九品倶回得不退。或云無過念仏往西方三念五念仏来迎。此是此経示顕義也。此乃真門中之方便也。
◎(御自釈)『観経』に准知するに、この経にまた顕彰隠密の義あるべし。顕と言うは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして、難思の往生を勧む。ここをもって経(竜舒浄土文)には、多善根・多功徳・多福徳の因縁と説き、釈(法事讃)には、九品ともに回して、不退を得よと云えり。あるいは(法事讃)、無過念仏往西方三念五念仏来迎(念仏して西方に往くに過ぎたるはなし、三念・五念までも仏来迎したまう)と云えり。これはこれこの経の顕の義を示すなり。これすなわち真門の中の方便なり。KESINDO:J:SYOZEN2-156,157/-HON-344,345,HOU-455-
〇第二段中。此経応有顕彰等者。此経是指小経。其顕説者。只憑善本徳本功能。不措心於利他願力。励自力心。約此分斉。其隠説者。難信之法是則願力不思議法。信心為本。是為甚難。諸仏証誠其意在斯。故約顕説。或引此経多善根文。或引無過念仏解釈。前除此句為載此也。口称自力之行門者。二十願分。説聞名故因茲今引此文等也。SYOZEN2-400/TAI9-90
〇第二段の中に「此経応有顕彰」等とは、「此経」はこれ『小経』を指す。その顕説とは、ただ善本・徳本の功能を憑みて、心を利他の願力に措かず、自力の心を励ます。この分斉に約す。その隠説とは「難信の法」、これ則ち願力不思議の法、信心を本とす。これを「甚難」とす。諸仏の証誠は、その意はここに在り。故に顕説に約す。或いはこの経の「多善根」の文を引き、或いは「無過念仏」の解釈を引く。前にこの句を除くはここに載せんが為なり。口称自力の行門は、二十の願の分、聞名を説くが故に、ここに因りて、今この文等を引くなり。SYOZEN2-400/TAI9-90
◎言彰者。彰真実難信之法。斯乃光闡不可思議願海。欲令帰無碍大信心海。良勧既恒沙勧。信亦恒沙信。故言甚難也。釈云。直為弥陀弘誓重。致使凡夫念即生。斯是開隠彰義也。経言執持。亦言一心。執言彰心堅牢而不移転也。持言名不散不失也。一之言者名無二之言也。心之言者名真実也。斯経大乗修多羅中之無問自説経也。爾者。如来所以興出於世。恒沙諸仏証護正意。唯在斯也。
◎(御自釈)彰と言うは、真実難信の法を彰す。これすなわち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。良に勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり、故に甚難と言えるなり。釈(法事讃)に、直ちに弥陀の弘誓重なれるによって、凡夫念ずればすなわち生まれしむることを致すと云えり。これはこれ隠彰の義を開くなり。経(小経)に執持と言えり、また一心と言えり。執の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。持の言は不散不失に名づくるなり。一の言は無二の言に名づくるなり。心の言は真実に名づくるなり。この経は、大乗修多羅の中の無問自説経なり。しかれば、如来、世に出興したまうゆえは、恒沙の諸仏証護の正意、ただこれにあるなり。KESINDO:J:SYOZEN2-157/-HON-345,HOU-455,456-
〇言彰者下。約隠説意。所引之文所述之義深可思択。SYOZEN2-400/TAI9-97
〇「言彰者」の下は、隠説の意に約す。所引の文に述ぶつ所の義、深く思択すべし。SYOZEN2-400/TAI9-97
◎是以。四依弘経大士。三朝浄土宗師。開真宗念仏導濁世邪偽。三経大綱雖有顕彰隠密之義。彰信心為能入。故経始称如是。如是之義則善信相也。今按三経。皆以金剛真心為最要。真心即是大信心。大信心希有最勝真妙清浄。何以故。大信心海甚以[ハ01]入。従仏力発起故。真実楽邦甚以易往。藉願力即生故。今将談一心一異義。当此意也。三経一心之義答竟
◎(御自釈)ここをもって、四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて濁世の邪偽を導く。三経の大綱、顕彰隠密の義ありといえども、信心を彰して能入とす。故に経の始めに如是と称す。如是の義はすなわち善く信ずる相なり。いま三経を按ずるに、みな金剛の真心をもって最要とせり。真心すなわちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。何をもってのゆえに、大信心海ははなはだもって入りがたし、仏力より発起するがゆえに。真実の楽邦、はなはだもって往き易し、願力に藉ってすなわち生ずるがゆえに。いま将に一心一異の義を談ぜんとす。当にこの意なるべきなり。三経一心の義、答え竟りぬ。KESINDO:J:SYOZEN2-157/-HON-345,346,HOU-456,457-
〇是以以下。結其三経一致之旨。又彰信為能入之要。大信心海甚以等者。問。由仏力故令発起者。何[ハ01]入乎。答。得他力信甚難故也。若得他力真実信者。甚応易往。真実以下下句之意顕此義也。SYOZEN2-400/TAI9-112
〇「是以」以下は、その三経一致の旨を結し、また信為能入(信を能入とす)の要を彰わす。「大信心海甚以」等とは、問う、仏力に由るが故に発起せしめば、何ぞ入りがたからんや。答う、他力の信を得ること、甚だ難きが故なり。もし他力真実の信を得れば、甚だ往き易かるべし。「真実」以下、下の句の意はこの義を顕わすなり。SYOZEN2-400/TAI9-112
◎夫濁世道俗。応速入円修至徳真門願難思往生。就真門之方便。有善本有徳本。復有定専心。復有散専心。復有定散雑心。雑心者。大小凡聖一切善悪。各以助正間雑心称念名号。良教者頓而根者漸機。行者専而心者間雑。故曰雑心也。定散之専心者。以信罪福心願求本願力。是名自力之専心也。善本者如来嘉名。此嘉名者。万善円備。一切善法之本。故曰善本也。徳本者如来徳号。此徳号者。一声称念。至徳成満。衆禍皆転。十方三世徳号之本。故曰徳本也。然則釈迦牟尼仏。開演功徳蔵勧化十方濁世。阿弥陀如来。本発果遂之誓(二十願也)悲引諸有群生海。然則釈迦牟尼仏。開演功徳蔵勧化十方濁世。阿弥陀如来。本発果遂之誓悲引諸有群生海。既而有悲願。名植諸徳本之願。復名係念定生之願。復名不果遂者之願。亦可名至心回向之願也。
◎(御自釈)それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。真門の方便に就きて、善本あり、徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。良に教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。故に雑心というなり。定散の専心は、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。故に善本というなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。故に徳本というなり。しかればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓い(二十願なり)を発して、諸有の群生海を悲引したまえり。すでにして悲願います。植諸徳本の願と名づく、また係念定生の願と名づく、また不果遂者の願と名づく。また至心回向の願と名づくべきなり。KESINDO:J:SYOZEN2-157,158/-HON-346,347,HOU-457,458-
〇第三段者。就二十願述其大意。又出得名。大意可見。言得名者。植諸徳本。不果遂者。至心回向。共就経文有此願名。係念定生真源名之。黒谷拠此。SYOZEN2-400/TAI9-138
〇第三段は、二十の願に就きてその大意を述ぶ。また得名を出だす。大意見つべし。得名というは、「植諸徳本」「不果遂者」「至心回向」。ともに経文に就きてこの願名あり。「係念定生」は真源のこれに名づく。黒谷はこれに拠る。SYOZEN2-400/TAI9-138
◎是以大経願言。設我得仏。十方衆生聞我名号係念我国。植諸徳本至心回向欲生我国。不果遂者不取正覚。
◎ここをもって『大経』の願に言わく、設い我、仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの善本を植えて、心を至し回向して、我が国に生ぜんと欲わん。果遂せずは正覚を取らじ。KESINDO:SYOZEN2-158/HON-347,HOU-458
〇次引文中。所引願者第二十也。当願意者。偏憑善本徳本功力。不信仏智難思他力。雖然終依係念之因。令果遂也。問。言果遂者。御廟黒谷共判三生果遂之義。今師同乎。答。三生之義不可違害。問。当願之益。為化土者所果遂者。可為報土往生益歟。答。一生聞名。一生化生。一生報土。如此得意果遂之益可報土耳。大経下云。若此衆生。識其本罪深自悔責。求離彼処。即得如意往詣無量寿仏所。已上。指彼往詣仏所之時。云果遂也。問。彼転生者。不改其生何三生乎。答。雖不改生。離三種障。得三種益。義当転生。例如変易生死是也。SYOZEN2-401/TAI9-144,145
〇次の引文の中に、所引の願は第二十なり。当願の意は、偏に善本徳本の功力を憑みて、仏智難思の他力を信ぜず。然りといえども、終に係念の因に依りて果遂せしむるなり。問う、「果遂」というは、御廟・黒谷共に三生果遂の義を判ず。今師同じや。答う、三生の義は違害すべからず。問う、当願の益、化土たらば、果遂する所は報土往生の益たるべきか。答う、一生聞名、一生化生、一生報土。かくの如く意を得ば、果遂の益は報土なるべからくのみ。『大経』の下に云わく「もしこの衆生、その本罪を識りて深く自ら悔責して、彼の処を離れんと求めば、即ち意の如く無量寿仏の所に往詣することを得ん」已上。彼の往詣仏所の時を指して果遂というなり。問う、彼の転生とは、その生を改めずして、何ぞ三生ならんや。答う、生を改めずといえども、三種の障を離れて、三種の益を得る義は転生に当る。例せば変易生死の如き、これなり。SYOZEN2-401/TAI9-144,145
◎又言。於此諸智疑惑不信。然猶信罪福修習善本願生其国。此諸衆生生彼宮殿。
◎(大経)また言わく、この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになお罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まると。KESINDO:SYOZEN2-158/HON-347,HOU-458
〇次又言者。同下巻文。是説衆生疑惑仏智信罪福者受胎生也。此下所引就果遂益出説名号之利諸文。SYOZEN2-401/TAI9-152
〇次に「又言」とは、同じき下巻の文なり。これ衆生の仏智を疑惑して罪福を信ずる者は胎生を受くることを説くなり。この下の所引は果遂の益に就きて名号の利を説く諸文を出だす。SYOZEN2-401/TAI9-152
◎又言。若人無善本。不得聞此経。清浄有戒者。乃獲聞正法。已上。
◎(大経)また言わく、もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒をたもてる者、いまし正法を聞くことを獲んと。已上。KESINDO:SYOZEN2-158/HON-348,HOU-458
〇次又言者。三十偈文。SYOZEN2-401/TAI9-155
〇次に「又言」とは、三十偈の文なり。SYOZEN2-401/TAI9-155
◎無量寿如来会言。若我成仏。無量国中所有衆生。聞説我名。以己善根回向極楽。若不生者不取菩提。已上。
◎『無量寿如来会』に言わく、もし我、成仏せんに、無量国の中の所有の衆生、我が名を説かんを聞きて、もって己が善根として極楽に回向せん。もし生ぜずは菩提を取らじと。已上。KESINDO:SYOZEN2-158/HON-348,HOU-458
〇次所引者如来会文。以不果遂説不生者。所言果遂即往生故。SYOZEN2-401/TAI9-158
〇次の所引は『如来会』の文なり。不果遂を以て不生と説くは、言う所の果遂は即ち往生なるが故に。SYOZEN2-401/TAI9-158
◎平等覚経言。非有是功徳人。不得聞是経名。唯有清浄戒者。乃還聞斯正法。悪・[キョウ02]慢・蔽・懈怠。難以信於此法。宿世時見仏者。楽聴聞世尊教。人之命希可得。仏在世甚難値。有信専〈信慧〉不可致。若聞見精進求。已上。
◎『平等覚経』に言わく、この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒をたもてる者、いまし還りてこの正法を聞く。悪と[キョウ02]慢と蔽と懈怠とは、もってこの法を信ずること難し。宿世の時に仏を見たてまつる者、楽〈この〉みて世尊の教を聴聞せん。人の命、希に得べし。仏、世にましませどもはなはだ値いがたし。信専あること〈信慧ありて〉致るべからず。もし聞見せば精進にして求めよと。已上。KESINDO:SYOZEN2-158,159/HON-348,HOU-458,459
〇次覚経文。五言六言字数雖異。文言義趣大同大経三十偈矣。SYOZEN2-401/TAI9-160
〇次に『覚経』の文なり。五言と六言と、字数異なるといえども、文言・義趣は大に『大経』の三十偈に同じ。SYOZEN2-401/TAI9-160
◎観経言。仏告阿難。汝好持是語。持是語者。即是持無量寿仏名。已上。
◎『観経』に言わく、仏、阿難に告げたまわく、汝よくこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなりと。已上。KESINDO:SYOZEN2-159/HON-348,HOU-459
〇次観経文。至経流通付属仏名之仏語也。SYOZEN2-401/TAI9-163
〇次に『観経』の文なり。経の流通に至りて仏名を付属する仏語なり。SYOZEN2-401/TAI9-163
◎阿弥陀経言。不可以少善根福徳因縁得生彼国。聞説阿弥陀仏執持名号。已上。
◎『阿弥陀経』に言わく、少善根福徳の因縁をもって、かの国に生ずることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ。已上。KESINDO:SYOZEN2-159/HON-348,HOU-459
〇次小経文。至生彼国説少善根不生之義。聞説已下所説名号執持益也。SYOZEN2-401/TAI9-167
〇次に『小経』の文なり。「生彼国」に至るまでは少善根不生の義を説く。「聞説」已下は名号執持の益を説く所なり。SYOZEN2-401/TAI9-167
◎光明寺和尚云。自余衆行雖名是善。若比念仏者。全非比校也。是故諸経中。処処広讃念仏功能。如無量寿経四十八願中。唯明専念弥陀名号得生。又如弥陀経中。一日七日専念弥陀名号得生。又十方恒沙諸仏証誠不虚也。又此経定散文中。唯標専念名号得生。此例非一也。広顕念仏三昧竟。
