『六要鈔会本』
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参考のため、下記のように符号を付けました。
◎は『教行信証』の文。〇は『六要鈔』の文。
SYOZEN2-2,3は真宗聖教全書 第2巻 2〜3頁の意。
TAI1-48は仏教大系教行信証 第1巻 48頁の意。
HON-149は東本願寺刊『真宗聖典』149頁の意。
HOU-265は柏原祐義編『真宗聖典』265頁の意。
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『教行信証六要鈔会本』第四巻 信巻
○教行信証六要鈔会本第四 信
◎顕浄土真実信文類序
◎愚禿釈親鸞述。SYOZEN2-47/HON-210,HOU-319
〇当巻大門第三明信。於中分五。一序題目。二者別序。三正題目。四者標挙。五者正釈。SYOZEN2-274/TAI5-1
〇当巻大門第三に信を明かす。中に於いて五を分かつ。一には序の題目、二には別序、三には正題目、四には標挙、五には正釈なり。SYOZEN2-274/TAI5-1
〇初序題目。分二如前。SYOZEN2-274/TAI5-7
〇初に序の題目、二を分かつこと前の如し。SYOZEN2-274/TAI5-7
○二別序者。対第一巻最初総序。号之別序。是安心巻為要須故。有此別序。問。用二序時常安前後。仍以安後謂之後序。或以前後称之序跋。非其後序。中間用之有其例耶。答。若依天台。於法華経本迹二門各有其序。是其証也。就此序中分文為四。SYOZEN2-274/TAI5-14
○二に別序とは、第一巻の最初の総序に対して、これを別序と号す。これ安心の巻、要須たるが故にこの別序あり。問う。二序を用うる時は常に前後に安ず。仍て後に安ずるを以て、これを後序と謂う。或いは前後なるを以て、これ序・跋と称す。その後序にあらず。中間にこれを用う、その例あるや。答う。もし天台に依らば、『法華経』の本迹二門に於いて、おのおのその序あり。これその証なり。この序の中に就きて文を分かちて四と為す。SYOZEN2-274/TAI5-14
◎夫以。獲得信楽。発起自如来選択願心。開闡真心。顕彰従大聖矜哀善巧。
◎〈別序〉それ以みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。BETUJO:SYOZEN2-47/HON-210,HOU-319
〇一自文之初至哀善巧。是顕他力信心行相。上云如来。是約弥陀。下云大聖。是約釈迦。SYOZEN2-274/TAI5-14
〇一に文の初より「哀善巧」に至るまでは、これ他力信心の行相を顕わす。上には「如来」という。これ弥陀に約す。下に「大聖」という。これ釈迦に約す。SYOZEN2-274/TAI5-14
◎然末代道俗・近世宗師。沈自性唯心貶浄土真証。迷定散自心昏金剛真信。
◎〈別序〉しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す〈貶=おとしむ〉、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。BETUJO:SYOZEN2-47/HON-210,HOU-319
〇二然末代下。是明他師拘其本宗自力執情。不顕本願真実源底。此非実誤。時機未熟。皆待後賢述其実義耳。例如天台浄影等師。皆是大権各雖明哲。暫隠経旨潜譲弥陀如来応化善導大師楷定述記。SYOZEN2-274/TAI5-35
〇二に「しかるに末代」の下は、これ他師はその本宗自力の執情に拘わって本願真実の源底を顕わさざることを明かす。これ実の誤にあらず。また時機熟さざれば、みな後賢のその実義を述べんことを待つらくのみ。例せば天台・浄影等の師は皆これ大権、おのおの明哲なりといえども、暫く経旨を隠して、潜かに弥陀如来の応化、善導大師の楷定の述記に譲るが如し。SYOZEN2-274/TAI5-35
◎爰愚禿釈親鸞。信順諸仏如来真説。披閲論家釈家宗義。広蒙三経光沢。特開一心華文。且至疑問遂出明証。誠念仏恩深重。不恥人倫哢言。
◎〈別序〉ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く。しばらく疑問を至してついに明証を出だす。誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。BETUJO:SYOZEN2-47/HON-210,HOU-319,320
〇三爰愚禿下。顕自所解宛得経論釈義深旨。兼顧謗難述自謙言。SYOZEN2-274/TAI5-47
〇三に「ここに愚禿」の下は、自らの所解は宛も経論釈義の深旨を得て、兼て謗難を顧みて、自謙の言を述ぶることを顕わす。SYOZEN2-274/TAI5-47
◎忻浄邦徒衆・厭穢域庶類。雖加取捨莫生毀謗矣。
◎〈別序〉浄邦を欣う徒衆、穢域を厭う庶類、取捨を加うといえども、毀謗を生ずることなかれ。BETUJO:SYOZEN2-47/HON-210,HOU-319,320
〇四忻浄邦下総結文也。SYOZEN2-274/TAI5-59
〇四に「浄邦を忻う」の下は総結の文なり。SYOZEN2-274/TAI5-59
◎顕浄土真実信文類三 本 SIN:SYOZEN2-48/HON-211,HOU-320
◎愚禿釈親鸞集 SIN:SYOZEN2-48/HON-211,HOU-320
〇三正題目者。分二又同。対序題目云正題目。行信鈎鎖。二三成次。SYOZEN2-274/TAI5-61
〇三に正題目とは、二に分かつこと、また同じ。序の題目に対して正題目という。行信鈎鎖して、二三、次を成ず。SYOZEN2-274/TAI5-61
◎至心信楽之願 正定聚之機 SIN:SYOZEN2-48/HON-211,HOU-320
〇四言標挙者。題後一行。第十八願至心信楽之願是也。註言正定聚之機者。是明至心信楽行人。即蒙摂取不捨益故。現与生死分流義也。SYOZEN2-274/TAI5-63
〇四に標挙というは、題後の一行、第十八の願、至心信楽の願これなり。註に「正定聚之機」というは、これ至心信楽の行人は、即ち摂取不捨の益を蒙むるが故に。現に生死と流を分かつ義を明かすなり。SYOZEN2-274/TAI5-63
◎謹按往相回向有大信。SIN:SYOZEN2-48/HON-210,HOU-320
◎(御自釈)謹んで往相の回向を案ずるに、大信有り。SIN:J:HON-211,HOU-320
〇五正釈中又分為二。自文初下至重愛也。先標信相兼挙願名。二至心信下正引諸文。於初文中謹按等者。第二巻初。双標行信其中明行。是故当巻不及標二。直明信也。SYOZEN2-275/TAI5-70
〇五に正釈の中にまた分かちて二となす。文の初より下、「重愛也」に至るまでは、先ず信相を標し、兼ねて願名を挙ぐ。二に「至心信」の下は正しく諸文を引く。SYOZEN2-275/TAI5-70
〇於初文中謹按等者。第二巻初。双標行信其中明行。是故当巻不及標二。直明信也。SYOZEN2-275/TAI5-70
〇初の文の中に於いて「謹按」等とは、第二巻の初に双べて行信を標して、その中に行を明かす。この故に当巻には二を標するに及ばず、直ちに信を明かすなり。SYOZEN2-275/TAI5-70
◎大信心者。則是長生不死之神方。忻浄厭穢之妙術。選択回向之直心。利他深広之信楽。金剛不壊之真心。易往無人之浄信。心光摂護之一心。希有最勝之大信。世間難信之捷径。証大涅槃之真因。極速円融之白道。真如一実之信海也。
◎(御自釈)大信心とはすなわちこれ、長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。SIN:J:SYOZEN2-48/HON-211,HOU-320
◎斯心即是出於念仏往生之願。斯大願名選択本願。亦名本願三心之願。復名至心信楽之願。亦可名往相信心之願也。
◎(御自釈)この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。SIN:J:SYOZEN2-48/HON-211,HOU-320,321
◎然常没凡愚・流転群生。無上妙果不難成。真実信楽実難獲。何以故。乃由如来加威力故。博因大悲広慧力故。
◎(御自釈)しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。何をもってのゆえに。いまし如来の加威力に由るがゆえなり。博く大悲広恵の力に因るがゆえなり。SIN:J:SYOZEN2-48/HON-211,HOU-321
◎遇獲浄信者。是心不顛倒。是心不虚偽。是以極悪深重衆生。得大慶喜心。獲諸聖尊重愛也。
◎(御自釈)たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもって極悪深重の衆生、大慶喜心を得れば、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。SIN:J:SYOZEN2-48/HON-212,HOU-321
〇嘆此信心有十二句。其文可見。云不顛倒云不虚偽。借論註言。SYOZEN2-275/TAI5-121
〇この信心を嘆ずるに十二句あり。その文、見つべし。「顛倒せず」と云い、「虚偽ならず」と云う。『論註』の言を借るなり。SYOZEN2-275/TAI5-121
◎至心信楽本願文。大経言。設我得仏。十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念。若不生者不取正覚。唯除五逆誹謗正法。已上。
◎至心信楽の本願の文、『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生ぜざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とをば除くと。已上。SIN:SYOZEN2-48,49/HON-212,HOU-321
◎無量寿如来会言。若我証得無上覚時。余仏刹中諸有情類聞我名。己所有善根心心回向。願生我国乃至十念。若不生者不取菩提。唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人。已上。
◎『無量寿如来会』に言わく、もし我、無上覚を証得せん時、余仏の刹の中のもろもろの有情の類、我が名を聞き已りて、所有の善根心、心に回向せしむ。我が国に生まれんと願じて、乃至十念せん。もし生まれずは菩提を取らじと。ただ無間の悪業を造ると、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんを除くと。已上。SIN:SYOZEN2-49/HON-212,HOU-321,322
◎本願成就文。経言。諸有衆生聞其名号。信心歓喜乃至一念。至心回向。願生彼国即得往生。住不退転。唯除五逆誹謗正法。已上。
◎(大経)本願成就の文、経に言わく、あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向しめたまえり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生することを得て不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とを除くと。已上。SIN:SYOZEN2-49/HON-212,HOU-322
◎無量寿如来会言。他方仏国所有衆生〈有情〉。聞無量寿如来名号。能発一念浄信歓喜。愛楽所有善根回向願生無量寿国者。随願皆生。得不退転乃至無上正等菩提。除五無間誹謗正法及謗聖者。已上。
◎『無量寿如来会』に言わく、他方の仏国の所有の衆生〈有情〉、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念浄信を発して、所有の善根回向したまえるを歓喜愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随いてみな生じ、不退転、乃至、無上正等菩提を得んと。五無間、誹謗正法および謗聖者を除くと。已上。SIN:SYOZEN2-49/HON-212,HOU-322
〇二引文中。因願成就。大経宝積各以引之。其義可見。SYOZEN2-275/TAI5-165
〇二に引文の中に、因願と成就と『大経』と『宝積』と、おのおの以てこれを引く。その義、見つべし。SYOZEN2-275/TAI5-165
◎又言。聞法能不忘。見敬得大慶。則我善親友。是故当発意。已上。
◎(大経)また言わく、法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親友なり。このゆえに当に意を発すべしと。已上。SIN:SYOZEN2-49/HON-212,213,HOU-322
〇又言聞法能不等者。大経下巻三十偈文。是嘆聞法不忘之徳。問。次上文者如来会説。今文大経。両経各別。何云又耶。又下二文如来会文。何対大経亦云又耶。前後錯乱難思。如何。答。誠以難思。此書大概類聚之後。上人不幾帰寂之間。不及再治。少少非無如此事等。且又雖有翻訳之異。梵本同故。依其義辺強無苦歟。聞法不忘則我善親友称誉之義。浄影憬興共約彼土。義寂約此。殿最難知。但次所引異訳経文。或云当獲重愛聖尊。或云常令諸仏生喜。文勢義趣約比土義尤得其理。宜依寂意。問。諸師異解欲聞其釈。答。浄影師云。聞不忘者弥陀仏所聞法不忘。言見敬者。見弥陀仏心生敬重。得大慶者。明前聞法見仏恭敬得善利。乃至。行順釈迦。名我善友。已上。憬興師云。即不忘弥陀所説。亦見彼仏心生敬重。以為大喜。行順釈迦釈迦所摂故云善友。已上。義寂師云。聞法能不忘者。聞而能思故不忘也。見敬得大慶者。於思択時。見其深趣而敬重。得其滋味而大慶。若能如此。則与仏同志。故云即我善親友也。已上。次下両文大同大経。SYOZEN2-275/TAI5-176
〇「又言聞法能不」等とは、『大経』の下巻三十偈の文。これ聞法不忘の徳を嘆ず。問う。次上の文は『如来会』の説、今の文は『大経』なり。両経おのおの別なり。何ぞ「又」と云うや。また下の二文は『如来会』の文なり。何ぞ『大経』に対して、また「又」と云うや。前後錯乱、思い難し、如何。答う。誠に以て思い難し。この書は大概類聚の後に、上人は幾くならずして帰寂の間、再治に及ばず。少少かくの如き事等なきにあらず。且つはまた翻訳の異ありといえども、梵本は同じきが故に、その義辺に依るに強ちに苦なきか。「法を聞きてよく忘れず」「すなわち我が善き親友なり」は称誉の義なり。浄影・憬興共に彼の土に約す。義寂は此に約す。殿最知りがたし。但し次の所引は異訳の経文に、或いは「まさに聖尊に重愛せらるることを獲べし」と云い、或いは「常令諸仏生喜〈常に諸仏を念じて喜を生ぜん〉」と云う。文勢義趣は比土に約する義、尤もその理を得たり。宜しく寂の意に依るべし。問う。諸師の異解、その釈を聞かんと欲う。答う。浄影師の云わく「聞不忘とは、弥陀仏所にして法を聞きて忘れず。見敬というは、弥陀仏を見て心に敬重を生ず。得大慶とは、前に法を聞き仏を見て恭敬して善利を得ることを明かすなり。乃至。行、釈迦に順ずるを我善友と名づく」已上。憬興師の云わく「即ち弥陀の所説を忘れず。また彼の仏を見て心に敬重を生じて、以て大喜を為す。行は釈迦に順じて、釈迦に摂せらるるが故に善友と云う」已上。義寂師の云わく「聞法能不忘とは、聞きて能く思う、故に不忘なり。見敬得大慶とは、思択の時に於いて、その深趣を見て而も敬重し、その滋味を得て而も大いに慶ぶ。もし能くかくの如くすれば、則ち仏と志を同じくす、故に即我善親友と云うなり」已上。次下の両文は大いに『大経』に同じ。SYOZEN2-275/TAI5-176
◎又言。聞法能不忘。見敬得大慶。則我善親友。是故当発意。已上。
◎(如来会)また言わく、かくのごときらの類は、大威徳の者〈ひと〉なり。よく広大仏法異門に生ぜんと。已上。SIN:SYOZEN2-49/HON-213,HOU-322
◎又言。如来功徳。仏自知。唯有世尊能開示。天龍夜叉所不及。二乗自絶於名言。若諸有情当作仏。行超普賢。登彼岸敷演一仏之功徳時。逾多劫不思議。於是中間身滅度。仏之勝慧莫能量。是故具足於信聞及諸善友之摂受。得聞如是深妙法。当獲重愛諸聖尊。如来勝智遍虚空所説義言。唯仏悟。是故博聞諸智土。応信我教如実言。人趣之身得甚難。如来出世遇亦難。信慧多時方乃獲。是故修者応精進。如是妙法已聴聞。常令諸仏而生喜。抄出。
◎(如来会)また言わく、如来の功徳は仏のみ自ら知ろしめせり。ただ世尊ましましてよく開示したまう。天・龍・夜叉の及ばざるところなり。二乗自ずから名言を絶つ。もしもろもろの有情まさに作仏しては、行、普賢に超え、彼岸に登る。一仏の功徳を敷演せん時、多劫の不思議を逾〈こ〉えん。この中間において身は滅度すとも、仏の勝慧はよく量ることなけん。このゆえに信聞およびもろもろの善友の摂受を具足して、かくのごときの深妙の法を聞くことを得ば、当にもろもろの聖尊に重愛せらるることを獲べし。如来の勝智は虚空に遍し。所説の義言はただ仏のみ悟りたまえり。このゆえに博く諸智土を聞きて、我が教如実の言を信ずべし。人趣の身得ることははなはだ難し、如来の出世遇うことまた難し、信慧多き時まさにいまし獲ん。このゆえに修せん者、精進すべし。かくのごときの妙法すでに聴聞せば、常に諸仏をして喜びを生ぜしめたてまつるなり。抄出。SIN:SYOZEN2-49,50/HON-213,HOU-322,323
