『六要鈔会本』
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        参考のため、下記のように符号を付けました。
        ◎は『教行信証』の文。〇は『六要鈔』の文。
        SYOZEN2-2,3は真宗聖教全書 第2巻 2〜3頁の意。
        TAI1-48は仏教大系教行信証 第1巻 48頁の意。
        HON-149は東本願寺刊『真宗聖典』149頁の意。
        HOU-265は柏原祐義編『真宗聖典』265頁の意。
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 『教行信証六要鈔会本』第六巻 証巻

 ○教行信証六要鈔会本第六 証

 ◎顕浄土真実証文類 四
  ◎愚禿釈親鸞集 SYOZEN2-103/HON-280,HOU-391

 〇当巻大門第四明証。於中有四。一者題目。二者標挙。二段如前。三者正釈。自文之初。至引論註所判第五功徳相釈。註云已上鈔出之文。是為正釈。四者総結。爾者已下至巻之終。是其文也。SYOZEN2-320/TAI7-219
  〇当巻大門第四に証を明かす。中に於いて四あり。一には題目、二には標挙、二段は前の如し。三には正釈、文の初より、『論註』に第五の功徳の相を判ずる所の釈を引きて、註に「已上鈔出」という文に至るまで、これを正釈と為す。四には総結、「爾者」已下、巻の終に至るまで、これその文なり。SYOZEN2-320/TAI7-219

 〇一題目。分二准前応知。依真実信得真実証。信証有次三四成数。SYOZEN2-320/TAI7-219
  〇一に題目。二を分つこと、前に准じて知るべし。真実の信に依りて真実の証を得。信証、次ありて、三四、数を成ず。SYOZEN2-320/TAI7-219

 ◎必至滅度之願 難思議往生 SYOZEN2-103/HON-279,HOU-391

 〇二言標挙者。題次一行。第十一願。是則必至滅度之願。亦云住正定聚之願。其下之註言難思議往生意者。法事讃中所釈。三種往生之中其一名也。三種之内為之真実。依難思議往生之益所得之証。是為無上涅槃之果。問。今所挙外二種云何。答。在第六巻。可待下也。問。嘆此往生云難思議。其意如何。答。仏号不可思議光仏。帰彼誓願得往生故。指往生徳云難思議。是則罪悪生死凡夫。無有出離之縁下機。偏由仏力得入報法高妙浄土。更非凡心之所思度。更非口言之所可及。是故嘆言難思議也。SYOZEN2-320/TAI7-227,228
  〇二に標挙というは、題の次の一行なり。第十一の願、これ則ち必至滅度の願、また住正定聚の願という。その下の註に「難思議往生」という意は、『法事讃』の中に釈する所の三種往生の中のその一の名なり。三種の内に、これを真実と為す。難思議往生の益に依りて得る所の証、これを無上涅槃の果と為す。問う。今挙ぐる所の外の二種は云何。答う。第六巻に在り。下を待つべきなり。問う。この往生を嘆じて難思議という、その意、如何。答う。仏を不可思議光仏と号す。彼の誓願に帰して往生を得るが故に、往生の徳を指して難思議という。これ則ち罪悪生死の凡夫、無有出離之縁の下機。偏に仏力に由りて報法高妙の浄土に入ることを得。更に凡心の思度する所にあらず。更に口言の及ぶべき所にあらず。この故に嘆じて難思議というなり。SYOZEN2-320/TAI7-227,228

 ◎謹顕真実証者。則是利他円満之妙位。無上涅槃之極果也。即是出於必至滅度之願。亦名証大涅槃之願也。然煩悩成就凡夫。生死罪濁群萌。獲往相回向心行。即時入大乗正定聚之数。住正定聚故必至滅度。必至滅度即是常楽。常楽即是畢竟寂滅。寂滅即是無上涅槃。無上涅槃即是無為法身。無為法身即是実相。実相即是法性。法性即是真如。真如即是一如。然者。弥陀如来従如来生。示現報応化種種身也。
  ◎(御自釈)謹んで真実証を顕さば、すなわちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなわちこれ必至滅度の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入らしむるなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。必ず滅度に至れば、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ法性なり。法性はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化種種の身を示し現わしたまうなり。SYO:J:SYOZEN2-103/HON-280,HOU-391,392

 〇就正釈中分文為二。自文之初至報応化種種身也。総標大意。必至以下正引諸文。兼加私釈。SYOZEN2-320/TAI7-233
  〇正釈の中に就きて文を分かちて二と為す。文の初より、「報応化種種身也」に至るまでは、総じて大意を標す。「必至」以下は正しく諸文を引き、兼て私の釈を加う。SYOZEN2-320/TAI7-233

 〇先就総標中。謹顕等者。正標当巻所立之名。利他等者。是指証道。或指初地已上。或指八地已上乃至等覚補処。是則衆生生者。皆是阿[ビ01]跋致。由仏大願業力。所得希奇益也。無上等者。是指妙覚無上之位。必至補処。所可窮極之妙果也。即時等者。問。当願之意。得不退位。約往生後。彼土徳故。而如今者約現生哉。其意如何。答。此有隠顕傍正等意。若拠顕正約生後益。若依隠傍約現生益。依之或云即得往生住不退転。或云皆悉到彼国自致不退転。各有料簡。是故十住毘婆沙論。若云即入必定。若云欲於此身。皆約即時。是現生意。依此等義有此釈也。此義具載第二巻新本之中。宜見彼解。SYOZEN2-321/TAI7-233,234
  〇まず総標の中に就きて、「謹顕」等とは、正しく当巻所立の名を標す。「利他」等とは、これ証道を指す。或いは初地已上を指し、或いは八地已上、乃至、等覚補処を指す。これ則ち衆生の生ずる者は、皆これ阿[ビ01]跋致、仏の大願業力に由りて得る所の希奇の益なり。「無上」等とは、これ妙覚無上の位を指す。必ず補処に至りて窮極すべき所の妙果なり。「即時」等とは、問う、当願の意は、不退の位を得ることは、往生の後に約す。彼の土の徳なるが故に。而るに今の如きは、現生に約するや。その意如何。答う。これに隠顕・傍正等の意あり。もし顕正に拠らば生後の益に約す。もし隠傍に依らば現生の益に約す。これに依りて或いは「即得往生住不退転」といい、或いは「みなことごとくかの国に到りて自ずから不退転に致る」という。おのおの料簡あり。この故に『十住毘婆沙論』に、もしは「即入必定〈即ち必定に入りて〉」といい、もしは「欲於此身」という。みな即時に約す。これ現生の意なり。これ等の義に依りてこの釈あるなり。この義は具に第二巻の新本の中に載せたり。宜しく彼の解を見るべし。SYOZEN2-321/TAI7-233,234

 ◎必至滅度願文、大経言。設我得仏。国中人天不住定聚必至滅度者。不取正覚。已上。
  ◎必至滅度の願文、『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、国中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずは、正覚を取らじと。已上。SYO:SYOZEN2-103/HON-281,HOU-392

 〇次正引中。先出彼此両経五文。SYOZEN2-321/TAI7-262
  〇次に正引の中に、まず彼此両経の五文を出だす。SYOZEN2-321/TAI7-262

 〇初正願文。問。当願大意云何。答。因位所見諸土之中。或有雖致仏道修行。退入邪聚。或有不退速得菩提。法蔵憫愍彼退堕類。為令彼類住正定聚。終証涅槃之妙理故。発此願也。問。定聚滅度是二益歟。又一益歟。答。是二益也。言定聚者。是当不退。言滅度者是指涅槃。問。定聚滅度何為願体。答。諸師之意多以不退為其願体。所謂寂云令住定聚。法位師云願住定聚。玄一師云住定聚願。静照真源共名住必定聚之願。但彼御廟智光二徳并云。住正定聚必至菩提之願。是挙両益。如此名者難定以何為所願之体。若約初益可為不退。若約究竟可為滅度。今此集意。就其終益被立名歟。問。言滅度者。大小二乗所証之理。共得此名。今指何耶。答。大乗滅度文理共明。言其文者。次下所引如来会文其説分明。又大阿弥陀経説云。令得仏道。云大涅槃。云取菩提。云得仏道。言其理者。弥陀教文大乗真実終窮極説了義教也。極楽畢竟成仏道路。即是大乗善根界也。豈得小乗灰断滅度。当知其証偏在大乗。問。如所立者。往生之後所得之益浄土徳也。然者所言現生即時不退之義相違如何。答。豈不前言。於不退益有其隠顕傍正之意。処処料簡其意皆同。又滅度益可為生後究竟之益。不可混乱。問。約生後益。論不退者其位如何。答。常途所談非三不退。是処不退。故要集判云処不退。又群疑論云。初往生時即名不退者。此約処不退。已上。但如下引本論意者。可云初益是行不退。後益念不退。所言未証浄心菩薩。初地已上。上地菩薩是指八地已上故也。集主之意。立真実証其位深高。叶此義歟。問。不住等者。不之言者是指定聚。其義難云被滅度耶。答。不言流至必至滅度。初住定聚終成仏故。SYOZEN2-321,322/TAI7-262,263
  〇初に正しき願文なり。問う。当願の大意は云何。答う。因位所見の諸土の中には、或いは仏道修行を致すといえども、退して邪聚に入るあり。或いは退せずして速やに菩提を得るあり。法蔵は彼の退堕の類を憫愍して、彼の類をして、正定聚に住して終に涅槃の妙理を証せしめんが為の故に、この願を発すなり。問う。定聚・滅度はこれ二益なるか、また一益なるか。答う。これ二益なり。定聚というは、これ不退に当る。滅度というは、これ涅槃を指す。問う。定聚・滅度、何をか願体と為すや。答う。諸師の意は多く不退を以てその願体と為す。所謂、寂は「令住定聚」といい、法位師は「願住定聚」といい、玄一師は「住定聚願」といい、静照・真源は共に「住必定聚之願」と名づく。但し彼の御廟・智光の二徳は并びに「住正定聚必至菩提之願」という。これ両益を挙ぐ。この名の如きは何を以て所願の体と為すということを定め難し。もし初益に約せば不退と為すべし。もし究竟に約せば滅度たるべし。今この集の意は、その終益に就きて名を立てらるるか。問う。滅度というは、大小二乗所証の理、共にこの名を得。今は何を指すや。答う。大乗の滅度なること文理共に明かなり。その文というは、次下に引く所の『如来会』の文、その説分明なり。また『大阿弥陀経』に説きて「令得仏道」といい、「大涅槃」といい、「取菩提」といい、「得仏道」という。その理というは、弥陀の教文は大乗真実終窮の極説、了義教なり。極楽は畢竟成仏の道路なり。即ちこれ大乗善根界なり。あに小乗灰断の滅度を得んや。まさにその証は偏に大乗に在りということを知るべし。問う。所立の如きは、往生の後に得る所の益、浄土の徳なり。然らば言う所の現生と即時不退の義との相違は如何。答う。あに前に言わずや。不退の益に於いて、その隠顕・傍正の意ありと。処処の料簡、その意皆同じ。また滅度の益は生後究竟の益たるべきこと、混乱すべからず。問う。生後の益に約して、不退を論ぜば、その位、如何。答う。常途の所談は三不退にあらず。これ処不退なり。故に『要集』に判じて処不退という。また『群疑論』に云わく「初往生の時、即ち不退と名づくることは、これ処不退に約す」已上。但し下に本論を引く意の如きは、初益はこれ行不退、後益は念不退なりというべし。言う所の未証浄心の菩薩は、初地已上、上地の菩薩はこれ八地已上を指すが故なり。集主の意は、真実の証を立つること、その位深高なり。この義に叶うか。問う。「不住」等とは、不の言はこれ定聚を指す。その義は滅度に被らしむといい難きや。答う。不の言は必至滅度に流至す。初め定聚に住して、終に成仏するが故に。SYOZEN2-321,322/TAI7-262,263

 ◎無量寿如来会言。若我成仏。国中有情若不決定成等正覚証大涅槃者。不取菩提。已上。
  ◎『無量寿如来会』に言わく、もし我成仏せんに、国中の有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじと。已上。SYO:SYOZEN2-104/HON-281,HOU-392

 〇次如来会文。言決定者。正定聚也。成等覚者。是顕必至滅度之意。大乗滅度。此文灼然。正信偈中云成等覚証大涅槃。此文意也。SYOZEN2-322/TAI7-269,270
  〇次に『如来会』の文。「決定」というは正定聚なり。「成等覚」とは、これ必至滅度の意を顕わす。大乗の滅度、この文灼然なり。『正信偈』の中に「成等覚証大涅槃」というは、この文の意なり。SYOZEN2-322/TAI7-269,270

 ◎願成就文。経言。其有衆生生彼国者。皆悉住於正定之聚。所以者何。彼仏国中無諸邪聚及不定聚。
  ◎(大経)願成就の文、経に言わく、それ衆生ありて、かの国に生まる者は、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何んとなれば、かの仏国の中にはもろもろの邪聚および不定聚なければなりと。SYO:SYOZEN2-104/HON-281,HOU-392

 〇次願成就文。大経下巻最初文也。問。三聚之相其位如何。答。三定聚義。諸説不同。若依小乗。倶舎論云。正邪不定聚。聖造無間余。已上本頌。頌疏釈云。上句標下句釈。謂諸聖人名正性定聚。造五無間者名邪定聚。余即無間外余凡夫也。已上。若依大乗。如釈摩訶衍論説者。有其二種。一者十信前名邪定聚。不信業果報等故。三賢十聖名正定聚。不退位故。十信名不定聚。或進或退未決定故。二者十信前并十信名邪定。大覚果名正定。三賢十聖名不定。二者十信前名邪定。十聖名正定。十信三賢名不定。已上。随而諸師又有異解。且憬興師破諸師解。述自義云。今即余教所説三乗皆是穢土。有此三乗故。若生浄土。不問凡聖。定向涅槃。定趣善行。定生善道。定行六度。定得解脱。故唯有正定聚。而無余二也。已上。如此釈者。不定判位。只嘆彼土不退之徳。叶処不退之義趣歟。縦令雖得三不退等。是又仏力即処不退之勝徳故。無所違歟。SYOZEN2-322,323/TAI7-274,275
  〇次に願成就の文。『大経』下巻最初の文なり。問う。三聚の相、その位は如何。答う。三定聚の義は諸説不同なり。もし小乗に依らば、『倶舎論』に云わく「正と邪と不定との聚は、聖と無間を造ると余となり」已上本頌。『頌疏』に釈して云わく「上の句は標し、下の句は釈す。謂わく諸の聖人を正性定聚と名づく。五無間を造る者を邪定聚と名づく。余は即ち無間の外の余の凡夫なり」已上。もし大乗に依らば、『釈摩訶衍論』の説の如きは、その二種あり。「一には十信の前を邪定聚と名づく。業果報等を信ぜざるが故に。三賢・十聖を正定聚と名づく。不退の位なるが故に。十信を不定聚と名づく。或いは進、或いは退して未だ決定せざるが故に。二には十信の前、并びに十信を邪定と名づく。大覚の果を正定と名づく。三賢・十聖を不定と名づく。二には十信の前を邪定と名づく。十聖を正定と名づく。十信・三賢を不定と名づく」已上。随いて諸師また異解あり。且く憬興師は諸師の解を破して自義を述して云わく「今即ち余教に説く所の三乗は皆これ穢土なり。この三乗あるが故に、もし浄土に生じぬれば、凡聖を問わず、定んで涅槃に向かい、定んで善行に趣き、定んで善道に生じ、定んで六度を行じ、定んで解脱を得。故にただ正定聚のみありて、而も余の二なきなり」已上。この釈の如きは位を定判せず。ただ彼土の不退の徳を嘆ず。処不退の義趣に叶うか。たとい三不退等を得るといえども、これまた仏力、即ち処不退の勝徳なるが故に、違する所なきか。SYOZEN2-322,323/TAI7-274,275

 ◎又言。彼仏国土清浄安穏微妙快楽。次於無為泥[オン01]之道。其諸声聞菩薩天人。智慧高明神通洞達。咸同一類形無異状。但因順余方故有人天之名。顔貌端政超世希有。容色微妙非天非人。皆受自然虚無之身無極之体。
  ◎(大経)また言わく、かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥[オン01]の道に次〈ちか〉し。そのもろもろの声聞・菩薩・天・人、智慧高明にして神通洞達せり。みな同じく一類にして、形に異状なし。ただし余方に因順するがゆえに、人・天の名あり。顔貌端政、世に超えて希有なり。容色微妙にして天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受くるなり。SYO:SYOZEN2-104/HON-281,HOU-392

 〇次云又言彼仏等者。上巻文也。上明新生旧住報勝。分科文中。於其新生又分正依。而今文者。初自彼仏至泥[オン01]之道。明依報勝之結文也。次於等者。泥[オン01]梵音。又言涅槃。乃是滅度。次者近也。是言彼土近涅槃道。問。法事讃云。極楽無為涅槃界。已上。即其当体涅槃界也。何云次耶。答。弥陀妙果無上涅槃。極楽即又大涅槃界第一義諦妙境界相。理在絶言。今云次者。約其新生菩薩嘆故。且云次也。其諸等者。明旧住勝。又分二報。其中今之所引明正報勝之初文也。智慧高明是嘆内徳。第二十九得弁才智願成就故。神通洞達。同是内徳。六通願願成就故也。咸同等者。是讃外相。第四無有好醜之願成就故也。但因等者。義寂師云。因順余方有其二義。一随本業。謂往生者。或有資人業生。或有資天業生。雖生彼時無異状。因順本業有人天名。二因居処。謂彼土中。或有依地居。或有在空居。雖彼果報無異状。随其所在処。有人天名。已上。顔貌以下明超穢土。所引文次。云仏告下比校顕勝明其超也。非天等者。上説因順有天人名。先標非実。今正顕説無其実体。私案文意。是欲顕彰初生之時。聖凡雖別。依仏力故。即至上位同達真理。是故下説皆受等也。自然虚無之身等者。嘉祥師云。以神通無所不至故。無極之体。如光影故虚無之身。已上。義寂師云。非胎蔵所生育故自然。非飲食所長養故虚無。非老死所損没故無極。乃至。又即此身至成仏故。已上。憬興師云。虚無無極者。無障故。希有故。如其次第。即求那羅延力願之報也。已上。玄一師云。言虚無者。横無障碍故。言無極者。縦無衰退故。已上。諸師料簡各有一理。私潤色云。言自然者。為浄土徳。法事讃云。従仏逍遙帰自然。自然即是弥陀国。已上。虚無又是浄土楽也。般舟讃云。一到即受清虚楽。清虚即是涅槃因。已上。虚無清虚其義似同。言無極者。是順昇道無窮之義。此経下説言。昇道無窮極。又顕寿命無窮之義。同次下説云。寿楽無有極。SYOZEN2-323,324/TAI7-280,281
  〇次に「又言彼仏」等というは、上巻の文なり。上に新生旧住の報勝を明かす科文を分かつ中に、その新生に於いて、また正依を分かつ。而るに今の文は、初に「彼仏」より「泥[オン01]之道」に至るまでは、依報勝を明かす結文なり。「次於」等とは、「泥[オン01]」は梵音、また涅槃という。乃ちこれ滅度なり。「次」とは近なり。これ彼土は涅槃の道に近きことをいう。問う。『法事讃』に云わく「極楽無為涅槃界」已上。即ちその当体涅槃界なり。何ぞ次というや。答う。弥陀の妙果は無上涅槃、極楽は即ちまた大涅槃界・第一義諦・妙境界相なること、理在絶言なり。今、次というは、その新生菩薩に約して嘆ずるが故に、且く次というなり。「其諸」等とは、旧住勝を明かすに、また二報を分かつ。その中に今の所引は正報勝を明かす初の文なり。「智慧高明」はこれ内徳を嘆ず。第二十九の得弁才智の願成就するが故に。「神辺洞達」は同じくこれ内徳、六通の願願、成就するが故なり。「咸同」等とは、これ外相を讃ず。第四の無有好醜の願成就するが故なり。「但因」等とは、義寂師の云わく「因順余方にその二義あり。一には本業に随う。謂わく往生する者は、或いは人業を資して生ずるあり、或いは天業を資して生ずるあり。彼に生ずる時は異状なしといえども、本業に因順して人天の名あり。二には居処に因る。謂わく彼の土の中に、或いは地に依りて居するあり、或いは空に在りて居するあり。彼の果報に異状なしといえども、その所在の処に随いて人天の名あり」已上。「顔貌」以下は穢土に超えたることを明かす。所引の文の次に「仏告」という下は、比校顕勝してその超えたることを明かすなり。「非天」等とは、上に因順して天人の名ありと説きて、まず実にあらざることを標し、今は正しくその実体なきことを顕説す。私に文の意を案ずるに、これ初生の時は聖凡別なりといえども、仏力に依るが故に、即ち上位に至りぬれば同じく真理に達することを顕彰せんと欲す。この故に下に「皆受」等と説くなり。「自然虚無之身」等とは、嘉祥師の云わく「神通を以て至らざる所なきが故に無極の体なり。光影の如きなるが故に虚無の身なり」已上。義寂師の云わく「胎蔵の生育する所にあらざるが故に自然なり。飲食の長養する所にあらざるが故に虚無なり。老死の損没する所にあらざるが故に無極なり。(乃至)また即ちこの身は成仏に至るが故に」已上。憬興師の云わく「虚無無極とは、無障の故に、希有の故に、その次第の如し。即ち求那羅延力の願の報なり」已上。玄一師の云わく「虚無というは、横に障碍なきが故に。無極というは縦に衰退なきが故に」已上。諸師の料簡はおのおの一理あり。私に潤色して云わく、「自然」というは浄土の徳たり。『法事讃』に云わく「仏に従いて逍遙して自然に帰す。自然は即ちこれ弥陀の国なり」已上。「虚無」はまたこれ浄土の楽なり。『般舟讃』に云わく「一たび到りぬれば即ち清虚の楽を受く。清虚は即ちこれ涅槃の因なり」已上。虚無と清虚と、その義似同せり。「無極」というは、これ昇道無窮の義に順ず。この経の下に説きて言わく「昇道無窮極」と。また寿命無窮の義を顕わす。同じき次下に説きて云わく「寿楽、極まりあることなし」と。SYOZEN2-323,324/TAI7-280,281

