『六要鈔会本』
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        参考のため、下記のように符号を付けました。
        ◎は『教行信証』の文。〇は『六要鈔』の文。
        SYOZEN2-2,3は真宗聖教全書 第2巻 2〜3頁の意。
        TAI1-48は仏教大系教行信証 第1巻 48頁の意。
        HON-149は東本願寺刊『真宗聖典』149頁の意。
        HOU-265は柏原祐義編『真宗聖典』265頁の意。
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 教行信証六要鈔会本 第八 化身土巻

 ◎顕浄土方便化身土文類 六本
  ◎愚禿釈親鸞集

 〇当巻大文第六。顕明化之身土。於中為四。一者題目。二者標挙。三者正釈。四者総結。SYOZEN2-371/TAI8-348
  〇当巻大文第六に、化の身土を顕明かす。中に於いて四と為す。一には題目、二には標挙、三には正釈、四には総結なり。SYOZEN2-371/TAI8-348

 〇初於題目分二准上。題目之中言方便者。是対真実。化身土者対真仏土。真化相対五六成次。撰号如前。SYOZEN2-371/TAI8-368
  〇初に題目に於いて二を分かつこと上に准ず。題目の中、「方便」というは、これ真実に対す。「化身土」とは、真仏土に対す。真化相対して五・六、次を成ず。撰号は前の如し。SYOZEN2-371/TAI8-368

 ◎至心発願之願 邪定聚機 双樹林下往生 無量寿仏観経意也。
  ◎至心発願の願 邪定聚の機 双樹林下往生 『無量寿仏観経』の意なり。KESINDO:SYOZEN2-143/HON-325,HOU-436

 ◎至心回向之願 不定聚機 難思往生 阿弥陀経之意也。
  ◎至心回向の願 不定聚の機 難思往生 『阿弥陀経意』の意なり。KESINDO:SYOZEN2-143/HON-325,HOU-436

 〇二標挙之中。並挙二願。至心発願。是第十九之誓願也。邪定聚機者。問。今所言者浄土正機。往生極楽之行人也。何云邪聚。答。疑端所来誠以為難。但試会之。観経九品衆機之中。其下三品是正実機。而彼三品。或説応堕地獄。或説応堕悪道。斯乃為顕定業能転奇特之益。且約遇善以前之機。云邪定歟。是故下云観経意也。双樹林下往生者。問。其意如何。答。双樹林者。狗尸那城跋提河辺。大聖釈尊入滅砌也。是則化身入滅処故。於明化土挙此処歟。至心回向。第二十之本誓願也。不定聚機者。問。浄土真宗所被之機。偏願極楽必得往生。須言正定。何因謂之不定聚乎。答。三部之中。且依小経。長時起行為其本意。臨終来迎為其所期。起行若懈。所期難遂。対至心信楽之機平生業成必得生辺。為示勝劣。称之且云不定聚也。難思往生者。問。其意如何。答。是又同対第十八願至心信楽決定往生難思議義。為之難思。議字有無可有差別。浅深応知。問。三種往生之名目者。出法事讃。今所出義。正為彼讃所明義乎。答。三種往生。謂其名目。出彼事讃。今分別意。又任彼釈。更無異論。但於其中。或約三経。或約三聚。此集料簡愚解未覃。今集主意。配当定叶其教旨歟。仰可信之。SYOZEN2-371,372/TAI8-376
  〇二に標挙の中に、並べて二願を挙ぐ。「至心発願」は、これ第十九の誓願なり。「邪定聚の機」とは、問う、今言う所は浄土の正機、往生極楽の行人なり。何ぞ邪聚というや。答う、疑端の来る所、誠に以て難と為す。但し試みにこれを会せば、『観経』の九品衆機の中に、その下三品はこれ正しき実機なり。而るに彼の三品は、或いは「応堕地獄」と説き、或いは「応堕悪道」と説く。これ乃ち定業能転奇特の益を顕わさんが為なり。且く遇善以前の機に約して邪定というか。この故に下に「観経の意」というなり。「双樹林下の往生」とは、問う、その意、如何。答う、双樹林とは狗尸那城跋提河の辺、大聖釈尊入滅の砌なり。こて則ち化身入滅の処なるが故に、化土を明かすに於いてこの処を挙ぐるか。「至心回向」は第二十の本誓願なり。「不定聚の機」とは、問う、浄土真宗所被の機は、偏に極楽を願じて必ず往生を得。須く正定というべし。何に因りてかこれを不定聚というや。答う、三部の中に、且く『小経』に依るに、長時の起行をその本意と為し、臨終来迎をその所期と為す。起行もし懈らば、所期は遂げ難し。至心信楽の機、平生業成必得生の辺に対す。勝劣を示さんが為に、これを称して且く不定聚というなり。「難思往生」とは、問う、その意、如何。答う、これまた同じく第十八の願、至心信楽、決定往生、難思議の義に対して、これを難思と為す。議の字の有無に差別あるべし。浅深知るべし。問う、三種往生の名目は『法事讃』に出でたり。今出だす所の義は、正しく彼の讃に明かす所の義たりや。答う、三種の往生は、その名目をいうに、彼の『事讃』に出でたり。今の分別の意は、また彼の釈に任す。更に異論なし。但しその中に於いて、或いは三経に約し、或いは三聚に約するは、この集の料簡、愚解未だ覃〈およ〉ばず。今集主の意、配当は定んでその教旨に叶うか。仰いでこれを信ずべし。SYOZEN2-371,372/TAI8-376

 〇三正釈者。自長行初至当巻末引論語詞。是其文也。是於一部分其三段。終正宗分当此正釈。SYOZEN2-372/TAI8-376
  〇三に正釈とは、長行の初より、当巻の末に『論語』の詞を引くに至るまでは、これその文なり。これ一部に於いてその三段を分かつに、正宗分を終るまで、この正釈に当る。SYOZEN2-372/TAI8-376

 〇四総結者。同次下云竊以已下。是其文也。是又三段判釈之時云流通分。其文是也。SYOZEN2-372/TAI8-376
  〇四に総結とは、同じき次下に「竊以」という已下、これその文なり。これまた三段判釈の時に流通分という、その文これなり。SYOZEN2-372/TAI8-376

 〇此正釈中分以為二。一自文初至之願也。粗標当願所起大旨。二是以下正引諸文。SYOZEN2-372/TAI8-376
  〇この正釈の中に分ちて以て二と為す。一に文の初より、「之願也」に至るまでは、ほぼ当願所起の大旨を標す。二に「是以」の下は正しく諸文を引く。SYOZEN2-372/TAI8-376

 ◎謹顕化身土者。仏者如無量寿仏観経説。真身観仏是也。土者観経浄土是也。復如菩薩処胎経等説。即懈慢界是也。亦如大無量寿経説。即疑城胎宮是也。
  ◎(御自釈)謹んで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなわち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし。すなわち疑城胎宮これなり。KESINDO:J:SYOZEN2-143/HON-326,HOU-437

 ◎然濁世群萠穢悪含識。乃出九十五種之邪道。雖入半満権実之法門。真者甚以難。実者甚以希。偽者甚以多。虚者甚以滋。是以釈迦牟尼仏。顕説福徳蔵誘引群生海。阿弥陀如来。本発誓願普化諸有海。既而有悲願。名修諸功徳之願。復名臨終現前之願。復名現前導生之願。復名来迎引接之願。亦可名至心発願之願也。
  ◎(御自釈)しかるに濁世の群萠、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといえども、真なる者は、はなはだもって難く、実なる者は、はなはだもって希なり。偽なる者は、はなはだもって多く、虚なる者は、はなはだもって滋し。ここをもって釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、もと誓願を発してあまねく諸有海を化したもう。すでにして悲願います。「修諸功徳の願」と名づく、また「臨終現前の願」と名づく、また「現前導生の願」と名づく、また「来迎引接の願」と名づく。また「至心発願の願」と名づくべきなり。KESINDO:J:SYOZEN2-143,144/HON-326,327,HOU-437

 〇初中有二。先標後釈。謹顕等者是其標也。仏者等者是其釈也。問。弥陀報化諸師今家異解是也。天台浄影以下諸師立化身義。高祖大師破彼等義。引諸経文存報身義。謂其所論。本是観経真身仏也。而如今者併同他家諸師謬解。忽背今師楷定正義。已云真身。何属化身。是一大事最要法門。具預宣説。欲開疑滞蓄其誡信。答。寔是大要。尤可開解。解有二義。一云真身観仏為報身義。置而不論。但今釈意。別願酬因報身土者。身是念仏三昧教主。土又乗願所入土也。而彼真身之仏体者。先約観門所説身故。雖有真実色身之名。若望念仏所見之身。猶帯方便。依此義辺為化身歟。二云。言真身観仏是也者。此非指彼真身報仏謂之化身。指真身観真身所共之化身也。真身本仏。約其観門所見辺時。雖属化身。約彼念仏衆生摂取不捨益時。其実体者是報身也。今化身者。所謂経云。於円光中有百万億那由他恒河沙化仏。已上。指此化仏言真身観所説化仏。非其真身則化身也。此仏則是下九品中来迎仏也。因茲玄義引同性等三経之文。証報身義。引観経文即釈成云。報身兼化共来授手。已上。此釈之中。言報身者。真身本仏。言兼化者。彼所共之化身是也。尋云。此義有疑。然者可謂真身観中之化仏乎。答。上標謹顕化身土者。其下釈故不重牒耳。問。二義之中。何為正乎。答。二義並存。各以有義。所用宜在学者之意。但第二義可称穏便。SYOZEN2-372,373/TAI8-385,386
  〇初の中に二あり。まず標し、後に釈す。「謹顕」等とは、これその標なり。「仏者」等とは、これその釈なり。問う、弥陀の報化は諸師・今家の異解これなり。天台・浄影以下の諸師は化身の義を立つ。高祖大師は彼等の義を破し、諸経の文を引きて報身の義を存す。その所論をいうに、本これ『観経』の真身の仏なり。而るに今のごときは、しながら他家諸師の謬解に同じて、忽ちに今師楷定の正義に背く。已に真身という。何ぞ化身に属せん。これ一大事最要の法門なり。具に宣説に預かりて、疑滞を開きてその誡信を蓄えんと欲す。答う、寔(まこと)にこれ大要なり。尤も開解すべし。解するに二義あり。一に云わく、真身観の仏は報身たる為は、置きて論ぜず。但し今の釈の意は、別願酬因の報身土とは、身はこれ念仏三昧の教主、土はまた乗願所入の土なり。而るに彼の真身の仏体は、まず観門に約して説く所の身なるが故に、真実色身の名ありといえども、もし念仏所見の身に望むれば、なお方便を帯す。この義辺に依りて化身と為するか。二に云わく、「真身観仏是也」というは、これ彼の真身の報仏を指して、これを化身というにあらず。真身観の真身の所共の化身を指すなり。真身の本仏は。その観門所見の辺に約する時は、化身に属すといえども、彼の「念仏衆生摂取不捨」の益に約する時は、その実体はこれ報身なり。今化身とは、いわゆる経に云わく「円光の中に於いて百万億那由他恒河沙化仏あり」と、已上。この化仏を指して真身観所説の化仏という。その真身則ち化身なるにはあらざるなり。この仏は則ちこれ下の九品の中の来迎の仏なり。茲に因りて『玄義』に『同性』等の三経の文を引きて、報身の義を証するに、『観経』の文を引きて即ち釈成して云わく「報身、化を兼ねて共に来りて授手す」と、已上。この釈の中に「報身」というは、真身の本仏なり。「兼化」というは、彼の所共の化身これなり。尋ねて云わく「この義に疑あり。然らば真身観の中の化仏というべきか。答う、上に「謹顕化身土者」と標す。その下の釈なるが故に重ねて牒せざらくのみ。問う、二義の中に、何をか正と為すや。答う、二義並べて存す。おのおの以て義あり。所用は宜しく学者の意に在るべし。但し第二の義は穏便と称しつべし。SYOZEN2-372,373/TAI8-385,386

 〇土者等者。問。所言観経所説土者。十三定善所観浄土。並九品土共化土歟。答。総標観経無分別言。是故可云共化土也。問。共以有疑。先就定善所観浄土。其土教主已是真身。其真実身所居之土即応真土。何化土乎。次就九品。極楽世界是弥陀仏本願所成之浄土也。言九品者。於其浄土所建立也。弥陀浄土為報土者。何言九品非報土乎。抑九品外有何浄土得報名哉。答。弥陀本願所成之土判為報土。一家定判不及異論。但九品土報化分別。高祖大師解釈未決。諸流面面異義皆在末学料簡。是則諸師異解区故。各任意楽。又就本習。依彼用此。而集主意以観経土判為化土。九品之土是為其摂。凡真報土唯是一種不可思議真妙土也。但亦就言九品是化。聊有通局。言総意別。所以然者。於九品中。上品上生之一品者。是真土也。是則名号所入之土。三心具足得生土也。真化諸土皆悉摂在九品中。故総云九品。下之八品仮立土也。故帯九品名言辺者是属化土。離其名目只是一種。退謂所標之一種者。当彼上品上生土也。可分別之。凡九品中。上六品者約大小乗修善之別。下三品者約軽次重造罪之異。加之花開遅疾差降。花開已後得益不同。皆是善悪因果配立。自力修入之説相也。斯乃余行非仏本願。麁劣行故。不生報土。今九品相皆是辺地化土相也。称名念仏必生報土。此是如来本願故也。弥陀如来酬因願身。極楽浄土酬因報土。念仏三昧宿願之行。必生本願所成報土。其報土者本論所説二十九句荘厳功徳。第一義諦妙境界相。是其土也。平等覚経名土言無量光明土。浄土論説土名言蓮華蔵世界。同論又説土相言究竟如虚空。是真実報土之相。唯称仏名所入土也。問。上六品者依受法異分其階位。且属化土其義可然。下三品者共行念仏。随而十悪破戒五逆造罪之機。只依一声聞名十念。臨終遇善得生浄土。以之為奇。依之余人皆言報土。何言化乎。答。彼下三品既説多劫含花之相。此非正覚華化生相。是仮立也。約此義意。雖修念仏。是為自力起行往生。故下上云聞三宝名即得往生。已上。釈云法僧通念亦得去也、已上。若約報土往生之義。多劫胎生是可仮立。則云十劫須臾不覚尽等。蓋其意也。多劫華開縦非実義。仮立相者是化土也。是故約帯九品名言之義辺者。可属化也。SYOZEN2-373,374/TAI8-386,387
  〇「土者」等とは、問う、言う所の『観経』所説の土とは、十三定善所観の浄土、並びに九品の土、共に化土なるか。答う、総じて『観経』と標して分別の言なし。この故に共に化土というべきなり。問う、共に以て疑あり。まず定善所観の浄土に就きて、その土の教主は已にこれ真身なり。その真実の身の所居の土は即ち真土なるべし。何ぞ化土ならん。次に九品に就きて、極楽世界はこれ弥陀仏本願所成の浄土なり。九品というは、その浄土に於いて建立する所なり。弥陀の浄土は報土たらば、何ぞ九品は報土にあらずといわん。そもそも九品の外に何の浄土ありて報の名を得るぞや。答う、弥陀の本願所成の土を判じて報土と為すること、一家の定判にして異論に及ばず。但し九品の土の報化の分別は、高祖大師の解釈に未だ決せず。諸流面面の異義は皆、末学の料簡にあり。これ則ち諸師の異解まちまちなるが故に、おのおの意楽に任す。また本習に就きて、彼に依りてこれを用う。而るに集主の意は『観経』の土を以て判じて化土と為す。九品の土は、これその摂たり。凡そ真の報土は唯これ一種不可思議真妙の土なり。但しまた九品はこれ化なりというに就きて、聊か通局あり。言総意別なり。然る所以は、九品の中に於いて、上品上生の一品は、これ真土なり。これ則ち名号所入の土、三心具足得生の土なり。真化の諸土は皆悉く九品の中に摂在する故に総じて九品という。下の八品は仮立の土なり。故に九品の名言を帯する辺は、これ化土に属す。その名目を離るれば、ただこれ一種なり。退きて標する所の一種をいわば、彼の上品上生の土に当るなり。これを分別すべし。凡ぞ九品の中に、上六品は大小乗修善の別に約し、下三品は軽次重造罪の異に約す。これに加うるに、花開の遅疾差降、花開已後の得益の不同、みなこれ善悪因果の配立、自力修入の説相なり。これ乃ち余行は仏の本願にあらず、麁劣の行なるが故に、報土に生ぜず。今九品の相は皆これ辺地化土の相なり。称名念仏は必ず報土に生ず。これはこれ如来本願の故なり。弥陀如来は酬因の願身、極楽浄土は酬因の報土なり。念仏三昧は宿願の行なり。必ず本願所成の報土に生ず。その報土とは、本論所説の二十九句の荘厳功徳、第一義諦妙境界相、これその土なり。『平等覚経』には土を名づけて「無量光明土」という。『浄土論』には土を説きて名づけて「蓮華蔵世界」という。同じき論にまた土の相を説きて「究竟如虚空」という。これ真実報土の相なり。ただ称仏名の所入の土なり。問う、上六品は受法の異に依りてその階位を分かつ。且く化土に属すること、その義然るべし。下三品は共に念仏を行じて、随いて十悪破戒五逆造罪の機は、ただ一声と聞名と十念とに依りて、臨終に善に遇いて浄土に生ずることを得。これを以て奇と為す。これに依りて余人皆報土という。何ぞ化というや。答う、彼の下三品は既に多劫含花の相を説く。これ正覚華化生の相にあらず。これ仮立なり。この義意に約すれば、念仏を修するといえども、これ自力起行の往生たり。故に下上には「三宝の名を聞きて即ち往生を得」という、已上。釈には「法僧通念するも、また去ことを得」というなり、已上。もし報土往生の義に約すれば、多劫の胎生は、これ仮立なるべし。則ち「十劫須臾に覚せずして尽き」(般舟讃)等という。蓋しその意なり。多劫の華開は縦い実義にあらずとも、仮立の相はこれ化土なり。この故に九品の名言を帯する義辺に約せば、化に属すべきなり。SYOZEN2-373,374/TAI8-386,387