◎論註曰。称彼如来名。如彼如来光明智相。如彼名義。欲如実修行相応故。称彼如来名者。謂称無碍光如来名也。
◎『論の註』に曰わく、かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲うがゆえにといえり。称彼如来名とわば、いわく無碍光如来の名を称するなり。SIN:SYOZEN2-50/HON-213,HOU-323
〇次論註文。五念門中讃嘆門釈。今所引中。初自称彼至相応故二十五字。是本論文。称彼如来名者以下。論文分三牒釈之耳。就第一句問。称彼等者所言之称。称念義歟。称揚義歟。答。総而言之。可通二義。別而論之。称念為本。問。今論所立五念門中。不立名号称念一門。即以観察為論正意。随見註文。釈讃嘆云。讃者。讃揚也。嘆者。歌嘆也。須約称揚。何通二義。況以称念為論正意。其理如何。答。豈不前云。総通二義。今讃嘆釈。則一辺義。但別不立称念門者言讃嘆者。是則称義。称有称揚称念二義。故不別立。凡於称字通二辺義。若約所讃是則称念名号是也。若約能讃称揚之義。而能讃者。於所讃法。有勝徳故。若無所讃何有能讃。其所讃者。名号光明第一之句所明即是名号法也。SYOZEN2-276/TAI5-209,210
〇次に『論の註』の文、五念門の中の讃嘆門の釈なり。今の所引の中に、初に「称彼」より「相応故」に至るまでの二十五字は、これ本論の文なり。「称彼如来名者」以下は、論文を三に分かちて、これを牒釈すらくのみ。第一の句に就きて、問う、「称彼」等とは、言う所の称は、称念の義か、称揚の義か。答う。総じてこれを言わば、二義に通ずべし。別してこれを論ぜば、称念を本と為す。問う。今の論に立つる所の五念門の中に、名号称念の一門を立てず。即ち観察を以て論の正意と為す。随いて註の文を見るに、讃嘆を釈して云わく「讃とは、讃揚なり。嘆とは、歌嘆なり。須く称揚に約すべし。何ぞ二義に通ぜん。況んや称念を以て論の正意と為すること、その理如何。答う。あに前に云わざるや。総じて二義に通ずとは、今の讃嘆の釈は則ち一辺の義なり。ただし別に称念の門を立てざることは、讃嘆というは、これ則ち称の義。称に称揚・称念の二義あり。故に別して立てざるなり。凡そ称の字は二辺に通ずる義に於いて、もし所讃に約せば、これ則ち名号を称念する、これなり。もし能讃に約せば称揚の義なり。而るに能讃とは、所讃の法に於いて勝徳あるが故なり。もし所讃なくば何ぞ能讃あらん。その所讃とは、名号光明第一の句に明かす所は即ちこれ名号の法なり。SYOZEN2-276/TAI5-209,210
◎如彼如来光明智相者。仏光明是智慧相也。此光明照十方世界無有障碍。能除十方衆生無明黒闇。非如日月珠光但破室穴中闇也。
◎(論註)如彼如来光明智相〈かの如来の光明智相のごとく〉とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明黒闇を除く。日月珠光のただ室穴の中の闇を破するがごときにはあらざるなり。SIN:SYOZEN2-50/HON-213,HOU-323
〇就第二句。仏光等者。仏之光明智慧所生。故云如来光明智相。SYOZEN2-276/TAI5-210
〇第二の句に就きて「仏光」等とは、仏の光明は智慧の所生なり。故に「如来光明智相」というなり。SYOZEN2-276/TAI5-210
◎如彼名義欲如実修行相応者。彼無碍光如来名号。能破衆生一切無明。能満衆生一切志願。
◎(論註)如彼名義欲如実修行相応〈かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲う〉といわば、かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまう。SIN:SYOZEN2-50/HON-213,HOU-323
〇就第三句。能破等者。明滅罪徳。一切言中応摂惑障業障報障諸不善也。能満等者。明往生益。又一切言可摂護念見仏等也。SYOZEN2-276/TAI5-220,221
〇第三句に就きて、「能破」等とは、滅罪の徳を明かす。「一切」の言の中に惑障・業障・報障、もろもろの不善を摂すべし。「能満」等とは、往生の益を明かす。また「一切」の言に護念見仏等を摂すべし。SYOZEN2-276/TAI5-220,221
◎然有称名憶念而無明由存而不満所願者。何者。由不如実修行与名義不相応故也。云何為不如実修行与名義不相応。謂不知如来是実相身是為物身。
◎(論註)しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるものは、いかんとならば、如実修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。いかんが不如実修行と名義不相応とする。いわく如来はこれ実相の身なり、これ物の為の身なりということを知らざるなり。SIN:SYOZEN2-50/HON-213,214,HOU-323
〇然有等者。是其問也。由不等者。是其答也。云何等者是徴問也。為下如上本無不字。是脱落歟。謂不等者。是其答也。此有二意。一謂以不知二種之身判。為名義不相応義。二謂違三種不相応義。称為如実修行相応。問。実相為物二種之身。其義如何。答。此有二義。一義云。実相身者。此是理仏。即云法性法身是也。為物身者。此是事仏。即云方便法身是也。一義云。実相為物二種法身共是事仏。二種法身是約自利利他之徳。即名与義。実相約義。即是光明摂法身故。為物是名。即是名号。摂衆生故。問。且就後義既云実相。何為事仏。答。所言実相非無相義。是虚実義。即約生仏。謂仏為実。衆生為虚。以悟為実。以迷為虚。問。二義之中。以何為正。答。二義共存。用捨可在学者之意。但約名義猶親文歟。SYOZEN2-276,277/TAI5-227,228
〇「然有」等とは、これその問なり。「由不」等とは、これその答なり。「云何」等とはこれ徴問なり。「為」の下、「如」の上に、もと「不」の字なし、これ脱落なるか。「謂不」等とは、これその答なり。これに二意あり。一には謂わく、二種の身を知らざるを以て、判じて名義不相応義と為す。二には謂わく、三種不相応の義に違するを、称して如実修行相応と為す。問う。実相・為物の二種の身、その義如何。答う。これに二義あり。一義に云わく、実相の身とは、これはこれ理仏なり。即ち法性法身という、これなり。為物の身とは、これはこれ事仏なり。即ち方便法身という、これなり。一義に云わく、実相・為物、二種の法身は共にこれ事仏なり。二種の法身はこれ自利利他の徳に約す。即ち名と義となり。実相は義に約す。即ちこれ光明、摂法身の故に。為物はこれ名なり。即ちこれ名号、摂衆生の故に。問う。且く後の義に就きて、既に実相という。何ぞ事仏たらん。答う。言う所の実相は無相の義にあらず。これ虚実の義なり。即ち生仏に約す。謂わく仏を実と為し、衆生を虚と為す。悟を以て実と為し、迷を以て虚と為す。問う、二義の中に、何を以てか正と為するや。答う。二義共に存す。用捨は学者の意に在るべし。但し名義に約すれば、なお文に親しきか。SYOZEN2-276,277/TAI5-227,228
◎又有三種不相応。一者信心不淳〈淳=常偸反、又音絶也、又厚ー朴也、朴音也〉〈淳=常偸反、又音純也、又厚卜朴也、朴字卜音也〉。若存若亡故。二者信心不一。無決定故。三者信心不相続。余念間故。此三句展転相成。以信心不淳故無決定。無決定故念不相続。亦可念不相続故不得決定信。不得決定信故心不淳。与此相違名如実修行相応。是故論主建言我一心。已上。
◎(論註)また三種の不相応あり。一には信心淳からず〈淳=常偸の反、また音は純なり、また厚卜朴なり、朴の字は卜音なり〉、存せるがごとく、亡せるがごときのゆえに。二には信心一ならず、決定なきがゆえに。三には信心相続せず、余念間〈へだ〉つるがゆえに。この三句展転して相成ず。信心淳からざるをもってのゆえに決定なし、決定なきがゆえに念相続せず、また念相続せざるがゆえに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆえ心淳からざるべし。これと相違せるを如実修行相応と名づく。このゆえに論主建めに我一心と言えりと。已上。SIN:SYOZEN2-50/HON-214,HOU-323,324
〇又有等者。是釈如実不如実義。一者等者。第一不信是約心弱。由心弱故。或有行時。或時不行。又窺字訓。淳玉篇云。之純是倫二切。淑也。広韻云。常倫切。清也。朴也。依此等訓。可通不善不浄不直等之義歟。註常偸反。偸字恐非。書生誤歟。可如広韻。第二不信既云不一。由不一故。行不一準。云不相続。雑余行故。念弥陀心念念間断。釈云余念間故是也。是故等者。問。上挙三信更不云一。以一心文結三信義。註釈引文甚不相順。如何。答。上挙三信雖開其心。三信相成遂非別心。以之謂之。只是開合為顕其意。故結此義。引此文也。仍下私釈専成三心一心之義。尤叶此理。殊可信受。SYOZEN2-277/TAI5-238
〇「又有」等とは、これ如実・不如実の義を釈す。「一者」等とは、第一の不信はこれ心弱に約す。心弱に由るが故に、或いは行ずる時あり、或る時は行ぜず。また字訓を窺うに、「淳」は『玉篇』に云わく「之純、是倫二の切。淑なり」。『広韻』に云わく「常倫の切。清なり。朴なり」。これ等の訓に依るに、不善・不浄・不直等の義に通ずべきか。註の「常偸反」の偸の字は恐らくは非なり。書生の誤なるか。『広韻』の如くなるべし。第二の不信、既に「不一」という。不一に由るが故に、行は一準ならざるを、不相続という。余行を雑するが故に、弥陀を念ずる心念念に間断す。釈に「余念間故」という、これなり。「是故」等とは、問う、上に三信を挙げて更に一といわず。一心の文を以て三信の義を結す。註釈の引文は甚だ相順ぜず、如何。答う。上に三信を挙げて、その心を開くといえども、三信相成じて遂に別心にあらず。これを以て、これを謂うに、ただこれ開合、その意を顕わさんが為に、故にこの義を結するに、この文を引くなり。仍て下の私の釈、専ら三心一心の義を成ず。尤もこの理に叶う。殊に信受すべし。SYOZEN2-277/TAI5-238
◎讃阿弥陀仏偈曰。曇鸞和尚造也。諸聞阿弥陀徳号信心歓喜。慶所聞乃曁一念。至心願生皆得往。唯除五逆謗正法。故我頂礼願往生。已上。
◎『讃阿弥陀仏偈』に曰わく、曇鸞和尚の造なり。あらゆるもの阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。至心の者〈ひと〉回向したまえり。生まれんと願ずれば、みな往くことを得しむ。ただ五逆と謗正法とを除く。故に我頂礼して往生を願ずと。已上。SIN:SYOZEN2-51/HON-214,HOU-324
〇次讃弥陀偈。此文為讃第十八願文故引此偈也。SYOZEN2-277/TAI5-257
〇次に『讃弥陀の偈』。この文は第十八の願を讃ずる文たるが故に、この偈を引くなり。SYOZEN2-277/TAI5-257
◎光明寺観経義云。言如意者有二種。一者如衆生意。随彼心念皆応度之。二如弥陀之意。五眼円照六通自在。観機可度者。一念之中無前無後。身心等赴。三輪開悟。各益不同也。已上。
◎光明寺の『観経義』(定善義)に云わく、如意と言うは二種あり。一には衆生の意〈こころ〉のごとし、かの心念に随いてみなこれを度すべし。二には弥陀の意〈おんこころ〉のごとし、五眼円かに照らし六通自在にして、機の度すべき者を観そなわして、一念の中に前なく後なく、身心等しく赴き、三輪開悟して、おのおの益すること同じからざるなりと。已上。SIN:SYOZEN2-51/HON-214,HOU-324
〇次所引文。定善義釈。解雑想観阿弥陀仏神通如意於十方国変現自在之文釈也。言如等者。於如意言有二義中。後義粗標他力利益。是顕造悪流転凡夫。開悟得脱非己所堪。偏為仏徳。雖為定善観門之説。就所観仏明其益也。言五眼者載第一巻。言六通者。倶舎論第二十七云。一神境智証通。二天眼智証通。三天耳智証通。四他心智証通。五宿住随念智証通。六漏尽智証通。雖六通中第六唯聖。然其前五異生亦得。依総相説亦共異生。已上。SYOZEN2-277/TAI5-265
〇次の所引の文『定善義』の釈、雑想観の「阿弥陀仏、神通如意にして、十方の国において変現したもうこと自在なり」の文を解する釈なり。「言如」等とは、如意の言に於いて二義ある中に、後の義はほぼ他力の利益を標す。これ造悪流転の凡夫は開悟得脱すること己が所堪にあらず、偏に仏徳たることを顕わす。定善観門の説たりといえども、所観の仏に就きて、その益を明かすなり。「五眼」というは、第一巻に載す。「六通」というは、『倶舎論』の第二十七に云わく「一には神境智証通、二には天眼智証通、三には天耳智証通、四には他心智証通、五には宿住随念智証通、六には漏尽智証通なり。六通の中に第六は唯聖なりといえども、然れどもその前五は異生もまた得。総相に依りて説くに、また異生に共にす。已上。SYOZEN2-277/TAI5-265
◎又云。此五濁五苦等。通六道受未有無者。常逼悩之。若不受此苦者。即非凡数摂也。抄出。
◎(序分義)また云わく、この五濁・五苦等は、六道に通じて受けて、未だ無き者あらず、常にこれに逼悩す。もしこの苦を受けざる者は、すなわち凡数の摂にあらざるなり。抄出。SIN:SYOZEN2-51/HON-214,HOU-324
〇次所引文。序分義釈。問。今引此文有何由耶。答。上来引文所明。皆是如来済度利生方便。如実相応真実信心。其所被機。是為罪悪生死凡夫。煩悩賊害之衆生故。為顕五濁五苦八苦逼悩有情。専為其機。故引之也。現行之本。五苦下有八苦二字。今被除歟。又有異歟。SYOZEN2-278/TAI5-271
〇次の所引の文は『序分義』の釈なり。問う。今この文を引くこと、何の由かあらんや。答う。上来の引文に明かす所は皆これ如来済度の利生方便、如実相応真実の信心なり。その所被の機はこれ罪悪生死の凡夫、煩悩賊害の衆生たるが故に、五濁・五苦・八苦逼悩の有情は、専らその機たることを顕わさんが為に、ことさらにこれを引くなり。現行の本は「五苦」下に「八苦」の二字あり。今除かるるか、また異あるか。SYOZEN2-278/TAI5-271
◎又云。従何等為三下至必生彼国已来。正明弁定三心以為正因。即有其二。一明世尊随機顕益意蜜難知。非仏自問自徴。無由得解。二明如来還自答前三心之数。
◎(散善義)また云わく、何等為三より下、必生彼国に至るこのかたは、正しく三心を弁定してもって正因とすることを明かす。すなわちその二つあり。一には世尊機に随いて益を顕すこと、意密にして知り難し、仏自ら問いて自ら徴したまうにあらずは、解を得るに由なきを明かす。二には如来還りて自ら前の三心の数を答えたまうことを明かす。SIN:SYOZEN2-51/HON-214,215,HOU-324,325-
〇次所引者。散善義文。三心釈也。此三心者出離直因行者最要。解信仰信宜依機根。共帰仏智往生無疑。於此三心可存二意。一者是為定散諸機所発起故。先被行者明其信相。故明初心勧門之時。先約其機。勧可解行真実之義。誡門之時。同約其機。誡侵貪瞋可離虚仮。内外相応謂之真実。然而未分自力他力。下之二心準之。応知。二者三心皆是加来回向成就之利益也。更非凡夫自力之心。凡心更無真実之義。偏帰他力。以其仏徳証得往生。是故於義不論信相。約此義辺。大経観経三信三心本是一意。今至誠心勧誡二門。読其文点宜令領解。可在口伝。又至其文粗可解耳。二義之中。初義常義。後義今師相伝之義。次下三心一心釈中。具有此意。弁定等者。今此三心就云正因。正者対邪。又対傍言。今此言正。其義可知。因者対果。又対縁言。是則観念法門中。釈見仏縁云。至誠心信心願心為内因。又籍弥陀三種願力以為外縁。外内因縁和合。故即見仏。已上。言三力者。同縁中。依般舟経説所引截之。大誓願力。三味定力。本功徳力。是其三也。見仏之益既由内外因縁得之。往生之益尤可準知。因茲此書第二巻云。真実信業識。斯則為内因。光明名号父母。斯則為外縁。内外因縁和合。得証報土真身。蓋此義也。随機等者。機者即是定散諸機。益者即是諸機往生。得其往生偏由仏願難思利益名号一法。而仏未顕其勝利。言之意密。是故自問自懲自答。若不如是。衆生何以聞此要義。慇懃之意其義可貴。SYOZEN2-278,279/TAI5-277,278
〇次の所引は『散善義』の文、三心の釈なり。この三心は出離の直因、行者の最要、解信仰信は宜しく機根に依るべし。共に仏智に帰すれば往生すること疑いなし。この三心に於いて二の意を存すべし。一にはこれ定散諸機の発起する所たるが故に、まず行者に被しめてその信相を明かす。故に初心の勧門を明かす時、まずその機に約して解行真実なるべき義を勧む。誡門の時は同じくその機に約して貪瞋を侵〈や〉め、虚仮を離るべしと誡しむ。内外相応するを、これを真実という。然して未だ自力他力を分かたず。下の二心はこれに準じて知るべし。二には三心は皆これ加来回向成就の利益なり。更に凡夫自力の心にあらず。凡心更に真実の義なし。偏に他力に帰すれば、その仏徳を以て往生を証得す。この故に義に於いて信相を論ぜず。この義辺に約して『大経』『観経』三信・三心はもとこれ一意なり。今の至誠心、勧誡の二門はその文点を読みて宜しく領解せしむべし。口伝に在るべし。またその文に至りて、ほぼ解すらくのみ。二義の中に、初の義は常の義、後の義は今師相伝の義なり。次下の三心・一心の釈の中に、具にこの意あり。「弁定」等とは、今この三心、正因というに就きて、正とは、邪に対し、また傍に対する言なり。今ここに正という、その義、知りぬべし。因とは、果に対し、また縁に対する言なり。これ則ち『観念法門』の中に見仏の縁を釈して云わく「至誠心・信心・願心を内因と為し、また弥陀の三種の願力に藉りて以て外縁と為して、外内の因縁和合す。故に即ち仏を見たてまつる」已上。三力というは、同じき縁の中に、『般舟経』の説に依りて引き截する所の大誓願力・三味定力・本功徳力、これその三なり。見仏の益は既に内外因縁に由りてこれを得。往生の益、尤も準知すべし。ここに因りてこの書の第二巻に「真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す」といえる、蓋しこの義なり。「随機」等とは、機とは即ちこれ定散の諸機、「益」は即ちこれ諸機の往生、その往生を得ること、偏に仏願難思の利益、名号の一法に由る。而るに仏は未だその勝利を顕わしたまわず。これを意密という。この故に自問自懲自答したまう。もしかくの如きならずば、衆生何を以てかこの要義を聞かん。慇懃の意、その義、貴むべし。SYOZEN2-278,279/TAI5-277,278
