『六要鈔会本』
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        参考のため、下記のように符号を付けました。
        ◎は『教行信証』の文。〇は『六要鈔』の文。
        SYOZEN2-2,3は真宗聖教全書 第2巻 2〜3頁の意。
        TAI1-48は仏教大系教行信証 第1巻 48頁の意。
        HON-149は東本願寺刊『真宗聖典』149頁の意。
        HOU-265は柏原祐義編『真宗聖典』265頁の意。
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  『教行信証六要鈔会本』第七巻  真仏土巻

 ○教行信証六要鈔会本第七 真

 ◎顕浄土真実真仏土文類 五
  ◎愚禿親鸞集

 〇当巻大門第五。明真仏並真土。於中有四。一者題目。二者標挙。三者正釈。四総結也。SYOZEN2-347/TAI8-1
  〇当巻大門第五に、真仏並びに真土を明かす。中に於いて四あり。一には題目、二には標挙、三には正釈、四には総結なり。SYOZEN2-347/TAI8-1

 〇初題目中。分二如前。上来四巻約能帰機。自教至証。然後宜知所帰身土。是故能所有由。四五成其次第。SYOZEN2-347/TAI8-1
  〇初に題目の中に、二を分かつこと前の如し。上来の四巻は能帰の機に約す。教より証に至る。然して後に宜しく所帰の身土を知るべし。この故に能所に由ありて、四五、その次第を成ず。SYOZEN2-347/TAI8-1

 ◎光明無量之願 寿命無量之願

 〇二標挙之中並標両願。光明無量是第十二。或云得勝光明。或云仏光無辺。寿命無量是第十三。或云得寿久往。或云仏寿無量。SYOZEN2-347/TAI8-7
  〇二に標挙の中に並べて両願を標す。光明無量はこれ第十二、或いは得勝光明といい、或いは仏光無辺という。寿命無量はこれ第十三、或いは得寿久往といい、或いは仏寿無量という。SYOZEN2-347/TAI8-7

 ◎謹按真仏土者。仏者則是不可思議光如来。土者亦是無量光明土也。然則酬報大悲誓願故。曰真報仏土。既而有願。即光明寿命之願是也。
  ◎(御自釈)謹〈謹 ウヤマウ〉んで真仏土を案ずれば、仏はすなわちこれ不可思議光如来なり。土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなわち大悲の誓願に酬報〈報 ムクイ〉するがゆえに、真の報仏土と曰うなり。すでにして願います、すなわち光明・寿命の願これなり。SINBUTU:J:SYOZEN2-120/HON-300,HOU-410,411

 〇正釈之中。分而為二。先自文初至云是也。略標身土。次自大経正引諸文。SYOZEN2-347/TAI8-13
  〇正釈の中に、分ちて二と為す。まず文の初より、「是也」というに至るまでは、略して身土を標す。次に『大経』よりは、正しく諸文を引く。SYOZEN2-347/TAI8-13

 〇初略標中。問。不可思議光如来者。此名出在何経釈乎。答。文言雖隠義在大経。所謂十二光仏勝徳。皆是不可思議故也。明顕其名。出宝積経。因茲鸞師讃弥陀偈。載此尊号。如来会文並鸞師釈。如下所引。問。無量光明土之名目出何文耶。答。是又在下。所謂覚経六言四句之中。所云一句是也。当巻大意。以此光明寿命無量。成真報身常住義也。光明無量正約横義。兼亘竪義。此以衆生無辺之故。光明無辺摂化無辺諸有情類。是横義也。又兼竪者。遠亘三世無有断絶利益無尽。寿命無量是約竪辺。且依因願。雖為十劫成覚之身。諸仏寿命平等果海無有闕減。只是本覚弥陀寿也。約此義辺。酬因感果是始覚智。無為凝然是本覚理。理智不二始本是一。已至始覚必冥本覚。又釈迦仏久遠実寿。即阿弥陀之名義也。故法華云。慧光照無量。寿命無数劫。已上。無量光者。仏智観照之妙用也。無量寿者。法身常住之妙理也。体用不離理智冥合。釈尊功徳全阿弥陀。諸仏功徳。又以道同。是故今依光明寿命無量功徳。立真報身。其義可也。SYOZEN2-347,348/TAI8-13,14

 〇初に略標の中に、問う、不可思議光如来とは、この名出でて何の経釈にか在るや。答う、文言に隠れたりといえども、義は『大経』に在り。いわゆる十二光仏の勝徳は、皆これ不可思議なるが故なり。明かにその名を顕わすことは、『宝積経』に出でたり。ここに因りて鸞師の『讃弥陀の偈』にこの尊号を載す。『如来会』の文並びに鸞師の釈は下の所引の如し。問う、無量光明土の名目は何の文にか出でたるや。答う、これまた下に在り。謂う所の『覚経』六言四句の中にいう所の一句これなり。当巻の大意は、この光明・寿命の無量を以て真報身常住の義を成ずるなり。光明無量は正しく横の義に約して、兼て竪の義に亘る。これ衆生無辺なるを以ての故に、光明無辺にして無辺の諸の有情の類を摂化するは、これ横の義なり。また竪を兼ぬるとは、遠く三世に亘りて断絶することあることなくして、利益尽くることなし。寿命無量は、これ竪の辺に約す。且く因願に依れば、十劫成覚の身たりといえども、諸仏の寿命、平等の果海は闕減あることなし。ただこれ本覚弥陀の寿なり。この義辺に約すれば、酬因感果はこれ始覚の智、無為凝然はこれ本覚の理なり。理智不二にして始本これ一なり。已に始覚に至れば必ず本覚に冥ず。また釈迦仏の久遠の実寿は、即ち阿弥陀の名義なり。故に『法華』に云わく「慧光照して無量なり。寿命無数劫なり」已上。無量光とは、仏智観照の妙用なり。無量寿とは、法身常住の妙理なり。体用不離にして理智冥合す。釈尊の功徳は全く阿弥陀、諸仏の功徳はまた以て道同なり。この故に今は光明寿命の無量の功徳に依って、真報身を立つこと、その義、可なり。SYOZEN2-347,348/TAI8-13,14

 ◎大経言。設我得仏。光明有能限量下至不照百千億那由他諸仏国者。不取正覚。
  ◎『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ、と。SINBUTU:SYOZEN2-120/HON-300,HOU-411

 〇初願之中。問。今此仏光是常光歟。現起光歟。答。是常光也。既酬本願感此勝光。何現起光。若非常光何超諸仏。是故楞厳略記釈云。常光一尋雖常非遍。別縁遍照雖遍非常。此仏光明即不如是。経無量劫遍照十方。已上。SYOZEN2-348/TAI8-30
  〇初の願の中に、問う、今この仏光はこれ常光なるか、現起光なるか。答う、これ常光なり。既に本願に酬いてこの勝光を感ず。何ぞ現起光ならん。もし常光にあらざれば何ぞ諸仏を超えん。この故に『楞厳の略記』に釈して云わく「常光は一尋、常なりといえども、遍にあらず。別縁は遍く照す、遍なりといえども常にあらず。この仏の光明は即ちかくの如きならず。無量劫を経て遍く十方を照らす」已上。SYOZEN2-348/TAI8-30

 ◎又願言。設我得仏。寿命有能限量下至百千億那由他劫者。不取正覚
  ◎(大経)また願に言わく、設い我仏を得たらんに、寿命よく限量〈限量 カギリ〉ありて、下百千億那由他の劫に至らば、正覚を取らじ、と。SINBUTU:SYOZEN2-120/HON-300,HOU-411

 〇次願之中。問。今無量者。有量無量。無量無量之中何耶。答。依以弥陀判応身之諸師義者。有量無量。依以彌陀為報身之大師義者。無量無量。随而集主約当願意判真仏土。真仏土者即是報也。可存無量無量義也。此是一得永不失也。此是無上涅槃常住寿也。問。下至百千億那由他劫者。所言劫者指所至歟。指所超歟。答。約所至者義当有量。若約所超意協無量。是故可云所超劫也。問。依何道理云所超耶。答。於余願中有所準知。謂五通願皆云不知不見不超。当願之中不云不至。既云不照。故非所至。是所超也。SYOZEN2-348/TAI8-30
  〇次の願の中に、問う、今の無量とは、有量の無量と、無量の無量との中には何れぞや。答う、弥陀を以て応身と判ずる諸師の義に依りては、有量の無量なり。彌陀を以て報身と為する大師の義に依らば、無量の無量なり。随いて集主は当願の意に約して真仏土を判ず。真仏土とは即ちこれ報なり。無量の無量の義を存ずべきなり。これはこれ一たび得れば永く失せざるなり。これはこれ無上涅槃常住の寿なり。問う、「下至百千億那由他劫」とは、言う所の劫とは所至を指すか、所超を指すか。答う、所至に約すれば義は有量に当る。もし所超に約せば意は無量に協〈かな〉う。この故に所超の劫というべきなり。問う、何の道理に依りてか所超というや。答う、余願の中に於いて準知する所あり。謂わく五通の願に皆、不知・不見・不超という。当願の中に不至といわず。既に不照という。故に所至にあらず。これ所超なり。SYOZEN2-348/TAI8-30

 ◎願成就文言。仏告阿難。無量寿仏威神光明。最尊第一。諸仏光明所不能及。乃至。是故無量寿仏号無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏。其有衆生遇斯光者。三垢消滅身意柔濡。歓喜踊躍善心生焉。若在三塗懃苦之処見此光明。皆得休息無復苦悩。寿終之後皆蒙解脱。無量寿仏光明顕赫。照耀十方諸仏国土。莫不聞焉。不但我今称其光明。一切諸仏声聞縁覚諸菩薩衆。咸共嘆誉亦復如是。若有衆生聞其光明威神功徳。日夜称説至心不断。随意所願得生其国。為諸菩薩声聞大衆所共嘆誉称其功徳。至其然後得仏道時。普為十方諸仏菩薩嘆其光明亦如今也。仏言。我説無量寿仏光明威神巍巍殊妙。昼夜一劫尚未能尽。
  ◎(大経)願成就の文に言わく、仏、阿難に告げたまわく、無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶことあたわざるところなり。乃至。このゆえに無量寿仏は、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。それ衆生ありて、この光に遇〈もうあ〉う者は、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍し、善心生ず。もし三塗懃苦の処にありて、この光明を見ば、みな休息を得て、また苦悩なけん。寿終えての後、みな解脱を蒙る。無量寿仏の光明顕赫〈赫 カガヤク〉にして、十方諸仏の国土を照耀〈照耀 カガヤク〉して、聞こえざることなし。ただ我いまその光明を称するにあらず、一切諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとく共に嘆誉〈嘆誉 ホメホム〉すること、またかくのごとし。もし衆生ありて、その光明威神功徳を聞きて、日夜に称説し、心を至して断えざれば、意の所願に随いて、その国に生まるることを得て、もろもろの菩薩・声聞大衆のために、共にその功徳を嘆誉し称せられん。それしこうして後に、仏道を得る時に至りて、普く十方の諸仏菩薩のために、その光明を嘆ぜられんこと、また今のごとくならん。仏の言わく、我、無量寿仏の光明威神、巍巍殊妙〈殊妙 ヨシ スグレ〉なるを説かんに、昼夜一劫すとも、尚未だ尽くすことあたわじと。SINBUTU:SYOZEN2-120,121/HON-300,301,HOU-411,412-

 〇次成就文。且依一師科釈之意。粗料簡之。仏告阿難無量寿下別明所成。於中有二。初明仏身。(今所引是也)。次声聞菩薩下。約身明徒衆。(非今所引)。初文亦二。初明仏光。(自所引文初。至尚未能尽)。次明仏寿。(自次下仏語至所引文終)。初中又四。一釈迦讃歎。(自文初至皆蒙解脱)。二諸聖讃歎。(自無量寿仏。至亦復如是)。三衆生讃歎。(自若有衆生。至亦如今也)。四如来結歎。(仏言我説已下)。是則初願成就文也。SYOZEN2-348,349/TAI8-36
  〇次に成就の文。且く一師の科釈の意に依りて、ほぼこれを料簡す。「仏告阿難無量寿」の下は別して所成を明かす。中に於いて二あり。初には仏身を明かす。(今の所引これなり)。次に「声聞菩薩」の下は身に約して徒衆を明かす。(今の所引にあらず)。初の文にまた二。初には仏光を明かす。(所引の文の初より、「尚未能尽」に至るまで)。次に仏寿を明かす。(次下の「仏語」より、所引の文の終に至るまで)。初の中にまた四。一には釈迦の讃歎。(文の初より、「皆蒙解脱」に至るまで)。二には諸聖の讃歎。(「無量寿仏」より、「亦復如是」に至るまで)。三には衆生の讃歎。(「若有衆生」より、「亦如今也」に至るまで)。四には如来の結歎。(「仏言我説」已下)。これ則ち初の願成就の文なり。SYOZEN2-348,349/TAI8-36

 〇初文之中。最尊第一諸仏等者。問。諸仏功徳実無差別。何於光明有勝劣耶。答。如彼礼讃前序問答。於其果位是雖平等。依因位願。非無差別。此仏既以光明名号摂化十方。阿弥陀者即無量光無量寿也。弥陀如来為其本故最尊第一。最尊第一余不及也。言乃至者。或有仏光照百仏世界。或千仏世界。取要言之。乃照東方恒沙仏刹。南西北方四惟上下亦復如是。或有仏光照于七尺。或照一由旬二三四五由旬。如是転倍乃至照於一仏刹土。已上。今此文者。為讃弥陀光明最尊。先挙諸仏光明不及。以非正讃弥陀光明。且除之也。十二光仏一一功能見下所引憬興師釈。故今不述。三垢等者。於第三巻末引第三十三触光柔軟願。粗解文意畢。若在等者。問。人天善趣猶不能見仏之境界。三塗衆生争見光乎。答。雖顕不見。冥蒙光照。故云見歟。或又現見。是機感也。或依娑婆追福之力。離其苦悩。心地観経云。以其男女追勝福。有大金光照地獄。光中演説深妙法。開悟父母令発意。已上。依追善力見彼仏光。依見仏光。其光施利。仏光功能莫敢疑慮。寿終等者。不限次上三塗苦機。総通上来所帰諸機。言解脱者。近指往生遠指成仏。次諸聖讃歎中。言称説者。問。称揚義歟。称名意歟。答。此含二意。如浄土論讃歎門中所言称彼如来名上句。有其称揚称名義耳。随意者明得生益。又明生後蒙諸歎誉。至其等者。明成道時蒙諸仏歎。SYOZEN2-349,350/TAI8-36,37
  〇初の文の中に、「最尊第一諸仏」等とは、問う、諸仏の功徳は実に差別なし。何ぞ光明に於いて勝劣あるや。答う、彼の『礼讃』の前序の問答の如し。その果位に於ては、これ平等なりといえども、因位の願に依れば差別なきにあらず。この仏は既に光明・名号を以て十方を摂化す。阿弥陀とは即ち無量光・無量寿なり。弥陀如来はその本たるが故に最尊第一なり。最尊第一なれば余は及ばざるなり。「乃至」というは、「或いは仏光の百仏世界を照すあり。あるいは千仏世界なり。要を取りてこれを言わば、乃し東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下も、またまたかくのごとし。あるいは仏の光の七尺を照らすあり。あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとく転た倍して、乃至、一仏刹土を照らす」已上。今この文は、弥陀の光明の最尊なることを讃ぜんが為に、まず諸仏の光明の及ばざることを挙ぐ。正しく弥陀の光明を讃ずるにあらざるを以て、且くこれを除くなり。十二光仏の一一の功能は下に引く所の憬興師の釈に見えたり。故に今は述べず。「三垢」等とは、第三巻の末に第三十三の触光柔軟の願を引くに於いて、ほぼ文の意を解し畢りぬ。「若在」等とは、問う、人天の善趣もなお仏の境界を見ること能わず。三塗の衆生は争でか光を見んや。答う、顕に見ずといえども、冥に光照を蒙る。故に見というか。或いはまた現に見る。これ機感なり。或いは娑婆追福の力に依りて、その苦悩を離る。『心地観経』に云わく「その男女の追勝の福を以て、大金光ありて地獄を照らす。光の中に深妙の法を演説して、父母を開悟して意を発さしむ」已上。追善の力に依りて彼の仏光を見る。仏光を見るに依りて、その光は利を施す。仏光の功能は敢て疑慮することなかれ。「寿終」等とは、次上の三塗の苦機に限らず。総じて上来所帰の諸機に通ず。「解脱」というは、近くは往生を指し、遠くは成仏を指す。次に諸聖の讃歎の中に、「称説」というは、問う、称揚の義なるか、称名の意なるか。答う、これに二意を含す。『浄土論』の讃歎門の中に言う所の「称彼如来名」の上の句に、その称揚称名の義あるが如くならくのみ。「随意」とは、得生の益を明かす。また生後に諸の歎誉を蒙ることを明かす。「至其」等とは、成道の時に諸仏の歎を蒙むることを明かす。SYOZEN2-349,350/TAI8-36,37

 ◎仏語阿難。無量寿仏寿命長久不可勝計。汝寧知乎。仮使十方世界無量衆生皆得人身。悉令成就声聞縁覚。都共集会。禅思一心。竭其智力。於百千万劫悉共推算。計其寿命長遠之数。不能窮尽知其限極。抄出。
  ◎(大経)仏、阿難に語りたまわく、無量寿仏は、寿命長久にして勝計すべからず。汝むしろ知らんや。たとい十方世界の無量の衆生、みな人身を得て、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、すべて共に集会して、思いを禅らにし、心を一つにして、その智力を竭して、百千万劫において、ことごとく共に推算して、その寿命の長遠の数を計んに、窮尽してその限極を知ることあたわじと。抄出。SINBUTU:SYOZEN2-121/-HON-301,HOU-412

 〇次明仏寿中。又分為二。初標長遠。(自無量寿仏。至汝寧知乎)。次寄事顕長。(自仮使十方。至所引文終)。是即次願成就文也。文意可見。不及委解。SYOZEN2-350/TAI8-37
  〇次に仏寿を明かす中に、また分ちて二と為す。初には長遠を標す。(「無量寿仏」より「汝寧知乎」に至るまで)。次に事に寄せて長を顕わす。(「仮使十方」より、所引の文の終りに至るまで)。これ即次の願成就の文なり。文の意は見つべし。委しく解するに及ばず。SYOZEN2-350/TAI8-37

 ◎無量寿如来会言。阿難以是義故。無量寿仏復有異名。謂無量光・無辺光・無著光・無碍光・光照王端厳光・愛光・喜光・可観光・不可思議光・無等不可称量光・暎蔽日光・暎蔽月光・掩奪日月光。彼之光明清浄広大。普令衆生身心悦楽。復令一切余仏刹中天龍夜叉阿修羅等。皆得歓悦。已上。
  ◎『無量寿如来会』に言わく、阿難、この義をもってのゆえに、無量寿仏また異名まします。謂わく、無量光・無辺光・無着光・無碍光・光照王・端厳光・愛光・喜光・可観光・不可思議光・無等光・不可称量光・暎蔽日光・暎蔽月光・掩奪日月光なり。かの光明、清浄広大にして、普く衆生をして身心悦楽せしむ。また一切余の仏刹の中の天・龍・夜叉・阿修羅等、みな歓悦を得しむと。已上。SINBUTU:SYOZEN2-121/HON-301,HOU-412

 〇次如来会文。SYOZEN2-350/TAI8-57
  〇次に『如来会』の文。SYOZEN2-350/TAI8-57

 ◎無量清浄平等覚経言(帛延訳)。速疾超便可到安楽国之世界。至無量光明土供養於無数仏。已上。
  ◎『無量清浄平等覚経』(帛延訳)に言わく、速疾に超えて、すなわち安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養すと。已上。SINBUTU:SYOZEN2-122/HON-301,302,HOU-412