 〇復如等者。懈慢界相。如下所引。亦如等者。問。疑城胎宮是同処歟。是別処歟。又此得名其意如何。答。是同処也。疑惑行者所止城故謂之疑城。簡彼化生謂之胎生。則此胎生処宮殿故言之胎宮。則辺地也。大経下云。汝等宜各精進求心所願。無得疑惑中悔自為過咎。生彼辺地七宝宮殿。五百歳中受諸厄也。已上。是誡行者依疑惑咎生彼辺地宮殿失也。又同下説化生胎生得失之相。如下所引。(自其胎生至失大利。本経雖有三十余行。処処略故有十七行。)問。今此辺地報土摂歟。答。集主之意判為化土。報土外也。若報土者当巻之中不可明也。問。自余諸家皆言辺地在報土中。是則大師定判唯報非化故也。何背彼義云化土耶。答。諸家所立匪所是非。大師定判誰不依憑。但今唯報非化之義自他領解。其意相異。今所言之唯報非化。諸師所判。或云報身。或云化身。或亦云通報化二身。異義万差不一決故。不依彼等蘭菊異義。今正為顕楷定実義。偏所定判報身義也。是則指彼名号所入之土釈云則是酬因之身。乃此意也。謂之唯報。謂之非化。言然非謂於弥陀仏無応化身。有化身者可有化土。三経所標既説彼仏有其化仏。何無化土。一切諸仏皆具三身。弥陀一仏豈無随類応現身土。SYOZEN2-374,375/TAI8-387,388
  〇「復如」等とは、懈慢界の相、下の所引の如し。「亦如」等とは、問う、疑城・胎宮はこれ同処か、これ別処か。またこの得名は、その意、如何。答う、これ同処なり。疑惑の行者の所止の城なるが故に、これを疑城という。彼の化生に簡びてこれを胎生という。則ちこの胎生は宮殿に処するが故に、これを胎宮という。則ち辺地なり。『大経』の下に云わく「汝ら、宜しくおのおの精進して心の所願を求むべし。疑惑し中悔して自ら過咎を為して、かの辺地七宝の宮殿に生じて、五百歳の中にもろもろの厄を受くるを得ることなかれ」已上。これ行者の疑惑の咎に依りて彼の辺地宮殿に生ずる失を誡しむるなり。また同じき下に化生・胎生の得失の相を説く。下の所引の如し。(「其胎生」より「失大利」に至るまで、本経に三十余行ありといえども、処処略するが故に十七行あり。)問う、今この辺地は報土の摂か。答う、集主の意は判じて化土と為す。報土の外なり。もし報土ならば当巻の中に明かすべからざるなり。問う、自余の諸家はみな辺地は報土の中に在りという。これ則ち大師の唯報非化と定判したまう故なり。何ぞ彼の義に背きて化土というや。答う、諸家の所立は是非する所にあらず。大師の定判、誰か依憑せざらん。但し今唯報非化の義は自他の領解、その意相異なる。今言う所の唯報非化は諸師の所判なり。或いは報身といい、或いは化身といい、或いはまた報化二身に通ずという。異義万差にして一決せざるが故に、彼等蘭菊の異義に依らず。今正しく楷定の実義を顕わさんが為に、偏に報身の義を定判する所なり。これ則ち彼の名号所入の土を指して、釈して「則ちこれ酬因の身なり」(玄義分)という。乃ちこの意なり。これを唯報といい、これを非化という。然りといいて弥陀仏に於いて応化の身なしというにはあらず。化身あらば化土あるべし。三経の標する所は既に彼の仏にその化仏ありと説く。何ぞ化土なからん。一切の諸仏はみな三身を具す。弥陀一仏あに随類応現の身土なからん。SYOZEN2-374,375/TAI8-387,388

 〇問。九品辺地共化土者。是同処歟。答。集主之意共雖属化未判同異。諸師之意。或以辺地接三輩内。或以胎宮為九品外。依為異解。同異輙以難定故耳。問。大師釈中解此事耶。答。宗家釈中同異不明。於宗家釈中。学者各存異義者也。SYOZEN2-375/TAI8-388
  〇問う、九品辺地は共に化土ならば、これ同処か。答う、集主の意は共に化に属すといえども、未だ同異を判ぜず。諸師の意は、或いは辺地を以て三輩の内に接し、或いは胎宮を以て九品の外と為す。異解を為すに依りて、同異輙く以て定め難きが故なるのみ。問う、大師の釈の中にこの事を解するや。答う、宗家の釈の中に同異は明かならず。宗家の釈の中に於いて、学者おのおの異義を存する者なり。SYOZEN2-375/TAI8-388

 〇問。諸師之中何師令立何義趣耶。答。鸞師所立存各別義。故略論云。又有一種往生安楽。不入三輩。謂以疑惑心修諸功徳。已上。元暁同之。謂彼釈云。生辺地者即是一類。非九品摂。己上。法位又同。寂存同義。彼義記云。受胎生者在何品中。依旧両本。皆説在於中下品中。乃至。雖起疑惑。然不誹謗。帯疑惑心修功徳故。雖生彼国。而生在辺地。於五百歳不能見仏聞法修行。如在胎中。無所見聞。是故説名受胎生也。己上。興師又同挙諸師釈。各破其義。遂成自義。彼疏釈云。有説更有往生。而非三輩。謂下文中疑五智人。疑惑心中修諸功徳。亦信罪福。少修善本願生彼土。以信不定故非前六。少修福故亦非後三。由此不入九品所摂。此亦不然。帛謙皆云中輩之人狐疑不信。雖生彼土。在其城中。於五百年不見仏。不聞経。不見聖。必不可言疑智凡夫不在九品故。有説不決曰疑。雖生彼国。而在辺地。別是一類。非九品摂。是故不応妄生疑惑。此亦不然。二経所説。中下之属所止宝城。既五百年。応如此経疑智凡夫所在宝宮。亦是辺地故。不爾便違経云所居舎宅。在地不能令随意高大在虚空中。復言阿弥陀仏其大違故〈『大阿弥陀経』所居処舎宅在地。不能令舎宅随意高大在虚空中。復去阿弥陀仏甚大遠〉。有説疑仏智人。即此中輩観経中品。故帛謙経中弁中輩。云持戒布施飲食沙門作寺起塔後疑不信。其人暫信暫不信。続倍其善願得往生。雖生彼国。不得前至無量寿仏所。遙見仏国界辺自然宝城。於五百歳不得見仏聞法故。不応非法護経中疑仏人故。此亦不然。帛謙下輩亦在路城於五百年不得見仏。如何。疑智唯在中輩而非下耶。若言中輩疑智修因相似故。雖属中品。而非下者。亦可下輩受果似中品故摂疑仏智。果雖相似。不摂疑智。因雖復同。何容疑智。又彼所言九品之内。属於中上理必不然。観経中上。此経疑智。華開見仏聞法獲利皆不同故。若言中上自有多種故無此過者。若不中下亦有多種故摂疑故。今即疑仏五智。中下下下二生所摂。由此帛謙後之二輩。皆言在城於五百年不得見仏聞法見聖故。若三輩。若九品。皆無寛狭摂往生尽。已上。同師又釈経説胎宮云百由旬五百由旬之義意云。百由旬者。即下輩疑仏所生之宮。五百由旬者。則中輩疑智所止之宮。已上。此師之意三輩之内摂胎生也。問。所出之釈皆約三輩不云九品如何。答。三輩九品同異之義。雖有異解。撰択集意既存輩品開合之義。故無相違。SYOZEN2-375,376,377/TAI8-388,389
  〇問う、諸師の中に何れの師の、何れの義趣を立せしむるや。答う、鸞師の所立は各別の義を存す。故に『略論』に云わく「また一種の安楽に往生するあり。三輩に入らず。謂わく疑惑の心を以て諸の功徳を修す」已上。元暁はこれに同じ。謂わく彼の釈に云わく「辺地に生ずる者は即ちこれ一類なり。九品の摂にあらず」己上。法位もまた同じ。寂は同の義を存す。彼の『義記』に云わく「胎生を受くる者は何れの品の中に在るや。旧の両本に依るに、みな説きて中下品の中に在く。(乃至)疑惑を起こすといえども、然も誹謗せず。疑惑の心を帯して功徳を修するが故に、彼の国に生ずといえども、而も生じて辺地に在り。五百歳に於いて仏を見て法を聞きて修行すること能わず。胎中に在るが如し。見聞する所なし。この故に説きて胎生を受くと名づくるなり」己上。興師もまた同じく諸師の釈を挙げて、おのおのその義を破し、遂に自義を成ず。彼の疏に釈して云わく「有るが説かく、更に往生あり。而も三輩にあらず。謂わく下の文の中に五智を疑う人なり。疑惑心の中に諸の功徳を修し、また罪福を信じ、少し善本を修して彼土に生ぜんと願ず。信不定なるを以ての故に前六にあらず。少し福を修するが故に、また後三にあらず。これに由りて九品の所摂に入らず。これまた然らず。帛・謙みな中輩の人は狐疑して信ぜず、彼の土に生ずといえども、その城中に在りて五百年に於いて仏を見ず、経を聞かず、聖を見ずという。必ずしも疑智の凡夫は九品に在らずというべからざるが故に。有るか説かく、決せざるを疑という。彼の国に生ずといえども、而も辺地に在り。別してこれ一類にして九品の摂にあらず。この故に妄に疑惑を生ずべからずと。これまた然らず。二経の説く所の中下の属いの所止の宝城、既に五百年、この経の疑智の凡夫所在の宝宮の如くなる、またこれ辺地なるべきが故に。爾らずんば便ち経(大阿弥陀経)に、所居〈居処する所〉の舎宅は地に在りて意に随いて高大にして虚空の中に在らしむること能わず、また阿弥陀仏を言える〈去る〉こと、それ〈甚だ〉大いに違す〈遠し〉といえるに違するが故に。有るが説かく、仏智を疑う人は、即ちこれ中輩と観経の中品となり。故に帛と謙との経の中に中輩を弁じて「持戒・布施・飲食沙門・作寺起塔の後に疑いて信ぜず。その人は暫くは信じ、暫くは信ぜず。続てその善を倍してして往生を得ることを願う。彼の国に生ずといえども、前んで無量寿仏の所に至ることを得ず。遙かに仏国界辺の自然の宝城を見て、五百歳に於いて見仏聞法することを得ず」といえるが故に。法護の経の中の疑仏の人にあらざるべからざるが故に。これまた然らず。帛と謙との下輩にまた路城に在りて五百年に於いて見仏を得ず。如何ぞ、疑智はただ中輩に在りて下にあらざらんや。もし中輩の疑智と修因相似せるが故に、中品に属すといえども、而も下にあらずというは、また下輩は果を受くること中品に似たるが故に疑仏智に摂すべし。果は相似すといえども、疑智に摂せず。因はまた同じといえども、何ぞ疑智なるべけんや。また彼が言う所の九品の内には、中上に属する理必ずしも然らず。観経の中上と、この経の疑智との、華開見仏聞法、獲利みな不同なるが故に、もし中上に自ずから多種あるが故にこの過なしといわば、もし中下もまた多種あるが故に疑を摂せざるが故に、今即ち仏の五智を疑うは、中下・下下の二生の所摂なり。これに由りて帛・謙に後の二輩は、みな城に在りて五百年に於いて、見仏・聞法・見聖することを得ずというが故に、もしは三輩、もしは九品、みな寛狭なく、往生を摂し尽す」已上。同師また経に胎宮を説きて百由旬・五百由旬という義の意を釈して云わく「百由旬とは、即ち下輩の疑仏所生の宮なり。五百由旬とは、則ち中輩の疑智所止の宮なり」已上。この師の意は三輩の内に胎生を摂するなり。問う、出だす所の釈はみな三輩に約して九品といわず、如何。答う、三輩・九品同異の義は、異解ありといえども、『撰択集』の意は既に輩品開合の義を存す。故に相違なし。SYOZEN2-375,376,377/TAI8-388,389

 〇而有等者挙其願名。其願名中修諸功徳。約其同行。臨終現前。約其利益。静照所立現前導生其意是同。智光御廟共立此名。但四字上又有行者命終一句。来迎引接其意又同。真源名云聖衆来迎。彼約所与。今約能与。能所雖異。共以来迎為其願意。至心発願約心願耳。SYOZEN2-377/TAI8-389
  〇「而有」等とは、その願名を挙ぐ。その願名の中に「修諸功徳」はその同行に約す。「臨終現前」はその利益に約す。静照所立の「現前導生」は、その意これ同じ。智光・御廟は共にこの名を立つ。但し四字の上にまた「行者命終」の一句あり。「来迎引接」はその意また同じ。真源は名づけて「聖衆来迎」という。彼は所与に約し、今は能与に約す。能所異るといえども、共に来迎を以てその願意と為す。「至心発願」は心願に約すらくのみ。SYOZEN2-377/TAI8-389