 ◎又言。彼国衆生。若当生者。皆悉究竟無上菩提。到涅槃処。何以故。若邪定聚及不定聚。不能了知建立彼因故。已上抄要。
  ◎(如来会)また言わく、かの国の衆生、もしは当に生まれん者、みなことごとく無上菩提を究竟し、涅槃の処に到らしめん。何をもってのゆえに。もし邪定聚および不定聚は、かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえなりと。已上抄要。SYO:SYOZEN2-104/HON-281,HOU-392,393

 〇次如来会。願成就文。其意可見。又平等覚云。生無量清浄仏国者。其然後。皆当得阿惟越致菩薩。已上。大阿弥陀経説同之。又荘厳経云。若有善男子善女人。若已生若当生。是人決定証於阿耨多羅三藐三菩提。於意云何。彼仏刹中無三種失。一心無虚妄。二位無退転。三善無唐捐。已上。今此二文雖非所引。為備周覧。私所載也。SYOZEN2-324,325/TAI7-291
  〇次に『如来会』の願成就の文。その意、見つべし。また『平等覚』に云わく「無量清浄仏国に生ずる者は、それ然して後に、皆まさに阿惟越致の菩薩を得べし」已上。『大阿弥陀経』の説はこれに同じ。また『荘厳経』に云わく「もし善男子善女人ありて、もしは已に生じ、もしは当に生ぜん。この人は決定して阿耨多羅三藐三菩提を証す。意に於いて云何。彼の仏刹の中には三種の失なし。一には心に虚妄なし。二には位に退転なし。三には善に唐捐なし」已上。今この二文は所引にあらずといえども、周覧に備うるが為に、私に載する所なり。SYOZEN2-324,325/TAI7-291

 ◎浄土論曰。荘厳妙声功徳成就者。偈言梵声悟深遠微妙聞十方故。此云何不思議。経言。若人但聞彼国土清浄安楽。剋念願生。亦得往生。即入正定聚。此是国土名字為仏事。安可思議。
  ◎(論註)『浄土論』に曰わく、荘厳妙声功徳成就とは、偈に梵声悟深遠微妙聞十方(梵声の悟り、深遠なり、微妙にして十方に聞ゆ)と言えるが故に。これいかんが不思議なる。経に言わく、もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生まれんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなわち正定聚に入る。これはこれ国土の名字、仏事をなす。いずくんぞ思議すべきやと。SYO:SYOZEN2-104/HON-281,282,HOU-393-

 〇次浄土論。此有五文。第一文者。国土荘厳十七種中。其第十一之荘厳也。今言声者不関音声。是名字也。言経言者。問。指何経耶。答。指覚経也。彼経云。十七我作仏時。令我名字聞八方上下無数仏国。諸仏各於弟子衆中。歎我功徳国土之善。諸天人民。[ナン04]動之類。聞我名字。皆悉踊躍。来生我国。不爾者。我不作仏。已上。問。彼覚経不云即入正定聚。今註何加之。答。経文雖隠。其義必然。云来生我国。即入正定聚也。就正定言今被引之。SYOZEN2-325/TAI7-293
  〇次に『浄土論』。これに五文あり。第一の文は、国土の荘厳十七種の中に、その第十一の荘厳なり。今「声」というは音声に関わらず。これ名字なり。「経言」というは、問う、何の経を指すや。答う、『覚経』を指すなり。彼の経に云わく「十七に我、作仏せん時、我名字をして八方上下無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆の中に於いて、我功徳国土の善を歎ぜん。諸天人民、[ナン04]動の類、我名字を聞きて、皆悉く踊躍して。我国に来生せん。爾らずは、我、作仏せじ」已上。問う。彼の『覚経』に「即ち正定聚に入る」といわず。今『註』に何ぞこれを加うるや。答う。経文に隠れたりといえども、その義必然なり。「来生我国」というは「即入正定聚」なり。正定の言に就きてこれを引かる。SYOZEN2-325/TAI7-293

 ◎荘厳主功徳成就者。偈言正覚阿弥陀法王善住持故。此云何不思議。正覚阿弥陀不可思議。彼安楽浄土為正覚阿弥陀善力住持。云何可得思議邪。住名不異不滅。持名不散不失。如以不朽薬塗種子。在水不蘭。在火不[ショウ04]。得因縁即生。何以故。不朽薬力故。若人一生安楽浄土。後時意願生三界教化衆生。捨浄土命。随願得生。雖生三界雑生火中。無上菩提種子畢竟不朽。何以故。以逕正覚阿弥陀善住持故。
  ◎(論註)荘厳主功徳成就とは、偈に正覚阿弥陀法王善住持(正覚の阿弥陀法王の善く住持したまえり)と言えるが故に。これいかんが不思議なる。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べけんや。住は不異不滅に名づく、持は不散不失に名づく。不朽薬をもって種子に塗りて、水に在〈お〉くに蘭れず、火に在くに[ショウ04]〈こ〉がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし。何をもってのゆえに。不朽薬の力なるがゆえなり。もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意に、三界に生まれて衆生を教化せんと願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生ずることを得んに、三界雑生の火の中に生ずといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。何をもってのゆえに。正覚阿弥陀の善住持を径るをもってのゆえにと。SYO:SYOZEN2-104,105/-HON-282,HOU-393-

 〇第二文者。同第十二之荘厳也。不異不滅不散不失住持之徳。是又相順不退義故。被引用之。不朽薬者。華厳経説。随義転用。SYOZEN2-325/TAI7-299
  〇第二文は、同じき第十二の荘厳なり。不異・不滅・不散・不失は住持の徳なり。これまた不退の義に相順するが故に、これを引用せらる。「不朽薬」とは『華厳経』の説、随義転用せり。SYOZEN2-325/TAI7-299

 ◎荘厳眷属功徳成就者。偈言如来浄華衆正覚華化生故。此云何不思議。凡是雑生世界。若胎若卵若湿若化。眷属若干。苦楽万品。以雑業故。彼安楽国土莫非是阿弥陀如来正覚浄華之所化生。同一念仏無別道故。遠通夫四海之内皆為兄弟也。眷属無量。焉可思議。
  ◎(論註)荘厳眷属功徳成就とは、偈に如来浄華衆正覚華化生(如来浄華の衆は、正覚の華より化生す)と言えるが故に。これいかんぞ不思議なるや。おおよそこの雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属若干〈そこばく〉なり。苦楽万品なり。雑業をもってのゆえに。かの安楽国土は、これ阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆえに。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり。眷属無量なり。いずくんぞ思議すべけんや。SYO:SYOZEN2-105/-HON-282,HOU-393,394

 〇第三文者。同第十三之荘厳也。莫非等者。問。於極楽中。胎生化生差別分明。何如此釈。答。彼胎生者。即是化土疑惑仏智行者所生。此化生者。即是報土明信仏智行者所生。今釈最為明真実証之要文歟。同一等者。於第二巻私御釈中。被載此詞。仍於其下新末鈔中。粗加愚解。可見彼鈔。SYOZEN2-325,/TAI7-303,304
  〇第三の文は、同じき第十三の荘厳なり。「莫非」等とは、問う、極楽の中に於いて、胎生・化生の差別は分明なり。何ぞかくの如く釈するや。答う。彼の胎生とは、即ちこれ化土、疑惑仏智の行者の所生なり。この化生とは、即ちこれ報土、明信仏智の行者の所生なり。今の釈は最も真実の証を明かす要文為るか。「同一」等とは、第二巻の私の御釈の中に於いてこの詞を載せらる。よってその下、新末の鈔の中に於いて、ほぼ愚解を加う。彼の鈔を見るべし。SYOZEN2-325,/TAI7-303,304

 ◎又言。願往生者。本則三三之品。今無一二之殊。亦如[シ01][ジョウ01](食陵反)一味。焉可思議。
  ◎(論註)また言わく、往生を願う者、本はすなわち三三の品なれども、今は一二の殊なし。また[シ01][ジョウ01](食陵の反)の一味なるがごとし。いずくんぞ思議すべけんや。SYO:SYOZEN2-105/HON-282,HOU-394

 〇第四文者。同第十六大義門功徳成就文也。本則等者。此有二義。一云於彼二乗及以女人諸根不具等之三類。各有名体。是故挙彼体三名三言之三三。言一二者。体与名也。二云。言三三者。是指九品。言一二者。雖説遇大遇小遇悪九品差別。実無一品二品之殊。何況実有九品差。問。九品説相経文分明。何無殊乎。答。九品在機不関浄土。又説九品是化土相。於実報土更無其差。実不可有地前位故。此義可俟下第六巻料簡而已。問。今此荘厳功徳之文。除本論偈以下註初。有何意耶。答。於上所引眷属成就。明彼浄土正覚浄花純一化生報土之相。爰除数箇荘厳功徳。引当荘厳功徳成就。而略文初。正以本則三三之品今無一二之殊土相。直次正覚浄華之所化生。報土之相。是為顕土無九品也。若依此義。上二義中。以後一義可為集主之本意也。言[シ01][ジョウ01]者二水名也。SYOZEN2-325,326/TAI7-308,309
  〇第四の文は、同じき第十六の大義門功徳成就の文なり。「本則」等とは、これに二義あり。一に云わく、彼の二乗および女人・諸根不具等の三類に於いて、おのおの名体あり。この故に彼の体三・名三を挙げて、これを「三三」という。「一二」というは、体と名となり。二に云わく、「三三」というは、これ九品を指す。「一二」というは、遇大・遇小・遇悪の九品の差別を説くといえども、実に一品・二品の殊なからんや。何に況んや実に九品の差あらんや。問う。九品の説相は経文に分明なり。何ぞ殊なきや。答う。九品は機に在りて浄土に関わらず。また九品を説くは、これ化土の相なり。実報土に於いては更にその差なし。実に地前の位あるべからざるが故に。この義は下の第六巻の料簡を俟つべからくのみ。問う。今この荘厳功徳の文は、本論の偈以下、註の初を除く。何の意あるや。答う。上の所引の眷属成就に於いて、彼の浄土正覚浄花純一化生報土の相を明かす。ここに数箇の荘厳功徳を除き、当荘厳功徳成就を引きて、而の文の初を略すことは、正しく「本則三三之品今無一二之殊」の土の相を以て、直ちに正覚浄華の化生する所の報土の相に次ぐ。これ土に九品なきことを顕わさんが為なり。もしこの義に依らば、上の二義の中に、後の一義を以て集主の本意と為すべきなり。「[シ01][ジョウ01]」というは、二水の名なり。SYOZEN2-325,326/TAI7-308,309

 ◎又論曰。荘厳清浄功徳成就者。偈言観彼世界相勝過三界道故。此云何不思議。有凡夫人煩悩成就。亦得生彼浄土。三界繋業畢竟不牽。則是不断煩悩得涅槃分。焉可思議。已上抄要。
  ◎(論註)また『論』に曰わく、荘厳清浄功徳成就とは、偈に観彼世界相勝過三界道(彼の世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり)と言えるが故に。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることを得れば、三界の繋業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃の分を得るなり。いずくんぞ思議すべけんや。已上抄要。SYO:SYOZEN2-105/HON-282,283,HOU-394

 〇第五文者。同荘厳中初荘厳也。観者観察。彼者極楽世界。相者彼清浄相。勝過等者。明非三界之所摂也。註釈之云抑亦近言。是顕其為高妙土也。問。何今逆次引用之耶。答。今此清浄是其総相。是故本論自総開別。而抜簡要引用之時。今以総相結所鈔出之別相歟。有凡等者。言凡夫類雖不断惑。由仏力故得往生也。又得往生即無生故。即契煩悩即菩提等甚深証悟。彼土徳故。涅槃分者。未至極位。故云分也。SYOZEN2-326/TAI7-312
  〇第五の文は、同じき荘厳の中の初の荘厳なり。「観」とは観察、「彼」とは極楽世界、「相」とは彼清浄相、「勝過」等とは三界の所摂にあらざることを明かすなり。『註』にこれを釈して「抑亦近言(そもそもこれ近き言)」なりという。これその高妙の土たることを顕わすなり。問う。何ぞ今逆次にこれを引用するや。答う。今この清浄はこれその総相なり。この故に本論は総より別を開す。而るに簡要を抜きてこれを引用する時、今、総相を以て鈔出する所の別相を結するか。「有凡」等とは、言うこころは、凡夫の類は断惑せずといえども、仏力に由るが故に往生を得となり。また往生を得れば即ち無生なるが故に、即ち煩悩即菩提等の甚深の証悟に契う。彼の土の徳なるが故に。「涅槃分」とは、未だ極位に至らず、故に分というなり。SYOZEN2-326/TAI7-312

 ◎安楽集云。然二仏神力応亦斉等。但釈迦如来不申己能。故顕彼長。欲使一切衆生莫不斉帰。是故釈迦処処嘆帰。須知此意也。是故曇鸞法師正意帰西故。傍大経奉讃曰。安楽声聞菩薩衆。人天智慧咸洞達。身相荘厳無殊異。但順他方故列名。顔容端政無可比。精微妙躯非人天。虚無之身無極体。是故頂礼平等力。已上。
  ◎『安楽集』に云わく、しかるに二仏の神力、また斉等なるべし。ただ釈迦如来、己が能を申べずして、故〈ことさら〉にかの長ぜるを顕したまうこと、一切衆生をして斉しく帰せざることなからしめんと欲してなり。このゆえに釈迦、処処に嘆じて帰せしめたまえり。須らくこの意を知るべしとなり。このゆえに曇鸞法師の正意、西に帰するがゆえに、『大経』に傍えて奉讃して曰わく、安楽の声聞・菩薩衆・人・天、智慧ことごとく洞達せり。身相荘厳殊異なし。ただ他方に順ずるがゆえに名を列ぬ。顔容端政にして比ぶべきなし。精微妙躯にして人天にあらず、虚無の身、無極の体なり。このゆえに平等力を頂礼したてまつると。已上。SYO:SYOZEN2-105,106/HON-283,HOU-394

 〇次安楽集。下巻文也。第八大門有三番中第二。弥陀釈迦二仏比校之段末後文也。文意易見。所引経讃。讃阿弥陀仏偈之文也。今之八句依上所引正報勝文。上解経意。讃意全同。SYOZEN2-326/TAI7-318
  〇次に『安楽集』下巻の文なり。第八大門に三番ある中の第二に、弥陀・釈迦二仏比校の段末後の文なり。文の意は見易し。所引の経の讃は『讃阿弥陀仏偈』の文なり。今の八句は上の所引の正報勝の文に依る。上に経の意を解す。讃の意は全く同じ。SYOZEN2-326/TAI7-318

 ◎光明寺疏云。言弘願者。如大経説。一切善悪凡夫得生者。莫不皆乗阿弥陀仏大願業力為増上縁也。又仏蜜意弘深。教門難曉。三賢十聖弗測〈惻〉所窺。況我信外軽毛。敢知旨趣。仰惟。釈迦此方発遣。弥陀即彼国来迎。彼喚此遣。豈容不去也。唯可懃心奉法畢命為期。捨此穢身即証彼法性之常楽。
  ◎(玄義分)光明寺の疏に云わく、弘願と言うは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなしとなり。また仏の密意弘深なれば、教門暁りがたし。三賢十聖も測〈惻〉りて窺うところにあらず。況や我信外の軽毛なり。あえて旨趣を知らんや。仰ぎて惟みれば、釈迦はこの方にして発遣し、弥陀はすなわちかの国より来迎したもう。彼には喚ばい、此には遣わす。あに去かざるべけんや。ただ勤心、法に奉えて、畢命を期として、この穢身を捨て、すなわちかの法性の常楽を証すべしと。SYO:SYOZEN2-106/HON-283,HOU-394,395

 〇次大師釈、所引有二。其初文者。観経玄義序題門釈。初自弘願終至縁也。如第二巻鈔新本解。又仏密意者。含二尊意。若約弥陀是顕如来智慧深広。如大経説。如来智慧海深広無涯底。二乗非所測。唯仏独明了。已上。若約釈迦。是顕一代出世大事。其大事者為令衆生往生極楽。入仏知見。即証法性之常楽也。教門難暁者。八万諸教教行区分。求出要類各欲行之。権実浅深難易堪否。凡夫依之易迷難解。若不解了。恐難輙生真実信心。三賢等者。弗窺有二。一者約人。下人不測上人之智。二者約理。如云唯仏与仏乃能究竟故也。況我等者。謂其内証。雖居仏地。示同凡惑引導下機之卑言也。言信外者。此有二義。一是指十信外凡位故。言之信外。言軽毛者。仁王経等。指十信故。二是指十信以外凡位。述謙下言。更不可云入道位。故信外之言。又順此義。軽毛之譬。云通信外。強無咎歟。十信之位。猶如軽毛。況信外哉。唯可等者。懃心安心。奉法起行。畢命為期四修之中。挙長時修摂余三修。捨身者。明往生益。即証等者。即顕証理。言法性者。是則真如。亦是実相。言常楽者。常者即是無量寿体。楽者即是安楽之義。即又法性。聖道浄土二門雖殊。得脱之道共証此理。而聖道門。於此土中即身悟之。浄土之教。依仏願力。生彼土後得此証也。SYOZEN2-326,327/TAI7-321,322
  〇次に大師の釈、所引に二あり。その初の文は、『観経玄義』序題門の釈なり。初に「弘願」より終り「縁也」に至るまで、第二巻の鈔新本の解の如し。「又仏密意」とは、二尊の意を含む。もし弥陀に約せば、これ如来の智慧の深広なることを顕わす。『大経』に説くが如し。「如来の智慧海は深広にして涯底なし。二乗の測る所にあらず。唯仏のみ独り明了なり」已上。もし釈迦に約せば、これ一代出世の大事を顕わす。その大事とは、衆生をして極楽に往生せしめ、仏の知見に入りて、即ち法性の常楽を証せしめんが為なり。「教門暁りがたし」とは、八万の諸教は教行まちまちに分れて、出要を求むる類は、おのおのこれを行ぜしめんと欲するに、権実・浅深・難易・堪否、凡夫はこれに依りて迷い易く解り難し。もし解了せずば、恐らくは輙く真実の信心を生じ難し。「三賢」等とは、窺わざるに二あり。一には人に約す。下人は上人の智を測らず。二には理に約す。「ただ仏と仏とのみ乃ち能く究竟す」というが如きの故なり。「況我」等とは、その内証をいうに、仏地に居すといえども、同じく凡惑を示して下機を引導する卑言なり。「信外」というは、これに二義あり。一にはこれ十信外凡の位を指すが故に、これを信外という。「軽毛」というは、『仁王経』等に十信を指すが故に。二にはこれ十信以外の凡位を指す。謙下の言を述ぶるに、更に道位に入るというべからず。故に信外の言は、またこの義に順ず。軽毛の譬は信外に通ずというに、強ちに咎なきか。十信の位は猶し軽毛の如し。況んや信外をや。「唯可」等とは、「勤心」は安心、「奉法」は起行、「畢命為期」は四修の中に、長時修を挙げて余の三修を摂す。「捨身」とは往生の益を明かす。「即証」等とは、即ち証理を顕わす。「法性」というは、これ則ち真如、またこれ実相なり。「常楽」というは、「常」は即ちこれ無量寿の体、「楽」は即ちこれ安楽の義、即ちまた法性なり。聖道・浄土の二門は殊なりといえども、得脱の道は共にこの理を証す。而に聖道門は此土の中に於いて即身にこれを悟る。浄土の教は、仏願力に依りて、彼の土に生じて後にこの証を得るなり。SYOZEN2-326,327/TAI7-321,322