◎(定善義)光明寺和尚の云わく、自余の衆行、これ善と名づくといえども、もし念仏に比ぶれば、全く比校にあらざるなり。この故に諸経の中に処処に広く念仏の功能を讃めたり。『無量寿経』の四十八願の中のごとき、ただ弥陀の名号を専念して生まるることを得と明かす。また『弥陀経』の中のごとし、一日・七日、弥陀の名号を専念して生を得と。また、十方恒沙の諸仏の証誠虚しからざるなり。またこの経(観経)の定散の文の中に、ただ、名号を専念して生を得と標す。この例一にあらざるなり。広く念仏三昧を顕し竟りぬ。KESINDO:SYOZEN2-159/HON-348,349,HOU-459
〇次所引等者宗家解釈。総有九段。初定善義。解経念仏摂取文釈。標三経意。其文可見。SYOZEN2-401/TAI9-198,169
〇次の所引等は宗家の解釈なり。総じて九段あり。初は定善義、経の念仏摂取の文を解する釈なり。三経の意を標す。その文見つべし。SYOZEN2-401/TAI9-198,169
◎又云。又決定深信弥陀経中十方恒沙諸仏証勧一切凡夫決定得生。乃至。諸仏言行不相違失。縦令釈迦指勧一切凡夫。尽此一身専念専修。捨命已後定生彼国者。即十方諸仏悉皆同讃同勧同証。何以故。同体大悲故。一仏所化即是一切仏化。一切仏化即是一仏所化。即弥陀経中説。乃至。又勧一切凡夫。一日七日一心専念弥陀名号。定得往生。次下文云。十方各有恒河沙等諸仏。同讃釈迦。能於五濁・悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪・無信盛時。指讃弥陀名号勧励衆生。称念必得往生。即其証也。又十方仏等恐畏衆生不信釈迦一仏所説。即共同心同時。各出舌相遍覆三千世界説誠実言。汝等衆生。皆応信是釈迦所説所讃所証。一切凡夫不問罪福多少・時節久近。但能上尽百年。下至一日七日。一心専念弥陀名号。定得往生必無疑也。是故一仏所説一切仏同証誠其事也。此名就人立信也。抄要。
◎(散善義)また云わく、また決定して、『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して、決定して生ずることを得と深信せよ。乃至。諸仏は言行あい違失したまわず。たとい釈迦、指〈おし〉えて一切凡夫を勧めて、この一身を尽くして専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるるは、すなわち十方の諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまう。何をもっての故に、同体の大悲の故に。一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説かく。乃至。また一切凡夫人を勧めて、一日・七日、一心に弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得んと。次ぎ下の文に云わく、十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦を讃めたまわく、よく五濁、悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪無信の盛んなる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生を勧励して称念せしむれば、必ず往生を得と。すなわちその証なり。また十方仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏れて、すなわち共に同心・同時におのおの舌相を出だしてあまねく三千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、汝等衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。このゆえに一仏の所説は、一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを人に就きて信を立つと名づくるなり。抄要。KESINDO:SYOZEN2-159,160/HON-349,HOU-459,460
〇次所引文。又云決定深信等者。散善義釈。就三経意釈深信中。依弥陀経解釈以下。取要被引。第三巻本由具被載三心之釈有此文。故其所引下粗加註畢。仍不重解。問。第三引之。何重引耶。答。第三広引。当巻略引。又於両巻互有除取。非無異也。得生之下言乃至者。又深信〈深心〉下四重難中。至第四云推験明知二十丁半余所除是也。但所除内至大益也十八丁余。第三巻本引之故除。又深心下四十余行。彼巻同除。但此文云諸仏言行不相違失縦令十字。彼巻除之此巻引之。経中説下言乃至者。所云釈迦讃嘆極楽種種荘厳十字是也。SYOZEN2-401,402/TAI9-173
〇次の所引の文「又云決定深信」等とは、「散善義」の釈なり。三経の意に就きて深信を釈する中に、『弥陀経』に依る解釈以下、要を取りて引かる。第三巻の本に具に三心の釈を載せらるるに由りて、この文あり。故にその所引の下にほぼ註を加え畢りぬ。よりて重ねて解せず。問う、第三にこれを引く、何ぞ重ねて引くや。答う、第三には広く引き、当巻には略して引く。また両巻に於いて互に除取あり。異なきにあらざるなり。「得生」の下に「乃至」というは、「又深信〈深心〉」の下、四重の難の中に、第四に「推験明知」というに至るまで、二十丁半余、除く所これなり。ただし除く所の内、「大益也」に至るまで十八丁余は、第三巻の本にこれを引くが故に除く。「又深心」の下、四十余行は彼の巻に同じく除く。ただしこの文に「諸仏言行不相違失縦令」という十字は、彼の巻にこれを除きて、この巻にこれを引く。「経中説」の下に「乃至」というは、「釈迦讃嘆極楽種種荘厳」という所の十字、これなり。SYOZEN2-401,402/TAI9-173
◎又云。然望仏願意者。唯勧正念称名。往生義疾不同雑散之業。如此経及諸部中処処広嘆。勧令称名将為要益也。応知。
◎(散善義)また云わく、しかるに仏願の意を望むに、ただ正念を勧め、名を称せしむ。往生の義の疾きことは、雑散の業に同じからず。この経および諸部の中に、処処に広く嘆ずるがごときは、勧めて名を称せしむるを将に要益とせんとするなり。知るべしと。KESINDO:SYOZEN2-160/HON-350,HOU-460
〇次所引文。又云然望仏願等者。散善義釈。解下上品称仏名故我来迎汝之文釈也。其上文云。所聞化讃。但述称仏之功我来迎汝。不論聞経之事。已上。雑散業者聞経題者。是雑行也。又喰受心令浮散故名雑散業。称名業者是正業也。摂散住心故不同也。如此等者。此有三義。一云指三部経。謂此経者即是観経。及諸部者即指大小二部経也。二云指一代教。如此経者是指三部。諸部中者広指諸経。三云広以一代諸大乗経。今収浄土三部意也。SYOZEN2-402/TAI9-179
〇次の所引の文、「又云然望仏願」等とは、「散善義」の釈に、下上品の「称仏名故、我来迎汝」の文を解する釈なり。その上の文に云わく「所聞の化讃、ただ称仏の功を述べて、我来りて汝を迎うといいて聞経の事を論ぜず」已上。「雑散業」とは、経題を聞くは、これ雑行なり。また喰受の心、浮散しむるが故に雑散の業と名づく。称名の業は、これ正業なり。散を摂して心を住せしむるが故に同じからざるなり。「如此」等とは、これに三義あり。一に云わく、三部経を指す。謂わく「此経」とは即ちこれ『観経』、「及諸部」とは即ち『大』『小』二部の経を指すなり。二に云わく、一代教を指す。「如此経」とは、これ三部を指し、「諸部中」とは広く諸経を指す。三に云わく、広く一代の諸大乗経を以て、今、浄土の三部に収むる意なり。SYOZEN2-402/TAI9-179
◎又云。従仏告阿難汝好持是語已下。正明付属弥陀名号流通於遐代。上来雖説定散両門之益。望仏本願意。在衆生一向専称弥陀仏名。
◎(散善義)また云わく、仏告阿難汝好持是語より已下は、正しく弥陀の名号を付嘱して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといえども、仏の本願の意を望むれば、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにありと。KESINDO:SYOZEN2-160/HON-350,HOU-460,461
〇次所引者同流通釈。解上所引付属阿難仏語釈也。SYOZEN2-401/TAI9-181
〇次の所引は同じき流通の釈、上の所引の付属阿難仏語を解する釈なり。SYOZEN2-401/TAI9-181
◎又云。極楽無為涅槃界。随縁雑善恐難生。故使如来選要法教念弥陀専復専。
◎(法事讃)また云わく、極楽は無為涅槃の界なり。縁に随う雑善、恐らくは生じがたし。故に如来、要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえり。KESINDO:SYOZEN2-160/HON-350,HOU-461
◎又云。劫欲尽時五濁盛。衆生邪見甚難信。専専指授帰西路。為他破壊還如故。曠劫已来常如此。非是今生始自悟。正由不遇好強縁。致使輪回難得度。
◎(法事讃)また云わく、劫尽きんと欲する時、五濁盛んなり。衆生邪見にしてはなはだ信じがたし。専らにして専らなれと指授して西路に帰せしむれども、他のために破壊せられて還りて故〈もと〉のごとし。曠劫よりこのかた常にかくのごとし。これ今生に始めて自ら悟るにあらず。正しく好き強縁に遇わざるに由りて、輪回して得度しがたからしむることを致すと。KESINDO:SYOZEN2-160,161/HON-350,HOU-461
◎又云。種種法門皆解脱。無過念仏往西方。上尽一形至十念三念五念仏来迎。直為弥陀弘誓重。致使凡夫念即生。
◎(法事讃)また云わく、種種の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるはなし。上一形を尽くし、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまう。直ちに弥陀の弘誓重きによって、凡夫をして念ずればすなわち生ぜしむることを致すと。KESINDO:SYOZEN2-161/HON-350,HOU-461
〇次所引文。三段共是事讃下釈。其中初解経少善不生意讃。次両偈者是明五濁劫末衆生邪見難信。意在勧発堅固信心永絶輪回。後一偈半。或載一句。或載二句。処処引之。諸教念仏対比勝劣簡要文也。SYOZEN2-402/TAI9-184
〇次の所引の文、三段ともにこれ『事讃』の下の釈なり。その中に初は経の少善不生の意を解する讃なり。次の両偈はこれ五濁劫末の衆生は邪見にして信じ難きことを明かす。意は堅固の信心を勧発して永く輪回を絶つるに在り。後の一偈半は、あるいは一句を載せ、あるいは二句を載せて、処処にこれを引く。諸教と念仏と、勝劣を対比する簡要の文なり。SYOZEN2-402/TAI9-184
◎又云。一切如来設方便。亦同今日釈迦尊。随機説法皆蒙益。各得悟解入真門。乃至。仏教多門八万四。正為衆生機不同。欲覓安身常住処。先求要行入真門。
◎(般舟讃)また云わく、一切如来、方便を設けたまうこと、また今日の釈迦尊に同じ。機に随いて法を説く、みな益を蒙る。おのおの悟解を得て真門に入れと。乃至。仏教多門にして八万四なり。正しく衆生の機不同なるがためなり。安身常住の処を覓〈もと〉めんと欲わば、先ず要行を求めて真門に入れと。KESINDO:SYOZEN2-161/HON-350,351,HOU-461
〇次両偈者般舟讃文。初文一切如来等者。是明諸仏道同之義。随機等者是明諸教一分利益。根性利者皆蒙益也。各得等者。明彼諸教終入真門為其益也。言乃至者。門門不同八万四下九行是也。次一偈内初之二句第三巻末。略雖引之。今於当巻全引一偈。仏教等者。是又正明一代説教普応諸機。下根修行。若不成者不可輙得常住之果。故勧可入西方門也。SYOZEN2-403,/TAI9-193
〇次の両偈は『般舟讃』の文なり。初の文に「一切如来」等とは、これ諸仏道同の義を明かす。「随機」等とは、これ諸教の一分の利益を明かす。根性利なる者はみな益を蒙るなり。「各得」等とは、彼の諸教は終に真門に入るをその益とすることを明かすなり。「乃至」というは「門門不同八万四」の下九行これなり。次の一偈の内に初の二句は第三巻の末に略してこれを引くといえども、今、当巻に於いて全く一偈を引く。「仏教」等とは、これまた正しく一代説教普く諸機に応ずることを明かす。下根の修行、もし成ぜずは、輙く常住の果を得べからず。故に西方の門に入るべしと勧むるなり。SYOZEN2-403,/TAI9-193
◎又云。爾比日自見聞諸方道俗。解行不同専修有異。但使専意作者。十即十生。修雑不至心者。千中無一。已上。(智昇法師礼懺儀文云光明寺礼讃也。)
◎(往生礼讃)また云わく、それこのごろ自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専修に異あり。ただ意を専らにして作さしむる者は、十はすなわち十ながら生ず。雑を修するは至心ならざる者は、千が中にひとりもなし。已上。(智昇法師「礼懺儀」の文に云わく「光明寺の礼讃なり」。)KESINDO:SYOZEN2-161/HON-351,HOU-461,462
○次所引文。又云等者。礼讃序釈。結前専雑二修得失釈也。千中等者。問。前許一二三五往生。今何相違。答。与奪意也。与許少分。奪云無一。又依教意。於化土生且許一二三五往生。而自力道化益猶難。故所見聞現在得益未得其証。故云千中無其一也。SYOZEN2-403/TAI9-195
〇次の所引文、「又云」等とは『礼讃』の序の釈。前の専雑二修の得失を結する釈なり。「千中」等とは、問う、前には一・二・三・五の往生を許す。今何ぞ相違するや。答う、与奪の意なり。与て少分を許し、奪いて無一という。また教意に依るに、化土の生に於いてしばらく一・二・三・五の往生を許す。しかるに自力の道は化益なお難し。故に見聞する所、現在の得益は未だその証を得ず。故に千が中にその一もなしというなり。SYOZEN2-403/TAI9-195
◎元照律師弥陀経義疏云。如来欲明持名功勝。先貶余善為少善根。所謂布施・持戒・立寺・造像・礼誦・坐禅・懺念・苦行・一切福業。若無正信回向願求。皆為少善。非往生因。若依此経執持名号。決定往生。即知。称名是多善根・多福徳也。昔作此解人尚遅疑。近得襄陽石碑経本文理冥符。始懐深信。彼云。善男子善女人。聞説阿弥陀仏。一心不乱専称名号。以称名故諸罪消滅。即是多功徳・多善根・多福徳因縁。已上。