 ◎是以大経願言。設我得仏。十方衆生発菩提心修諸功徳。至心発願欲生我国。臨寿終時。仮令不与大衆囲遶現其人前者。不取正覚。
  ◎ここをもって『大経』の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、我が国に生まれんと欲わん。寿終の時に臨んで、たとい大衆と囲繞して、その人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。KESINDO:SYOZEN2-144/HON-327,HOU-437

 〇正引文中先挙願文。発菩等者。問。菩提心者安心起行之中何耶。答。若依導家意在起行。若安心者未発心人不可生。故随而黒谷選択集中判属起行。所謂三輩念仏往生章中釈云。捨家棄欲而作沙門発菩提心者。是助行也。亦是能助也。已上。又云。謂此三輩中通皆有菩提心等諸行。已上。若依鸞師。是応安心。謂論註云。三輩生中。雖行者有優劣。莫不皆発無上菩提之心。已上。問。二師之釈其義各別。可依何耶。答。可依導家。黒谷又属起行故也。修諸功徳是起行也。菩提心別。諸功徳総。総別合云発菩提心修諸功徳。至心発願是安心也。言仮令者。有云。不現非実。故云仮令。今云不爾。来迎仮益。故云仮令。当巻下云。仏心光明不照摂余行者也。仮令之誓願良有由哉。仮門之教忻求之釈是弥明也。己上。SYOZEN2-377,378/TAI8-427
  〇正しく文を引く中に、まず願文を挙ぐ。「発菩」等とは、問う、菩提心とは、安心起行の中には何ぞや。答う、もし導家に依れば、意は起行に在り。もし安心ならば未発心の人は生ずべからず。故に随いて黒谷の『選択集』の中に判じて起行に属す。いわゆる三輩念仏往生章の中に釈して云わく「捨家棄欲して沙門と作り菩提心等を発すとは、これ助行なり、またこれ能助なり」已上。また云わく「この三輩の中に通じてみな菩提心等の諸行ありという」已上。もし鸞師に依らば、これ安心なるべし。謂わく『論註』に云わく「三輩生の中に、行者に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発さざるはなし」已上。問う、二師の釈は、その義各別なり。何れに依るべきや。答う、導家に依るべし。黒谷また起行に属するが故なり。「修諸功徳」はこれ起行なり。菩提心は別なり。「諸功徳」は総なり。総別合して「菩提心を発し、諸の功徳を修し」という。「至心発願」はこれ安心なり。「仮令」というは、有るが云わく「不現は実にあらず。故に仮令という」。今は云わく、爾らず、来迎は仮益なり。故に「仮令」という。当巻の下に云わく「仏心の光明は余行の者を照摂せざるなり。仮令の誓願、良に由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよ明らかなり」己上。SYOZEN2-377,378,379/TAI8-427

 〇問。来迎是為行者所期。何云仮益。答。此有二義。一云。法事讃云。浄土荘厳諸聖衆籠籠常在行人前。已上。観経説云。無量寿仏化身無数。与観世音大勢至常来至此行人之所。已上。又同経中説念仏益云。観世音菩薩大勢至菩薩為其勝友。已上。散善義釈此経文云。専念弥陀名者。即観音勢至常随影護。亦如親友知識也。已上。故仏菩薩雖在眼前。煩悩障蔽不能得見。而命終時時至顕現。非始来也。凡弥陀仏依有名体不二道理。称其名号則具仏体。花座観云応声即現証得往生。蓋其義也。是故心行具足行人。臨命終時当称仏名。仏体則現。非従外来。約此義理謂之不来。但以顕現是名来迎。釈文顕説常途談耳。二云。法事讃云。一坐無移。亦不動。般舟讃云。一坐花台未曾動。已上。是顕真実報身相也。故言来者。只且所応迷情方便。是非実義。故涅槃云。我実不往。彼亦不来。慈善根力見如此事。已上。准之可思。但対心期来迎之機。必可感応。若約所達至理之機。不可必来。来而不来。不来而来。更無所違。莫拘偏見。深可思択。又群疑論第二巻云。問曰。金剛般若言。如来者無所従来。亦無所去故名如来。維摩経言。我観如来。前際不来。後際不去。今則不住。文殊師利言。不住亦不去。不取亦不捨。遠離六入故敬礼無所観。准此大乗諸聖教。説仏本不来。亦無有去。何因観経説有化仏来迎。随化仏住。有来有去与前経相違。釈曰。甚深実相平等妙理。法身如来本無生滅。以仏本願無限大悲接引衆生。従真起化十方世界。如来引接三輩九品。以化即真不来不去。随機応物。有往有還。前経拠化体即真。説無来去。観経拠従真流化現有往還。又西方有釈言。実無有仏従彼西方而来至此。授手迎接。亦無有仏引彼衆生往生浄土。但是如来慈悲本願功徳種子増上縁力。令諸衆生与仏有縁念仏修福作十六観。諸功徳力以為因縁。自心変現阿弥陀仏来迎行者。随仏往。言彼仏遣来。不是実遣。但是功徳種子。与所化生。時機正合令見化仏来迎。故言彼遣。而実不遣。阿弥陀仏悲願功徳湛然常寂。無去不来。衆生識心託仏本願功徳勝力。自心変化有来有去。迎接行人見有往生。是自心相分。非関化也。已上。SYOZEN2-378,379/TAI8-427,428
  〇問う、来迎はこれ行者の所期たり。何ぞ仮益というや。答う、これに二義あり。一に云わく、『法事讃』に云わく「浄土の荘厳・諸聖衆は籠籠として常に行人の前に在り」已上。『観経』に説きて云わく「無量寿仏の化身は無数なり。観世音・大勢至と、常にこの行人の所に来至す」已上。また同じき経の中に念仏の益を説きて云わく「観世音菩薩・大勢至菩薩はその勝友となりたもう」已上。『散善義』にこの経文を釈して云わく「専ら弥陀の名を念ずる者には、即ち観音・勢至は常随影護す。また親友知識の如し」已上。故に仏菩薩は眼前に在りといえども、煩悩障蔽して見ることを得ること能わず。而して命終の時、時至りて顕現す。始めて来るにあらざるなり。凡そ弥陀仏は名体不二の道理あるに依りて、その名号を称するに則ち仏体を具す。花座観に「声に応じて即ち現じたもうに、往生を証得す」(定善義)という。蓋しその義なり。この故に心行具足の行人は、命終の時に臨みて仏名を称するに当りて、仏体則ち現ず。外より来たるにあらず。この義理に約すれば、これを不来という。但し顕現を以て、これを来迎と名づく。釈文の顕説は常途の談ならくのみ。二に云わく、『法事讃』に云わく「一たび坐して移ることなし。また動ぜず」。『般舟讃』に云わく「一たび花台に坐して、未だかつて動ぜず」已上。これ真実報身の相を顕わすなり。故に来というは、ただ且く迷情に応ずる所の方便にして、これ実義にあらず。故に『涅槃』に云わく「我は実じ往かず。彼また来らず。慈善根の力、かくの如きの事を見る」已上。これに准じて思うべし。但し心に来迎を期する機に対せば、必ず感応すべし。もし至理に達する所の機に約せば、必ずしも来るべからず。来りて而も来らず、来らず而も来る、更に違う所なし。偏見に拘することなかれ。深く思択すべし。また『群疑論』第二巻に云わく「問うて曰わく、『金剛般若』に言わく、如来は従来する所なく、また去る所なし。故に如来と名づくと。『維摩経』に言わく、我、如来を観ずるに、前際よりも来らず、後際にも去らず。今も則ち住せずと。『文殊師利』の言わく、住せずして、また去らず。取らずして、また捨てず。六入を遠離するが故に無所観を敬礼すとのたまえり。この大乗の諸の聖教に准ずるに、仏は本より来たらず、また去ることあることなしと説く。何に因りては『観経』に化仏ありて来迎し、化仏に随いて住くと説く。来あり去ありて前の経と相違するか。釈して曰わく、甚深の実相、平等の妙理には、法身の如来は本より生滅なし。仏の本願、無限の大悲を以て衆生を接引するに、真より化を十方世界に起こす。如来は三輩九品を引接したもう。化即ち真なるを以て不来不去なり。機に随い、物に応ずるには、往あり、還あり。前の経には化の体は即ち真なるに拠りて、来去なしと説く。『観経』には真より化を流するに拠りて往還あることを現ず。また『西方』???に有るが釈して言わく、実に仏の彼の西方より而もここに来至して、授手迎接することあることなし。また仏の彼の衆生を引きて浄土に往生せしむることあることなし。ただこれ如来の慈悲本願の功徳種子の増上縁の力をもって諸の衆生をして仏と縁ありて念仏修福して十六観を作す。諸の功徳力を以て因縁と為して、自心に阿弥陀仏の行者を来迎し、仏に随いて往くことを変現せしむ。彼の仏の遣わし来たるというは、これ実に遣わすにはあらず。ただこれ功徳の種子と、所化の生と、時機正しく合して化仏来迎すと見せしむ。故に彼遣わすといえども、而も実には遣わさず。阿弥陀仏の悲願の功徳は湛然常寂にして無去不来なり。衆生の識心は仏の本願功徳の勝力に託して、自心に変化して来あり、去ありて、行人を迎接して往生することあると見る。これ自心の相分なり。化に関わるにあらざるなり」已上。SYOZEN2-378,379/TAI8-427,428

 〇大衆等者挙所与衆。大阿弥陀経説有菩薩声聞二衆。彼経説云。我即与諸菩薩阿羅漢共飛行迎之。已上。平等覚云。我与不可計比丘衆飛行迎之。已上。如来会云。我令無数[ヒツ01]芻現前囲遶。来迎彼人。已上。下之二経唯説比丘。問。所与之衆何不同乎。答。大阿弥陀経約上品生。自余二経約中品生且説之歟。或又故説所与不定顕其来迎仮令義歟。問。何標所与無能与耶。答。有所与者。可有能与理在絶言。随而異訳経等之中。皆有我字。是能与也。挙其所与必有能与弥陀仏也。SYOZEN2-379/TAI8-428,429
  〇「大衆」等とは、所与の衆を挙ぐ。『大阿弥陀経』には菩薩・声聞の二衆ありと説く。彼の経に説きて云わく「我即ち諸の菩薩・阿羅漢と共に飛行してこれを迎う」已上。『平等覚』に云わく「我、不可計の比丘衆と与に飛行してこれを迎う」已上。『如来会』に云わく「我、無数の[ヒツ01]芻をして現前囲遶せしめて、彼の人を来迎す」と已上。下の二経にはただ比丘を説く。問う、所与の衆は何ぞ不同なるや。答う、『大阿弥陀経』は上品の生に約す。自余の二経は中品の生に約して、且くこれを説くか。或いはまたことさらに所与の不定を説きて、その来迎仮令の義を顕わすか。問う、何ぞ所与を標して能与なきや。答う、所与あれば、能与あるべきこと、理在絶言なり。随いて異訳の経等の中に、みな我の字あり。これ能与なり。その所与を挙ぐるに必ず能与の弥陀仏あり。SYOZEN2-379/TAI8-428,429

 ◎悲華経大施品言。願我成阿耨多羅三藐三菩提已。其余無量無辺阿僧祇諸仏世界所有衆生。若発阿耨多羅三藐三菩提心。修諸善根欲生我界者。臨終之時。我当与大衆囲繞現其人前。其人見我。即於我前得心歓喜。以見我故離諸障碍。即便捨身来生我界。已上。
  ◎『悲華経』の「大施品」に言わく「願わくは我阿耨多羅三藐三菩提を成し已らんに、その余の無量無辺阿僧祇の諸仏世界の所有の衆生、もし阿耨多羅三藐三菩提心を発し、もろもろの善根を修し、我が界に生ぜんと欲う者、臨終の時、我まさに大衆と囲繞して、その人の前に現ずべし。その人、我を見て、即ち我が前に於いて心に歓喜を得ん。我を見るを以ての故に、もろもろの障碍を離れて、すなわち身を捨てて、我が界に来生せん」と已上。KESINDO:SYOZEN2-144/HON-327,HOU-437

 〇次悲華経。其文大同。SYOZEN2-380/TAI8-446
  〇次に『悲華経』、その文は大いに同じ。SYOZEN2-380/TAI8-446

 ◎此願成就文者。即三輩文是也。観経定散九品之文是也。
  ◎(御自釈)この願成就の文は、すなわち三輩の文これなり。『観経』の定散九品の文これなり。KESINDO:J:SYOZEN2-144/HON-327,HOU-437,438

 〇次此願下一行余者。私御釈也。観経等者。問。九品之行是散善也。何云定散。答。総標定散。其二善中別挙散善之中九品。三輩九品為一機故標九品也。SYOZEN2-380/TAI8-449
  〇次にこの願の下一行余は、私の御釈なり。『観経』等とは、問う、九品の行は、これ散善なり。何ぞ定散というや。答う、総じて定散を標す。その二善の中に別して散善の中の九品を挙ぐ。三輩九品は一機たるが故に九品を標するなり。SYOZEN2-380/TAI8-449

 ◎又大経言。又無量寿仏。其道場樹高四百万里。其本周囲五十由旬。枝葉四布二十万里。一切衆宝自然合成。以月光摩尼持海輪宝衆宝之王而荘厳之。乃至。阿難。若彼国人天見此樹者得三法忍。一者音響忍。二者柔順忍。三者無生法忍。此皆無量寿仏威神力故。本願力故。満足願故。明了願故。堅固願故。究竟願故。乃至。又講堂精舎宮殿楼観。皆七宝荘厳。自然化成。復以真珠明月摩尼衆宝以為交露。覆蓋其上。内外左右有諸浴池。或十由旬、或二十三十、乃至、百千由旬。縦広深浅各皆一等。八功徳水湛然盈満。清浄香潔味如甘露。
  ◎また『大経』に言わく、また無量寿仏のその道場樹は高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に布きて二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝、衆宝の王たるを以て、これを荘厳せり。乃至。阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得。一には音響忍、二には柔順忍、三には無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力の故に、本願力の故に、満足願の故に、明了願の故に、堅固願の故に、究竟願の故に。乃至。また講堂・精舎・宮殿・楼観みな七宝をもって荘厳し、自然に化成せり。また真珠・明月摩尼・衆宝を以て、以て交露とす。その上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。あるいは十由旬あるいは二十・三十、乃至、百千由旬。縦広深浅おのおのみな一等なり。八功徳水湛然として盈満せり。清浄香潔にして、味わい甘露のごとし。KESINDO:SYOZEN2-144,145/HON-327,328,HOU-438