 〇次平等覚経。各以可見。SYOZEN2-350/TAI8-60
  〇次に『平等覚経』。おのおの以て見つべし。SYOZEN2-350/TAI8-60

 ◎仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏檀過度人道経(友謙訳)言。仏言。阿弥陀仏光明。最尊第一無比。諸仏光明皆所不及也。八方上下無央数諸仏中。有仏頂中光明照七丈。有仏頂中光明照一里。乃至。有仏頂中光明照二百万仏国。仏言。諸八方上下無央数仏頂中光明所炎照皆如是也。阿弥陀仏頂中光明所炎照千万仏国。所以諸仏光明所照有近遠者何。本其前世宿命求道為菩薩。照所願功徳各自有大小。至其然後作仏時。各自得之。是故令光明転不同等。諸仏威神同等耳。自在意所欲作為不予計。阿弥陀仏光明所照最大。諸仏光明皆所不能及也。仏称誉阿弥陀仏光明極善。阿弥陀仏光明極善。善中明好。其快無比。絶殊無極也。阿弥陀仏光明清潔。無瑕穢無欠減也。阿弥陀仏光明殊好。勝於日月之明百千億万倍。諸仏光明中之極明也。光明中之極好也。光明中之極雄傑也。光明中之快善也。諸仏中之王也。光明中之極尊也。光明中之最明無極也。炎照諸無数天下幽冥之処。皆常大明。諸有人民[ケン06]飛蠕動之類。莫不見阿弥陀仏光明也。見者莫不慈心歓喜者。世間諸有婬[イツ01]瞋怒愚癡者。見阿弥陀仏光明莫不作善也。諸在泥梨禽狩辟茘考掠勤苦之処。見阿弥陀仏光明。至皆休止不得復治。死後莫不得解脱憂苦者也。阿弥陀仏光明名。聞八方上下無窮無極無央数諸仏国。諸天人民莫不聞知。聞知者莫不度脱也。仏言。不独我称誉阿弥陀仏光明也。八方上下無央数仏辟支仏菩薩阿羅漢。所称誉皆如是。仏言。其有人民善男子善女人。聞阿弥陀仏声称誉光明。朝暮常称誉其光好。至心不断絶。在心所願。往生阿弥陀仏国。已上。
  ◎『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(支謙訳)に言わく、仏の言わく、阿弥陀仏の光明は最尊第一にして比びなし。諸仏の光明みな及ばざるところなり。八方上下無央数〈央 おう・なかば〉の諸仏の中に、仏の頂中の光明の七丈を照らすあり。仏の頂中の光明の一里を照らすあり。乃至。仏の頂中の光明の二百万仏国を照らすあり。仏の言わく、もろもろの八方上下無央数の仏の頂中の光明の炎照するところ、みなかくのごとくなり。阿弥陀仏の頂中の炎照〈炎照 かがやかし〉するところ、千万仏国なり。諸仏の光明の照らすところに近遠ある所以は何となれば、本それ前世の宿命に、道を求めて菩薩たりしに、所願を照らすに、功徳おのおの自ずから大小あり。それ然して後に、仏に作る時に至りて、おのおの自らこれを得たり。このゆえに光明転た同等ならざらしむ。諸仏の威神同等なるならくのみと。自在の意の所欲、作為して予〈予 あらかじ・カネテ〉め計らず。阿弥陀仏の光明の照らすところ、最大なり。諸仏の光明みな及ぶことあたわざるところなり。仏、阿弥陀仏の光明の極善なることを称誉〈誉 ホム〉したもう。阿弥陀仏の光明は、極善にして善の中の明好なり。それ快きこと比びなし。絶殊〈タエ スグル〉無極なり。阿弥陀仏の光明は、清潔にして瑕穢なし、欠減なきなり。阿弥陀仏の光明は、殊好なること日月の明よりも勝れたること、百千億万倍なり。諸仏の光明の中の極明なり。光明の中の極好なり。光明の中の極雄傑〈雄 タケキナリ。傑 イサギヨシ〉なり。光明の中の快善なり。諸仏の中の王なり。光明の中の極尊なり。光明の中の最明無極なり。もろもろの無数天下の幽冥の処を炎照〈炎 ホノオ。照 カガヤキ〉するに、みな常に大明なり。諸有の人民、[ケン06]飛蠕動〈[ケン06] ムクメク。蠕 ムクメク〉の類、阿弥陀仏の光明を見ざることなきなり。見たてまつる者、慈心歓喜せざる者なけん。世間諸有の婬[イツ01]・瞋怒・愚痴の者、阿弥陀仏の光明を見たてまつりて、善を作さざるはなきなり。もろもろの泥梨〈カクイナリ〉・禽狩〈ケダモノナリ〉・辟茘・考掠・勤苦の処にありて、阿弥陀仏の光明を見たてまつれば、至りてみな休止して、また治することを得ざれども、死して後、憂苦を解脱することを得ざる者なきなり。阿弥陀仏の光明と名とは、八方上下無窮無極無央数の諸仏の国に聞かしめたまう。諸天人民、聞知せざるはなし。聞知せん者、度脱せざるはなきなり。仏の言わく、独り我、阿弥陀仏の光明を称誉せざるなり。八方上下無央数の仏・辟支仏・菩薩・阿羅漢、称誉するところみなかくのごとし。仏の言わく、それ人民、善男子・善女人ありて、阿弥陀仏の声〈ミナ〉を聞きて、光明を称誉して、朝暮に常にその光好を称誉して、心を至して断絶せざれば、心の所願にありて、阿弥陀仏国に往生すと。已上。SINBUTU:SYOZEN2-122,123/HON-302,303,HOU-413,414

 〇次大阿弥陀経。諸仏中有仏頂等者。問。大経之中。諸仏弥陀不説頂光。今何相違。若限頂者。此非具足挙身光乎。答。異訳相違。此非今始。不及和会。但雖云頂。不遮挙身。只挙身中且出頂歟。SYOZEN2-350/TAI8-63
  〇次に『大阿弥陀経』。「諸仏中有仏頂」とは、問う、『大経』の中に、諸仏弥陀、頂光を説かず。今何ぞ相違するや。もし頂に限らば、これ挙身の光を具足するにあらざるをや。答う、異訳の相違、これ今に始まりたるにあらず。和会するに及ばず。但し頂というといえども、挙身を遮せず。ただ挙身の中に且く頂を出だすか。SYOZEN2-350/TAI8-63

 ◎不空羂索神変真言経言。汝当生処。是阿弥陀仏清浄報土。蓮華化生。常見諸仏。証諸法忍。寿命無量百千劫数。直至阿耨多羅三藐三菩提。不復退転。我常祐護。已上。
  ◎『不空羂索神変真言経』に言わく、汝当生の処は、これ阿弥陀仏の清浄報土なり。蓮華より化生して、常に諸仏を見たてまつる。もろもろの法忍を証せん。寿命無量百千劫数ならん。直ちに阿耨多羅三藐三菩提に至る。また退転せず。我常に祐護〈祐 タスク。護 マモル〉すと。已上。SINBUTU:SYOZEN2-123/HON-303,HOU-414

 〇次不空羂索神変真言経。巻数三十巻。菩提流支三蔵訳。清浄報土其説分明。是故引之証真仏土。SYOZEN2-350/TAI8-68
  〇次に『不空羂索神変真言経』。巻数三十巻。菩提流支三蔵の訳。清浄の報土、その説分明なり。この故にこれを引きて真仏土を証す。SYOZEN2-350/TAI8-68

 ◎涅槃経言。又解脱者名曰虚無。虚無即是解脱。解脱即是如来。如来即是虚無。非作所作。乃至。真解脱者不生不滅。是故解脱即是如来。如来亦爾。不生不滅不老不死不破不壊。非有為法。以是義故。名曰如来入大涅槃。乃至。
  ◎『涅槃経』(四相品)に言わく、また解脱は、名づけて虚無と曰う。虚無はすなわちこれ解脱なり。解脱はすなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ虚無なり。非作の所作なり。乃至。真解脱とは不生不滅なり。このゆえに解脱はすなわちこれ如来なり。如来また爾なり。不生不滅・不老不死・不破不壊にして、有為の法にあらず。この義をもってのゆえに、名づけて如来入大涅槃と曰う。乃至。SINBUTU:SYOZEN2-123/HON-303,304,HOU-414-

 〇次涅槃経文。問。此経聖道為聖之説。非今所依。随而所引経文之中。無一句而説浄土文。何引之乎。答。雖為聖道所依之経。如来教法元無二故。二門雖異。和会無違。集主御意。深達此義明了弥陀名義功徳全為涅槃無上極理。以此義故。明真仏土極談已証。故被引用涅槃妙文。於第三本被引用彼経之下。粗述義畢。閑案大経一部説相。弥陀功徳説為五智。五智功徳説為無上。其経文云。於此諸智疑惑不信。然猶信罪福。修習善本。此諸衆生生彼宮殿寿五百歳。乃至。其有菩薩生疑惑者。為失大利。是故応当明信諸仏無上智慧。已上。又云。其有得聞。彼仏名号。歓喜踊躍乃至一念。当知此人為得大利。則是具足無上功徳。已上。今所言之無上智慧無上功徳。是則無上涅槃之義。言智慧者。於三徳中且挙般若。此中即具法身解脱之徳。阿弥陀者即為三徳之秘蔵故。弥陀仏智既云無上。涅槃極理又云無上。二種無上。其体是一。自余皆是有上之法。其義必然。瑜伽論云。復次云何有上法。謂除涅槃。余一切法。已上。又諸法中。大般涅槃為無上義。見智度論。凡大師意。名号功徳即涅槃徳。法事讃云。極楽無為涅槃界。随縁雑善恐難生。故使如来選要法教念弥陀専復専。已上。今此一偈。既讃極楽以為無上涅槃之界。而云随縁雑善難生。専念弥陀以為生因。故知所遮雑善等者。有上法故不生涅槃無上之土。唯勧称名。以無上法可生涅槃無上土故。以之言之。阿弥陀者涅槃名号。故処処釈皆顕涅槃弥陀一法之深旨耳。事讃又云。弥陀妙果号云無上涅槃。已上。般舟讃云。念仏即是涅槃門者。是顕称名為能入門。以涅槃理為所入城者。所入城者即浄土也。以其義故。或云直取涅槃城。或云入彼涅槃城。又般舟讃云。若往若還皆得益。本国他方亦無二。悉是涅槃平等法。諸仏智慧亦同然。已上。於其究竟平等功徳。而依別願立名之時。号阿弥陀。是故信知阿弥陀義。称其名号。自諸凡夫不平等見。所起罪悪自然消除。涅槃平等無上功徳自然円満。名号功徳往生勝利。決定不空。以之可知。問。若云爾者。不知如此深理之輩。不可輙得生浄土乎。答。知与不知共得往生。得往生者。只依信心。一家解釈其意分明。凡諸経中。雖未必悉顕説弥陀名義功徳。謂其密意。諸仏内証甚深至理。併在弥陀。大師釈云。諸経頓教文義歴然。蓋此謂也。而世以為浄土法門。浅近有相。只是如来慰喩一途方便化門。不及諸宗無相極談。集主之意。為破此見。粗示自解。彼甚深理。更以不離阿弥陀仏仏智無上涅槃平等之深理故。為欲識人。引此等経。被顕此義。尤可仰之。SYOZEN2-350,351,352/TAI8-72,73
  〇次に『涅槃経』の文。問う、この経は聖道為聖の説、今の所依にあらず。随いて、所引の経文の中に一句として浄土を説く文なし。何ぞこれを引くや。答う、聖道所依の経たりといえども、如来の教法は元より無二なるが故に、二門異なるといえども、和会すれば違することなし。集主の御意は、深くこの義に達して明かに弥陀の名義功徳は全く涅槃無上の極理たることを了す。この義を以ての故に、真仏土極談の已証を明かすとして、故らに『涅槃』の妙文を引用せらる。第三の本に彼の経を引用せらる下に於いて、ほぼ義を述べ畢わりぬ。閑に『大経』一部の説相を案ずるに、弥陀の功徳を説きて五智と為す。五智の功徳を説きて無上と為す。その経文に云わく「この諸智に於いて疑惑して信ぜず。しかもなお罪福を信じ善本を修習す。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて寿五百歳、(乃至)それ菩薩ありて疑惑を生ずる者は大利を失すとす。この故にまさに明らかに諸仏無上の智慧を信ずべし」已上。また云わく「それ、彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念することあらん。当に知るべし、この人は大利を得とす。則ちこれ無上の功徳を具足するなり」已上。今言う所の無上智慧・無上功徳は、これ則ち無上涅槃の義なり。「智慧」というは、三徳の中に於いて且く般若を挙ぐ。この中に即ち法身・解脱の徳を具す。阿弥陀とは即ち三徳の秘蔵たるが故に、弥陀の仏智を既に無上といい、涅槃の極理をまた無上という。二種の無上は、その体これ一なり。自余は皆これ有上の法なること、その義必然なり。『瑜伽論』に云わく「また次に云何なるか有上の法、謂わく涅槃を除きて、余の一切の法なり」已上。また諸法の中に、大般涅槃を無上とるす義は『智度論』に見えたり。凡そ大師の意は、名号の功徳は即ち涅槃の徳なり。『法事讃』に云わく「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善は恐らくは生じ難し。故に如来は要法を選びて教えて弥陀を念ずること、専らにして、また専ならしむ」已上。今この一偈は、既に極楽を讃じて以て無上涅槃の界と為す。而も随縁の雑善は生じ難しといいて、専念弥陀を以て生因と為す。故に知りぬ、遮する所の雑善等は有上の法なるが故に、涅槃無上の土に生ぜず。ただ称名を勧むることは、無上の法は涅槃無上の土に生ずべきを以ての故に、これを以てこれを言うに、阿弥陀とは涅槃の名号なり。故に処処の釈はみな涅槃弥陀一法の深旨を顕わすらくのみ。『事讃』にまた云わく「弥陀の妙果を号して無上涅槃という」已上。『般舟讃』に云わく「念仏は即ちこれ涅槃門」とは、これ称名を能入の門と為し、涅槃の理を以て所入の城と為すことを顕わすものなり。所入の城とは即ち浄土なり。その義を以ての故に、或いは「直ちに涅槃の城を取らん」といい、或いは「彼の涅槃の城に入らん」という。また『般舟讃』に云わく「もしは往、もしは還、みな益を得。本国・他方また二なし。悉くこれ涅槃平等の法なり。諸仏の智慧また同じく然なり」已上。その究竟平等の功徳に於いて、而も別願に依りて名を立つる時は阿弥陀と号す。この故に阿弥陀の義を信知して、その名号を称するに、諸の凡夫不平等の見より起す所の罪悪は自然に消除して、涅槃平等無上の功徳は自然に円満す。名号の功徳、往生の勝利、決定して空しからず。これを以て知るべし。問う、もし爾りといわば、かくの如きの深理を知らざらん輩は、輙く浄土に生ずることを得べからずや。答う、知ると知らざると、共に往生を得。往生を得ることは、ただ信心に依る。一家の解釈は、その意分明なり。凡そ諸経の中に未だ必ずしも悉く弥陀の名義の功徳を顕説せずといえども、その密意を謂うに、諸仏の内証、甚深の至理は、併せて弥陀に在り。大師の釈して「諸経に頓教の文義歴然なり」という、蓋しこの謂なり。而るに世以ておもえらく、浄土の法門は浅近有相にして、ただこれ如来慰喩の一途、方便の化門なり、諸宗の無相の極談に及ばずと。集主の意は、この見を破せんが為に、ほぼ自解を示す。彼の甚深の理は、更に以て阿弥陀仏仏智無上涅槃平等の深理を離れざるが故に、識らんと欲わん人の為に、これらの経を引きてこの義を顕わさる。尤もこれを仰ぐべし。SYOZEN2-350,351,352/TAI8-72,73

 ◎又解脱者名無上上。乃至。無上上者。即真解脱。真解脱者即是如来。乃至。若得成於阿耨多羅三藐三菩提已。無愛無疑。無愛無疑即真解脱。真解脱者即是如来。乃至。如来者即是涅槃。涅槃者即是無尽。無尽者即是仏性。仏性者即是決定。決定者即是阿耨多羅三藐三菩提。迦葉菩薩白仏言。世尊。若涅槃・仏性・決定・如来。是一義名。云何説言有三帰依。仏告迦葉。善男子。一切衆生怖畏生死故求三帰。以三帰故則知仏性・決定・涅槃。善男子。有法名一義異。有法名義倶異。名一義異者。仏・常法・常比丘僧常。涅槃・虚空皆亦是常。是名名一義異。名義倶異者。仏名為覚。法名不覚。僧名和合。涅槃名解脱。虚空名非善亦名無碍是為名義倶異。善男子。三帰依者亦復如是。略出。
  ◎(涅槃経・四相品)また解脱とは無上上と名づく。乃至。無上上はすなわち真解脱なり。真解脱は、すなわちこれ如来なり。乃至。もし阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得已りて、無愛無疑なり。無愛無疑はすなわち真解脱なり。真解脱はすなわちこれ如来なり。乃至。如来はすなわちこれ涅槃なり。涅槃はすなわちこれ無尽なり。無尽はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ決定なり。決定はすなわちこれ阿耨多羅三藐三菩提なり。迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊、もし涅槃と仏性と決定と如来と、これ一義の名ならば、いかんぞ説きて三帰依ありとのたまうやと。仏、迦葉に告げたまわく、善男子、一切衆生、生死を怖畏するがゆえに、三帰を求む。三帰をもってのゆえに、すなわち仏性と決定と涅槃とを知る。善男子、法の名一・義異なるあり。法の名義倶異なるあり。名一・義異とは、仏と常法と常比丘僧とは常なり。涅槃・虚空、みなまたこれ常なり。これを名一・義異と名づく。名義倶異とは、仏を名づけて覚とす、法を不覚と名づく、僧を和合と名づく、涅槃を解脱と名づく、虚空を非善と名づく、また無碍と名づく。これを名義倶異とす。善男子、三帰依とはまたかくのごとし。略出。SINBUTU:SYOZEN2-123,124/-HON-304,HOU-414,415

 〇名一義異等者。通於三宝涅槃虚空。云常名一。仏法僧異云義異歟。名義倶異等者。仏法僧等其名皆異。覚不覚等其名皆異故。倶異之義其意易見。SYOZEN2-352/TAI8-79
  〇「名一・義異」等とは、三宝と涅槃と虚空とに通じて、常というを一と名づく。仏と法と僧と異なるを義異というか。「名義倶異」等とは、仏・法・僧等は、その名みな異なり。覚・不覚等は、その名みな異なるが故に。倶異の義、その意は見やすし。SYOZEN2-352/TAI8-79

 ◎又言。光明者名不羸劣。不羸劣者名曰如来。又光明者名為智慧。已上。
  ◎(涅槃経・四依品)また言わく、光明とは不羸劣に名づく。不羸劣とは、名づけて如来と曰う。また光明は名づけて智慧とすと。已上。SINBUTU:SYOZEN2-124/HON-304,HOU-415

 ◎又言。善男子。一切有為皆是無常。虚空無為。是故為常。仏性無為。是故為常。虚空者即是仏性。仏性者即是如来。如来者即是無為。無為者即是常。常者即是法。法者即是僧。僧即無為。無為者即是常。乃至。善男子。譬如従牛出乳。従乳出酪。従酪出生蘇。従生蘇出熟蘇。従熟蘇出醍醐。醍醐最上。若有服者衆病皆除。所有諸薬悉入其中。善男子。仏亦如是。従仏出十二部経。従十二部経出修多羅。従修多羅出方等経。従方等経出般若波羅蜜。従般若波羅蜜出大涅槃。猶如醍醐。言醍醐者喩於仏性。仏性者即是如来。善男子。如是義故。説言如来所有功徳無量無辺不可称計。抄出。
  ◎(涅槃経・聖行品)また言わく、善男子、一切有為はみなこれ無常なり。虚空は無為なり、このゆえに常とす。仏性は無為なり、このゆえに常とす。虚空はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり、如来はすなわちこれ無為なり、無為はすなわちこれ常なり、常はすなわちこれ法なり、法はすなわちこれ僧なり、僧はすなわち無為なり、無為はすなわちこれ常なり。乃至。善男子、譬えば牛より乳を出だす、乳より酪を出だす、酪より生蘇を出だす、生蘇より熟蘇を出だす、熟蘇より醍醐を出だす、醍醐最上なり。もし服することある者は、衆病みな除こる。あらゆるもろもろの薬は、ことごとくその中に入るがごとし。善男子、仏もまたかくのごとし。仏より十二部経を出だす、十二部経より修多羅を出だす、修多羅より方等経を出だす、方等経より般若波羅蜜を出だす、般若波羅蜜より大涅槃を出だす。なおし醍醐のごとし。醍醐というは、仏性に喩う。仏性は、すなわちこれ如来なり。善男子、かくのごときの義のゆえに、説きて、如来所有の功徳は無量無辺不可称計と言えり。抄出。SINBUTU:SYOZEN2-124,125/HON-304,305,HOU-415,416

 〇譬如従牛等者。雪山有草名曰忍辱。牛食其草乳所出味言之五味。天台喩之立五時教。乳即華厳。酪是阿含。生蘇方等。熟蘇般若。醍醐法華与涅槃也。下合譬云仏亦如是等是也。従仏等者。十二部経先指華厳。修多羅者次指阿含。方等般若大涅槃者在文顕露。仏性等者即涅槃也。経説一切衆生悉有仏性故也。SYOZEN2-352/TAI8-93,94
  〇「譬如従牛」等とは、雪山に草あり、名づけて忍辱という。牛のその草を食して、乳より出だす所の味、これを五味という。天台はこれに喩えて五時の教を立つ。乳は即ち華厳、酪はこれ阿含、生蘇は方等、熟蘇は般若、醍醐は法華と涅槃となり。下の合譬に「仏もまたかくのごとし」等、これなり。「従仏」等とは、「十二部経」はまず華厳を指す。「修多羅」とは次に阿含を指す。「方等」「般若」「大涅槃」は文に在りて顕露なり。「仏性」等とは即ち涅槃なり。経に「一切衆生悉有仏性」と説くが故なり。SYOZEN2-352/TAI8-93,94

 ◎又言。善男子。道有二種。一者常。二者無常。菩薩之相亦有二種。一者常。二者無常。涅槃亦爾。外道道名為無常。内道道者名之為常。声聞縁覚所有菩提。名為無常。菩薩諸仏所有菩提。名之為常。外解脱者名為無常。内解脱者名之為常。善男子。道与菩提及以涅槃。悉名為常。一切衆生常為無量煩悩所覆。無慧眼故不能得見。而諸衆生為欲見修戒定慧。以修行故見道菩提及以涅槃。是名菩薩得道菩提涅槃。道之性相実不生滅。以是義故不可投持。乃至。道者雖無色像可見。称量可知。而実有用。乃至。如衆生心。雖非是色。非長非短。非麁非細。非縛非解非見。法而亦是有。抄出
  ◎(涅槃経・梵行品)また言わく、善男子、道に二種あり。一は常、二は無常なり。菩薩〈菩提〉の相に、また二種あり。一は常、二は無常なり。涅槃もまたしかなり。外道の道を名づけて無常とす、内道の道をば、これを名づけて常とす。声聞・縁覚所有の菩提を名づけて無常とす、菩薩・諸仏の所有の菩提、これを名づけて常とす。外の解脱は名づけて無常とす、内の解脱はこれを名づけて常とすと。善男子、道と菩提とおよび涅槃と、ことごとく名づけて常とす。一切衆生は、常に無量の煩悩のために覆われて慧眼なきがゆえに、見ることを得ることあたわず。而るにもろもろの衆生、戒定慧を修するを見んと欲うがために、修行をもってのゆえに、道と菩提とおよび涅槃とを見る。これを菩薩は道菩提涅槃を得と名づく。道の性相は実に不生滅なり。この義をもってのゆえに、捉持すべからず。乃至。道は色像の見つべく、称量して知るべきことなしといえども、しかも実に用あり。乃至。衆生の心のごときは、これ色にあらず、長にあらず短にあらず、麁にあらず細にあらず、縛にあらず解にあらず、見にあらずといえども、法としてまたこれ有なりと。抄出。SINBUTU:SYOZEN2-125/HON-305,HOU-416