◎元照律師の『弥陀経義疏』に云わく、如来、持名の功の勝れたることを明かさんと欲す。先ず余善を貶しめ少善根とす。いわゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・坐禅・懴念・苦行・一切の福業、 もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経に依りて名号を執持せば、決定して往生せん。すなわち知りぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解を作ししに、人なお遅疑しき。近く襄陽の石碑の経本を得て、文理冥符せり。始めて深信を懐く。彼に云わく、善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもってのゆえに、諸罪消滅す。すなわちこれ多功徳・多善根・多福徳の因縁なりと。已上。KESINDO:SYOZEN2-161/HON-351,HOU-462
〇次元照釈。文意易見。但就碑経。問。選択集中。勘載龍舒浄土文云。自一心不乱而下云。専持名号。以称名故諸罪消滅。即是多善根福徳因縁。今世伝本脱此二十一字。已上。今所用者以持為称。又多功徳三字加増。又福徳上有多一字。字数増減相違云何。答。試出二義。一経説不可思議功徳。論判真実功徳相。故言雖略之。義必可在。故云功徳。既是無上大利功徳。大通多勝。故曰為多善根福徳。皆悉円備。故福徳上加多字歟。二於石碑本有異本歟。持称両字即由此耳。SYOZEN2-403/TAI9-199,200
〇次に元照の釈。文意見やすし。ただし碑の経に就きて、問う、『選択集』の中に龍舒の浄土文を勘え載せて云わく「一心不乱より、しかも下に云わく、専ら名号を持つ。称名を以ての故に諸罪消滅す。即ちこれ多善根福徳の因縁なり。今の世に伝る本にはこの二十一字を脱す」已上。今用いる所は「持」を以て「称」とす。また「多功徳」の三字加増す。まら「福徳」の上に「多」の一字あり。字数の増減の相違は云何。答う、試みに二義を出だす。一には経に「不可思議功徳」と説き、論に「真実功徳相」と判ず。故に言にはこれを略すといえども、義は必ず在るべし。故に「功徳」という。既にこれ無上大利の功徳なり。大は多勝に通ず。故に曰て「多善根福徳」とす。皆悉く円備せり。故に福徳の上に「多」の字を加うるか。二には石碑の本に於いて異本あるか。「持」「称」の両字は即ちこれに由るらくのみ。SYOZEN2-403/TAI9-199,200
◎孤山疏云。執持名号者。執謂執受。持謂住持。信力故執受在心。念力故住持不忘。已上。
◎(智円・小経疏)孤山の疏に云わく、執持名号とは、執はいわく執受なり、持はいわく住持なり。信力のゆえに執受、心にあり。念力のゆえに住持して忘れずと。已上。KESINDO:SYOZEN2-162/HON-351,HOU-462
〇次所用文。弧山疏者智円法師小経疏也。執持等者智度論云。信力故受。念力故持。已上。寂師大経義記下釈受持義云。受者作心領納故。持者得記不忘。已上。故此等之釈其意皆同。SYOZEN2-403,404/TAI9-203
〇次の所用の文。弧山の疏とは智円法師の『小経の疏』なり。「執持」等とは、『智度論』に云わく「信力の故に受く。念力の故に持つ」已上。寂師『大経義記』の下に受持の義を釈して云わく「受とは心の領納を作すが故に。持とは記を得て忘れず」已上。故にこれらの釈、その意みな同じ。SYOZEN2-403,404/TAI9-203
◎大本言。如来興世難値難見。諸仏経道難得難聞。菩薩勝法諸波羅蜜得聞亦難。遇善知識聞法能行。此亦為難。若聞斯経信楽受持。難中之難無過此難。是故我法如是作。如是説。如是教。応当信順如法修行。已上。
◎(大経)『大本』に言わく、如来の興世、値い難く見たてまつり難し。諸仏の経道、得難く聞き難し。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇い、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難の中の難、これに過ぎて難きはなけん。このゆえに我が法、かくのごとく作し、かくのごとく説き、かくのごとく教う。まさに信順して、法のごとく修行すべし。已上。KESINDO:SYOZEN2-162/HON-351,352,HOU-462
〇次大本者。大経下巻流通文也。仏語弥勒其有已下為流通中。有四段内。第一嘆経勧学有五。於其五中。今所引者四五両段。自所引初(但正自上仏語弥勒)至云之難無遏此難。四挙難勧信。故我法下至云信順如法修行。五結勧修行。第四挙難勧信之中。又分為二。自文之初至亦為難。是先約総。若聞已下次約別也。約総之中。依浄影意。難値等者。生当仏時。名之為値。目覩称見。此皆難也。難得等者。手得経巻。名之為得。耳聴曰聞。亦可領誦。目之為得。耳喰称聞。此等皆難。菩薩等者。菩薩勝下。明其行法聞之甚難。遇善知識能行亦難。明修行難。約別之中。難中等者。約対前三。(今所言者除見仏難)明此経中修学最難。余義余法処処宜説。開顕浄土教人往生。独此一経為是最難。已上遠意。就此釈意。私有所解。所謂初中至聞亦難。広約一代。正為之総。於其文中。如来等者。於仏在世約其仏宝。諸仏已下。於其滅後是約法宝。菩薩等者。是約僧宝。遇善等者。是雖属総。帯別意歟。是則此文存浄教意。其中今約起行之辺。若聞已下別中之別。謂約安心得此信心難中難也。結此信行。下説信順如法修行。且依一流口伝宗旨。且就一分短慮領解。聊以記之。他不可与。述愚意耳。第五結勧修行文中。是故等者。浄影師云。言我法者。挙此経法。如是作者。此経宣説弥陀如来修願修行。得身得土名如是作。如是説者。如来為衆宣説名如是説。如是教者。如来上来教人往生名如是教。已上。義寂師云。如是作者。謂神通輪令彼発心故。如是説者。謂記説輪。知心而説故。如是教者。謂教誡輪。教授教誡故。已上。SYOZEN2-404,405/TAI9-204,205
〇次に「大本」とは、『大経』の下巻流通の文なり。「仏語弥勒其有」已下を流通とする中に、四段ある内、第一の嘆経勧学に五あり。その五の中に於いて、今の所引は四・五両段、所引の初より(ただし正しくは上の「仏語弥勒」より)、「之難無遏此難」というに至る四に難を挙げて信を勧む。「故我法」より下、「信順如法修行」というに至るまでは、五に結して修行を勧む。第四に難を挙げて信を勧むる中に、また分かちて二とす。文の初より、「亦為難」に至るまでは、これまず総に約す。「若聞」已下は、次に別に約するなり。総に約する中に、浄影の意に依るに、「難値」等とは、「生れて仏時に当る、これを名づけて値とす。目に覩るを見と称す。これみな難なり」(無量寿経義疏)。「難得」等とは、「手に経巻を得、これを名ずけて得とす。耳に聴くを聞という。また領誦すべし、これを目づけて得とす。耳に喰するを聞と称す。これらみな難し」(無量寿経義疏)。「菩薩」等とは、「菩薩勝の下は、その行法、これを聞くこと甚だ難きことを明かす。善知識に遇、能く行ずること、また難しとは、修行の難きことを明かす」(無量寿経義疏)。別に約する中に、「難中」等とは、「前の三に約対す。(今言う所は見仏の難を除く)。この経の中に修学すること最も難きことを明かす。余義・余法は処処に宜しく説くべし。浄土を開顕し、人を教えて往生せしむ。独りこの一経、これ最難とす」(無量寿経義疏)。已上、遠の意。この釈の意に就きて、私に解する所あり。所謂、初の中に「聞亦難」に至るまでは、広く一代に約す。正しくこれを総とす。その文の中に於いて、「如来」等とは、仏の在世に於いてその仏宝に約す。「諸仏」已下は、その滅後に於いて、これ法宝に約す。「菩薩」等とは、これ僧宝に約す。「遇善」等とは、これ総に属すといえども、別の意を帯するか。これ則ちこの文は浄教の意を存す。その中に今は起行の辺に約す。「若聞」已下は別の中の別なり。謂く、安心に約してこの信心を得ること難中の難なり。この信行を結して、下に「信順如法修行」と説く。かつは一流口伝の宗旨に依りて、かつは一分短慮の領解に就きて、聊か以てこれを記す。他は与〈くみ〉すべからず、愚意を述ぶらくのみ。第五に結して修行を勧むる文の中に、「是故」等とは、浄影師(無量寿経義疏)の云わく「我法というは、この経法を挙ぐ。如是作とは、この経は弥陀如来の修願修行を宣説して、身を得、土を得るを如是作と名づく。如是説とは、如来、衆の為に宣説するを如是説と名づく。如是教とは、如来、上来に人を教えて往生せしむるを如是教と名づく」已上。義寂師の云わく「如是作とは、謂く神通輪、彼をして発心せしむるが故に。如是説とは、謂く記説輪、心を知りて説くが故に。如是教とは、謂く教誡輪、教授・教誡するが故に」已上。SYOZEN2-404,405/TAI9-204,205
◎涅槃経言。如経中説。一切梵行因善知識。一切梵行因雖無量。説善知識則已摂尽。如我所説。一切悪行邪見。一切悪行因雖無量。若説邪見則已摂尽。或説。阿耨多羅三藐三菩提。信心為因。是菩提因雖復無量。若説信心則已摂尽。
◎『涅槃経』(迦葉品)に言わく、経の中に説くがごとし、一切梵行の因は善知識なり。一切梵行の因、無量なりといえども、善知識を説けばすなわちすでに摂尽しぬ。我が所説のごとし。一切悪行は邪見なり。一切悪行の因、無量なりといえども、もし邪見を説けばすなわちすでに摂尽しぬ。あるいは説かく、阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とす。この菩提の因、また無量なりといえども、もし信心を説けばすなわちすでに摂尽しぬ。KESINDO:SYOZEN2-162/HON-352,HOU-463
〇次涅槃経文。是上大経就説知識信心勝徳。雖為他経。竊会上文。即如上来処処述之。弥陀名号涅槃義故。付其内証。被得合之。今師已証有由者也。此経所引有其三段。如経中者。是初讃説善知識徳。并信心益。SYOZEN2-405/TAI9-213
〇次に『涅槃経』の文。これ上に『大経』に知識信心の勝徳を説くに就きて、他経たりといえども、竊に上の文を会す。即ち上来処処にこれを述ぶるが如し。弥陀の名号は涅槃の義なるが故に、その内証に付て、これを得合せらる。今師の已証、由あるものなり。この経の所引にその三段あり。「如経中」とは、これ初に善知識の徳、并びに信心の益を讃説す。SYOZEN2-405/TAI9-213
◎又言。善男子。信有二種。一者信。二者求。如是之人雖復有信不能推求。是故名為信不具足。信復有二種。一従聞生。二従思生。是人信心従聞而生。不従思生。是故名為信不具足。復有二種。一信有道。二信得者。是人信心唯信有道。都不信有得道之人。是名為信不具足。復有二種。一者信正。二者信邪。言有因果有仏法僧。是名信正。言無因果三宝性異信諸邪語富闌那等。是名信邪。是人雖信仏法僧宝。不信三宝同一性相。雖信因果。不信得者。是故名為信不具足。是人成就不具足信。乃至。
◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、善男子、信に二種あり。一には信、二には求なり。かくのごときの人は、また信ありといえども、推求することあたわず。この故に名づけて信不具足とす。信にまた二種あり。一には聞より生ず。二には思より生ず。この人の信心は聞よりして生じて、思より生ぜず、この故に名づけて信不具足とす。また二種あり。一には道あることを信ず。二には得者を信ず。この人の信心は、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず。これを名づけて信不具足とす。また二種あり。一には信正、二には信邪なり。因果あり、仏・法・僧ありと言わん、これを信正と名づく。因果なし、三宝の性、異なりと言いて、もろもろの邪語を信ずる富闌那等なり。これを信邪と名づく。この人、仏・法・僧宝を信ずといえども、三宝同一の性相なりと信ぜず。因果を信ずといえども得者を信ぜず。このゆえに名づけて信不具足とす。この人、不具足の信を成就すと。乃至KESINDO:SYOZEN2-162,163/HON-352,HOU-463-
◎善男子。有四善事獲得悪果。何等為四。一者為勝他故読誦経典。二者為利養故受持禁戒。三者為他属故而行布施。四者為非想非非想処故繋念思惟。是四善事得悪果報。若人修習如是四事。是名没・没已還出・出已還没。何故名没。楽三有故。何故名出。以見明故。明者即是聞戒・施・定。何以故還出没。増長邪見生[キョウ02]慢故。是故我於経中説偈。若有衆生楽諸有。為有造作善悪業。是人迷失涅槃道。是名暫出還復没。行於黒闇生死海雖得解脱。雑煩悩。是人還受悪果報。是名暫出還復没。
◎(涅槃経・迦葉品)善男子、四の善事ありて、悪果を獲得せん。何等をか四とする。一には勝他のための故に経典を読誦す。二には利養のための故に禁戒を受持す。三には他属のための故にして布施を行ぜん。四には非想非非想処のための故に繋念思惟す。この四の善事は悪果報を得ん。もし人かくのごときの四事を修習せん、これを、没し、没し已りて還りて出で、出で已りて還りて没すと名づく。何がゆえぞ没と名づくるや。三有を楽うが故に。何がゆえぞ出と名づくるや。明を見るをもってのゆえに。明とはすなわちこれ戒・施・定を聞くなり。何をもってのゆえに還りて出没するや。邪見を増長し、[キョウ02]慢を生ずるが故に。この故に我、経の中において偈を説かく、もし衆生ありて諸有を楽んで、有のために善悪の業を造作する、この人は涅槃道を迷失するなり。これを暫出還復没と名づく。黒闇生死海を行じて解脱を得といえども、煩悩を雑するは、この人還りて悪果報を受く、これを暫出還復没と名づくと。KESINDO:SYOZEN2-163/-HON-352,353,HOU-463,464-
◎如来則有二種涅槃。一者有為。二者無為。有為涅槃無常。常楽我浄無為涅槃。有常人深信是二種戒倶有因果。是故名為戒。戒不具足。是人不具信戒二事。所楽多聞亦不具足。云何名為聞不具足。如来所説十二部経。唯信六部未信六部。是故名為聞不具足。雖復受持是六部経。不能読誦為他解説。無所利益。是故名為聞不具足。又復受是六部経已。為論議故。為勝他故。為利養故。為諸有故。持読誦説。是故名為聞不具足。略抄。
◎(涅槃経・迦葉品)如来にすなわち二種の涅槃あり。一には有為、二には無為なり。有為涅槃は無常なり。常楽我浄は無為涅槃なり。常人ありて、深くこの二種の戒ともに善果ありと信ず。この故に名づけて戒とす。戒不具足とは、この人は信戒二事を具せず。所楽多聞を、また具足せず。いかんが名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じて未だ六部を信ぜず。この故に名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦して他のために解説することあたわずして、利益するところなし。この故に名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受け已りて、論議のための故に、勝他のための故に、利養のための故に、諸有のための故に、持読誦説せん。この故に名づけて聞不具足とすと。略抄。KESINDO:SYOZEN2-163/-HON-353,HOU-464