◎経云。一者至誠心。至者真。誠者実。欲明一切衆生身口意業所修解行。必須真実心中作。不得外現賢善精進之相。内懐虚仮。貪瞋邪偽姦詐百端。悪性難侵。事同蛇蝎。雖起三業。名為雑毒之善。亦名虚仮之行。不名真実業也。若作如此安心起行者。縦使苦励身心。日夜十二時。急走急作。如灸頭燃者。衆名雑毒之善。欲回此雑毒之行求生彼仏浄土者。此必不可也。何以故。正由彼阿弥陀仏因中行菩薩行時〈由=以周反、経也、行也、従也、用也〉。乃至一念一刹那。三業所修皆是真実心中作。凡所施為趣求亦皆真実。又真実有二種。一者自利真実。二者利他真実。乃至。不善三業必須真実心中捨。又若起善三業者。必須真実心中作。不簡内外明闇。皆須真実故。名至誠心。
◎(散善義)経に云わく、一者至誠心。至とは真なり。誠とは実なり。一切衆生の身・口・意業の所修の解行、必ず真実心の中に作したまえるを須いることを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり。貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵〈や〉め難し。事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作す者は、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走〈もと〉め急に作して頭燃を灸〈はら〉うがごとくするもの、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり〈由=以周の反、経なり、行なり、従なり、用なり〉。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。乃至。不善の三業は、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。またもし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまいしを須いて、内外・明闇を簡ばず、みな真実を須いるがゆえに、至誠心と名づく。SIN:SYOZEN2-51,52/-HON-215,HOU-325-
〇経云一者至誠心者。是牒経文。問。依文三巻一一釈経。何限此文置此言耶。答。所言三心一経眼目出離要道。故挙仏言勧信順也。至者等者。是字釈也。至字真訓。管見未覃。但如此例。聖典多之。況大権釈仰可信之。如天台者。以専訓至。是又未知。各有拠歟。欲明等者。勧門釈也。須字之訓。可用用訓。心中作者。非行者作。約仏所作。是則凡心非真実故。依帰仏心真実之徳。為其仏徳得往生益。就其所帰云真実心。依主釈也。不得等者。誡門釈也。此句文点自現還得。当流学者定存知歟。今此釈意誡雑行也。所以然者。凡夫之心更無賢善精進之義。只是愚悪懈怠機也。而人不顧自心愚悪。随縁起行。若欲求修賢善精進之諸行者。悪性心故。煩悩賊害。必是不免虚仮雑毒。内懐虚仮是其義也。然者不現賢善等相。識知自心三毒悪性。捨自力行。帰他力行。可得真実清浄業也。以勧此心為今釈要。雖起等者三業為外。悪性為内。如常義者。外名身口。内名意業。如然可云雖起二業。既云三業。可知三業只是外也。内悪性也。若作等者。明自力善為雑毒故。雖励身心不得往生。何以故者。徴問言也。是徴雑毒虚仮之行不生之由。正由等者。是其答也。言彼浄土起自弥陀因行果報。因中所修皆是真実。故欲生者可真実也。問。凡夫心者本是不実。争斉彼仏所行真実。答。以帰仏願名真実也。尋仏因中真実心相。唯帰仏心。今又可同。能修行者於其心者。比彼仏心。雖有浄穢善悪等差。帰仏願者発真実心。此心雖似凡夫所発。是為仏智所施心故。云真実心。更非衆生随情心。故令等同也。凡於今文。解其真実有二重釈。一者因中行道真実。二者凡所施為趣求也。初兆載行。次以彼行施衆生故。衆生行之契当如来因中願故。是非凡夫所発之心。併為如来利他之心。是故欲生帰仏不用自力虚仮雑毒之善。施為趣求配当二利。施為利他。趣求自利。是常義也。今有文点。施為名目不依用之。凡所施者。是如来施。仏是能施。為趣求者是約行者。仏道趣求。是則対仏衆生所施。是以如来施与之行。即為衆生趣求之行。能所雖異。倶是如来利他行故謂之真実。言亦皆者。上因位行即今所施。上云仏行。今云所施。能施仏行。所施行体共是真実。故云亦也。又真等者。重釈真実。於中有三。一者総就捨悪修善解真実義。二就三業別明欣厭。三就善悪結真実義。其文易見。問。標有二種。不釈利他真実云何。答。学者雖存種種之義。且依当流一義意者。上来所言。所施真実。趣求真実今所標之利他真実。故別不解。今所言之自利真実。是明尋常真実之相。是則機有上中下差。若其上機上安心上有此所為。如虎戴角。但此行儀難通諸機。縦不如此。契上利他真実之相。有帰仏心。亦得往生。煩悩賊害下機専為正機故也。不簡等者。下私解釈。引涅槃経明其内外明闇之義。可待其解。SYOZEN2-279,280/TAI5-288,289,290
〇「経に云わく、一者至誠心」とは、これ経文を牒す。問う。依文の三巻、一一に経を釈す。何ぞこの文に限りてこの言を置くや。答う。言う所の三心は一経の眼目、出離の要道なり。故に仏言を挙げて信順を勧むるなり。「至者」等とは、これ字釈なり。至の字は真の訓、管見未だ覃〈およ〉ばず。但しかくの如き例、聖典これ多し。況んや大権の釈、仰いでこれを信ずべし。天台の如きは、専を以て至に訓ず。これまた未だ知ず。おのおの拠あるか。「欲明」等とは、勧門の釈なり。「須」の字の訓は用の訓を用うべし。「心中作」とは、行者の作にあらず。仏の所作に約す。これ則ち凡心は真実にあらざるが故に、仏心真実の徳に帰するに依りて、その仏徳として往生の益を得。その所帰に就きて真実心という。依主釈なり。「不得」等とは、誡門の釈なり。この句の文点は「現」より「得」に還る。当流の学者、定んで存知せるか。今この釈の意は雑行を誡むるなり。然る所以は、凡夫の心は更に賢善精進の義なし。ただこれ愚悪懈怠の機なり。而るに人は自心の愚悪を顧みず、随縁起行して、もし賢善精進の諸行を修することを求めんと欲せば、悪性の心なるが故に、煩悩賊害して、必ずこれ虚仮雑毒を免れじ。「内懐虚仮」これその義なり。然れば賢善等の相を現ぜず、自心三毒の悪性を識知して、自力の行を捨て、他力の行に帰して、真実清浄の業を得べきなり。この心を勧むるを以て今の釈の要と為す。「雖起」等とは、三業を外と為し、悪性を内と為す。常の義の如きは、外を身口に名づけ、内を意業に名づく。然の如きならば、「雖起二業」というべし。既に三業という、知るべし。三業はただこれ外なり。内は悪性なり。「若作」等とは、自力の善は雑毒たるが故に、身心を励ますといえども、往生を得ざることを明かす。「何以故」とは、徴問の言なり。これ雑毒虚仮の行は不生の由を徴す。「正由」等とは、これその答なり。言うこころは、彼の浄土は弥陀の因行・果報より起こる。因中の所修は皆これ真実なり。故に生ぜんと欲わん者は真実なるべしとなり。問う。凡夫の心は本これ不実なり。争でか彼の仏の所行の真実に斉しからん。答う。仏願に帰するを以て真実と名づくるなり。仏の因中の真実心の相を尋ぬるに、ただ仏心に帰す。今もまた同じかるべし。能修の行者は、その心に於いては、彼の仏心に比するに、浄穢・善悪等の差ありといえども、仏願に帰すれば真実心を発す。この心は凡夫の所発に似たりといえども、これ仏智所施の心たるが故に、真実心という。更に衆生随情の心にあらず。故に等同ならしむるなり。凡そ今の文に於いて、その真実を解するに二重の釈あり。一には因中の行道真実、二には凡そ施したもう所、趣求を為すなり。初は兆載の行、次は彼の行を以て衆生に施したもう故に、衆生これを行ずれば如来因中の願に契当するが故に、これ凡夫所発の心にあらず。併しながら如来利他の心たり。この故に生ぜんと欲わば仏に帰して自力虚仮雑毒の善を用いざれ。施為・趣求は二利に配当す。施為は利他、趣求は自利、これは常の義なり。今、文点あり、施為の名目は、これを依用せず。「凡所施」とは、これ如来の施、仏はこれ能施なり。「為趣求」とは、これ行者に約す。仏道の趣求なり。これ則ち仏に対して衆生は所施なり。これ如来施与の行を以て即ち衆生趣求の行と為す。能所異なりといえども、倶にこれ如来利他の行なるが故にこれを真実という。「亦皆」というは、上の因位の行は即ち今の所施なり。上には「仏行」といい、今は「所施」という。能施の仏行、所施の行体、共にこれ真実なり。故に「亦」というなり。「又真」等とは、重ねて真実を釈す。中に於いて三あり。一には総じて捨悪修善に就きて真実の義を解す。二には三業に就きて別して欣厭を明かす。三には善悪に就きて真実の義を結す。その文、見易し。問う。二種ありと標して、利他真実を釈せず、云何。答う。学者は種種の義を存すといえども、且く当流一義の意に依らば、上来に言う所の所施真実・趣求真実は今標する所の利他真実なり。故に別に解せず。今言う所の自利真実は、これ尋常の真実の相を明かす。これ則ち機に上中下の差あり。もしその上機は上の安心の上にこの所為あり。虎の角を戴くが如し。ただしこの行儀は諸機に通じがたし。たといかくの如くならざれども、上の利他真実の相に契い、帰仏の心りて、また往生を得。煩悩賊害の下機、専ら正機と為すが故なり。「不簡」等とは、下の私の解釈に『涅槃経』を引きて、その内外明闇の義を明かす。その解を待つべし。SYOZEN2-279,280/TAI5-288,289,290
◎二者深心。言深心者即是深信之心也。亦有二種。一者決定深信自身現是罪悪生死凡夫。曠劫已来常没常流転。無有出離之縁。二者決定深信彼阿弥陀仏四十八願。摂受衆生。無疑無慮。乗彼願力定得往生。
◎(散善義)二者深心。深心と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二には決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまう、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。SIN:SYOZEN2-52/-HON-215,216,HOU-325-
〇次釈深心中。二者等者。是牒経文。言深等者明能信相。亦有等者。顕所信事。是則機法二種信心。無有等者。正明不論有善無善。不仮自功。出離偏在他力。聖道諸教盛談生仏一如之理。今教依知自力無功。偏帰仏力。依之此信殊最要也。無疑等者。若不生者不取正覚。正覚既成。故云無疑。即得往生住往不退転一念無誤故云無慮。SYOZEN2-281/TAI5-320,321
〇次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。SYOZEN2-281/TAI5-320,321
◎又決定深信釈迦仏説此観経三福九品定散二善。証讃彼仏依正二報使人忻慕。
◎(散善義)また決定して深く、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと〈欣慕せしめたまえることを〉信ず。SIN:SYOZEN2-52/-HON-216,HOU-325,326-
〇又有二釈。初又決定深信等者。是依観経信釈迦説。SYOZEN2-281/TAI5-339
〇また二の釈あり。初の「又決定深信」とは、これ『観経』に依りて釈迦の説を信ず。SYOZEN2-281/TAI5-339
◎又決定深信弥陀経中十方恒沙諸仏証勧一切凡夫決定得生。
◎(散善義)また決定して深く、『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得と信ずるなり。SIN:SYOZEN2-52/-HON-216,HOU-326-
〇次又決定深信等者。依弥陀経。信諸仏証。即是明信三経具足信心決了。SYOZEN2-281/TAI5-343
〇次に「又決定深信」等とは、『弥陀経』に依りて、諸仏の証を信ず。即ちこれ三経具足して信心決了することを信ずることを明かす。SYOZEN2-281/TAI5-343
◎又深信者。仰願一切行者等。一心唯信仏語。不顧身命。決定依行。仏遣捨者即捨。仏遣行者即行。仏遣去処即去。是名随順仏教随順仏意。是名随順仏願。是名真仏弟子。
◎(散善義)また深く信ずる者、仰ぎ願わくは、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依りて、仏の捨しめたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。仏の去らしめたまう処をばすなわち去る。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。SIN:SYOZEN2-52/-HON-216,HOU-326-
○又深等者。於此文中。至仏弟子。明依三経如此信者。信順二尊及諸仏意。即得自利。SYOZEN2-281/TAI5-345
○「又深」等とは、この文の中に於いて、「仏弟子」に至るまでは、三経に依りてかくの如く信ずる者は、二尊及び諸仏の意に信順して、即ち自利を得ることを明かす。SYOZEN2-281/TAI5-345
◎又一切行者。但能依此経深信行者。必不誤衆生也。何以故。仏是満足大悲人故。実語故。除仏已還。智行未満。在其学地。由有正習二障未除。果願未円。此等凡聖。縦使測量諸仏教意。未能決了。雖有平章。要須請仏証為定也。若称仏意。即印可言如是如是。若不可仏意者。即言汝等所説是義不如是。不印者即同無記無利無益之語。仏印可者即随順仏之正教。若仏所有言説即是正教正義正行正解正業正智。若多若少。衆不問菩薩人天等。定其是非也。若仏所説即是了教。菩薩等説尽名不了教也。応知。是故今時仰勧一切有縁往生人等。唯可深信仏語専注奉行。不可信用菩薩等不相応教以為疑碍。抱惑自迷。廃失往生之大益也。乃至。
◎(散善義)また一切の行者、ただよくこの経に依りて深く信じる行者は、必ず衆生を誤たざるなり。何をもってのゆえに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なるがゆえに、仏を除きて已還は、智行未だ満たず。その学地にありて、正習二障ありて、未だ除からざるに由りてなり。果願未だ円ならず。これらの凡聖は、たとい諸仏の教意を測量すれども、未だよく決了することあたわず。平章ありといえども、かならず須らく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称えば、すなわち印可して、如是如是と言う。もし仏意に可わざれば、すなわち、汝等が所説この義不如是と言う。印せざるは、すなわち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまうば、すなわち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多、もしは少、すべて菩薩・人・天等を問わず、その是非を定むなり。もし仏の所説は、すなわちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべしと。このゆえに、今の時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。ただ深く仏語を信じて専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用してもって疑碍を為し、惑を抱いて自ら迷〈まど〉って、往生の大益を廃失すべからざれとなり。乃至。SIN:SYOZEN2-52,53/-HON-216,217,HOU-326-
〇又一切下。明利他徳。若仏等者。了教不了経論釈義。其説不同。各以有義。今就分満明其不了了義之別。SYOZEN2-281/TAI5-353
〇「又一切」の下は利他の徳を明かす。「若仏」等とは、了教・不了の経論釈義は、その説同じからず。おのおの以て義あり。今、分満に就きてその不了・了義の別を明かす。SYOZEN2-281/TAI5-353
〇言乃至者。自又深心深信者。下四十余行。是除四重難破文中。初之三重及四重初。是依仏語験道同義。縦雖報仏化仏之説。違今仏説。敢不依信。是極成理。故除三重出第四重肝要之文。其理為足。故省略耳。SYOZEN2-281/TAI5-371
〇「乃至」というは、「又深心深信者」より下、四十余行、これ四重の難破の文の中、初の三重及び四重の初を除く。これ仏語に依りて道同の義を験るに、たとい報仏・化仏の説なりといえども、今の仏説に違せば、敢て依信ぜざれ。これ極成の理なり。故に三重を除きて第四重肝要の文を出だすに、その理、足りぬと為す。故に省略するのみ。SYOZEN2-281/TAI5-371