 ◎又言。善男子。有大楽故名大涅槃。涅槃無楽。以四楽故名大涅槃。何等為四。一者断諸楽故。不断楽者則名為苦。若有苦者不名大楽。以断楽故則無有苦。無苦無楽乃名大楽。涅槃之性無苦無楽。是故涅槃名為大楽。以是義故名大涅槃。復次善男子。楽有二種。一者凡夫。二者諸仏。凡夫之楽無常敗壊。是故無楽。諸仏常楽。無有変易。故名大楽。復次善男子。有三種受。一者苦受。二者楽受。三者不苦不楽受。不苦不楽是亦為苦。涅槃雖同不苦不楽。然名大楽。以大楽。故名大涅槃。二者大寂静故名為大楽。涅槃之性是大寂静。何以故。遠離一切[カイ01]閙法故。以大寂故名大涅槃。三者一切智故名為大楽。非一切智不名大楽。諸仏如来一切智故名為大楽。以大楽故名大涅槃。四者身不壊故名為大楽。身若可壊則不名楽。如来之身金剛無壊。非煩悩身無常之身。故名大楽。以大楽故名大涅槃。已上。
  ◎(涅槃経・徳王品)また言わく、善男子、大楽あるがゆえに大涅槃と名づく。涅槃は無楽なり。四楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。何等をか四とする。一つには諸楽を断ずるがゆえに。楽を断ぜざるは、すなわち名づけて苦とす。もし苦ある者は大楽と名づけず。楽を断ずるをもってのゆえに、すなわち苦あることなし。無苦・無楽をすなわち大楽と名づく。涅槃の性は無苦・無楽なり。このゆえに涅槃を名づけて大楽とす。この義をもってのゆえに大涅槃と名づく。また次に善男子、楽に二種あり、一には凡夫、二には諸仏なり。凡夫の楽は無常敗壊なり、このゆえに無楽なり。諸仏は常楽なり、変易あることなきがゆえに大楽と名づく。また次に善男子、三種の受あり。一には苦受、二には楽受、三には不苦不楽受なり。不苦不楽はこれまた苦とす。涅槃も不苦不楽に同じといえども、しかも大楽と名づく。大楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。二には大寂静のゆえに名づけて大楽とす。涅槃の性はこれ大寂静なり。何をもってのゆえに、一切[カイ01]閙〈[カイ01] イツワリ。 閙 イツワリ〉の法を遠離せるゆえに。大寂をもってのゆえに大涅槃と名づく。三には一切智のゆえに名づけて大楽とす。一切智にあらざるをば大楽と名づけず。諸仏如来は一切智のゆえに名づけて大楽とす。大楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。四には身不壊のゆえに名づけて大楽とす。身もし壊るべきは、すなわち楽と名づけず。如来の身は金剛にして壊るることなし。煩悩の身、無常の身にあらず、ゆえに大楽と名づく。大楽をもってのゆえに大涅槃と名づく。已上。SINBUTU:SYOZEN2-125,126/HON-305,306,HOU-416,417

 〇有大楽故名大涅槃等者。名彼浄土。或曰極楽。或曰安楽。是順涅槃大楽之義。故浄土論名義摂対之章中云。向説無染清浄心安清浄心楽清浄心。此三種心略一処成就妙楽勝真心。己上。彼土成就浄妙楽故。縁仏土心又成此心。案此等義。涅槃之理与阿弥陀。全以契会。但涅槃者。従理之称。弥陀名号随事之号。事理似異事理不二。畢竟平等終無差別。是解云楽涅槃之理表極楽義。SYOZEN2-352,353/TAI8-109,110
  〇「大楽あるが故に大涅槃と名づく」等とは、彼の浄土を名づけて、或いは極楽といい、或いは安楽という。これ涅槃大楽の義に順う。故に『浄土論』の名義摂対の章の中に云わく「さきに説きつる、無染清浄心と安清浄心と楽清浄心と、この三種の心は、略して一処に妙楽勝真心を成就す」己上。彼の土は浄妙の楽を成就するが故に、仏土を縁ずる心は、またこの心を成ず。これらの義を案ずるに、涅槃の理と阿弥陀と、全く以て契会す。但し涅槃とは、理に従る称、弥陀の名号は事に随える号なり。事理、異なるに似たれども、事理不二、畢竟平等にして終に差別なし。ここに楽というは涅槃の理、極楽を表する義を解す。SYOZEN2-352,353/TAI8-109,110

 ◎又言。不可称量不可思議故。得名為大般涅槃。以純浄故名大涅槃。云何純浄。浄有四種。何等為四。一者二十五有名為不浄。能永断故得名為浄。浄即涅槃。如是涅槃亦得名有而是涅槃。実非是有。諸仏如来随世俗故説涅槃有。譬如世人非父言父。非母言母。実非父母而言父母。涅槃亦爾。随世俗故説言諸仏有大涅槃。二者業清浄故。一切凡夫業不清浄故無涅槃。諸仏如来業清浄故。故名大浄。以大浄故名大涅槃。三者身清浄故。身若無常則名不浄。如来身常故名大浄。以大浄故名大涅槃。四者心清浄故。心若有漏名曰不浄。仏心無漏故名大浄。以大浄故名大涅槃。善男子。是名善男子善女人。抄出。
  ◎(涅槃経・徳王品)また言わく、不可称量・不可思議なるがゆえに、名づけて大般涅槃とすることを得。純浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。いかんが純浄なる。浄に四種あり。何等をか四とする。一には二十五有を名づけて不浄とす。よく永く断ずるがゆえに、名づけて浄とすることを得。浄すなわち涅槃なり。かくのごときの涅槃、また有と名づくることを得。而して涅槃は実にこれ有にあらず。諸仏如来、世俗に随うがゆえに涅槃は有なりと説きたまえり。譬えば世人の、父にあらざるを父と言い、母にあらざるを母と言う、実に父母にあらずして父母と言うがごとし。涅槃もまたしかなり。世俗に随うがゆえに、説きて諸仏大涅槃ありと言えり。二には業清浄のゆえに。一切凡夫の業は、不清浄のゆえに涅槃なし。諸仏如来は業清浄のゆえに、故に大浄と名づく。大浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。三には身清浄のゆえに。身もし無常なるを、すなわち不浄と名づく。如来の身は常なるがゆえに大浄と名づく。大浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。四には心清浄のゆえに。心もし有漏なるを名づけて不浄と曰う。仏心は無漏なるがゆえに大浄と名づく。大浄をもってのゆえに大涅槃と名づく。善男子、これを善男子・善女人と名づくと。抄出。SINBUTU:SYOZEN2-126,127/HON-306,307,HOU-417,418

 ◎又言。善男子。諸仏如来煩悩不起。是名涅槃。所有智慧於法無碍。是為如来。如来非是凡夫声聞縁覚菩薩。是名仏性。如来身心智慧遍満無量無辺阿僧祇土無所障碍。是名虚空。如来常住無有変易。名曰実相。以是義故。如来実不畢竟涅槃。是名菩薩。已上。
  ◎(涅槃経・徳王品)また言わく、善男子、諸仏如来は煩悩起こらず。これを涅槃と名づく。所有の智慧、法において無碍なり。これを如来とす。如来はこれ凡夫・声聞・縁覚・菩薩にあらず。これを仏性と名づく。如来は身心も智慧も無量無辺阿僧祇の土に遍満したもう。障碍するところなし。これを虚空と名づく。如来は常住にして変易あることなければ、名づけて実相と曰う。この義をもってのゆえに、如来は実に畢竟涅槃にあらざる、これを菩薩と名づくと。已上。SINBUTU:SYOZEN2-127/HON-307,HOU-418

 ◎又言。迦葉菩薩言。世尊。仏性者常。猶如虚空。何故如来説言未来。如来。若言一闡提輩無善法者。一闡提輩於其同学同師父母親族妻子豈当不生愛念心邪。如其生者。非是善乎。仏言。善哉善哉善男子。快発斯問。仏性者猶如虚空。非過去非未来非現在。一切衆生有三種身。所謂過去・未来・現在。衆生未来具足荘厳清浄之身而得見仏性。是故我言仏性未来。善男子。或為衆生。或時説因為果。或時説果為因。是故経中。説命為食。見色名触。未来身浄故説仏性。世尊。如仏所説義。如是者。何故説言一切衆生悉有仏性。善男子。衆生仏性雖現在無。不可言無。如虚空。性雖無。現在不得言無。一切衆生雖復無常。而是仏性常住無変。是故我於此経中。説衆生仏性非内非外猶如虚空。非内非外如其虚空有。内外者虚空。不名為一為常。亦不得言一切処有。虚空雖復非内非外。而諸衆生悉皆有之。衆生仏性亦復如是。如汝所言一闡提輩。若有身業・口業・意業・取業・求業・後業・解業如是等業。悉是邪業。何以故。不求因果故。善男子。如訶梨勒果根莖枝葉華実悉苦。一闡提業亦復如是。已上。
  ◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、迦葉菩薩の言わく、世尊、仏性は常なり、なおし虚空のごとし。なにがゆえぞ、如来説きて未来と言うやと。如来、もし一闡提の輩善法なしと言わば、一闡提の輩、それ同学・同師・父母・親族・妻子において、あに当に愛念の心を生ぜざるべきや。もしそれ生ぜば、これ善にあらずやと。仏の言わく、善いかな、善いかな、善男子、快くこの問いを発せり。仏性はなお虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身あり、いわゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に荘厳清浄の身を具足し、而して仏性を見ることを得ん。このゆえに我は、仏性は未来なりと言えりと。善男子、あるいは衆生のために、ある時は因を説きて果とす。ある時は果を説きて因とす。このゆえに経の中に命を説きて食とす。色を見て触と名づく。未来の身浄なるがゆえに仏性と説く。世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごとくならば、なにがゆえぞ説きて、一切衆生悉有仏性と言えるや。善男子、衆生の仏性は現在に無なりといえども、無と言うべからず。虚空の性は現在に無なりといえども、無と言うことを得ざるが如し。一切衆生また無常なりといえども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆえに我この経の中において、衆生の仏性は非内非外にして、なお虚空の非内非外なるがごとしと説く。もしそれ虚空に内外あらば、虚空なれども、名づけて一とし常とせず。また一切処に虚空ありと言うことを得ず。また非内非外なりといえども、しかももろもろの衆生ことごとくみなこれありとす。衆生の仏性もまたかくのごとし。汝が言うところの一闡提の輩のごときんば、もし身業・口業・意業・取業・求業・施業・解業かくのごときらの業あれども、ことごとくこれ邪業なり。何をもってのゆえに、因果を求めざるがゆえにと。善男子、訶梨勒果の根・茎・枝・葉・華・実、ことごとく苦きがごとし。一闡提の業もまたかくのごとし。已上。SINBUTU:SYOZEN2-127,128/HON-307,308,HOU-418,419

 ◎又言。善男子。如来具足知諸根力。是故善解分別衆生上中下根。能知是人転下作中。能知是人転中作上。能知是人転上作中。能知是人転中作下。是故当知。衆生根性無有決定。以無定故。或断善根。断已還生。若諸衆生根性定者。終不先断断已復生。亦不応説一闡提輩堕於地獄寿命一劫。善男子。是故如来説一切法無有定相。迦葉菩薩白仏言。世尊。如来具足知諸根力。定知善星当断善根。以何因縁聴其出家。仏言。善男子。我於往昔初出家時。吾吾弟難陀・従弟阿難・提婆達多・子羅[ゴ02]羅。如是等輩皆悉随我出家修道。我若不聴善星出家。其人次当得紹王位。其力自在当壊仏法。以是因縁我便聴其出家修道。善男子。善星比丘若不出家。亦断善根。於無量世都無利益。今出家已雖断善根。能受持戒供養恭敬耆舊長宿有徳之人。修習初禅乃至四禅。是名善因。如是善因能生善法。善法既生。能修習道。既修習道。当得阿耨多羅三藐三菩提。是故我聴善星出家。善男子。若我不聴善星比丘出家受戒。則不得称我為如来具足十力。乃至。善男子。如来善知衆生如是上中下根。是故称仏具知根力。迦葉菩薩白仏言。世尊。如来具足是知根力。是故能知一切衆生上中下根利鈍差別。随人随意随時故。名如来知諸根力。乃至。或有説言犯四重禁作・五逆罪・一闡提等皆有仏性。乃至。
  ◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、善男子、如来は知諸根力を具足したまえり。このゆえに衆生の上・中・下の根を善く解し分別して、能くこの人は下を転じて中と作ると知り、能くこの人は中を転じて上と作ると知り、能くこの人は上を転じて中と作ると知り、能くこの人は中を転じて下と作ると知る。このゆえに当に知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもってのゆえに、あるいは善根を断ず、断じ已りて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、終に先に断じ、断じ已りてまた生ぜじ。また、一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからずと。善男子、このゆえに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまえり。迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊、如来は知諸根力を具足したまえり。定んで、善星は当に善根を断ずべしと知りたまわん。何の因縁をもって、その出家を聴したもうやと。仏の言わく、善男子、我往昔において、初に出家せん時、吾が弟の難陀・従弟の阿難・提婆達多、子の羅[ゴ02]羅、かくのごときらの輩、みなことごとく我に随いて出家して道を修しき。我もし善星が出家を聴さずんば、その人次に当に王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、当に仏法を壊すべし。この因縁をもって、我すなわち、その出家修道を聴す。善男子、善星比丘もし出家せずんば、また善根を断ぜん、無量世においてすべて利益なけん。いま出家し已りて善根を断ずといえども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬し、初禅乃至四禅を修習す。これを善因と名づく。かくのごときの善因はよく善法を生ず。善法既に生ずれば、よく道を修習せん。既に道を修習すれば、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆえに我、善星が出家を聴す。善男子、もし我、善星比丘が出家受戒を聴さずば、すなわち我を称して如来具足十力とすることを得ざらんと。乃至。善男子、如来善く、衆生のかくのごとき上中下の根を知ろしめす。このゆえに、仏を具知根力と称せん。迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊、如来はこの知根力を具足したまえり。このゆえによく一切衆生の上中下の根・利鈍の差別を知ろしめして、人に随い、意に随い、時に随うがゆえに、如来を知諸根力と名づけたてまつる。乃至。あるいは説きて、四重禁を犯し、五逆罪を作り、一闡提等みな仏性ありと言うことあり。乃至。SINBUTU:SYOZEN2-128,129/HON-308,309,HOU-419,420,421-

 ◎如来世尊。為国土故。為時節故。為他語故。為人故。為衆根故。於一法中作二種説。於一名法説無量名。於一義中説無量名。於無量義説無量名。云何一名説無量名。猶如涅槃。亦名涅槃。亦名無生。亦名無出。亦名無作。亦名無為。亦名帰依。亦名窟宅。亦名解脱。亦名光明。亦名灯明。亦名彼岸。亦名無畏。亦名無退。亦名安処。亦名寂静。亦名無相。亦名無二。亦名一行。亦名清涼。亦名無闇。亦名無碍。亦名無静。亦名無濁。亦名広大。亦名甘露。亦名吉祥。是名一名作無量名。云何一義説無量名。猶如帝釈。乃至。云何於無量義説無量名。如仏如来名。為如来義異名異。亦名阿羅呵。義異名異。亦名三藐三仏陀。義異名異。亦名船師。亦名導師。亦名正覚。亦名明行足。亦名大師子王。亦名沙門。亦名婆羅門。亦名寂静。亦名施主。亦名到彼岸。亦名大医王。亦名大象王。亦名大龍王。亦名施眼。亦名大力士。亦名大無畏。亦名宝聚。亦名商主。亦名得解脱。亦名大丈夫。亦名天人師。亦名大分陀利。亦名独無等侶。亦名大福田。亦名大智海。亦名無相。亦名具足八智。如是一切義異名異。善男子。是名無量義中説無量名。復有一義説無量名。所謂如陰。亦名為陰。亦名顛倒。亦名為諦。亦名為四念処。亦名四食。亦名四識住処。亦名為有。亦名為道。亦名為時。亦名為衆生。亦名為世。亦名第一義。亦名三修。謂身戒心。亦名因果。亦名煩悩。亦名解脱。亦名十二因縁。亦名声聞辟支仏。仏亦名地獄餓鬼畜生人天。亦名過去現在未来。是名一義説無量名。善男子。如来世尊。為衆生故。広中説略。略中説広。第一義諦説為世諦。説世諦法為第一義諦。略出。
  ◎(涅槃経・迦葉品)如来世尊は、国土のためのゆえに、時節のためのゆえに、他語のためのゆえに、人のためのゆえに、衆根のためのゆえに、一法の中において二種の説を作す、一名の法において無量名を説く、一義の中において無量の名を説く、無量の義において無量の名を説く。いかんが一名に無量の名を説くや。なお涅槃のごとし。また涅槃と名づく、また無生と名づく、また無出と名づく、また無作と名づく、また無為と名づく、また帰依と名づく、また窟宅と名づく、また解脱と名づく、また光明と名づく、また燈明と名づく、また彼岸と名づく、また無畏と名づく、また無退と名づく、また安処と名づく、また寂静と名づく、また無相と名づく、また無二と名づく、また一行と名づく、また清涼と名づく、また無闇と名づく、また無碍と名づく、また無諍と名づく、また無濁と名づく、また広大と名づく、また甘露と名づく、また吉祥と名づく。これを一名に無量名を作ると名づく。いかんが一義に無量の名を説くや。なおし帝釈のごとし。乃至。いかんが無量の義において無量の名を説くや。仏如来のごとし。名ずけて如来とす。義異にして名異なりと。また阿羅呵と名づく、義異にして名も異なり。また三藐三仏陀と名づく、義異にして名も異なり。また船師と名づく、また導師と名づく、また正覚と名づく、また明行足と名づく、また大師子王と名づく、また沙門と名づく、また婆羅門と名づく、また寂静と名づく、また施主と名づく、また到彼岸と名づく、また大医王と名づく、また大象王と名づく、また大龍王と名づく、また施眼と名づく、また大力士と名づく、また大無畏と名づく、また宝聚と名づく、また商主と名づく、また得解脱と名づく、また大丈夫と名づく、また天人師と名づく、また大分陀利と名づく、また独無等侶と名づく、また大福田と名づく、また大智海と名づく、また無相と名づく、また具足八智と名づく。かくのごとき一切、義異にして名も異なり。善男子、これを無量義の中に無量の名を説くと名づく。また一義に無量の名を説くことあり。いわゆる陰のごとし。また名づけて陰とす、また顛倒と名づく、また名づけて諦とす、また名づけて四念処とす、また四食と名づく、また四識住処と名づく、また名づけて有とす、また名づけて道とす、また名づけて時とす、また名づけて衆生とす、また名づけて世とす、また第一義と名づく、また三修と名づく、謂わく身・戒・心なり、また因果と名づく、また煩悩と名づく、また解脱と名づく、また十二因縁と名づく、また声聞・辟支仏と名づく、仏をまた地獄・餓鬼・畜生・人・天と名づく、また過去・現在・未来と名づく、これを一義に無量の名を説くと名づく。善男子、如来世尊、衆生のためのゆえに、広の中に略を説く、略の中に広を説く。第一義諦を説きて世諦とす。世諦の法を説きて第一義諦とすと。略出。SINBUTU:SYOZEN2-129,130/-HON-310,311,HOU-420,421,422

 ◎又言。迦葉復言。世尊第一義諦亦名為道。亦名菩提。亦名涅槃。乃至。
  ◎(涅槃経・梵行品)また言わく、迦葉また言さく、世尊、第一義諦をまた名づけて道とす、また菩提と名づく、また涅槃と名づくと。乃至。SINBUTU:SYOZEN2-130/HON-311,HOU-422

 ◎又言。善男子。我以経中説如来身。凡有二種。一者生身。二者法身。言生身者。即是方便応化之身。如是身者。可得言是生老病死・長短黒白・是此是彼・是学無学。我諸弟子聞是説已。不解我意唱言。如来定説仏身是有為法。法身即是常楽我浄。永離一切生老病死・非白非黒・非長非短・非此非彼・非学非無学。若仏出世及不出世。常不動無有変易。善男子。我諸弟子聞是説已。不解我意唱言。如来定説仏身是無為法。
  ◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、善男子、我以て経の中に説かく。如来の身におおよそ二種あり。一には生身、二には法身なり。生身と言うは、すなわちこれ方便応化の身なり。かくのごとき身は、これ生老病死、長短黒白、これは此・これは彼、これは学・無学なりと言うことを得べし。我がもろもろの弟子、この説を聞き已りて、我が意を解らざれば、唱えて言わく、如来定んで仏身はこれ有為の法なりと説かんと。法身はすなわちこれ常楽我浄なり。永く一切の生老病死、非白非黒、非長非短、非此非彼、非学非無学を離れたまえり。もしは仏の出世、および不出世に常に動ぜずして変易あることなけん。善男子、我がもろもろの弟子この説を聞き已りて、我が意を解さずして、唱えて言わく、如来は定んで仏身はこれ無為の法なりと説きたまえりと。SINBUTU:SYOZEN2-130,131/HON-311,312,HOU-422,423