〇又言之下。次説信不具足之相。令知信相。又又言下。後説譬喩又嘆知識。初段可見。SYOZEN2-405/TAI9-218
〇「又言」の下は、次に信不具足の相を説きて、信の相を知らしむ。また「又言」の下は、後に譬喩を説きて、また知識を嘆ず、初の段は見つべし。SYOZEN2-405/TAI9-218
○第二段中。言是名没没已等者。彼経第三十二巻云。如恒河辺有七種人。恐畏冦賊則入河中。第一人者入水即沈。第二人者雖没還出。出已復没。第三人者没已即出。出更不没。第四人者入已便没。没已還出。出已即住遍観四方。第五人者入已即沈。沈已還出。出已即住。住已観方。観已即去。第六人者入已即去。浅処即住観賊近遠。第七人者既至彼岸登上大山。無復恐怖。離諸怨賊。受大快楽。已上。此是譬喩。合譬意者。第一闡提。第二造悪。第三内凡。第四四果。第五支仏。第六菩薩。第七仏也。此中今出第二人也。云何名為聞不等者。問。此所引文全載以在第三巻末。何重引耶。答。彼所引者其文非多。今一具文所引是多。広略為異。又第三巻以聞具足欲顕信心。当巻之中。以不具足欲顕不信。両処所引非無異耳。SYOZEN2-405/TAI9-218,219
〇第二段の中に「是名没没已」等とは、彼の経(涅槃経・師子吼品)の第三十二巻に云わく「恒河の辺に七種人ありて、冦賊を恐畏して則ち河の中に入り、第一の人は水に入りて即ち沈み、第二の人は没ずといえども還りて出でて、出で已りてまた没す。第三の人は没し已りて即ち出で、出でて更に没せず。第四の人は入り已りて便ち没す。没し已りて還りて出ず。出で已りて即ち住して遍く四方を観る。第五の人は入り已りて即ち沈む。沈み已りて還りて出ず。出で已りて即ち住す。住し已りて方を観る。観已りて即ち去る。第六の人は入り已りて即ち去る。浅処に即ち住して賊の近遠を観る。第七の人は既に彼岸に至りて大山に登り上りて、また恐怖〈おそれ〉なし。もろもろの怨賊を離れて大快楽を受くるが如し」已上。これはこれ譬喩なり。譬の意を合せば、第一は闡提、第二は造悪、第三は内凡、第四は四果、第五は支仏、第六は菩薩、第七は仏なり。この中に今は第二の人を出だすなり。「云何名為聞不」等とは、問う、この所引の文は全く載せて以て第三巻の末に在り。何ぞ重ねて引くや。答う、彼の所引はその文多きにあらず。今は一具の文にして所引これ多し。広・略を異とす。また第三巻には聞具足を以て信心を顕わさんと欲す。当巻の中には、不具足を以て不信を顕わさんと欲す。両処の所引、異なきにあらざらくのみ。SYOZEN2-405/TAI9-218,219
◎又言。善男子。第一真実善知識者。所謂菩薩諸仏。世尊。何以故。常以三種善調御故。何等為三。一者畢竟軟語。二者畢竟呵責。三者軟語呵責。以是義故。菩薩諸仏即是真実善知識也。復次善男子。仏及菩薩為大医故名善知識。何以故。知病知薬。応病授薬故。得如良医善八種術。先観病相。相有三種。何等為三。謂風・熱・水。風病之人授之蘇油。熱病之人授之石蜜。水病之人授之薑湯。以知病根授薬得差。故名良医。仏及菩薩亦復如是。知諸凡夫病有三種。一者貪欲。二者瞋恚。三者愚癡。貪欲病者教観骨相。瞋恚病者観慈悲相。愚癡病者観十二縁相。以是義故。諸仏菩薩名善知識。善男子。譬如船師善度人故名大船師。諸仏菩薩亦復如是。度諸衆生生死大海。以是義故名善知識。抄出。
◎(涅槃経・徳王品)また言わく、善男子、第一の真実善知識とは、いわゆる菩薩、諸仏なり。世尊、何をもっての故に。常に三種を以て善調御するが故なり。何等か三とするや。一には畢竟軟語、二には畢竟呵責、三には軟語呵責。この義をもっての故に、菩薩・諸仏はすなわちこれ真実の善知識なり。また次に善男子、仏および菩薩は大医と為るが故に、善知識と名づく。何をもっての故に。病を知りて薬を知りて、病に応じて薬を授くるが故に。たとえば良医のごとし。八種の術を善くせり。まず病相を観ずるに、相に三種あり。何等か三とするや。いわく風・熱・水なり。風病の人にはこれに蘇油を授く。熱病の人にはこれに石蜜を授く。水病の人にはこれに薑湯を授く。病根を知るをもって、薬を授くるに差〈い〉ゆることを得。故に良医と名づく。仏および菩薩またかくのごとし。もろもろの凡夫の病、三種ありと知ろしめす。一には貪欲、二には瞋恚、三には愚痴。貪欲の病には教ゆるに骨相を観ぜしむ。瞋恚の病には慈悲相を観ぜしむ。愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。この義をもっての故に、諸仏・菩薩を善知識と名づく。善男子、たとえば船師の善く人を度すが故に大船師と名づくるがごとし。諸仏・菩薩もまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもっての故に善知識と名づくと。抄出。KESINDO:SYOZEN2-164/HON-353,354,HOU-464,465
〇第三段中。第一真実善知等者。問。已以諸仏並諸菩薩為善知識。雖伝浄教凡夫知識難関其分。更不可有仰信義歟。答。尅体言之其本可在仏与菩薩。但慥相承如来教意令伝来者。又即可為善知識也。諸教相承皆以如此。彼等不必仏菩薩等。何限浄教。就中観経中下已下四品知識。皆是凡夫。末代劣機。遇其知識可得往生。是仏意也。SYOZEN2-405,406/TAI9-230,231
〇第三段の中に、「第一真実善知」等とは、問う、已に諸仏並びに諸菩薩を以て善知識とす。浄教を伝うといえども、凡夫の知識はその分に関わること難し。更に仰信の義あるべからざるは。答う、体に尅してこれを言わば、その本は仏と菩薩とに在るべし。ただし慥〈たし〉かに如来の教意を相承して伝来せしむ者は、また即ち善知識とすべきなり。諸教の相承はみな以てかくの如し。彼等は必ずしも仏菩薩等ならず。何ぞ浄教に限らん。中に就きて『観経』中下已下の四品の知識は、皆これ凡夫、末代の劣機は、その知識に遇いて往生を得べし。これ仏意なり。SYOZEN2-405,406/TAI9-230,231
◎華厳経言。汝念善知識。生我如父母。養我如乳母。増長菩提分。如医療衆疾。如天灑甘露。如日示正道。如月転浄輪。
◎(四十華厳・普賢行願品)『華厳経』に言わく、汝、善知識を念ぜよ。我を生ずる、父母のごとし。我を養う、乳母のごとし。菩提分を増長す、衆疾を医療するがごとし。天の、甘露を灑ぐがごとし。日の、正道を示すがごとし。月の、浄輪を転ずるがごとし。KESINDO:SYOZEN2-164/HON-354,HOU-465
◎又言。如来大慈悲。出現於世間。普為諸衆生。転無上法輪。如来無数劫。勤苦為衆生。云何諸世間。能報大師恩。已上。
◎(八十華厳・入法界品)また言わく、如来大慈悲、世間に出現して、普くもろもろの衆生のために、無上法輪を転じたまう。如来、無数劫に勤苦せしことは衆生のためなり。いかんがもろもろの世間、よく大師の恩を報ぜんと。已上。KESINDO:SYOZEN2-164/HON-354,HOU-465
〇次華厳経文。又有二段。初文総説善知識義。次又別説如来大恩。言大師者。即是釈迦牟尼仏也。SYOZEN2-406/TAI9-236
〇次に『華厳経』の文。また二段あり。初の文は総じて善知識の義を説く。次はまた別して如来の大恩を説く。「大師」というは、即ちこれ釈迦牟尼仏なり。SYOZEN2-406/TAI9-236
◎光明寺和尚云。唯恨衆生疑不疑。浄土対面不相忤。莫論弥陀摂不摂。意在専心回不回。或[ドウ01]従今至仏果。長劫讃仏報慈恩。不蒙弥陀弘誓力。何時何劫出娑婆。何期今日至宝国。実是娑婆本師力。若非本師知識勧。弥陀浄土云何入。得生浄土報慈恩。
◎(般舟讃)光明寺の和尚の云わく、ただ恨むらくは、衆生の疑うまじきを疑うことを。浄土対面して相忤〈そむ〉かず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるにあり。あるいはいわく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いずれの時いずれの劫にか娑婆を出でん。いかんしてか今日宝国に至ることを期せん。実にこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずんば、弥陀の浄土いかんぞ入らん。浄土に生まるることを得て慈恩を報ぜよと。KESINDO:SYOZEN2-164,165/HON-355,HOU-465,466
〇次大師釈。此有四段。初之三偈及一句者。般舟讃文。初偈之中。莫論等者。誡疑碍心勧不疑心。不疑心者即信心也。浄土等者。日中礼云。行者傾心常対目者乃此意也。忤者。玉篇云。五故切。逆也。広韻云。宜故切。逆也。莫論等者。明仏引摂与不引摂由其回心与不回心。次一偈者。此非其次。其中間隔七十九行。讃仏等者。讃弥陀恩。次下句云不蒙等。弥陀故也。次一偈者中隔一句。言本師者是讃釈迦。前後相并嘆二尊也。次一句即同次也。生浄土者本師力也。得生乃又報仏恩也。SYOZEN2-406/TAI9-239,240
〇次に大師の釈。これに四段あり。初の三偈及び一句は『般舟讃』の文なり。初偈の中に「莫論」等とは、疑碍の心を誡めて不疑心を勧む。不疑の心とは即ち信心なり。「浄土」等とは、「日中礼」(往生礼讃)に云わく「行者、心を傾けて常に目に対せよ」とは乃ちこの意なり。「忤」とは、『玉篇』に云わく「五故の切。逆なり」。『広韻』に云わく「宜故の切。逆なり」。「莫論」等とは、仏の引摂と不引摂とは、その回心と不回心とに由ることを明かす。次の一偈は、これ、その次にあらず。その中間に七十九行を隔つ。「讃仏」等とは、弥陀の恩を讃ず。次下の句に「不蒙」等というは、弥陀なるが故なり。次の一偈は中に一句を隔つ。「本師」というは、これ釈迦を讃ず。前後相并せて二尊を嘆ずるなり。次の一句は即ち次に同じきなり。浄土に生ずるは本師の力なり。生ずることを得れば乃ちまた仏恩を報ずるなり。SYOZEN2-406/TAI9-239,240
◎又云。仏世甚難値。人有信慧難。遇聞希有法。此復最為難。自信教人信。難中転更難。大悲弘普化(弘=智昇法師懺悔文也)。真成報仏恩。
◎(往生礼讃)また云わく、仏世はなはだ値いがたし。人、信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむること、難が中にうたたまた難し。大悲弘く普く化するは、(弘=智昇法師の懺悔の文なり)真に仏恩を報ずるに成ると。KESINDO:SYOZEN2-165/HON-355,HOU-466
〇第二段文。仏世之下。此八句者初夜礼也。仏世等者。経説如来興世等意。人有等者。経説聞法能行等意。自信等者。経説若聞斯経等意。大悲等者。総結上来聞法能行信楽受持之勝益也。伝字与弘各依一本。共不乖歟。伝即伝通。弘弘通也。SYOZEN2-406/TAI9-245
〇第二段の文、「仏世」の下、この八句は初夜の礼なり。「仏世」等とは、経に「如来興世」(大経)等と説く意なり。「人有」等とは、経に「聞法能行」(大経)等と説く意なり。「自信」等とは、経に「若聞斯経」(大経)等と説く意なり。「大悲」等とは、総じて上来の聞法能行・信楽受持の勝益を結するなり。「伝」の字、「弘」とおのおの一本に依る。共に乖かざるか。伝は即ち伝通、弘は弘通なり。SYOZEN2-406/TAI9-245
◎又云。帰去来。他郷不可停。従仏帰本家。還本国一切行願自然成。悲喜交流。深自度。不因釈迦仏開悟。弥陀名願何時聞。荷仏慈恩実難報。
◎(法事讃)また云わく、帰去来〈いざいなん〉、他郷には停まるべからず。仏に従いて、本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。悲喜交わり流る。深く自ら度るに、釈迦仏の開悟に因らずは、弥陀の名願いずれの時にか聞かん。仏の慈恩を荷いても、実に報じ難しと。KESINDO:SYOZEN2-165/HON-355,HOU-466
〇第三段文。帰去等者。第三巻末所引用之疏定善義水観之讃。蓋一轍也。彼云魔郷。此云他郷。一字雖殊大意是同。帰家等者。日中礼云努力翻迷還本家也。今此鈔本云帰本家。流布本無本之一字。是異本歟。云本家者。宛如礼讃云本国也。縦無本字本家義也。一切等者。十地願行自然成也。悲喜等者。唱讃偈也。是又頂載二世尊恩述難報志。今此一偈。雖為別段不云又云。仍属前段。SYOZEN2-406,407/TAI9-248
〇第三段の文、「帰去」等とは、第三巻の末に引用する所の疏の「定善義」水観の讃、蓋し一轍なり。彼に「魔郷」といい、ここには「他郷」という。一字殊なるといえども、大意はこれ同じ。「帰家」等とは、「日中の礼」に「努力翻迷還本家(つとめて迷いを翻して本家に還れ)」(往生礼讃)というなり。今この鈔本に「帰本家」という。流布本には本の一字なし。これ異本か。「本家」というは、宛も『礼讃』に「本国」というが如きなり。たとい「本」の字なくとも本家の義なり。「一切」等とは、十地の願行自然に成ずるなり。「悲喜」等とは、唱讃の偈なり。これまた二世尊の恩を頂載して報じ難き志を述ぶ。今この一偈は別段たりといえども、「又云」といわず。よって前段に属す。SYOZEN2-406,407/TAI9-248
◎又云。十方六道同此輪回無際。循循沈愛波而沈苦海。仏道人身難得今已得。浄土難聞今已聞。信心難発今已発。已上。
◎(法事讃)また云わく、十方六道、同じくこれ輪回して際なし、循循として愛波に沈む。しかして苦海に沈す。仏道の人身得難くして今すでに得たり。浄土聞き難くして今すでに聞けり。信心発し難くして今すでに発せり。已上。KESINDO:SYOZEN2-165/HON-355,HOU-466
〇第四段。初十方等者。同後序文。先述生死輪回無際。然後述於難得人身難聞浄土難発信心。忽得。忽聞。忽発而已。SYOZEN2-407/TAI9-251
〇第四段。初に「十方」等とは、同じき後序の文なり。まず生死の輪回無際なることを述べ、然して後に難得の人身、難聞の浄土、難発の信心に於いて、忽に得、忽に聞き、忽に発すことを述ぶらくのみ。SYOZEN2-407/TAI9-251
◎真知。専修而雑心者。不獲大慶喜心。故宗師云無念報彼仏恩。雖作業行心生軽慢。常与名利相応故。人我自覆不親近同行善知識故。楽近雑縁自障障他往生正行故。悲哉垢障凡愚。自従無際已来。助正間雑。定散心雑故。出離無其期。自度流転輪回。超過微塵劫。[ハ01]帰仏願力。[ハ01]入大信海。良可傷嗟。深可悲嘆。凡大小聖人・一切善人。以本願嘉号為己善根故。不能生信。不了仏智。不能了知建立彼因故。無入報土也。