◎釈迦指勧一切凡夫。尽此一身専念専修。捨命已後定生彼国者。即十方諸仏悉皆同讃同勧同証。何以故。同体大悲故。一仏所化即是一切仏化。一切仏化即是一仏所化。即弥陀経中説。釈迦讃嘆極楽種種荘厳。又勧一切凡夫。一日七日。一心専念弥陀名号。定得往生。次下文云。十方各有恒河砂等諸仏。同讃釈迦能於五濁悪時悪世界悪衆生悪見悪煩悩悪邪無信盛時。指讃弥陀名号勧励衆生。称念必得往生。即其証也。又十方仏等恐畏衆生不信釈迦一仏所説。即共同心同時各出舌相。遍覆三千世界説誠実言。汝等衆生。皆応信是釈迦所説所讃所証。一切凡夫不問罪福多少時節久近。但能上尽百年下至一日七日。一心専念弥陀名号。定得往生必無疑也。是故一仏所説即一切仏同証誠其事也。此名就人立信也。乃至。
◎(散善義)釈迦、一切の凡夫を指〈おし〉え勧めて、この一身を尽くして専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるれば、すなわち十方諸仏、ことごとくみな同じく讃じて同じく勧め同じく証したまう。何をもってのゆえに、同体の大悲なるがゆえに。一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり、一切仏の化はすなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説かく、釈迦、極楽の種種の荘厳を讃嘆したまう。また、一切の凡夫を勧めて、一日、七日、一心に弥陀の名号を専念せしむれば、定んで往生を得しめたまう。次下の文に云わく、十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく、釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪無信の盛なる時において、弥陀の名号を指讃し、衆生を勧励せしめて、称念すれば必ず往生を得と讃じたまう。すなわちその証なり。また十方仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏〈おそ〉れて、すなわち共に同心同時に、おのおの舌相を出だして遍く三千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、汝等〈なんたち〉衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。このゆえに、一仏の所説を、すなわち一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを人に就きて信を立つと名づくるなり。乃至。SIN:SYOZEN2-53,54/-HON-217,HOU-326,327-
〇釈迦等者。此文以下。是引教証。其文有四。初二文者。釈迦讃勧。次二文者諸仏讃勧。此名就人立信等者。問。所言人者。指何人耶。答。解有二義。一義云。不受四重難破之意。還就其難。猶増信心。故言人者。指彼別解異学人也。一義云。不信因位不了之説。偏信仏智決了之語。永除疑殆。建立信心。若依此義。以仏為人。是為能説之人故也。SYOZEN2-281/TAI5-371
〇「釈迦」等とは、この文以下はこれ教証を引く。その文に四あり。初の二文は釈迦の讃勧、次の二文は諸仏の讃勧なり。「此名就人立信」等とは、問う、言う所の人とは、何人を指すや。答う。解するに二義あり。一義に云わく、四重の難破を受けざるの意、還りてその難に就きて、なお信心を増す。故に人というは、彼の別解異学の人を指すなり。一義に云わく、因位不了の説を信ぜず、偏に仏智決了の語を信じて、永く疑殆を除き、信心を建立す。もしこの義に依らば、仏を以て人と為す。これ能説の人たるが故なり。SYOZEN2-281/TAI5-371
〇言乃至者。就行已下六行余也。雖標二行。雖挙五種。非立信行。是故除也。今為顕明立信正意在正定業。所引又就以下文也。SYOZEN2-281,282/TAI5-385
〇「乃至」というは、「就行」已下の六行余なり。二行を標すといえども、五種を挙ぐるといえども、立信の行にあらず。この故に除くなり。今立信の正意は正定の業に在ることを顕明せんが為に、「又就」以下の文を引く所なり。SYOZEN2-281,282/TAI5-385
◎又就此正中復有二種。一者一心専念弥陀名号。行住座臥不問時節久近。念念不捨者。是名正定之業。順彼仏願故。若依礼誦等。即名為助業。除此正助二行已外自余諸善。悉名雑行。乃至。衆名疎雑之行也。故名深心。
◎(散善義)またこの正の中について、また二種あり。一には、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。もし礼誦等に依るを、すなわち名づけて助業とす。この正助二行を除きて已下、自余の諸善をことごとく雑行と名づく、と。乃至。すべて疎雑の行と名づくるなり。故に深心と名づく。SIN:SYOZEN2-54/-HON-217,218,HOU-327,328-
〇一心等者。総勧常念相続之相。行住等者。別明他力相続之徳。但就念念不捨者句有其二義。一義云。此釈行者用心意楽。速抛衆事。一心可励称名義也。一義云。凡夫行者。此義難得。一食之間猶有其間。一期念念争獲相続。既帰仏願。機法一体能所不二。自有不行而行之理。故言不捨。非機策励。是法徳也。依当流意。後義為本。次乃至者。是判正助二行得失二行余也。於正行中上分正助。以其称名為正定業嘆順仏願。故正行徳是其最要。故今略之。次雑行失。義趣雖区。名疎雑行其義可足。故略中間引結文也。SYOZEN2-282/TAI5-385,386
〇「一心」等とは、総じて常念相続の相を勧む。「行住」等とは、別して他力相続の徳を明かす。但し「念念不捨者」の句に就きて。その二義あり。一義に云わく、これ行者の用心意楽を釈す。速かに衆事を抛って、一心に称名を励むべき義なり。一義に云わく、凡夫の行者、この義は得難し。一食の間に、なおその間あり。一期念念、いかでか相続することを獲ん。既に仏願に帰すれば、機法一体・能所不二にして、自ずから不行而行の理あり。故に不捨という。機の策励にあらず。これ法の徳なり。当流の意に依らば、後の義を本と為す。次に「乃至」とは、これ正助二行の得失を判ずる二行余なり。正行の中に於いて、上に正助を分かちて、その称名を以て正定の業と為して仏願に順ずと嘆ず。故に正行の徳はこれその最要なり。故に今これを略す。次に雑行の失。義趣まちまちなりといえども、疎雑の行と名づくるに、その義足りぬべし。故に中間を略して結文を引くなり。SYOZEN2-282/TAI5-385,386
◎三者回向発願心。乃至。又回向発願生者。必須決定真実心中回向願作得生想。此心深信由若金剛。不為一切異見異学別解別行人等之所動乱破壊。唯是決定一心捉正直進。不得聞彼人語。即有進退心生怯弱回顧。落道即失往生之大益也。
◎(散善義)三には回向発願心。乃至。また回向発願して生ずる者は、必ず決定して真実心の中に回向したまえる願を須いて得生の想を作せ。この心深信せること、金剛のごとくなるに由りて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために、動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉〈と〉りて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなわち進退ありて心に怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなわち往生の大益を失するなり。SIN:SYOZEN2-54/-HON-218,HOU-328-
〇次解回向発願心中。三者等者。亦牒経文。先釈此心有二種意。自言回向至願心也。五行余者回因向果。今言乃至所略是也。是約自力。故且除之。今之所引。又回向下至大益也。回思向道。是約他〈力〉明証得義。SYOZEN2-282/TAI5-401
〇次に回向発願心を解する中に、「三者」等とは、また経文を牒す。まずこの心を釈するに二種の意あり。「回向」というより、「願心也」に至るまでの五行余は回因向果なり。今「乃至」といいて略する所、これなり。これは自力に約す。故に且くこれを除く。今の所引「又回向」の下、「大益也」に至るまでは、回思向道なり。これは他〈力〉に約して証得の義を明かす。SYOZEN2-282/TAI5-401
◎問曰。若有解行不同邪雑人等来相惑乱。或説種種疑難[ドウ01]不得往生。或云。汝等衆生曠劫已来。及以今生身口意業。於一切凡聖身上。具造十悪五逆四重謗法闡提破戒破見等罪。未能除尽。然此等之罪繋属三界悪道。云何一生修福念仏。即入彼無漏無生之国。永得証悟不退位也。
◎(散善義)問いて曰わく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来たりてあい惑乱して、あるいは種種の疑難を説きて、往生を得じといい、あるいは云わん、汝等衆生、曠劫よりこのかた、および今生の身・口・意業に、一切凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、未だ除尽することあたわず。しかるにこれらの罪は、三界悪道に繋属す。いかんぞ一生の修福念仏して、すなわちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや。SIN:SYOZEN2-54/-HON-218,HOU-328-
◎答曰。諸仏教行数越塵砂。禀識機縁随情非一。譬如世間人眼可見可信者。如明能破闇。空能含有。地能載養。水能生潤。火能成壊。如此等事悉名待対之法。即目可見。千差万別。何況仏法不思議之力。豈無種種益也。随出一門者。即出一煩悩門也。随入一門者。即入一解脱智慧門也。為此随縁起行〈為=定也、用也、彼也、作也、是也、相也〉。各求解脱。汝何以乃将非有縁之要行障惑於我。然我之所愛即是我有縁之行。即非汝所求。汝之所愛即是汝有縁之行。亦非我所求。是故各随所楽而修其行者。必疾得解脱也。行者当知。若欲学解。従凡至聖乃至仏果。一切無碍皆得学也。若欲学行者。必籍有縁之法。少用功労多得益也。
◎(散善義)答えて曰わく、諸仏の教行数、塵沙に越えたり、識を稟くる機縁、情に随いて一にあらず。たとえば世間の人、眼に見るべく信ずべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有を含み、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。これらのごときの事、ことごとく待対の法と名づく。すなわち目に見つべし。千差万別なり。いかにいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。随いて一門を出ずるは、すなわち一煩悩の門を出ずるなり。随いて一門に入るは、すなわち一解脱智慧の門に入るなり。これを為って〈為=定なり、用なり、彼なり、作なり、是なり、相なり〉、縁に随いて行を起こして、おのおの解脱を求めよ。汝何をもってか、いましまさに有縁の要行にあらざるをもちて、我を障惑するや。しかるに我が所愛は、すなわちこれ我が有縁の行なり、すなわち汝が所求にあらず。汝が所愛は、すなわちこれ汝が有縁の行なり、また我が所求にあらず。このゆえにおのおの所楽に随いてその行を修するは、必ず疾く解脱を得るなり。行者当に知るべし、もし解を学せんと欲わば、凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切碍りなし、みな学ぶことを得るなり〈得よ〉。もし行を学せんと欲わば、必ず有縁の法に籍れ、少しき功労を用いるに多く益を得ればなりと。SIN:SYOZEN2-54,55/-HON-218,219,HOU-328,329-
〇問曰已下至得益也。是問答也。問。今此問答与深心中所致問答有何別耶。答。上約無有出離之縁之機言之。故就凡夫難生之義。有其四重問答之釈。今問一生修福念仏難消過現三業悪業。答明仏力不思議益。上下問答差異在斯。諸仏等者。先為対治疑者偏見。述於仏教有多門也。譬如等者。是挙世間浅近事相。況彼仏力難思之益。随出等者。是明所治八万四千塵労門中。出其一門即能遂出余煩悩門。随入等者。是明能治八万四千解脱門中入其一門。即能遂入余解脱門。謂三毒中。若多貪人以無貪善。治貪煩悩。然後自然治瞋与癡多瞋多癡。又以無瞋無癡善根対治。而後又治其余。例以応知。若欲学解等者。明学可通初心究竟一切諸位。若欲学行等者。明行須依有縁之法。有縁法者意在念仏。SYOZEN2-282,283/TAI5-414,415
〇「問曰」已下、「得益也」に至るまでは、これ問答なり。問う。今この問答と、深心の中に致す所の問答と、何の別かあるや。答う。上は無有出離の縁の機に約してこれをいう。故に凡夫難生の義に就きて、その四重問答の釈あり。今は一生修福の念仏は過現三業の悪業を消し難きことを問いて、答うるに仏力不思議の益を明かす。上下の問答の差異はここに在り。「諸仏」等とは、まず疑者の偏見を対治せんが為に、仏教に於いて多門あることを述ぶるなり。「譬如」等とは、これ世間浅近の事相を挙げて、彼の仏力難思の益に況す。「随出」等とは、これ所治の八万四千の塵労門の中に、その一門を出ずれば、即ち能く遂に余の煩悩の門を出ずることを明かす。「随入」等とは、これ能治の八万四千の解脱門の中に、その一門に入れば、即ち能く遂に余の解脱の門に入ることを明かす。謂わく三毒の中に、もし多貪の人は無貪の善を以て、貪煩悩を治して、然して後に自然に瞋と痴と、多瞋・多痴を治す。また無瞋・無痴の善根を以て対治して、しかして後にまたその余を治することを例して以て知るべし。「若欲学解」等とは、学は初心・究竟の一切の諸位に通ずるべきことを明かす。「若欲学行」等とは、行は須く有縁の法に依るべきことを明かす。有縁の法とは意は念仏に在り。SYOZEN2-282,283/TAI5-414,415
◎又白一切往生人等。今更為行者説一譬喩守護信心。以防外邪異見之難。何者是也。譬如有人欲向西行。百千之里。忽然中路見有二河。一是火河在南。二是水河在北。二河各闊百歩。各深無底。南北無辺。正水火中間有一白道。可闊四五寸許。此道従東岸至西岸。亦長百歩。其水波浪交過湿道。其火焔亦来焼道。水火相交常無休息。此人既至空曠迥処。更無人物。多有群賊悪獣。見此人単独。競来欲殺此人。怖死直走向西。忽然見此大河。即自念言。此河南北不見辺畔。中間見一白道。極是狭少。二岸相去雖近。何由可行。今日定死不疑。正欲到回。群賊悪獣漸漸来逼。正欲南北避走。悪獣毒虫競来向我。正欲向西尋道而去。復恐堕此水火二河。当時惶怖不復可言。即自思念。我今回亦死。住亦死。去亦死。一種不勉死者。我寧尋此道向前而去。既有此道。必応可度。作此念時。東岸忽聞人勧声。仁者但決定尋此道行。必無死難。若住即死。又西岸上有人喚言。汝一心正念直来。我能護汝。衆不畏堕於水火之難。此人既聞此遣彼喚。即自正当身心。決定尋道直進。不生疑怯退心。或行一分二分。東岸群賊等喚言。仁者回来。此道嶮悪不得過。必死不疑。我等衆無悪心相向。此人雖聞喚声亦不回顧。一心直進念道而行。須臾即到西岸永離諸難。善友相見慶楽無已。此是喩也。
◎(散善義)また一切の往生人等に白さく、今更に行者のために、一の譬喩を説きて信心を守護し、もって外邪異見の難を防がん。何者かこれや。譬えば、人ありて西に向かいて行かんと欲するに百千の里あらん、忽然として中路に二河あり。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北に辺なし。正しく水火の中間に、一の白道あり、闊さ四五寸許〈ばかり〉なるべし。この道、東の岸より西の岸に至ること、また長さ百歩、その水の波浪交わり過ぎて道を湿す。その火焔また来りて道を焼く。水火あい交わりて常にして休息し。この人すでに空曠の迥〈はるか〉なる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊悪獣のみありて、この人の単独なるを見て、競い来りてこの人を殺さんと欲す。死を怖れて直ちに走りて西に向かうに、忽然としてこの大河を見る。すなわち自ら念言すらく、この河、南北、辺畔〈ほとり〉を見ず、中間に一つの白道を見る、きわめてこれ狭少なり。二つの岸、あい去ること近しといえども、何に由りてか行くべき。今日定んで死せんこと疑わず。正しく到り回らんと欲すれば、群賊悪獣漸漸に来り逼む。正に南北に避り走らんと欲すれば、悪獣毒虫競い来りて我に向かう。正しく西に向かいて道を尋ねて去かんと欲すれば、また恐らくはこの水火の二河に堕せんことを。当時〈そのとき〉に惶怖すること、また言うべからず。すなわち自ら思念すらく、我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧ろ〈やすく〉この道を尋ねて前に向こうてしかも去かんとするに、すでにこの道あり、必ず度すべしと。この念を作す時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。仁者〈なんじ〉ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せんと。また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれと。この人すでに此に遣わし彼に喚うを聞きて、すなわち自ら身心に正当にして、決定して道を尋ねて直ちに進みて、疑怯退心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚うて言わく、仁者回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず。我等すべて悪心あってあい向うことなしと。この人、喚う声を聞くといえどもまた回顧〈かえりみ〉ず。一心に直ちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る。善友あい見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩なり。SIN:SYOZEN2-55,56/-HON-219,220,HOU-329,330-