 〇次大経文。明道場樹。問。道場樹者。既是極楽浄土道樹。定是可報。何属化耶。答。此道場樹与仏身量不相応故。諸師各作種種異解。其中興師存仏身報此道場樹為化土義。又玄一師設三義中。初義同之。集主之意依此等義判属化也。謂興師云。又無量寿仏至随応而現者。述云。第二弁道場樹有三。此初道樹昇相也。一里三百歩故。四百万里十二万由旬。応知前菩薩小土見道場願而所成也。有説随彼仏身高六十万億那由他恒河沙由旬。以仏神力故。縦小道場樹。不相妨碍。若爾所余宮殿不応各称其形大小故。今則彼経仏量既他受用身故。此道樹即化土故不相違也。二十万里者。六十千由旬応不称其本量故。又有云二百万里。蓋是正也。已上。玄一師云。観経所明仏約他受用門而顕殊勝。此経所明樹約変化辺。故無相違。謂若変化身者短於樹故。二云。仏徳不可思議。彼広長身蔭於一尺樹。於仏非難。況四百万里者也。三云。此云四百万里者仏頂已上。去仏足量。若弁仏身相称之長則是六十万億那由他恒河沙由旬。有余四百万里也。亦可彼仏尺出於所計四百万里。已上。文中高四百万里者。於此樹量経説不同。宝積経云若百千由旬。而彼宝積願成就云高十六由旬。如願文者言百千者是当十万。則是一億。成就文言高十六億由旬者。倍其上量十万億也。会此相違言百千者非指十万。只標数耳。又悲花云。縦広正等一万由旬。異訳意別不須和会。月光等者。摩尼珠中有其多種。月光持海共是其摂。而荘厳下。阿難若上言乃至者。自周[ソウ01]条至無悩患九行是也。彼文之中独明樹相。又明樹徳。言其徳者。見聞獲利自土他土得益等也。繁故略之。次阿難下列得忍別。次此皆下明得忍由。興師言之本願獲利。就此経文所設興釈在第二巻。仍新末中粗加愚勘。依此仏力所得益故。今三法忍彼巻之中雖不被引。同註解訖。次乃至者。仏告之下至為第一五行余也。彼文之中。嘆極楽世界宝樹伎楽音声。先挙余楽此[キョウ01]顕勝。後嘆極楽世界伎楽。繁故且略。次所引之又講堂下。是明宮殿。自文之初至云化成。明宮殿相。言講堂者。是説法処。下巻説云七宝講堂広宣道教。則此処也。言精舎者。則寺名也。復以以下至蓋其上。明荘厳相。真珠等者。挙能荘厳。一義云。真珠即明月珠。今加愚案。真珠是総。明月別歟。言摩尼者。是別珠也。故法花云。真珠瓔珞摩尼珠瓔珞。已上。言衆宝者。言摩尼等之衆宝也。一義云。明月珠者則摩尼也。摩尼之中有明月珠。明月珠者即上所言月光摩尼。千手経説日精摩尼月精摩尼。其月精者則此珠也。内外以下明宝池相。言内外者。今此宝池在于宮内。在于宮外。故云内外。此義見彼平等覚経大阿弥陀経。或十等者。是明浴池深広不同。各皆等者随池分量縦広深浅皆同池量。十由旬者。縦広亦同。乃至。池量千由旬者。縦広亦等。八功徳者。是明池水有其八功徳。是故称云八功徳池。八功徳者。定善義云。一者清浄潤沢。即是色入摂。二者不臭。則是香入摂。三者軽。四者冷。五者軟。則是触入摂。六者美。是味入摂。七者飲時調適。八者飲已無患。是法入摂。已上。今言清浄香潔甘露。八徳之中且挙第一二六徳也。問。所言講堂精舎以下何属化土。答。其真土相究竟如空不可具見。不可具説。不可説之妙境界也。如此荘厳皆是有相。為引他方凡聖類也。仍属化相。則経文説正言化成。化字宜思。宮殿等然。宝池准之。SYOZEN2-380,381,382/TAI8-452,454,455
  〇次に『大経』の文、道場樹を明かす。問う、道場樹とは、既にこれ極楽浄土の道樹なり。定めてこれ報なるべし。何ぞ化に属するや。答う、この道場樹と仏の身量と相応せざるが故に。諸師おのおの種種の異解を作す。その中に興師は仏身は報、この道場樹は化土たる義を存す。また玄一師は三義を設けたる中に、初の義はこれに同じ。集主の意はこれらの義に依りて判じて化に属するなり。謂わく、興師の云わく「また無量寿仏より随応而現に至るまでは、述して云わく、第二に道場樹を弁ずるに三あり。これは初め道樹の昇相なり。一里三百歩なるが故に、四百万里は十二万由旬なり。応に知るべし、前の菩薩小土をもって道場を見んと願じて成ずる所なり。有るが説かく、彼の仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なるに随いて、仏の神力を以ての故に、たとい小道場樹なれども、相妨碍せず。もし爾らば、所余の宮殿もおのおのその形の大小に称うべからざるが故に、今は則ち彼の経の仏量は既に他受用身なるが故に、この道樹は即ち化土なるが故に相違せざるなり。二十万里とは、六十千由旬、その本量に称うべからざるが故に。また有るが云わく、二百万里、蓋しこれ正なり」已上。玄一師の云わく「観経に明かす所の仏は他受用門に約して殊勝なることを顕わす。この経に明かす所の樹は変化の辺に約す。故に相違なし。謂わく、もし変化身なれば樹よりも短きが故に。二に云わく、仏徳不可思議なり。彼の広長の身は一尺の樹に蔭〈かく〉さんに、仏に於いて難にあらず。況んや四百万里なる者をや。三に云わく、ここに四百万里というは、仏頂より已上なり。仏足を去る量は、もし仏身相称の長〈たけ〉を弁ぜば、則ちこれ六十万億那由他恒河沙由旬にして、余四百万里あるなり。また彼の仏尺をもって所計の四百万里を出ずるべし」已上。文の中に「高四百万里」とは、この樹量に於いて経説不同なり。『宝積経』には「もしは百千由旬」という。而るに彼の『宝積』の願成就には「高十六由旬」という。願文の如きは、「百千」というはこれ十万に当たる。則ちこれ一億なり。成就の文に「高十六億由旬」というは、その上の量に倍して十万億なり。この相違を会するに「百千」というは、十万を指すにあらず。ただ数を標するのみ。また『悲花』に云わく「縦広正等にして一万由旬なり」。異訳は意別なり、和会すべからず。「月光」等とは、摩尼珠の中にその多種あり。月光持海ともにこれその摂なり。「而荘厳」の下、「阿難若」の上に「乃至」というは、「周[ソウ01]条」より「無悩患」に至るまでの九行これなり。彼の文の中に独り樹相を明かし、また樹徳を明かす。その徳というは、見聞獲利、自土他土の得益等なり。繁なるが故にこれを略す。次に「阿難」の下は得忍の別を列ぬ。次に「此皆」の下は得忍の由を明かす。興師はこれを本願獲利という。この経文に就きて設くる所の興の釈は第二巻にあり。仍て新末の中にほぼ愚勘を加う。この仏力に依りて得る所の益なるが故に、今の三法忍は彼の巻の中に引かれずといえども、同じく註解し訖りぬ。次に「乃至」とは、「仏告」の下、「為第一」に至るまでの五行余なり。彼の文の中に極楽世界の宝樹の伎楽音声を嘆ずるに、まず余の楽を挙げて此[キョウ01]顕勝し、後に極楽世界の伎楽を嘆ず。繁なるが故に且く略す。次に引く所の「又講堂」の下は、これ宮殿を明かす。文の初より、「化成というに至るまでは、宮殿の相を明かす。「講堂」というは、これ説法の処なり。下巻に説きて「七宝の講堂にして広く道教を宣ぶ」という。則ちこの処なり。「精舎」というは、則ち寺の名なり。「復以」以下、「蓋其上」に至るまでは、荘厳の相を明かす。「真珠」等とは。能荘厳を挙ぐ。一義に云わく、真珠とは即ち明月珠なり。今、愚案を加うるに、真珠はこれ総、明月は別なるか。「摩尼」というは、これ別の珠なり。故に『法花』に云わく「真珠瓔珞・摩尼珠瓔珞」已上。「衆宝」というは摩尼等の衆宝なり。一義に云わく、明月珠とは則ち摩尼なり。摩尼の中に明月珠あり。明月珠とは即ち上に言う所の月光摩尼なり。『千手経』に「日精摩尼・月精摩尼」と説く。その月精とは則ちこの珠なり。「内外」以下は宝池の相を明かす。「内外」というは、今この宝池は宮内に在り、宮外に在り。故に内外という。この義は彼の『平等覚経』『大阿弥陀経』に見えたり。「或十」等とは、これ浴池深広の不同を明かす。「各皆」等とは池の分量に随いて縦広深浅はみな池の量に同じ。「十由旬」ならば、縦広また同じ。乃至、池の量、千由旬ならば、縦広また等し。「八功徳」とは、これ池水にその八功徳あることを明かす。この故に称して八功徳池という。「八功徳」とは。「定善義」に云わく「一には清浄潤沢なり。即ちこれ色入の摂なり。二には臭からず。即ちこれ香入の摂なり。三には軽く、四には冷なり。五には軟なり。即ちこれ触入の摂なり。六には美なり。これ味入の摂なり。七には飲む時調適す。八には飲み已りて患なし。これ法入の摂なり」已上。今「清浄香潔甘露」というは、八徳の中に且く第一・二・六の徳を挙ぐるなり。問う、言う所の講堂精舎以下は何ぞ化土に属するや。答う、その真土の相は究竟して空の如く、具に見るべからず、具に説くべからず、不可説の妙境界なり。この如きの荘厳は皆これ有相なり。他方の凡聖類を引せんと為すなり。仍て化相に属す。則ち経文に説きて正しく「化成」という。化の字、宜しく思うべし。宮殿等も然なり。宝池はこれに准ず。SYOZEN2-380,381,382/TAI8-452,454,455

 ◎又言。其胎生者所処宮殿。或百由旬或五百由旬。各於其中受諸快楽。如[トウ01]利天上。亦皆自然。爾時慈氏菩薩白仏言。世尊。何因何縁。彼国人民胎生化生。仏告慈氏。若有衆生。以疑惑心修諸功徳願生彼国。不了仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智。於此諸智疑惑不信。然猶信罪福修習善本願生其国。此諸衆生生彼宮殿。寿五百歳。常不見仏。不聞経法。不見菩薩声聞聖衆。是故彼国土謂之胎生。乃至。弥勒当知。彼化生者智慧勝故。其胎生者皆無智慧。乃至。仏告弥勒。譬如転輪聖王。有七宝牢獄。種種荘厳。張設牀帳。懸諸[ゾウ02]幡。若諸小王子得罪於王。輒囚彼獄中。繋以金鎖。乃至。仏告弥勒。此諸衆生亦復如是。以疑惑仏智故生彼胎宮。乃至。若此衆生識其本罪。深自悔責求離彼処。乃至。弥勒当知。其有菩薩生疑惑者。為失大利。已上抄出。
  ◎(大経)また言わく、それ胎生の者は処するところの宮殿、あるいは百由旬なり、あるいは五百由旬なり。おのおのその中に於いてもろもろの快楽を受く。[トウ01]利天上のごとし。またみな自然なり。その時に慈氏菩薩、仏に白して言さく、世尊、何の因・何の縁あってか、かの国の人民、胎生・化生なる。仏、慈氏に告げたまわく、もし衆生ありて、疑惑の心をもってもろもろの功徳を修して、かの国に生まれんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなお罪福を信じ、善本を修習して、その国に生まれんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生じて、寿五百歳、常に仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず。このゆえにかの国土、これを胎生という。乃至。弥勒、当に知るべし。かの化生の者は智慧勝れたるがゆえに。その胎生の者は、みな智慧なきなり。乃至。仏、弥勒に告げたまわく、たとえば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄ありて、種種に荘厳し牀帳を張設し、もろもろの[ゾウ02]幡を懸けたらんに、もろもろの小王子、罪を王に得れば、すなわちかの獄の中に囚れて、繋ぐに金鎖をもってせん。乃至。仏、弥勒に告げたまわく、このもろもろの衆生またかくのごとし。仏智を疑惑するをもってのゆえに、かの胎宮に生じて、乃至。もしこの衆生、その本の罪を識りて、深く自ら悔責して、かの処を離るることを求めん。乃至。弥勒、当に知るべし。それ菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失すとすと。已上抄出KESINDO:SYOZEN2-145/HON-328,329,HOU-438,439

 〇次所引者同下巻文。是説化生胎生之相。顕明仏智信疑得失之誠説也。於当段中所引之上所除之文余二十行。仏告阿難汝起以下是其文也。彼所除者。如来告命阿難対曰並所見等。今所引下正所説也。其胎等者。問。胎生辺地同異如何。答。是同処也。鸞師所造略論釈曰。安楽国土謂之辺地。亦曰胎生。辺地者。言其五百歳中不見聞三宝義。同辺地之難。乃至。辺言其難。胎言其闇。已上。或百由旬。或五百由旬者。見上所引興師釈也。爾時慈氏菩薩以下。具説胎化二生因果。不了等者。略論委釈。宜見彼解。鸞師之意仏智為総。次四為別。法位師意不思議等四智。如次配大円鏡智等之四智。元暁師意逆次配当。又憬興師以仏地経所説五法立為五智。所謂清浄法界以為初之仏智。大円鏡等如次配彼不思議等之四智也。又玄一師仏智如前。以後四智逆対成事等之四也。言乃至者。於此経文略有五処。或似重説譲其前文。或恐繁故除非至要。仏告弥勒譬如等者。為示胎生不可楽義。先説譬喩。此諸等者。是合譬也。生彼胎者。本云宮殿。今云胎宮。経異本歟。定善義中判云胎宮。言胎生者。宮殿故有此等名。問。生疑惑機宮中必満五百歳耶。答。如経文者。処処皆説経五百歳。先可云満。但嘉祥云。明不必一種。若能悔則出。不悔必満五百歳。已上。失大利者。不見三宝名之為失。SYOZEN2-382,383/TAI8-470,471
  〇次の所引は同じき下巻の文。これ化生・胎生の相を説きて、仏智信疑の得失を顕明する誠説なり。当段の中に於いて所引の上に除く所の文は二十行に余る。「仏告阿難汝起」以下、これその文なり。彼の除く所は、如来の告命と、阿難の対曰と、並びに所見等なり。今の所引の下は正しき所説なり。「其胎」等とは、問う、胎生と辺地と同異は如何。答う、これ同処なり。鸞師所造の『略論』に釈して曰わく「安楽国土に、これを辺地といい、また胎生という。辺地とは、言うこころは、その五百歳の中に三宝を見聞せず。義は辺地の難に同じ。乃至。辺はその難をいい、胎はその闇をいう」已上。「或いは百由旬、或いは五百由旬」とは、上の所引の興師の釈に見えたり。「爾時慈氏菩薩」以下は、具に胎・化二生の因果を説く。「不了」等とは『略論』に委しく釈す。宜しく彼の解を見るべし。鸞師の意は「仏智」を総とし、次の四を別とす。法位師の意は「不思議」等の四智は、次の如く大円鏡智等の四智に配す。元暁師の意は逆次に配当す。また憬興師は『仏地経』所説の五法を以て立てて五智と為す。いわゆる清浄法界を以て初の「仏智」と為し、大円鏡等を次の如く彼の「不思議」等の四智に配するなり。また玄一師は、「仏智」は前の如し。後の四智を以て逆に成事等の四に対するなり。「乃至」というは、この経文に於いて略するに五処あり。或いは重説に似たればその前文に譲り、或いは繁を恐るるが故に至要にあらざるを除く。「仏告弥勒譬如」等とは、胎生の楽しむべからざる義を示さんが為に、まず譬喩を説く。「此諸」等とは、これ合譬なり。「生彼胎」とは、本には「宮殿」といい、今は「胎宮」という。経の異本か。「定善義」の中に判じて「胎宮」という。「胎生」というは宮殿なるが故にこれらの名あり。問う、生疑惑の機は宮中にして必ず五百歳を満ずるや。答う、経文の如きは、処処にみな五百歳を経と説く。まず満ずというべし。但し嘉祥の云わく「必ずしも一種ならず。もし能く悔いれば則し出ず。悔いざれば必ず五百歳を満ずることを明かす」已上。「失大利」とは、三宝を見ざる、これを名づけて失と為す。SYOZEN2-382,383/TAI8-470,471