◎(御自釈)真に知りぬ。専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。故に宗師(善導・往生礼讃)は、かの仏恩を念報することなし、業行を作すといえども心に軽慢を生じて、常に名利と相応するが故に、人我おのずから覆いて同行善知識に親近せざるが故に、楽〈この〉んで雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するが故にと云えり。悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた、助正間雑し、定散心雑〈まじ〉わるが故に、出離その期なし。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし〈傷=いたみ。嗟=なげく〉。深く悲歎すべし。おおよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするが故に、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せるを了知することあたわざるが故に、報土に入ることなきなり。KESINDO:J:SYOZEN2-165,166/-HON-356,HOU-467-
◎是以愚禿釈鸞仰論主解義。依宗師勧化。久出万行諸善之仮門。永離双樹林下之往生。回入善本徳本真門。偏発難思往生之心。然今特出方便真門。転入選択願海。速離難思往生心。欲遂難思議往生。果遂之誓良有由哉。爰久入願海深知仏恩。為報謝至徳[セキ01]真宗簡要。恒常称念不可思議徳海。弥喜愛斯。特頂戴斯也。
◎(御自釈)ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがため、真宗の簡要を[セキ01]〈ひろ〉うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。KESINDO:J:SYOZEN2-166/-HON-356,357,HOU-467,468-
〇真知以下私御釈也。無念等者。礼讃前序判雑修失之解釈也。十三失内。初之九失於当巻始既挙之訖。今所引者彼失余残第十以下四失是也。悲哉等者。集主被述悲情意也。大小等者本願嘉号。蓋是如来不可思議他力功徳。而准諸善為已善根故不生信。是故不入真報土也。釈意如斯。久出等者。万行諸善是聖道意。双樹林下是約観経。十九願意。善本徳本是約小経。二十願意。及是難思往生心也。選択願海是大経意。即難思議往生是也。果遂等者。如此展転従仮入真。出方便門入真実門。即果遂願之所成也。是偏今師不共別意。人不知之。可仰信也。SYOZEN2-407/TAI9-254
〇「真知」以下は私の御釈なり。「無念」等とは、『礼讃』の前序に雑修の失を判ずる解釈なり。十三の失の内に、初の九の失は当巻の始めに於いて既にこれを挙げ訖りぬ。今の所引は彼の失の余残、第十以下の四の失これなり。「悲哉」等とは、集主の、悲情を述べらるる意なり。「大小」等とは、本願の嘉号は蓋しこれ如来不可思議他力の功徳なり。しかるに諸善に准じて已が善根とす。故に信を生ぜず。この故に真報土に入らざるなり。釈の意はかくの如し。「久出」等とは、万行諸善はこれ聖道の意なり。「双樹林下」はこれ『観経』に約す。十九の願の意なり。「善本徳本」はこれ『小経』に約す。二十の願の意、及ちこれ難思往生の心なり。「選択願海」はこれ『大経』の意、即ち難思議往生これなり。「果遂」等とは、かくの如く展転して、仮より真に入る。方便の門を出でて真実の門に入る。即ち果遂の願の成ずる所なり。これ偏に今師不共の別意、人これを知らず、仰いで信ずべきなり。SYOZEN2-407/TAI9-254
◎信知。聖道諸教為在世正法。而全非像末法滅之時機。已失時乖機也。浄土真宗者。在世正法・像末法滅・濁悪群萌。斉悲引也。是以拠経家披師釈弁説人差別者。凡諸経起説不過五種。一者仏説。二者聖弟子説。三者天仙説。四者鬼神説。五者変化説。爾者。四種所説不足信用。斯三経者則大聖自説也。
◎(御自釈)信に知りぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萠、斉しく悲引したまうなり。ここをもって経家に拠り師釈(玄義分)を披きたるに、説人の差別を弁ぜば、おおよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一には仏説、二には聖弟子の説、三には天仙の説、四には鬼神の説、五には変化の説なり。しかれば四種の所説は信用に足らず。この三経はすなわち大聖の自説なり。KESINDO:J:SYOZEN2-166/-HON-357,HOU-468
〇信知以下。明聖道教其利是短。浄土真宗其益長也。拠経家披師釈等者。観経玄義。説人門釈。立此門者。是為簡異余人諸説。唯以仏説令依憑也。於此釈文。弁説等者。先標章門。凡諸以下。総挙五種起説不同。所言五種本出大論。論第二云。一者仏自口説。二者仏弟子説。三者仙人説。四者諸天説。五者変化説。已上。論与今釈開合異也。論開仙天以為両説不立鬼神。是則仙者雖有内外。共是人類。天者六欲及以四禅是皆天道。人天異故開為二種不立鬼神。諸天皆兼八部鬼神。是故摂天不別立之。釈合天仙。共備五通徳相似故。不別立之別立鬼神。諸経之中正有其説。謂如法華十羅刹女。薬師十二神将等也。故別立之。論説釈義各有其由。爾者以下一行余者。聖人私結正明不依四種権説。唯可依用仏自口説三経説也。問。説人門釈有其三段。初先総挙五種起説。今之所引是初段也。次明今経為仏自説。所謂下云今此観経是仏自説八字是也。後問曰下。問答料簡明其説処所為等也。第三問答。縦雖存略。第二文段最可引之。初挙五説為明其中今経正是為仏説也。而略其文。似忘所詮。其意如何。答。如此引文広略随時。依略彼文。私被加詞正述釈意。此有二意。一彼釈雖言是仏自説。不言四種不足信用。但雖不言其意顕然。故探釈意如此被釈。非無由歟。二彼釈只云今此観経不亘三経。故以仏説為通三経。私有此釈。是非自由。三部同標仏説故也。SYOZEN2-407,408/TAI9-273,274
〇「信知」以下は、聖道の教はその利これ短く、浄土真宗はその益長きことを明かすなり。「拠経家披師釈」等とは『観経の玄義』説人門の釈なり。この門を立つることは、これ余人の諸説に簡異して、ただ仏説を以て依憑せしめんが為なり。この釈文に於いて、「弁説」等とは、まず章門を標す。「凡諸」以下は、総じて五種起説の不同を挙ぐ。言う所の五種は、もと『大論』に出でたり。論の第二に云わく「一には仏自口の説。二には仏弟子の説。三には仙人の説。四には諸天の説。五には変化の説」已上。論と今の釈とは開合の異なり。論には仙天を開き、以て両説として鬼神を立てず。これ則ち仙は内外ありといえども、共にこれ人の類なり。天は六欲および四禅、これみな天道なり。人・天異なるが故に開きて二種と為して、鬼神を立てず。諸天はみな八部鬼神を兼ぬ。この故に天に摂して別してこれを立てず、釈には天仙を合ず。共に五通を備えて、徳あい似たるが故に、別してこれを立てず、別して鬼神を立つ。諸経の中に正しくその説あり。謂く『法華』の十羅刹女、『薬師』の十二神将等の如きなり。故に別してこれを立つ。論説と釈義と、おのおのその由あり。「爾者」以下の一行余は、聖人私に、正しく四種の権説に依らず、ただ仏自口の説、三経の説を依用しべきことを明かすことを結するなり。問う、説人門の釈に、その三段あり。初はまず総じて五種の起説を挙ぐ。今の所引はこれ初段なり。次に今経は仏の自説たることを明かす。所謂、下に「今此観経是仏自説」という八字これなり。後に「問曰」の下の問答料簡は、その説処・所為等を明かすなり。第三の問答は、たとい略を存すといえども、第二の文段は最もこれを引くべし。初に五説を挙ぐることは、その中に今経は正しくこれ仏説たることを明かさんが為なり。しかるにその文を略す。所詮を忘れたるに似たり。その意はいかん。答う、かくの如きの引文の広略は時に随う。彼の文を略するに依りて、私に詞を加えられて、正しく釈の意を述ぶ。これに二意あり。一には彼の釈はこれ仏の自説というといえども、四種は信用するに足らずといわず。ただし言わずといえども、その意顕然なり。故に釈の意を探りて、かくの如く釈せらる。由なきにあらざるか。二には彼の釈には、ただ今この『観経』といいて、三経に亘らず。故に仏説を以て三経に通ぜんが為に、私にこの釈あり。これ自由にあらず。三部は同じく仏説を標するが故なり。SYOZEN2-407,408/TAI9-273,274
◎大論釈四依云。欲入涅槃時。語諸比丘。従今日応依法不依人。応依義不依語。応依智不依識。応依了義経不依不了義。依法者。法有十二部。応随此法。不応随人。依義者。義中無諍好悪罪福虚実。故語已得義。義非語也。如人以指指月以示教我。看視指而不視月。人語言。我以指指月令汝知之。汝何看指而不視月。此亦如是。語為義指。語非義也。以此故不応依語。依智者。智能籌量分別善悪。識常求楽不入正要。是故言不応依識。依了義経者。有一切智人。仏第一。一切諸経書中。仏法第一。一切衆中。比丘僧第一。無仏世衆生。仏為此重罪。不種見仏善根人。已上。
◎(智度論)『大論』に四依を釈して云わく、涅槃に入らんと欲せん時、もろもろの比丘に語りたまわく、今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべしと。法に依るとは、法に十二部あり。この法に随うべし。人に随うべからず。義に依るとは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。故に語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指〈おし〉う、もって我に示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人、語りて言わん、我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるやと。これまたかくのごとし。語は義の指とす。語は義にあらざるなり。これをもっての故に、語に依るべからず。智に依るとは、智はよく善悪を籌量し分別す。識は常に楽を求む。正要に入らず。この故に識に依るべからずと言えり。了義経に依るとは、一切智人います、仏第一なり。一切もろもろの経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり。見仏の善根を種えざる人なりと。已上。KESINDO:SYOZEN2-166,167/HON-357,358,HOU-468,469
〇次大論文四依之釈。其意顕著。不能委述。依義之下如人等者。以指譬語。以月喩義。玄悟之賓直爾看月不見指也。依了義下有一等者。了不了義。諸経異説諸宗所談領解雖区。今教之宗唯以仏説為了義経。此論灼然。大経下云。如来智慧海深広無涯底。二乗非所測。唯仏独明了。已上。弥陀五智深奥之理。三乗五乗非其境界。是故今談菩薩等説不足信用。以此義故。了義経名被仏説也。深心釈云。除仏已還智行未満。在其学地。由有正習二障未除。果願未円此等凡聖縦使測量諸仏教意。未能決了。雖有平章。要須請仏証為定也。已上。一切衆中比丘等者。問。除仏已還皆非所信。如今釈者可用之耶。答。所信用之仏自口説。了義経者約所説理。今比丘僧第一等者。無仏世時。約其形体所判之也。SYOZEN2-408,409/TAI9-282
〇次に『大論』の文、四依の釈なり。その意は顕著なり。委しく述ぶるに能わず。「依義」の下、「如人」等とは、指を以て語に譬え、月を以て義に喩う。玄悟の賓は直爾〈すぐ〉に月を看て指を見ざるなり。「依了義」の下、「有一」等とは、了・不了の義は諸経の異説。諸宗の所談、領解まちまちなれども、今教の宗はただ仏説を以て了義経とす。この論灼然なり。『大経』の下に云わく「如来の智慧海は深広にして涯底なし。二乗の測る所にあらず。ただ仏のみ独り明了なり」已上。弥陀の五智深奥の理は、三乗・五乗はその境界にあらず。この故に今、菩薩等の説は信用に足らざることを談ず。この義を以ての故に、了義経の名は仏説に被らしむるなり。深心の釈(散善義)に云わく「仏を除きて已還は、智行未だ満たせず。その学地に在り。正習ありて、二障未だ除こらず、果願未だ円かならざるに由りて、これらの凡聖は、たとい諸仏の教の意を測量すれども、未だ決了すること能わず。平章することありと雖も、かならず須く仏証を請して定とすべきなり」已上。「一切衆中比丘」等とは、問う、仏を除きて已還はみな所信にあらず。今の釈の如きは、これを用うべきや。答う、信用する所の仏自口説・了義経とは、所説の理に約す。「今比丘僧第一」等とは、無仏世の時、その形体に約してこれを判ずる所なり。SYOZEN2-408,409/TAI9-282
◎爾者。末代道俗善可知四依修法也。
◎(御自釈)しかれば末代の道俗、善く四依を知りて法を修すべきなり。KESINDO:J:SYOZEN2-167/HON-358,HOU-469-
◎然拠正真教意披古徳伝説。顕開聖道浄土真仮教誡邪偽異執外教。勘決如来涅槃之時代開示正像末法旨際。
◎(御自釈)しかるに正真教意に拠りて、古徳の伝説を披く。聖道・浄土の真仮を顕開して、邪偽・異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して、正・像・末法の旨際を開示す。KESINDO:J:SYOZEN2-167/-HON-358,HOU-469
〇爾者以下。又私御釈。結知四依可修法行。又明浄教相応末法五濁之機。慥可得道。広引大文被勧人也。SYOZEN2-409/TAI9-293
〇「爾者」以下は、また私の御釈、四依を知りて法行を修すべきことを結す。また浄教は末法五濁の機に相応して、慥〈たし〉かに道を得るべきことを明かすとして、広く大文を引きて人を勧めらるるなり。SYOZEN2-409/TAI9-293
◎是以玄忠寺綽和尚云。然修道之身相続不絶。逕一万劫始証不退位。当今凡夫現名信想軽毛。亦曰仮名。亦名不定聚。亦名外凡夫。未出火宅。何以得知。拠菩薩瓔珞経具弁入道行位。法爾故名難行道。
◎(安楽集)ここをもって、玄中寺の綽和尚の云わく、しかるに修道の身、相続して絶えずして、一万劫を径て、始めて不退の位を証す。当今の凡夫は、現に信想軽毛と名づく、また仮名と曰えり、また不定聚と名づく、また外の凡夫と名づく。未だ火宅を出でず。何をもって知ることを得ん。『菩薩瓔珞経』に拠りて、つぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるが故に難行道と名づく。KESINDO:SYOZEN2-167/HON-358,HOU-469,470
〇次綽公釈。安楽集文所引有四。初然修道之身等者。下巻之文。大文第五有四料簡。其中一汎明修道延促文也。径一等者。是指十信外凡退位。証不退者。是三賢位内凡不退。当今等者。信外常没凡夫類也。SYOZEN2-409/TAI9-298,299
〇次に綽公の釈、『安楽集』の文。所引に四あり。初に「然修道之身」等とは、下巻の文、大文第五に四の料簡あり。その中に、一に汎く修道の延促を明かす文なり。「径一」等とは、これ十信外凡の退位を指す。「証不退」とは、これ三賢位内凡の不退なり。「当今」等とは、信外常没の凡夫の類なり。SYOZEN2-409/TAI9-298,299