◎次合喩者。言東岸者。即喩此娑婆之火宅也。言西岸者。即喩極楽宝国也。言群賊悪獣詐親者。即喩衆生六根六識六塵五陰四大也。言無人空迥沢者。即喩常随悪友不値真善知識也。言水火二河者。即喩衆生貪愛如水。瞋憎如火也。言中間白道四五寸者。即喩衆生貪瞋煩悩中能生清浄願往生心也。乃由貪瞋強故即喩如水火。善心微故喩如白道。又水波常湿道者。即喩愛心常起能染汚善心也。又火焔常焼道者。即喩瞋嫌之心能焼功徳之法財也。言人行道上直向西者。即喩回諸行業直向西方也。言東岸聞人声勧遣尋道直西進者。即喩釈迦已滅。後人不見。由有教法可尋。即喩之如声也。言或行一分二分群賊等喚回者。即喩別解別行悪見人等妄説見解迭相惑乱及自造罪退失也。言西岸上有人喚者。即喩弥陀願意也。言須臾到西岸善友相見喜者。即喩衆生久沈生死。曠劫淪回迷倒。自纒無由解脱。仰蒙釈迦発遣指向西方。又籍弥陀悲心招喚。今信順二尊之意。不顧水火二河。念念無遺。乗彼願力之道。捨命已後得生彼国。与仏相見慶喜何極也。
◎(散善義)次に喩を合せば、東の岸というは、すなわちこの娑婆の火宅に喩うるなり。西の岸というは、すなわち極楽宝国に喩うるなり。群賊悪獣詐り親むというは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩うるなり。無人空迥の沢というは、すなわち常に悪友に随いて、真の善知識に値わざるに喩うるなり。水火の二河というは、すなわち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩うるなり。中間の白道四五寸というは、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩うるなり。いまし貪瞋強きによるがゆえに、すなわち水火のごとしと喩う。善心微なるがゆえに、白道のごとしと喩うるなり。また、水波常に道を湿すとは、すなわち愛心常に起こりてよく善心を染汚するに喩うるなり。また、火焔常に道を焼くとは、すなわち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩うるなり。人、道上を行きて直ちに西に向かうというは、すなわちもろもろの行業を回して直ちに西方に向かうるに喩うるなり。東の岸に人の声ありて勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて直ちに西に進むというは、すなわち釈迦すでに滅したまいて後の人、見たてまつらざれども、なお教法ありて尋ぬべきに喩う、すなわちこれを声のごとしと喩うるなり。あるいは行くこと一分二分するに、群賊等喚び回〈かえ〉すというは、すなわち別解・別行・悪見の人等、妄りに見解を説きて、迭いにあい惑乱し、および自ら罪を造りて退失すと喩うるなり。西の岸の上に人ありて喚うというは、すなわち弥陀の願意に喩うるなり。須臾に西の岸に到りて善友あい見て喜ぶというは、すなわち衆生久しく生死に沈んで、曠劫より輪回し迷倒して、自ら纏うて解脱するに由なし、仰いで釈迦発遣して指えて西方に向かえたまうことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまうに籍って、今二尊の意〈おんこころ〉に信順して、水火二河を顧みず、念念に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命已後かの国に生ずることを得て、仏とあい見て慶喜すること何ぞ極まらんと喩うるなり。SIN:SYOZEN2-56,57/-HON-220,221,HOU-330,331-
〇又白以下。是明譬喩。言此譬喩。或云二河譬喩。或云守護心釈。於中有二。初標。次説。説中亦三。喩合結也。一一文義不能具述。SYOZEN2-283/TAI5-442
〇「又白」以下は、これ譬喩を明かす。この譬喩をいうに、或いは二河の譬喩といい、或いは守護心の釈という。中に於いて二あり。初に標、次に説なり。説の中にまた三あり。喩と合と結となり。一一の文義は具に述ぶること能わず。SYOZEN2-283/TAI5-442
◎又一切行者行住座臥三業所修。無問昼夜時節。常作此解常作此想。故名回向発願心。
◎(散善義)また一切の行者、行住座臥に、三業の所修、昼夜の時節を問うことなく、常にこの解を作し常にこの想いを作すがゆえに、回向発願心と名づく。SIN:SYOZEN2-57/-HON-221,HOU-331-
◎又言回向者。生彼国已還起大悲。回入生死教化衆生。亦名回向也。
◎(散善義)また回向というは、かの国に生じ已りて、還りて大悲を起こし、生死に回入して、衆生を教化するを、また回向と名づくるなり。SIN:SYOZEN2-57/-HON-221,HOU-331-
〇又言等者。重釈回向。斯乃還相回向意也。SYOZEN2-283/TAI5-503
〇「又言」等とは、重ねて回向を釈す。これ乃ち還相回向の意なり。SYOZEN2-283/TAI5-503
◎三心既具無行不成。願行既成若不生者。無有是処也。又此三心亦通摂定善之義。応知。已上。
◎(散善義)三心すでに具すれば行として成ぜざるなし、願行すでに成じてもし生まれずは、この処〈ことわり〉あることなけんとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと。知るべしと。已上。SIN:SYOZEN2-57/-HON-221,HOU-331-
〇三心已下是総結文。此有二意。一云。三心広亙万善諸行義也。依之言之。若具三心諸行皆成。選択集云。総而言之通諸行法。即其意也。一云。今此三心是約念仏。一往雖有通諸行辺。拠実論之。自力諸行作業難成。輙不可云願行既成。又得往生偏是他力念仏之利益也。若約諸行。即不可云若不生者。故今所言具三心者。即成正業必得往益之宗旨也。同次句云。別而言之在念仏行是其義也。問。二義之中。以何為正。答。依当流意。後義為本。又此等者。若依広通諸行義者。顕不限散亦通定善。凡於三心有其二意。初義是約定散諸機自力各別発心之義。後義是約如来利他他力成就仏願利益。三心大綱只示一端。SYOZEN2-283/TAI5-507
〇「三心」已下はこれ総結の文なり。これに二の意あり。一には云わく、三心広く万善諸行に亙る義なり。これに依りて、これを言わば、もし三心を具すれば諸行皆成ず。『選択集』に「総じてこれを言えば、諸の行法に通ず」といえる、即ちその意なり。一に云わく、今この三心は、これ念仏に約す。一往、諸行に通ずる辺ありといえども、実に拠りてこれを論ずれば、自力の諸行は作業成じ難し。輙く願行既に成ずというべからず。また往生を得ることは、偏にこれ他力念仏の利益なり。もし諸行に約せば、即ち若不生者というべからず。故に今いう所は、三心を具すれば、即ち正業を成じて必ず往益を得る宗旨なり。同じき次の句に「別してこれをいえば、念仏の行に在り」といえる、これその義なり。問う。二義の中に、何を以てか正と為すや。答う。当流の意に依らば、後の義を本と為す。「又此」等とは、もし広く諸行に通ずる義に依らば、散に限らず、また定善に通ずることを顕わす。凡そ三心に於いて、その二の意あり。初の義はこれ定散諸機自力各別発心の義に約す。後の義はこれ如来利他他力成就仏願の利益に約す。三心の大綱、ただ一端を示す。SYOZEN2-283/TAI5-507
◎又云。敬白一切往生知識等。大須慚愧。釈迦如来実是慈悲父母。種種方便発起我等無上信心。已上。
◎(般舟讃)また云わく、敬いて一切往生の知識等に白さく、大きに須らく慚愧すべし。釈迦如来は実にこれ慈悲の父母なり、種種の方便をもって我等が無上の信心を発起せしめたまえりと。已上。SIN:SYOZEN2-57/HON-221,222,HOU-331,332
〇次所引文。敬白等者。般舟讃序最初文也。所言三心。此非凡夫発起之心。偏在如来利他善巧。又依釈尊種種方便。発起我等無上信心。是則東岸西岸発遣招喚義也。為顕此義今引此文。SYOZEN2-283/TAI5-510
〇次の所引の文「敬白」等とは、『般舟讃』の序の最初の文なり。いう所の三心は、これ凡夫発起の心にあらず。偏に如来利他の善巧に在り。また釈尊種種の方便に依りて、我等が無上の信心を発起す。これ則ち東岸・西岸、発遣・招喚の義なり。この義を顕わさんが為に今この文を引く。SYOZEN2-283/TAI5-510
◎貞元新定釈教目録巻第十一云。集諸経礼懺儀。大唐西崇福寺沙門智昇撰也。準〈准〉貞元十五年十月二十三日勘編入云云。懺儀上巻智昇依諸経造懺儀。中依観経引善導礼懺日中時礼。下巻者比丘善導集記云云。依彼懺儀鈔要文云。二者深心。即是真実信心。信知自身是具足煩悩凡夫。善根薄少流転三界不出火宅。今信知弥陀本弘誓願及称名号下至十声一声〈十声聞〉等定得往生。及至一念無有疑心。故名深心。乃至。其有得聞彼弥陀仏名号。歓喜至一心。皆当得生彼。抄出。
◎『貞元の新定釈教目録』巻の第十一に云わく、『集諸経礼懴儀』上下、大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。貞元十五年十月二十三日に準えて勘編して入ると云々。『懴儀』の上巻は、智昇、諸経に依りて『懴儀』を造る中に、『観経』に依りては善導の『礼懴』の日中の時の礼を引けり。下巻は比丘善導の集記と云々。かの『懴儀』に依りて要文を鈔して云わく〈鈔=ぬく、えらぶとも〉、二には深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで、疑心あることなし。故に深心と名づく。乃至。それ、かの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一心を至せば、みな当に彼に生ずることを得べしと。抄出。SIN:SYOZEN2-57,58/HON-222,HOU-332
〇次所引文。問。上第二巻已引今文。何重出耶。答。雖為同文。所用既異。是故重引。所以前巻就行引之。及称名号下至十声一声等也。当巻之中就信引之。或云即是真実信心。或云信知弥陀本弘誓願。或云乃至一念無有疑心等也。凡如此鈔。或経釈文。成譬喩等。就其所用重所引用。非無其例。如彼要集住水宝珠之譬。雖有広略。再以出之。又観察門総相雑略両観。同挙光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨之文。私釈同載七百五倶胝六百万光明之計校等。是也。其有得聞等者。大経流通文意。歓喜至一念者。是顕信心貌也。是故此次出之。SYOZEN2-283,284/TAI5-518
〇次の所引の文、問う、上の第二巻に已に今の文を引く。何ぞ重ねて出だすや。答う。同文たりといえども、所用は既に異なり、この故に重ねて引く。所以に前の巻には行に就きてこれを引く。「及称名号下至十声一声等」なり。当巻の中には信に就きてこれを引く。或いは「即是真実信心」といい、或いは「信知弥陀本弘誓願」といい、或いは「乃至一念無有疑心」等というなり。凡そこの鈔の如し。或いは経釈の文、成いは譬喩等、その所用に就きて重ねて引用する所、その例なきにあらず。彼の『要集』の住水宝珠の譬は、広略ありといえども、再び以てこれを出だすが如し。また観察門の総相・雑略の両観に、同じく「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」の文を挙げて、私の釈に同じく「七百五倶胝六百万光明」の計校を載する等、これなり。「其有得聞」等とは、『大経』流通の文の意なり。「歓喜至一念」とは、これ信心を顕わす貌なり。この故にこの次にこれを出だす。SYOZEN2-283,284/TAI5-518
◎往生要集云。入法界品言。譬如有人得不可壊薬。一切怨敵不得其便。菩薩摩訶薩亦復如是。得菩提心不可壊法薬。一切煩悩諸魔怨敵所不能壊。譬如有人得住水宝珠瓔珞其身。入深水中而不没溺。得菩提心住水宝珠。入生死海而不沈没。譬如金剛於百千劫処於水中。而爛壊亦無異変。菩提之心亦復如是。於無量劫処生死中諸煩悩業。不能断滅亦無損減。已上。
◎『往生要集』に云わく、「入法界品」に言わく、たとえば人ありて不可壊の薬を得れば、一切の怨敵その便りを得ざるがごとし。菩薩摩訶薩もまたかくのごとし。菩提心不可壊の法薬を得れば、一切の煩悩、諸魔の怨敵、壊ることあたわざるところなり。たとえば人ありて住水宝珠を得てその身に瓔珞とすれば、深き水中に入りて没溺せざるがごとし。菩提心の住水宝珠を得れば、生死海に入りて沈没せず。たとえば金剛は百千劫において水中に処するも、爛壊しまた異変なきがごとし。菩提の心もまたかくのごとし。無量劫において生死の中、もろもろの煩悩業に処するに、断滅することあたわず、また損減することなしと。已上。SIN:SYOZEN2-58/HON-222,HOU-332
〇次要集文。上巻釈也。大文第四正修念仏作願門中。明菩提心行相文也。前後所挙有多譬喩。今出其二。前巻所出波利質多樹之譬喩。即其類也。SYOZEN2-284/TAI5-532
〇次に『要集』の文、上巻の釈なり。大文第四正修念仏作願門の中に菩提心の行相を明かす文なり。前後に挙ぐる所、多くの譬喩あり。今はその二を出だす。前の巻に出だす所の波利質多樹の譬喩は即ちその類なり。SYOZEN2-284/TAI5-532
◎又云。我亦在彼摂取之中。煩悩障眼雖不能見。大悲無倦常照我身。已上。
◎(往生要集)また云わく、我またかの摂取の中にり。煩悩、眼を障えて見たてまつるにあたわずといえども、大悲惓きことなくして常に我が身を照らしたまうと。已上。SIN:SYOZEN2-58/HON-222,223,HOU-333
〇次所引釈。中巻初文。同観察門分以為三。一別相観。二総相観。三雑略観。今釈第三雑略観文。依真身。観光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨之意釈之。経文雖在定善文中。是顕称名念仏利益。彼疏釈云。唯標専念名号得生。広引三経成名号義。今釈又同。此文雖在観察門中。明念仏益。準彼応知。SYOZEN2-284/TAI5-540
〇次の所引の釈は、中巻の初の文なり。同じき観察門に分けて以て三と為す。一には別相観、二には総相観、三には雑略観なり。今の釈は第三の雑略観の文なり。真身観の「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」の意に依りて、これを釈す。経文は定善の文の中に在りといえども、これ称名念仏の利益を顕わす。彼の疏の釈に「ただ専ら名号を念じて生ずることを得と標せり」といいて、広く三経を引きて名号の義を成ず。今の釈また同じ。この文は観察門の中に在りといえども、念仏の益を明かすこと、彼に準じて知るべし。SYOZEN2-284/TAI5-540
◎爾者。若行若信。無有一事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。非無因他因有也。可知。
◎(御自釈)しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと。知るべし。SIN:J:SYOZEN2-58/HON-223,HOU-333
〇次私御釈。爾者等者。総結上来諸文。皆顕如来回向成就義耳。SYOZEN2-284/TAI5-545
〇次に私の御釈なり。「爾者」等とは、総じて上来の諸文を結して、みな如来回向成就の義を顕わすらくのみ。SYOZEN2-284/TAI5-545
◎問。如来本願已発至心信楽欲生誓。何以故論主言一心也。
◎(御自釈)問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。何をもってのゆえに、論主、一心と言うや。SIN:J:SYOZEN2-59/-HON-223,HOU-333-
〇次有二重問答之中。初問答者。広挙字訓明成三心一心之義。字訓未悉勘得本文。博覧宏才可仰可信。SYOZEN2-284/TAI6-1
〇次に二重の問答ある中に、初の問答は広く字訓を挙げて三心一心の之義を成ずることを明かす。字訓は未だ悉く本文を勘得せず。博覧の宏才、仰ぐべし、信ずべし。SYOZEN2-284/TAI6-1
◎答。愚鈍衆生解了為令易。弥陀如来雖発三心。涅槃真因唯以信心。是故論主合三為一歟。
◎(御自釈)答う。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまうといえども、涅槃の真因はただ信心をもってす。このゆえに論主、三を合して一と為るか。SIN:J:SYOZEN2-59/-HON-223,HOU-333-