 ◎如来会言。仏告弥勒。若有衆生。随於疑悔積集善根。希求仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智。於自善根不能生信。以此因縁。於五百歳住宮殿中。乃至。阿逸多。汝観殊勝智者。彼因広慧力故。受彼化生於導華中。結跏趺座。汝観下劣之輩。乃至。不能修習諸功徳。故無因奉事無量寿仏。是諸人等皆為昔縁疑悔所致。乃至。仏告弥勒。如是如是。若有随於疑悔種諸善根希求仏智乃至広大智。於自善根不能生信。由聞仏名起信心故。雖生彼国。於蓮華中不得出現。彼等衆生処華胎中。猶如園苑宮殿之想。抄要。
  ◎『如来会』に言わく、仏、弥勒に告げたまわく、もし衆生ありて、疑悔に随いて、善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智を希求せん。自ら善根において信を生ずることあたわず。この因縁をもって、五百歳において宮殿の中〈うち〉に住せん。乃至。阿逸多、汝、殊勝智の者を観ずる、彼は広慧の力に因るがゆえに、かの導華の中に化生することを受けて、結跏趺座せん。汝、下劣の輩を観ずるに、乃至。もろもろの功徳を修習することあたわず。故に因なくして無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人等は、みな昔の縁、疑悔をなして致すところなればなりと。乃至。仏、弥勒に告げたまわく、かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随いてもろもろの善根を種えて、仏智、乃至、広大智を希求することありて、自ら善根において信を生ずることあたわず。仏の名を聞くに由って信心を起こすがゆえに、かの国に生まるといえども、蓮華の中にして出現することを得ず。彼等の衆生、華胎の中〈うち〉に処すること、なおし園苑宮殿の想のごとしと。抄要。KESINDO:SYOZEN2-145,146/HON-329,HOU-439,440

 〇次如来会。文言大同。汝観殊勝智者等者。指信智人。大経説言彼化生者智慧勝故。已上。故云殊勝智者而已。於導華者導異本歟。蓮字為正。下劣輩者指疑智人。大経説言無有智慧。疑惑所致。已上。是其人也。SYOZEN2-383/TAI8-491
  〇次に『如来会』。文言は大いに同じ。「汝観殊勝智者」等とは、信智の人を指す。『大経』には説きて「彼の化生の者は智慧勝れたるが故に」と已上。故に「殊勝智者」というらくのみ。「於導華」とは「導」は異本か。「蓮」の字を正と為す。「下劣の輩」とは疑智の人を指す。『大経』には説きて「智慧あることなし、疑惑の致す所なり」と已上。これその人なり。SYOZEN2-383/TAI8-491

 ◎大経言。諸小行菩薩。及修習少功徳者。不可称計。皆当往生。
  ◎『大経』に言わく、もろもろの小行の菩薩、および少功徳を修習する者、称計すべからず、みな当に往生すべし。KESINDO:SYOZEN2-146/HON-329,HOU-440

 〇次大経文。是説菩薩乗彼仏智往生文故。次下引之。彼明此土他方菩薩往生。其中今説此土之中最下浅位往生文也。諸小行者。是指十信外凡之位。対上説云不退故也。其不退者。是則三賢不退位也。問。何除上位不退菩薩之往生哉。答。彼文在于第三巻未。故略之歟。SYOZEN2-383/TAI8-499
  〇次に『大経』の文。これ菩薩は彼の仏智に乗じて往生することを説く文なるが故に。次下にこれを引く。彼は此土・他方の菩薩の往生を明かす。その中に今は此土の中に最下浅位の往生を説く文なり。「諸小行」とは、これ十信外凡の位を指す。上の説に「不退」というに対するが故なり。その不退とは、これ則ち三賢不退の位なり。問う、何ぞ上位不退の菩薩の往生を除くや。答う、彼の文は第三巻の未に在り。故にこれを略すか。SYOZEN2-383/TAI8-499

 ◎又言。況余菩薩由少善根生彼国者。不可称計。已上。
  ◎(如来会)また言わく、いわんや余の菩薩、少善根に由ってかの国に生まるる者、称計すべからず。已上。KESINDO:SYOZEN2-146/HON-329,HOU-440

 〇次所引文。又者如例。問。今之二文説信仏智往生菩薩。是化生也。於当巻説胎生化生往生之中何引之耶。答。経文所説信疑化胎更互相対顕其勝劣。是故引之。SYOZEN2-383/TAI8-501
  〇次の所引の文、「又」とは例の如し。問う、今の二文は信仏智の往生の菩薩を説く。これ化生なり。当巻に胎生・化生の往生を説く中に於いて、何ぞこれを引くや。答う、経文の所説は信・疑、化・胎、更に互に相対してその勝劣を顕わす。この故にこれを引く。SYOZEN2-383/TAI8-501

 ◎光明寺釈云。含華未出。或生辺界。或堕宮胎。已上。
  ◎(定善義)光明寺の釈に云わく、華に含まれて未だ出でず、あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕すと。已上。KESINDO:SYOZEN2-146/HON-330,HOU-440

 〇次宗師釈。是地観中解必生彼国心得無疑之文釈也。含花等者。是明疑心往生之相。蓋雖有疑。猶得往生。仏大悲故。雖得往生。此是化土。非本願故。辺界宮胎名異処同。言辺界者。是顕化土非其報土。言宮胎者。是顕処宮処胎之失。唯是綺言示得失也。言其得者是得往生。言其失者。非報土耳。SYOZEN2-384/TAI8-502,503
  〇次に宗師の釈。これ地観の中に「かならず彼の国に生ず。心に疑いなきことを得」の文を解する釈なり。「含花」等とは、これ疑心往生の相を明かす。蓋し疑ありといえども、猶し往生を得。仏の大悲の故に。往生を得といえども、これはこれ化土なり。本願にあらざるが故に。辺界・宮胎は名異処同なり。「辺界」というは、これ化土にして、その報土にあらざることを顕わす。「宮胎」というは、これ宮に処し胎に処するの失を顕わす。ただこれ言を綺〈いろ〉えて得失を示すなり。その得というは、これ往生を得るなり。その失というは、報土にあらざるのみ。SYOZEN2-384/TAI8-502,503

 ◎憬興師云。由疑仏智。雖生彼国而在辺地。不被聖化事。若胎生宜之重捨。已上。
  ◎(述文讃)憬興師の云わく、仏智を疑うに由って、かの国に生ずといえども、而も辺地にありて、聖化の事を被らず。もし胎生せば、宜しくこれを重く捨つべし。已上。KESINDO:SYOZEN2-146,/HON-330,HOU-440

 〇次憬興釈。是又意同。疑仏智者。雖是罪咎生浄土者仏大悲心也。而雖得生。在其辺地不被聖化。是疑惑失。信疑別故報化又異。胎生之失。可重捨也。SYOZEN2-384/TAI8-506
  〇次に憬興の釈。これまた意は同じ。「仏智と疑う」とは、これ罪咎なりといえども浄土に生ずるは仏の大悲心なり。而も生ずることを得るといえそも、その辺地に在りて聖化を被らず。これ疑惑の失なり。信疑別なるが故に報化また異なり。胎生の失は、重く捨つべきなり。SYOZEN2-384/TAI8-506

 ◎首楞厳院要集引感禅師釈云。問。菩薩処胎経第二説。西方去此閻浮提十二億那由他。有懈慢界。乃至。発意衆生欲生阿弥陀仏国者。皆深著懈慢国土。不能前進生阿弥陀仏土。億千万衆。時有一人能生阿弥陀仏国云云。以此経准難。可得生。答。群疑論引善導和尚前文而釈此難。又自助成云。此経下文言。何以故。皆由懈慢執心不牢固。是知。雑修之者為執心不牢之人。故生懈慢国也。若不雑修専行此業。此即執心牢固。定生極楽国。乃至。又報浄土生者極少。化浄土中生者不少。故経別説実不相違也。已上略抄。
  ◎(往生要集)首楞厳院の『要集』に、感禅師の釈(群疑論)を引きて云わく、「問う、『菩薩処胎経』の第二に説かく、西方この閻浮提を去ること十二億那由他に懈慢界あり。乃至。意を発せる衆生、阿弥陀仏国に生まれんと欲する者、みな深く懈慢国土に著して、前進〈前進 すす〉んで阿弥陀仏国に生まるることあたわず。億千万の衆、時に一人ありて、よく阿弥陀仏国に生ずと云云。この経をもって准難するに、生を得べきや」。答う、『群疑論』に善導和尚の前の文を引きて、而もこの難を釈して、また自ら助成して云わく、「この経の下の文に言わく、何をもってのゆえに、みな懈慢に由って執心牢固ならず。ここに知りぬ、雑修の者は執心不牢の人とす。故に懈慢国に生ずるなり。もし雑修せずして専らこの業を行ぜば、これすなわち執心牢固にして、定めて極楽国に生ぜん。乃至。また報の浄土に生ずる者は極めて少なし、化の浄土の中〈うち〉に生ずる者は少なからず。故に経の別説、実に相違せざるなり」。已上略抄。KESINDO:SYOZEN2-146,147/HON-330,HOU-440,441

 〇次要集文。明懈慢界下巻釈也。処胎経者一部五巻。或為四巻。或為八巻。竺仏念訳。言乃至者。国土快楽作倡以下二行余也。彼明土相。強非要。故今略其文。感師釈者。彼群疑論七巻之内。今所引釈在彼第四。指導師釈言前文者。集次上云。導和尚云。若能如上念念相続畢命為期者。十即十生。百即百生。若欲捨専修雑業者。百時希得一二。千時希得三五。已上。今此釈者。往生礼讃前序文也。論所引者取意文故。其言聊異。彼釈文云。善導禅師。勧諸四衆。専修西方浄土業者。四修靡墜三業無雑廃余一切諸願諸行。唯願唯行西方一行。雑修之者万不一生。専修之人千無一失。已上。自助成者。則云此経下文。以下是其釈也。生極楽下。又報浄土上。言乃至者。集置此言所略之文七行余也。彼解釈云。妙符随願往生経旨。経言。娑婆世界人。多貪濁。信正者少。習邪者多。不信正法不能専一。心乱無志。実十方浄土。無差別令諸衆生専心有在。是故讃嘆彼国土耳。諸往生者。悉随彼願無不獲果。故知。雑其行堕於懈慢之邦。専其業生於安楽国。斯乃更顕浄門専行而得往生。豈是彼国難往而無生。勗哉学徒不可有不専其道也。已上。SYOZEN2-384,385/TAI8-508
  〇次に『要集』の文。懈慢界を明かす下巻の釈なり。『処胎経』とは一部五巻。或いは四巻と為し、或いは八巻と為す。竺仏念の訳なり。「乃至」というは、「国土快楽作倡」以下の二行余なり。彼は土の相を明かす。強いて要にあらざるが故に今はその文を略す。感師の釈とは、彼の『群疑論』七巻の内、今の所引の釈は彼の第四に在り。導師の釈を指して「前の文」というは、『集』(往生要集)の次上に云わく「導和尚の云わく、もし能く上の如く念念相続して畢命を期と為る者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。もし専を捨てて雑業を修ぜんと欲する者は、百の時に希に一・二を得、千の時に希に三・五を得」已上。今この釈は『往生礼讃』前序の文なり。論の所引は取意の文なるが故に、その言は聊か異なり。彼の釈文に云わく「善導禅師。諸の四衆を勧めて、専ら西方浄土の業を修せん者は、四修墜つることなく、三業雑することなく、余の一切の諸願諸行を廃して、西方の一行を唯願唯行せば、雑修の者は万に一りも生ぜず、専修の人は千に一りも失することなし」已上。「自助成」とは、則ち「この経の下の文」という以下、これその釈なり。「生極楽」の下、また「報浄土」の上に「乃至」というは、『集』にこの言を置きて略する所の文、七行余なり。彼の解釈に云わく「妙に随願往生経の旨に符えり。経に言わく、娑婆世界の人は貪濁多くして、信正なる者は少なく、習邪の者は多し。正法を信ぜずして専一なること能わず。心乱れて志なし。実に十方の浄土は差別なけれども、諸の衆生をして心を専らにして在ることあらしむ。この故に彼の国土を讃嘆すらくのみ。諸の往生の者は、悉く彼の願に随いて果を獲ることなしといえり。故に知りぬ。その行を雑するは、懈慢の邦に堕し、その業を専にすれば安楽国に生ず。これ乃ち更に浄門は専行にして往生を得ることを顕わす。あにこれ彼の国の往き難くして生ずることなけんや。勗〈つと〉めよや。学徒、その道を専らにせずんばあるべからざるなり」已上。SYOZEN2-384,385/TAI8-508

 ◎爾者。夫按楞厳和尚解義。念仏証拠門中。第十八願者。顕開別願中之別願。観経定散諸機者。勧励極重悪人唯称弥陀也。濁世道俗善自思量己能也。応知。
  ◎(御自釈)しかればそれ楞厳和尚の解義を案ずるに、念仏証拠門の中に、第十八の願は別願の中の別願なりと顕開したまえり。『観経』の定散の諸機は極重悪人唯称弥陀と勧励したまえるなり。濁世の道俗、善く自ら己が能を思量せよとなり。知るべし。KESINDO:J:SYOZEN2-147/HON-330,331,HOU-441-

 〇次爾者下私御釈也。此自解意。専明定散諸善之業非仏願故。不生報土。而説諸善。是為念仏三昧方便。念仏証拠門中第十八願者。要集所明十門之中。第八之門。下巻明之。於彼門内出十文中。第三所挙十八願也。顕開等者。問。今具文云。四十八願中於念仏門別発一願云。乃至十念。若不生者不取正覚。已上。彼此二文唯云別願。二重之別有何拠乎。答。念仏門者諸善之中為其別門。而於念仏其言可亘観念並諸仏名。今顕選択本願称名。以之為別。故有二重。選択集釈其意又同。謂以当願為願王是。例如観経唯言頓教。黒谷観経講釈中云頓中頓也。観経定散諸機等者。同証拠門第四文也。SYOZEN2-385/TAI8-517,518
  〇次に「爾者」の下は私の御釈なり。この自解の意は、専ら定散諸善の業は仏願にあらざるが故に報土に生ぜず、而も諸善を説くことは、これ念仏三昧の方便たることを明かす。念仏証拠門の中の第十八願とは、『要集』に明かす所の十門の中に第八の門、下巻にこれを明かす。彼の門の内に於おて十文を出だす中に、第三に挙ぐる所の十八の願なり。「顕開」等とは、問う、今の具なる文に云わく「四十八願の中に念仏門に於いて別して一願を発して云わく、乃至十念、もし生ぜずは、正覚を取らじ」已上。彼此の二文は、ただ「別願」という。二重の別、何に拠ありや。答う、念仏門は諸善の中にその別門たり。而るに念仏に於いて、その言は観念と並びに諸仏の名に亘るべし。今は選択本願の称名を顕わす。これを以て別と為す。故に二重あり。『選択集』の釈、その意また同じ。謂わく当願を以て願王〈願主〉と為す、是なり。例せば『観経』にはただ「頓教」といい、黒谷の『観経』の講釈の中に「頓中頓」というが如きなり。「観経の定散の諸機」等とは、同じき証拠門の第四文なり。SYOZEN2-385/TAI8-517,518