◎又云。有明教興所由。約時被機勧帰浄土者。若機・教・時乖。難修難入。正法念経云。行者一心求道時。常当観察時・方便。若不得時無方便。是名為失不名利。何者。如攅湿木以求火。火不可得。非時故。若折乾薪以覓水。水不可得。無智故。大集月蔵経云。仏滅度後第一五百年。我諸弟子学慧得堅固。第二五百年。学定得堅固。第三五百年。学多聞読誦得堅固。第四五百年。造立塔寺修福懺悔得堅固。第五五百年。白法隠滯多有諍訟。微有善法得堅固。計今時衆生。即当仏去世後第四五百年。正是懺悔修福応称仏名号時者。一念称阿弥陀仏。即能除却八十億劫生死之罪。一念既爾。況修常念即是恒懺悔人也。
◎(安楽集)また云わく、教興の所由を明かして時に約し機に被らしめて、浄土に勧帰することあらば、もし機と教と時と乖けば、修し難く入り難し。『正法念経』に云わく、行者一心に道を求めん時、常に当に時と方便とを観察すべし。もし時を得ざれば方便なし。これを名づけて失とす、利と名づけず。いかんとならば、湿える木を攅〈き〉りて、もって火を求むるに、火得べからず。時にあらざるが故に。もし乾きたる薪を折りてもって水を覓むるに、水得べからず。智なきがごときの故にと。『大集月蔵経』に云わく、仏滅度の後の第一の五百年には、我がもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固を得ん。第二の五百年には、定を学ぶこと堅固を得ん。第三の五百年には、多聞読誦を学ぶこと堅固を得ん。第四の五百年には、塔寺を造立し福を修し懺悔すること堅固を得ん。第五の五百年には、白法隠滞して多く諍訟あらん。微〈すこ〉しき善法ありて堅固を得ん。今の時の衆生を計るに、すなわち仏、世を去りて後の第四の五百年に当れり。正しくこれ懺悔し福を修し、仏の名号を称すべき時の者なり。一念阿弥陀仏を称するに、すなわちよく八十億劫の生死の罪を除却せん。一念にすでに爾り。いわんや常念を修するは、すなわちこれ恒に懺悔する人なり。KESINDO:SYOZEN2-167,168/HON-358,359,HOU-470
〇第二有明教興等者。上巻大文第一初文。勧帰等者。浄土之下。若機之上。有若教赴時機易修易悟九字。又難入之下。正法念上。有是故二字。是等之字依非至要。各被除歟。所引経文其意可見。次月蔵文。此集為証聖道難証引此経時。云我末法時中等文。依今経説取意文也。計今以下綽公私釈。此釈之上又引同経。明仏出世有四種法化度衆生。一者説経。二者光明。三者神通。四者名号。引此経意。其後結云今時等也。即当等者。綽公在世依為第四五百年中。如此釈也。SYOZEN2-409,410/TAI9-302
〇第二に「有明教興」等とは、上巻、大文第一の初文なり。「勧帰」等とは、「浄土」の下、「若機」の上に「若教赴時機易修易悟」の九字あり。また「難入」の下、「正法念」の上に「是故」の二字あり。「是」等の字は至要にあらざるに依りて、おのおの除かるるか。所引の経文、その意見つべし。次に『月蔵』の文、この集は聖道の証ること難きことを証せんが為にこの経を引く時、「我末法時中」等という文は今経の説に依る取意の文なり。「計今」以下は綽公の私の釈なり。この釈の上に、また同じき経を引きて、仏の出世に四種の法ありて衆生を化度することを明かす。一には説経、二には光明、三には神通、四には名号なり。この経の意を引きて、その後に結して「今時」等というなり。「即当」等とは、綽公の在世は第四の五百年中たるに依りて、かくの如く釈するなり。SYOZEN2-409,410/TAI9-302
◎又云。弁経住滅者。謂釈迦牟尼仏一代。正法五百年。像法一千年。末法一万年。衆生減尽諸経悉滅。如来悲哀痛焼衆生。特留此経止住百年。
◎(安楽集)また云わく、経の住滅を弁ぜば、いわく釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、特にこの経を留めて、止住せんこと百年ならんと。KESINDO:SYOZEN2-168/HON-359,HOU-470
〇第三。下巻第六大門有三番中第三段也。言此経者。即是大経。大経即是念仏。選択集云。此経止往者即念仏止住也。已上。蓋此義也。SYOZEN2-410/TAI9-312
〇第三に、下巻、第六大門に三番ある中の第三段なり。「此経」というは、即ちこれ『大経』なり。『大経』は即ちこれ念仏なり。『選択集』に云わく「この経の止往は、即ち念仏の止住なり」已上。蓋しこの義なり。SYOZEN2-410/TAI9-312
◎又云。大集経云。我末法時中。億億衆生起行修道。未有一人得者。当今末法是五濁悪世。唯有浄土一門可通入路。已上。
◎(安楽集)また云わく、『大集経』に云わく、我が末法の時の中の億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあらじと。当今は末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なりと。已上。KESINDO:SYOZEN2-168/HON-359,HOU-471
〇次大集文。大文第三小科載之。当巻之初雖引此文。各依至要不憚重引。被載之歟。SYOZEN2-410/TAI9-316
〇次に『大集』の文、大文第三の小科にこれを載す。当巻の初にこの文を引。おのおの至要なるに依りて重引を憚らずこれを載せらるるか。SYOZEN2-410/TAI9-316
◎爾者。穢悪濁世群生。不知末代旨際。毀僧尼威儀。今時道俗思量己分。
◎(御自釈)しかれば穢悪濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀〈そし〉る。今時の道俗、己が分を思量せよ。KESINDO:J:SYOZEN2-168/HON-359,360,HOU-471-
〇爾者以下私御釈也。SYOZEN2-410/TAI9-319
〇「爾者」以下は私の御釈なり。SYOZEN2-410/TAI9-319
◎按三時教者。勘如来般涅槃時代。当周第五主穆王五十一年壬申。従其壬申至我元仁元年(後堀川院。諱茂仁聖代也)甲申。二千一百八十三歳也。又依賢劫経・仁王経・涅槃等説。已以入末法六百八十三歳也。
◎(御自釈)三時教を按ずれば、如来般涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年(後堀川の院、諱茂仁の聖代なり)甲申に至るまで、二千一百八十三歳なり。また『賢劫経』『仁王経』『涅槃』等の説に依るに、已にもって末法に入りて六百八十三歳なり。KESINDO:J:SYOZEN2-168/-HON-360,HOU-471
〇至我等者。下所被引末法燈明記両説内周異記意。仏涅槃後至我延暦二十年辛巳一千七百五十歳也。就之勘之。自同二十一年壬午。至于元仁元年甲申。四百二十三箇年也。仍仏涅槃至件甲申。二千一百七十三年。而云八十。其八之字書生誤歟。宜云七也。已以等者。且依正法五百年説。若依此説。欽明天皇治十五年貴楽二年壬申之暦始入末法。自其壬申至此元仁元年甲申。六百七十三箇年也。而云八十。其八之字誤。又同前宜云七也。若依正法千年説者。後冷泉院御宇永承七年壬辰始入末法。自彼壬辰至此元仁元年甲申。一百七十三箇年也。以次検之。自彼元仁甲申翌年嘉禄元年乙酉之暦。今至延文五年庚子。一百三十六筒年也。故仏涅槃迄于当年庚子。二千三百九箇年也。SYOZEN2-410/TAI9-322
〇「至我」等とは、下に引かるる所の『末法燈明記』両説の内、周異記の意、仏涅槃の後、我が延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なり。これに就きてこれを勘うるに、同じき二十一年壬午より、元仁元年甲申に至るまで、四百二十三箇年なり。仍て仏涅槃より、件の甲申に至るまで、二千一百七十三年なり。しかるに八十という。その八の字は書生の誤りか。宜しく七というべきなり。「已以」等とは、且く正法五百年の説に依る。もしこの説に依らば、欽明天皇治十五年、貴楽二年壬申の暦に始めて末法に入る。その壬申よりこの元仁元年甲申に至るまで、六百七十三箇年なり。しかるに八十という。その八の字は誤りまり。また前に同じく、宜しく七というべきなり。もし正法千年の説に依らば、後冷泉院の御宇、永承七年壬辰に始めて末法に入る。彼の壬辰よりこの元仁元年甲申に至るまで、一百七十三箇年なり。次を以てこれを検ずるに、彼の元仁甲申の翌年、嘉禄元年乙酉の暦より、今、延文五年庚子に至るまで、一百三十六筒年なり。故に仏涅槃より、当年庚子に迄〈いた〉るまで、二千三百九箇年なり。SYOZEN2-410/TAI9-322
◎披閲末法灯明記(最澄制作)曰。
◎『末法灯明記』(最澄制作)を披閲するに曰わく。KESINDO:SYOZEN2-168/HON-360,HOU-471,472-
〇披閲等者。自此已下至当巻終(但六本也)。悉是末法灯明記文。作者最澄。謚号伝教。山家大師。本書位署即云伝教大師作集。是則後人所安之。此書是演仏法王法治化之理。乃明真諦俗諦相依之義。又正像末三時異故。機有利鈍。故於一法皆有讃毀。互有取捨。如此事等具以明之。一一文言不能具解。引用意者此記之意。能修之機所学之教。機教相順可獲益故。具明末世五濁衆生無戒放逸修行難立。故引相勧浄教修行。偏欲令知一称仏名一生信者。所作功徳。終不虚也。SYOZEN2-410,411/TAI9-326
〇「披閲」等とは、これより已下、当巻の終(ただし六の本なり)に至るまでは、悉くこれ『末法灯明記』の文なり。作者は最澄、謚号は伝教、山家の大師なり。本書の位署に即ち「伝教大師作集」という。これ則ち後人のこれを安ずる所なり。この書はこれ仏法王法治化の理を演べ、乃ち真諦俗諦相依の義を明かす。また正像末の三時異なるが故に、機に利鈍あり。故に一法に於いて、みな讃毀あり。互に取捨あり。かくの如きの事等、具に以てこれを明かす。一一の文言は具に解すること能わず。引用の意は、この記の意なり。能修の機、所学の教、機教あい順じて益を獲べきが故に、具に末世五濁の衆生は無戒放逸にして修行立し難きことを明かす。故に引きて浄教の修行をあい勧めて、偏に一たび仏名を称し、一たび信を生ずるは、所作の功徳は終に虚しからずと知らしめんと欲するなり。SYOZEN2-410,411/TAI9-326
◎夫範衛一如以流化者法王。光宅四海以乗風者仁王。然則仁王・法王互顕而開物。真諦・俗諦遞因而弘教。所以玄籍盈宇内。嘉猶溢天下。爰愚僧等率容天網。俯仰厳科。未遑寧処。然法有三時。人亦三品。化制之旨依時興讃。毀讃之文遂人取捨。夫三古之運減衰不同。後五之機慧悟又異。豈拠一途済。就一理整乎。故詳正像末之旨際。試彰破持僧之事。於中有三。初決正像末。次定破持僧事。後挙教比例。
◎(末法灯明記)それ一如に範衛してもって化を流す者は法王、四海に光宅してもって風に乗ずる者は仁王なり。しかればすなわち仁王・法王、たがいに顕れて物を開し、真諦・俗諦、たがいに因りて教を弘む。このゆえに玄籍宇の内に盈ち、嘉猶天下に溢てり。ここに愚僧等、率して天網に容り、俯して厳科を仰ぐ、未だ寧処するに遑あらず。しかるに法に三時あり。人また三品なり。化制の旨、時に依りて興讃す。毀讃の文、人に遂〈したが〉って取捨す。それ三古〈三石〉の運、減衰同じからず、後五の機、慧悟また異なり。あに一途に拠りて済わんや、一理につきて整〈ただ〉さん〈ととのえん〉や。故に正像末の旨際を詳らかにして、試みに破持僧の事を彰さん。中において三あり。初には正像末を決す。次に持破僧の事を定む。後に教を挙げて比例す。KESINDO:SYOZEN2-168,169/HON-360,HOU-471,472-
〇於中等者三段総標。SYOZEN2-411/TAI9-333
〇「於中」等とは、三段の総標なり。SYOZEN2-411/TAI9-333
◎初決正像末。出諸説不同。且述一説。大乗基引賢劫経言。仏涅槃後。正法五百年。像法一千年。此千五百年。釈迦法滅尽。不言末法。准余所説。尼不順八敬而懈怠故。法不更増。故不依彼。又涅槃経。於末法中有十二万大菩薩衆。持法不滅。此拠上位故亦不同。
◎(末法灯明記)初に正像末を決するに、諸説を出だすこと同じからず。しばらく一説を述せん。大乗基(弥勒上生経疏)、『賢劫経』を引きて言わく、仏涅槃の後、正法五百年、像法一千年ならん、この千五百年〈の後〉、釈迦の法滅尽せんと。末法を言わず。余の所説に准うるに、尼、八敬に順わずして懈怠なるが故に、法更に増せず。故に彼によらず。また『涅槃経』に、末法の中において、十二万の大菩薩衆ましまして、法を持ちて滅せずと。これは上位に拠るが故にまた同じからず。KESINDO:SYOZEN2-168,169/-HON-360,361,HOU-472-
〇初決已下其別釈也。大乗基者。法相祖師慈恩大師窺基是也。賢劫経者。旧云賢劫三昧経也。有十三巻。或為十巻。法護訳之。於正像法時節延促。雖有多説。常存二説。一正法像法各一千年。二正法五百。像法千年。故正法時是異説也。而基師意今依正法五百之説。引賢劫経成此義也。此千五百年者。本書於年字下有後一字。有異本歟。有彼字本最叶理歟。准余等者。賢劫経外指余経説。是依諸説雖可満足正法千年。依許女人出家得度減其半分。爰千年義云尼以修八敬不減。而今言尼不順等者。若修八敬雖不可減。云不修故不更増也。不依彼者。言是不依八敬而已。言八敬者。律名句云。一百歳尼礼初夏比丘足。二不得罵謗比丘。三不得挙比丘罪説其過失。四従僧受戒。五従僧出罪。六半月求教授。七依僧安居。八依僧自恣。已上。又引涅槃証末法中持法不滅。菩薩所堪不関凡愚。是故今云拠上位等。亦不同者。同字是又異本為用。同字用字各有一途。若依同字是云菩薩凡夫不同。若依用字。不被凡夫。言凡愚輩更不慣彼上位菩薩持法意也。SYOZEN2-411/TAI9-342
〇「初決」已下はその別釈なり。「大乗基」とは、法相の祖師、慈恩大師窺基これなり。『賢劫経』とは、旧に『賢劫三昧経』というなり。十三巻あり、或いは十巻とす。法護これを訳す。正像の法の時節の延促に於いて、多説ありといえども、常に二説を存す。一には正法・像法おのおの一千年。二には、正法は五百、像法は千年なり。故に正法の時はこれ異説なり。しかるに基師の意は今、正法五百の説に依りて、『賢劫経』を引きてこの義を成ずるなり。「此千五百年」とは、本書は「年」の字の下に於いて「後」の一字あり。異本あるか。彼〈後〉の字ある本、最も理に叶うか。「准余」等とは、『賢劫経』の外に余経の説を指す。これ諸説に依らば、正法千年を満足すべしといえども、女人の出家得度を許すに依りてその半分を減ず。ここに千年の義には、尼は八敬を修するを以て減ぜずという。しかるに今「尼不順」等というは、もし八敬を修せば減ずべからずといえども、修せざるが故に「更に増せず」というなり。「不依彼」とは、言わば、これ八敬に依らざらくのみ。「八敬」というは、『律の名句』に云わく「一には百歳の尼は初夏の比丘の足を礼す。二には比丘を罵謗することを得ず。三には比丘の罪を挙げその過失を説くことを得ず。四には僧に従いて受戒す。五には僧に従いて出罪す。六には半月、教授を求む。七には僧に依りて安居す。八には僧に依りて自恣す」已上。また『涅槃』を引きて末法の中に法を持ちて滅せざることは、菩薩の堪ゆる所、凡愚に関らざることを証す。この故に今「上位に拠る」等という。「亦不同」とは、「同」の字これまた異本に「用」とす。「同」の字と「用」の字と、おのおの一途あり。もし「同」の字に依らば、これ菩薩と凡夫と同じからずという。もし「用」の字に依らば、凡夫に被らしめず。言うこころは、凡愚の輩は更に彼の上位の菩薩の法を持つことを慣〈なら〉わざる意なり。SYOZEN2-411/TAI9-342