◎私[キ02]三心字訓。三即合一。其意何者。言至心者。至者即是真也・実也・誠也。心者即是種也・実也。言信楽者。信者即是真也・実也・誠也・満也・極也・成也・用也・重也・審也・験也・宣也・忠也。楽者即是欲也・願也・愛也・悦也・歓也・喜也・賀也・慶也。言欲生者。欲者即是願也・楽也・覚也・知也。生者即是成也・作也〈作=則羅反、則落反、蔵落反、為也、起也、行也、始也、役也、生也〉・為也・興也。
◎(御自釈)私に三心の字訓をうかがうに、三はすなわち一なるべし。その意何んとなれば、至心と言うは、至とは、すなわちこれ真なり、実なり、誠なり。心とは、すなわちこれ種なり、実なり。信楽と言うは、信は、すなわちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験〈しるし〉なり、宣なり、忠〈こころざし〉なり。楽とは、すなわちこれ欲なり、願なり、愛〈よみす〉なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。欲生と言うは、欲は、すなわちこれ願なり、楽なり、覚なり、知なり。生とは、すなわちこれ成なり、作なり〈作=則羅反、則落反、蔵落反、為なり、起なり、行なり、始なり、役なり、生なり〉、為〈しわざ〉なり、興なり。SIN:J:-HON-223,224,HOU-333,334-
◎明知。至心即是真実誠種之心。故疑蓋無雑也。信楽即是真実誠満之心。極成用重之心。審験宣忠之心。欲願愛悦之心。歓喜賀慶之心。故疑蓋無雑也。欲生即是願楽覚知之心。成作為興之心。大悲回向之心。故疑蓋無雑也。
◎(御自釈)明らかに知りぬ、至心はすなわちこれ真実誠種の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。信楽はすなわちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。欲生はすなわちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり、大悲回向の心なる。ゆえに疑蓋雑わることなきなり。SIN:J:SYOZEN2-59/-HON-224,HOU-334
◎今按三心字訓。真実心而虚仮無雑。正直心而邪偽無雑。真知。疑蓋無間雑故。是名信楽。信楽即是一心。一心即是真実信心。是故論主建言一心也。応知。
◎(御自釈)今三心の字訓を按ずるに、真実の心にして虚仮雑わることなし、正直の心にして邪偽雑わることなし。真に知りぬ、疑蓋間雑することなきがゆえに、これを信楽と名づく。信楽はすなわちこれ一心なり。一心はすなわちこれ真実信心なり。このゆえに論主建めに一心と言えるなりと。知るべし。SIN:J:SYOZEN2-59/-HON-224,HOU-334
◎又問。如字訓論主意以三為一義。其理雖可然。為愚悪衆生阿弥陀如来已発三心願。云何思念也。
◎(御自釈)また問う。字訓のごとき、論主の意、三をもって一とせる義、その理しかるべしといえども、愚悪の衆生のために、阿弥陀如来すでに三心の願を発したまえり、云何が思念せんや。SIN:J:SYOZEN2-59/HON-224,HOU-335
〇次問答者。明此三心更非凡夫発起之心。如来回向成就之故。得此信心。是故名為真実心也。SYOZEN2-285/TAI6-76
〇次の問答は、この三心は更に凡夫発起の心にあらず、如来の回向成就の故にこの信心を得、この故に名づけて真実心と為すことを明かすなり。SYOZEN2-285/TAI6-76
◎答。仏意難測。雖然竊推斯心。一切群生海。自従無始已来。乃至今日至今時。穢悪汚染無清浄心。虚仮諂偽無真実心。
◎(御自釈)答う。仏意測り難し、しかりといえども竊かにこの心を推するに、一切の群生海は無始よりこのかた、乃至、今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。SIN:J:SYOZEN2-59,60/HON-224,225,HOU-335
◎是以如来悲憫一切苦悩衆生海。於不可思議兆載永劫行菩薩行時。三業所修。一念一刹那。無不清浄。無不真心。如来以清浄真心成就円融無碍不可思議不可称不可説至徳。
◎(御自釈)ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。SIN:J:SYOZEN2-60/HON-225,HOU-335
◎以如来至心回施諸有一切煩悩悪業邪智群生海。則是彰利他真心。故疑蓋無雑。
◎(御自釈)如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に、疑蓋雑わることなし。SIN:J:SYOZEN2-60/HON-225,HOU-335
◎斯至心則是至徳尊号為其体也。
◎(御自釈)この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。SIN:J:SYOZEN2-60/HON-225,HOU-335
◎是以大経言。不生欲覚瞋覚害覚。不超欲想瞋想害想。不著色声香味之法。忍力成就不計衆苦。少欲知足無染恚癡。三昧常寂智慧無碍。無有虚偽諂曲之心。和顔愛語先意承問。勇猛精進志願無倦。専求清白之法。以恵利群生。恭敬三宝奉事師長。以大荘厳具足衆行。令諸衆生功徳成就。已上。
◎ここをもって『大経』に言わく、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず、欲想・瞋想・害想を起こさず。色・声・香・味の法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして、染・恚・痴なし。三昧常寂にして、智慧無碍なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして、志願惓むことなし。専ら清白の法を求めて、もって群生を恵利す。三宝を恭敬し師長に奉事して、大荘厳をもって衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむとのたまえり。已上。SIN:SYOZEN2-60/HON-225,HOU-335,336
〇次答言下。解至心中所引大経上巻文者。是説法蔵菩薩因中所修之行。皆為衆生得脱之因大悲回向成就之相。不生等者。明離煩悩。就此有二。初明自行。次明利他。明自行中又有四事。今文以下六句。明離煩悩因縁。不生等者。浄影師云。覚有八種。如地持説。一是欲覚。思財思色。二是瞋覚。亦名恚覚。思欲瞋他。三者害覚。亦名悩覚。於他人所念欲加害。四者親覚。追憶親縁。五国土覚。念世安危。六不死覚。謂身不死広集資生。七族姓覚。念氏族下。八軽誣覚。念陵他人。此八種中。初三過重。為是偏挙。已上。欲想等者。又同師云。不起欲想瞋想害想重復顕之。已上。憬興師云。今即三覚之因如次。三想。取境分斉方生欲等故。然即不貪名利故不生欲覚不悩衆生故不生瞋覚。不損物命故不生害覚。三覚不生。必絶三想。已上。不著等者。又同師云。内因既離外縁斯止。故云不著。已上。忍力成就以下二句。明法対治。同師云。忍力者。安受苦耐怨害察法忍也。以此忍力能忍損悩。故離三覚三想。已上。少欲等者。法位師云。於未来不多求名少欲。於現在希望満名知足。已上。無染恚癡者。明離煩悩体。煩悩体者。即是三毒。謂貪瞋癡。又婬怒癡。故法位云。無染恚癡者絶三毒。已上。又義寂師引般若云。菩薩遠離婬怒癡。婬怒癡不可見故是名遠離婬怒癡。已上。三昧等者。依浄影意。三昧約止。智慧約観。常寂云深無礙云勝。無有虚偽以下四句。是明化他。浄影憬興同約三業。故浄影云。無有諂曲明離心過。言和顔者明離身過。愛語先問明離口過。已上。勇猛之下明修善法。於中有三。初之四句。明無間修。恭敬三宝以下六句。明恭敬修。住空已下行成修礼。但今所引至恭敬修。除第三也。SYOZEN2-285,286/TAI6-109,110
〇次に答言の下に至心を解する中に引く所の『大経』上巻の文は、これ法蔵菩薩因中所修の行は、みな衆生得脱の因、大悲回向成就の相たることを説く。「不生」等とは、離煩悩を明かす。これに就きて二あり。初には自行を明かし、次には利他を明かす。自行を明かす中に、また四事あり。今の文以下の六句は、離煩悩の因縁を明かす。「不生」等とは、浄影師の云わく「覚に八種あり。『地持』に説くが如し。一にはこれ欲覚。財を思い色を思う。二にはこれ瞋覚、または恚覚と名づく。思い他を瞋んと欲す。三には害覚、また悩覚と名づく。他人の所に於いて、念じて害を加えんと欲す。四には親覚。追いて親縁を憶う。五には国土覚。世の安危を念う。六には不死覚。身死せじと謂いて、広く資生を集む。七には族姓覚。氏族の下〈くだ〉れることを念う。八には軽誣覚。他人を陵〈しの〉がんことを念う。この八種の中に、初の三の過は重し。これが為に偏に挙ぐ」已上。「欲想」等とは、また同じき師の云わく「不起欲想瞋想害想は重ねてまたこれを顕わす」已上。憬興師の云わく「今は即ち三覚の因は次の如く三想なり。境の分斉を取り、方に欲等を生ずるが故に。然も即ち名利を貪ぜざるが故に欲覚を生ぜず、衆生を悩まさざるが故に瞋覚を生ぜず、物の命を損せざるが故に害覚を生ぜず。三覚生ぜざれば、必ず三想を絶つ」已上。「不著」等とは、また同じき師の云わく「内因は既に離るれば、外縁はここに止む。故に不著という」已上。「忍力成就」以下の二句は法の対治を明かす。同じき師の云わく「忍力とは安受苦と耐怨害と察法忍となり。この忍力を以て能く損悩を忍ぶ。故に三覚と三想とを離る」已上。「少欲」等とは、法位師の云わく「未来に於いて多く求めざるを少欲と名づく。現在に於いて希望満つるを知足と名づく」已上。「無染恚痴」とは、煩悩の体を離るることを明かす。煩悩の体とは、即ちこれ三毒なり。謂く貪・瞋・痴、また婬・怒・痴なり。故に法位の云わく「無染恚痴とは、三毒を絶つ」已上。また義寂師は『般若』を引きて云わく「菩薩は婬・怒・痴を遠離す。婬・怒・痴は不可見の故に、これを婬・怒・痴を遠離すと名づく」已上。「三昧」等とは、浄影の意に依るに、三昧は止に約し、智慧は観に約す。常寂を深といい、無碍を勝という。「無有虚偽」以下の四句は、これ化他を明かす。浄影・憬興は同じく三業に約す。故に浄影の云わく「無有諂曲は心の過を離るることを明かす。和顔というは身の過を離るることを明かす。愛語先問は、口の過を離るることを明かす」已上。「勇猛」の下は善法を修することを明かす。中に於いて三あり。初の四句は無間修を明かす。「恭敬三宝」以下の六句は、恭敬修を明かす。「住空」已下は行成修礼、但し今の所引は恭敬修に至る。第三を除くなり。SYOZEN2-285,286/TAI6-109,110
◎無量寿如来会言。仏告阿難。彼法処比丘。於世間自在王如来及諸天人魔梵沙門婆羅門等前。広発如是大弘誓。皆已成就。世間希有。発是願已。如実安住。種種功徳具足。荘厳威徳広大清浄仏土。修習如是菩薩行時。経於無量無数不可思議無有等等億那由他百千劫内。初未曽起貪瞋及癡欲害恚想。不起色声香味触想。於諸衆生常楽愛敬。猶如親属。乃至。其性調順無有暴悪。於諸有情常懐慈忍心。不詐諂亦無懈怠。善言策進求諸白法。普為群生勇猛無退。利益世間大願円満。略出。
◎『無量寿如来会』に言わく、仏阿難に告げたまわく、かの法処比丘、世間自在王如来および、もろもろの天・人・魔・梵・沙門・婆羅門等の前にして、広くかくのごときの大弘誓を発して、みなすでに成就したまえり。世間に希有なり。この願を発し已りて実のごとく安住す。種種の功徳具足して、威徳広大清浄の仏土を荘厳せり。かくのごときの菩薩の行を修習せること、時、無量・無数・不可思議・無有等等・億那由他百千劫を経るうちに、初めより未だかつて貪・瞋および痴・欲・害・恚の想を起こさず。色・声・香・味・触の想を起こさず。もろもろの衆生において、常に愛敬を楽うこと、なお親属のごとし。乃至。その性調順にして暴悪あることなし。もろもろの有情において常に慈忍の心を懐いて詐諂せず、また懈怠なし。善言策進して〈策=むちうつ〉もろもろの白法を求めしめ、あまねく群生のために勇猛にして退することなく、世間を利益する、大願円満したまえり。略出。SIN:SYOZEN2-60,61/HON-226,HOU-336
〇次無量寿如来会文。文言聊異意同大経。言法処者。即是法蔵。世間自在王如来者。即世自在王仏是也。間字有無両経異耳。問。釈至心中。引両経文。是何意耶。答。如来至心為真実心。以其真心回施衆生。説仏因中真実心相。又説回施功徳之義。此等経説共以分明。故引之也。SYOZEN2-286/TAI6-124,125
〇次に『無量寿如来会』の文なり。文言は聊か異なれども、意は『大経』に同じ。「法処」というは、即ちこれ法蔵なり。「世間自在王如来」とは、即ち世自在王仏、これなり。「間」の字の有無、両経の異ならくのみ。問う。至心を釈する中に両経の文を引くは、これ何の意ぞや。答う。如来の至心を真実心と為す。その真心を以て衆生に回施す。仏の因中の真実心の相を説き、また回施功徳の義を説くこと、これ等の経説は共に以て分明なり。故にこれを引くなり。SYOZEN2-286/TAI6-124,125
◎光明寺和尚云。欲回此雑毒之行求生彼仏浄土者。此必不可也。何以故。正由彼阿弥陀仏。因中行菩薩行時。乃至一念一刹那。三業所修皆是真実心中作。凡所施為趣求。亦皆真実。又真実有二種。一者自利真実。二者利他真実。乃至。不善三業必須真実心中捨。又若起善三業者。必須真実心中作。不簡内外明闇。皆須真実故。名至誠心。抄要。
◎(散善義)光明寺の和尚の云わく、この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲う者は、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心の中に作したまえるに由りてなり。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり、と。乃至。不善の三業をば、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。また、もし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまえるを須いて、内外・明闇を簡ばず、みな真実を須いるがゆえに、至誠心と名づくと。抄要。SIN:SYOZEN2-61/HON-226,HOU-336,337
〇次所引文。観経義釈。問。今文在前。何重引耶。答。就其当要。不憚重引。子細述上。今又同前。況存広略。非無異歟。謂上所引三心総釈。不加私釈。今別自解三心之義。其中粗引本文之言。不及広博。是与前異。SYOZEN2-286/TAI6-134
〇次の所引の文は『観経義』の釈なり。問う。今の文は前に在り。何ぞ重ねて引くや。答う。その当要に就きて、重引を憚らざること、子細は上に述ぶ。今また前に同じ。況んや広略を存す。異なきにあらざるか。謂わく上の所引は三心の総釈にして、私の釈を加えず。今は別に自ら三心の義を解す。その中にほぼ本文の言を引きて広博に及ばず。これ前と異なり。SYOZEN2-286/TAI6-134
◎爾者。大聖真言・宗師釈義。信知。斯心則是不可思議不可称不可説一乗大智願海回向利益他之真実心。是名至心。
◎(御自釈)しかれば、大聖の真言・宗師の釈義、まことに知りぬ、この心はすなわちこれ不可思議・不可称・不可説、一乗大智願海の回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。SIN:J:SYOZEN2-61/HON-226,227,HOU-337
◎既言真実。言真実者。
◎(御自釈)すでに真実と言えり。真実というは、SIN:J:SYOZEN2-61/HON-227,HOU-337
◎涅槃経言。実諦者一道清浄無有二也。言真実者即是如来。如来者即是真実。真実者即是虚空。虚空者即是真実。真実者即是仏性。仏性者即是真実。已上。
◎『涅槃経』に言わく、実諦は一道清浄にして二あることなきなり。真実というは、すなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ虚空なり。虚空はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ真実なりと。已上。SIN:SYOZEN2-61/HON-227,HOU-337
〇問。引涅槃経証何事耶。答。真実心者。如来之意不関衆生。為証此義引此文也。SYOZEN2-286/TAI6-141
〇問う。『涅槃経』を引くは何の事を証するぞや。答う。真実心とは、如来の意、衆生に関わらず、この義を証せんが為にこの文を引くなり。SYOZEN2-286/TAI6-141
◎釈云不簡内外明闇内外者。内者即是出世。外者即是世間。明闇者。明者即是出世。闇者即是世間。又復明者即智明。闇者即無明也。
◎(御自釈)『釈(散善義)』に、不簡内外明闇と云えり。内外とは、内とはすなわちこれ出世なり、外とはすなわちこれ世間なり。明闇は、明はすなわちこれ出世なり、闇はすなわちこれ世間なり。また明はすなわち智明なり、闇はすなわち無明なり。SIN:J:SYOZEN2-61/HON-227,HOU-337
◎涅槃経言。闇即世間。明即出世。闇即無明。明即智明。已上。
◎『涅槃経』に言わく、闇はすなわち世間なり、明はすなわち出世なり。闇はすなわち無明なり、明はすなわち智明なりと。已上。SIN:SYOZEN2-61,62/HON-227,HOU-337,338