 ◎又言。如我所説十二部経。或随自意説。或随他意説。或随自他意説。乃至。善男子。如我所説。十住菩薩少見仏性。是名随他意説。何以故名少見。十住菩薩得首楞厳等三昧三千法門。是故声聞自知当得阿耨多羅三藐三菩提。不見一切衆生定得阿耨多羅三藐三菩提。是故我説十住菩薩少分見仏性。善男子。我常宣説一切衆生悉有仏性。是名随自意説。一切衆生不断不滅。乃至得阿耨多羅三藐三菩提。是名随自意説。一切衆生悉有仏性。煩悩覆故不能得見。我説如是。汝説亦爾。是名随自他意説。善男子。如来或時為一法故説無量法。抄出。
  ◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、我が所説の十二部経のごときは、あるいは随自意の説、あるいは随他意の説あり。あるいは随自他意説あり。乃至。善男子、我が所説のごとき、十住の菩薩は少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。何をもってのゆえに少見と名づくるや。十住の菩薩は首楞厳経等の三昧・三千の法門を得たり。このゆえに声聞自ら当に阿耨多羅三藐三菩提を得べきことを知りて、一切衆生の定んで阿耨多羅三藐三菩提を得んことを見ず、このゆえに我、十住の菩薩、少分、仏性を見ると説くなり。善男子、常に一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生は不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆えるがゆえに見ることを得ることあたわずと。我が説、かくのごとし。汝が説も、またしかなりと。これを随自他意説と名づく。善男子、如来ある時は一法のためのゆえに無量の法を説く。抄出。SINBUTU:SYOZEN2-131/HON-312,HOU-423

 ◎又言。一切覚者名為仏性。十住菩薩不得名為一切覚故。是故雖見而不明了。善男子。見有二種。一者眼見。二者聞見。諸仏世尊眼見仏性。如於掌中観阿摩勒菓。十住菩薩聞見仏性。故不了了。十住菩薩唯能自知定得阿耨多羅三藐三菩提。而不能知一切衆生悉有仏性。善男子。復有眼見。諸仏如来。十住菩薩眼見仏性復有聞見。一切衆生乃至九地聞見仏性。菩薩若聞一切衆生悉有仏性。心不生信。不名聞見。乃至。師子吼菩薩摩訶薩言。世尊。一切衆生不能得知如来心相。当云何観能得知邪。善男子。一切衆生実不能知如来心相。若欲観察而得知者。有二因縁。一者眼見。二者聞見。若見如来所有身業。当知是則為如来也。是名眼見。若観如来所有口業。当知是則為如来也。是名聞見。若見色貌。一切衆生無与等者。当知是則為如来也。是名眼見。若聞音声微妙最勝。不同衆生所有音声。当知是則為如来也。是名聞見。若見如来所作神通。為為衆生。為為利養。若為衆生不為利養。当知是則為如来也。是名眼見。若観如来。以他心智観衆生時。為利養説。為衆生説。若為衆生不為利養。当知是則為如来也。是名聞見。略出。
  ◎(涅槃経・師子吼品)また言わく、一切覚者を名づけて仏性とす。十住の菩薩は名づけて一切覚とすることを得ざるがゆえに、このゆえに見るといえども明了ならず。善男子、見に二種あり。一には眼見、二には聞見なり。諸仏世尊は眼に仏性を見そなわすこと、掌の中において阿摩勒菓を観ずるがごとし。十住の菩薩は仏性を聞見すれども、ことさらに了了ならず。十住の菩薩、ただ能く自ら定んで阿耨多羅三藐三菩提を得ることを知り、一切衆生はことごとく仏性ありと知ることあたわず。善男子、また眼見あり。諸仏如来なり。十住の菩薩は仏性を眼見す。また聞見することあり。一切衆生乃至九地までは仏性を聞見す。菩薩もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ぜずんば聞見と名づけずと。乃至。師子吼菩薩摩訶薩の世尊に言わく、一切衆生は如来の心相を知ることを得ることあたわず、当にいかんが観じて知ることを得べきやと。善男子、一切衆生は実に如来の心相を知ることあたわず。もし観察して知ることを得んと欲わば、二の因縁あり。一には眼見、二には聞見なり。もし如来所有の身業を見たてまつらん、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来所有の口業を観ぜん、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし色貌を見たてまつること、一切衆生の与に等しき者なけん。当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし音声微妙最勝なるを聞かん、衆生所有の音声には同じからじと。当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし如来所作の神通を見たてまつらんに、衆生のためとやせん、利養のためとやせん。もし衆生のためにして利養のためにせざらんは、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来を観ずるに、他心智をもって衆生を観そなわしたもう時、利養のために説き、衆生のために説かん。もし衆生のためにして利養のためにせざらんは、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。略出。SINBUTU:SYOZEN2-131,132/HON-312,313,HOU-423,424,425

 〇以純浄故名大涅槃等者。弥陀依正皆是清浄。是又所表弥陀涅槃一法義也。大経十二光仏之中有清浄光。平等覚経阿弥陀仏名為無量清浄平等覚。又理趣経云得自性清浄法性如来。月灯三昧経云離垢穢如来。共是弥陀如来名也。離垢穢者即清浄義。又智論中。判彼浄土名云一乗清浄無量寿世界。十住毘婆沙論。或讃此仏云無量清浄慧。或礼云帰命清浄人。当知涅槃清浄理与弥陀同。是就浄義解阿弥陀無上涅槃一法深旨者也。集主処処引此経文。非此義者。為難領解。仍加推義。如形解之。短解有恐。只仰冥慮有所違者。後賢宜改。只述大意。一一文言不及具解。SYOZEN2-353,/TAI8-115,116
  〇「純浄を以ての故に大涅槃と名づく」等とは、弥陀の依正は皆これ清浄なり。これまた弥陀と涅槃と一法なる義を表する所なり。『大経』の十二光仏の中には清浄光あり。『平等覚経』には阿弥陀仏を名づけて無量清浄平等覚となす。また『理趣経』には「得自性清浄法性如来」といい、『月灯三昧経』には「離垢穢如来」という。共にこれ弥陀如来の名なり。離垢穢とは即ち清浄の義なり。また『智論』の中には彼の浄土を判じて名づけて「一乗清浄無量寿世界」という。『十住毘婆沙論』には、或いはこの仏を讃じて「無量清浄慧」といい、或は礼して「帰命清浄人」という。当に知るべし、涅槃清浄の理と弥陀と同じということを。これ浄の義に就きて阿弥陀無上涅槃一法の深旨を解すものなり。集主は処処にこの経文を引く。この義にあらずは領解し難しと為す。仍て推義を加えて、形の如くこれを解す。短解恐れあり。ただ冥慮を仰ぐ、違う所あらば、後賢宜しく改むべし。ただ大意を述ぶ。一一の文言は具に解するに及ばず。SYOZEN2-353,/TAI8-115,116

 ◎浄土論曰。世尊我一心。帰命尽十方無碍光如来。願生安楽国。観彼世界相。勝過三界道。究竟如虚空。広大無辺際。已上。
  ◎『浄土論』に曰わく、世尊、我一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生まれんと願ず。かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なしとのたまえり。已上。SINBUTU:SYOZEN2-132,133/HON-313,314,HOU-425

 〇次浄土論。初一行偈上巻文也。依註論意。初一行者五念門中三念門也。言世尊者指釈迦仏。天親菩薩告教主言。我一心者。一心奉念無礙光仏。願生安楽。心心相続無他想也。言帰命者。是礼拝門。尽十方等二句十字。是讃歎門。願生一句作願門也。次有我依修多羅等成上起下一行偈頌。今且略之。後一行者自此以下観察門也。就此有二。一者器世間。二者衆生世間。器世間中有十七種。而今所引一行之中。初二句者其第一也。荘厳清浄功徳成就是其名也。下所引之註釈。即是此偈註也。第四巻中引此荘厳。仍於其下聊述義畢。後二句者次荘厳量功徳成就。今除註釈。彼註釈云。而彼世界常若虚空無迫[サク02]相。彼中衆生。住如此量中。志願広大亦如虚空無有限量。已上取要。SYOZEN2-353,354/TAI8-173
  〇次に『浄土論』。初の一行の偈は上巻の文なり。『註論』の意に依るに、初の一行は五念門の中の三念門なり。「世尊」というは釈迦仏を指す。天親菩薩の教主に告ぐる言なり。「我一心」とは、一心に無碍光仏を念じたてまつりて、安楽に生ぜんと願じて、心心相続し、他想なきなり。「帰命」というは、これ礼拝門。「尽十方」等の二句十字は、これ讃歎門。「願生」の一句は作願門なり。次に「我依修多羅」等の成上起下の一行の偈頌あり。今は且くこれを略す。後の一行、これより以下は観察門なり。これに就きて二あり。一には器世間、二には衆生世間なり。器世間の中に十七種あり。而るに今の所引一行の中に、初の二句はその第一なり。荘厳清浄功徳成就、これその名なり。下に引く所の註釈は、即ちこれこの偈の註なり。第四巻の中にこの荘厳を引く。仍てその下に於いて聊か義を述べ畢りぬ。後の二句は次の荘厳量功徳成就なり。今は註釈を除く。彼の註釈に云わく「而も彼の世界は常に虚空のごとくして迫[サク02]の相なし。彼の中の衆生はかくの如きの量の中に住す。志願広大なること、また虚空の如くして限量あることなし」已上、要を取る。SYOZEN2-353,354/TAI8-173

 ◎註論曰。荘厳清浄功徳成就者。偈言観彼世界相勝過三界道故。此云何不思議。有凡夫人煩悩成就。亦得生彼浄土。三界繋業畢竟不牽。則是不断煩悩得涅槃分。焉可思議。
  ◎『註論』に曰わく、荘厳清浄功徳成就とは、偈に観彼世界相勝過三界道故と言えるが故に。これいかんが不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、また彼の浄土に生を得んに、三界の繋業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いずくんぞ思議すべけん。SINBUTU:SYOZEN2-133/HON-314,HOU-425

 ◎又云。正道大慈悲。出世善根生。此二句名荘厳性功徳成就。乃至。性是本義。言此浄土随順法性不乖法本。事同華厳経宝王如来性起義。又言。積習成性。指法蔵菩薩。集諸波羅蜜積習所成。亦言性者是聖種性。序法蔵菩薩於世自在王仏所悟無生忍。爾時位名聖種性。於是性中発四十八大願修起此土。即曰安楽浄土。是彼因所得。果中説因故名為性。又言性者是必然義・不改義。如海性一味。衆流入者必為一味。海味不随彼改也。人如人身性不浄故。種種妙好色香美味。入身皆為不浄。安楽浄土諸往生者。無不浄色無不浄心。畢竟皆得清浄平等無為法身。以安楽国土清浄性成就故。正道大道大慈悲出世善根生者。平等大道也。平等道所以名為正道者。平等是諸法体相。以諸法平等故発心等。発心等故道等。道等故大慈悲等。大慈悲是仏道正因故。言正道大慈悲。慈悲有三縁。一者衆生縁。是小悲。二者法縁。是中悲。三者無縁。是大悲。大悲即是出世善也。安楽浄土従此大悲生故。故謂此大悲為浄土之根。故曰出世善根生。
  ◎(論註)また云わく、正道の大慈悲は出世の善根より生ず。この二句は荘厳性功徳成就と名づく。乃至。性はこれ本の義なり。言うこころはこれ浄土は、法性に随順して、法本に乖かず、事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。また言うこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。もろもろの波羅蜜を集めて、積習して成ぜるところなり。また性と言うは、これ聖種性なり。序め法蔵菩薩、世自在王仏の所にして無生忍を悟る。そのときの位を聖種性と名づく。この性の中にして四十八の大願を発して、この土を修起したまえり。すなわち安楽浄土と曰う。これ、かの因の所得なり。果の中に因を説く。故に名づけて性とす。また性と言うは、これ必然の義なり、不改の義なり。海性一味にして、衆流入るぬれば必ず一味となりて、海味、彼に随いて改まざるがごとしとなり。また人身の性不浄なるがゆえに、種種の妙好色香美味、身に入りぬれば、みな不浄となるがごとし。安楽浄土は、もろもろの往生の者〈ひと〉、不浄の色なし、不浄の心なし、畢竟じてみな清浄平等無為法身を得しむ。安楽国土の清浄の性成就したまえるをもってのゆえなり。正道の大道大慈悲は、出世の善根より生ずとは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道とする所以は、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもってのゆえに発心等し。発心等しきがゆえに道等し。道等しきがゆえに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆえに、正道大慈悲と言えり。慈悲に三縁あり。一は衆生縁、これ小悲なり。二は法縁、これ中悲なり。三は無縁、これ大悲なり。大悲はすなわちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆえなればなり。故にこの大悲を謂いて浄土の根とす。ゆえに出世善根生と曰うなり。SINBUTU:SYOZEN2-133,134/HON-314,315,HOU-425,246

 〇又云等者其第三也。性是等者。釈性義中有四重釈。而於其中。初一約理。後三約事。初約理者。随順法性等義是也。事同等者。六十華厳三十六云。爾時普賢菩薩摩訶薩。告如来性起妙徳菩薩等諸大衆。仏子。如来応供正覚。性起正法不可思議。所以者何。非小因縁成等正覚。出興於世。仏子。以十種無量無数百千阿僧祇因縁。成等正覚出興于世。乃至。名如来性起。諸功徳宝以為荘厳。譬如大千界国土初成時。非是少因縁能成於世界。無量方便力一切因縁起三千大千界。安置諸仏群生。如是諸最勝如来性起法。無量功徳蔵一切莫能知。已上。宝王如来此非仏名。是指法性。言性起者。一切諸法。唯以法性為其所依縁起意也。又言等者。約事釈中是第一也。此約法蔵因位修行。依彼万行諸度積習之大功力。成就其性。自然徳也。亦言等者。其第二也。此約因中発願之位。聖種姓者是十地名。於初地中発六八願。依其種姓名之為性。又言等者是其第三。此釈是約安楽浄土畢竟清浄成就当体之性解之。初云又言。次云又如。二種解釈共寄譬喩成不改義。是第四釈。安楽浄土以下之釈。正就浄土果成現量解其義也。平等道等者。於此有理等心等道等慈等。謂之四等。平等是諸法体相者。是理等也。言理等者約理。欲明真理平等無自他別。諸法平等体相本有。若就理文言之。又可謂法等歟。以諸法平等等者。是心等也。是自如理平等之心所発心故。謂之心等。発心等故道等等者。是道等也。言道等者。是謂所履之道是也。道等故下。是慈等也。是謂能履之慈等也。今此四等於其句句置故字故。展転相成可有等義。所以然者。諸法平等理性本浄。離此無有諸余別法。自此平等無相之理所発心故。其心是等。自所等心所修道故。其道是等。自所等道所垂慈故。慈又等也。慈悲有三縁等者。於此三縁有横竪義。今釈意者。是竪義也。謂小中大如次約彼凡夫菩薩仏果慈悲。言横義者。天台観経疏。引智度論云。一衆生縁。無心攀縁一切衆生。而於衆生自然現益。乃至。二者法縁。無心観法。而於諸法自然普照。如日照物無所分別。三者無縁。無心観理。而於平等第一義中自然安住。已上。雖有三種。不渉三位。倶約如来。是横義也。問。就今註意約竪義者。何於因位云大悲乎。答。約分論之。竪謂其別。雖有階位。総於菩薩立大悲名。常途詞也。是則対仏言之為小。対其凡夫言之為大。相対異故。云大無過。安楽等者。是明彼土三慈悲中。以無縁慈為浄土報。故観経云。以無縁慈摂諸衆生。已上。以三縁慈所建立之妙浄土故。以其大慈摂取願生諸衆生耳。SYOZEN2-354,355/TAI8-180,181
  〇「又云」等とは、その第三なり。「性是」等とは、性の義を釈するに、中に四重の釈あり。而もその中に於いて、初の一は理に約し、後の三は事に約す。初に理に約すとは、法性に随順すと等の義これなり。「事同」等とは、『六十華厳』の三十六に云わく「その時、普賢菩薩摩訶薩、如来性起妙徳菩薩等の諸の大衆に告げたまわく。仏子、如来応供正覚は性起正法不可思議なり。所以は何ん。小因縁をもって等正覚を成じて世に出興するにあらず。仏子、十種の無量無数百千阿僧祇の因縁を以て、等正覚を成じて世に出興す。乃至。如来性起と名づくることは、諸の功徳の宝を以て荘厳と為す。譬えば大千界国土初成の時、これ少因縁をもって能く世界を成ずるにあらず、無量の方便力、一切の因縁をもって三千大千界を起して、諸仏群生を安置するが如し。かくの如く諸の最勝の如来の性起の法、無量の功徳蔵、一切能く知ることなし」已上。宝王如来はこれ仏名にあらず。これ法性を指す。「性起」というは、一切の諸法はただ法性を以てその所依と為して縁起する意なり。「又言」等とは、事に約する釈の中に、これ第一なり。これ法蔵因位の修行に約す。彼の万行諸度積習の大功力に依りて、その性を成就す。自然の徳なり。「亦言」等とは、その第二なり。これ因中発願の位に約す。「聖種姓」とは、これ十地の名、初地の中に於いて六八の願を発す。その種姓に依りてこれを名づけて性と為す。「又言」等とは、これその第三なり。この釈はこれ安楽浄土畢竟清浄成就当体の性に約してこれを解す。初に「又言」といい、次に「又如」という。二種の解釈は共に譬喩に寄せて不改の義を成ず。これ第四の釈なり。「安楽浄土」以下の釈は、正しく浄土果成の現量に就きてその義を解するなり。「平等の道」等とは、ここに於いて理等・心等・道等・慈等あり。これを四等という。「平等に是諸法の体相」とは、これ理等なり。「理等」というは理に約す。真理平等にして自他の別なく、諸法平等にして体相本有なることを明かさんと欲す。もし現〈理〉文に就きてこれを言わば、また法等というべきか。「以諸法平等」等とは、これ心等なり。これ如理平等の心より発す所の心なるが故に、これを心等という。「発心等故道等」等とは、これ道等なり。「道等」というは、これ謂わく、所履の道これなり。「道等故」の下は、これ慈等なり。これを能履の慈等というなり。今この四等はその句句に於いて故の字を置くが故に、展転相成して等の義あるべし。然る所以は、諸法平等にして理性本浄なり。これを離れて諸余の別法あることなし。この平等無相の理より発す所の心なるが故に、その心これ等し。所等の心より修する所の道なるが故に、その道これ等し。所等の道より垂るる所の慈なるが故に、慈また等しきなり。「慈悲有三縁」等とは、この三縁に於いて横竪の義あり。今の釈の意は、これ竪の義なり。謂わく小と中と大と。次の如く彼の凡夫と菩薩と仏果との慈悲に約す。横の義というは、天台の『観経の疏』に『智度論』を引きて云わく「一には衆生縁、心に一切衆生を攀縁することなけれども、而も衆生に於いて自然に現益す。乃至。二には法縁、心に法を観ずることなけれども、而も諸法に於いて自然に普く照らす。日の物を照すに分別する所なきが如し。三には無縁、心に理を観ずることなけれども、而も平等第一義の中に於いて自然に安住す」已上。三種ありといえども、三位に渉らず。倶に如来に約す。これ横の義なり。問う、今の註の意に就きて竪の義に約せば、何ぞ因位に於いて大悲というや。答う、分に約してこれを論ず。竪にその別を謂うに、階位ありといえども、総じて菩薩に於いて大悲の名を立つることは、常途の詞なり。これ則ち仏に対して、これを言いて小と為す。その凡夫に対して、これを言いて大と為す。相対異なるが故に、大というに過なし。「安楽」等とは、これ彼の土は三慈悲の中に、無縁の慈を以て浄土の報と為すことを明かす。故に『観経』に云わく「無縁の慈を以て諸の衆生を摂す」已上。三縁の慈を以て建立する所の妙浄土なるが故に、その大慈を以て願生の諸の衆生を摂取すらくのみ。SYOZEN2-354,355/TAI8-180,181

 ◎又云。問曰。尋法蔵菩薩本願力及龍樹菩薩所讃。皆似以彼国声聞衆多為奇。此有何義。答曰。声聞以実際為証計不応更能生仏道根芽。而仏以本願不可思議神力摂令生彼。必当復以神力生其無上道心。譬如鴆鳥入水魚[ボウ03]咸死。犀牛触之死者皆活。如此不応生而生。所以可奇。然五不思議中。仏法最不可思議。仏能使声聞復生無上道心。真不可思議之至也。
  ◎(論註)また云わく、問うて曰わく、法蔵菩薩の本願力および龍樹菩薩の所讃を尋ぬるに、みなかの国に声聞衆多なるをもって奇とするに似たり、これ何の義かある。答えて曰わく、声聞は実際をもって証とす。計るに更によく仏道の根芽を生ずべからず。しかるに仏、本願不可思議の神力をもって、摂して彼に生ぜしむ。必ず当にまた神力をもってそれをして無上道心を生ぜしむべし。譬えば鴆鳥水に入れば、魚[ボウ03]ことごとく死す。犀牛これに触るれば、死する者みな活えるがごとし。かくのごとく生ずべからずを而も生ぜしむ、所以に奇とすべし。しかるに五不思議の中に、仏法最も不可思議なり。仏よく声聞をしてまた無上道心を生ぜしめたまう。真〈まこと〉に不可思議の至りなり。SINBUTU:SYOZEN2-134/HON-315,HOU-426