 ◎又云。西方寂静無為楽。畢竟逍遥離有無。大悲薫心遊法界。分身利物等無殊。或現神通而説法。或現相好入無余。変現荘厳随意出。群生見者。罪皆除。又讃云。帰去来。魔郷不可停。曠劫来。流転六道尽皆逕。到処無余楽。唯聞生死声。畢此生平後入彼涅槃城。已上。
  ◎(定善義)また云わく、西方は寂静無為の楽〈みやこ〉なり。畢竟逍遥として、有無を離れたり。大悲、心に熏じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳、意に随いて出ず。群生見る者、罪みな除こると。また讃じて云わく、帰去来〈いざいなん〉、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、尽くみな径たり。到るところに余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らんと。已上。SYO:SYOZEN2-106/HON-283,284,HOU-395

 〇次三首讃。定善義中水観讃也。言寂静者浄土徳也。大経上云。其心寂静志無所著。已上。彼嘆法蔵発心之相。此讃浄土無動之徳。依正雖異。其義是同。言無為者。大経説云無為自然。法事讃釈云極楽無為。即是無造作義。楽是対苦。即是極楽。畢竟逍遙同是快楽無窮義也。離有等者。第一義諦妙境界相。殊妙浄土。第一義者。即是中道。故離二辺。大悲等者。大経或云其大悲者深遠微妙。或又説云広若虚空大慈等故。抜苦与楽其意聊異。共是利物。利物之心。彼此平等。依此義故。言之無殊。今所言者。是内証徳。或現等者。明外用徳。言神通者。是約身業。言説法者。是約口業。言相好者。又約身業。入無余者。是約涅槃。即明必至滅度益耳。変現等者。是明本国菩薩衆等。往他方界。皆設変現随意化儀。即被群生。与滅罪益。帰去等者。是約証得住生之義。彼法界身。本来本覚。十劫被機。是非実成。所帰衆生。凡迷更雖不知始覚冥本覚理。而契当之如来力也。余処解釈。或云努力翻迷還本家。或云元来是我法王家。皆此意也。言魔郷者。是娑婆界。四魔[ジョウ02]乱常障仏道。而念仏人由他力故。魔不為碍。不為碍故往生浄土。浄土無魔。故成仏道。故勧可厭此魔郷也。唯聞等者。問。於六道中。欲界六天苦楽猶交。況上二界更無憂苦。二禅喜受。三禅楽受。此等何言有愁歎耶。答。雖言有楽。此非実楽。当巻定善義下云。言三界苦楽者。苦則三途八苦等。楽則人天五欲放逸繋縛等楽。雖言是楽。然是大苦。畢竟無有一念真実楽也。已上。浄穢相対。三界中楽非実楽故。云愁歎也。SYOZEN2-327,328/TAI7-332
  〇次に三首の讃、『定善義』の中の水観の讃なり。「寂静」というは浄土の徳なり。『大経』の上に云わく「その心寂静にして、志、所著なし」已上。彼は法蔵発心の相を嘆じ、これは浄土無動の徳を讃ず。依正異なりといえども、その義はこれ同じ。「無為」というは、『大経』には説きて「無為自然」といい、『法事讃』には釈して「極楽無為」という。即ちこれ造作なき義なり。楽はこれ苦に対す。即ちこれ極楽なり。「畢竟逍遙」は同じくこれ快楽無窮の義なり。「離有」等とは、第一義諦妙境界相、殊妙の浄土なり。第一義とは、即ちこれ中道なり。故に二辺を離る。「大悲」等とは、『大経』に或いは「其大悲者深遠微妙〈常に能くその大悲を修行する者なり。深遠微妙にして覆載せずということなし〉」といい、或いはまた説きて「広若虚空大慈等故〈曠きこと虚空のごとし、大慈等しきがゆえに〉」という。抜苦与楽はその意聊か異なれども、共にこれ利物なり。利物の心は彼此平等なり。この義に依るが故に、これを無殊という。今言う所は、これ内証の徳なり。「或現」等とは、外用の徳を明かす。「神通」というは、これ身業に約す。「説法」というは、これ口業に約す。「相好」というは、また身業に約す。「入無余」とは、これ涅槃に約す。即ち必至滅度の益を明かすらくのみ。「変現」等とは、これ本国の菩薩衆等は他方界に往きて、みな変現随意の化儀を設けて、即ち群生に被しめて、滅罪の益を与うることを明かす。「帰去」等とは、これ証得住生の義に約す。彼の法界身は本来本覚。十劫は機に被らしむ。これ実成にあらず。所帰の衆生は、凡迷更に始覚は本覚に冥ずる理を知らずといえども、而もこれに契当するは如来の力なり。余処の解釈に、或いは「努力翻迷還本家」といい、或いは「元来是我法王家」という。皆この意なり。「魔郷」というは、これ娑婆界。四魔[ジョウ02]乱して常に仏道を障う。而るに念仏の人は他力に由るが故に、魔は碍を為さず。碍を為さざるが故に浄土に往生す。浄土には魔なし。故に仏道を成ず。故にこの魔郷を厭うべしと勧むるなり。「唯聞」等とは、問う、六道の中に於いて、欲界の六天は苦楽なお交る。況んや上の二界には更に憂苦なし。二禅は喜受、三禅は楽受。これらは何ぞ愁歎ありというや。答う、楽ありというといえども、これ実の楽にあらず。当巻『定善義』の下に云わく「三界の苦楽というは、苦は則ち三途八苦等、楽は則ち人天の五欲放逸繋縛等の楽なり。これ楽というといえども、然もこれ大苦なり。畢竟じて一念真実の楽あることなきなり」已上。浄穢相対するに、三界の中の楽は実の楽にあらざるが故に、愁歎というなり。SYOZEN2-327,328/TAI7-332

 ◎夫案真宗教行信証者。如来大悲回向之利益。故若因若果。無有一事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。因浄故果亦浄也。応知。
  ◎(御自釈)それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。故に、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざることあることなし。因浄なるがゆえに、果また浄なり。知るべしとなり。SYO:J:SYOZEN2-106/HON-284,HOU-395

 〇夫案以下至披論註。私御釈也。是明回向。於中自初至云応知。略結往相。SYOZEN2-328/TAI7-337
  〇「夫案」以下、「披論註」に至るまでは私の御釈なり。これ回向を明かす。中に於いて、初より「応知」というに至るまでは、略して往相を結す。SYOZEN2-328/TAI7-337

 ◎二言還相回向者。則是利他教化地益也。則是出於必至補処之願。亦名一生補処之願。亦可名還相回向之願也。
  ◎(御自釈)二に還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり。すなわちこれ必至補処の願より出でたり。また一生補処の願と名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。SYO:J:SYOZEN2-106,107/HON-284,HOU-395,396

 〇云二言下。至之願也。総標還相。SYOZEN2-328/TAI7-339
  〇「二言」という下、「之願也」に至るまでは、総じて還相を標す。SYOZEN2-328/TAI7-339

 ◎顕註論。故不出願文。可披論註。
  ◎(御自釈)『註論』に顕れたり。故に願文を出ださず。『論の註』を披くべし。SYO:J:SYOZEN2-106,107/HON-284,HOU-395,396

 〇顕註論下至披論註。先標所引。次正出文。文有三段。論与註也。SYOZEN2-328/TAI7-344
  〇「顕註論」の下、「披論註」に至るまでは、まず所引を標し、次に正しく文を出だす。文に三段あり。『論』と『註』となり。SYOZEN2-328/TAI7-344

 ◎浄土論曰。出第五門者。以大慈悲観察一切苦悩衆生示応化身。回入生死薗煩悩林中。遊戲神通至教化地。以本願力回向故。是名出第五門。已上。
  ◎『浄土論』に曰わく、出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく。已上。SYO:SYOZEN2-107/HON-284,HOU-396

 〇初文利行満足章文。第三巻本。引此論文。第二巻奥被引註釈。於其註釈。載推義訖。SYOZEN2-329/TAI7-345,346
  〇初の文は利行満足の章の文。第三巻の本にこの論文を引き、第二巻の奥に註釈を引かる。その註釈に於いて推義を載せ訖りぬ。SYOZEN2-329/TAI7-345,346

 ◎論註曰。還相者。生彼土已。得奢摩他・毘婆舎那・方便力成就。回入生死稠林。教化一切衆生。共向仏道。若往若還。皆為抜衆生渡生死海。是故言回向為首得成就大悲心故。
  ◎『論の註』に曰わく、還相とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化し、共に仏道に向かえしめたまえり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに回向を首として、大悲心を成就することを得るがゆえにと言えりと。SYO:SYOZEN2-107/HON-285,HOU-396

 〇次之文者。第二起観生信章中。回向門下分二種中。還相回向之註釈也。奢摩他者。此翻云止。毘婆舎那此翻云観。方便力者。即回向也。故下善巧摂化章中。釈巧方便回向文云。以後其身而身先故。名巧方便。此中言方便者。謂作願摂取一切衆生。共同生彼安楽仏国。彼仏国即是畢竟成仏道路。無上方便也。已上。言稠林者。稠玉篇云。直留切。密也。広韻云。直由切。稠也。多也。林玉篇云。力金切。平土有叢木。広韻云。力尋切。地上有叢木。故稠林者。不謂善悪。喩繋多義。十地論云。稠林者。衆多義故。難知義故。已上。SYOZEN2-329,/TAI7-349
  〇次の文は、第二の起観生信章の中の回向門の下に二種を分かつ中の還相回向の註釈なり。「奢摩他」とは、此には翻じて止という。「毘婆舎那」は此には翻じて観というと。「方便力」とは即ち回向なり。故に下の善巧摂化の章の中に、巧方便回向を釈する文に云わく「その身を後にして、身を先にするを以ての故に巧方便と名づく。この中に方便というは、謂く、作願して一切衆生を摂取して、共に同じく彼の安楽仏国に生ぜしむ。彼の仏国は即ちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」已上。「稠林」というは、「稠」は『玉篇』に云わく「直留の切、密なり」。『広韻』に云わく「直由の切。稠なり、多なり」。「林」は『玉篇』に云わく「力金の切。平土に叢木あり」。『広韻』に云わく「力尋の切。地上に叢木あり」。故に稠林とは、善悪を謂わず、繋多の義に喩う。『十地論』に云わく「稠林とは衆多の義なるが故に、難知の義なるが故に」已上。SYOZEN2-329/TAI7-349

 ◎又言。即見彼仏。未証浄心菩薩。畢竟得証平等法身。与浄心菩薩。与上地諸菩薩。畢竟同得寂滅平等故。平等法身者。八地已上法性生身菩薩也。寂滅平等之法也。以得此寂滅平等法故名為平等法身。以平等法身菩薩所得故名為寂滅平等法也。此菩薩得報生三昧。以三昧神力。能一処一念一時。遍十方世界。種種供養一切諸仏及諸仏大会衆海。能於無量世界無仏法僧処。種種示現。種種教化度脱一切衆生。常作仏事。初無往来想・供養想・度脱想。是故此身名為平等法身。此法名為寂滅平等法。未証浄心菩薩者。初地已上七地以還諸菩薩也。此菩薩亦能現身。若百若千若万若億若百千万億無仏国土。施作仏事。要作心入三昧乃能非不作心。以作心故名為未証浄心。此菩薩願生安楽浄土即見阿弥陀仏。見阿弥陀仏時。与上地諸菩薩畢竟身等法等。龍樹菩薩・婆薮槃頭菩薩輩。願生彼者。当為此耳。
  ◎(論註)また言わく、すなわちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆえにとのたまえり。平等法身とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもってのゆえに、名づけて平等法身とす。平等法身の菩薩の所得なるをもってのゆえに、名づけて寂滅平等の法とするなり。この菩薩は報生三昧を得。三昧神力をもって、よく一処、一念、一時に十方世界に遍じて、種種に一切諸仏および諸仏の大会衆海を供養す。よく無量世界の仏法僧ましまさざるところにして、種種に示現し、種種に一切衆生を教化し度脱して、常に仏事を作すに、初めより往来の想・供養の想・度脱の想なし。このゆえにこの身を名づけて平等法身とす。この法を名づけて寂滅平等の法とす。未証浄心の菩薩とは、初地已上、七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作して、かならず作心す。三昧に入るとも、いましよく作心せざるにあらず。作心をもってのゆえに、名づけて未証浄心とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見たてまつるとき、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し。龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生ぜんと願ずるは、当にこのためなるべしならくのみと。SYO:SYOZEN2-107,108/HON-285,286,HOU-396,397-

 〇後之文者。第三観行体相。就明依正二十九句荘厳成就。如来八種功徳之中。第八荘厳功徳成就有三段内。今文第三正釈住持行相以下。至第十重利行満足章中。別約近等五門。配礼拝等之五念門。併被引之。SYOZEN2-329,/TAI7-351
  〇後の文は、第三の観行体相に、依正二十九句の荘厳成就を明かすに就きて、如来八種の功徳の中の、第八の荘厳功徳成就に、三段ある内、今の文は第三に正しく住持の行相を釈する以下、第十重の利行満足の章の中に、別して近等の五門に約して、礼拝等の五念門に配するに至るまで、併せ引かるるなり。SYOZEN2-329,/TAI7-351

 〇此文意者。生極楽者。皆登八地。即証法身寂滅極理。為此義者。云得十信三賢之位。又有九品差別之相。皆是仮説。只是約機。以契平等法身証悟。為真実証。被引此文者。為顕此意。能得此意。可見此文。問。極楽生位不関七地已還位耶。答。得無生忍。其位不同。或約初地。或約八地。若依初地得忍之説。可云広通七地已還。今就深位先拠八地。未証等者。問。起信論云。証法身者。従浄心地乃至菩薩究竟地。已上。依彼論意。浄心地者。是指初地。究竟地者。是指十地。然者何以七地已還。名為未証浄心菩薩。答。是如前述。謂証真如。初地八地其説相分。思彼論意。立浄心名。約証真如。今言未証。約有作心。即云功用無功用是。問。初地已下菩薩。已得無分別智。何云作心。答。此有分極。彼已雖得無分別智。若猶相望八地已上。是作意也。又或義云。依法相意。七地已還於第六識。有漏無漏令雑起故。若其有漏現起之時。猶必可有作意分別。是故判云非不作意。言身等者。是指相好荘厳等也。言法等者。指所説也。龍樹菩薩婆薮般頭菩薩等者。問。天親賢位。龍樹聖位。彼此何同。答。雖有地上地前不同。分有所得。是故類同。是以撲揚讃天親云。位居明徳。道隣極喜。已上。又弘決云。天親龍樹内鑑冷然。已上。或依隣近。或依内鑑為一双也。問。地上菩薩願生極楽。其義難思。所以然者。浄穢差別在心染浄。於境本来無染浄差。初地以上既断無明分顕我性。身居報土任連自聞報仏説法。所見境界報土儀式。何更願生彼浄土耶。故探玄記云。十住已去不退菩薩所住名為浄土。已上。地前猶爾。地上何願。答。雖有多義。且出一義。生身得忍以捨依身願生他方浄土故也。是更非如凡夫願生故。大論云。若得無生法忍。断一切結使。死時捨此肉身。已上。涅槃疏云。分段質碍煩悩雖尽。必須捨報。已上。蓋此義也。SYOZEN2-329,330/TAI7-354,355-
  〇この文の意は、極楽に生ずる者は、みな八地に登りて即ち法身寂滅の極理を証す。この義の為には、十信・三賢の位を得といい、また九品差別の相ある、皆これ仮説なり。ただこれ機に約す。平等法身の証悟に契うを以て、真実の証と為す。この文を引かるるは、この意を顕わさんが為なり。能くこの意を得て、この文を見るべし。問う。極楽の生位は七地已還の位に関わらざるや。答う。無生忍を得ること、その位不同なり。或いは地〈初地〉に約し、或いは八地に約す。もし初地得忍の説に依らば、広く七地已還に通ずというべし。今は深位に就きて、まず八地に拠る。「未証」等とは、問う、『起信論』に云わく「証法身とは、浄心地より、乃至、菩薩究竟地なり」已上。彼の論の意に依るに、浄心地とはこれ初地を指す。究竟地とは、これ十地を指す。然れば何ぞ七地已還を以て、名づけて未証浄心の菩薩と為すや。答う、これ前に述ぶるが如し。謂わく、真如を証すること、初地・八地、その説相い分かれたり。彼の論の意を思うに、浄心の名を立つることは証真如に約す。今、未証というは、有作心に約す。即ち功用無功用という、これなり。問う、初地已上〈已下〉の菩薩は已に無分別智を得。何ぞ作心という。答う、これに分極あり。彼は已に無分別智を得といえども、もし猶八地已上に相望すれば、これ作意なり。また或る義に云わく、法相の意に依れば、七地已還は第六識に於いて、有漏無漏雑起せしむるが故に。もしその有漏現起の時はなお必ず作意分別あるべし。この故に判じて非不作意という。「身等」というは、これ相好荘厳等を指すなり。「法等」というは、所説を指すなり。「龍樹菩薩婆・薮般頭菩薩」等とは、問う、天親は賢位、龍樹は聖位なり。彼此何ぞ同じからん。答う、地上・地前の不同ありといえども、分に所得あり。この故に類同す。これを以て撲揚は天親を讃じて云わく「位は明徳に居し、道は極喜に隣りす」已上。また『弘決』に云わく「天親・龍樹、内鑑冷然なり」已上。或いは隣近に依り、或いは内鑑に依りて一双と為すなり。問う、地上菩薩の極楽に生ぜんと願ずる、その義思い難し。然る所以は、浄穢の差別は心の染浄に在り。境に於いて本来、染浄の差なし。初地以上は既に無明を断じて分に我性を顕わし、身は報土に居して任連に自ずから報仏の説法を聞く。所見の境界は報土の儀式なり。何ぞ更に彼の浄土に生ぜんことを願ぜんや。故に『探玄記』に云わく「十住已去、不退の菩薩の所住を名づけて浄土と為す」已上。地前なお爾り。地上は何ぞ願ぜん。答う、多義ありといえども、且く一義を出だす。生身得忍は依身を捨てて他方の浄土に生ぜんと願ずるを以ての故に。これ更に凡夫の願生の如くにはあらざるが故に。『大論』に云わく「もし無生法忍を得つれば、一切の結使を断じて、死する時にこの肉身を捨つ」已上。『涅槃の疏』に云わく「分段の質碍は煩悩尽くといえども、必ず須く報を捨つべし」已上。蓋しこの義なり。SYOZEN2-329,330/TAI7-354,355-

 ◎問曰。案十地経。菩薩進趣階級。漸有無量功勲。逕多劫数然後乃得此。云何見阿弥陀仏時。畢竟与上地諸菩薩身等法等邪。答曰。畢竟者。未言即等也。畢竟不失此等故言等耳。
  ◎(論註)問うて曰わく、『十地経』を案ずるに、菩薩、進趣階級、ようやく無量の功勲あり。多くの劫数を径。然して後、いましこれを得。いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきや。答えて曰わく、畢竟は未だすなわち等しというにはあらずとなり。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆえに、等しと言うならくのみ。SYO:SYOZEN2-108/-HON-286,HOU-397-

 ◎問曰。若不即等。復何得言菩薩。何登初地。以漸増進。自然当与仏等。何仮言与上地菩薩等。答曰。菩薩於七地中得大寂滅。上不見諸仏可求。下不見衆生可度。欲捨仏道証於実際。爾時若不得十方諸仏神力加勧。即便滅度与二乗無異。菩薩若往生安楽見阿弥陀仏。即無此難。是故須言畢竟平等。
  ◎(論註)問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ初地に登れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の菩薩と等しと言うや。答えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上、諸仏の求むべきを見ず、下、衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。その時にもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須らく畢竟平等と言うべし。SYO:SYOZEN2-108/-HON-286,HOU-397-