〇釈云不簡明闇等者。是又同依涅槃経説。解其内外明闇之義。弥陀妙果。無上涅槃。念仏即是涅槃之門。是故雖説聖道教理。悉有仏性如来常住甚深極理。唯是弥陀如来果徳。聖人賢慮併存此義。仰可依信。勿懐疑慮。SYOZEN2-286/TAI6-148
〇「釈云不簡明闇」等とは、これまた同じく『涅槃経』の説に依りて、その内外明闇の義を解す。弥陀の妙果は無上涅槃、念仏は即ちこれ涅槃の門なり。この故に聖道の教理を説くといえども、悉有仏性、如来常住は甚深の極理、ただこれ弥陀如来の果徳なり。聖人の賢慮、併しながらこの義を存したもう。仰いで依信すべし。疑慮を懐くことなかれ。SYOZEN2-286/TAI6-148
◎次言信楽者。則是如来満足大悲円融無礙信心海。是故疑蓋無有間雑。故名信楽。即以利他回向之至心為信楽体也。然従無始已来。一切群生海。流転無明海。沈迷諸有輪。繋縛衆苦輪。無清浄信楽。法爾無真実信楽。是以無上功徳難[ハ01]値遇。最勝浄信難[ハ01]獲得。一切凡小一切時中。貪愛之心常能汚善心。瞋憎之心常能焼法財。急作急修如灸頭然。衆名雑毒雑修之善。亦名虚仮諂偽之行。不名真実業也。以此虚仮雑毒之善。欲生無量光明土。此必不可也。何以故。正由如来行菩薩行時。三業所修。乃至一念一刹那。疑蓋無雑。斯心者即如来大悲心故。必成報土正定之因。如来悲憐苦悩群生海。以無礙広大浄信回施諸有海。是名利他真実信心。
◎(御自釈)次に、信楽というは、すなわちこれ如来の満足大悲、円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし、故に信楽と名づく。すなわち利他回向の至心をもって、信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし。法爾として真実の信楽なし。ここをもって無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得することかたし。一切の凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもって、無量光明土に生ぜんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しく如来、菩薩の行を行じたまえる時、三業の所修、乃至一念・一刹那も疑蓋雑わることなきに由ってなり。この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに、必ず報土の正定の因と成る。如来、苦悩の群生海を悲憐したまいて、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまえり。これを利他真実の信心と名づく。SIN:J:SYOZEN2-62/HON-227,228,HOU-338,339
〇次信楽中。即以利他回向等者。問。至心信楽欲生三信其相各別。何釈至心為信楽体。又貪愛之心常能等者是回向心之譬喩也。又下或云急作急修。或云衆名雑毒等者。至誠心釈。何猥混乱三心解釈。答。開為三信。合為一心。仍有三心一異之義。是故為標三心即是一心之義。故綺三信彼此之文所被釈也。SYOZEN2-287/TAI6-153
〇次に信楽の中に、「即以利他回向」等とは、問う、至心・信楽・欲生の三信、その相各別なり。何ぞ至心を釈して信楽の体と為すや。また「貪愛之心常能」等とは、これ回向心の譬喩なり。また下に或いは「急作急修」といい、或いは「衆名雑毒」等というは、至誠心の釈なり。何ぞ猥しく三心の解釈を混乱するや。答う。開すれば三信たり。合すれば一心たり。仍て三心一異の義あり。この故に三心即是一心なる義を標せんが為に、ことさらに三信彼此の文を綺〈いろえ〉て釈せらる所なり。SYOZEN2-287/TAI6-153
◎本願信心願成就文。
◎本願信心の願成就の文、SIN:J:SYOZEN2-62/HON-228,HOU-339
◎経言。諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念。已上。
◎(大経)経に言わく、諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せんと。已上。SIN:SIN:SYOZEN2-62/HON-228,HOU-339
◎又言。他方仏国所有衆生。聞無量寿如来名号。能発一念浄信歓喜愛楽。已上。
◎(如来会)また言わく、他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜愛楽せんと。已上。SIN:SYOZEN2-62/HON-229,HOU-339
〇次之所引二文之中。後文雖為異訳経説。如前巻述。依梵本同言又云歟。SYOZEN2-287/TAI6-176
〇次の所引の二文の中に、後の文は異訳の経説たりといえども、前の巻に述ぶるが如く、梵本同じきに依りて「又云」というか。SYOZEN2-287/TAI6-176
◎涅槃経言。善男子。大慈大悲名為仏性。何以故。大慈大悲常随菩薩。如影随形。一切衆生畢定当得大慈大悲。是故説言一切衆生悉有仏性。大慈大悲者名為仏性。仏性者名為如来。大喜大捨名為仏性。何以故。菩薩摩訶薩。若不能捨二十五有。則不能得阿耨多羅三藐三菩提。以諸衆生畢当得故。是故説言一切衆生悉有仏性。太喜大捨者即是仏性。仏性者即是如来。仏性者名大信心。何以故。以信心故。以菩薩摩訶薩則能具足檀波羅蜜乃至般若波羅蜜。一切衆生畢定当得大信心故。是故説言一切畢生悉有仏性。大信心者即是仏性。仏性者即是如来。仏性者名一子地。何以故。以一子地因縁故。菩薩則於一切衆生得平等心。一切衆生畢定当得一子地故。是故説言一切衆生悉有仏性。一子地者即是仏性。仏性者即是如来。已上。
◎『涅槃経(師子吼品)』に言わく、善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。何をもってのゆえに。大慈大悲は常に菩薩に随うこと影の形に随うがごとし。一切衆生、畢定して当に大慈大悲を得べし。このゆえに説きて一切衆生悉有仏性と言えるなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。大喜大捨を名づけて仏性とす。何をもってのゆえに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つること能わずは、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わず。もろもろの衆生ついに当に得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて一切衆生悉有仏性と言えるなり。大喜大捨はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は大信心と名づく。何をもってのゆえに、信心をもってのゆえに、菩薩摩訶薩はすなわちよく檀波羅蜜、乃至、般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は畢に定んで当に大信心を得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて一切衆生悉有仏性と言えるなり。大信心はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は一子地と名づく。何をもってのゆえに。一子地の因縁をもってのゆえに、菩薩はすなわち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は畢に定んで当に一子地を得べきがゆえに、このゆえに説きて、一切衆生悉有仏性と言えるなり。一子地はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なりと。已上。SIN:SYOZEN2-62,63/HON-229,HOU-339,340
〇次涅槃経。文有三段。就初文中。云仏性者。名大信心。又下説云。大信心者即是仏性。其大信心即是如来回向利他信心。此是証得往生必至涅槃之真因也。一切依此他力往生清閑一道。咸皆可顕凡聖斉円之妙理故。一切衆生悉有仏性。其仏性者即今信心。深得此義引用此文。一子地者初歓喜地。安養報土衆生生者。皆是阿[ビ01]跋致之位。往生之人即登初地証悟無生。涅槃醒醐真常之説。潜契其義。SYOZEN2-287/TAI6-179
〇次に『涅槃経』、文に三段あり。初の文の中に就きて、「仏性」というは、大信心と名づく。また下に説きて「大信心とは即ちこれ仏性」という。その大信心は即ちこれ如来回向利他の信心なり。これはこれ証得往生必至涅槃の真因なり。一切はこの他力往生清閑の一道に依りて、咸くみな凡聖斉円の妙理を顕わすべきが故に、一切衆生悉く仏性あり。その仏性とは即ち今の信心なり。深くこの義を得てこの文を引用す。「一子地」とは初歓喜地なり。安養の報土、衆生生ずる者は皆これ阿[ビ01]跋致の位、往生の人は即ち初地に登りて無生を証悟す。涅槃醒醐真常の説、潜かにこの義に契う。SYOZEN2-287/TAI6-179
◎又言。或説阿耨多羅三藐三菩提信心為因。是菩提因雖復無量。若説信心則已摂尽。已上。
◎(涅槃経・迦葉品)またのたまわく、あるいは阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とすと説くに、この菩提の因は、また無量なりといえども、もし信心を説けば、すなわちすでに摂尽しぬと。已上。SIN:SYOZEN2-63/HON-229,HOU-340
〇 次所引文。菩提妙果信心為因。又顕浄土真実信心。SYOZEN2-287/TAI6-196
〇 次の所引の文。菩提の妙果は信心を因と為す。また浄土真実の信心を顕わす。SYOZEN2-287/TAI6-196
◎又言。信復有二種。一従聞生。二従思生。是人信心従聞而生。不従思生。是故名為信不具足。復有二種。一信有道。二信得者。是人信心唯信有道。都不信有得道之人。是名為信不具足。已上抄出。
◎(涅槃経・迦葉品)また言わく、信にまた二種あり。一には聞より生ず、二には思より生ず。この人の信心は、聞より生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて信不具足とす。また二種あり。一には道ありと信ず、二には得者を信ず。この人の信心は、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜず。これを名づけて信不具足とすと。已上抄出。SIN:SYOZEN2-63/HON-230,HOU-340
〇後所引文。此有二重。共明信不具足之義。翻此可知信心具足。故案文意。上就聞思所生解信具不之義。信心若従思生。可名信心具足。下文意者。就所得道与能得人。解具不義。又若信有得道之人。名之応言信心具足。SYOZEN2-287/TAI6-198
〇後の所引の文、これに二重あり。共に信不具足の義を明かす。ここに翻じて信心具足を知ぬべし。故に文の意を案ずるに、上は聞思の所生に就きて信具不の義を解す。信心は、もし思より生ぜば信心具足と名づくべし。下の文の意は、所得の道と能得の人に就きて具不の義を解す。またもし得道の人ありと信ずれば、これを名づけて信心具足というべし。SYOZEN2-287/TAI6-198
◎華厳経言。聞此法歓喜信心無疑者。速成無上道。与諸如来等。
◎(六十華厳・入法界品)『華厳経』に言わく、この法を聞きて、信心を歓喜して疑いなき者は、速やかに無成道を成らん。もろもろの如来と等しとなり。SIN:SYOZEN2-63/HON-230,HOU-340
◎又言。如来能永断一切衆生疑。随其心所楽普皆令満足。
◎(八十華厳・入法界品)また言わく、如来よく永く一切衆生の疑いを断たしむ。その信の所楽に随いて、普くみな満足せしめんとなり。SIN:SYOZEN2-64/HON-230,HOU-340
〇次華厳経。又有三段。初有五言一四句偈。問。引此経文有何要乎。答。今経文意粗会歓喜信楽之説。又順無疑無慮之信。是故為助歓喜信楽深信之義。被引之歟。但雖彰灼不説弥陀浄土利生。其意潜通。又天台云。初後仏慧円頓義斉。已上。華厳之意又不可違。随而普賢十願之意。所勧専在安養往詣。依此等意。法華華厳以下諸経。皆隠顕彼弥陀利生。上人深解一代諸教。皆顕弥陀大悲利益。得此等意可見諸文。SYOZEN2-287,288/TAI6-210
〇次に『華厳経』。また三段あり。初に五言一四句の偈あり。問う。この経文を引くは、何の要かあるや。答う。今の経文の意は、ほぼ歓喜信楽の説に会し、また無疑無慮の信に順ず。この故に歓喜・信楽・深信の義を助けんが為に、これを引かるるか。但し彰灼に弥陀浄土の利生を説かずといえども、その意は潜かに通ず。また天台の云わく「初後の仏慧、円頓義斉し」已上。『華厳』の意、また違すべからず。随いて普賢の十願の意、勧むる所は専ら安養の往詣に在り。これ等の意に依るに、『法華』『華厳』以下の諸経は、みな隠に彼の弥陀の利生を顕わす。上人は深く一代の諸教はみな弥陀大悲の利益を顕わすことを解したもう。これ等の意を得て諸文を見つべし。SYOZEN2-287,288/TAI6-210
◎又言。信為道元功徳母。長養一切諸善法。断除疑網出愛流。開示涅槃無上道。信無垢濁心清浄。滅除[キョウ02]慢恭敬本。亦為法蔵第一財。為清浄手受衆行。信能恵施心無悋。信能歓喜入仏法。信能増長智功徳。信能必到如来地。信令諸根浄明利。信力堅固無能壊。信能永滅煩悩本。信能専向仏功徳。信於境界無所著。遠離諸難得無難。信能超出衆魔路。示現無上解脱道信為功徳不壊種。信能生長菩提樹。信能増益最勝智。信能示現一切仏。是故依行説次第。信楽最勝甚難得。乃至。若常信奉於諸仏。則能興集大供養。若能興集大供養。彼人信仏不思議。若常信奉於尊法。則聞仏法無厭足。若聞仏法無厭足。彼人信法不思議。若常信奉清浄僧。則得信心不退転。若得信心不退転。彼人信力無能動。若得信力無能動。則得諸根浄明利。若得諸根浄明利。則得親近善知識。則得親近善知識。則能修集広大善。若能修集広大善。彼人成就大因力。若人成就大因力。則得殊勝決定解。若得殊勝決定解。則為諸仏所護念。若為諸仏所護念。則能発起菩提心。若能発起菩提心。則能勤修仏功徳。若能勤修仏功徳。則能生在如来家。若得生在如来家。則善修行巧方便。若善修行巧方便。則得信楽心清浄。若得信楽心清浄。則得増上最勝心。若得増上最勝心。則常修習波羅蜜。若常修習波羅蜜。則能具足摩訶衍。若能具足摩訶衍。則能如法供養仏。若能如法供養仏。則能念仏心不動。若能念仏心不動。則常覩見無量仏。若常覩見無量仏。則見如来体常住。若見如来体常住。則能知法永不滅。若能知法永不滅。得得弁才無障礙。若得弁才無障礙。則能開演無辺法。若能開演無辺法。則能慈愍度衆生。若能慈愍度衆生。則得堅固大悲心。若得堅固大悲心。則能愛楽甚深法。若能愛楽甚深法。則能捨離有為過。若能捨離有為過。則離[キョウ02]慢及放逸。若離[キョウ02]慢及放逸。則能兼利一切衆。若能兼利一切衆。則処生死無疲厭。略抄。
◎(八十華厳・賢首品)また言わく、信は道の元とす、功徳の母なり。一切もろもろの善法を長養すればなり。疑網を断除して愛流を出でて、涅槃無上道を開示せしむと。信は垢濁の心なし、清浄にして[キョウ02]慢を滅除す、恭敬の本なり。また法蔵第一の財とす。清浄の手として衆行を受く。信はよく恵施して心におしむことなし。信はよく歓喜して仏法に入る。信は智功徳を増長す。信はよく必ず如来地に到る。信は諸根をして浄明利ならしむ。信力堅固なればよく壊するものなし。信はよく永く煩悩の本を滅す。信はよく専ら仏功徳に向かえしむ。信は境界において所著なし。諸難を遠離して無難を得しむ。信はよく衆魔の路を超出し、無上解脱の道を示現せしむ。信は功徳のために種を壊〈やぶ〉らず。信はよく菩提樹を生長す。信はよく最勝智を増益す。信はよく一切仏を示現せしむ。このゆえに行に依りて次第を説く。信楽最勝にしてはなはだ得ること難し。乃至。もし常に諸仏に信奉すれば、すなわちよく大供養を興集す。もしよく大供養を興集すれば、かの人、仏の不思議を信ず。もし常に尊法に信奉すれば、すなわち仏法を聞くに厭足なし。もし仏法を聞くに厭足なければ、かの人、法の不思議を信ずべし。もし常に清浄僧に信奉すれば、すなわち信心退転せざることを得。もし信心不退転を得れば、かの人の信力よく動ずることなし。もし信力を得てよく動ずることなければ、すなわち諸根浄明利を得ん。もし諸根浄明利を得れば、すなわち善知識に親近すること得。すなわち善知識に親近することを得れば、すなわちよく広大善を修集す。もしよく広大善を修集すれば、かの人、大因力を成就す。もし人、大因力を成就すれば、すなわち殊勝決定の解を得。もし殊勝決定の解を得れば、すなわち諸仏の為に護念せらる。もし諸仏の為に護念せらるれば、すなわちよく菩提心を発起す。もしよく菩提心を発起すれば、すなわちよく仏の功徳を勤修せしむ。もしよく仏の功徳を勤修すれば、すなわちよく生まれて如来の家に在らん。もし生まれて如来の家に在ることを得れば、すなわち善く巧方便を修行せん。もし善く巧方便を修行すれば、すなわち信楽の心清浄なることを得。もし信楽の心清浄を得れば、すなわち増上の最勝心を得。もし増上の最勝心を得れば、すなわち常に波羅蜜を修習せん。もし常に波羅蜜を修習すれば、すなわちよく摩訶衍を具足せん。もしよく摩訶衍を具足すれば、すなわちよく法のごとく仏を供養せん。もしよく法のごとく仏を供養すれば、すなわちよく念仏の心動ぜず。もしよく念仏の心動ぜざれば、すなわち常に無量仏を覩見せん。もし常に無量仏を覩見すれば、すなわち如来の体常住を見ん。もし如来の体常住を見れば、すなわちよく法の永く不滅なることを知らん。もしよく法の永く不滅なるを知れば、弁才無障碍を得ることを得ん。もし弁才無障碍を得れば、すなわちよく無辺の法を開演せん。もしよく無辺の法を開演せば、すなわちよく慈愍して衆生を度せん。もしよく慈愍して衆生を度すれば、すなわち堅固の大悲心を得ん。もし堅固の大悲心を得れば、すなわちよく甚深の法を愛楽せん。もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなわちよく有為の過を捨離せん。もしよく有為の過を捨離すれば、すなわち[キョウ02]慢および放逸を離る。もし[キョウ02]慢および放逸を離るれば、すなわちよく一切衆を兼利す。もしよく一切衆を兼利すれば、すなわち生死に処して疲厭なけんと。略抄。SIN:SYOZEN2-64,65/HON-230,231,232,HOU-341,342