 〇次又云者。同第十六荘厳大義門功徳成就註釈之中有三問答。其第三也。此荘厳意。是成彼国大乗界故無二乗義。而依仏力二乗雖生。転小向大。是故成就大義門也。問答之意。其文可見。言鴆鳥者。是毒鳥也。鴆玉篇云。除禁切。其羽毒。酒飲即死。広韻云。直禁切。鳥名。広志云。大如[キョウ09]。紫緑色。有毒。頸長七八寸。食蛇蝎。雄曰運日。雌名陰諧。以其毛歴飲食即殺人。言魚[ボウ03]者。[ボウ03]玉篇云。歩項切。[ボウ03]蛤。広韻同之。問。所言鴆鳥犀牛魚[ボウ03]各二類歟。又一物歟。答。此有差別。鴆鳥非別。鴆鳥類故云之鴆鳥。犀又牛類。故云犀牛。魚[ボウ03]是別。魚者一類。[ボウ03]者虫類。魚類[ボウ03]蛤共死活也。五不思議如次下釈。SYOZEN2-355,356/TAI8-198,199
  〇次に「又云」とは、同じき第十六の荘厳大義門功徳成就の註釈の中に三の問答あり。その第三なり。この荘厳の意は、これ彼の国は大乗界なるが故に二乗なき義を成ず。而も仏力に依りて二乗は生ずといえども、小を転じて大に向う。この故に大義門を成就するなり。問答の意は、その文を見つべし。「鴆鳥」とは、これ毒鳥なり。鴆は『玉篇』に云わく「除禁の切。その羽に毒あり。酒をもて飲まば即死す」。『広韻』に云わく「直禁の切。鳥の名」。『広志』に云わく「大きさ[キョウ09]の如し。紫緑色。毒あり。頸の長さ七八寸。蛇蝎を食う。雄を運日といい、雌を陰諧と名づく。その毛を以て飲食に歴れば即ち人を殺す」。「魚[ボウ03]」というは、[ボウ03]は『玉篇』に云わく「歩項の切。[ボウ03]蛤」と。『広韻』はこれに同じ。問う、言う所の鴆鳥・犀牛・魚[ボウ03]はおのおの二類なるか、また一物なるか。答う、これに差別あり。鴆鳥は別にあらず。鴆は鳥類なるが故に、これを鴆鳥という。犀はまた牛の類なり。故に犀牛という。魚[ボウ03]はこれ別なり。魚は一類、[ボウ03]は虫類、魚類・[ボウ03]蛤共に死活するなり。「五不思議」は次下の釈の如し。SYOZEN2-355,356/TAI8-198,199

 ◎又云。不可思議力者。総指彼仏国土十七種荘厳功徳力不可得思議也。諸経説言。有五種不可思議。一者衆生多少不可思議。二者業力不可思議。三者龍力不可思議。四者禅定力不可思議。五者仏法力不可思議。此中仏土不可思議有二種力。一者業力。謂法蔵菩薩出世善根・大願業力所成。二者正覚阿弥陀法王善住持力所摂。
  ◎(論註)また云わく、不可思議力とは、すべてかの仏国土の十七種の荘厳功徳力、得て思議すべからざることを指すなり。諸経に説きて言わく、五種の不可思議あり。一には衆生多少不可思議、二には業力不可思議、三には龍力不可思議、四には禅定力不可思議、五には仏法力不可思議なり。この中の仏土の不可思議に二種の力あり。一には業力、謂わく法蔵菩薩の出世の善根、大願業力の所成なり。二には正覚の阿弥陀法王の善住持力の所摂なり。SINBUTU:SYOZEN2-134/HON-315,316,HOU-427

 〇又云等者。於同下巻観行体相。分文為二。一者器体。二衆生体。其器体中又有三重。其中一明国土体相。二者示現自利利他。三者言入第一義諦。今文第一欲明国土体相。初云彼仏国土荘厳功徳成就者。成就不可思議力故等。已下註釈也。為示次上所引用之五不思議。次下引之。又出五種不思議者。為顕仏法不思議也。所言仏法不思議者。総而言之。広雖可通諸教利益。今別欲顕弥陀因果所成所摂不可思議功徳力也。因即願力。果住持力。其文可見。SYOZEN2-356/TAI8-202,203
  〇「又云」等とは、同じき下巻の観行体相に於いて、文を分かちて二と為す。一は器体、二は衆生体。その器体の中にまた三重あり。その中に一には国土の体相を明かし、二は自利・利他を示現し、三は第一義諦に入ることをいう。今の文は第一に国土の体相を明かさんと欲して、初に「彼の仏の国土の荘厳功徳成就というは、不可思議力を成就したまえるが故に」等という已下の註釈なり。次上に引用する所の五不思議を示さんが為に、次下にこれを引く。また五種の不思議を出だすことは、仏法不思議を顕わさんが為なり。言う所の仏法不思議とは、総じてこれをいわば、広く諸教の利益に通ずべしといえども、今は別して弥陀の因果所成所摂の不可思議功徳力を顕わさんと欲するなり。因は即ち願力、果は住持力なり。その文見つべし。SYOZEN2-356/TAI8-202,203

 ◎又云。示現自利利他者。略説彼阿弥陀仏国土十七種荘厳功徳成就。示現如来自身利益大功徳力成就・利益他功徳成就故。言略者。彰彼浄土功徳無量非唯十七種也。夫須弥之入芥子。毛孔之納大海。豈山海之神乎。毛芥之力乎。能神者神之耳。
  ◎(論註)また云わく、自利利他を示現すとは、略してかの阿弥陀仏の国土の十七種の荘厳功徳成就を説きつ、如来自身の利益大功徳力成就と、利益他功徳成就とを示現したまえるがゆえに。略と言うは、かの浄土の功徳無量にして、ただ十七種のみにあらざることを彰すなり。それ須弥を芥子に入れ、毛孔に大海を納む。あに山海の神ならんや、毛芥の力ならんや、能神の者の神ならくのみ。SINBUTU:SYOZEN2-134,135/HON-316,HOU-427

 〇又云等者。上所標之第二段也。初文段中挙十七種荘厳等畢。示此荘厳成就如来自利利他大功徳力之解釈也。須弥等者。維摩経中説不思議解脱意也。此以大小容受之義。今比例之。所謂以彼極楽荘厳譬之須弥及以大海。以十七種喩彼芥子及毛孔也。豈山海之神乎等者。能納所納更非須弥大海芥子毛孔之力。能神者力即不思議解脱力也。所神即是山海等也。文意具明此十七句。摂仏自利利他功徳力。彼如来不可思議神力而已。SYOZEN2-356,357/TAI8-205
  〇「又云」等とは、上に標する所の第二段なり。初の文段の中に十七種の荘厳等を挙げ畢わりて、この荘厳成就は如来の自利利他大功徳力なることを示す解釈なり。「須弥」等とは、『維摩経』の中に不思議解脱を説く意なり。これは大小容受の義を以て、今これに比例す。いわゆる彼の極楽荘厳を以て、これを須弥および大海に譬え、十七種を以て彼の芥子及び毛孔に喩うるなり。「あに山海の神ならんや」等とは、能納・所納、更に須弥・大海・芥子・毛孔の力にあらず。能神の者の力は即ち不思議解脱力なり。所神は即ちこれ山海等なり。文の意は、具にこの十七句は仏の自利利他功徳力、彼の如来の不可思議神力を明かすらくのみ。SYOZEN2-356,357/TAI8-205

 ◎又云。何者荘厳不虚作住持功徳成就。偈言観仏本願力。遇無空過者。能令速満足功徳大宝海故。不虚作住持功徳成就者。蓋是阿弥陀如来本願力也。乃至。所言不虚作住持者。依本法蔵菩薩四十八願・今日阿弥陀如来自在神力。願以成力。力以就願。願不徒然。力不虚設。力願相府。畢竟不差。故曰成就。抄出。
  ◎(論註)また云わく、何者か荘厳不虚作住持功徳成就。偈に仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、よく速やかに功徳の大宝海を満足せしむるがゆえにと。不虚作住持功徳成就とは、蓋しこれ阿弥陀如来の本願力なり。乃至。言うところの不虚作住持は、本〈もと〉法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とに依ってなり。願は以て力を成じ、力は以て願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あい府〈かの〉うて畢竟じて差わず。故に成就と曰う。抄出。SINBUTU:SYOZEN2-135/HON-316,HOU-427

 〇又云等者。同下如来八種荘厳功徳之中。第八荘厳功徳文也。於此荘厳。論註相并有三文段。先引偈頌顕此荘厳。次不虚作住持已下。釈得名由。亦述其義。後云即見彼仏以下。正明住持不虚之相。但其文載第四巻中。故今残之。初文之中。言乃至者。先示虚作之相文也。雖欲翻対顕不虚義。正非不虚作住持文故。恐繁且除。願以等者。願力為二。願者因位四十八願。力者果位自在神力。因願果力共無徒然虚設之義。相符不差。是則住持成就義也。SYOZEN2-357,/TAI8-208,209
  〇「又云」等とは、同じき下の如来八種荘厳功徳の中の第八の荘厳功徳の文なり。この荘厳に於いて、『論』と『註』と相并せて三の文段あり。まず偈頌を引きてこの荘厳を顕わす。次に「不虚作住持」已下は、得名の由を釈し、またその義を述ぶ。後に「即見彼仏」という以下は、正しく住持不虚の相を明かす。但しその文は第四巻の中に載す。故に今はこれを残す。初の文の中に、「乃至」というは、まず虚作の相を示す文なり。翻対して不虚の義を顕わさんと欲すといえども、正しく不虚作住持の文にあらざるが故に、繁を恐れて且く除く。「願以」等とは、願力を二と為す。願とは因位の四十八願、力とは果位の自在神力。因願・果力共に徒然虚設の義なし。相符して差わず。これ則ち住持成就の義なり。SYOZEN2-357,/TAI8-208,209

 ◎讃阿弥陀仏偈曰。曇鸞和尚造。南無阿弥陀仏。釈名無量寿傍経。奉賛亦曰安養。成仏已来歴十劫。寿命方将無有量。法身光輪遍法界。照世盲冥故頂礼。智慧光明不可量。故仏又号無量光。有量諸相蒙光曉。是故稽首真実明。解脱光輪無限斉。故仏又号無辺光。蒙光触者離有無。是故稽首平等覚。光雲無碍如虚空。故仏又号無碍光。一切有碍蒙光沢。是故頂礼難思議。清浄光明無有対。故仏又号無対光。遇斯光者業繋除。是故稽首畢竟依。仏光照耀最第一。故仏又号光炎王。三塗黒闇蒙光啓。是故頂礼大応供。道光明朗色超絶故仏又号清浄光一蒙光照罪垢除。皆得解脱故頂礼。慈光遐被施安楽。故仏又号歓喜光。光所至処得法喜。稽首頂礼大安慰。仏光能破無明闇。故仏又号智慧光。一切諸仏三乗衆。咸共嘆誉故稽首。光明一切時普照。故仏又号不断光。聞光力故心不断。皆得往生故頂礼。其光除仏莫能惻。故仏又号難思光。十方諸仏嘆往生。称其功徳故稽首。神光離相不可名。故仏又号無称光。因光成仏光赫然。諸仏所嘆故頂礼。光明照曜過日月。故仏号超日月光。釈迦仏嘆尚不尽。故我稽首無等等。乃至。
  ◎『讃阿弥陀仏偈』に曰わく(曇鸞和尚造)、南無阿弥陀仏、釈して『無量寿傍経』と名づく。賛め奉りてまた安養と曰う。成仏よりこのかた十劫を歴たまえり。寿命まさに量あることなし。法身の光輪、法界に遍じて、世の盲冥を照らす。故に頂礼したてまつる。智慧の光明量るべからず。故に仏をまた無量光と号す。有量の諸相、光暁を蒙る。このゆえに真実明を稽首したてまつる。解脱の光輪限斉なし。故に仏をまた無辺光と号す。光触を蒙る者、有無を離る。このゆえに平等覚を稽首したてまつる。光雲のごとくにして、無碍なること虚空のごとし。故に仏をまた無碍光と号す。一切の有碍、光沢を蒙る。このゆえに難思議を頂礼したてまつる。清浄の光明、対あることなし。故に仏をまた無対光と号す。この光に遇う者は業繋除こる。このゆえに畢竟依を稽首したてまつる。仏光照耀して最第一なり。故に仏をまた光炎王と号す。三塗の黒闇、光啓を蒙る。このゆえに大応供を頂礼したてまつる。道光明朗にして、色超絶したまえり。故に仏をまた清浄光と号す。一たび光照を蒙るに、罪垢除こる、みな解脱を得しむ。故に頂礼したてまつる。慈光遥かに被らしめ安楽を施す。故に仏をまた歓喜光と号す。光の至るところの処に法喜を得しむ。大安慰を稽首し頂礼したてまつる。仏光よく無明の闇を破す。故に仏をまた智慧光と号す。一切諸仏三乗衆、ことごとく共に嘆誉す、故に稽首したてまつる。光明一切の時、普く照らす。故に仏をまた不断光と号す。聞光力のゆえに、心断えずしてみな往生を得しむ、故に頂礼したてまつる。その光、仏を除きてはよく測ることなけん。故に仏をまた難思光と号す。十方諸仏、往生を嘆じ、その功徳を称せしむ、故に稽首したてまつる。神光は相を離れたること、名づくべからず。故に仏をまた無称光と号す。光に因りて成仏したまえる、光赫然たり。諸仏の嘆じたまうところなり。故に頂礼したてまつる。光明照曜して日月に過ぎたり。故に仏を超日月光と号す。釈迦仏嘆じたまうこと、なお尽きず。故に我、無等等を稽首したてまつる。乃至。SINBUTU:SYOZEN2-135,136/HON-316,317,HOU-427,428,429-

 〇次讃阿弥陀仏偈。一巻典也。問。題後文前安六字名有何意耶。答。題目雖云讃阿弥陀仏偈。未顕讃歎名号功徳。只是讃歎。是故為示所言讃歎在名号徳。如是題歟。選択集初先安名号。宛由此例。彼為簡異観念諸仏名号等也。釈名等者。於上梵号。示其漢語。云釈名等。傍経等者。是云副経作奉讃歟。亦曰安養四字有無諸本異也。此讃或本。今所引上。最初先有一四句偈。其文云。現在西方去此界十万億刹安養土。仏世尊号阿弥陀。我願往生帰命礼。已上。成仏等者今之二句。先就寿命讃無量徳。法身以下次就光明歎種種徳。歎光明中先約三徳。法身光輪即是法身。智慧光明是約般若。解脱光輪即是解脱。離有無者。有無即是断常二見。依此二故不出生死。而諸凡夫雖不離之。今此名号。中道実相清浄無生之深法故。称此名号。依仏願力必蒙光触。蒙光触者。自然遠離有無迷妄。此是光明照触力也。聞光等者。由聞摂取光益之力。心心相続必生無疑。若約自力。雖有間断。若約他力信心相続。是則聞光力之故也。其光等者。自彼如来大智慧海所生光故。除仏之外非其所測。大経説云二乗非所測唯仏独明了。蓋此義也。言乃至者。於此中間。所除一百五十行也。SYOZEN2-357,358/TAI8-213,214
  〇次に『讃阿弥陀仏の偈』、一巻の典なり。問う、題の後文の前に六字の名を安ずるは何の意かあるや。答う、題目に『讃阿弥陀仏の偈』というといえども、未だ名号の功徳を讃歎することを顕わさず。ただこれ讃歎なり。この故に言う所の讃歎は名号の徳に在ることを示さんが為に、かくの如く題するか。『選択集』の初に、まず名号を安ずるは、宛〈あたか〉もこの例に由る。彼は観念、諸仏の名号等に簡異せんが為なり。「釈名」等とは、上の梵号に於いて、その漢語を示して「釈名」等という。「傍経」等とは、これ経に副えて奉讃を作すをいうか。「亦曰安養」の四字の有無は諸本の異なり。この讃、或る本は、今の所引の上に、最初にまず一四句偈あり。その文に云わく「西方に現在して、この界を去ること十万億刹にして安養の土あり。仏世尊を阿弥陀と号す。我、往生を願じて帰命して礼す」と已上。「成仏」等とは、今の二句、まず寿命に就きて無量の徳を讃ず。「法身」以下は次に光明に就きて種種の徳を歎ず。光明を歎ずる中に、まず三徳に約す。「法身の光輪」は即ちこれ法身。「智慧の光明」はこれ般若に約す。「解脱の光輪」は即ちこれ解脱なり。「離有無」とは、有無は即ちこれ断常の二見。この二に依るが故に生死を出でず。而るに諸の凡夫はこれを離れずといえども、今この名号は、中道実相、清浄無生の深法なるが故に、この名号を称すれば、仏の願力に依りて必ず光触を蒙る。光触を蒙る者は、自然に有無の迷妄を遠離す。これはこれ光明照触の力なり。「聞光」等とは、摂取の光益を聞く力に由りて、心心相続して必ず生ずること疑いなし。もし自力に約すれば、間断あるといえども、もし他力に約すれば信心相続す。これ則ち聞光力の故なり。「其光」等とは、彼の如来の大智慧海より生ずる所の光なるが故に、仏を除きて外はその測る所にあらず。『大経』に説きて「二乗非所測 唯仏独明了」という、蓋しこの義なり。「乃至」というは、この中間に於いて除く所の一百五十行なり。SYOZEN2-357,358/TAI8-213,214

 ◎本師龍樹摩訶薩。誕形像始理頽(徒回反。崩也。波也。落也。纏也)綱。関閉邪扇開正轍(直刹反。通也。車也。跡也)。是閻浮提一切眼。伏承尊語歓喜地。帰阿弥陀生安楽。我従無始循三界。為虚妄輪所回転。一念一時所造業。足繋六道滯三塗。唯願慈光護念我。令我不失菩提心。我讃仏慧功徳音。願聞十方諸有縁。欲得往生安楽者。普皆如意無障碍。所有功徳若大小。回施一切共往生。南無不可思議光。一心帰命稽首礼。十方三世無量慧。同乗一如号正覚。二智円満道平等。摂化随縁故若干。我帰阿弥陀浄土。即是帰命諸仏国。我以一心賛一仏。願遍十方無碍人。如是十方無量仏。咸各至心頭面礼。已上抄出。
  ◎(讃阿弥陀仏偈)本師龍樹摩訶薩、形像を誕ず、始めて頽綱を理〈ことわ〉る(頽 徒回の反。崩なり。波なり。落なり。纏なり)。邪扇を関閉して、正轍(直刹の反。通なり。車なり。跡なり)を開く。これ閻浮提の一切の眼なり。尊語を伏承して、歓喜地にして阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。我無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。一念一時に造るところの業足、六道に繋がれ、三塗に滞〈とど〉まる。唯、願わくは慈光、我を護念して、我をして菩提心を失せざらしめたまえ。我、仏慧功徳の音を讃ず。願わくは十方のもろもろの有縁に聞かしめて、安楽に往生を得しめんと欲わん者、普くみな意のごとくして障碍なからしめん。あらゆる功徳もしは大小、一切に回施して、共に往生せしめん。不可思議光に南無し、一心に帰命し稽首し礼したてまつる。十方三世の無量慧、同じく一如に乗じて正覚を号〈な〉のる。二智円満して道平等なり。摂化すること縁に随う、故〈まこと・ことさら〉に若干〈そこばく〉ならん。我阿弥陀の浄土に帰したてまつるは、すなわちこれ諸仏の国に帰命するなり。我一心をもって一仏を賛ず、願わくは十方無碍人に遍くせん。かくのごとき十方無量の仏、ことごとくおのおの心を至して頭面に礼したてまつるなり。已上抄出。SINBUTU:SYOZEN2-136,137/-HON-317,318,HOU-429

 〇本師等者。自此文始至生安楽。別讃龍樹。讃主本是四論高徳。後浄土宗。龍樹菩薩千部論師。八宗高祖。所承二宗共為大祖。故別讃也。理頽綱者。歎興欲頽仏法綱要。言邪扇者。指外道見。開正轍者。是顕開闡仏法正徹。言正徹者即正道也。於其正道有総別意。総被一代。龍樹広為諸宗祖故。別指浄土。往生安楽彼本意故。伏承等者。今云尊語。如此義者。言此語者釈迦尊語。伏承仏語之意而已。或本尊悟。語与悟異。若依悟本。謂伏承尊。悟者是悟歓喜地也。我従等者。自此已下総結意也。自文之初至滞三途。是顕流転生死長遠。兼述諸趣業繋難截。唯願慈光以下二句。先約自利請仏摂受。我讃仏慧以下六句。次約利他普皆回向。南無不可以下二句。又別礼讃弥陀如来。十方三世以下四句。依道同理総礼諸仏。我帰阿弥陀以下二句。願讃一仏徳遍十方。又有帰命弥陀一仏。乃有遍帰十方一切諸仏理義。如是十方以下二句。憶其道理咸礼敬也。SYOZEN2-358/TAI8-214
  〇「本師」等とは、この文の始より「生安楽」に至るまで、別して龍樹を讃ず。讃主はもとこれ四論の高徳、後に浄土宗なり。龍樹菩薩は千部の論師、八宗の高祖。承る所の二宗は共に大祖と為す。故に別して讃ずるなり。「理頽綱」とは、頽〈かたぶき〉なんと欲する仏法の綱要を興すことを歎ず。「邪扇」というは、外道の見を指す。「開正轍」とは、これ仏法の正徹を開闡することを顕わす。正徹というは、即ち正道なり。その正道に於いて総別の意あり。総じては一代に被しむ。龍樹は広く諸宗の祖たるが故に。別しては浄土を指す。往生安楽は彼の本意なるが故に。「伏承」等とは、今「尊語」という。この義の如きならば、この語というは釈迦尊の語、仏語を伏承する意ならくのみ。或る本には尊悟、語と悟との異なり。もし悟の本に依らば、謂わく、尊に伏承す、悟とはこれ歓喜地を悟るなり。「我従」等とは、これより已下は総結の意なり。文の初より、「滞三途」に至るまでは、これ流転生死の長遠なることを顕わし、兼て諸趣の業繋は截り難きことを述ぶ。「唯願慈光」以下の二句は、まず自利に約して仏の摂受を請う。「我讃仏慧」以下の六句は、次に利他に約して普く皆回向す。「南無不可」以下の二句は、また別して弥陀如来を礼讃す。「十方三世」以下の四句は、道同の理に依りて総じて諸仏を礼す。「我帰阿弥陀」以下の二句は、一仏を讃ずる徳の十方に遍ぜんことを願ず。また弥陀一仏に帰命すれば、乃ち遍く十方一切の諸仏に帰する理ある義あり。「如是十方」以下の二句は、その道理を憶して咸く礼敬するなり。SYOZEN2-358/TAI8-214