 〇菩薩於七地中等者。問。大寂滅者。是何義乎。答。実相理地不立一塵。若至此位。其悟窮極。由此義故云大寂滅。問。一切菩薩皆於七地証寂滅耶。答。若約証理之至極者。皆可然也。問。於此位中。不見諸仏及以衆生有何故耶。答。以住無生極理之故。不見上求下化相也。但此義者。約根本智。若是令約後得智辺。可有上求下化相也。問。縦雖穢土修行得道。於第七地。必蒙諸仏加勧力者。何為往生安楽徳乎。答。穢土修行雖蒙加勧。本居浄土蒙其加勧。其徳猶以殊勝故也。問。七地已上諸菩薩等。更不可願生極楽耶。答。任常途義。不許其義。所以然者。七地已還。悲増菩薩為利益他以慈悲心受分段身。是故可有猶願極楽。八地已上。縦令雖為悲増菩薩。必得変易。故不可願生極楽歟。但加短解。可有猶願生極楽義。所謂極楽諸仏本家。何仏菩薩而不求生。是故九品往生経云。無量寿仏亦九品浄域三摩地。即是諸仏境界。如来所居。三世諸仏従此成正覚。已上。普賢文殊等大菩薩。願往生者。即此故也。集主深意有此義歟。-SYOZEN2-330,331/TAI7-355-
  〇「菩薩於七地中」等とは、問う、大寂滅とは、これ何の義ぞや。答う、実相の理地には一塵をも立てず。もしこの位に至るぬれば、その悟窮極す。この義に由るが故に大寂滅という。問う、一切菩薩はみな七地に於いて寂滅を証するや。答う、もし証理の至極に約せば、皆然るべきなり。問う、この位の中に於いて、諸仏および衆生を見ざる、何の故かあるや。答う、無生の極理に住するを以ての故に、上求下化の相を見ざるなり。但しこの義は根本智に約す。もしこれ後得智の辺に約せしめば、上求下化の相あるべきなり。問う、たとい穢土修行の得道なりといえども、第七地に於いて、必ず諸仏の加勧力を蒙るとは、何ぞ往生安楽の徳と為すや。答う、穢土の修行は加勧を蒙るといえども、本、浄土に居してその加勧を蒙るは、その徳は猶以て殊勝なるが故なり。問う、七地已上の諸の菩薩等は、更に極楽に生ぜんことを願ずべからざるや。答う、常途の義に任せば、その義を許さず。然る所以は、七地已還は悲増の菩薩にして、他を利益せんが為に慈悲心を以て分段の身を受く。この故になお極楽を願ずることあるべし。八地已上は、たとい悲増の菩薩たりといえども、必す変易を得る。故に極楽に生ぜんと願ずべからざるか。但し短解を加う。なお極楽に生ぜんと願ずる義あるべし。いわゆる極楽は諸仏の本家、何れの仏・菩薩か而も生ずることを求めざらん。この故に『九品往生経』に云わく「無量寿仏、また九品浄域の三摩地は、即ちこれ諸仏の境界、如来の所居なり。三世の諸仏はここより正覚を成ず」已上。普賢・文殊等の大菩薩の往生を願ずるは、即ちこの故なり。集主の深意、この義あるか。-SYOZEN2-330,331/TAI7-355-

 ◎復次無量寿経中。阿弥陀如来本願言。設我得仏他方仏土諸菩薩衆。来生我国。究竟必至一生補処。除其本願自在所化。為衆生故。被弘誓鎧。積累徳本。度脱一切。遊諸仏国修菩薩行。供養十方諸仏如来。開化恒砂無量衆生。使立無上正真之道。超出常倫。諸地之行現前。修習普賢之徳。若不爾者不取正覚。按此経推彼国菩薩。或可不従一地至一地。言十地階次者。是釈迦如来於閻浮提一応化道耳。他方浄土何必如此。五種不思議中。仏法最不可思議。若言菩薩必従一地至一地無超越之理。未敢詳也。譬如有樹名曰好堅。是樹地生百歳。乃具一日長高百丈。日日如此。計百歳之長。豈類修松邪。見松生長。日不過寸。聞彼好堅。何能不疑即日。有人聞釈迦如来証羅漢於一聴。制無生於終朝。謂是接誘之言。非称実之説。聞此論事亦当不信。夫非常之言不入常人之耳。謂之不然。亦可其宜也。
  ◎(論註)また次に『無量寿経』の中に、阿弥陀如来の本願に言わく、設い我仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじと。この経を按じて、かの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次というは、これ釈迦如来、閻浮提にして、一の応化道ならくのみ。他方の浄土は、何ぞ必ずしもかくのごとくならん。五種の不思議の中に、仏法最も不可思議なり。もし菩薩必ず一地より一地に至りて、超越の理なしと言わば、未だ敢えて詳らかならざるなり。譬えば樹あり、名づけて好堅と曰う。この樹、地より生じて百歳ならん。いまし具に一日に長高なること百丈なるがごとし。日日にかくのごとし。百歳の長を計るに、あに修松に類せんや。松の生長するを見るに、日に寸を過ぎず。かの好堅を聞きて、何ぞよく即日を疑わざらん。人ありて、釈迦如来、羅漢を一聴に証し、無生を終朝に制したまえるを聞きて、これ接誘〈とる、こしらう〉の言にして、称実の説にあらずと謂〈おも〉えり。この論事を聞きて、また当に信ぜざるべし。それ非常の言は常人の耳に入らず。これをしからずと謂えり。またそれ宜しかるべきなり。SYO:SYOZEN2-108,109/-HON-286,287,HOU-397,398-

 〇復次等者。問。引二十二願。其要如何。答。初地已上七地已還。願生極楽可有二要。謂一為免於第七地証実際難。二為諸位速疾超越。其中為顕超越之益。引当願也。問。願意如何。答。諸仏土中。或有悉経十地階位。自一至二。乃至自九至十之土。或有超昇直登等覚。速至補処。如来因中。見彼諸土。選択之時愍諸菩薩十地修行経歴劫数。発起超越諸位速至補処之願。但所除者。有利他願暫施自在利生而已。只任意楽。更非願力之有偏也。言言十地階次等者。問。如案起信論大意者。為怯弱機。示超証義。為懈慢機示歴劫義。説此義趣。正決判云。無有超過法故。以七地菩薩皆逕三阿僧祇劫。已上。如此説者。超証方便。経劫実義。而今釈意。忽以矛盾。如何。答。起信論意。所判実爾。常途性相又以是同。但如性宗者。多許超証。各別宗旨不可異論。何況今釈所判。不亘穢土超証。十地階次只是釈迦一代化道。対之専述浄土超証他力願意。於超証義許与不許。不及成諍。非相違歟。五種不思議中等者。註当章中。上所挙之国土体相之下釈云。諸経統言。有五種不可思議。一者衆生多少不可思議。二者業力不可思議。三者龍力不可思議。四者禅定力不可思議。五者仏法力不可思議。已上。譬如等者。大論十云。譬如有樹名好堅。是樹在地中百歳。枝葉具足一日出生高百丈。是樹出已。欲求大樹以蔭其身。是時林中有神語好堅言。世中無大汝者。諸樹皆当在汝蔭中。仏亦如是。無量阿僧祗劫。在菩薩地中生。一日於菩提樹下金剛座処。実知一切諸法相。得成仏道。已上。天台云。好堅処地芽已百囲。已上。百囲百歳彼此相違。有異説歟。不須和会。又或説云。此樹梵言曰諾瞿陀。亦梵言云尼拘律陀。此云無節。即好堅也。或又此樹翻為楊柳云云。此譬喩意。以松生長一日一寸比自一地至其一地。以好堅樹一日百丈。況彼浄土超証義也。有人等者。今引頓悟即証之例。助彼超越速疾益也。問。上指十地階次施設。言為釈尊一代化道。今挙一聴終朝之証。為釈迦仏化道之益。何相違耶。答。漸頓空有半満権実随他随自。皆在釈迦一仏設化。但言閻浮一化道者。顕彼説中十地階次為其一途随宜之説。彼此随機各蒙教益。皆不相違。-SYOZEN2-331,332/TAI7-355,356,357
  〇「復次」等とは、問う、二十二願を引くは、その要、如何。答う、初地已上、七地已還、極楽に生ぜんと願ずる二の要あるべし。謂わく、一には第七地に於いて実際を証する難を免ぜられんが為なり。二には諸位速疾超越の為、その中に超越の益を顕わさんが為に、当願を引くなり。問う、願の意は如何。答う、諸仏の土の中に、或いは悉く十地の階位を経て、一より二に至り、乃至、九より十に至る土あり。或いは超昇して直ちに等覚に登り、速に補処に至るあり。如来の因中に、彼の諸土を見て、選択の時、諸の菩薩十地の修行の劫数を経歴することを愍みて、諸位を超越して速に補処に至る願を発起したもう。但し除く所の者は、利他の願ありて暫く自在の利生を施すのみ。ただ意楽に任ず。更に願力の偏あるにあらざるなり。「言十地階次」等というは、問う、『起信論』の大意を案ずる如きは、怯弱の機の為に超証の義を示し、懈慢の機の為に歴劫の義を示す。この義趣を説き、正しく決判して云わく「超過の法あることなきが故に、七地の菩薩はみな三阿僧祇劫を逕るを以てなり」已上。この説の如きは、超証は方便、経劫は実義なり。而に今の釈の意は、忽に以て矛盾す、如何。答う、『起信論』の意は、判ずる所は実に爾り。常途の性相は、また以てこれ同じ。ただ性宗の如きは、多く超証を許す。各別の宗旨、異論すべからず。何に況んや今の釈の判ずる所は穢土の超証に亘らず。十地の階次はただこれ釈迦一代の化道なり。これに対して、専ら浄土の超証他力の願意を述ぶ。超証の義に於いて、許と許さざると、諍いを成すに及ばず。相違にあらざるか。「五種不思議中」等とは、註〈経〉の当章の中に、上に挙ぐる所の国土体相の下の釈に云わく「諸経に統べて言うに、五種の不可思議あり。一には衆生多少不可思議、二には業力不可思議、三には龍力不可思議、四には禅定力不可思議、五には仏法力不可思議なり」已上。「譬如」等とは、『大論』の十に云わく「譬えば樹ありて好堅と名づく。この樹は地中に在ること百歳。枝葉具足す。一日に出生する高さ百丈なるが如し。この樹は出で已りて、大樹を求めて以てその身を蔭さんと欲す。この時に林の中に神ありて好堅に語りて言わく、世の中に汝より大なる者なし。諸樹みな当に汝が蔭の中に在るべし。仏もまたかくの如し。無量阿僧祗劫に菩薩地の中に在りて生ず。一日菩提樹下に於いて金剛座に処す。実に一切の諸法の相を知りて、仏道を成ずることを得」已上。天台の云わく「好堅は地に処して芽は已に百囲」已上。百囲と百歳とは彼此相違す。異説あるか。須く和会すべからず。また或る説に云わく「この樹、梵言には諾瞿陀という。また梵言に尼拘律陀という。此には無節という。即ち好堅なり。或いはまたこの樹を翻じて楊柳と為す」云云。この譬喩の意は、松の生長すること一日一寸なるを以て、一地よりその一地に至るに比す。好堅樹の一日に百丈なるを以て、彼の浄土の超証の義に況するなり。「有人」等とは、今、頓悟即証の例を引きて、彼の超越速疾の益を助くるなり。問う、上には十地階次の施設を指して、釈尊一代の化道の為という。今は一聴終朝の証を挙げて釈迦仏化道の益と為す。何ぞ相違せるや。答う、漸頓・空有・半満・権実・随他随自、みな釈迦一仏の設化に在り。ただし閻浮の一の化道というは、彼の説の中の十地の階次はその一途随宜の説たることを顕わす。彼此、機に随いて、おのおの教益を蒙る。みな相違せず。-SYOZEN2-331,332/TAI7-355,356,357

 ◎略説八句示現如来自利利他功徳荘厳次第成就。応知。此云何次第。前十七句是荘厳国土功徳成就。既知国土相。応知国土之主。是故次観仏荘厳功徳。彼仏若為荘厳於何処坐。是故先観座。既知座已。宜知座主。是故次観仏荘厳身業。既知身業。応知有何声名。是故次観仏荘厳口業。既知名聞。宜知得名所以。是故次観仏荘厳心業。既知三業具足。応知為人天大師堪受化者是誰。是故次観大衆功徳。既知大衆有無量功徳。宜知上首者誰。是故次観上首。上首是仏。既知上首恐同長劫。是故次観主。既知是主。主有何増上。是故次観荘厳不虚作住持。八句次第成也。
  ◎(論註)略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就したまえるを示現したまえるなりと、知るべし。これはいかんが次第する。前の十七句は、これ荘厳国土の功徳成就なり。既に国土の相を知りぬ。国土の主を知るべし。このゆえに次に仏の荘厳功徳を観ず。かの仏もし荘厳をなして、いずれの処に於いてか坐したまえる。このゆえにまず座を観ずべし。既に座を知り、すでに宜しく座主を知るべし。このゆえに次に仏の身業を荘厳したまえるを観ず。既に身業を知りぬ。いずれの声名かましますと知るべし。このゆえに次に仏の口業を荘厳したまえるを観ず。既に名聞を知りぬ。宜しく得名の所以を知るべし。このゆえに次に仏の心業を荘厳したまえるを観ず。既に三業具足したまえるを知りぬ。人天の大師となりて化を受くるに堪えたる者〈ひと〉は、これ誰ぞと知るべし。このゆえに次に大衆の功徳を観ず。既に大衆、無量の功徳いますことを知りぬ。宜しく上首は誰ぞと知るべし。このゆえに次に上首を観ず。上首はこれ仏なり。既に上首を知りぬ。恐らくは長幼に同じきことを。このゆえに次に主を観ず。既にこの主を知りぬ。主いかなる増上かましますと。このゆえに次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。SYO:SYOZEN2-109/-HON-287,288,HOU-398,399-

 〇略説等者。是結文也。問。次第成就応知等者。為指自利利他次第如何。答。是明如来八種功徳生起次第。但其八種。論彼法体。併為自利利他功徳置而不論。雖然今正所言次第。不関二利。只明八種功徳生起。生起次第具見註釈。SYOZEN2-333/TAI7-392
  〇「略説」等とは、これ結文なり。問う、「次第成就応知」等とは、自利利他の次第を指すとやせん、如何。答う、これ如来八種の功徳の生起次第を明かす。但しその八種は、彼の法体を論ずるに、併ら自利利他の功徳と為ることを置きて論ぜず。然りといえども、今正しく言う所の次第は、二利に関わらず。ただ八種の功徳の生起を明かす。生起の次第は具に註釈に見えたり。SYOZEN2-333/TAI7-392

 ◎観菩薩者。云何観察菩薩荘厳功徳成就。観察菩薩荘厳功徳成就者。観察菩薩有四種正修行功徳成就。応知。真如是諸法正体。体如而行。則是不行。不行而行。名如実修行。体唯一如。而義分為四。是故四行以一正統之。
  ◎(論註)菩薩を観ぜば、いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行功徳成就したまえることあり。まさに知るべしと。真如はこれ諸法の正体なり。体、如にして行ずれば、すなわちこれ不行なり。不行にして行ずるを、如実修行と名づく。体はただ一如にして、義をもて分かちて四とす。このゆえに四行は、一をもって正しくこれを統〈つか〉ぬ。SYO:SYOZEN2-109,110/-HON-288,HOU-399-

 〇観察菩薩荘厳之中。論文有三。一云何下標牒章目。二観彼下標有四種荘厳功徳。三何者下正釈四種荘厳。二註之中。真如等者。大乗止観云。問曰。云何名此心為真如。答曰。一切諸法依此心有。以心為体。望於諸法。法悉虚妄。有即非有。対此虚偽法故因為真。又復諸法雖実非有。但以虚妄因縁而有生滅之相。然彼虚法生時。此心不生。諸法滅時。此心不滅。不生故不増。不減故不滅。以不生不滅不増不減故名之為真。三世諸仏及以衆生同以此一浄心為体。凡聖諸法自有差別異相。而此真心無異無相。故名為如。已上。又天台云。万法是真如。由不変故。真如是万法。由随縁故。已上。就言真如諸法正体。可有二意。一諸法皆是虚妄之相。真如一法唯是真実。其真如者是心一法。若依此義。言諸法中唯此一真。是正体也。上所挙之大乗止観叶此意歟。二真如体相。不限一心。森羅万像三千諸法莫非真如。就其相望。雖有随縁不変之異。色心諸法莫非真如。若依此義。諸法悉是真如正体。是故釈云諸法正体。天台正意可合此義。不行等者。無分別相。相応真如所修行故。言不行者是約体如。於其正体離情執故。言而行者。約正修行。於其所行無作意故。三正釈中功徳荘厳為四種故。文有四段。省文言之。一不動遍至供仏化生。二一念遍至利益群生。三一切世界讃嘆諸仏。四無三宝処住持荘厳。SYOZEN2-333,334/TAI7-397,397-
  〇観察菩薩荘厳の中に、論文に三あり。一に「云何」の下は章目を牒することを標す。二に「観彼」の下は四種の荘厳功徳あることを標す。三に「何者」の下は正しく四種の荘厳を釈す。二に註の中に「真如」等とは、『大乗止観』に云わく「問うて曰わく、云何ぞこの心を名づけて真如と為すや。答えて曰わく、一切の諸法はこの心に依りて有り。心を以て体と為す。諸法に望むるに、法は悉く虚妄なり。有は即ち有に非ず。この虚偽の法に対するが故に因りて真と為す。また諸法は実に有に非ずといえども、ただ虚妄の因縁を以て而も生滅の相あり。然も彼の虚法の生ずる時、この心は生ぜず。諸法の滅する時、この心は滅せず。生ぜざるが故に増せず。減ぜざるが故に滅せず。不生・不滅・不増・不減なるを以ての故に、これを名づけて真と為す。三世の諸仏および衆生は同じくこの一浄心を以て体と為す。凡聖の諸法は自ずから差別異相あれども、而もこの真心は異なく、相なし。故に名づけて如と為す」已上。また天台の云わく「万法はこれ真如なり。不変に由るが故に。真如はこれ万法なり。随縁に由るが故に」已上。真如は諸法の正体というに就きて二の意あるべし。一には諸法は皆これ虚妄の相、真如の一法、唯これ真実なり。その真如とは、これ心の一法なり。もしこの義に依らば、言うこころは、諸法の中に唯この一真なり。これ正体なり。上に挙ぐる所の『大乗止観』はこの意に叶うか。二には真如の体相は一心に限らず。森羅万像・三千の諸法は真如にあらざることなし。その相望に就きて随縁・不変の異あるといえども、色心の諸法は真如にあらざることなし。もしこの義に依らば、諸法は悉くこれ真如の正体なり。この故に釈して諸法の正体という。天台の正意はこの義に合すべし。「不行」等とは、分別の相なし。真如に相応して修行する所なるが故に。「不行」というは、これ体如に約す。その正体に於いて情執を離るるが故に。「而行」というは、正修行に約す。その所行に於いて作意なきが故に。三に正釈の中に、功徳荘厳は四種と為すが故に、文に四段あり。文を省してこれをいわば、一には不動遍至供仏化生、二には一念遍至利益群生、三には一切世界讃嘆諸仏、四には無三宝処住持荘厳なり。SYOZEN2-333,334/TAI7-397,397-

 ◎何者為四。一者於一仏土身不動搖。而遍十方種種応化。如実修行常作仏事。偈言安楽国清浄。常転無垢輪。化仏菩薩日如須弥住持故。開諸衆生淤泥華故。八地已上菩薩常在三昧。以三昧力身不動本処。而能遍至十方供養諸仏教化衆生。無垢輪者仏地功徳也。仏地功徳無習気煩悩垢。仏為諸菩薩常転此法輪。諸大菩薩亦能以此法輪開導一切無暫時休息。故言常転。法身如日。而応化身光遍諸世界也。言日未足以明不動。復言如須弥住持也。淤泥華者。経言。高原陸地不生蓮華。卑湿淤泥乃生蓮華。此喩凡夫在煩悩泥中為菩薩開導。能生仏正覚華。諒夫紹隆三宝常使不絶。
  ◎(論註)何ものをか四とする。一には、一仏土において身動揺せずして十方に遍す。種種に応化して実のごとく修行して、常に仏事を作す。偈に安楽国は清浄にして、常に無垢輪を転ず。化仏菩薩は、日の須弥に住持するがごときのゆえにと言えり。もろもろの衆生の淤泥華を開かしむるがゆえにと。八地已上の菩薩は、常に三昧にありて、三昧力をもって、身、本処を動ぜずしてよく遍く十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す。無垢輪とは仏地の功徳なり。仏地の功徳は、習気煩悩の垢ましまさず。仏、もろもろの菩薩のために常にこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩、またよくこの法輪をもって、一切を開導して暫時も休息なけん。故に常転と言う。法身は日のごとくにして、応化身の光、もろもろの世界に遍ずるなり。言うこころは、日は未だもって不動を明かすに足らざれば、また如須弥住持と言うなり。淤泥華とは、経に言わく、高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ずと。これは、凡夫、煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩うるなり。諒〈まこと〉にそれ三宝を紹隆して常に絶えざらしむと。SYO:SYOZEN2-110/-HON-288,HOU-399,400-