 ◎問。大本三心与観経三心。一異云何。答。依釈家之意按無量寿仏観経者。有顕彰隠密義。言顕者。即顕定散諸善。開三輩・三心。然二善・三福非報土真因。諸機三心自利各別。而非利他一心。如来異方便・忻慕浄土善根。是此経之意。即是顕義也。言彰者。彰如来弘願。演暢利他通入一心。縁達多・闍世悪逆。彰釈迦微咲素懐。因韋提別選正意。開闡弥陀大悲本願。斯乃此経隠彰義也。
  ◎(御自釈)問う。『大本』の三心と、『観経』の三心と、一異いかんぞや。答う。釈家の意に依って、『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕というは、すなわち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなわちこれ顕の義なり。彰というは、如来の弘願を彰わし、利他通入の一心を演暢す。達多・闍世の悪逆に縁って、釈迦微笑の素懐を彰わす。韋提別選の正意に因って、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなわちこの経の隠彰の義なり。KESINDO:J:-HON-331,HOU-441,442-

 〇次問答中。問意可見。其答之中。言釈家者導大師也。今就観経被述自解。顕彰等者。問。於顕与彰有何別乎。答。今釈之意。顕帯方便。彰標実義。随勘字訓。顕広韻云。呼典切。明著。玉篇云。虚典切。明也。彰広韻云。渚良切。明也。玉篇云。諸楊切。明也。彼此字訓。雖似無異。如宋韻者。明上云著。明明義歟。軼唯云明。是故顕属分明顕示之義。彰字聊属隠示義歟。分別之釈非無由耳。言縁達多闍世等者。如第一巻。彰釈迦微咲素懐者。経云。爾時世尊即便微咲。已上。序分義云。此明如来以見夫人。願生極楽。更請得生之行。称仏本心。又顕弥陀願意。因斯二請広開浄土之門。非直韋提得去。有識聞之皆往。有斯益故。所以如来微咲也。已上。問。言二請者。上欣浄縁之別去行思惟正受二請是也。其二請者。是在定善。其定善者非仏本願。何称仏心為微咲由。答。観経所説定散弘願之三門也。而説定散為顕弘願。選択集云。又説定散為顕念仏超過余善。若無定散何顕念仏特秀。例如法花秀三説上。若無三説何顕法華第一。故今定散為廃而説。念仏為立而説。已上。故請定善顕随他教。其定善外仏開散善応散動機。其散機中猶有不堪廃悪修善。仏為其機説念仏行。依是義故。初所微咲。雖約定機。仏之本懐。遂在念仏。今此解釈顕此義也。因韋提者。別所求意。経文及以序分義釈如第一巻鈔中所出。可見彼文。SYOZEN2-385,386/TAI8-528
  〇次に問答の中に、問の意、見つべし。その答の中に「釈家」というは導大師なり。今『観経』に就きて自解を述べらる。「顕彰」等とは、問う、顕と彰とに於いて何の別あるや。答う、今の釈の意は、顕は方便を帯し、彰は実義を標す。随いて字訓を勘うるに、顕は『広韻』に云わく「呼典の切。明著なり」。『玉篇』に云わく「虚典の切。明なり」。彰は『広韻』に云わく「渚良の切。明なり」。『玉篇』に云わく「諸楊の切。明なり」。彼此の字訓は異なきに似たりといえども、『宋韻』の如きは明の上に著という。明明の義か。ただ明というに軼〈す〉ぎたり。この故に顕をば分明顕示の義に属し、彰の字をば聊か隠示の義に属するか。分別の釈は由なきにあらざるのみ。「縁達多闍世」等というは、第一巻の如し。「釈迦、微咲の素懐を彰わす」とは、経に云わく「その時に世尊、すなわち微咲したまう」已上。「序分義」に云わく「これ、如来、夫人を見たまうに、極楽に生れんと願じ、更に得生の行を請するを以て、仏の本心に称〈かな〉い、また弥陀の願意を顕すことを明かす。この二請に因りて、広く浄土の門を開く。直ちに韋提の去ることを得るのみにあらず、有識はこれを聞きて皆往く。この益あるが故に、所以に如来微笑したまう」已上。問う、「二請」というは、上の欣浄縁の別去行、思惟・正受の二請これなり。その二請は、これ定善に在り。その定善は仏の本願にあらず。何ぞ仏心に称いて微咲の由と為るや。答う、『観経』の所説は定・散・弘願の三門なり。而るに定散を説くことは弘願を顕わさんが為なり。『選択集』に云わく「また定散を説くことは、念仏の余善に超過せることを顕さんが為なり。もし定散なくは、何ぞ念仏の特に秀たることを顕さん。例せば法華の三説の上に秀でたるが如し。もし三説なくは、何ぞ法華の第一なることを顕さん。故に今定散は廃のために而も説き、念仏三昧は立のために而も説く」已上。故に定善を請するは随他の教を顕わす。その定善の外に、仏は散善を開して散動の機に応ず。その散機の中に、なお廃悪修善に堪えざるあり。仏はその機の為に念仏の行を説く。この義に依るが故に、初に微咲する所は、定機に約すといえども、仏の本懐は遂に念仏に在り。今この解釈はこの義を顕わすなり。「因韋提」とは、別所求の意なり。経文および序分義の釈は第一巻の鈔の中に出す所の如し。彼の文を見るべし。SYOZEN2-385,386/TAI8-528

 ◎是以経言教我観於清浄業処。言清浄業処者。則是本願成就報土也。言教我思惟者。即方便也。言教我正受者。即金剛真心也。言諦観彼国浄業成者。応観知本願成就尽十方無碍光如来也。言広説衆譬。則十三観是也。
  ◎(御自釈)ここをもって経に「教我観於清浄業処」と言えり。「清浄業処」と言うは、すなわちこれ本願成就の報土なり。「教我思惟」と言うは、すなわち方便なり。「教我正受」と言うは、すなわち金剛の真心なり。「諦観彼国浄業成者」と言うは、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。「広説衆譬」と言えり、すなわち十三観これなり。KESINDO:J:SYOZEN2-147/-HON-331,332,HOU-442-

 〇教我等者。問。今此文者欣浄縁下通所求也。未関西方。何云本願成就土耶。答。元自所言此一段者。今師聖人己心領解。隠彰意也。通別所求十方西方転入教義。更非可濫。故今所指。雖亘十方。遂其所尅志在西方。故従本意釈之無過。暫遊心於常途所談教門之外。可信深意徹到趣也。教我思惟等者。問。窺大師釈。思惟即是観前方便。正受即是約観成位。而今料簡。於釈思惟。雖云方便。不云定前。其意不詳。又解正受何云金剛真心也耶。答。此義乃又隠彰意也。先釈思惟。不言観前。不分深浅。只顕定善為方便義。如来方便。答。請随他之教故也。次以正受配真心意。定散弘願次第転入。観経密意。此乃散動根機。定善不堪之時。行彼散善。於其散善廃悪修善難成之時。終帰念仏正得往生見仏之益。故就落居如此釈之。諦観彼国浄業等者。問。序分義釈。解此文云。正明凡惑障深心多散動。若不頓捨攀縁。浄境無由得現。此即正教安心住行。若依此法。名為浄業成也。已上。如此釈者。如所教之心行観修名浄業成。是約能観。而今相違有二。何者。一先約所観。二縦為所観。云彼国故。可為依報。何約正報。答。疑難一往似有其理。但序分釈。且就観門論業成故。依此方法。如説修観名浄業成。故約能観道理宜然。但有能観定有所観。今就所観所設料簡。其義不違。随而彼釈既云浄境無由得現。故以観成境現為詮。而其観法実難成故。遂乗弘願見仏往生可実益故。以其義辺有此自解。是故約其所観。無咎。次所観中可有主伴。故先約主。即今釈中既云浄境。浄境之中広含二報。是故諸師多存此義。謂浄影云。汝観彼国勧観依果。浄業成者勧観正報。諸仏菩薩及与三品往生人等名浄業者。已上。又龍興云。諦観彼国浄業成者。如其次第観二清浄。謂器世間清浄。衆生世間清浄。已上。又元照云。浄業成者。総目彼土依正二報。已上。今之所述。旁非無拠。所言浄境真実報土。其教主者是尽十方無碍光仏。故云爾也。言広等者。問。今以定善名為衆譬。有何証乎。意又如何。答。序分義中。不釈此事。但浄影云。以此方日水等相。並以此方仏菩薩像。類度彼方。名為衆譬。已上。又元照云。極楽境界衆未識。以物比擬故云衆譬。已上。此外諸師各雖設釈。大概無異故不悉挙。其証如斯。義意粗見此等解釈。SYOZEN2-386,387,388/TAI8-551,552
  〇「教我」等とは、問う、今この文は欣浄縁の下の通所求なり。未だ西方に関〈あず〉からず。何ぞ本願成就の土というや。答う、もとより言う所、この一段は、今師聖人己心の領解、隠彰の意なり。通・別の所求、十方西方転入の教義は更に濫すべきにあらず。故に今指す所は十方に亘るといえども、遂にその尅する所、志は西方に在り。故に本意に従いてこれを釈するに過なし。暫く心を常途所談の教門の外に遊ばしめ、深意徹到の趣を信ずべきなり。「教我思惟」等とは、問う、大師の釈を窺うに、思惟は即ちこれ観の前方便、正受は即ちこれ観成の位に約す。而るに今の料簡は思惟を釈するに於いて、方便というといえども、定前といわず。その意、詳らかならず。また正受を解するに何ぞ「金剛真心也」というや。答う、この義は乃ちまた隠彰の意なり。まず思惟を釈するに、観前といわず、深浅を分たず、ただ定善は方便たる義を顕わす。如来方便答請随他之教〈如来の方便して請に答うる随他の教〉なるが故なり。次に正受を以て真心に配する意は、定散・弘願、次第に転入するは、『観経』の密意なり。これ乃ち散動の根機は、定善不堪の時、彼の散善を行ずるに、その散善に於いて廃悪修善は成じ難き時、終に念仏に帰して正しく往生見仏の益を得。故に落居に就きて、かくの如くこれを釈す。「諦観彼国浄業」等とは、問う、「序分義」の釈にこの文を解して云わく「正しく凡惑障り深くして心多く散動す。もし頓に攀縁を捨てずば、浄境現ずることを得るに由なきことを明かす。これ即ち正しく安心住行を教う。もしこの法に依らば、名づけて浄業成ずとす」已上。この釈の如きは、教うる所の心行の如く観修するを浄業成と名づく。これ能観に約す。而るに今相違するに二あり。何となれば、一にはまず所観に約す。二にはたとい所観たりとも、彼の国というが故に、依報たるべし。何ぞ正報に約するや。答う、疑難は一往その理あるに似たり。但し序分の釈は且く観門に就きて業成を論ずるが故に、この方法に依りて、説の如く修観するを浄業成と名づく。故に能観に約することは道理宜しく然るべし。但し能観あらば定んで所観あり。今は所観に就きて設くる所の料簡なり。その義、違せず。随いて、彼の釈は既に「浄境、現ずることを得るに由なし」という。故に観成じて境現ずるを以て詮と為す。而るにその観法は実に成じ難きが故に、遂に弘願に乗じて見仏往生すること、実益なるべきが故に。その義辺を以てこの自解あり。この故にその所観に約するに咎なし。次に所観の中に主伴あるべし。故にまず主に約す。即ち今の釈の中に既に「浄境」という。浄境の中に広く二報を含す。この故に諸師は多くこの義を存す。謂わく、浄影の云わく「汝観彼国は勧めて依果を観ず。浄業成とは勧めて正報を観ず。諸仏・菩薩と及び三品の往生人等とを浄業者と名づく」已上。また龍興の云わく「諦観彼国浄業成者とは、その次第の如く二清浄を観ず。謂わく器世間清浄と衆生世間清浄となり」已上。また元照の云わく「浄業成とは、総じて彼の土の依正二報に目づく」已上。今の述ぶる所は、旁に拠なきにあらず。言う所の浄境は真実報土なり。その教主とはこれ尽十方無碍光仏なり。故に爾いうなり。「言広」等とは、問う、今、定善を以て名づけて衆譬と為すこと、何の証かあるや。意また如何。答う、「序分義」の中にこの事を釈せず。ただ浄影の云わく「この方の日水等の相を以てし、並びにこの方の仏菩薩の像を以て、彼の方に類度するを、名づけて衆譬と為す」已上。また元照の云わく「極楽の境界は、衆は未だ識らず。物を以て比擬す。故に衆譬という」已上。この外の諸師はおのおの釈を設くるといえども、大概異なきが故に悉く挙げず。その証はかくの如し。義の意はほぼこれ等の解釈に見えたり。SYOZEN2-386,387,388/TAI8-551,552

 ◎言汝是凡夫心想羸劣。則是彰為悪人往生機也。
  ◎(御自釈)汝是凡夫心想羸劣と言えり、すなわちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。KESINDO:J:SYOZEN2-147,148/-HON-332,HOU-442-

 〇汝是凡夫心想等者。序分義云。韋提実是菩薩。仮示凡身。我等罪人。無由比及。為断此疑故言汝是凡夫也。已上。般舟讃云。韋提則是女人相。貪瞋具足凡夫位。已上。縦雖大権。今約凡教発起本意。以謂凡夫為浄教致。故有此釈。SYOZEN2-388/TAI8-572
  〇「汝是凡夫心想」等とは、「序分義」に云わく「韋提は実にこれ菩薩なり、仮に凡身を示す。我等は罪人なり。比及するに由なし。この疑いを断ぜんが為に、故に汝是凡夫という」已上。『般舟讃』に云わく「韋提は則ちこれ女人の相。貪瞋具足の凡夫の位なり」已上。たとい大権なりといえども、今は凡教発起の本意に約すれば、凡夫というを以て浄教の致と為す。故にこの釈あり。SYOZEN2-388/TAI8-572

 ◎言諸仏如来有異方便。則是定散諸善顕為方便之教也。
  ◎(御自釈)諸仏如来有異方便と言えり、すなわちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-442-

 〇諸仏如来有異等者。問。玄義分云。日想水想氷想乃至十三観已来。尽名異方便。已上。如今釈者。異方便言偏在定善。何言定散為方便乎。答。経文説言異方便者。正指定善。故釈十三。是故釈云方便由序。言方便者十三定善。言由序者。示観縁也。但大師釈異方便言。雖約定善。再往論之可通十六。故般舟讃。述此義云。定散倶回入宝国。則是如来異方便。已上。玄義釈者任経顕説。般舟讃者探仏密意。今家依彼生讃釈也。SYOZEN2-388/TAI8-575,576
  〇「諸仏如来有異」等とは、問う、「玄義分」に云わく「日想・水想・氷想、乃至、十三観已来を尽く異の方便と名づく」已上。今の釈の如きは、「異の方便」の言は偏に定善に在り。何ぞ定散を方便と為すというや。答う、経文に説きて「異の方便」というは、正しく定善を指す。故に「十三」と釈す。この故に釈して「方便の由序」という。方便というは十三定善なり。「由序」というは示観縁なり。但し大師は異の方便の言を釈するに、定善に約すといえども、再往、これを論ぜば十六に通ずべし。故に『般舟讃』にこの義を述べて云わく「定散倶に回すれば宝国に入る。則ちこれ如来の異の方便なり」已上。「玄義」の釈は経の顕説に任す。『般舟讃』は仏の密意を探る。今家は彼の生讃の釈に依るなり。SYOZEN2-388/TAI8-575,576