 ◎光明寺和尚云。問曰。弥陀浄国為当是報是化也。答曰。是報非化。云何得知。知大乗同性経説。西方安楽阿弥陀仏。是報仏報土。又無量寿経云。法蔵比丘在世饒王仏所行菩薩道時。発四十八願。一一願言。若我得仏。仏十方衆生称我名号願生我国下至十念。若不生者不取正覚。今既成仏。即是酬因之身也。又観経中。上輩三人臨命終時。皆言阿弥陀仏及与化仏来迎此人。然報身兼化共来授手。故名為与。以此文証故知是報。然報応二身者眼目之異名。前翻報作応。後翻応作報。凡言報者。因行不虚。定招来果。以果応因。故名為報。又三大僧祇所修万行。必定応得菩提。今既道成。即是応身。斯乃過現諸仏弁立三身。除斯已外更無別体。縦使無窮八相名号塵沙。剋体而論。衆帰化摂。今彼弥陀現是報也。
  ◎(玄義分)光明寺の和尚の云わく、問うて曰わく、弥陀浄国は、はたこれ報なりや、これ化なりとやせん。答えて曰わく、これ報にして化にあらず。いかんが知ることを得る。『大乗同性経』に説くがごとし、西方の安楽・阿弥陀仏はこれ報仏報土なりと。また『無量寿経』に云わく、法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして、菩薩の道を行じたまいし時、四十八願を発して、一一の願に言わく、もし我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を称して、我が国に生まれんと願ぜん、下十念に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじと。いま既に成仏したまえり。すなわちこれ酬因の身なり。また『観経』の中に、上輩の三人、命終の時に臨みて、みな阿弥陀仏および化仏と与〈とも〉にこの人を来迎すと言えり。しかるに報身、化を兼ねて共に来りて手を授く、と。故に名づけて与とす。この文証をもってのゆえに、知りぬ、これ報なりと。しかるに報応の二身は眼目の異名なり。前には報を翻じて応と作る、後には応を翻じて報と作る。おおよそ報と言うは、因行虚しからず、定んで来果を招く。果をもって因に応ず。故に名づけて報とす。また三大僧祇の所修の万行、必定して菩提を得べし。いま既に道成ぜり。すなわちこれ応身なり。これすなわち過現の諸仏、三身を弁立す。これを除きて已外は、更に別の体ましまさず。たとい無窮の八相、名号塵沙なりとも、体に剋してしかして論ぜば、すべて化に帰して摂すべし。今かの弥陀、現にこれ報なり。SINBUTU:SYOZEN2-137/HON-318,319,HOU-429,430-

 〇次大師釈。玄義二乗門之釈也。問。彼釈初有云第六会通二乗種不生義者。一十一字。今略彼標。有何意耶。答。当章中有五番問答。於中初三明身土義。後二問答。正明二乗種不生義。今明身土。故引初三略後二番。今標正被後二番故。依除其文除其標也。SYOZEN2-359/TAI8-241-
  〇次に大師の釈、『玄義』二乗門の釈なり。問う、彼の釈の初に「第六会通二乗種不生義者」という一十一字あり。今は彼の標を略す。何の意かあるや。答う、当章の中に五番の問答あり。中に於いて初の三は身土の義を明かし、後の二の問答は、正しく二乗種不生の義を明かす。今は身土を明かす。故に初の三を引きて、後の二番を略す。今の標は正しく後の二番に被らしむるが故に、その文を除くに依りて、その標を除くなり。SYOZEN2-359/TAI8-241

 〇問曰已下是正釈也。今問答者第一番也。弥陀等者。問。仏有三身。即法報応。何除法身問報化耶。又依三身。応中摂化。若依四身応外立化。何不言応直云化耶。答。三身四身二身一身開合不同。実不増減。法身及土離其名相。依其三身相即理故。言報化身。必具法応。且依合門立報化身。浄土宗意。指方立相。法属報故。別不挙之。応与化同。故挙報化。其義為足。真含法報。化摂応身。約此義辺言報化也。況又古今諸師異解皆在報化。故今又同。SYOZEN2-359/TAI8-241,242-
  〇「問曰」已下はこれ正釈なり。今の問答は第一番なり。「弥陀」等とは、問う、仏に三身あり。即ち法・報・応なり。何ぞ法身を除きて報・化を問うや。また三身に依らば、応の中に化を摂す。もし四身に依らば応の外に化を立つ。何ぞ応といわずして直ちに化というや。答う、三身・四身・二身・一身は開合の不同にして、実に増減せず。法身及び土はその名相を離る。その三身相即の理に依るが故に、報・化の身という。必ず法・応を具す。且く合の門に依りて報・化の身を立つ。浄土宗の意は、指方立相にして、法を報に属するが故に、別してこれを挙げず。応と化とは同じ、故に報・化を挙ぐるに、その義、足んぬとす。真に法・報を含し、化に応身を摂す。この義辺に約して報・化というなり。況んやまた古今諸師の異解はみな報・化に在り。故に今また同じ。SYOZEN2-359/TAI8-241,242-

 〇問。諸師異解其義如何。答。天台判為応身応土。浄影同之。嘉祥師挙江南北地人師所解。出報土義。綽公又判報身報土。慈恩意言。正為報土。兼通化土。此等之義古来異途。是故大師楷定古今。定判唯報非化義也。如大乗下引証成義。此有三経。其経如文。初経証名。次経証義。後経通成両経之意。同性経者。上下二巻。周那耶舎三蔵訳也。彼下巻云。爾時世尊現自仏刹。如是仏刹功徳厳浄。身清浄。衆清浄。仏言。此是仏之初地。復有阿弥陀如来。蓮華開敷星王如来。龍主王如来。宝徳如来。有如是等清浄仏刹所得道者。彼諸如来得初仏地。在此地中作是神通。如我今日神通。無異。乃至。海妙深持自在智通菩薩復問仏言。世尊仏身幾種。仏言。善丈夫略説有三。何等為三。一者報。二者応。三者真身。乃至。世尊何者名為如来報。仏言。善丈夫。若欲見彼仏報者。汝今当知。今日見我。現諸如来清浄仏刹現得道者。当得道者。如是一切即是報身。乃至。世尊何者名為如来応身。仏言。善丈夫。猶若今日踊歩健如来。魔恐怖如来。大慈意如来。有如是等一切。彼如来穢濁世中。現成仏者当成仏者。如来影現従兜率天。乃至。住持一切正法。一切像法。一切滅法。善丈夫。汝今当知。如是化事皆是応身。已上。此下雖説仏真法身。非今所論。故不載之。此経之中説浄土中成仏。悉是報身。随出阿弥陀以下如来。又説穢土成道如来。悉是応身。又挙仏名故。引此経証報身也。引大経中。法蔵等者。行菩薩道約総願行。四十八願約別願行。然総願行為成別願。故酬因者。雖亘総別。就其本意。称曰別願酬因身也。-SYOZEN2-359,360/TAI8-242-
  〇問う、諸師の異解、その義如何。答う、天台は判じて応身・応土とす。浄影はこれに同ず。嘉祥師は江南北地の人師の所解を挙げて、報土の義を出だす。綽公はまた報身・報土と判ず。慈恩の意の言わく、正は報土と為し、兼ては化土に通ず。これらの義は古来の異途なり。この故に大師は古今を楷定して、唯報非化の義を定判するなり。「如大乗」の下は証を引きて義を成ず。これに三経あり。その経は文の如し。初の経は名を証す。次の経は義を証す。後の経は通じて両経の意を成ず。「同性経」とは、上下二巻、周那耶舎三蔵の訳なり。彼の下巻に云わく「その時に世尊、自の仏刹を現じて、かくの如きの仏刹、功徳厳浄なり、身清浄なり、衆清浄なり。仏の言わく、これはこれ仏の初地なり。また阿弥陀如来あり。蓮華開敷星王如来・龍主王如来・宝徳如来、かくの如き等の清浄仏刹所得道の者あり。彼の諸の如来は初の仏地を得たまえり。この地の中に在りてこの神通を作す。我が今日の神通の如くして、異なることなし。(乃至)海妙深持自在智通菩薩、また仏に問いて言さく、世尊、仏身に幾種かある。仏の言わく、善丈夫、略して説くに三あり。何等をか三とする。一には報、二には応、三には真身なり。(乃至)世尊、何者をか名づけて如来の報とする。仏の言わく、善丈夫、もし彼の仏の報を見んと欲わば、汝今当に知るべし。今日、我を見よ。現に諸の如来清浄仏刹にして、現に得道する者、当に得道すべき者、かくの如きの一切は即ちこれ報身なり。(乃至)世尊、何者をか名づけて如来の応身とするや。仏の言わく、善丈夫、猶し今日の踊歩・健如来・魔恐怖如来・大慈意如来のごとし。かくの如き等の一切あり。彼の如来は穢濁世の中にして、現に成仏する者、当に成仏すべき者、如来影現して兜率天より、乃至、一切の正法、一切の像法、一切の滅法を住持す。善丈夫、汝今当に知るべし、かくの如きの化事は皆これ応身なり」已上。この下に仏の真法身を説くといえども、今の所論にあらず。故にこれを載せず。この経の中に、浄土の中にして成仏するは、悉くこれ報身なりと説きて、随いて阿弥陀以下の如来を出だす。また穢土成道の如来は、悉くこれ応身なりと説きて、また仏名を挙ぐ。故にこの経を引きて報身を証するなり。『大経』を引く中に、「法蔵」等とは、行菩薩道は総の願行に約し、四十八願は別の願行に約す。然も総の願行は別願を成ぜんが為なり。故に酬因とは、総別に亘るといえども、その本意に就きて、称して別願酬因の身というなり。-SYOZEN2-359,360/TAI8-242-

 〇一一等者。問。所引文者第十八也。一一之言。其義如何。答。第十八願為之願王。是則衆生生因願故。余四十七皆欣慕願。一一願中。随一随二。有欣慕機発願生心。一一可帰生因願故。以一一願皆不可離第十八願。故言一一。而引此願。良有以矣。称我等者。問。願文之中雖無称我名号之言。故以加之。雖有至心信楽之説。故以除之。其意如何。答。所除所加共是不妄。所謂為顕彼此一也。謂。此三信称仏名号願往生外更無異途。其意何者。至心信楽是信何等。不信余法。唯楽此法。一心帰依別意弘願。唯称名号。其称名者。是非仮名。至心信楽帰命之念称名信心。更不相離。影略互顕示此義也。今既等者。正以別願酬因之義証報義也。引観経中。然報以下。是正釈成能与報身。所与仮身。是故本仏為報身也。-SYOZEN2-360,361/TAI8-242,243-
  〇「一一」等とは、問う、所引の文は第十八なり。一一の言、その義、如何。答う、第十八願、これを願王とす。これ則ち衆生生因の願なるが故に。余の四十七はみな欣慕の願なり。一一の願の中に、随一随二、欣慕の機ありて願生の心を発さば、一一に生因の願に帰すべきが故に、一一願はみな第十八の願を離れるべからざるを以て、故〈ことさら〉に一一といいて、而もこの願を引く。良に以〈ゆえ〉あるかな。「称我」等とは、問う、願文の中に称我名号の言なしといえども、故〈ことさら〉に以てこれを加え、至心信楽の説ありといえども、故〈ことさら〉に以てこれを除く。その意、如何。答う、除く所、加うる所、共にこれ妄ならず。所謂、彼此一なることを顕わさんが為なり。謂わく、この三信は仏の名号を称して往生を願ずる外に更に異途なし。その意何となれば、至心信楽はこれ何等をか信ずる。余法を信ぜずして、ただこの法を楽いて、一心に別意の弘願に帰依して、ただ名号を称す。その称名とは、これ仮名にあらず。至心信楽、帰命の念、称名・信心、更に相離せず。影略互顕してこの義を示すなり。「今既」等とは、正しく別願酬因の義を以て報の義を証するなり。『観経』を引く中に、「然報」以下は、これ正しく能与は報身、所与は仮身なり、この故に本仏は報身たることを釈成するなり。-SYOZEN2-360,361/TAI8-242,243-

 〇抑此三経次第成義。所以然者。有疑者云。前同性経雖説其名。彼説相者余教所説。三身同証之仏相也。不関今仏。為遣此疑。次引大経。是顕常途三身中報。而酬別願所成身也。彼此対論有同有異。不二而二。不一而一。爰又疑云。彼大経説引摂凡夫。知可化身。為蕩此疑。次引観経。此経正説能与所与。明知能与本身是報。故此観経助上両経所説義耳。如此鈎鎖顕其義也。-SYOZEN2-361/TAI8-243-
  〇抑もこの三経は次第して義を成ず。然る所以は、疑者ありて云わん、前の『同性経』にその名を説くといえども、彼の説相は余教の所説、三身同証の仏の相なり。今の仏に関わらずと。この疑を遣らんが為に、次に『大経』を引きて、これ常途の三身の中の報にして、而も別願に酬いて成ずる所の身なることを顕わすなり。彼此対論するに同あり異あり。不二にして二なり。不一にして一なり。爰にまた疑いて云わく、彼の『大経』には凡夫を引摂すと説く。知んぬ、化身なるべし。この疑を蕩〈かわさ〉んが為に、次に『観経』を引きて、この経は正しく能与・所与を説く。明かに知りぬ、能与の本身はこれ報なり。故にこの『観経』は上の両経所説の義を助くらくのみ。かくの如く鈎鎖してその義を顕わすなり。-SYOZEN2-361/TAI8-243-

 〇然報応下破他師解。此釈之意。以第二身云報云応。経論異説。此中摂論有第二身立応身名。是報身也。而浄影師観経疏中。明弥陀身。就応身名。彼身判為八相現成。即以弥陀為其能与。以所与仏即為無而[クツ01]有之身。為破此解。設此釈也。前翻等者。摂大乗論是無著造。有三代訳。後魏梁隋。言前後者此有二義。一魏梁相対。二梁隋相対。問。三代所対。其義如何。答。一後魏仏陀扇多所訳。上下二巻。彼論明仏三身。列云真身報身応身。上下巻説説相是同。二梁真諦訳。分為三巻。上説自性応身化身。下云自性受用変化。三隋笈多訳。天親釈論是十巻也。其所説者。自性受用化身是也。若対魏梁。得其意者。前翻魏論所言之報。後翻梁論以之為応。後翻梁論所言之応。前翻魂論是為報也。若対梁隋得其意者。前梁論中。翻報為応。後隋論中。翻応作報。如此可解。今作報者受用身也。作者為也。-SYOZEN2-361/TAI8-243,244-
  〇然も「報応」の下は他師の解を破す。この釈の意は、第二の身を以て報といい、応という。経論の異説なり。この中に『摂論』に第二の身に応身の名を立つることあり。これ報身なり。而るに浄影師の『観経の疏』の中に弥陀身を明かすに、応身の名に就きて、彼の身を判じて八相現成と為す。即ち弥陀を以てその能与と為し、所与の仏を以て即ち無而[クツ01]有の身とす。この解を破せんが為にこの釈を設くるなり。「前翻」等とは、『摂大乗論』はこれ無著の造、三代の訳あり。後魏と梁と隋となり。前後というは、これに二義あり。一には魏・梁相対、二には梁・隋相対なり。問う、三代の所対は、その義、如何。答う、一には後魏の仏陀扇多の所訳、上下二巻。彼の論に仏の三身を明かす。列ねて真身・報身・応身という。上下巻の説は、説相これに同じ。二には梁の真諦の訳、分かちて三巻と為す。上には自性・応身・化身と説き、下には自性・受用・変化という。三には隋の笈多の訳、天親の釈論、これ十巻なり。その所説とは、自性・受用・化身これなり。もし魏・梁を対してその意を得れば、前の翻の魏論に言う所の報を、後の翻の梁論に、これを以て応と為し、後の翻の梁論に言う所の応を、前の翻の魂論にはこれを報と為すなり。もし梁・隋を対してその意を得れば、前の梁論の中には、報を翻じて応と為し、後の隋論の中には、応を翻じて報と作す。かくの如く解すべし。今「報と作す」とは、受用身なり。作とは為なり。-SYOZEN2-361/TAI8-243,244-

 〇凡言等者是釈報義。又三等者。是釈応義。云報云応。共是酬因感果之義也。是則釈成眼目異名之義而已。過現等者。此明一切諸仏所証不出三身。無窮等者。此明諸仏八相現成皆是第三身所摂也。言遠所立合真開応開真合応等義門。不当理也。今彼等者。以此道理正結是報非化義也。-SYOZEN2-361,362/TAI8-244
  〇「凡言」等とは、これ報の義を釈す。「又三」等とは、これ応の義を釈す。報といい、応という、共にこれ酬因感果の義なり。これ則ち眼目異名の義を釈成すらくのみ。「過現」等とは、これ一切諸仏の所証は三身を出でざることを明かす。「無窮」等とは、これ諸仏の八相は現に皆これ第三の身の所摂なることを成ずることを明かすなり。言うこころは、遠所立の合真開応、開真合応等の義門は理に当らざるなり。「今彼」等とは、この道理を以て正しく是報非化の義を結するなり。-SYOZEN2-361,362/TAI8-244

 ◎問曰。既言報者。報身常住永無生滅。何故観音授記経説。阿弥陀仏亦有入涅槃時。此之一義若為通釈。答曰。入不入義者。唯是諸仏境界。尚非三乗浅智所[キ02]。豈況小凡輒能知也。雖然必欲知者。敢引仏経以為明証。何者。如大品経涅槃非化品中説云。仏告須菩提。於汝意云何。若有化人作化人。是化頗有実事不。空者不。須菩提言。不也世尊。仏告須菩提。色即是化。受想行識即是化。乃至一切種智即是化。須菩提白仏言。世尊。若世間法是化。出世間法亦是化。所謂四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八聖道分・三解脱門・仏十力・四無所畏・四無碍智・十八不共法・并諸法果・及賢聖人。所謂須陀[オン01]・斯陀含・阿那含・阿羅漢。辟支仏・菩薩摩訶薩・諸仏世尊。是法亦是化不。仏告須菩提。一切法皆是化。於是法中。有声聞法変化。有辟支仏法変化。有菩薩法変化。有諸仏法変化。有煩悩法変化。有業因縁法変化。以是因縁故須菩提。一切法皆是化。須菩提白仏言。世尊。是諸煩悩断。所謂須陀[オン01]果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏道。断諸煩悩習。皆是変化不。仏告須菩提。若有法生滅相者。皆是変化。須菩提言。世尊。何等法非変化。仏言。若法無生無滅。是非変化。須菩提言。何等是不生不滅非変化。仏言。無誑相涅槃。是法非変化。世尊。如仏自説。諸法平等。非声聞作。非辟支仏作。非諸菩薩摩訶薩作。非諸仏作。有仏無仏諸法性常空。性空即是涅槃。云何涅槃一法非如化。仏告須菩提。如是如是。諸法平等。非声聞所作。乃至性空即是涅槃。若新発意菩薩。聞是一切法皆畢竟性空。乃至涅槃亦皆如化者。心則驚怖。為是新発意菩薩。故分別生滅者如化。不生不滅者不如化邪。今既以斯聖教験知。弥陀定是報也。縦使後入涅槃。其義無妨。諸有智応知。
  ◎(玄義分)問うて曰わく、既に報と言わば、報身常住にして永く生滅なし。なにがゆえぞ『観音授記経』に説かく、阿弥陀仏また入涅槃の時ありと。この一義いかんが通釈せんや。答えて曰わく、入・不入の義は、ただこれ諸仏の境界なり。なお三乗浅智の[キ02](うかが)うところにあらず。あに況や小凡輙くよく知らんや。しかりといえども、必ず知らんと欲わば、敢て仏経を引きてもって明証とせん。いかんとならば、『大品経』の涅槃非化品の中に説きて云うがごとし。仏、須菩提に告げたまわく、汝が意においていかん。もし化人ありて化人を作す、この化すこぶる実事ありやいなや。空しきものなりやいなや。須菩提の言さく、いなや、世尊。仏、須菩提に告げたまわく、色すなわちこれ化なり、受・想・行・識すなわちこれ化なり、乃至一切種智すなわちこれ化なり。須菩提、仏に白して言さく、世尊、もし世間の法これ化なりや、出世間の法またこれ化なりや。いわゆる四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八聖道分・三解脱門・仏の十力・四無所畏・四無碍智・十八不共法、ならびに諸法の果および賢聖人、いわゆる須陀[オン01]・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏・菩薩摩訶薩・諸仏世尊、この法またこれ化なりやいなや。仏、須菩提に告げたまわく、一切の法は、みなこれ化なり。この法の中において、声聞の法の変化あり。辟支仏の法の変化あり。菩薩の法の変化あり。諸仏の法の変化あり。煩悩の法の変化あり。業因縁の法の変化あり。この因縁をもってのゆえに、須菩提、一切の法、みなこれ化なりと。須菩提、仏に白して言さく、世尊、このもろもろの煩悩断は、いわゆる須陀[オン01]果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏道はもろもろの煩悩の習を断ず、みなこれ変化なりやいなや。仏、須菩提に告げたまわく、もし法の生滅の相ある者は、みなこれ変化なりとのたまえり。須菩提言さく、世尊、何等の法か変化にあらざると。仏の言わく、もし法の無生・無滅なる、これ変化にあらずと。須菩提言さく、何等かこれ不生・不滅にして変化にあらざると。仏の言さく、誑相なき涅槃、この法変化にあらずと。世尊、仏自ら説きたまうがごとき、諸法は平等にして声聞の作にあらず、辟支仏の作にあらず、もろもろの菩薩摩訶薩の作にあらず、諸仏の作にあらず。有仏・無仏、諸法の性は常に空なり。性空なる、すなわちこれ涅槃なり。いかんぞ涅槃の一法、化のごとくにあらざると。仏、須菩提に告げたまわく、かくのごとし、かくのごとし。諸法は平等にして、声聞の所作にあらず、乃至、性空なればすなわちこれ涅槃なり。もし新発意の菩薩、この一切の法みな畢竟じて性空なり、乃至、涅槃もまたみな化のごとしと聞かば、心すなわち驚怖しなん。この新発意の菩薩のために、ことさらに、生滅のものは化のごとし、不生不滅のものは化のごとくにあらざるを分別するをや。いま既にこの聖教をもって験かに知りぬ、弥陀は定んでこれ報なり。たとい後に涅槃に入らば、その義妨なけん。もろもろの有智、知るべしと。SINBUTU:SYOZEN2-137,138,139/-HON-319,320,HOU-430,431,432-