 〇第一段中無垢輪者。問。今註釈初約八地已上所行。後約仏地。一師所釈。於一科中何忽相違。又智光云。初地已上菩薩。亦能以此法輪開導一切。已上。旁以未審。就中既言仏地功徳不謂初地八地已上。於因位中何転之耶。答。既云無垢。今釈之意属仏功徳。其義可然。雖然或云八地已上。或云初地。各約分転。共無所違。次至于云因位之中不可転者。非究竟者是不為難。其上蒙仏加力故也。淤泥華者。問。指何華乎。答。言淤者濁。言泥者水。生濁水華是蓮華也。淤泥譬之衆生煩悩。華譬仏性。或又淤泥喩之性徳。華喩修徳。云経言者。維摩経也。-SYOZEN2-334/TAI7-398-
  〇第一段の中に「無垢輪」とは、問う、今の註釈は、初は八地已上の所行に約し、後は仏地に約す。一師の所釈、一科の中に於いて何ぞ忽に相違せるや。また智光の云わく「初地已上の菩薩は、また能くこの法輪を以て一切を開導す」已上。旁以ていぶかし。中に就きて既に仏地功徳といいて、初地八地已上といわず。因位の中に於いて何ぞこれを転ずるや。答う、既に無垢という。今釈の意は仏の功徳に属す。その義然るべし。然りといえども、或いは八地已上といい、或いは初地という。おのおの分転に約す。共に違する所なし。次に因位の中に転ずべからずというに至りては、究竟にあらざればこれ難しとせず。その上は仏の加力を蒙るが故なり。「淤泥華」とは、問う、何の華を指すや。答う、「淤」というは濁、泥というは水なり。濁水に生〈な〉る華はこれ蓮華なり。淤泥はこれを衆生の煩悩に譬え、華を仏性に譬う。或いはまた淤泥はこれを性徳に喩え、華を修徳に喩う。「経言」というは『維摩経』なり。-SYOZEN2-334/TAI7-398-

 ◎二者彼応化身。一切時不前不後。一心一念放大光明。悉能遍至十方世界教化衆生。種種方便修行所作。滅除一切衆生苦故。偈言無垢荘厳光。一念及一時。普照諸仏会。利益諸群生故。上言不動而至。容或至有前後。是故復言一念一時無前無後也。
  ◎(論註)二には、かの応化身、一切の時、前ならず後ならず、一心一念に、大光明を放ちて、ことごとくよく遍く十方世界に至りて、衆生を教化す。種種に方便し、修行所作、一切衆生の苦を滅除するがゆえに。偈に無垢荘厳光、一念及一時、普照諸仏会、利益諸群生(無垢荘厳の光、一念および一時に、普く諸仏の会を照らして、もろもろの群生を利益す)と言えるが故にと。上に、不動にして至ると言えり。あるいは至るに前後あるべし。このゆえにまた一念一時、前ならず後ならずと言えるなり。SYO:SYOZEN2-110/-HON-288,289,HOU-400-

 ○第二段中無垢光者。輪光雖異無垢義同。准上応知。-SYOZEN2-334/TAI7-398-
  〇第二段の中に「無垢光」とは、輪と光と異るといえども、無垢の義は同じ。上に准じて知るべし。-SYOZEN2-334/TAI7-398-

 ◎三者彼於一切世界無余照諸仏会。大衆無余広大無量。供養恭敬讃嘆諸仏如来功徳。偈言雨天楽華衣妙香等。供養讃諸仏功徳。無有分別心故。無余者。明遍至一切世界一切諸仏大会。無有一世界一仏会不至也。肇公言。法身無像而殊形並応至韻。無言而玄籍弥布。冥権無謀而動与事会。蓋斯意也。
  ◎(論註)三には、かれ一切の世界において、余なくもろもろの仏会を照らす。大衆余なく広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し恭敬し讃嘆す。偈に雨天楽華衣、妙香等供養、讃諸仏功徳、無有分別心(天の楽、華、衣、妙香等を雨りて、諸仏の功徳を供養し讃ずるに、分別の心あることなし)と言えるが故にと。無余とは、遍く一切の世界、一切の諸仏大会に至りて、一世界一仏会として至らざることあることなきを明かすなり。肇公の言わく(註維摩)、法身は像なくして形を殊にす。ならびに至韻に応ず。言なくして玄籍いよいよ布き、冥権、謀なくして動じて事と会すと。けだしこの意なり。SYO:SYOZEN2-110,111/-HON-289,HOU-400-

 ○第三段中肇公言者。問。是指誰人指何書乎。答。羅什三蔵有其四子。各為英傑。世称之言生肇融叡。生者道生。肇者僧肇。融者道融。叡者僧叡。今肇公者。即僧肇也。此人造論曰之肇論。依維摩経所記書也。彼論序云。夫聖智無知而万品倶照。次法身下如今所引。此釈之意。三論宗旨甚深義理不及輙述。詞雖幽玄。総而言之。是則不行而行意也。-SYOZEN2-334/TAI7-398,399-
  〇第三段の中に「肇公言」とは、問う、これ誰人を指し、何れの書を指すや。答う、羅什三蔵にその四子あり。おのおの英傑たり。世にこれを称して生・肇・融・叡という。生とは道生、肇とは僧肇、融とは道融、叡とは僧叡なり。今の肇公とは即ち僧肇なり。この人、論を造る。これを『肇論』という。『維摩経』に依りて記する所の書なり。彼の論の序に云わく「それ聖智は無知にして万品倶に照す」。次法身の下は今の所引の如し。この釈の意なり。三論の宗旨、甚深の義理は輙く述ぶるに及ばず。詞は幽玄なりといえども、総じてこれを言わば、これ則ち不行而行の意なり。-SYOZEN2-334/TAI7-398,399-

 ◎四者彼於十方一切世界無三宝処。住持荘厳仏法僧宝功徳大海。遍示令解如実修行。偈言何等世界無仏法功徳宝。我願皆往生示仏法如仏故。上三句雖言遍至。皆是有仏国土。若無此句。便是法身有所不法。上善有所不善。観行体相竟。
  ◎(論註)四には、かれ十方一切の世界に、三宝ましまさぬ処において、仏法僧宝功徳の大海を住持し荘厳して、遍く示して、如実の修行を解らしむ。偈に何等世界無仏法功徳宝。我願皆往生示仏法如仏(何等の世界なりと、仏法功徳の宝なきには、我、皆往生して仏法を示すこと仏のごとくならんと願ず)と言えるがゆえにと。上の三句は、遍く至ると言うといえども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句なくは、すなわちこれ法身、法ならざる所あらん。上善、善ならざる所あらん。観行体相竟りぬ。SYO:SYOZEN2-111/-HON-289,HOU-400,401-

 〇第四段中言上三句雖言等者。此述当段利益周備。其意見註。不能更述。然而猶粗解其意。上三句者。於有仏国挙遍至徳。未顕無仏世界利益。今至此句彰無仏法功徳宝処住持行相。是故利物於此円満。功徳於此具足而已。問。三段句数各有一四句偈之故十二句也。何云三句。准初標者。可云四種。若依章段。可云三章三段等歟。如何。答。唯識論云。名詮自性。句詮差別。已上。就差別義云句無過。即下釈中国土荘厳云十七句。如来荘厳称曰八句。菩薩荘厳又云四句。皆此意也。於外典中。又有其例。謂以絶句四韻等作。雖為一首。称一句詩。是常事也。可准拠歟。便是等者。無三宝処利益。若闕欲明可有法身不遍上善不具之過意也。言上善者。諸大菩薩所得善法功徳等也。智光疏釈当章意云。然諸大菩薩。普於十方無量世界。若有三宝処。若無三宝処。受五種生随其所応救済有情令修仏法。此中且就無三宝処。菩薩受生示法令行。已上。五種生者。一除災生。二随類生。三大勢生。四増上生。五最勝生。同疏列之。具雖解釈依繁略之。若欲知者可見彼疏。-SYOZEN2-334,335/TAI7-399
  〇第四段の中に「上三句雖言」等というは、これ当段の利益の周備せることを述ぶ。その意は註に見えたり、更に述ぶるに能わず。然るになお、ほぼその意を解す。上の三句は有仏の国に於いて遍至の徳を挙ぐ。未だ無仏の世界の利益を顕わさず。今、この句に至りて仏法功徳の宝なき処の住持の行相を彰わす。この故に利物はここに於いて円満し、功徳はここに於いて具足すらくのみ。問う、三段の句数は、おのおの一四句偈ある故に十二句なり。何ぞ三句というや。初の標に准ぜば四種というべし。もし章段に依らば三章・三段等というべきか、如何。答う、『唯識論』に云わく「名は自性を詮し、句は差別を詮す」已上。差別の義に就きて句というに過なし。即ち下の釈の中に、国土の荘厳を十七句といい、如来の荘厳を称して八句といい、菩薩の荘厳をまた四句という。皆この意なり。外典の中に於いて、またその例あり。謂わく絶句四韻等の作を以て、一首たりといえども、一句の詩と称うる、これ常の事なり。准拠すべきか。「便是」等とは、無三宝処の利益、もし闕くれば法身不遍・上善不具の過あるべきことを明かさんと欲する意なり。「上善」というは、諸の大菩薩所得の善法功徳等なり。智光の疏に当章の意を釈して云わく「然も諸の大菩薩は普く十方無量世界の、もしは三宝ある処、もしは三宝なき処に於いて、五種の生を受けてその所応に随いて有情を救済し、仏法を修せしむ。この中に且く無三宝処に就きて、菩薩は生を受けて法を示して行ぜしむ」已上。五種の生とは、一には除災生、二には随類生、三には大勢生、四には増上生、五には最勝生なり。同じき疏に、これを列ぬ。具に解釈すといえども、繁に依りてこれを略す。もし知らんと欲せば、彼の疏を見るべし。-SYOZEN2-334,335/TAI7-399

 ◎已下是解義中第四重。名為浄入願心。浄入願心者。又向説観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏功徳成就・荘厳菩薩功徳成就。此三種成就願心荘厳。応知。応知者。応知此三種荘厳成就。由本四十八願等清浄願心之所荘厳。因浄故果浄。非無因他因有也。
  ◎(論註)已下はこれ解義の中の第四重なり。名づけて浄入願心とす。浄入願心とは、また、さきに観察荘厳仏土功徳成就と、荘厳仏功徳成就と、荘厳菩薩功徳成就とを説きつ。この三種の成就は願心荘厳せり。知るべしといえり。知るべしとは、この三種の荘厳成就は、もとの四十八願等の清浄願心の荘厳したまうところなるによって、因浄なるがゆえに果浄なり。因なくして他の因のあるにはあらざるなりということを知るべしとなり。SYO:SYOZEN2-111/-HON-289,290,HOU-401-

 〇浄入願心章中有二。一註中自言已下已来二十字者。結前生後。又牒章目。二又向説下是正釈也。此有五段。今是其初。SYOZEN2-335/TAI7-413
  〇浄入願心の章の中に二あり。一に註の中に「已下」というより已来二十字は、前を結して後を生じ、また章目を牒す。二に「又向説」の下はこれ正釈なり。これに五段あり。今はこれその初なり。SYOZEN2-335/TAI7-413

 〇此第一段正是浄入願心義也。当段之文第三巻本被引用之。仍於彼下解章目意。粗述大意。故今略之。因浄等者。是破外道所執妄計。言無因者。於五見中是指邪見。他因有者戒禁取也。SYOZEN2-335/TAI7-413
  〇この第一段は正しくこれ浄入願心の義なり。当段の文は第三巻の本にこれを引用せらる。仍て彼の下に於いて章目の意を解し、ほぼ大意を述ぶ。故に今はこれを略す。「因浄」等とは、これ外道所執の妄計を破す。「無因」というは、五見の中に於いて、これ邪見を指す。「他因有」とは戒禁取なり。SYOZEN2-335/TAI7-413

 ◎略説入一法句故。上国土荘厳十七句・如来荘厳八句・菩薩荘厳四句為広。入一法句者為略。何故示現広略相入。諸仏菩薩有二種法身。一者法性法身。二者方便法身。由法性法身生方便法身。由方便法身出法性法身。此二法身。異而不可分。一而不可同。是故広略相入統以法名。菩薩若不知広略相入。則不能自利利他。
  ◎(論註)略して入一法句を説くがゆえに。上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広とす。入一法句は略とす。何ゆえぞ広略相入を示現すとならば、諸仏菩薩に二種の法身あり。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身に由りて方便法身を生じ、方便法身に由りて法性法身を出だす。この二法身は、異にして、而も分かつべからず。一にして同ずべからず。このゆえに広略相入して、統〈かぬる・すぶる〉に法の名をもってす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他することあたわず。SYO:SYOZEN2-111,112/-HON-290,HOU-401-

 〇略説以下第二段也。入一等者。合以依正二十九句荘厳成就。皆悉摂入一法句中。一法句者。一法二字。所詮法体。句一字者能詮名字。以彼三種入一法句。以之為名。智光疏云。第四浄入願心即分二。一因果相成。二入一法句。已上。此釈之意以下三段摂当段歟。一者法性法身。二者方便法身等者。問。依何経論立二身乎。答。智度論云。一者法性生身仏。二随衆生優劣現化仏。為法性生身仏故。説乃至聞名得度。為衆生現身仏故。説雖共仏住。随業因縁有堕地獄者。法性生身仏者。無事不弁。無願不満。已上。智光疏云。龍猛説二種仏。一法性生身仏。二随衆生現身仏。即以本迹為二法身。由法性法身出方便法身。即以本垂迹。由方便法身出法性法身。即以迹顕本。此二法身異而不可分。一而不可同。已上。此疏之中。龍猛言者。指上論歟。問。云生云出有何別耶。答。言生者起。出者顕也。是故広略相入。乃至。不能自利利他者。法性法身是自利徳。方便法身利他徳也。SYOZEN2-335,336/TAI7-424
  〇「略説」以下は第二段なり。「入一」等とは、合して依正二十九句の荘厳成就を以て、皆悉く一法句の中に摂入す。一法句とは、一法の二字は所詮の法体なり。句の一字は能詮の名字なり。彼の三種を以て一法句に入る。これを以て名と為す。智光の疏に云わく「第四に浄入願心、即ち二を分かつ。一には因果相成、二には入一法句なり」已上。この釈の意は以下の三段を当段に摂するか。「一には法性法身、二には方便法身」等とは、問う、何れの経論に依りて二身を立つるや。答う、『智度論』に云わく「一には法性生身の仏、二には随衆生優劣現化の仏。法性生身の仏の為の故に、乃至、名を聞きて得度すと説く。衆生現身の仏の為の故に、仏と共に住すといえども、業因縁に随いて地獄に堕す者ありと説く。法性生身の仏とは、事として弁ぜざることなく、願として満ぜざることなし」已上。智光の疏に云わく「龍猛は二種の仏を説く。一には法性生身の仏、二には随衆生現身の仏なり。即ち本迹を以て二法身と為す。法性法身に由りて方便法身を出だす。即ち本を以て迹を垂る。方便法身に由りて法性法身を出だす。即ち迹を以て本を顕わす。この二法身は異にして分かつべからず。一にして同ずべからず」已上。この疏の中に「龍猛言」とは、上の論を指すか。問う、生といい、出という、何の別かあるや。答う、生というは起、出とは顕なり。「是故広略相入。乃至。不能自利利他」とは、法性法身はこれ自利の徳、方便法身は利他の徳なり。SYOZEN2-335,336/TAI7-424

 ◎一法句者。謂清浄句。清浄句者。謂真実智慧無為法身故。此三句展転相入。依何義名之為法。以清浄故。依何義名為清浄。以真実智慧無為法身故。真実智慧者実相智慧也。実相無相故真智無知也。無為法身者法性身也。法性寂滅故法身無相也。無相故能無不相。是故相好荘厳即法身也。無知故能無不知。是故一切種智即真実智慧也。以真実而目智慧。明智慧非作非非作也。以無為而樹法身。明法身非色非非色也。非于非者。豈非非之能是乎。蓋無非之曰是也。自是無待復非是也。非是非非。百非之所不喩。是故言清浄句。清浄句者。謂真実智慧無為法身也。
  ◎(論註)一法句とは、いわく清浄句なり。清浄句とは、いわく真実智慧無為法身なるがゆえに。この三句は展転して相入す。何の義に依りてか、これを名づけて法とする、清浄をもってのゆえに。何の義に依りてか、名づけて清浄とする、真実智慧無為法身をもっての故になり。真実智慧とは実相の智慧なり。実相は無相なるがゆえに、真智は無知なり。無為法身とは法性身なり。法性寂滅なるがゆえに、法身無相なり。無相のゆえによく相ならざることなし。このゆえに相好荘厳すなわち法身なり。無知のゆえによく知らざることなし。このゆえに一切種智すなわち真実の智慧なり。真実をもってして智慧に目〈なづ〉くることは、智慧は作にあらず非作にあらざることを明かすなり。無為をもって、而して法身を樹つることは、法身は色にあらず非色にあらざることを明かすなり。非にあらざれば、あに非のよく是なるにあらざらんや。けだし非なき、これを是と曰うなり。自ずから是にして、また是にあらざることを待つことなきなり。是にあらず、非にあらず、百非の喩えざるところなり。このゆえに清浄句と言えり。清浄句とは、いわく真実の智慧、無為法身なり。SYO:SYOZEN2-112/-HON-290,HOU-401,402-

 〇一法句下。是第三段。釈一法句。三句展転相入等者。問。真実智慧無為法身。是為一法為別法耶。答。依相宗意。是為別法。能証之智所証之理為各別故。依性宗意。是為一法。理智不二之極談故。今鸞師者。是性宗故。今釈所述。真実智慧即是無為法身義也。凡当段意。甚深義趣。愚鈍領解輙以難及。閑伺宗旨可加料簡。謂其大意。已云百非之所不喩。是故千是所不顕也。SYOZEN2-336/TAI7-444
  〇「一法句」の下は、これ第三段。一法句を釈す。「三句展転相入」等とは、問う、真実智慧・無為法身は、これ一法たりや、別法たりや。答う、相宗の意に依らば、これ別法と為す。能証の智、所証の理、各別たるが故に。性宗の意に依らば、これ一法たり。理智不二の極談なるが故に。今鸞師は、これ性宗なるが故に、今の釈に述ぶる所は、真実智慧即ちこれ無為法身の義なり。凡そ当段の意は甚深の義趣にして、愚鈍の領解は輙く以て及び難し。閑に宗旨を伺いて料簡を加うべし。その大意を謂うに、已に百非の喩えざる所という。この故に千是も顕わさざる所なり。SYOZEN2-336/TAI7-444

 ◎此清浄有二種。応知。上転入句中通一法入清浄。通清浄入法身。今将別清浄出二種故。故言応知。
  ◎(論註)この清浄に二種あり、まさに知るべしと。上、転入句の中に、一法の通じて清浄に入る。清浄に通じて法身に入る。今将に清浄を別ちて二種を出ださんとするが故に、故〈ことさら〉に、知るべしと言えり。SYO:SYOZEN2-112/-HON-291,HOU-402-

 〇此清已下。是第四段。上一法句。開為二種。其文可見。SYOZEN2-336/TAI7-457
  〇「此清」已下は、これ第四段なり。上の一法句を開して二種と為す。その文見るべし。SYOZEN2-336/TAI7-457

 ◎何等二種。一者器世間清浄。二者衆生世間清浄。器世間清浄者。如向説十七種荘厳仏土功徳成就。是名器世間清浄。衆生世間清浄者。如向説八種荘厳仏功徳成就。四種荘厳菩薩功徳成就。是名衆生世間清浄。如是一法句摂二種清浄義。応知。夫衆生為別報之体。国土為共報之用。体用不一。所以応知。然諸法心成無余境界。衆生及器復不得異不一。則義分不異同清浄。器者用也。謂彼浄土是彼清浄衆生之所受用故名為器。如浄食用不浄器。以器不浄故食亦不浄。不浄食用浄器。食不浄故器亦不浄。要二倶潔乃得称浄。是以一清浄名必摂二種。
  ◎(論註)何等か二種。一には器世間清浄、二には衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、さきに説くがごとき十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、さきに説くがごとき八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就となり。これを衆生世間清浄と名づく。かくのごとく一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべしとのたまえり。それ衆生は別報の体と為す。国土は共報の用とす。体用一ならず。このゆえに、知るべしという。しかるに諸法は心をもって無余の境界を成ず。衆生および器、また異にして一ならざることを得ず。すなわち義をもって分かちて異ならざれば、同じく清浄なり。器は用なり。謂わく、かの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆえに、名づけて器とす。浄食に不浄の器を用うれば、器不浄なるをもってのゆえに、食また不浄なり。不浄の食に浄器を用うれば、食不浄なるがゆえに、器また不浄なるがごとし。かならず二ともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。これをもって一の清浄の名に必ず二種を摂す。SYO:SYOZEN2-112,113/-HON-291,HOU-402,403-