◎問。若爾者。千五百年之内行事云何。答。依大術経。仏涅槃後初五百年。大迦葉等七賢聖僧。次第持正法不滅。五百年後。正法滅尽。至六百年後。九十五種外道競起。馬鳴出世伏諸外道。七百年中。龍樹出世摧邪見幢。於八百年。比丘縦逸。僅一二有得道果。至九百年。奴為比丘婢為尼。一千年中。開不浄観。瞋恚不欲。千一百年。僧尼嫁娶。毀謗僧毘尼。千二百年。諸僧尼等倶有子息。千三百年。袈裟変白。千四百年。四部弟子皆如猟師。売三宝物。爰曰。千五百年。拘[セン01]弥国有二僧。互起是非遂殺害。仍教法蔵於龍宮也。涅槃十八及仁王等復有此文。準此等経文。千五百年後無有戒定慧也。故大集経五十一言。我滅度後初五百年。諸比丘等於我正法解脱堅固(初得聖果名為解脱)。次五百年。禅定堅固。次五百年。多聞堅固。次五百年。造寺堅固。後五百年。闘諍堅固。白法隠没云云。此意。初三分五百年。如次戒定慧三法堅固得住。即上所引正法五百年。像法一千二時是也。造寺已後並是末法。故基般若会釈云。正法五百年・像法一千年。此千五百年後之。正法滅尽。故知。已後是属末法。
◎(末法灯明記)問う。もししからば、千五百年の内の行事いかんぞや。答う。『大術経』(摩訶摩耶経)に依るに、仏涅槃の後の初めの五百年には、大迦葉等の七賢聖僧、次第に正法を持ちて滅せず。五百年の後、正法滅尽せんと。六百年に至りて後、九十五種の外道競い起こらん。馬鳴、世に出でて、もろもろの外道を伏せん。七百年の中に、龍樹、世に出でて邪見の幢を摧かん。八百年において、比丘縦逸にして、わずかに一・二、道果を得るものあらん。九百年に至りて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。一千年の中に、不浄観を聞かん、瞋恚して欲せじ。千一百年に僧尼嫁娶せん、僧毘尼を毀謗せん。千二百年に、もろもろの僧尼等、ともに子息あらん。千三百年に袈裟変じて白からん。千四百年に四部の弟子、みな猟師のごとし、三宝の物を売らん。ここに曰わく、千五百年に拘[セン01]弥国に二の僧ありて、たがいに是非を起こして遂に殺害せん、仍って教法龍宮に蔵まるなり。『涅槃』の十八、および『仁王』等にまたこの文あり。これらの経文に準ずるに、千五百年の後、戒・定・慧あることなきなり。故に『大集経』の五十一に言わく、我が滅度の後、初の五百年には、もろもろの比丘等、我が正法において解脱堅固ならん。(初に聖果を得るを名づけて解脱とす)。次の五百年には禅定堅固ならん。次の五百年には多聞堅固ならん。次の五百年には造寺堅固ならん。後の五百年には闘諍堅固ならん。白法隠没せんと云云。この意は初の三分の五百年は、次のごとく戒定慧の三法堅固に住することを得ん。すなわち上に引くところの正法五百年、像法一千の二時これなり。造寺已後は並びにこれ末法なり。故に基の『般若会の釈』に云わく、正法五百年、像法一千年、この千五百年の後、正法滅尽せんと。故に知りぬ、已後はこれ末法に属す。KESINDO:SYOZEN2-169,170/-HON-361,362,HOU-472,473-
○次千五百年問答答中。大迦葉等七賢等者。問。案附法蔵。馬鳴以前有其十人。謂大迦葉阿難尊者商那和修優婆毬多並提多迦。与弥遮迦仏陀難提仏陀密多。与脇比丘及富那奢比丘是也。云何言為七賢聖乎。答。其数誠爾。今試推之。是応非云七人賢聖。蓋顕其位云登七賢七聖人歟。至六百年九十等者。馬鳴菩薩附法蔵中第十一代之祖師也。即富那奢比丘弟子。今依摩訶摩耶経意。彼経説云。如来滅後六百歳已。九十六種(六種五種是異説也)。諸外道等邪見競起毀滅仏法。有一比丘。名曰馬鳴。善説法要降伏一切諸外道輩。已上。七百年中龍樹等者。龍樹又是附法蔵中比羅比丘弟子。第十三代祖師。亦同経云。如来滅後七百歳已有一比丘。名曰龍樹。善説法要。滅邪見幢。燃正法炬。已上。一千年中開不等者。智者雖説不浄観意。多欲之人著愛境故。不能信受。還起瞋也。但開与聞有其異本。開拠能化教此観意。開演義也。聞約所化聴聞意也。爰曰千五百年等者。本書之中無爰曰字。有異本歟。拘[セン07]弥者。第二之字。或[セン01]。或[セン07]。本有異歟。[セン01]玉篇云。式冉切。暫視貌。広韻云。失染切。暫見。已上。於[セン07]字者。未勘見之。又此国名俗用陜音。旁以[セン06]字可為正乎。次大集経第五十一。安楽集判末法時中聖道難証。依此経文於末法時。無戒定慧三学故也。基般若会釈云等者。問。上出此文重累如何。答。上定正法像法時分。兼示不言末法時代。今前不言末法時分。約法滅尽。但雖法滅非無末法。為顕此義重引用之。所引異故。無其過也。上人此鈔不痛再用。宜為准拠。SYOZEN2-411,412/TAI9-342,343
○次に千五百年の問答の答の中に、「大迦葉等七賢」等とは、問う、『附法蔵』を案ずるに、馬鳴以前にその十人あり。謂わく大迦葉、阿難尊者、商那和修、優婆毬多、並びに提多迦と弥遮迦と、仏陀難提、仏陀密多と、脇比丘と、及び富那奢比丘これなり。云何言いて「七賢聖」とするや。答う、その数誠に爾なり。今試みにこれを推するに、これまさに七人の賢聖というにはあらざるべし。けだしその位を顕わして七賢七聖に登る人というか。「至六百年九十」等とは、馬鳴菩薩は『附法蔵』の中には第十一代の祖師なり。即ち富那奢比丘の弟子なり。今『摩訶摩耶経』の意に依るに、彼の経に説きて云わく「如来滅後六百歳已りて、九十六種(六種・五種、これ異説なり)、もろもろに外道等の邪見競い起こりて仏法を毀滅するに、一の比丘あり、名づけて馬鳴という。善く法要を説きて一切の諸の外道の輩を降伏す」已上。「七百年中に龍樹」等とは、龍樹またこれ『附法蔵』の中の比羅比丘の弟子、第十三代の祖師なり。また同じき経に云わく「如来滅後七百歳已わりて一の比丘あり、名づけて龍樹という。善く法要を説きて、邪見の幢を滅し、正法の炬を燃〈とも〉さん」已上。「一千年中開不」等とは、智者は不浄観意を説くといえども、多欲の人は境に著愛するが故に、信受に能わず。還りて瞋を起こすなり。ただし「開」と「聞」とその異本あり。「開」は能化のこの観を教しうる意に拠る。開演の義なり。「聞」は所化に約して聴聞の意なり。「爰曰千五百年」等とは、本書の中に「爰曰」の字なし。異本あるか。「拘[セン07]弥」とは、第二の字は、或いは「[セン01]」、或いは[セン07]、本に異あるか。[セン01]〈せん・たん〉は玉篇に云わく「式冉の切。暫く視る貌なり」。『広韻』に云わく「失染の切。暫く見る」已上。[セン07]の字に於いては、未だこれを勘見せず。またこの国の名俗に陜の音を用う。旁、[セン06]の字を以て正とすべきか。次に『大集経』の第五十一。『安楽集』に末法の時中に聖道の証し難きことを判ずるに、この経文に依る。末法の時に於いて、戒定慧の三学なきが故なり。「基の般若会の釈に云」等とは、問う、上にこの文を出だす。重累すること如何。答う、上には正法・像法の時分を定め、兼て末法の時代をいわざることを示す。今は前に末法の時分をいわざることは法の滅尽に約す。ただし法滅といえども末法なきにあらず。この義を顕わさんが為に重ねてこれを引用す。所引の異なるが故に、その過なきなり。上人はこの鈔に再用を痛まず。よろしく准拠とすべし。SYOZEN2-411,412/TAI9-342,343
◎問。若爾者。今世正当何時。答。滅後年代雖有多説。且挙両説。一法上師等依周異説言。仏当第五主穆王満五十一年壬申入滅。若依此説。従其壬申至我延暦二十年辛巳。一千七百五十歳。二費長房等依魯春秋。仏当周第二十主匡王班四年壬子入滅。若依此説。従其壬子至我延暦二十年辛巳。一千四百十歳。故如今時是像法最末時也。彼時行事既同末法。然則於末法中。但有言教而無行証。若有戒法。可有破戒。既無戒法。由破何戒而有破戒。破戒尚無。何況持戒。故大集云。仏涅槃後無戒満州。云云。
◎(末法灯明記)問う。もししからば今の世は正しくいずれの時にか当るや。答う。滅後の年代多説ありといえども、しばらく両説を挙ぐ。一には法上師等、『周異』の説に依りて言わく、仏、第五主、穆王満五十一年壬申に当りて入滅したまうと。もしこの説に依らば、その壬申より我が延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なり。二には費長房等、魯の『春秋』に依らば、仏、周の第二十一主、匡王班四年壬子に当りて入滅したまうと。もしこの説に依らば、その壬子より我が延暦二十年辛巳に至るまで、一千四百十歳なり。故に今の時のごときは、これ最末の時なり。かの時の行事、すでに末法に同ぜり。しかればすなわち末法の中においては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いずれの戒を破せんに由りてか破戒あらんや。破戒なお無し、いかにいわんや持戒をや。故に『大集』に云わく、仏涅槃の後、無戒、洲に満たんと云云。KESINDO:SYOZEN2-170/-HON-362,HOU-473-
○次問答中。仏滅時代挙両説中。可用何耶。答。只挙両説不判殿最。何是何非。難輙用捨。但我聖人依周異記。上云如来涅槃時代。周第五主穆王壬申至我元仁。勘其年記。既結二千百余故也。将又匪啻聖人用之。常途所用大略亦同。次大集文。問。此文唯云仏涅槃後不指時分。何証末法無戒義耶。答。文段前後未広[ケン03]之。山家高覧不可成疑。定於末法説此義歟。只所引文不具而已。SYOZEN2-412,413/TAI9-343
○次の問答の中に、仏滅の時代に両説を挙ぐる中に、いずれを用うべきや。答う、ただ両説を挙げて殿最を判ぜず。いずれか是、いずれか非、輙く用捨しがたし。ただし我聖人は『周異記』に依る。上に如来涅槃の時代をいうに、周の第五主穆王壬申より、我が元仁に至るまで、その年記を勘がうるに。既に二千百余と結するが故なり。はたまた、ただ聖人のみこれを用いたまうにあらず。常途の所用は大略また同じ。次に『大集』の文。問う、この文にはただ「仏涅槃の後」といいて時分を指さず。何ぞ末法無戒の義を証するや。答う、文段の前後は、未だ広くこれを[ケン03]べず。山家の高覧、疑を成ずべからず。定んで末法に於いてこの義を説くか。ただ所引の文は具ならざらくのみ。SYOZEN2-412,413/TAI9-343
◎問。諸経律中広制破戒不聴入衆。破戒尚爾。何況無戒。而今重論末法無戒。豈無瘡自以傷哉。答。此理不然。正像末法所有行事。広載諸経。内外道俗。誰不披諷。豈貪求自身邪活。隠蔽持国之正法乎。但今所論末法。唯有名字比丘。此名字為世真宝無福田。設末法中有持戒者。既是怪異。如市有虎。此誰可信。
◎(末法灯明記)問う、もろもろの経律の中に、広く破戒を制して衆に入ることを聴さず。破戒なお爾なり、いかに況や無戒をやと。しかるにいま重ねて末法を論ずるに、戒なし。あに瘡なきを自らもって傷まんやと。答う、この理しからず。正・像・末法の所有の行事、広く諸経に載せたり。内外の道俗誰か披諷せざらん。あに自身の邪活を貪求して、持国の正法を隠蔽せんや。ただし今論ずるところの末法には、ただ名字の比丘のみあらん。この名字を世の真宝とせん。福田なからんや。たとい末法の中に持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これ誰か信ずべきや。KESINDO:SYOZEN2-170,171/-HON-362,HOU-473,474-
〇次問答下。当云次定破持僧事之文段歟。当段之中問答有四。今其初重也。此問意云。仏教不聴破戒。況無戒哉。而立末法無戒義者。今時僧侶既非世宝不足受供。何表過也。豈無等者。以譬責之。他不加疵豈自傷之。言無益也。今見本書。豈与無中有非一字。本有異歟。対有此字其意易得。但雖無之。読其文点無所違歟。答意趣者。三時行事経説無私。妄存邪活豈枉正理。但受世供。更非虚受。末法之中名字比丘為世宝故非可痛也。SYOZEN2-413/TAI9-358,359
〇次に問答の下、次に破持僧の事を定むといえる文段に当るか。当段の中、問答に四あり。今その初重なり。この問の意の云わく、仏教は破戒を聴さず。況んや無戒をや。しかるに末法無戒の義を立つるは、今時の僧侶は既に世宝にあらず、供を受くるに足らず。何ぞ過を表するやとなり。「豈無」等とは、譬を以てこれを責む。他の疵を加えざるに、あに自らこれを傷まんや。言は益なきなり。今、本書を見るに、「豈」と「無」との中に「非」の一字あり。本に異あるか。この字あるに対し、その意、得易し。ただしこれなしといえども、その文点を読む、違する所なきか。答の意趣は、三時の行事・経説に私なし。妄に邪活を存して、あに正理を枉〈ま〉げん。ただ世供を受くるは、更に虚受にあらず。末法の中に名字比丘は世宝たるが故に痛むべきにあらずとなり。SYOZEN2-413/TAI9-358,359
◎問。正像末事已見衆経。末法名字為世真宝出聖典。答。大集第九云。譬如真金為無価宝。若無真金者。銀為無価宝。若無銀者。鍮石偽宝為無価。若無偽宝。赤白銅鉄白錫鉛為無価。如是一切世間宝。仏法無価。若無仏宝者。縁覚無上。若無縁覚。羅漢無上。若無羅漢。余賢聖衆以無上。若無余賢聖衆。得定凡夫以為無上。若無得定凡夫。浄持戒以為無上。若無浄持戒。漏戒比丘以為無上。若無漏戒。剃除鬚髮身著袈裟名字比丘為無上宝。比余九十五種異道。最為第一応受世供。為物初福田。何以故。破能身衆生。所怖畏故。有護持養育安置是人不久得忍地。已上経文。
◎(末法灯明記)問う、正・像・末の事、すでに衆経に見えたり。末法の名字を世の真宝とせんことは、聖典に出でたりや。答う、『大集』の第九に云わく「たとえば真金を無価の宝とせんがごとし。もし真金なくは、銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅鉄白錫鉛を無価とす。かくのごとき一切世間の宝のうちに、仏法無価なり。もし仏宝なくは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。もし羅漢なくは、余の賢聖衆、もって無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫、もって無上とす。もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもって無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもって無上とす。もし漏戒なくは、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字比丘を無上の宝とす。余の九十五種の異道に比するに最も第一とす。世の供を受くべし、物のための初の福田なり。何をもっての故に。能身を破る衆生、怖畏するところなるが故に。護持養育してこの人を安置することあらん、久しからずして忍地を得んと。已上経文。KESINDO:SYOZEN2-171/-HON-362,363,HOU-474-