 ◎言以仏力故見彼国土。斯乃顕他力之意也。
  ◎(御自釈)以仏力故見彼国土と言えり、これすなわち他力の意を顕すなり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-442-

 〇以仏力故見彼等者。釈云。此明夫人領解仏意。如上光台所見。謂是已能向見。世尊開示。始知是仏方便之恩。已上。彼約釈迦。此存弥陀。彼被見土。此在往生。准拠示之。故云顕意。SYOZEN2-388,/TAI8-579
  〇「以仏力故見彼」等とは、釈に云わく「これ夫人、仏意を領解するに、上の光台の所見のごときは、これ已に能く向に見つと謂いき。世尊開示したまいて、始めてこれ仏の方便の恩なりと知る」已上。彼は釈迦に約し、これは弥陀を存す。彼は見土に被らしむ。これは往生に在り。准拠してこれを示す。故に意を顕わすという。SYOZEN2-388,/TAI8-579

 ◎言若仏滅後諸衆生等。即是未来衆生顕為往生正機也。
  ◎(御自釈)若仏滅後諸衆生等と言えり、すなわちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-442-

 〇若仏滅後諸衆等者。釈云。正明夫人悲心為物。同己往生。永逝娑婆長遊安楽。已上。又云此明夫人挙出苦機。此等罪業極深。又不見仏。不蒙加備。云何見於彼国也。已上。如来大悲本被未来。故於往生為正機也。SYOZEN2-388/TAI8-581,582
  〇「若仏滅後諸衆」等とは、釈に云わく「正しく夫人の悲心、物の為にすること、己が往生に同じく、永く娑婆を逝きて、長く〈とこしなえ〉に安楽に遊ばしめんということを明かす」已上。また云わく「これ夫人、苦機を挙出して、これらの罪業極めて深ければ、また仏を見たてまつらず、加備を蒙らずは、いかんが彼の国を見たてまつるべきということを明かす」已上。如来の大悲は本、未来に被らしむ。故に往生に於いて正機たり。SYOZEN2-388/TAI8-581,582

 ◎言若有合者名為麁想。是顕定観難成也。
  ◎(御自釈)若有合者名為麁想と言えり、これ定観成じがたきことを顕すなり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-442-

 〇若有合者名為等者。像観意也。問。当観釈云。従令与修多羅合下。至見極楽世界已来。弁観邪正之相。已上。何為定観難成証耶。答。弁邪正者意在難成。修観之人未必悉応合修多羅。若不合者則妄想也。難成之義其意可知。SYOZEN2-388,389/TAI8-586,587
  〇「若有合者名為」等とは、像観の意なり。問う、当観の釈に云わく「令与修多羅合より下、見極楽世界に至る已来は、観の邪正の相を弁ず」已上。何ぞ定観難成の証とするや。答う、邪正を弁ずる者は、意は難成に在り。修観の人は未だ必ずしも悉く修多羅に合すべからず。もし合せざれば則ち妄想なり。難成の義、その意、知りぬべし。SYOZEN2-388,389/TAI8-586,587

 ◎言於現身中得念仏三昧。即是顕定観成就之益以獲念仏三昧為観益。即以観門為方便之教也。
  ◎(御自釈)於現身中得念仏三昧と言えり、すなわちこれ、定観成就の益は念仏三昧を獲るをもって観の益とすることを顕す、すなわち観門をもって方便の教とせるなり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-442,443-

 〇於現身中得念等者。是又像観之結文也。問。今所言之念仏三昧。観称之中指何法乎。答。念仏三昧兼亘観称。観念三昧約真身観観成之位。称念三昧則同観念所詮之法。念仏衆生摂取不捨之益是也。彼観所詮摂取不捨。是為弥陀願意宗旨。集主聖人深達其義有此釈也。尋云。当文釈云。正明尅念修観現蒙利益。已上。尅念等者。是指当観。現蒙等者。指下真身。只就観門所釈之也。何約称念。答。於云現蒙利益之言。有其重重。初修像観。次得真観。得真観後帰摂取益。蒙其摂取在称念故。広引三経成為称益。今釈専顕経極致也。SYOZEN2-389/TAI8-590
  〇「於現身中得念」等とは、これまた像観の結文なり。問う、今いう所の念仏三昧は、観称の中に何の法を指すや。答う、念仏三昧は兼て観・称に亘る。観念三昧は真身観観成の位に約す。称念三昧は則ち同じき観念所詮の法、念仏衆生摂取不捨の益、これなり。彼の観の詮ずる所は摂取不捨、これを弥陀願意の宗旨と為す。集主聖人は深くその義に達してこの釈あるなり。尋ねて云わく、当文の釈に云わく「正しく尅念修観して現に利益を蒙ることを明かす」已上。「尅念」等とは、これ当観を指す。「現蒙」等とは、下の真身を指す。ただ観門に就きてこれを釈する所なり。何ぞ称念に約するや。答う、現蒙利益という言に於いて、その重重あり。初に像観を修し、次に真観を得。真観を得て後に摂取の益に帰す。その摂取を蒙ることは称念に在るが故に、広く三経を引きて称の益たることを成ず。今の釈は専ら経の極致を顕わすなり。SYOZEN2-389/TAI8-590

 ◎言発三種心即便往生。又言復有三種衆生当得往生。依此等文。就三輩有三種三心。復有二種往生。
  ◎(御自釈)発三種心即便往生と言えり。また、復有三種衆生当得往生と言えり。これらの文に依るに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,HOU-443-

 〇発三種心即便等者。明信心人必得往生。其往生者是報土也。復有等者。定散諸機。世戒行人。復有往生。但化土也。依此等者。明於三輩各有三心。即上所言復有三種衆生往生是也。SYOZEN2-389/TAI8-595,596
  〇「発三種心即便」等とは、信心の人は必ず往生を得ることを明かす。その往生とはこれ報土なり。「復有」等とは、定散の諸機、世・戒・行の人、また往生あり。ただし化土なり。「依此」等とは、三輩に於いておのおの三心あることを明かす。即ち上に言う所の「復有三種衆生」の往生これなり。SYOZEN2-389/TAI8-595,596

 

 ◎良知。此乃此経有顕彰・隠蜜之義。二経三心将談一異。応善思量也。大経・観経依顕義異。依彰義一也。可知。
  ◎(御自釈)良に知りぬ、これいましこの経に顕彰隠密の義あることを。二経の三心、将に一異を談ぜんとす。善く思量すべきなり。『大経』『観経』、顕の義に依れば異なり、彰の義に依れば一なり。知るべし。KESINDO:J:SYOZEN2-148/-HON-332,333,HOU-443

 〇良知已下至云可知。是弁両経所説三心。依顕与彰有異同也。SYOZEN2-389/TAI8-601
  〇「良知」已下、「可知」というに至るまでは、これ両経所説の三心を弁ず。顕と彰と異同あるに依りてなり。SYOZEN2-389/TAI8-601

 ◎爾者光明寺和尚云。然娑婆化主因其請故即広開浄土之要門。安楽能人顕彰別意之弘願。其要門者。即此観経定散二門是也。定即息慮以凝心。散即廃悪以修善。回此二行求願往生也。言弘願者。如大経説。
  ◎(玄義分)しかれば光明寺の和尚の云わく、しかるに娑婆の化主、その請に因るがゆえに、すなわち広く浄土の要門を開き、安楽の能人、別意の弘願を顕彰す。それ要門とは、すなわちこの『観経』、定散二門これなり。定はすなわち慮〈おもんばか〉りを息めて、もって心を凝〈こ〉らす。散はすなわち悪を廃して、もって善を修す。この二行を回して、往生を求願するなり。弘願というは『大経』の説のごとし。KESINDO:SYOZEN2-148/HON-333,HOU-443

 〇爾者等者。引証成義。所引釈者。序題門釈。問。為成三心一異之義。今引此釈。其意云何。答。教主世尊開定散門。弥陀如来顕其弘願。而言弘願引大経説。当知。観経所説之義只是定散。雖説三心。未必念仏他力安心。広亘定散自力安心。約其意趣。両経是異。又所言之別意弘願。正在観経第七観之住立三尊。約此義辺両経是一。故所引也。SYOZEN2-389/TAI8-603
  〇「爾者」等とは、証を引き義を成ず。所引の釈は序題門の釈なり。問う、三心一異の義を成ぜんが為に、今この釈を引く。その意、云何。答う、教主世尊は定散の門を開き、弥陀如来はその弘願を顕わす。而るに弘願をいうに『大経』の説を引く。当に知るべし、『観経』所説の義は、ただこの定散なり。三心を説くといえども、未だ必しも念仏他力の安心ならず。広く定散自力の安心に亘る。その意趣に約すれば両経はこれ異なり。また言う所の別意の弘願は、正しく『観経』第七観の住立の三尊に在り。この義辺に約すれば両経はこれ一なり。故に引く所なり。SYOZEN2-389/TAI8-603

 ◎又云。今此観経即以観仏三昧為宗。亦以念仏三昧為宗。一心回願往生浄土為体。言教之大小者。問曰。此経二蔵之中何蔵摂。二教之中何教收。答曰。今此観経菩薩蔵收。頓教摂。
  ◎(玄義分)また云わく、今この『観経』はすなわち観仏三昧をもって宗とす、また念仏三昧をもって宗とす、一心に回願して浄土に往生するを体とす。教之大小と言うは、問うて曰わく、この経は二蔵の中にはいずれの蔵にか摂する、二教の中にはいずれの教にか収むるや。答えて曰わく、今この『観経』は、菩薩蔵に収む、頓教の摂なり。KESINDO:SYOZEN2-148/HON-333,HOU-443

 〇又云。今此観経等者。宗旨門釈。言観仏者真身観意。是則摂心観想彼仏相好光明及依正等。言念仏者。於同観意選取称名。是則帰入念仏衆生摂取不捨本願宗源。問。観仏念仏一法異名。故念仏名通観与称。是諸経論之通例也。何為両宗。答。此是浄土不共妙談。如彼諸教通途談者。正助未別。今分観称称名正業。順仏本願。観行助業。非仏本願。就立此門有両三昧。問。於観仏者。観若成者則可見仏故称三昧。其義可然。於念仏者。散称之行不得見仏。何称三昧。答。縦雖散称。繁心一境声声連注。功行積累。得念仏定。可得見仏。観念門云口称三昧蓋此義也。又現身不得念仏定人。臨命終時必可見仏。約当得益予名三昧。是則因中説果義也。宗者妙楽。大師釈云。宗猶尊也。国無二主。已上。又度律師以三義解。所謂独尊[エン08]接帰趣之義是也。問。宗為主者何有二宗。答。若依釈迦。定散要門真身観仏為其宗旨。観仏三昧為宗是也。若依弥陀。別意弘願念仏衆生摂取不捨為其宗旨。念仏三昧為宗是也。而依流通付属之意。念仏為立而説。定散為廃而説。若依此義。遂帰念仏三昧一宗。故独尊義無所違諍。是則又約隠顕義。宜得其意。若依顕義。有両三昧。若依隠義。唯一宗也。一心等者。是明其体。此有二義。一云、一心回願是約観仏。往生浄土是約念仏。二云。共顕念仏之体。観仏三昧遂可廃故。不立体也。言教等者。明其教相。言二蔵者三乗教也。声聞蔵者是小乗教。以縁覚乗摂此蔵也。断道同故。菩薩蔵者是大乗教。異二乗故。此二蔵名本出智論。専三論宗用此名目。宗家大師又依用之。龍樹菩薩為高祖故。言二教者。於菩薩蔵所分別也。SYOZEN2-389,390,391/TAI8-613,614
  〇「又云今此観経」等とは、宗旨門の釈なり。「観仏」というは真身観の意なり。これ則ち心を摂せ、彼の仏の相好光明及び依正等を観想す。「念仏」というは、同観の意に於いて称名を選び取る、これ則ち「念仏衆生摂取不捨〈念仏の衆生を摂取して捨てたまわず〉」の本願の宗源に帰入す。問う、観仏・念仏は一法の異名なり。故に念仏の名は観と称とに通ず。これ諸経論の通例なり。何ぞ両宗とするや。答う、これはこれ浄土不共の妙談なり。彼の諸教通途の談の如きは、正・助、未だ別ならず。今、観・称を分けて、称を正業と名づく。仏の本願に順ず。観行は助業なり。仏の本願にあらず。この門を立するに就きて両三昧あり。問い、観仏に於いては、観もし成ぜば、則ち見仏すべき故に三昧と称すること、その義、然るべし。念仏に於いては、散称の行は見仏することを得ず。何ぞ三昧と称するや。答う、たとい散称なりといえども、心を一境に繁いで声声連注すれば、功行積累して、念仏定を得て、見仏することを得べし。観念門に口称三昧という、蓋しこの義なり。また現身に念仏定を得ざる人は、命終の時に臨みて必ず見仏すべし。当得の益に約して予め三昧と名づく。これ則ち因中に果を説く義なり。「宗」とは妙楽なり。大師釈して云わく「宗は猶し尊のごとし。国に二主なし」已上。また度律師は三義を以て解す。いわゆる独尊・[エン08]接・帰趣の義、これなり。問う、宗は主たらば、何ぞ二宗あるや。答う、もし釈迦に依らば、定散の要門、真身観仏をその宗旨と為し、観仏三昧を宗と為す、これなり。もし弥陀に依らば、別意の弘願、念仏衆生摂取不捨をしの宗旨と為し、念仏三昧を宗と為す、これなり。而るに流通付属の意に依れば、念仏は立の為に而も説き、定散は廃の為に而も説く。もしこの義に依らば、遂に念仏三昧の一宗に帰す。故に独尊の義は違諍する所なし。これ則ちまた隠顕の義に約して、宜しくその意を得べし。もし顕の義に依らば、両三昧あり。もし隠の義に依らば、唯一宗なり。「一心」等とは、これその体を明かす。これに二義あり。一に云わく、「一心回願」はこれ観仏に約す。「往生浄土」はこれ念仏に約す。二に云わく、共に念仏の体を顕わす。観仏三昧は遂に廃すべきが故に、体を立せざるなり。「言教」等とは、その教相を明かす。「二蔵」というは三乗教なり。声聞蔵とはこれ小乗教なり。縁覚乗を以てこの蔵に摂するなり。断道同じきが故なり。菩薩蔵とはこれ大乗教、二乗に異なるが故に。この二蔵の名は、もと『智論』に出ず。専ら三論宗にこの名目を用う。宗家大師はまたこれを依用したまう。龍樹菩薩は高祖たるが故に。「二教」というは、菩薩蔵に於いて分別する所なり。SYOZEN2-389,390,391/TAI8-613,614