 ◎問曰。言衆生清浄。則是仏与菩薩。彼諸人天得入此清浄数不。答曰。得名清浄非実清浄。譬如出家聖人以殺煩悩賊故名為比丘。凡夫出家者亦名比丘。又如潅頂王子初生之時具三十二相。即為七宝所属。雖未能為転輪王事亦名転輪王。以其必為転輪王故。彼諸人天亦復如是。皆入大乗正定之聚。畢竟当得清浄法身。以当得故得名清浄。
  ◎(論註)問うて曰わく、衆生清浄と言うは、すなわちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人天も、この清浄の数に入ることを得るや、いなや。答えて曰わく、清浄と名づくることを得れども、実の清浄にあらず。譬えば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもってのゆえに、名づけて比丘とす、凡夫の出家の者をまた比丘と名づくるがごとし。また潅頂の王子初生の時、三十二相を具して、すなわち七宝のために属せらる。未だ転輪王の事を為すことあたわずといえども、また転輪王と名づくるがごとし。それ必ず転輪王となるべきをもってのゆえに。かのもろもろの人天も、またかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じて当に清浄法身を得べし。当に得べきをもってのゆえに、清浄と名づくることを得るなりと。SYO:SYOZEN2-113/-HON-291,292,HOU-403-

 〇何等等者。是第五段。釈其開出二種之相。如是等者。当段之中。初開二種。今其二種還又摂入一法句也。衆生為別報之体者。別報正報唯自受用。他不受用故。別報者是不共也。国土為共法之用者。依報自他共受用故。言之共法。問。衆生云体器界云用。其意如何。答。依衆生報感所居土。以此義故。体是衆生。用器界也。問。就此別報共法之中有幾種耶。答。有四不同。言其四者。別報有二。一不共中不共。謂如眼等根。唯是自識依用。非他所受用故。全為不共。二不共中之共。如扶根四塵。他亦受用故。又如以手摩触。如此之事為之共法。共法又二。一共中之共。所謂山河大地等是。鬼畜人天同受用故。云共中共。二共中不共。所謂田宅舎宅衣服資具。如此之類。雖為共法。自身之外他不共也。言諸法心成無余境界者。華厳経云。三界唯一心。心外無別法。已上。又起信論多有此意。其論文等。所引第二新本并当巻鈔上也。問。器者用者。体用義歟。受用義歟。答。受用義也。問。上対衆生及以国土判其体用。准彼思此。可為体用之義者耶。答。上判体用不及異論。今釈不爾。下細釈云。清浄衆生之所受用。故名為器。已上。為受用義。尤分明也。問。所言受用。衆生与器何為能所。判属如何。答。器所受用。清浄衆生能受用也。問。見下譬喩。器是能受。人所受歟。謂食如人。器是国土。以国土人如次配当能所受者。叶道理耶。答。釈云衆生之所受用。人為能受。其理無諍。但今譬者非強分別能受所受。只顕人器共得称浄之義而已。SYOZEN2-336,337/TAI7-460,461
  〇「何等」等とは、これ第五段、その二種の相を開出することを釈す。「如是」等とは、当段の中に、初に二種を開し、今はその二種を還りて、また一法句に摂入するなり。「衆生は別報の体とす」とは、別報は正報、ただ自ら受用して、他は受用せざるが故に。別報とはこれ不共なり。「国土は共報の用と為す」とは、依報は自他共に受用するが故に、これを共法という。問う、衆生を体といい、器界を用という。その意、如何。答う、衆生の報に依りて所居の土を感ず。この義を以ての故に、体はこれ衆生、用は器界なり。問う、この別報・共法の中に就きて幾の種あるや。答う、四の不同あり。その四というは、別報に二あり、一には不共の中の不共、謂わく眼等の根の如き、唯これ自識依用して、他の受用する所にあらざるが故に、全く不共と為す。二には不共の中の共、扶根の四塵の如き、他また受用するが故に。また手を以て摩触するが如き、かくの如きの事はこれを共法と為す。共法にまた二、一には共の中の共、いわゆる山河大地等これなり。鬼畜・人天は同く受用するが故に、共の中の共という。二には共の中の不共、いわゆる田宅・舎宅・衣服・資具なり。かくの如きの類は、共法と為すといえども、自身の外、他は共にせざるなり。「諸法は心をして無余の境界を成ず」というは、『華厳経』に云わく「三界は唯一心なり。心の外に別法なし」已上。また『起信論』に多くこの意あり。その論文等は、第二の新本并びに当巻の鈔の上に引く所なり。問う、「器とは用なり」とは、体用の義か、受用の義か。答う、受用の義なり。問う、上に衆生および国土に対してその体用を判ず。彼に准じてこれを思うに、体用の義たるべきものや。答う、上に体用を判ずることは異論に及ばず。今の釈は爾らず。下の細釈に云わく「清浄衆生の受用する所なり。故に名づけて器と為す」已上。受用の義となすこと、尤も分明なり。問う、言う所の受用は、衆生と器と、何をか能所と為する、判属如何。答う、器は所受用、清浄衆生は能受用なり。問う、下の譬喩を見るに、器はこれ能受、人は所受か。謂わく、食は人の如し、器はこれ国土なり。国土と人とを以て次の如く能所受に配当せば、道理に叶うや。答う、釈に「衆生の受用する所」という。人を能受と為すること、その理に諍いなし。但し今の譬は強て能受・所受を分別するにあらず。ただ人・器共に浄と称することを得る義を顕わすらくのみ。SYOZEN2-336,337/TAI7-460,461

 ◎善巧摂化者。
  ◎(論註)善巧摂化とは、SYO:SYOZEN2-113/-HON-292,HOU-403-

 〇善巧摂化章中有二。初標章目。解章目者。言善巧者。是方便也。此義可見摩訶止観。言方便者如下註釈。言摂化者。摂摂受義。化化導也。是則摂化利益衆生。以巧方便回向善也。問。就言摂化可有能摂所摂乎。答。広略止観修行能摂。以此功徳施衆生者。所摂義也。SYOZEN2-337,338/TAI7-469
  〇善巧摂化の章の中に二あり。初に章目を標す。章目を解せば、「善巧」というは、これ方便なり。この義は『摩訶止観』を見るべし。「方便」というは、下の註釈の如し。「摂化」というは、摂は摂受の義、化は化導なり。これ則ち衆生を摂化利益するに、巧方便回向の善を以てするなり。問う、摂化というに就きて能摂・所摂あるべきか。答う、広略止観の修行は能摂、この功徳を以て衆生に施するは所摂の義なり。SYOZEN2-337,338/TAI7-469

 ◎如是菩薩。奢摩他毘婆舎那。広略修行。成就柔軟心。柔軟心者。謂広略止観相順修行。成不二心也。譬如以水取影。清静相資而成就也。
  ◎(論註)かくのごとき菩薩、奢摩他と毘婆舎那と、広略修行して、柔軟心を成就すと。柔軟心とは、謂わく広略の止観、相順し修行して、不二の心を成ず。譬えば水をもって影を取るに、清と静と相資けて成就するがごとしとなり。SYO:SYOZEN2-113/-HON-292,HOU-403-

 〇如来以下是正釈也。此有四段。第一段。明止観相順成柔軟心。柔軟心者見今註意。随順義也。智光疏云。柔軟心者。謂不二心。広略止観相順修行成不二心。已上。全同今釈。不二心者。止観二法不相離心。此乃相応其義即是柔軟心也。SYOZEN2-338/TAI7-473
  〇「如来」以下はこれ正釈なり。これに四段あり。第一段には、止観相順じて柔軟心を成ずることを明かす。「柔軟心」とは、今の註の意を見るに、随順の義なり。智光の疏に云わく「柔軟心とは、謂わく不二の心なり。広略止観相順修行して不二の心を成ず」已上。全く今の釈に同じ。「不二心」とは、止・観の二法は相離せざる心、これ乃ち相応、その義即ちこれ柔軟の心なり。SYOZEN2-338/TAI7-473

 ◎如実知広略諸法。如実知者。如実相而知也。広中二十九句。略中一句。莫非実相也。
  ◎(論註)実のごとく広略の諸法を知るとのたまえり。実の如く知るというは、実相のごとく而も知るなり。広の中の二十九句と、略の中の一句と、実相にあらざることなきなり。SYO:SYOZEN2-113/-HON-292,HOU-403-

 〇如実知下第二段也。是明広略皆実相也。SYOZEN2-338/TAI7-478
  〇「如実知」の下は第二段なり。これ広略みな実相なることを明かすなり。SYOZEN2-338/TAI7-478

 ◎如是成就巧方便回向。如是者。如前後広略皆実相也。以知実相故則知三界衆生虚妄相也。知衆生虚妄則生真実慈悲也。知真実法身則起真実帰依也。慈悲之与帰依巧方便在下。
  ◎(論註)かくのごとく巧方便回向を成就したまえりとのたまえり。かくのごとくというは、前後の広略、みな実相なるがごとし。実相を知るをもってのゆえに、すなわち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄を知れば、すなわち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、すなわち真実の帰依を起こすなり。慈悲と帰依と巧方便とは、下にありと。SYO:SYOZEN2-113/-HON-292,HOU-403,404-

 〇如是成下第三段也。当段正明成巧方便回向之意。言知衆生虚妄則生真実慈悲也者。是巧方便之慈悲心。即是下化衆生心也。次下釈云。知真実法身等者。上求菩提。言帰依者。即智慧也。慈悲乃至在下者。指下障菩提門之中智慧慈悲及方便也。SYOZEN2-338/TAI7-479
  〇「如是成」の下は第三段なり。当段に正しく巧方便回向を成ずる意を明かす。「衆生の虚妄を知れば、すなわち真実の慈悲を生ずるなり」というは、これ巧方便の慈悲心は、即ちこれ下化衆生の心なり。次下の釈に云わく「真実の法身を知る」等とは、上求菩提、「帰依」というは、即ち智慧なり。「慈悲 (乃至) 在下」とは、下の障菩提門の中の智慧慈悲及び方便を指すなり。SYOZEN2-338/TAI7-479

 ◎何者菩薩巧方便回向。菩薩巧方便回向者。謂説礼拝等五種修行。所集一切功徳善根。不求自身住持之楽。欲抜一切衆生苦故。作願摂取一切衆生。共同生彼安楽仏国。是名菩薩巧方便回向成就。案王舎城所説無量寿経。三輩生中雖行有優劣。莫不発皆無上菩提之心。此無上菩提心即是願作仏心。願作仏心即是度衆生心。度衆生心。即是摂取衆生生有仏国土心。是故願生彼安楽浄土者。要発無上菩提心也。若人不発無上菩提心。但聞彼国土受楽無間。為楽故願生。亦当不得往生也。是故言不求自身住持之楽。欲抜一切衆生苦故。住持楽者。謂彼安楽浄土。為阿弥陀如来本願力之所住持。受楽無間也。凡釈回向名義。謂以己所集一切功徳。施与一切衆生。共向仏道。巧方便者。謂菩薩願。以己智慧火焼一切衆生煩悩草木。若有一衆生不成仏。我不作仏。而衆生未尽成仏。菩薩已自成仏。譬如火[テン03](聴念反)欲[テン03](聴歴反)一切草木焼令使尽。草木未尽火[テン03]已尽。以後其身而身先故名方便。此中言方便者。謂作願摂取一切衆生共同生彼安楽仏国。彼仏国即是畢竟成仏道路。無上方便也。
  ◎(論註)何者か菩薩の巧方便回向なる。菩薩の巧方便回向とは、謂わく礼拝等の五種の修行を説く。所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず。一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆえに、一切衆生を摂取して、共に同じくかの安楽仏国に生ぜしめんと作願す。これを菩薩の巧方便回向成就と名づくとのたまえり。王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生の中に、行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生ぜんと願ずる者は、かならず無上菩提心を発すべし。もし人、無上菩提の心を発さずして、ただかの国土の受楽無間なるを聞きて、楽のためのゆえに生ぜんと願ずるは、また当に往生を得ざるべきなり。このゆえに、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆえにと言えり。住持楽とは、謂わく、かの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なきなり。おおよそ回向の名義を釈せば、謂わく己が所集の一切の功徳をもって、一切衆生に施与して、共に仏道に向かえしめたまえりと。巧方便とは、謂わく菩薩願ずらく、己が智慧の火をもって、一切衆生の煩悩の草木を焼かんとしたまえり。もし一衆生として成仏せざることあらば、我仏に作らじと。しかるに衆生未だことごとく成仏せざるに、菩薩すでに自ら成仏したまえることは、譬えば火[テン03](聴念の反)の、一切の草木を[テン03]〈摘〉(聴歴の反)〈つ・はさ〉んで、焼きて尽くさしめんと欲するに、草木未だ尽きざるに、火[テン03]すでに尽くるがごとし。その身を後にして、而して身を先にするをもってのゆえに、方便と名づく。この中に方便と言うは、謂わく作願して一切衆生を摂取して、共に同じくかの安楽仏国に生ぜしむるなり。かの仏国は、すなわちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。SYO:SYOZEN2-113,114/-HON-292,293,HOU-404,405-

 〇何者以下。当段重委明巧方便回向之義。案王舎城所説等者。始自此文至向仏道。第三巻本被引載之。是故於彼旧本鈔中。粗記此事。仍今略之。但所相残。聊可述之。問。五念門中所列回向。与今回向同異如何。答。其義是同。回向意楽不可替故。問。五念門者所回行体。今回向者能回心也。能所已異何云同耶。答。五念門中。前四門者是所回向。第五門者能回向也。能所合論名之五念。彼此回向其心同也。問。観経所説三心第三与今回向。同異如何。答。於此同異者重重有義。先第三心有其三重。於中初二不可同之。彼自利故。後一可同。彼約利他。今回向又約利他故。又縦雖為第三重心。更不可同。観経三心。定散諸機各別所発自力心也。今回向者。如来利他回向心也。若約此義。大以為異。但又約彼観経三心大経三信和会終成一心之時。此三信者如来発起他力大信也。約此義辺。又為同也。譬如等者。喩欲利他先得自利之令然也。[テン03]玉篇云。雉戟切。[テン03]投也。弁也。已上。広韻云。擲直炙切。投也。撥也。振也。摘説文上同。已上。摘玉篇云。多革切。拓果樹実。已上。広韻云。陟革切。手取也。又他歴切。已上。或本両所共用[テン03]字。或有上[テン03]下摘之本。[テン03]摘両字通用無咎。但於上[テン03]本書。多本記聴念反。皆以不審。如此反者。可在去声五十五六艶[テン01]韻。而於彼韻。更無此字。恐後人誤載此反歟。所勘載之字書之反。足為指南。後賢宜決此愚意也。SYOZEN2-338,339/TAI7-483,484
  〇「何者」以下は、当段に重ねて委しく巧方便回向の義を明かす。「案王舎城所説」等とは、始めこの文より「向仏道」に至るまでは、第三巻の本にこれを引き載せらる。この故に彼の旧本の鈔の中に於いて、ほぼこの事を記す。仍て今はこれを略す。但し相残る所は、聊かこれを述ぶべし。問う、五念門の中に列ぬる所の回向と、今の回向と、同異如何。答う、その義はこれ同じ。回向の意楽は替るべからざるが故に。問う、五念門は所回の行体、今の回向は能回の心なり。能所已に異なり、何ぞ同じというや。答う、五念門の中に前の四門は、これ所回向、第五門は能回向なり。能所合論して、これを五念と名づく。彼此の回向は、その心同じなり。問う、『観経』所説の三心の第三と、今の回向と、同異如何。答う、この同異に於いては重重に義あり。まず第三の心にその三重あり。中に於いて初の二はこれに同ずべからず。彼は自利なるが故に。後の一は同ずべし。彼は利他に約す。今の回向はまた利他に約するが故に。またたとい第三重の心たりといえども、更に同ずべからず。『観経』の三心は定散諸機各別にして発す所の自力の心なり。今の回向は如来利他の回向心なり。もしこの義に約せば、大いに以て異と為す。但しまた彼の『観経』の三心と、『大経』の三信と和会して終に一心と成るに約する時は、この三信は如来発起他力の大信なり。この義辺に約すれば、また同じと為すなり。「譬如」等とは、利他を欲すれば、まず自利を得るが然らしむるに喩うなり。[テン03]は『玉篇』に云わく「雉戟の切。[テン03]投なり、弁なり」已上。『広韻』に云わく「擲は直炙の切。投なり、撥なり、振なり」。摘は『説文』は上に同じ、已上。摘は『玉篇』に云わく「多革の切。果樹の実を拓〈ひろ〉うなり」已上。『広韻』に云わく「陟革の切。手取なり。また他歴の切」已上。或る本は両所共に[テン03]の字を用る。或いは上は[テン03]、下は摘なる本あり。[テン03]摘の両字は通用するに咎なし。但し上の[テン03]の本に於いて書す多くの本に「聴念反」を記す。皆以て不審。この反の如きは、去声の五十五六艶[テン01]の韻に在るべし。而るに彼の韻に於いて、更にこの字なし。恐らくは後の人、誤りてこの反を載するか。勘え載る所の字書の反、指南と為るに足れり。後賢、宜しくこの愚意を決すべきなり。SYOZEN2-338,339/TAI7-483,484

 ◎障菩提門者。
  ◎(論註)障菩提門とは、SYO:SYOZEN2-114/-HON-293,HOU-405-

 〇障菩提門章中有二。初標章目。問。於此章目其義難思。十重解義皆是修道。何立障碍菩提門耶。答。意云遠離障菩提門。是故初列十重名云離菩提障。今又下設総別解釈。皆云遠離。以前後釈顕其相違。今文略也。SYOZEN2-339/TAI7-498
  〇障菩提門の章の中に二あり。初に章目を標す。問う、この章目に於いて、その義思い難し。十重の解義は皆これ修道なり。何ぞ菩提門を障碍することを立つるや。答う、意は障菩提門を遠離すという。この故に初に十重を列ねて名づけて離菩提障という。今また下に総別の解釈を設くるに、みな遠離という。前後の釈を以てその相違を顕わす。今は文の略せるなり。SYOZEN2-339/TAI7-498

 ◎菩薩如是善知回向成就。即能遠離三種菩提門相違法。何等三種。一者依智慧門。不求自楽。遠離我心貪著自身故。知進守退曰智。知空無我曰慧。依智故不求自楽。依慧故遠離我心貪著自身。
  ◎(論註)菩薩、かくのごとく善く回向成就を知れば、すなわちよく三種菩提門相違の法を遠離するなり。何等か三種なる。一には智慧門に依りて自楽を求めず、我心、自身に貪着するを遠離せるがゆえにとのたまえり。進を知りて退を守るを智と曰う。空無我を知るを慧と曰う。智に依るがゆえに自楽を求めず、慧に依るがゆえに、我心、自身を貪着するを遠離せり。SYO:SYOZEN2-114/-HON-293,HOU-405-

 〇菩薩以下是正釈也。此有四段。初三段者明依三門離三障義。謂依智慧慈悲方便。如次遠離貪著自身。無安衆生。供養自身。後一段者是総結也。SYOZEN2-339/TAI7-500
  〇「菩薩」以下はこれ正釈なり。これに四段あり。初の三段は三門に依りて三障を離るる義を明かす。謂わく智慧・慈悲・方便に依りて、次の如く貪著自身・無安衆生・供敬〈供養〉自身を遠離す。後の一段は、これ総結なり。SYOZEN2-339/TAI7-500

 〇第一段中。知進等者。於俗諦法分別善悪。願進恐退守自身也。進進仏道。退退堕也。所言智者世俗智也。問。知空無我最可云智。如何。答。法門配当不必一准。各依一義。又約体一。其義不違。SYOZEN2-339/TAI7-500,501
  〇第一段の中に、「知進」等とは、俗諦の法に於いて善悪を分別して、進を願じ、退を恐れて、自身を守るなり。進は仏道に進む。退は退堕なり。言う所の智とは世俗智なり。問う、空無我を知るは最も智というべし、如何。答う、法門の配当は必ずしも一准ならず。おのおの一義に依る。また体に約すれば一なり。その義は違せず。SYOZEN2-339/TAI7-500,501

 ◎二者依慈悲門。抜一切衆生苦。遠離無安衆生心故。抜苦曰慈。与楽曰悲。依慈故抜一切衆生苦。依悲故遠離無安衆生心。
  ◎(論註)二には慈悲門に依りて、一切衆生の苦を抜きて、無安衆生心を遠離せるがゆえにとのたまえり。苦を抜くを慈と曰う。楽を与うるを悲と曰う。慈に依るがゆえに一切衆生の苦を抜き、悲に依るがゆえに無安衆生心を遠離せり。SYO:SYOZEN2-115/-HON-293,HOU-405-

 〇第二段中。抜苦等者。問。倶舎論云。慈悲無瞋性。乃至。此行相如次与楽及抜苦。已上。与今相違如何。答。毘曇義然。常依此説。涅槃経云。為諸衆生除無利養。是名大慈。故与衆生無量利楽。是名大悲。已上。此経所説。順今註釈。彼是異説不及和会。SYOZEN2-340,/TAI7-503
  〇第二段の中に、「抜苦」等とは、問う、『倶舎論』に云わく「慈悲は無瞋の性。(乃至) この行相は次の如く与楽と及び抜苦となり」已上。今と相違、如何。答う、毘曇の義は然なり。常にこの説に依る。『涅槃経』に云わく「諸の衆生の為に無利養を除く。これを大慈と名づく。故に衆生に無量の利楽を与う。これを大悲と名づく」已上。この経の所説は今の註釈に順ず。彼是の異説は和会するに及ばず。SYOZEN2-340,/TAI7-503