◎此文中有八重無価。所謂如来像・縁覚・声聞・及前三果・得定凡夫・持戒・破戒・無戒名字。如其次名為正像末之時無価宝也。初四正法時。次三像法時。後一末法時。由此明知。破戒無戒咸是真宝。
◎(末法灯明記)この文の中に八重の無価あり。いわゆる如来像に、縁覚、声聞および前三果、得定の凡夫、持戒、破戒、無戒名字、その次のごとし、名づけて正像末の時の無価の宝とするなり。初の四は正法時、次の三は像法時、後の一は末法時なり。これに由りて明らかに知りぬ、破戒・無戒、ことごとくこれ真宝なりと。KESINDO:SYOZEN2-171/-HON-363,HOU-474-
〇第二重問。就云前答末法比丘名字為上。問其説也。依之其答出大集経第九巻文。文意可見。SYOZEN2-413/TAI9-364
〇第二重の問。前の答に末法の比丘名字を上とすというに就きて、その説を問うなり。これに依りてその答に『大集経』の第九巻の文を出だす。文意、見つべし。SYOZEN2-413/TAI9-364
◎問。伏観前文。破戒名字莫不真宝。何故涅槃・大集経。国王大臣供破戒僧。国起三災遂生地獄。破戒尚爾。何況無戒。而爾如来於一破戒。或毀或讃。豈一聖之説有両判之失。答。此理不然。涅槃等経且制正法之破戒。非像末代之比丘。其名雖同。而時有異。随時制許。是大聖旨破。於世尊仏両判失。
◎(末法灯明記)問う、伏して前の文を観るに、破戒名字、真宝ならざることなし。何がゆえに『涅槃』と『大集経』に、国王・大臣、破戒の僧を供すれば、国に三災起こり、遂に地獄に生ずと。破戒なおしかり、いかに況や無戒をや。しかるに如来一つの破戒において、あるいは毀り、あるいは讃む。あに一聖の説に両判の失あらんや。答う、この理しからず。『涅槃』等の経には、しばらく正法の破戒を制す。像・末代の比丘にはあらず。その名同じといえども、時に異あり。時に随いて制許す、これ大聖の旨破なり。世尊において両判の失ましまさず。KESINDO:SYOZEN2-171/-HON-363,364,HOU-474,475-
〇第三重問。涅槃経明供破戒僧失現当益。況無戒乎。又引大集雖証可尊名字比丘。同経之中。又有相同涅槃之説。仍問一仏所説之中讃毀異也。答意趣者。制許随時。制破戒者約正法時。許名字者是約像法及末法也。SYOZEN2-413/TAI9-368,369
〇第三重の問。『涅槃経』には破戒僧を供して現当の益を失することを明かす。いわんや無戒をや。また『大集』を引きて名字の比丘を尊ぶべきことを証すといえども、同じき経の中に、また『涅槃』に相同じき説あり。よって一仏の所説の中に讃・毀の異なることを問うなり。答の意趣は、制許は時に随いて、破戒を制するは正法の時に約し、名字を許すは、これ像法及び末法に約するなり。SYOZEN2-413/TAI9-368,369
◎問。若爾以何知。涅槃等経但制止正法所有破戒非像末僧。答。如所引大集所説八重真宝。是其証也。皆為当時無価。故但正法時破戒比丘穢清浄衆。故仏固禁制不入衆。所以然者。涅槃第三云。如来今以無上正法付属諸王大臣宰相比丘比丘尼。乃至。有破戒毀正法者。王及大臣四部衆応当苦治。如是王臣等得無量功徳。乃至。是我弟子。真声聞也。得福無量。乃至。如是制文法。往往衆多。皆是正法所明之制文。非像末教。所以然者。像季末法不行正法。無法可毀。何名毀法。無戒可破。誰名破戒。又其時大王無行而可護。由何出三災及於失戒慧。又像末無証果人。如何明被聴護二聖。故知上所説皆約正法世有持戒時。有破戒故。
◎(末法灯明記)問う、もししからば何をもってか知る、『涅槃』等の経は、ただ正法所有の破戒を制止して、像末の僧にあらずとは。答う、引くところの『大集』所説の八重の真宝のごとし、これその証なり。みな時に当たりて無価とするが故に。ただし正法の時の破戒比丘は清浄衆を穢す。故に仏固く禁制して衆に入れず。しかるゆえは『涅槃』の第三に云わく、如来いま無上の正法をもって、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付嘱したまえり。乃至。戒を破り正法を毀る者あらば、王および大臣・四部の衆、当に苦治すべし。かくのごときの王臣等、無量の功徳を得ん。乃至。これ我が弟子なり、真の声聞なり、福を得ること無量ならん。乃至。かくのごときの制文の法、往往衆多なり。みなこれ正法に明かすところの制文なり。像末の教にあらず。しかるゆえは、像季末法には正法を行ぜざれば、法として毀るべきなし。何をか毀法と名づけん。戒として破すべきなし。誰をか破戒と名づけん。またその時の大王の、行として護るべきなし。何に由りてか三災を出だし、および戒慧を失せんや。また像末には証果の人なし。いかんぞ二聖を聴護せらるることを明かさん。故に知りぬ、上の所説はみな正法の世に持戒ある時に約して破戒あるがゆえなり。KESINDO:SYOZEN2-171,172/-HON-364,HOU-475-
〇第四重問。就前所立問其拠也。答中出証於重重義有其十三。一以前所引大集経説即先為証。二涅槃第三此文之中所略有三。初丘尼下有破之上言乃至者。有二行余。其闕文云。優婆塞優婆夷是諸国王大臣及四部衆。応当勧励諸学人等令得増長上定戒智慧。若有不学是三品法。懈怠有破戒等也。次功徳下是我之上言乃至者。有一行余。其闕文云。当無有小罪。我涅槃後。其方面有持戒比丘護持正法。見壊法者即能駈遣。呵嘖恋治。已上。後無量下如是之上言乃至者。所除文言有六行余。其中前涅槃文残一行余。三大集経文第二十八一行有余。四同二十八二行有余。彼此文云。若善比丘見壊法者置不可嘖。当知是人仏法中怨。又大集経二十八云。若有国王見我法滅捨不擁護。於無量世修施戒慧悉皆滅失。其国内出三種不祥事。乃至命終生地獄。又同経三十一云。仏言大王寧守護如法比丘一人不護無量諸悪比丘。今我唯聴二人賞護。一羅漢具八解脱。二須陀[オン01]人。已上。SYOZEN2-413,414/TAI9-372
〇第四重の問。前の所立に就きてその拠を問うなり。答の中に証を出だすに、重重の義に於いて、その十三あり。一には以前に引く所の『大集経』の説を即ちまず証とす。二には『涅槃』第三、この文の中に略する所、三あり。初に「丘尼」の下、「有破」の上に「乃至」というは、二行余あり。その闕文に云わく「優婆塞・優婆夷、この諸の国王・大臣及び四部の衆は、まさに諸の学人等を勧励して上の定戒智慧を増長することを得しむべし。もしこの三品の法を学せざることあらば、懈怠して破戒等あるなり」。次に「功徳」の下。「是我」の上に「乃至」というは、一行余あり。その闕文に云わく「まさに小罪あることなし。我が涅槃の後、その方面に持戒の比丘ありて、正法を護持せん。壊法の者を見ては即ち能く駈遣し、呵嘖し恋治せよ」已上。後に「無量」の下、「如是」の上に「乃至」というは、除く所の文言に六行余あり。その中に前の『涅槃』の文の残り一行余なり。三に『大集経』の文、第二十八の一行有余。四に同じき二十八の二行有余。彼此の文に云わく「もし善比丘、法を壊する者を見て置きて嘖すべからず。まさに知るべし、この人は仏法の中の怨なり」。また『大集経』の二十八に云わく「もし国王ありて我が法の滅せんを見て捨てて擁護せず。無量世に於いて修する施と戒と慧と、悉く皆滅失す。その国の内に三種の不祥の事を出だす。乃至命終して地獄に生ぜん」。また同じき経の三十一に云わく「仏の言わく、大王、寧ぞ如法の比丘一人を守護して無量の諸の悪比丘を護らざらん。今我ただ二人の賞護を聴〈ゆる〉す。一には羅漢の八解脱を具する、二には須陀[オン01]の人なり」と已上。SYOZEN2-413,414/TAI9-372
◎次像法千年中。初五百年。持戒漸減。破戒漸増雖有戒行而無証果。故涅槃七云。迦葉菩薩白仏言。世尊。如仏所説有四種魔。若魔所説及仏所説。我当云何而得分別。有諸衆生随逐魔行。復有随順仏説者。如是等輩復云何知。仏告迦葉。我涅槃七百歳後。是魔波旬漸起。当頻壊我之正法。譬如猟師身服法衣。魔波旬亦復如是。作比丘像・比丘尼像・優婆塞優婆夷像亦復如是。乃至。聴諸比丘受畜奴僕使牛羊象馬乃至銅鉄釜錫大小銅盤所須之物。耕田種敗売市易儲穀米。如是衆事。仏大悲故。憐愍衆生皆聴畜。如是経律。悉是魔説。云云。既云七百歳後波旬漸起。故知彼時比丘漸貪畜八不浄物作此妄説。即是魔流也。此等経中。明指年代具説行事。不可更疑。其挙一文。余皆準知。
◎(末法灯明記)次に像法千年の中に、初の五百年には、持戒ようやく減じ、破戒ようやく増せん。戒行ありといえども、証果なし。故に『涅槃』の七に云わく、迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊、仏の所説のごときは、四種の魔あり。もし魔の所説および仏の所説、我まさにいかんしてか分別することを得べき。もろもろの衆生ありて魔行に随逐せん。また仏説に随順する者あらん。かくのごとき等の輩、またいかんが知らんと。仏、迦葉に告げたまわく、我涅槃して七百歳の後に、これ魔波旬ようやく起こりて、当にしきりに我が正法を壊すべし。たとえば猟師の身に法衣を服るがごとし。魔波旬もまたかくのごとし。比丘像・比丘尼像・優婆塞・優婆夷像と作らんこと、またかくのごとしと。乃至。もろもろの比丘、奴〈奴婢〉・僕使・牛・羊・象・馬、乃至、銅鉄釜錫〈[フク01]〉・大小銅盤、所須の物を受畜し、耕田種・敗売市易して、穀米を儲くることを聴〈ゆる〉すと。かくのごときの衆事、仏、大悲の故に衆生を憐愍して、みな蓄うることを聴さんと。かくのごときの経律は、ことごとくこれ魔説なり」と云云。すでに、七百歳の後に、波旬ようやく起こらんと云えり。故に知りぬ。かの時の比丘、ようやく八不浄物を貪畜せん。この妄説を作せん。すなわちこれ魔の流なり。これらの経の中に、明らかに年代を指して具に行事を説けり。さらに疑うべからず。それ一文を挙ぐ。余はみな準知せよ。KESINDO:SYOZEN2-172,173/-HON-364,365,HOU-475,476-
〇五涅槃第七。此文之中。如是之下。聴諸之上。言乃至者。所略文言有三行余。其闕文云化作(本書此二字上如是二字不見)須陀[オン01]身乃至化作阿羅漢身及仏色身。魔王以此有漏之形作無漏身壊我正法。是魔波旬。為壊正法当作是言。仏在会衛国祇陀精舎。已上。問。引此経已。解釈中云八不浄物。指何物乎。答。上経之中所言奴婢僕使等歟。奴婢為一。僕使為一。牛羊象馬分而為四。銅鉄雖異釜[フク01]為一。大小雖別。銅盤為一。合八種也。SYOZEN2-414/TAI9-379
〇五に『涅槃』の第七。この文の中に、「如是」の下、「聴諸」の上に、「乃至」というは、略する所の文言に三行余あり。その闕文に云わく「須陀[オン01]の身を化作し(本書この二字の上に「如是」の二字、見えず)、乃至、阿羅漢の身、及び仏の色身を化作し、魔王はこの有漏の形を以て無漏身と作して我が正法を壊せん。この魔波旬は正法を壊せんが為に、まさにこの言を作す。仏は会衛国祇陀精舎に在りて」已上。問う、この経を引き已わりて、解釈の中に八不浄物をいう、何物を指すや。答う、上の経の中に言う所の「奴婢僕使」等か。奴婢を一とし、僕使を一とし、牛羊象馬を分かちて四とす。銅鉄は異なりといえども、釜[フク01]を一とし、大小は別なりといえども、銅盤を一とす。合して八種なり。SYOZEN2-414/TAI9-379
◎次像法後半。持戒減少。破戒巨多。故涅槃六云。乃至。
◎(末法灯明記)次に、像法の後〈のち〉半ばは持戒減少し、破戒巨多ならん。故に『涅槃』の六に云く、乃至。KESINDO:SYOZEN2-173/-HON-365,HOU-476-
〇六同経第六。但挙経名不載言句。其現文云。仏告菩薩言。善男子譬如迦羅林。其樹衆多閼菓乃有九分。是人不識齎来詣市而衒。是林中唯有一樹。名鎮頭迦。是迦羅樹与鎮頭迦樹二菓相似不可分別。其菓熟時。有一女人悉皆拾取。鎮頭迦菓載唯有一分。迦羅迦売之。凡愚小児復不別故。買迦羅迦菓[タン03]已命終。有智人輩。聞是事已即問女人。姉於何処持是菓来。是時女人即示方所。諸人即言。如是方所。有無量迦羅迦樹。唯一根鎮頭迦樹。諸人知之已笑而捨去。善男子大衆之中八不浄法亦復如是。於是衆中多受用如是八法。唯有一人清浄持戒。不受如是八不浄法。而知諸人受畜非法。然而同事不相捨難。如彼林中一鎮頭迦樹。已上。SYOZEN2-,/TAI9-383,
〇六に同じき経の第六。ただ経名を挙げて言句を載せず。その現文に云わく「仏、菩薩に告げて言わく、善男子、譬えば迦羅林の如し。その樹衆多にして閼菓乃し九分あり。この人識らずして齎〈も〉ち来たりて市に詣て衒〈う〉る。この林の中にただ一樹あり、鎮頭迦と名づく。この迦羅樹と鎮頭迦樹と、二菓は相似して分別すべからず。その菓の熟する時、一の女人ありて悉くみな拾い取る。鎮頭迦の菓は載せてただ一分あり。迦羅迦はこれを売るに、凡愚小児はまた別かたざるが故に、迦羅迦菓を買いて、[タン03]〈く〉い已わりて命終す。智人の輩ありて、この事を聞き已わりて即ち女人に問う。姉はいずれの処にしてこの菓を持ち来たれるぞ。この時に女人は即ち方所を示す。諸人即ちいう、かくの如き方所に、無量の迦羅迦樹ありて、ただ一根の鎮頭迦樹あり。諸人これを知り已わりて笑いて捨て去りぬ。善男子、大衆の中の八不浄法もまたかくの如し。この衆の中に於いて、かくの如きの八法を受用すること多し。ただ一人の清浄持戒なるありて、かくの如きの八不浄法を受けず。しかも諸人の非法を受畜することを知れり。しかれども、事を同じくして相捨難せず。彼の林の中のひとつの鎮頭迦樹の如し」已上。SYOZEN2-,/TAI9-383,
◎又十輪言。若依我法出家造作悪行。此非沙門自称沙門。亦非梵行自称梵行。如是比丘。能開示一切天龍夜叉一切善法功徳伏蔵。為衆生善知識。雖不少欲知足。剃除鬚髮被著法服。以是因縁故。能為衆生増長善根。於諸天人開示善道。乃至破戒比丘雖是死人。而戒余才如牛黄。此雖死而人故取之。亦如麝香後有用 云云 既云迦羅林中有一鎭頭迦樹。此喩像運已衰。破戒濁世僅有一二持戒比丘。
◎(末法灯明記)また『十輪』にのたまわく、もしわが法によりて出家して悪行を造作せん。これ沙門にあらずして自ら沙門と称し、また梵行にあらずして自ら梵行と称せん。かくのごときの比丘、よく一切の天竜夜叉、一切の善法功徳伏蔵を開示して、衆生の善知識とならん。少欲知足ならずといえども、剃除鬚髪して、法服を被着せん。この因縁をもっての故に、よく衆生のために善根を増長せん。もろもろの天人において善道を開示せん。乃至。破