 ◎又云。又言如是者。即此指法。定散両門也。是即定辞。機行必益。此明如来所説言無錯謬。故名如是。又言如者。如衆生意也。随心所楽仏即度之。機教相応復称為是。故言如是。又言如是者。欲明如来所説。説漸如漸。説頓如頓。説相如相。説空如空。説人法如人法。説天法如天法。説小如小。説大如大。説凡如凡。説聖如聖。説因如因。説果如果。説苦如苦。説楽如楽。説遠如遠。説近如近。説同如同。説別如別。説浄如浄。説穢如穢。説一切法千差万別。如来観知歴歴了然。随心起行各益不同。業果法然衆無錯失。又称為是。故言如是。
  ◎(序分義)また云わく、また如是と言うは、すなわちこれは法を指す。定散の両門なり。これすなわち定むる辞〈ことば〉なり。機行ずれば必ず益す。これ如来の所説の言〈みこと〉、錯謬なきことを明かす。故に如是と名づく。また如と言うは、衆生の意のごとし。心の所楽に随いて仏すなわちこれを度したまう。機教相応せるをまた称して是とす。故に如是と言う。また如是と言うは、如来の所説を明かさんと欲す。漸を説かば漸のごとし。頓を説かば頓のごとし。相を説くこと相のごとし。空を説くこと空のごとし。人法を説くこと人法のごとし。天法を説くこと天法のごとし。小を説くこと小のごとし。大を説くこと大のごとし。凡を説くこと凡のごとし。聖を説くこと聖のごとし。因を説くこと因のごとし。果を説くこと果のごとし。苦を説くこと苦のごとし。楽を説くこと楽のごとし。遠を説くこと遠のごとし。近を説くこと近のごとし。同を説くこと同のごとし。別を説くこと別のごとし。浄を説くこと浄のごとし。穢を説くこと穢のごとし。一切の法を説くこと千差万別なり。如来の観知、歴歴了然として、心に随いて行を起こして、おのおの益すること同じからず。業果法然としてすべて錯失なし、また称して是とす。故に如是と言う。KESINDO:SYOZEN2-149/HON-333,334,HOU-444

 〇次所引文序分義釈。釈如是句有三重釈。悉被引之。初約定散。在文分明。言定辞下別釈。云言無錯謬。蓋其意也。機行等者。釈名門云。定散随機義不零落。能令修趣之者必籍教行之縁因。乗願往生証彼無為之法楽。已上。是又可有隠顕之義。依顕説者。定散之機各修己行。預其利益。依隠説者。定散之機各乗仏願得往生益。是宗旨也。次約弘願。如衆等者。以称名行為仏本願。如衆生意。令生浄土。故定善義。解雑想観神通如意之文有二。其一釈云。如衆生意。随彼心念。皆応度之。已上。則其意也。後約諸教。此釈中有十双二十重。其文可見。SYOZEN2-391/TAI8-625
  〇次の所引の文は「序分義」の釈なり。「如是」の句を釈するに三重の釈あり。悉くこれを引かる。初に定散に約す。。文に在りて分明なり。「定辞」という下は別釈なり。「言に錯謬なし」という、蓋しその意なり。「機行」等とは、釈名門に云わく「定散、機に随いて義、零落せず。よく修趣の者をして必ず教行の縁因に籍りて、願に乗じて往生して彼の無為の法楽を証せしむ」已上。これまた隠顕の義あるべし。顕説に依らば、定散の機はおのおの己行を修して、その利益に預る。隠説に依らば、定散の機はおのおの仏願に乗じて往生の益を得。これ宗旨なり。次は弘願に約す。「如衆」等とは、称名の行を以て仏の本願と為して、衆生の意の如く浄土に生ぜしむ。故に「定善義」に「雑想観」の「神通如意」の文を解するに二あり。その一に釈に云わく「衆生の意の如し。彼の心念に随いて、みな応じてこれを度す」已上。則ちその意なり。後は諸教に約す。この釈の中に十双二十重あり。その文。見つべし。SYOZEN2-391/TAI8-625

 ◎又云。従欲生彼国者下至名為浄業已来。正明勧修三福之行。此明一切衆生機有二種。一者定。二者散。若依定行。即摂生不尽。是以如来方便顕開三福以応散動根機。
  ◎(序分義)また云わく、欲生彼国者より下、名為浄業に至る已来は、正しく三福の行を勧修することを明かす。これ一切衆生の機に二種あることを明かす。一には定、二には散なり。もし定行に依れば、すなわち生を摂するに尽きず。これをもって如来方便して三福を顕開して、もって散動の根機に応じたまえり。KESINDO:SYOZEN2-149/HON-334,HOU-444

 〇次所引文顕行縁釈。機有等者。定散雖為所修之行。望仏本願意在専称。故其定散只是機分。是故二機共帰仏願。可得往生。故云衆生機有二種。一者定。二者散也。顕開等者。此釈就云若依定行則摂生不尽。是以如来方便顕開三福。以応散動根機。竊伺宗旨。此次可言。於散動機亦有二種。善人悪人。若依三福摂生不尽。故仏顕開弘願一行。応其悪機。於其悪機。亦有二種。長命短命。上尽一形七日一日乃至十念。皆是以応長命之類。乃至一念聞名往生。応短命機。是仏大悲不漏衆機之深要也。SYOZEN2-391/TAI8-629
  〇次の所引の文は顕行縁の釈なり。「機有」等とは、定散は所修の行たりといえども、仏の本願に望むれば、意は専ら称に在り。故にその定散は、ただこれ機分なり。この故に二機は共に仏願に帰して、往生を得べし。故に「衆生の機に二種あり。一には定、二には散なり」という。「顕開」等とは、この釈は「もし定行に依れば、則ち生を摂するに尽きず。ここを以て如来方便して三福を顕開して、以て散動の根機に応ず」というに就きて、竊かに宗旨を伺うに、この次に言うべし、散動の機に於いて、また二種あり。善人と悪人となり。もし三福に依れば、生を摂するに尽きず。故に仏は弘願の一行を顕開して、その悪機に応ず。その悪機に於いて、また二種あり。長命と短命となり。上尽一形、七日一日、乃至十念、みなこれ以て長命の類に応ず。乃至一念、聞名往生は、短命の機に応ず。これ仏の大悲、衆機を漏らしたまわぬ深要なり。SYOZEN2-391/TAI8-629

 ◎又云。又真実有二種。一者自利真実。二者利他真実。言自利真実者。復有二種。一者真実心中制作自他諸悪及穢国等。行住座臥想同一切菩薩制捨諸悪我亦如是也。二者真実心中懃修自他凡聖等善。真実心中口業讃嘆彼阿弥陀仏及依正二報。又真実心中口業毀厭三界六道等自他依正二報苦悪之事。亦讃嘆一切衆生三業所為善。若非善業者。敬而遠之亦不随喜也。又真実心中身業合掌礼敬。四事等供養彼阿弥陀仏及依正二報。又真実心中身業軽慢厭捨此生死三界等自他依正二報。又真実心中意業思想観察憶念彼阿弥陀仏及依正二報。如現目前。又真実心中意業軽賎厭捨此生死三界等自他依正二報。乃至。
  ◎(散善義)また云わく、また真実に二種あり。一には自利の真実、二には利他の真実。自利真実と言うは、また二種あり。一には真実心の中に自他の諸悪および穢国等を制捨し、行住座臥に、一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、我もまたかくのごとくせんと想うなり。二には真実心の中に、自他・凡聖等の善を懃修す。真実心の中に口業に、かの阿弥陀仏および依正二法を讃嘆す。また真実心の中に口業に、三界六道等の自他の依正二報の苦悪の事を毀厭す。また一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。もし善業にあらずは、敬いて而もこれを遠ざかれ、また随喜せざれとなり。また真実心の中の身業に、合掌礼敬し、四事等をもって、かの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心の中の身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心の中の意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ぜるがごとくす。また真実心の中の意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賎し厭捨す。乃至。KESINDO:SYOZEN2-149,150/HON-334,335,HOU-444,445-

 ◎又決定深信釈迦仏。説此観経三福九品定散二善。証讃彼仏依正二報。使人忻慕。乃至。又深心深信者。決定建立自心。順教修行。永除疑錯。不為一切別解別行異学異見異執之所退失傾動也。乃至。
  ◎(散善義)また決定して、釈迦仏、この観経の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと深信す。乃至。また深心深信というは、決定して自心を建立す。教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のために退失傾動せられざるなり。乃至。KESINDO:SYOZEN2-150/-HON-335,HOU-445-

 ◎次就行立信者。然行有二種。一者正行。二者雑行。言正行者。専依往生経行行者。是名正行。何者是也。一心専読誦此観経・弥陀経・無量寿経等。一心専注思想観察憶念彼国二報荘厳。若礼即一心専礼彼仏。若口称即一心専称彼仏。若讃嘆供養即一心専讃嘆供養。是名為正。又就此正中復有二種。一者一心専念弥陀名号。行住座臥不問時節久近。念念不捨者。是名正定之業。順彼仏願故。若依礼誦等。即名為助業。除此正助二行已外自余諸善。悉名雑行。若修前正助二行。心常親近憶念不断。名為無間也。若行後雑行。即心常間断。雖可回向得生。衆名疎雑之行也。故名深心。三者回向発願心。言回向発願心者。過去及以今生身口意業所修世出世善根。及随喜他一切凡聖身口意業所修世出世善根。以此自他所修善根。悉皆真実深心。心中回向。願生彼国。故名回向発願心也。
  ◎(散善義)次に行に就いて信を立つとは、しかるに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり。正行と言うは、専ら往生経の行に依って行ずる者、これを正行と名づく。何ものかこれなりや。一心に専らこの観経・弥陀経・無量寿経等を読誦する。一心にかの国の二報荘厳を専注し思想し観察し憶念する。もし礼せば、すなわち一心に専らかの仏を礼する。もし口に称せば、すなわち一心に専らかの仏を称せよ。もし讃嘆供養せば、すなわち一心に専ら讃嘆供養する。これを名づけて正とす。またこの正の中についてまた二種あり。一には、一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。もし礼誦等に依らば、すなわち名づけて助業とす。この正助二行を除きて、已下の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修するは、心常に親近し、憶念断えず、名づけて無間とするなり。もし後の雑行を行ずるは、すなわち心常に間断す。回向して生を得べしといえども、すべて疎雑の行と名づくるなり。故に深心と名づく。KESINDO:SYOZEN2-150,151/-HON-335,HOU-445,446-

 ◎三者廻向発願心。言廻向発願心者。過去及以今生身口意業所修世出世善根。及随喜他一切凡聖身口意業所修世出世善根。以此自他所修善根。悉皆真実深心。心中廻向。願生彼国。故名廻向発願心也。
  ◎(散善義)三には回向発願心。回向発願心と言うは、過去および今生の身口意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡聖の身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもって、ことごとくみな真実の深信の心の中に回向して、かの国に生まれんと願ず。故に回向発願心と名づくるなりと。KESINDO:SYOZEN2-151/-HON-336,HOU-446

 〇次所引文三心釈也。問。此三心釈第三巻初既引用之。何重戴哉。答。彼此所引互有除取。即第三巻雖戴自利利他標釈。不引細釈。是故今具引之等也。但雖不引其本文詞。為知前後。私聊解之。載在彼巻。所謂総約捨悪修善。別約三業。明其欣厭。又就善悪解真実義。是大意也。是即諸機自力心也。因茲名之自利真実。於彼利他真実心者。先雖標之。不釈其相。蓋是如来利他之心。則上釈中。言凡所施為趣求之義趣。是也。言乃至者。除至誠心之中。所言不善三業。必須以下。並深心中機法二種信心之釈七行余也。彼第三巻引用之故。今略之耳。又決定深信釈迦仏等者。問。此釈同在第三。略一段文。何強引用此一文耶。答。除彼取此不必一准。但非無由。機法二種之信心者。真実信心。暫約定散二種之機。雖宣説之。遂同如来利他三信。今観経中所説定散。正是非彼報土所生真因。以此義故。当巻引之表為化土生因者歟。次乃至者。又決定深信弥陀経以下。至云往生之大益也。二十行也。是又同為第三巻之所引故也。次又深心深信者下。二行余者第三巻中所引残之解釈初也。故今引之。次乃至者。四重難破以下至就人立信也。五十七行有余是也。四重難答雖不可除。第三巻中。略初三重及四重初。中間以下。簡要文言六十行余引用既訖。是故大概譲前略耳。言次就行立信者下。至名為正六行余者。第三巻中除故引之。又就此正中下。至言悉名難行。明往生行相文。彼巻中雖引之。若修前下至言雖可回向得生。明二行得失文。彼巻除故。今具引之。委挙二行。為令識知其得失也。三者回向発願等者。於此心中有三重釈。今所引者是其初重回因向果自力心也。是故当巻故被引之。下之二重回思向道回入向利。第三巻中既引之訖。彼二重約他力故也。SYOZEN2-391,392,393/TAI8-634,635
  〇次の所引の文は三心の釈なり。問う、この三心の釈は第三巻の初に既にこれを引用す。何ぞ重ねて戴するや。答う、彼此の所引は互に除取あり。即ち第三巻には自利利他の標釈を戴すといえども、細釈を引かず。この故に今具にこれらを引くなり。但しその本文の詞を引かずといえども、前後を知らんが為に、私に聊かこれを解す。載せて彼の巻に在り。いわゆる総じては捨悪修善に約し、別しては三業に約して、その欣厭を明かす。また善悪に就きて真実義を解す。これ大意なり。これ即ち諸機自力の心なり。ここに因りて、これを自利真実と名づく。彼の利他真実の心に於いては、まずこれを標すといえども、その相を釈せず。蓋しこれ如来利他の心なり。則ち上の釈の中に「おおよそ施すところ趣求をなす」の義趣をいう、これなり。「乃至」というは、至誠心の中に言う所の「不善三業必須」以下、並びに深心の中の機法二種の信心の釈を除く、七行余なり。彼は第三巻にこれを引用するが故に、今はこれを略するのみ。「又決定深信釈迦仏」等とは、問う、この釈も同じく第三に在り。一段の文を略す。何ぞ強ちにこの一文を引用するや。答う、彼を除き、これを取ること、必ずしも一准ならず。但し由なきにあらず。機法二種の信心とは、真実の信心なり。暫く定散二種の機に約して、これを宣説すといえども、遂に如来利他の三信に同じ。今『観経』の中に説く所の定散は、正しくこれ彼の報土所生の真因にあらず。この義を以ての故に、当巻にこれを引き、化土の生因なることを表わすものか。次の「乃至」とは「又決定深信弥陀経」以下、「往生之大益也」というに至るまで、二十行なり。これまた同じく第三巻の所引たるが故なり。次に「又深心深信者」の下、二行余は、第三巻の中に引き残す所の解釈の初なり。故に今これを引く。次に「乃至」は、四重難破以下、「就人立信也」に至るまで、五十七行有余これなり。四重の難答は除くべからずといえども、第三巻の中に、初の三重及び四重の初を略して、中間以下、簡要の文言、六十行余引用すること既に訖りぬ。この故に大概、前に譲りて略すらくのみ。「次就行立信者」という下、「名為正」に至るまでの六行余は、第三巻の中に除くが故にこれを引く。「又就此正中」の下、「悉名難行」というに至るまで、往生の行相を明かす文は、彼の巻の中にこれを引くといえども、「若修前」の下、「雖可回向得生」というに至るまで、二行の得失を明かす文は、彼の巻に除くが故に、今具にこれを引く。委しく二行を挙ぐることは、その得失を識知せしめんが為なり。「三者回向発願」等とは、この心の中に於いて三重の釈あり。今の所引は、これその初重、回因向果、自力の心なり。この故に当巻にことさらにこれを引かる。下の二重、回思向道・回入向利は、第三巻の中に既にこれを引き訖わりぬ。彼の二重は他力に約するが故なり。SYOZEN2-391,392,393/TAI8-634,635

 〇教行信証六要鈔会本 第八