 ◎三者依方便門。隣愍一切衆生心。遠離供養恭敬自身心故。正直曰方。外己曰便。依正直故生憐愍一切衆生心。依外己故遠離供養恭敬自身心。
  ◎(論註)三には方便門に依りて、一切衆生を憐愍したもう心、自身を供養し恭敬する心を遠離せるがゆえにとのたまえり。正直を方と曰い、外己を便と曰う。正直に依るがゆえに、一切衆生を憐愍する心を生ず。外己に依るがゆえに自身を供養し恭敬する心を遠離せり。SYO:SYOZEN2-115/-HON-293,294,HOU-405-

 〇第三門中。言正直者。不見怨親尊卑之相。普於一切総起平等憐愍之想。言外己者。外者後也。己者自也。対言外己有内他義。内者前也。問。此門之中既云憐愍一切衆生。即慈悲歟。然者二三両門有何別耶。答。上門是約抜苦与楽。是則所作。今門只云憐愍衆生。是能作心以之為異。凡言三門差別義者。初依智慧不求自楽。次依慈悲抜苦与楽。後依方便憐愍一切。離自供敬。又以三門約其自利利他辺者。第一自利。第二利他。第三門者並約自他。言憐愍等是利他義。遠離等者是自利也。是私領解。先達未談定有誤歟。後賢宜定。SYOZEN2-340/TAI7-505
  〇第三門の中に、「正直」というは、怨親尊卑の相を見ず。普く一切に於いて総じて平等憐愍の想を起こす。「外己」というは、外とは後なり。己とは自なり。外己というに対して内他の義あり。内とは前なり。問う、この門の中に既に「一切衆生を憐愍す」という。即ち慈悲か。然らば二・三の両門は何の別かあるや。答う、上の門はこれ抜苦与楽に約す。これ則ち所作なり。今の門にはただ憐愍衆生という。これ能作の心、これを以て異と為す。凡そ三門差別の義をいわば、初は智慧に依りて自楽を求めず。次は慈悲に依りて抜苦与楽す。後は方便に依りて一切を憐愍して、自供敬を離る。また三門を以てその自利利他の辺に約さば、第一は自利、第二は利他、第三門は並べて自他に約す。「憐愍」等というは、これ利他の義、「遠離」等とは、これ自利なり。これ私の領解なり。先達は未だ談ぜず、定めて誤あるか。後賢宜く定むべし。SYOZEN2-340/TAI7-505

 ◎是名遠離三種菩提門相違法。
  ◎(論註)これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく。SYO:SYOZEN2-115/-HON-294,HOU-405-

 ◎順菩提門者。
  ◎(論註)順菩提門とは、SYO:SYOZEN2-115/-HON-294,HOU-405-

 〇順菩提門章中有二。初標章目。其章目意。翻次上門可得其意。所謂上門離菩提障。今門即顕順菩提意。上下相対其意可見。SYOZEN2-340/TAI7-508
  〇順菩提門の章の中に二あり。初に章目を標す。その章目の意は次上の門に翻じてその意を得べし。いわゆる上の門は離菩提障、今の門は即ち順菩提の意を顕わす。上下相対して、その意を見るべし。SYOZEN2-340/TAI7-508

 ◎菩薩遠離如是三種菩提門相違法。得三種随順菩提門法満足故。何等三種。一者無染清浄心。以不為自身求諸楽故。菩提是無染清浄処。若為身求楽。即違菩提。是故無染清浄心是順菩提門。二者安清浄心。以抜一切衆生苦故。菩提是安穏一切衆生清浄処。若不作心抜一切衆生離生死苦。即便違菩提。是故抜一切衆生苦是順菩提門。三者楽清浄心。以令一切衆生得大菩提故。以摂取衆生生彼国土故。菩提是畢竟常楽処。若不令一切衆生得畢竟常楽。則違菩提。此畢竟常楽依何而得。依大乗〈大義〉門。大乗〈大義〉門者。謂彼安楽仏国土是也。是故。又言以摂取衆生生彼国土故。是名三種随順菩提門法満足。応知。
  ◎(論註)菩薩、かくのごときの三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法満足することを得たまえるがゆえなり。何等か三種なる。一には無染清浄心。自身のために諸楽を求めざるをもってのゆえにと。菩提はこれ無染清浄の処なり。もし身のために楽を求めば、すなわち菩提に違しなん。このゆえに無染清浄心は、これ菩提門に順ずるなり。二には安清浄心。一切衆生の苦を抜くをもってのゆえにとのたまえり。菩提はこれ一切衆生を安穏ならしむる清浄の処なり。もし作心して一切衆生を抜きて生死の苦を離れしめずは、すなわち菩提に違しなん。このゆえに一切衆生の苦を抜くは、これ菩提門に順ずるなり。三には楽清浄心。一切衆生をして大菩提を得しむるをもってのゆえに、衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもってのゆえにとのたまえり。菩提はこれ畢竟常楽の処なり。もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめずは、すなわち菩提に違しなん。この畢竟常楽は何に依りてか得る、大乗門〈大義門〉に依るなり。大乗門〈大義門〉とは、謂わくかの安楽仏国土これなり。このゆえにまた、衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもってのゆえにと言えり。これを三種の随順菩提門の法満足と名づく、知るべし。SYO:SYOZEN2-115/-HON-294,HOU-405,406-

 〇次菩薩下是正釈也。此有四段。初三段者対初三段。後一段者対後一段。可得其意。SYOZEN2-340/TAI7-510
  〇次に「菩薩」の下は、これ正釈なり。これに四段あり。初の三段は初の三段に対し、後の一段は後の一段に対して、その意を得べし。SYOZEN2-340/TAI7-510

 ◎名義摂対者。
  ◎(論註)名義摂対とは、SYO:SYOZEN2-115/-HON-294,HOU-406-

 〇名義摂対章中有二。初標章目。釈章目者。名者指上所列智慧慈悲方便三種之名。義者即彼三種所具之義。又名能詮義所詮也。言摂対者。摂者。相摂対者相対。相対上下而相摂之。其摂対者。即論文曰以三種門摂取般若。般若摂取方便是也。SYOZEN2-340/TAI7-513
  〇名義摂対の章の中に二あり。初に章目を標す。章目を釈せば、「名」とは上に列する所の智慧・慈悲・方便の三種の名を指す。「義」とは、即ち彼の三種所具の義、また、名は能詮、義は所詮なり。「摂対」というは、「摂」とは相摂、「対」とは相対、上下を相対してこれを相摂す。その摂対とは、即ち論文に「三種の門を以て般若を摂取す。般若は方便を摂取す」という、これなり。SYOZEN2-340/TAI7-513

 ◎向説智慧・慈悲・方便三種門摂取般若。般若摂取方便。応知。般若者達如之慧名。方便者通権之智称。達如則心行寂滅。通権則備省衆機之智。備応而無知。寂滅之慧亦無知而備省。然則智慧・方便相縁而動。相縁而静。動不失静。智慧之功也。静不廃動。方便之力也。是故智慧・慈悲・方便摂取般若。般若摂取方便。応知者。謂応知智慧・方便是菩薩父母。若不依智慧・方便。菩薩法則不成就。何以故。若無智慧為衆生時。則堕顛倒。若無方便観法性時。則証実際。是故応知。
  ◎(論註)さきに、智慧・慈悲・方便の三種の門は、般若を摂取し、般若は方便を摂取すと説きつ。知るべしと。般若とは如に達するの慧の名なり。方便とは権に通ずるの智の称なり。如に達すれば、すなわち心行寂滅なり。権に通ずれば、すなわち備に衆機を省るの智なり。備に応じて無知なり。寂滅の慧は、また無知にして備に省る。しかればすなわち智慧と方便とあい縁じて動じ、あい縁じて静なり。動の静を失せざるは智慧の功なり。静、動を廃せざるは方便の力なり。このゆえに智慧と慈悲と方便とは般若を摂取し、般若は方便を摂取す。知るべしとは、謂わく智慧と方便とは、これ菩薩の父母なり。もし智慧と方便とに依らずは、菩薩の法則、成就せずということを知るべしと。何をもってのゆえに。もし智慧なくして衆生のためにする時は、すなわち顛倒に堕し、もし方便なくして法性を観ずる時は、すなわち実際を証す。このゆえに知るべしという。SYO:SYOZEN2-115,116/-HON-294,295,HOU-406,407-

 〇向説智慧慈悲等下是正釈也。此有三段。今其初也。言向説者。指上離菩提障章也。此中意明智恵等三摂取般若。般若摂取方便義也。般若等者達如慧等者。即是実智。言方便者。是権智也。問。言般若者三種外歟。答。三種内也。謂智慧中取其実智是則慧也。問。所言般若三種内者何論相摂。答。上約権智。是世俗智。即是能摂。下般若者是約実智。即真諦智。是所摂也。問。何所摂中不挙慈悲。答。摂方便也。達如等者已下註釈大意。此明権実二智互不相離。寂滅省機共不相妨。動静不失功力自然。仰衆機下之智之上。或本載有省機二字。文言義理共備宜歟。一一文義四論幽旨。不及輙解。有智之人不滞文歟。SYOZEN2-341/TAI7-517
  〇「向説智慧慈悲」等の下は、これ正釈なり。これに三段あり。今はその初なり。「向説」というは、上の離菩提障の章を指すなり。この中の意は智恵等の三は般若を摂取し、般若は方便を摂取する義を明かすなり。「般若等者達如慧」等とは、即ちこれ実智なり。「方便」というは、これ権智なり。問う、般若というは三種の外か。答う、三種の内なり。謂わく、智慧の中にその実智を取る、これ則ち慧なり。問う、言う所の般若は三種の内ならば、何ぞ相摂を論ぜん。答う、上は権智に約す。これ世俗智、即ちこれ能摂なり。下の般若はこれ実智に約す。即ち真諦智、これ所摂なり。問う、何ぞ所摂の中に慈悲を挙げざるや。答う、方便に摂するなり。「達如」等とは、已下註釈の大意は、これ権実二智は互に相離せず、寂滅省機は共に相妨げず、動静失せずして、功力自然なることを明かす。そもそも「衆機」の下、「之智」の上に、或る本に載せて「省機」の二字あり。文言義理、共に備わりて宜しきか。一一の文義、四論の幽旨、輙すく解するに及ばず。有智の人は文に滞らざらんか。SYOZEN2-341/TAI7-517

 ◎向説遠離我心貪著自身・遠離無安衆生心・遠離供養恭敬自身心。此三種法遠離障菩提心。応知。諸法各有障碍相。如風能障静。土能障水。湿能障火。五黒十悪障人天。四顛倒障声聞果。此中三種不遠離障菩提心。応知者。若欲得無障。当遠離此三種障碍也。
  ◎(論註)さきに遠離我心貪着自身、遠離無安衆生心、遠離供養恭敬自身心を説きつ。この三種の法は障菩提心を遠離するなりと、知るべしと。諸法におのおの障碍相あり。風はよく静を障う。土はよく水を障う。湿はよく火を障う。五黒十悪は人天を障う。四顛倒は声聞の果を障うるがごとし。この中の三種は、菩提を障うる心を遠離せず。知るべしとは、もし無障を得んと欲わば、当にこの三種の障碍を遠離すべしとなり。SYO:SYOZEN2-116/-HON-295,HOU-407-

 〇向説遠離我心以下。第二段也。言向説者。同指離菩提障章也。此中意明挙上遠離之心。此三種離菩提之障碍者也。明障碍中。五黒等者。黒是悪業即五悪也。是故或有言五悪本。言五悪者。不持五戒。言十悪者翻十善也。SYOZEN2-341/TAI7-525
  〇「向説遠離我心」以下は第二段なり。「向説」というは、同じく離菩提障の章を指すなり。この中の意は上の遠離の心を挙げて、この三種は菩提の障碍を離るるを明かす者なり。障碍を明かす中に、「五黒」等とは、黒はこれ悪業、即ち五悪なり。この故に或いは五悪という本あり。五悪というは、五戒を持たず。十悪というは、十善に翻するなり。SYOZEN2-341/TAI7-525

 ◎向説無染清浄心・安清浄心・楽清浄心。此三種心。略一処成就妙楽勝真心。応知。楽有三種。一者外楽。謂五識所生楽。二者内楽。謂初禅二禅三禅意識所生楽。三者法楽(五角反)楽(魯各反)。謂智慧所生楽。此智慧所生楽従愛仏功徳起。是遠離我心・遠離無安衆生心・遠離自供養心。是三種心清浄増進。略為妙楽勝真心。妙言其好。以此楽縁仏生故。勝言勝出三界中楽。真言不虚偽不顛倒。
  ◎(論註)さきに無染清浄心と安清浄心と楽清浄心とを説きつ。この三種の心は略して一処にして妙楽勝真心を成就したまえり、知るべしと。楽に三種あり。一には外楽、謂わく五識所生の楽なり。二には内楽、謂わく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三には法楽(五角の反)楽(魯各の反)〈ほう・がく・らく〉、謂わく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏功徳を愛するより起これり。この遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心と為る。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもってのゆえに。勝の言は三界の中の楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり。SYO:SYOZEN2-116/-HON-295,296,HOU-407-

 〇向説無染清浄以下。第三段也。言向説者。是指順菩提門之章。当段之意。挙彼門中三種之心。成一妙楽勝真心也。楽有等者。問。五識所生楽者。欲色界中何耶。答。今註釈意欲界楽也。問。楽分外内。其義如何。答。言外楽者。彼前五識相応之楽縁外境生。是故称云外門転也。言内楽者。此是意識所生楽故。不従外生。是故号曰内門転也。問。於欲界中。又有意識相応之楽。即是喜受。何不挙之。答。以外門転為外楽故。彼内門転不加之也。問。如此義者。下内楽中何不摂之。答。内楽約定。此以散故。非内摂也。問。是猶難思。有三楽中不尽楽過。須言四楽別立之歟。答。欲界意識相応楽者。約五受辺是喜受也。既是云喜不摂楽中。是有何過。問。如今所立。約五受者只第三定心悦名楽。余処皆喜。此義唯識倶舎等意。共以不違。今依何義。初二三禅総称楽耶。答。依五受辺誠如所難。若依三受不分身心。総云苦楽。今之註釈。依三受故総言之楽。敢無違耳。問。於此三楽。云何分別定散世間及出世間并漏与無漏等之義耶。答。約定散者。初一唯散。次二是定。但第三楽。又有通散。聞法歓喜。愛仏功徳之分別等是散故也。世出世者。初一世間。次一是通世間出世。外道所得是世間禅。聖者所得出世間也。後一出世。漏無漏者。初一有漏。彼前五識因位一向有漏故也。次一是通漏与無漏。所謂外道及凡夫等。是有漏也。聖者所得是無漏也。後一楽者。約所縁法一向無漏。約能縁機又通有漏。地前機等有漏故也。SYOZEN2-341,342/TAI7-528,529
  〇「向説無染清浄」以下は第三段なり。「向説」というは、これ順菩提門の章を指す。当段の意は彼の門の中の三種の心を挙げて、一妙楽勝真心を成ずるなり。「楽有」等とは、問う、五識所生の楽とは、欲色界の中には何ぞや。答う、今の註釈の意は欲界の楽なり。問う、楽に外内を分かつ、その義、如何。答う、「外楽」というは、彼の前の五識相応の楽は外境を縁じて生ず。この故に称して外門転というなり。「内楽」というは、これはこれ意識所生の楽なるが故に、外より生ぜず。この故に号して内門転というなり。問う、欲界の中に於いて、また意識相応の楽あり。即ちこれ喜受なり。何ぞこれを挙げざる。答う、外門転を以て外楽と為すが故に。彼の内門転をば、これを加えざるなり。問う、かの義の如くならば、下の内楽の中に何ぞこれを摂せざるや。答う、内楽は定に約す。これは散なるを以ての故に、内の摂にあらざるなり。問う、これなお思い難し。三楽の中に楽を尽くさざる過あり。須く四楽といいて別にこれを立つべきか。答う、欲界の意識相応の楽は、五受の辺に約すれば、これ喜受なり。既にこれ喜という、楽の中に摂せざる、これ何の過あらん。問う、今の所立の如きならば、五受に約せばただ第三定の心悦を楽と名づく。余処はみな喜なり。この義『唯識』『倶舎』等の意、共に以て違せず。今は何の義に依りてか、初・二・三禅を総じて楽と称するや。答う、五受の辺に依らば、誠に所難の如し。もし三受に依れば身心を分かたず、総じて苦楽という。今の註釈は三受に依るが故に総じてこれを楽という。敢て違することならくのみ。問う、この三楽に於いて、云何が定・散・世間と及び出世間并びに漏と無漏と等の義を分別するや。答う、定散に約せば、初の一はただ散、次の二はこれ定なり。但し第三の楽は、また散に通ずることあり。法を聞きて歓喜し、仏の功徳を愛するの分別等は、これ散なるが故なり。世・出世とは、初の一は世間、次の一はこれ世間・出世に通ず。外道の所得はこれ世間禅、聖者の所得は出世間なり。後の一は出世なり。漏・無漏とは、初の一は有漏、彼の前の五識は因位一向有漏なるが故なり。次の一はこれ漏と無漏とに通ず。いわゆる外道と及び凡夫等は、これ有漏なり。聖者の所得はこれ無漏なり。後の一の楽とは、所縁の法に約すれば一向無漏、能縁の機に約すれば、また有漏に通ず。地前の機等は有漏なるが故なり。SYOZEN2-341,342/TAI7-528,529

 ◎願事成就者。
  ◎(論註)願事成就とは、SYO:SYOZEN2-116/-HON-296,HOU-407-

 〇願事成就章中有二。初標章目。其章目者。願者乃是論文所列智慧心等四種之心。是菩提心。事者乃是五念門行。依此願行得生彼土。言之成就。此是自行成就相也。SYOZEN2-342/TAI7-533
  〇願事成就の章の中に二あり。初に章目を標す。その章目とは、「願」とは乃ちこれ論文に列する所の智慧心等の四種の心、これ菩提心なり。「事」とは乃ちこれ五念門の行。この願行に依りて彼の土に生ずることを得、これを成就という。これはこれ自行成就の相なり。SYOZEN2-342/TAI7-533

 ◎如是菩薩。智慧心・方便心・無障心・勝真心。能生清浄仏国土。応知。応知者。謂応知此四種清浄功徳能得生彼清浄仏国土。非是他縁而生也。
  ◎(論註)かくのごとく菩薩、智慧心と方便心と無障心と勝真心をもって、よく清浄仏国土に生じたまえり、知るべしとのたまえり。知るべしとは、謂わくこの四種の清浄の功徳、よくかの清浄仏国土に生ずることを得しむ。これ他の縁をもって而して生ずるにはあらずということを知るべしとなり。SYO:SYOZEN2-116,117/-HON-296,HOU-407-

 〇次如是下是正釈也。此有二段。今其初也。当段意明智等四心。生清浄土。智慧心者。障菩提門章中。所言権実二智。方便心者。同第三門正直外己之心是也。無障心者。即三遠離之心是也。勝真心者。是指名義摂対章中所言妙楽勝真心也。非是等者。是斥非因。若不決之。義当戒取。是明依彼弥陀願力往生浄土。非不由願而得生也。SYOZEN2-342,343/TAI7-536
  〇次に「如是」の下は、これ正釈なり。これに二段あり。今はその初なり。当段の意は智等の四心は、清浄の土に生ずることを明かす。「智慧心」とは、障菩提門の章の中に言う所の権実二智なり。「方便心」とは、同じき第三門の正直外己の心、これなり。「無障心」とは、即ち三の遠離の心、これなり。「勝真心」とは、これ名義摂対の章の中に言う所の妙楽勝真心を指すなり。「非是」等とは、これ非因を斥く。もしこれを決ずは、義は戒取に当る。これ彼の弥陀の願力に依りて浄土に往生す、願に由らずして生ずることを得るにあらずということを明かすなり。SYOZEN2-342,343/TAI7-536