 〇問曰既言報者等者。第二番也。言既言者。既聞三経引証明文。信伏唯報非化之義。但授記経所説違故。引彼経説入涅槃文。致問難也。問。授記経説入涅槃義。其説如何。答。彼経説云。阿弥陀仏寿命無量百千億劫。当有終極。善男子当来曠遠不可計劫。阿弥陀仏当般涅槃。般涅槃後。正法住世等仏寿命。在世滅後所度衆生。悉皆同等。仏涅槃後。或有衆生不見仏者。有諸菩薩得念仏三昧。常見阿弥陀仏。復次善男子。彼仏滅後。一切宝物浴池蓮華衆宝行樹常演法音。与仏無異。善男子。阿弥陀仏正法滅後過中夜分。明相出時。観世音菩薩。於七宝菩提樹下。結跏趺坐。成等正覚。号普光功徳山王如来。已上。是其文也。SYOZEN2-362/TAI8-259-
  〇「問曰既言報者」等とは第二番なり。「既言」というは、既に三経引証の明文を聞きて、唯報非化の義を信伏す。但し『授記経』の所説は違するが故に、彼の経に説く涅槃に入る文を引きて、問難を致すなり。問う、『授記経』に入涅槃の義を説く、その説は如何。答う、彼の経に説きて云わく「阿弥陀仏は寿命無量百千億劫にして、当に終極あるべし。善男子、当来曠遠不可計劫に阿弥陀仏は当に般涅槃したもうべし。般涅槃の後、正法の世に住することは仏の寿命に等し。在世滅後に度する所の衆生は、悉く皆同等ならん。仏涅槃の後は、或いは衆生の見仏せざる者あり、諸の菩薩の念仏三昧を得るものありて、常に阿弥陀仏を見たてまつる。また次に善男子、彼の仏の滅後に、一切の宝物・浴池・蓮華・衆宝・行樹は常に法音を演ずること、仏と異なることなし。善男子、阿弥陀仏正法滅後、中夜の分を過ぎて、明相出でし時、観世音菩薩は、七宝菩提樹の下に於いて、結跏趺坐して、等正覚を成ずべし。普光功徳山王如来と号せん」已上。これその文なり。SYOZEN2-362/TAI8-259-

 〇答曰等者。問依授記致其疑難。答依大品会其疑問。於此答中。分文為四。一自文之始至能知也。是約実理。亦準凡師。述卑謙詞。古来人師。看此経説作応身解。種種異論不当其理。故云唯是諸仏境界。又云小凡輙能知也。-SYOZEN2-362/TAI8-259-
  〇「答曰」等とは、問は『授記』に依りてその疑難を致す。答は『大品』に依りてその疑問を会す。この答の中に於いて、文を分かちて四と為す。一に文の始より、「能知也」に至るまで。これは実理に約す。また凡師に準じて、卑謙の詞を述ぶ。古来の人師は、この経説を看て応身の解を作す。種種の異論はその理に当らず。故に「唯これ諸仏の境界なり」といい、また「小凡輙く能く知らんや」というなり。-SYOZEN2-362/TAI8-259-

 〇二自言雖然至為明証。宣引経意。必欲知者。設問設答各有二意。一偏以貢高勝他破法邪執心問。是不須答。二直為聞法開解得益結縁而問。此即応答。今為後問欲引証也。故云欲知。-SYOZEN2-362/TAI8-259-
  〇二に「雖然」というより、「為明証」に至るまでは、経を引く意を宣ぶ。「必欲知」とは、問を設け、答を設くるに、おのおの二の意あり。一には偏に貢高・勝他・破法・邪執の心を以て問う。これ須く答うべからず。二には直ちに聞法・開解・得益・結縁の為にして問う。これは即ち答うべし。今は後の問の為に証を引かんと欲するなり。故に「欲知」という。-SYOZEN2-362/TAI8-259-

 〇三何者已下。正引文也。問。所引本経正文題云涅槃如化。何云非化。答。当品之中。説涅槃理。初説非化。後説如化。経従後題。釈就初標。経釈両題始終不違。凡問中引授記経意。既挙報身常住之義。而出弥陀入滅文証。是為謂非報身土也。而今答意。引大品経。若約非化入滅不難。若約如化無入滅義。故是雖為報身。非無随宜入滅。不可謂爾妨報身義。存此義故。有両意中。依非化義如此題也。-SYOZEN2-362,363/TAI8-259,260-
  〇三に「何者」已下は、正しき引文なり。問う、所引の本経の正文には題して「涅槃如化」という。何ぞ非化という。答う、当品の中に涅槃の理を説くに、初には非化と説き、後には如化と説く。経は後に従いて題す、釈は初に就きて標す。経釈の両題始終は違せず。凡そ問の中に『授記経』を引く意は、既に報身常住の義を挙げて、而も弥陀入滅の文証を出だす。これ報身土にあらずといわんが為なり。而るに今答の意は、『大品経』を引きて、もし非化に約せば入滅難からず。もし如化に約せば入滅の義なし。故にこれ報身たりといえども、随宜の入滅なきにあらず。爾りといいて報身の義を妨ぐべからず。この義を存するが故に、両の意ある中に、非化の義に依りてかくの如く題するなり。-SYOZEN2-362,363/TAI8-259,260-

 〇所引文中。如来善吉為其所対。問答有七。一如来問中。化人等者。能作五陰本無自性。故無実事。所作衆生五陰和合仮名衆生。故皆空也。善吉領解其皆空理故云不也。-SYOZEN2-363/TAI8-260-
  〇所引の文の中に、如来・善吉、その所対と為て問答するに七あり。一に如来の問の中に、「化人」等とは、能作の五陰はもと自性なし。故に実事なし。所作の衆生の五陰和合して仮に衆生と名づく。故に皆空なり。善吉はその皆空の理を領解するが故に「不也」という。-SYOZEN2-363/TAI8-260-

 〇二仏自説中。所挙之色受想行識。是五陰法。所謂是空世間法也。一切種智是仏智也。所謂是空出世法也。於出世法。除仏已外有三乗法。是皆雖為所空法体。今略不挙。故云乃至。-SYOZEN2-363/TAI8-260-
  〇二に仏の自説の中に、挙ぐる所の「色・受・想・行・識」は、これ五陰の法。所謂これ世間の法を空ずるなり。一切種智はこれ仏智なり。所謂これ出世の法を空ずるなり。出世の法に於いて、仏を除いて已外に三乗の法あり。これみな所空の法体たりといえども、今は略して挙げず。故に「乃至」という。-SYOZEN2-363/TAI8-260-

 〇三善吉問意。就如来説乃至種智皆是変化。重挙三乗所学之法。尋此等法悉化耶也。乃上所略諸法是也。-SYOZEN2-363/TAI8-260-
〇三に善吉の問の意、如来の乃至種智皆是変化なりと説きたもうに就きて、重ねて三乗所学の法を挙げ、これらの法は悉く化なりやと尋ぬるなり。乃ち上に略する所の諸法これなり。-SYOZEN2-363/TAI8-260-

 〇問。乃至言中摂此等法。不及重挙。何況一切種智。既明出之。何今重問仏世尊耶。答。雖言乃至。未出其名。一一為聞所空法体。問之無失。至世尊者。一切種智仏功徳一。此是別也。今就総徳問之為異。SYOZEN2-363/TAI8-260-
  〇問う、乃至の言の中にこれらの法を摂す。重ねて挙ぐるに及ばず。何に況んや一切種智、既に明かにこれを出だす。何ぞ今重ねて仏世尊を問うや。答う、乃至というといえども、未だその名を出さず。一一に所空の法体を聞かんが為にこれを問うに失なし。世尊に至りては、一切種智は仏の功徳の一なり。これはこれ別なり。今は総徳に就きてこれを問うを異と為す。SYOZEN2-363/TAI8-260-

 〇四念処者。亦是念住以慧為体。一身念処。観身不浄破浄顛倒。二受念処。観受是苦破楽顛倒。三心念処。観心無常破常顛倒。四法念処。観法無我破我顛倒。三賢位也。四正勒者。一亦云正断。一令已生悪方便断除。二令未生悪方便不生。三令已生善方便増長。四令未生善方便而生。[ナン02]法位也。四如意足。亦云神足。四神足者。一欲神足。以欲為主得三摩地。二勤神足。精進為主得三摩地。三心神足。以心為主得三摩地。四観神足。以観為主得三摩地。頂法位也。言五根者。一者信根。信心強勝信正道法。二精進根。於正道中勤而不息。三者念根。善心増長念念不失。四者定根。所謂摂心在正道也。五者慧根。所謂分明覚境故也。忍法位也。言五力者。謂前五根増長是也。此是世第一法位也。七覚分者。或復称之言七覚支。一択法覚支。謂慧簡択善悪法故。二精進覚支。所謂勤修善法不退。三軽安覚支。所謂身心能調適故。四者念覚支。所謂憶念不失故也。五者捨覚支。於善法中平等修習。六者定覚支。於善法中心不散故。七喜覚支。於善法中勤楽修習。八聖道分。或復称之言八正道支。一者正見。所謂正直見四諦理。二正思惟。於四諦理如法思惟。三者正語。所謂正直離邪僻語。四者正業。謂滅悪業住浄業故。五者正命。浄命自活不起貪欲所生三業。六正精進。勒修善法不懈怠故。七者正念。謂無漏念不失境也。八者正定。謂無漏慧相応定也。八正見道。七覚修也。自四念処至八聖道。総而是為七科道品。七科合為三十七品菩提分法。上来皆是二乗所修法門等也。-SYOZEN2-363,364/TAI8-260,261-
  〇「四念処」とは、またはこれ念住、慧を以て体とす。一には身念処、身は不浄なりと観じて浄顛倒を破す。二には受念処、受はこれ苦なりと観じて楽顛倒を破す。三には心念処、心は無常なりと観じて常顛倒を破す。四には法念処、法は無我なりと観じて我顛倒を破す。三賢の位なり。「四正勒」とは、一にはまた正断という。一には已生の悪をして方便して断除せしむ。二には未生の悪をして方便して生ぜざらしむ。三には已生の善をして方便して増長せしむ。四には未生の善をして方便して生ぜしむ。[ナン02]法の位なり。「四如意足」とは、また神足という。四神足とは、一には欲神足、欲を以て主として三摩地を得。二には勤神足、精進を主として三摩地を得。三には心神足、心を以て主として三摩地を得。四には観神足、観を以て主として三摩地を得。頂法の位なり。「五根」というは、一には信根、信心強勝にして正道の法を信ず。二には精進根、正道の中に於いて勤めて息せず。三には念根、善心増長して念念に失せず。四には定根、いわゆる心を摂して正道に在り。五には慧根、いわゆる分明に境を覚するが故なり。忍法の位なり。「五力」というは、謂わく、前の五根の増長する、これなり。これはこれ世第一法の位なり。「七覚分」とは、或いはまたこれを称して七覚支という。一には択法覚支、謂わく慧は善悪の法を簡択するが故に。二には精進覚支、いわゆる善法を勤修して退せず。三には軽安覚支、いわゆる身心の能く調適するが故に。四には念覚支、いわゆる憶念して失せざるが故なり。五には捨覚支、善法の中に於いて平等に修習す。六には定覚支、善法の中に於いて心の散ぜざるが故に。七には喜覚支、善法の中に於いて勤楽修習す。「八聖道分」、或いはまたこれを称して八正道支という。一には正見、いわゆる正直に四諦の理を見る。二には正思惟、四諦の理に於いて法の如く思惟す。三には正語、いわゆる正直に邪の僻語を離る。四には正業、謂わく悪業を滅して浄業に住するが故に。五には正命、浄命自活して貪欲所生の三業を起こさず。六には正精進、善法を勒修して懈怠せざるが故に。七には正念、謂わく無漏の念の境を失せざるなり。八には正定、謂わく無漏の慧相応の定なり。八正は見道、七覚は修なり。四念処より、八聖道に至るまでは、総じてこれを七科の道品と為す。七科を合して三十七品菩提分法と為す。上来皆これ二乗所修の法門等なり。-SYOZEN2-363,364/TAI8-260,261-

 〇三解脱門者。亦言三三昧。言三昧者当体得名。言解脱者従能通用。以立名也。此是菩薩所行法也。一空解脱門。謂空諸法空我我所。二無相解脱門。謂離男女色香等相。三無願解脱門。謂求寂滅不願有為。浄影遠師大経疏云。衆生及法悉無自性。故名為空。乃至。因縁相亦不有説為無相。此離所取。遠離妄想能願之心。故名無願。已上。又憬興師同経疏云。欲入大涅槃。必以三昧為門故。偏説此三。如瑜伽論云。我法無故空。空故無相。無相故不可願求。已上。仏十力者。見第二巻新本之中。四無畏者。一等覚無畏仏。於諸法皆正等覚。二漏尽無畏仏。於諸漏皆得永尽。三説障法無畏仏。為弟子説能障法。四説出苦道無畏仏。為弟子説能出道。修必出苦。称之無畏。此四外難若成障碍。如理為釈無怖畏故言無畏也。言四無碍智者。亦云四無碍解。一法無碍解。謂無碍解縁能詮法名句之身。二義無碍解。謂無碍智縁所詮義。三辞無碍解。謂無碍智縁諸方域種種言辞。四弁無碍解。謂無碍智縁応正理無障碍故。十八不共法者。若依倶舎論意。今所挙之十力四無所畏之外。加大悲三念住。所成十八数也。言大悲者。由五義故。言之為大。所謂資糧行相所縁平等上品是五義也。三念住者。一縁順境不生歓喜。二縁違境不生憂戚。三縁違順境不生歓戚。此三皆住正知正念。如此十八唯仏具足余悉不具。是故名不共法。-SYOZEN2-364,365/TAI8-261,262-
  〇「三解脱門」とは、また三三昧という。三昧というは、当体に名を得、解脱というは能通の用に従いて、以て名を立つるなり。これはこれ菩薩所行の法なり。一には空解脱門、謂わく諸法を空じ、我我所を空ず。二には無相解脱門、謂わく、男女・色香等の相を離る。三には無願解脱門、謂わく、寂滅を求めて有為を願ぜず。浄影遠師の『大経の疏』に云わく「衆生及び法、悉く自性なし。故に名づけて空とす。乃至。因縁の相また有らざるを説きて無相と為す。これは所取を離る。妄想能願の心を遠離す。故に無願と名づく」已上。また憬興師の同じき経の疏に云わく「大涅槃に入らんと欲するに、必ず三昧を以て門と為すが故に、偏にこの三を説く。瑜伽論に云うが如し。我法無なるが故に空なり。空の故に無相なり。無相の故に願求すべからず」已上。「仏の十力」とは、第二巻新本の中に見えたり。「四無畏」とは、一には等覚無畏。仏は諸法に於いてみな正等に覚る。二には漏尽無畏。仏は諸漏に於いてみな永く尽くすことを得。三には説障法無畏。仏は弟子の為に能障の法を説く。四には説出苦道無畏。仏は弟子の為に能出の道を説く。修すれば必ず苦を出ず。これを無畏と称す。この四外難して、もし障碍を成ずるに、理の如く為に釈して怖畏なきが故に無畏というなり。「四無碍智」というは、また四無碍解という。一には法無碍解、謂わく無碍解、能詮の法の名句の身を縁ず。二には義無碍解、謂わく無碍智、所詮の義を縁ず。三には辞無碍解、謂わく無碍智、諸の方域の種種の言辞を縁ず。四には弁無碍解、謂わく無碍智、応正理を縁じて障碍なきが故に。「十八不共法」とは、もし『倶舎論』の意に依りて、今挙ぐる所の十力四無所畏の外に、大悲と三念住とを加えて、十八の数を成ずる所なり。大悲というは、五の義に由るが故に、これを言いて大とす。いわゆる資糧と行相と所縁と平等と上品と、これ五義なり。三念住とは、一には順境を縁じて歓喜を生ぜず。二には違境を縁じて憂戚を生ぜず。三には違順の境を縁じて歓戚を生ぜず。この三はみな正知・正念に住す。かくの如きの十八は、ただ仏のみ具足して余は悉く具せず。この故に不共法と名づく。-SYOZEN2-364,365/TAI8-261,262-

 〇諸煩悩断所謂等者。二乗断道四果等也。第二巻鈔新本明之。仏答之中。声聞法者。是指四諦七科道品等諸法也。支仏法者是指十二縁起観也。菩薩法者。指六波羅蜜等万行也。諸仏法者。即指十八不共法等。煩悩法者。三毒苦因。業因縁者。十悪等歟。-SYOZEN2-365/TAI8-262-
  〇「諸煩悩断所謂」等とは、二乗の断道四果等なり。第二巻の鈔の新本にこれを明かす。仏答の中に、「声聞の法」とは、これ四諦・七科の道品等の諸法を指すなり。「支仏の法」とは、これ十二縁起の観を指すなり。「菩薩の法」とは、六波羅蜜等の万行を指すなり。「諸仏の法」とは、即ち十八不共法等を指すなり。「煩悩法」とは、三毒の苦因。「業因縁」とは十悪等なるか。-SYOZEN2-365/TAI8-262-

 〇四善吉問中。問。上文悉挙声聞四果支仏菩薩及仏世尊。何今重挙其五果耶。答。上約四向。今約四果。於支仏者是約住果非住果歟。仏答可見。-SYOZEN2-365/TAI8-262-
  〇四に善吉の問の中に、問う、上の文に悉く声聞四果・支仏・菩薩及び仏世尊を挙ぐ。何ぞ今重ねてその五果を挙ぐるや。答う、上は四向に約し、今は四果に約す。支仏に於いては、これ住果・非住果に約するか。仏答、見つべし。-SYOZEN2-365/TAI8-262-

 〇五善吉問意。当段仏答并第六問。以易見。-SYOZEN2-365/TAI8-262-
  〇五に善吉の問の意。当段の仏答、并びに第六の問、以て見易し。-SYOZEN2-365/TAI8-262-

 〇六仏答中。言無誑相涅槃等者。外道小乗所執涅槃。皆是虚妄。是誑衆生故名誑相。仏不誑人。是故如来所説涅槃名無誑相。-SYOZEN2-365,366/TAI8-262
  〇六に仏答の中に、「無誑相涅槃」等というは、外道小乗所執の涅槃は、皆これ虚妄なり。これ衆生を誑す、故に誑相と名づく。仏は人を誑さず。この故に如来所説の涅槃を無誑相と名づく。-SYOZEN2-365,366/TAI8-262-

 〇七世尊如仏自説等者。善吉問也。仏自説者。指上所説平等品意。問意有二。一平等法中。何有生滅不生滅耶(是一)。又如如来上所説者。諸法当体即是涅槃。諸法之外有何涅槃不生滅乎(是二)。仏答之中。言如是者。是可両問。言非声聞所作等者。可初諸法平等問也。言乃至者。摂問所挙非辟支仏并諸菩薩諸仏作義。性空即是涅槃等者。是可諸法実相即涅槃義。若新等者。是明如来分別随宜之説有異。此乃合彼授記経意。可有三意。一涅槃非化。二涅槃如化。三性空涅槃。前二涅槃隨宜説也。第三涅槃是実理也。-SYOZEN2-366/TAI8-262
  〇七に「世尊如仏自説」等とは善吉の問なり。「仏自説」とは、上の所説の平等品の意を指す。問の意に二あり。一には平等の法の中に、何ぞ生滅・不生滅あるや(これ一)。また如来の上の所説の如きは、諸法の当体は即ちこれ涅槃なり。諸法の外に何の涅槃ありてか生滅せざるや(これ二)。仏答の中に「如是」というは、これ両問を可す。「非声聞所作」等というは、初の諸法平等の問を可するなり。「乃至」というは、問に挙ぐる所の辟支仏并びに諸菩薩諸仏の作にあらざる義を摂す。「性空即是涅槃」等とは、これ諸法の実相は即ち涅槃なる義を可す。「若新」等とは、これ如来分別随宜の説に異あることを明かす。これ乃ち彼の『授記経』の意に合するに、三の意あるべし。一には涅槃非化、二には涅槃如化、三には性空涅槃なり。前の二の涅槃は隨宜の説なり。第三の涅槃はこれ実理なり。-SYOZEN2-366/TAI8-262