 ◎是名菩薩摩訶薩随順五種法門。所作随意自在成就。如向所説。身業・口業・意業・智業・方便智業随順法門故。随意自在者。言此五種功徳力能生清浄仏土。出没自在也。身業者礼拝也。口業者讃嘆也。意業者作願也。智業者観察也。方便智業者回向也。言此五種業和合。則是随順往生浄土法門。自在業成就。
  ◎(論註)これを菩薩摩訶薩、五種の法門に随順して、所作、意に随いて自在に成就したまえりと名づく。さきの所説のごときの身業・口業・意業・智業・方便智業は、法門に随順せるがゆえにと。随意自在とは、言うこころは、この五種の功徳力をもって、よく清浄仏土に生ぜしめて、出没自在なるなり。身業とは礼拝なり。口業とは讃嘆なり。意業とは作願なり。智業とは観察なり。方便智業とは回向なり。この五種の業和合すれば、すなわちこれ往生浄土の法門に随順して、自在の業成就したまえりと言えり。SYO:SYOZEN2-117/-HON-296,HOU-407,408-

 〇次是名下明上四心随順五念法門而已。出没等者。此有二義。一云入出門也。是入四門而出一門。自利利他自在義也。二云得生之後入出随意化他之行任運自在。不必入出二門意也。身業等者。三業配当。其文易見。言智業者。観察常照。智慧力故。言之智業。方便智業回向也者。言方便者。是巧方便回向義故。如此釈也。SYOZEN2-343/TAI7-540,541
  〇次に「是名」の下は、上の四心は五念法門に随順することを明かすらくのみ。「出没」等とは、これに二義あり。一に云わく、入出の門なり。これ四門に入りて、而も一門に出づ。自利利他自在の義なり。二に云わく、得生の後、入出は意に随いて、化他の行は任運自在なるなり。必ずしも入出二門の意ならざるなり。「身業」等とは、三業の配当、その文見易し。「智業」というは、観察して常に照らす。智慧力なるが故に、これを智業という。「方便智業とは回向なり」とは、「方便」というは、これ巧方便回向の義なるが故に、かくの如く釈するなり。SYOZEN2-343/TAI7-540,541

 ◎利行満足者。
  ◎(論註)利行満足とは、SYO:SYOZEN2-117/-HON-296,HOU-408-

 〇利行満足章中有二。一標章目者。章目顕著義理灼然。所謂自利利他之行満足。速証仏果義也。一部玄旨。於此窮極。五門所期今円満也。SYOZEN2-343/TAI7-544
  〇利行満足の章の中に二あり。一に章目を標すとは、章目は顕著にして、義理は灼然なり。いわゆる自利利他の行満足して、速かに仏果を証する義なり。一部の玄旨はここに於いて窮極し、五門の所期は今円満するなり。SYOZEN2-343/TAI7-544

 ◎復有五種門。漸次成就五種功徳。応知。何者五門。一者近門。二者大会衆門。三者宅門。四者屋門。五者薗林遊戲地門。此五種示現入出次第相。入相中。初至浄土是近相。謂入大乗正定聚。近阿耨多羅三藐三菩提。入浄土已。便入如来大会衆数。入衆数已。当至修行安心之宅。入宅已。当至修行所居屋宇(尤挙反)修行成就已。当至教化地。教化地即是菩薩自娯楽地。是故出門称薗林遊戲地門。
  ◎(論註)また五種の門あり、漸次に五種の功徳を成就したまえりと、知るべしと。何ものか五門なる。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五には園林遊戯地門なり。この五種は、入出の次第の相を示現せしむ。入の相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。謂わく大乗正定の聚に入りぬれば、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。浄土に入り已れば、すなわち如来の大会衆の数に入るなり。衆の数に入り已りぬれば、当に修行安心の宅に至るべし。宅に入り已れば、当に修行所居の屋宇(尤挙の反)に至るべし。修行成就し已りぬれば、当に教化地に至るべし。教化地はすなわちこれ菩薩の自ら娯楽する地なり。このゆえに出門を園林遊戯地門と称すと。SYO:SYOZEN2-117/-HON-296,HOU-408-

 〇正釈之中分文為五。而於其中。一復有五下至称園林遊戯地門。総挙五門明其行相。二此五種下至出功徳。略標入出功徳之相。三自此入出至尽所引。(第五功徳相)明依礼等五念之因得彼近等五門之益。問。本書之文五科之内。後之二段其説如何。答。四菩薩入下至自利也。約入出門。分別自利利他二益。五菩薩如下至局分也。此明以依五念行故。二利成就終得阿耨菩提果也。問。於一章中有其所除。有何由乎。答。如此本文未必悉引。依要除取。強無別由。就中今文於第二巻引用之故。今被略歟。SYOZEN2-343/TAI7-547
  〇正釈の中に文を分かちて五と為す。而もその中に於いて、一に「復有五」の下、「称園林遊戯地門」に至るまでは、総じて五門を挙げてその行相を明かす。二に「此五種」の下、「出功徳」に至るまでは、略して入出功徳の相を標す。三に「此入出」より、所引(第五功徳相)を尽くすに至るまでは、礼等の五念の因に依りて彼の近等の五門の益を得ることを明かす。問う、本書の文、五科の内、後の二段、その説、如何。答う、四に「菩薩入」の下、「自利也」に至るまでは、入出の門に約して、自利利他の二益を分別す。五に「菩薩如」の下、「局分也」に至るまでは、これ五念の行に依るを以ての故に、二利成就して終に阿耨菩提の果を得ることを明かすなり。問う、一章の中に於いてその除く所あり。何の由かあるや。答う、かくの如く本文は未だ必ずしも悉く引かず。要に依りて除取す。強ちに別の由なし。中に就きて今の文は第二巻に於いてこれを引用するが故に、今、略せらるるか。SYOZEN2-343/TAI7-547

 〇問。初科之中云安心宅所居屋宇。宅屋之別如何。答。宅廣韻云。[トウ10]伯切。居也。説文託也。人所投託也。釈名宅択也。択吉処而営之也。屋玉篇云。於鹿切。舎也。又王屋山名。広韻云。烏谷切。舎也。具也。淮南子曰。舜築牆茨屋。風俗通曰。屋止也。以此字訓。粗加愚推。就其初後聊配当歟。所謂宅字言投云託。叶初至義。屋字云具。乃是具足。止即止住。案両字義。始終義也。問。以礼拝等如次。必為近等五門転入因歟。又其次第不可必然。只依五念得五門歟。答。此約浅深。一往判属。総於娑婆所修五念浄土生因。其生因者。偏是帰命無碍光故。一心念仏。仏本願力正生因也。生浄土後転入五門。又約堅義。如其次第。若約横義。此五門益。同時獲得。一念具足。自然証悟推而可知。SYOZEN2-343,345/TAI7-548
  〇問う、初科の中に「安心の宅」「所居の屋宇」という。宅・屋の別は如何。答う、宅は『廣韻』に云わく「[トウ10]伯の切。居なり」。『説文』に「託なり。人の投託する所なり」。『釈名』に「宅は択なり。吉処を択びて、これを営するなり」。屋は『玉篇』に云わく「於鹿の切。舎なり。又王屋は山の名」。『広韻』に云わく「烏谷の切。舎なり、具なり」。『淮南子』に曰わく「舜、牆を築きて屋を茨く」。『風俗通』に曰わく「屋は止なり」。この字訓を以て、ほぼ愚推を加うるに、その初後に就きて聊か配当するか。いわゆる宅の字をば投といい、託という。初て至る義に叶う。屋の字をば具という。乃ちこれ具足、止は即ち止住なり。両字の義を案ずるに、始終の義なり。問う、礼拝等を以て次の如く、必ず近等の五門転入の因と為るか。またその次第は必ずしも然るべからず。ただ五念に依りて五門を得るか。答う、これは浅深に約して一往判属す。総じて娑婆に於いて修する所の五念は浄土の生因なり。その生因とは、偏にこれ無碍光に帰命するが故に、一心に念仏するなり。仏の本願力は正しき生因なり。浄土に生じて後、五門に転入す。また堅の義に約せば、その次第の如し。もし横の義に約せば、これ五門の益は同時に獲得し、一念に具足す。自然の証悟、推して知るべし。SYOZEN2-343,345/TAI7-548

 ◎此五種門。初四種門成就入功徳。第五門成就出功徳。
  ◎(論註)この五種の門は、初の四種の門は入の功徳を成就したまえり。第五門は出の功徳を成就したまえりとのたまえり。SYO:SYOZEN2-,/-HON-296,297,HOU-408-

 〇第二配釈。SYOZEN2-344/TAI7-558
  〇第二は配釈。SYOZEN2-344/TAI7-558

 ◎此入出功徳何者是。
  ◎(論註)この入出の功徳は、何ものかこれなるや。SYO:SYOZEN2-117/-HON-296,HOU-408-

 ◎釈、言入第一門者。以礼拝阿弥陀仏為生彼国故。得生安楽世界。是名第一門。礼仏願生仏国。是初功徳相。
  ◎(論註)釈すらく、入第一門というは、阿弥陀仏を礼拝して、かの国に生まれんとするをもってのゆえに、安楽世界に生うまるることを得しむ。これを第一門と名づく。仏を礼して仏国に生ぜんと願ずるは、これ初の功徳の相なり。SYO:SYOZEN2-117/-HON-297,HOU-408-

 ◎入第二門者。以讃嘆阿弥陀仏。随順名義称如来名。依如来光明智相修行故。得入大会衆数。是名入第二門。依如来名義讃嘆。是第二功徳相。
  ◎(論註)入の第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆し、名義に随順して、如来の名を称せしめ、如来の光明智相に依りて修行するをもってのゆえに、大会衆の数に入ることを得しむ。これを入の第二門と名づくと。如来の名義に依りて讃嘆する、これ第二の功徳相なり。SYO:SYOZEN2-117,118/-HON-297,HOU-408,409-

 ◎入第三門者。以一心専念作願生彼。修奢摩他寂静三昧行故。得入蓮華蔵世界。是名入第三門。為修寂静止故一心願生彼国。是第三功徳相。
  ◎(論註)入の第三門とは、一心に専念し作願して、彼に生じて奢摩他寂静三昧の行を修するをもってのゆえに、蓮華蔵世界に入ることを得しむ。これを入の第三門と名づく。寂静止を修するがためのゆえに、一心にかの国に生ぜんと願ず、これ第三の功徳の相なり。SYO:SYOZEN2-118/-HON-297,HOU-409-

 〇第三段中。問。得入蓮華蔵世界者。是何土耶。答。指極楽也。秘蔵記云。華蔵極楽名異処一。取意。問。初近門中。或云初至浄土。或云得生安楽。是極楽也。次入大会衆門之後。今得入之蓮華蔵界。何同処乎。答。智光疏云。無量寿仏所居住処。准此世界。随義為名。已上。極楽華蔵雖是同処。約其浅深換其名歟。当巻中明真実証故。薄地底下初生凡夫。由仏願力即登地上。速進八地已上之位。皆得寂滅平等之法。此義真実甚深之故。約此義辺。故云得入蓮華蔵界。是則蓮華蔵世界者。盧舎那仏所居之処。報身土故。為顕真証。故標此名。但至于云近門宅門有其差者。不動極楽浄土之名。即復可有華蔵界号。如天台云。豈離伽耶別求常寂。非寂光外別有娑婆。已上。准彼解釈深可思之。SYOZEN2-344/TAI7-560,561-
  〇第三段の中に、問う、「得入蓮華蔵世界」とは、これ何の土なるや。答う、極楽を指すなり。『秘蔵記』に云わく「華蔵と極楽とは名は異にして処は一なり」取意。問う、初の近門の中に、或いは初て浄土に至るといい、或いは安楽に生ずることを得という。これ極楽なり。次に大会衆門に入りて後に、今、蓮華蔵界に入ることを得。何ぞ同処ならん。答う、智光の疏に云わく「無量寿仏所居の住処は、この世界に准ずるに、義に随いて名と為す」已上。極楽と華蔵と、これ同処なりといえども、その浅深に約してその名を換うるか。当巻の中に真実の証を明かすが故に。薄地底下初生の凡夫は仏願力に由りて即ち地上に登り、速かに八地已上の位に進みて、みな寂滅平等の法を得。この義は真実甚深なるが故に、この義辺に約す故に、蓮華蔵界に入ることを得という。これ則ち蓮華蔵世界とは、盧舎那仏所居の処、報身の土なるが故に、真証を顕わさんが為の故にこの名を標す。但し近門・宅門、その差ありというに至りては、極楽浄土の名を動ぜずして、即ちまた華蔵界の号あるべし。天台にいうが如し「あに伽耶を離れて別に常寂を求めんや。寂光の外に別に娑婆あるにあらず」已上。彼の解釈に准じて深くこれを思うべし。SYOZEN2-344/TAI7-560,561-

 ◎入第四門者。以専念観察彼妙荘厳。修毘婆舎那故。得到彼所受用種種法味楽。是名入第四門。種種法味楽者。毘婆舎那中。有観仏国土清浄味・摂受衆生大乗味・畢竟住持不虚作味・類事起行願取仏土味。有如是等無量荘厳仏道味故言種種。是第四功徳相。

 ◎(論註)入の第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむるをもってのゆえに、かの所に到ることを得て、種種の法味楽を受用せしむ。これを入の第四門と名づくと。種種の法味楽とは、毘婆舎那の中に、観仏国土清浄味・摂受衆生大乗味・畢竟住持不虚作味・類事起行願取仏土味あり。かくのごときらの無量の荘厳仏道の味あるがゆえに、種種と言えり。これ第四の功徳相なり。SYO:SYOZEN2-118/-HON-297,HOU-409-

 〇同第四段。類事起行願取仏土味者。此有二義。一約浄土解。浄仏国土成就衆生之起行等種類無量。於彼悉受其法味也。二約穢土解。是託事観。託事観者。華厳経云。菩薩在家当願。衆生捨離家難入空法中。孝養父母当願。衆生一切護養永得大安。乃至。若上楼閣当願。衆生昇仏法堂得微妙法。若在聚会当願。衆生究竟解脱到如来処。已上。往生要集又有此義。彼中巻云。問。凡夫行人逐物意移。何常得起念仏之心。答。彼若不能直爾念仏。応寄事事勧発其心。謂遊戯談咲時。願於極楽界宝池宝林中。与天人聖衆如是娯楽。若憂苦時願共衆生離苦生極楽。若対尊徳当願。生極楽如是奉世尊。若見卑賤当願。生極楽利楽孤独類。已上。私案両義。前義為親。論文既云得到彼処受用種種法味楽。文言無争為彼土益如上已述。五念是為此土修因。五門於彼所得果也。問。不可有許於彼修行五念義耶。答。可有於彼亦具修行五念義也。一切菩薩。自初発意至成仏果。皆悉莫非五念修行故也。-SYOZEN2-345/TAI7-561-
  〇同じき第四段。「類事起行願取仏土味」とは、これに二義あり。一には浄土に約して解す。浄仏国土成就衆生の起行等種類無量なり。彼に於いて悉くその法味を受くるなり。二には穢土に約して解う。これ託事観なり。託事観とは、『華厳経』に云わく「菩薩、家に在りては当に願ずべし、衆生は家難を捨離して空法の中に入らんと。父母に孝養しては、当に願ずべし、衆生一切護養して永く大安を得んと。(乃至)もし楼閣に上りては、当に願ずべし、衆生は仏法堂に昇りて微妙の法を得んと。もし聚会に在りては、当に願んずべし、衆生は究竟解脱して如来の処に到らんと」已上。『往生要集』にまたこの義あり。彼の中巻に云わく「問う、凡夫の行人は物を逐いて意移る。何ぞ常に念仏の心を起こすことを得んや。答う、彼はもし直爾に念仏すること能わずは、応に事事に寄せてその心を勧発すべし。謂わく遊戯・談咲の時には願ぜよ、極楽界の宝池宝林の中にして、天人聖衆とかくの如く娯楽せんと。もし憂苦の時は願ぜよ、衆生と共に苦を離れて極楽に生ぜんと。もし尊徳に対しては、当に願ずべし、極楽に生じて、かくの如く世尊に奉らんと。もし卑賤を見ては、当に願ずべし、極楽に生じて孤独の類を利楽せんと」已上。私に両義を案するに、前の義を親なりと為す。論文は既に「かの処に到ることを得て、種種の法味の楽を受用せしむ」という。文言は争いなく彼土の益たること、上に已に述ぶるが如し。五念はこれこの土の修因たり。五門は彼にして得る所の果なり。問う、彼に於いて五念を修行することを許す義あるべからざるや。答う、彼に於いてまた具に五念を修行する義あるべきなり。一切の菩薩は初発意より、仏果を成ずるに至るまで、皆悉く五念の修行にあらざることなきが故なり。-SYOZEN2-345/TAI7-561-

 ◎出第五門者。以大慈悲観察一切苦悩衆生。示応化身回入生死薗煩悩林中。遊戲神通至教化地。以本願力回向故。是名出第五門。示応化身者。如法華経普門示現之類也。遊戲有二義。一者自在義。菩薩度衆生。譬如師子搏鹿所為不難如似遊戲。二者度無所度義。菩薩観衆生。畢竟無所有。雖度無量衆生。実無一衆生得滅度者。示度衆生如似遊戲。言本願力者。示大菩薩於法身中。常在三昧而現種種身・種種神通・種種説法。皆以本願力起。譬如阿修羅琴雖無鼓者。而音曲自然。是名教化地第五功徳相。已上抄出。
  ◎(論註)出の第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出の第五門と名づくと。応化の身を示すとは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。遊戯に二の義あり。一には自在の義。菩薩、衆生を度すること、譬えば師子の鹿を摶つに所為難からざるがごときは、遊戯するがごとし。二には度無所度の義なり。菩薩、衆生を観ずるに畢竟じて有る所なし。無量の衆生を度すといえども、実に一衆生として滅度を得る者なし。衆生を度さんと示すこと、遊戯するがごとし。本願力と言うは、大菩薩、法身の中において、常に三昧にましまして、而して種種の身、種種の神通、種種の説法を現ずることを示すこと、みな本願力より起これるをもってなり。譬えば阿修羅の琴の鼓する者なしといえども、音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づくと。已上抄出。SYO:SYOZEN2-118/-HON-297,298,HOU-409

 〇同第五段。如法華者。是指観音随類示現応機化度之利生也。是則現身挙三十三。為説法者標十九種。此菩薩者極楽上首蓮華部尊。利益広大慈悲超倫。是故出之為応化身之本拠耳。師子等者。師子猛獣鹿者小獣。搏之最易。故譬菩薩済度衆生得其自在神通力也。搏玉篇云。補洛切。手撃也。広韻同之。譬如阿修等者。彼琴自然発音之徳。同天宝幢准彼宜知。観経云。又有楽器懸処虚空。如天宝幢。不鼓自鳴。已上。疏定善義釈此文云。楼外荘厳宝楽飛空声流法響。昼夜六時如天宝幢。無思成自事也。已上。立五趣時。修羅之中勝者摂天。劣者摂鬼。故可准知。-SYOZEN2-345,346/TAI7-561,562
  〇同じき第五段。「如法華」とは、これ観音随類示現応機化度の利生を指すなり。これ則ち身を現ずることは三十三を挙げ、為に法を説くことは十九種を標す。この菩薩は極楽の上首、蓮華部の尊、利益広大にして、慈悲は倫に超えたり。この故にこれを出だして、応化身の本拠と為らくのみ。「師子」等とは、師子は猛獣、鹿は小獣。これを搏つこと最も易し。故に菩薩は衆生を済度するにその自在神通力を得るに譬うるなり。搏は『玉篇』に云わく「補洛の切。手に撃つなり」。『広韻』はこれに同じ。「譬如阿修」等とは、彼の琴の自然に音を発する徳は、天の宝幢に同じ、彼に准じて宜く知るべし。『観経』に云わく「また楽器の虚空に懸処するあり。天の宝幢の如し。鼓せざるに自ずから鳴る」已上。『疏』の『定善義』にこの文を釈して云わく「楼外の荘厳、宝楽、空に飛びて、声、法響を流す。昼夜六時に天の宝幢のごとし、思なくして自事を成す」已上。五趣と立つる時は、修羅の中に勝るる者を天に摂し、劣なる者を鬼に摂す。故に准知すべし。-SYOZEN2-345,346/TAI7-561,562

 ◎爾者大聖真言。誠知。証大涅槃藉願力回向。還相利益顕利他正意。是以論主宣布広大無碍一心。普遍開化雑染堪忍群萌。宗師顕示大悲往還回向。慇懃弘宣他利利他深義。仰可奉持。特可頂戴矣
  ◎(御自釈)しかれば大聖の真言、誠に知りぬ。大涅槃を証することは、願力の回向に藉りてなり。還相の利益は、利他の正意を顕すなり。ここをもって論主は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萠を開化し、宗師は大悲往還の回向を顕示して、慇懃に他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎて奉持すべし、特に頂戴すべしと。SYO:J:SYOZEN2-118,119/HON-298,HOU-410

 〇爾者已下。私御釈也。是為総結。其意可見。SYOZEN2-346/TAI7-582
  〇「爾者」已下は私の御釈なり。これを総結と為す。その意見つべし。SYOZEN2-346/TAI7-582

 ◎顕浄土真実証文類 四

 〇教行信証 六要鈔 会本第六