 〇四今既等者。是総結成会授記経。以斯等者。是指上之所引三経乃至大品等文。縦使等者。若与謂之。如授記経。可得其意。是同大品被新発意菩薩之説。故云無妨。諸有等者。学者措心尤可領解。謂入不入是事理異。授記約事説入涅槃。大品約理説平等義。如来随宜説教在斯。今言応知此深旨也。SYOZEN2-366/TAI8-262,263
  〇四に「今既」等とは、これ総じて『授記経』を会することを結成す。「以斯」等とは、これ上の所引の三経、乃至『大品』等の文を指す。「縦使」等とは、もし与えてこれを謂わば、『授記経』の如くその意を得べし。これ『大品』に新発意菩薩に被らしむ説に同じ。故に「妨げなし」という。「諸有」等とは、学者は心を措きて尤も領解すべし。謂わく入と不入とは、これ事・理の異なり。『授記』は事に約して入涅槃と説き、『大品』は理に約して平等の義を説く。如来随宜の説教、ここに在り。今この深旨を知るべしというなり。SYOZEN2-366/TAI8-262,263

 ◎問曰。彼仏及土既言報者。報法高妙。小聖難階垢障凡夫云何得入。答曰。若論衆生垢障。実難忻趣。正由託仏願以作強縁。致使五乗斉入。
  ◎(玄義分)問うて曰わく、かの仏および土、既に報と言わば、報法高妙にして小聖階いがたし。垢障の凡夫いかんが入ることを得んや。答えて曰わく、もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣しがたし。正しく仏願に託するによって、もって強縁と作りて、五乗をして斉しく入らしむることを致すと。SINBUTU:SYOZEN2-139/-HON-320,HOU-432

 〇問曰彼仏及土等者。第三番也。問意。既許報土義。疑能生機。於中為四。一牒報身報土之義。二領報法高妙之理。実修実証殊妙報土。高出地前教道之外。故云高妙。三挙小聖猶難生義。言小聖者。大乗賢位小乗聖位並摂此中。斯等下位。咸皆不及。故云難階。四言小聖猶以不入。況底下機可絶望也。答中為二。一順問難且許垢障凡夫難生。二明正由仏願之強縁。小聖凡夫皆悉往生。是偏別意難思超絶不可思議本願故也。就言斉入有総別意。総者斉乗仏願之意。不論機根。不簡善悪。唯依仏願得生義也。別者有二。所謂斉上斉下義也。言斉下者。謂浄土教本被凡夫。仍以凡夫為其正機。是故三乗皆同凡夫入彼報土。言斉上者。所謂報土所入之機。本是十地菩薩等也。凡夫雖非所入之限。由仏力故。同其上機斉得生也。SYOZEN2-366,367/TAI8-282
  〇「問曰彼仏及土」等とは、第三番なり。問の意は、既に報土の義を許して、能生の機を疑う。中に於いて四と為す。一には報身報土の義を牒す。二には報法高妙の理を領す。実修・実証・殊妙の報土は高く地前教道の外に出でたり。故に「高妙」という。三には小聖なお生じ難き義を挙ぐ。「小聖」というは、大乗の賢位、小乗の聖位は並びにこの中に摂す。これらの下位は咸く皆及ばず。故に「難階〈諧〉」という。四には小聖なお以て入らず、況んや底下の機は望を絶すべしというなり。答の中に二とす。一には問難に順じて且く垢障の凡夫は生じ難きことを許す。二には正しく仏願の強縁に由りて、小聖・凡夫みな悉く往生することを明かす。これ偏に別意・難思・超絶・不可思議の本願なるが故なり。「斉入」というに就きて総別の意あり。総とは斉しく仏願に乗ずる意、機根を論ぜず、善悪を簡ばず、ただ仏願に依りて得生する義なり。別とは二あり。いわゆる斉上・斉下の義なり。斉下というは、謂わく、浄土の教はもと凡夫に被らしむ。仍て凡夫を以てその正機とす。この故に三乗みな凡夫に同じて彼の報土に入る。斉上というは、いわゆる報土所入の機は、本これ十地の菩薩等なり。凡夫は所入の限にあらずといえども、仏力に由るが故に、その上機に同じて斉しく生ずることを得るなり。SYOZEN2-366,367/TAI8-282

 ◎又云。従我今楽生弥陀已下。正明夫人別選所求。此明弥陀本国四十八願。願願皆発増上勝因。依因起於勝行。依行感於勝果。依果感成勝報。依報感成極楽。依楽顕通悲化。依於悲化顕開智慧之門。然悲心無尽。智亦無窮。悲智双行。即広開甘露。因茲法潤普摂群生也。諸余経典勧処弘多。衆聖斉心皆同指讃。有此因縁致使如来蜜遣夫人別選也。
  ◎(序分義)また云わく、我今楽生弥陀より已下は正しく夫人別して所求を選ぶことを明かす。これは弥陀の本国四十八願なることを明かす。願願みな増上の勝因を発せり。因に依って勝行を起こし、行に依って勝果を感ず。果に依って勝報を感成せり。報に依って極楽を感成せり。楽に依って悲化を顕通す。悲化に依って智慧の門を顕開せり。しかるに悲心無尽にして智また無窮なり。悲・智双行して、すなわち広く甘露を開けり。これに因って法潤普く群生を摂したまうなり。諸余の経典に勧むるところ弘く多し。衆聖、心を斉しくしてみな同じく指讃したまう。この因縁ありて、如来密に夫人を遣わして別して選ばしむることを致すなり。SINBUTU:SYOZEN2-139/HON-321,HOU-432

 〇次序分義。欣浄縁文。有八句中。今此所引第七科釈。於当科中分文為五。一弥陀以下。約大経意顕弥陀仏本願別意。二依楽已下。依観経意明釈迦仏摂生之益。三諸余已下。総依一代。別依三経。広明衆経普勧西方。四衆聖以下。述十方仏同讃之証。五有此已下。総結夫人別選意也。約大経中言本国者。本是対末。諸仏浄土称為末国。弥陀浄土号曰本国。斯乃弥陀諸仏本師。極楽諸土本国故也。四十等者。明選取由。其由有二。一荘厳勝故。第六科云。夫人総見十方仏国。並悉精華。欲比極楽荘厳。全非比況。已上。礼讃釈云。四十八願荘厳起。超諸仏刹最為精。已上。二本願勝故。大経上云。超発無上殊勝之願。已上。又云。我建超世願。必至無上道。已上。是則弥陀仏智所成真妙報土。不隔無善薄地凡夫。仏力横引直取涅槃。諸仏浄土皆依機見感其優劣。西方浄土不仮機功。唯拠仏徳。全不由機判優劣故。是為別意超勝宗旨。夫人選取在此二耳。言勝因者。是六八願。言勝行者。是六度行。言勝果者。即是菩提。言勝報者。即涅槃也。依観経中言悲化者。約利他益。智慧門者。約自利徳。広開等者。序題門云。灑於甘露。潤於群萌。蓋其義也。但彼釈者。総叙一代。此釈意者。別約真門。言甘露者。不死妙薬即無量寿常住法也。大経上説八功徳水之功能云。清浄香潔味如甘露。已上。礼讃釈云。洗心甘露水。己上。是皆浄土殊妙徳也。是故今開甘露門者。即開浄土真門意也。是則一代八万諸教。皆悉帰入弥陀仏智一乗義也。法潤等者。且説定散。先摂衆機遂令引入弘願意也。依衆経中。勧処等者。総亘化前。別依三経。雖有隠顕。皆明釈迦一代設化仏意在顕安養往詣之本懐也。総結文中。致使等者。問。経云我今楽生極楽。如其文者。夫人只自選取之歟。今釈如何。答。証定釈義。深得経旨釈成此義。仰可信之。是故此鈔第一序云。釈迦韋提選安養。已上。此釈之趣守今釈也。故彼序下粗註愚解。SYOZEN2-367,368/TAI8-286,287
  〇次に『序分義』欣浄縁の文、八句ある中に、今この所引は第七の科の釈なり。当科の中に於いて文を分ちて五とす。一に「弥陀」以下は『大経』の意に約して弥陀仏本願の別意を顕わし、二に「依楽」已下は、『観経』の意に依りて釈迦仏摂生の益を明かす。三に「諸余」已下は、総じては一代に依り、別しては三経に依りて、広く衆経に普く西方を勧むることを明かす。四に「衆聖」以下は、十方仏同讃の証を述ぶ。五に「有此」已下は、総じて夫人別選の意を結するなり。『大経』に約する中に「本国」というは、本はこれ末に対す。諸仏の浄土を称して末国とす。弥陀の浄土を号して本国という。これ乃ち弥陀は諸仏の本師、極楽は諸土の本国なるが故なり。「四十」等とは、選取の由を明かす。その由に二あり。一には荘厳勝れたるが故に。第六の科に云わく「夫人は総じて十方の仏国を見るに、並びに悉く精華なれども、極楽の荘厳に比せんと欲するに、全く比況にあらず」已上。『礼讃』の釈に云わく「四十八願の荘厳より起こる。諸仏の刹に超えて最も精たり」已上。二には本願勝たるが故に。『大経』の上に云わく「無上殊勝の願を超発す」已上。また云わく「我、超世の願を建つ。必ず無上道に至らん」已上。これ則ち弥陀仏智所成の真妙の報土は無善薄地の凡夫を隔てず。仏力の横に引きて直ちに涅槃を取らしむ。諸仏の浄土はみな機見に依りてその優劣を感ず。西方の浄土は機の功を仮らず、ただ仏徳に拠る。全く機に由りて優劣を判ぜざるが故に。これを別意超勝の宗旨と為す。夫人の選取はこの二に在るのみ。「勝因」というは、これ六八の願。「勝行」というは、これ六度の行。「勝果」というは、即ちこれ菩提。「勝報」というは、即ち涅槃なり。『観経』に依る中に「悲化」というは、利他の益に約す。「智慧門」とは、自利の徳に約す。「広開」等とは、序題門に云わく「甘露を灑ぎて群萌を潤す」。蓋しその義なり。但し彼の釈は総じて一代を叙し、この釈の意は別して真門に約す。「甘露」というは不死の妙薬、即ち無量寿常住の法なり。『大経』の上に八功徳水の功能を説きて云わく「清浄香潔にして味は甘露の如し」已上。『礼讃』の釈に云わく「心を洗う甘露の水」己上。これ皆浄土殊妙の徳なり。この故に今、甘露門を開くとは、即ち浄土の真門を開く意なり。これ則ち一代八万の諸教は皆悉く弥陀の仏智一乗に帰入する義なり。「法潤」等とは、且く定散を説きて、まず衆機を摂し、遂に弘願に引入せしむる意なり。衆経に依る中に、「勧処」等とは、総じては化前に亘り、別しては三経に依る。隠顕ありといえども、みな釈迦一代の設化仏意は安養往詣の本懐を顕わすに在あることを明かすなり。総結の文の中に、「致使」等とは、問う、経に「我今楽生極楽」という。その文の如きは、夫人ただ自らこれを選取するか。今の釈は如何。答う、証定の釈義は、深く経旨を得てこの義を釈成す。仰いてこれを信ずべし。この故にこの鈔の第一の序に云わく「釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり」已上。この釈の趣は今の釈を守るなり。故に彼の序の下に、ほぼ愚解を註す。SYOZEN2-367,368/TAI8-286,287

 ◎又云。西方寂静無為楽。畢竟逍遥離有無。大悲薫心遊法界。分身利物等無殊。帰去来。魔郷不可停。曠劫来。流転六道尽皆経。到処無余楽。唯聞生死声。畢此生平後入彼涅槃城。
  ◎(定善義)また云わく、西方寂静無為の楽〈みやこ〉は、畢竟逍遥として有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること等しくして殊なることなし。帰去来〈いざいなん〉、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らんと。SINBUTU:SYOZEN2-139/HON-321,HOU-432

 〇次二文者。共定善義水観讃也。今此二文第四巻初被引用之。故於其下聊述義訖。問。何故両処被引之乎。答。如已前述。此書元自只文集也。毎有其要不憚繁重。明真実証。顕真仏土。順其義故各被引歟。将又第四。此両文中。初文余残。或現神通而説法等具被引之。今除彼文一四句偈。聊有加減。可謂差別。SYOZEN2-368/TAI8-298
  〇次の二文は、共に『定善義』水観の讃なり。今この二文は第四巻の初にこれを引用せらる。故にその下に於て聊か義を述べ訖りぬ。問う、何が故ぞ両処にこれを引かるるや。答う、已に前に述ぶるが如く、この書は元よりただ文集なり。その要ある毎に繁重を憚らず。真実の証を明かし、真仏土を顕わすに、その義に順ずるが故に、おのおの引かるるか。はたまた第四には、この両文の中に、初の文の余残「或現神通而説法」等は具にこれを引かる。今は彼の文の一四句偈を除く。聊か加減あり。差別ありというべし。SYOZEN2-368/TAI8-298

 ◎又云。極楽無為涅槃界。随縁雑善恐難生。故使如来選要法。教念弥陀専復専。
  ◎(法事讃)また云わく、極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、恐らくは生まれがたし。故に如来、要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえり。SINBUTU:SYOZEN2-139,140/HON-321,HOU-433

 〇次法事讃下巻釈也。極楽等者。大経下云。彼仏国土無為自然。已上。涅槃界者。生彼土者。即証法性常楽故也。是依必至滅度願也。随縁等者。是指雑行。序分義云。随縁起行擬作進道資粮。何其六賊知聞競来侵奪。已上。恐難生者。明彼雑行不得生也。此文消釈少善不生之文釈故。雖恐慮言。意存不生。言要法者。是指念仏。是非定散二善要門。般舟讃云先求要行入真門。玄義分云浄土之要難逢。是也。専復専者。再言専者。慇懃意也。又上専者。此表一心。其下専者是表一行。又上専者是対雑行。下対助業。各有其意。共可存之。SYOZEN2-368,369/TAI8-300,301-
  〇次に『法事讃』下巻の釈なり。「極楽」等とは、『大経』の下に云わく「彼の仏国土は無為自然なり」已上。「涅槃界」とは、彼の土に生ずる者は、即ち法性の常楽を証するが故なり。これ必至滅度の願に依りてなり。「随縁」等とは、これ雑行を指す。『序分義』に云わく「随縁起行して進道の資粮を作らんと擬するに、何ぞそれ六賊知聞して競い来たりて侵奪するや」已上。「恐難生」とは、彼の雑行は生ずることを得ざることを明かすなり。この文は少善不生を消釈する文釈なるが故に、恐慮の言なりといえども、意は不生を存す。「要法」というは、これ念仏を指す。これ定散二善の要門にはあらず。『般舟讃』に「まず要行を求めて真門に入らん」といい、『玄義分』に「浄土の要は逢い難し」という、これなり。「専復専」とは、再たび専というは慇懃の意なり。また上の専は、これ一心を表わす。その下の専は、これ一行を表わす。また上の専は、これ雑行に対し、下は助業に対す。おのおのその意あり。共にこれを存ずべし。SYOZEN2-368,369/TAI8-300,301-

 ◎又云。従仏逍遥帰自然。自然即是弥陀国。無漏無生還即真。行来進比常随仏。証得無為法性身。
  ◎(法事讃)また云わく、仏に従いて逍遥して自然に帰す。自然はすなわちこれ弥陀国なり。無漏無生還りてすなわち真なり。行来進止に常に仏に随いて、無為法性身を証得す、と。SINBUTU:SYOZEN2-140/HON-321,HOU-433

 〇次文又同下巻讃也。帰自然者。大経上云。建立常然無衰無変。已上。是明国土自然之義。又云皆受自然虚無之身無極之体。是明正報自然之徳。言無漏者。無漏染故。言無生者。悟法忍故。-SYOZEN2-369/TAI8-301-
  〇次の文は、また同じき下巻の讃なり。「帰自然」とは、『大経』の上に云わく「建立常然にして衰なく、変なし」已上。これ国土自然の義を明かす。また云わく「みな自然虚無の身、無極の体を受く」。これ正報自然の徳を明かす。「無漏」というは漏染なきが故に。「無生」というは法忍を悟るが故に。-SYOZEN2-369/TAI8-301-

 ◎又云。弥陀妙果号曰無上涅槃。已上抄出。
  ◎(法事讃)また云わく、弥陀の妙果をば号して無上涅槃と曰う。已上抄出。SINBUTU:SYOZEN2-140/HON-321,HOU-433

 〇次少文者。同後序釈。上言極楽無為等者。已判極楽名為無為涅槃之界。而遮随縁雑善難生。唯勧専専称名一因。是故応知阿弥陀者涅槃名号。今釈亦顕弥陀涅槃一法之義。以之思之。例又可謂無上涅槃妙果号曰阿弥陀歟。-SYOZEN2-369/TAI8-301
  〇次の少文は、同じき後序の釈なり。上に「極楽無為」等というは、已に極楽を判じて名づけて無為涅槃の界とす。而るに随縁の雑善は生じ難しと遮して、ただ専専称名の一因を勧む。この故に阿弥陀とは涅槃の名号なりということを知るべし。今の釈はまた弥陀涅槃一法の義を顕わす。これを以てこれを思うに、例してまた無上涅槃の妙果を号して阿弥陀というというべきか。-SYOZEN2-369/TAI8-301

 ◎憬興師云。無量光仏(非算数故)。無辺光仏(無縁不照故)。無碍光仏(無有人法而能障故)。無対光仏(非諸菩薩之所及故)。光炎王仏(光明自在更無為上故)。清浄光仏(従無貪善根而現故。亦除衆生貪濁之心也。無貪濁之心故云清浄)。歓喜光仏(従無瞋善根而生故。能除衆生瞋恚盛心故)。智慧光仏(従無癡善根心起。復除衆生無明品心故)。不断光仏(仏之常光恒為照益故難思光仏 非諸二乗所惻度故)。無称光仏(亦非余乗等所堪説故)。超日月光仏(日応恒照不周。娑婆一耀之光故)。皆是蒙光触身者。身心柔濡願之所致也。已上抄要。
  ◎(述文讃)憬興師の云わく、無量光仏、算数にあらざるがゆえに。無辺光仏、縁として照らさざることなきがゆえに。無碍光仏、人法としてよく障うることあることなきがゆえに。無対光仏、諸菩薩の及ぶところにあらざるがゆえに。光炎王仏、光明自在にして更に上とすることなきがゆえに。清浄光仏、無貪の善根よりして現ずるがゆえに、また衆生貪濁の心を除くなり。貪濁の心なきがゆえに清浄と云う。歓喜光仏、無瞋の善根よりして生ずるがゆえに、よく衆生の瞋恚盛心を除くがゆえに。智慧光仏、無痴の善根の心より起こる、また衆生の無明品心を除くがゆえに。不断光仏、仏の常光恒に照益をなすがゆえに。難思光仏、もろもろの二乗の測度するところにあらざるがゆえに。無称光仏、また余乗等の堪え説くところにあらざるがゆえに。超日月光仏、日、恒に照らすこと周からず、娑婆一耀の光なるべきがゆえに。みなこれ光触を身に蒙る者は、身心柔軟の願の致すところなり。已上抄要。SINBUTU:SYOZEN2-140/HON-322,HOU-433

 〇次興釈者。大経義疏。中巻文也。十二光釈其意可見。皆是等者。次釈自言其衆生。至言皆蒙解脱文中之結文也。所引次上具解釈云。三垢滅者。即除障利。身意歓喜即生善利。苦得休息者。即抜苦利。皆蒙解脱者。即得楽利。已上。非今所引。身心柔軟願者。第三十三願也。SYOZEN2-369/TAI8-306
  〇次に興の釈は『大経の義疏』中巻の文なり。十二光の釈は、その意見つべし。「皆是」等とは、次に「其有衆生」というより、「皆蒙解脱」というに至るまでの文を釈する中の結文なり。所引の次上の具なる解釈に云わく「三垢滅とは、即ち障を除くの利なり。身意歓喜は即ち善を生ずるの利なり。苦、休息を得るとは、即ち抜苦の利なり。皆蒙解脱とは、即ち得楽の利なり」已上、今の所引にあらず。身心柔軟の願とは第三十三の願なり。SYOZEN2-369/TAI8-306

 ◎爾者。如来真説・宗師釈義。明知。顕安養浄刹真報土。惑染衆生於此不能見性。所覆煩悩故。経言我説十住菩薩少分見仏性。故知。到安楽仏国即必顕仏性。由本願力回向故。亦経言衆生未来具足荘厳清浄之身而得見仏性。
  ◎(御自釈)しかれば、如来の真説、宗師の釈義、明らかに知りぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたわず、煩悩に覆わるるがゆえに。経〈涅槃経〉には、我、十住の菩薩、少分仏性を見ると説くと言えり。故に知りぬ、安楽仏国に到れば、すなわち必ず仏性を顕す、本願力の回向に由るがゆえに。また経〈涅槃経〉には、衆生、未来に清浄の身を具足し荘厳して、而して仏性を見ることを得ると言えり。SINBUTU:J:SYOZEN2-140/HON-322,HOU-433,434

 ◎起信論曰。若知雖説無有能説可説。亦無能念可念名為随順。若離於念名為得入。得入者真如三昧也。況乎無念之位在於妙覚。蓋以了心初生之相也。而言知初相者。所謂無念非菩薩十地所知。而今之人尚未階十信。即不依馬鳴大士。従説入無説。従念入於無念。略抄。
  ◎(念仏三昧宝王論)『起信論』に曰わく、もし説くといえども、能説のありて説くべきことあることなく、また能念の念ずべきもなしと知るを、名づけて随順とす。もし念を離るるを名づけて得入とす。得入とは、真如三昧なり。いわんや無念の位は妙覚にあり。けだしもって了心は初生の相なり。而して初相を知ると言うは、いわゆる無念なり。菩薩十地の知るところにあらず。しかるに今の人、なお未だ十信に階わず、すなわち馬鳴大士の説より無説に入り、念より無念に入るに依らざらんや。略抄。SINBUTU:SYOZEN2-141/HON-322,323,HOU-434

 〇爾者已下是総結文。私御釈也。於中為