〇後所引文。此有七言四十七行九十四句。所挙偈頌句数雖多。信為根本皆嘆其徳。今引此文。其意在斯。但諸句中雖有所嘆非其信心。展転勝利併為信功。一一句義其意可見。SYOZEN2-288/TAI6-214,215
〇後の所引の文、これに七言四十七行九十四句あり。挙ぐる所の偈頌の句数は多しといえども、信を根本と為て、みなその徳を嘆ず。今この文を引く、その意はここに在り。但し諸句の中に嘆ずる所、その信心にあらざるありといえども、展転の勝利、併しながら信の功たり。一一の句義、その意を見るべし。SYOZEN2-288/TAI6-214,215
◎論註曰。名如実修行相応。是故論主建言我一心。已上。
◎『論の註』に曰わく、如実修行相応と名づく、このゆえに論主建めに我一心と言えり。已上。SIN:SYOZEN2-65/HON-232,HOU-342
◎又言。経始称如是。彰信為能入。已上。
◎(論註)また言わく、経の始めに如是と称することは、心を彰して能入とす。已上。SIN:SYOZEN2-65/HON-232,HOU-343
〇次論註文。文言雖少。此有二段。二文共是下巻釈也。其中上文讃嘆門釈。下文末後結文而已。SYOZEN2-288/TAI6-254
〇次に『論註』の文。文言は少しといえども、これに二段あり。二文共にこれ下巻の釈なり。その中に上の文は讃嘆門の釈、下の文は末後の結文ならくのみ。SYOZEN2-288/TAI6-254
◎次言欲生者。則是如来招喚諸有群生之勅命。即以真実信楽為欲生体也。誠是非大小凡聖定散自力之回向。故名不回向也。然微塵界有情。流転煩悩海。漂没生死海。無真実回向心。無清浄回向心。是故如来矜哀一切苦悩群生海。行菩薩行時。三業所修。乃至一念一刹那。回向心為首得成就大悲心故。以利他真実欲生心廻施諸有海。欲生即是回向心。斯則大悲心。故疑蓋無雑。
◎(御自釈)次に欲生と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。故に不回向と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに、利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。SIN:J:SYOZEN2-65,66/HON-232,233,HOU-343
◎是以本願欲生心成就文。
◎(御自釈)ここをもって本願の欲生心成就の文、SIN:J:SYOZEN2-66/HON-233,HOU-343
◎経言。至心回向。願生彼国。即得往生。住不退転。唯除五逆誹謗正法。已上。
◎(大経)経に言わく、至心回向したまえり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。唯五逆と誹謗正法とを除くと。已上。SIN:SYOZEN2-66/HON-233,HOU-343
◎又言。愛楽所有善根回向。願生無量寿国者。随願皆生。得不退転乃至無上正等菩提。除五無間誹謗正法及謗聖者。已上。
◎(如来会)また言わく、所有の善根回向したまえるを歓喜愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ずれば、願に随いてみな生ぜしめ、不退転、乃至、無上正等菩提を得んと。五無間、誹謗正法および謗聖者を除くと。已上SIN:HON-233,HOU-344
〇次願成就文。此非全文。次所引文。文言如前。SYOZEN2-288/TAI6-278
〇次に願成就の文、これ全文にあらず。次の所引の文、文言は前の如し。SYOZEN2-288/TAI6-278
◎浄土論曰。云何回向。不捨一切苦悩衆生。心常作願。回向為首得成就大悲心故。回向有二種相。一者往相。二者還相。往相者。以己功徳廻施一切衆生。作願共往生彼阿弥陀如来安楽浄土。還相者。生彼土已。得奢摩他毘婆舎那方便力成就。廻入生死稠林教化一切衆生。共向仏道。若往若還。皆為抜衆生渡生死海。是故言回向為首得成就大悲心故。已上。
◎(論註)『浄土論』に曰わく、云何が回向したまえる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえにとのたまえり。回向に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。往相とは、己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまえり。還相とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入し、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまえり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがためにしたまえり。このゆえに回向為首得成就大悲心故と言えりと。已上。SIN:SYOZEN2-66/HON-233,HOU-344
〇次浄土論。此有三段。初文引在第二巻中。但還相者以下釈文今引加之。於中自初至悲心故。是本論文。回向以下是註釈也。SYOZEN2-288/TAI6-281
〇次に『浄土論』、これに三段あり。初の文は引きて第二巻の中に在り。但し「還相者」以下の釈文は今これを引加う。中に於いて、初より「悲心故」に至るまでは、これ本論の文なり。「回向」以下はこれ註釈なり。SYOZEN2-288/TAI6-281
◎又云。浄入願心者。論曰。又向説観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏功徳成就・荘厳菩薩功徳成就。此三種成就。願心荘厳。応知。応知者。応知此三種荘厳成就。由本四十八願等清浄願心之所荘厳。因浄故果浄。非無因他因有也。已上。
◎(論註)また云わく、浄入願心とは、論に曰わく、また向に観察荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は、願心の荘厳したまえるなりと、知る応しといえりと。応知とは、この三種の荘厳成就は、もとの四十八願等の清浄願心の荘厳したまうところなるに由りて、因浄なるがゆえに果浄なり、因なくして他の因あるにはあらざるなりと知る応しとなりと。已上。SIN:SYOZEN2-66,67/HON-233,234,HOU-344,345
〇次所引文。下巻十重解義分中。第四浄入願心釈也。又向説下至云応知。是本論文。応知者下又註釈也。言浄入願心者。浄者三種荘厳。其体無漏。即是果浄。言入意者。酬入因位願心義也。願心即四十八願体亦無漏。即是因浄。六八願心其因浄故。三種荘厳其果亦浄。SYOZEN2-288/TAI6-281
○次の所引の文は下巻の十重解義分の中に、第四の浄入願心の釈なり。「又向説」の下、「応知」というに至るまでは、これ本論の文なり。「応知者」の下は、また註の釈なり。「浄入願心者」というは、浄とは三種の荘厳、その体無漏なり。即ちこれ果浄なり。入というは、因位の願心に酬入する義なり。願心は即ち四十八願の体、また無漏なり。即ちこれ因浄なり。六八の願心はその因浄なるが故に、三種の荘厳は、その果また浄なり。SYOZEN2-288/TAI6-281
◎又論曰。出第五門者。以大慈悲観察一切苦悩衆生。示応化身回入生死薗・煩悩林中。遊戲神通至教化地。以本願力回向故。是名出第五門。已上。
◎(論註)また論に曰わく、出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園の煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づくとのたまえりと。已上。SIN:SYOZEN2-67/HON-234,HOU-344,345
〇後所引文。同第十重利行満足本論文也。此文註釈在第二巻重釈之初。故就彼文加愚解訖。SYOZEN2-288,289/TAI6-281
〇後の所引の文は同じき第十重の利行満足、本論の文なり。この文の註釈は第二巻の重釈の初に在り。故に彼の文に就きて愚解を加え訖んぬ。SYOZEN2-288,289/TAI6-281
◎光明寺和尚云。又回向発願生者。必須決定真実心中回向願作得生相。此心深信由若金剛。不為一切異見異学別解別行人等之所動乱破壊。唯是決定一心捉正直進。不得聞彼人語。即有進退心生怯弱回顧。落道即失往生之大益也。已上。
◎(散善義)光明寺の和尚の云わく、また回向発願して生ずる者は、必ず決定して真実心の中に回向したまえる願を須いて、得生の想を作せ。この心深く信ずること、金剛のごとくなるに由りて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉って、正直に進みて、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなわち進退の心ありて怯弱を生じ、回顧すれば、道に落ちてすなわち往生の大益を失するなりと。已上。SIN:SYOZEN2-67/HON-234,HOU-345
〇次所引文回向心釈。在上所引三心釈中。上者総引。広亘三心。今者別引。限回向心。SYOZEN2-289/TAI6-296
〇次の所引の文は回向心の釈なり。上の所引の三心釈の中に在り。上は総じて引き、広く三心に亘る。今は別して引き、回向心に限る。SYOZEN2-289/TAI6-296
◎真知。二河譬喩中言白道四五寸者。白道者。白之言対黒也。白者即是選択摂取之白業・往相回向之浄業也。黒者即是無明煩悩之黒業。二乗人天之雑善也。道之言対路。道者則是本願一実之直道。大般涅槃無上之大道也。路者則是二乗三乗万善諸行之小路也。言四五寸者。喩衆生四大五陰也。
◎(御自釈)真に知りぬ。二河の譬喩の中に、白道四五寸と言うは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白は、すなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒とは、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善なり。道の言は、路に対せるなり。道とは、すなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路とは、すなわちこれ二乗・三乗・万善諸行の小路なり。四五寸と言うは、衆生の四大・五陰に喩うるなり。SIN:J:SYOZEN2-67/HON-234,235,HOU-345-
〇真知以下私御釈中。問。道路差別大小難思。如字訓者。路有大訓。殆可配当勝義。云何。答。如比解釈。依一分理一往配釈。是常事也。不可一概。但思今釈。道者理也。又云。道義又有衆妙所寄之文。依此義故。釈云本願一実直通。路字雖有大訓。未及道字之訓。故有此釈。言言四五寸等者。問。四五寸者白道分量。其白道者是信心也。其体清浄。其性真実。五陰四大体性相異。似有法譬不斉之過。云何。答。此疑難決。且述一義。弥陀名号念仏三昧。広大善根無上法也。故華厳云。修大善根念仏三昧。大経説云。一念大利無上功徳。要決釈云。故成大善不廃往生。十因判云即成広大無尽善根。自余文証不遑具挙。依之今師云大信心。云大信海。所行行体是大善故。能信信心亦復広大。何況三心即菩提心。安楽集釈菩提心云。此心広大周遍法界。此心長遠尽未来際。已上。当知所言信心白道。広大無辺実無辺際。就此思之。凡夫行者所発信心。由他力故。是雖広大。貪瞋覆故謂其心微。実非狭小。是於四大五陰所成凡身之上所発心故。云四五寸。若依此義有此釈歟。是以愚推。致此料簡。請後学者用否在心。SYOZEN2-289/TAI6-299
〇「真知」以下、私の御釈の中に、問う、道路の差別は大小思い難し。字訓の如きは、路に大の訓あり。殆ど勝義に配当すべし、云何。答う。かくの如きの解釈は一分の理に依りて、一往の配釈はこれ常の事なり。一概すべからず。但し今の釈を思うに、道とは理なり。また云わく、道の義にまた衆妙所寄の文あり。この義に依るが故に、釈に「本願一実の直通」という。路の字は大の訓ありといえども、未だ道の字の訓に及ばず。故にこの釈あり。「言四五寸」等というは、問う、四五寸とは、白道の分量、その白道とは、これ信心なり。その体清浄なり、その性真実なり。五陰・四大は、体性相異なり、法・譬、不斉の過あるに似たり、云何。答う。この疑は決し難し。且く一義を述ぶ。弥陀の名号、念仏三昧は、広大の善根、無上の法なり。故に『華厳』に「修大善根念仏三昧」といい、『大経』には説きて「一念大利無上功徳」といい、『要決』には釈して「故成大善不廃往生」といい、『十因』には判じて「即成広大無尽善根」という。自余の文証、具に挙ぐるに遑あらず。これに依りて今師は「大信心」といい、「大信海」という。所行の行体はこれ大善なるが故に、能信の信心また広大なり。何に況んや三心即菩提心なり。『安楽集』に菩提心を釈して云わく「この心広大にして法界に周遍す。この心長遠にして未来際と尽くす」と已上。まさに知るべし、いう所の信心の白道は、広大無辺にして実に辺際なし。これに就きてこれを思うに、凡夫の行者の所発の信心は、他力に由るが故に、これ広大なりといえども、貪瞋覆うが故にその心微なりという。実には狭小にあらず。これ四大・五陰所成の凡身の上に於いて発す所の心なるが故に、四五寸という。もしこの義に依りてこの釈あるか。これ愚推を以て、この料簡を致す。請う後の学者、用否、心に在るべし。SYOZEN2-289/TAI6-299
◎言能生清浄願心者。獲得金剛真心也。本願力回向大信心海故不可破壊。喩之如金剛也。
◎(御自釈)能生清浄願心と言うは、金剛の真心を獲得するなり。本願力回向の大信心海なるがゆえに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩うるなり。SIN:J:SYOZEN2-68/-HON-235,HOU-345,346
◎観経義云道俗時衆等。各発無上心。生死甚難厭。仏法復難忻。共発金剛志。横超断四流。正受金剛心相応一念後。果得涅槃者。抄要。
◎(玄義分)『観経義』に、道俗時衆等、おのおの無上心を発せども、生死ははなはだ厭いがたく、仏法また忻いがたし。共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。正しく金剛心を受け、一念に相応して後、果、涅槃を得ん者と云えり。抄要。SIN:SYOZEN2-68/HON-235,HOU-346
〇次観経義。文有三段。就今信心名金剛心。皆引其証。於中初文是玄義分。勧衆偈文。金剛志者。総而言之。広通三心。具三心者。必得横超四流益故。別而言之。此約深心。深心釈云。此心深信由若金剛。是其証也。言四流者。三界見思諸惑是也。一者欲爆流。有二十九物。五部三毒。四諦下疑。十纏是也。言十纏者。無慚無愧嫉慳悔眠掉挙[コン01]沈謂之八纏。加忿与覆云十纏也。二者有瀑流。有二十八物。色無色界五部貪慢。同界四諦各有疑也。三者見爆流。有三十六物。苦下有五。所謂身見辺見戒取見取邪見。集下有二。除身辺戒。滅諦所除全如集諦。道下有三。加戒為異合為十二。三界皆同。故有此数。四者無明瀑流。有十五物。是以三界五部之癡合成此数。謂之百八煩悩而已。是名四瀑流。倶舎論意也。正受等者同偈文也。問。帰三宝偈。普挙因分果分諸位帰仏僧中。為挙極果。先挙因位顕其転勝。果得等者指其極位。即妙覚也。正受等者挙其因位。所謂正受金剛心者。金剛喩定。是入妙覚之無礙道。相応等者。依大品意。即以一念相応之慧。断余残習云正受等。云相応等。皆是指彼等覚後心。果得等者。此即妙覚。是解脱道。而今何証薄地凡夫所発信心。類此等覚金剛心乎。答。如載難勢。等妙二覚仏僧二宝説相皆然。但今所出更非混乱等覚菩薩。断除四十一品無明。証悟四十一分法性。住金剛心。相応一念入其妙覚極果之位。凡聖異浅深雖殊。論其功用共為金剛心之勝利。仍今引之宜得其意。SYOZEN2-289,290/TAI6-315,316
〇次に『観経義』、文に三段あり。今の信心を金剛心と名づくるに就きて、皆その証を引く。中に於いて初の文はこれ『玄義分』勧衆偈の文なり。「金剛志」とは、総じてこれを言わば、広く三心に通ず。三心を具する者は、必ず横超四流の益を得るが故に。別してこれを言わば、これ深心に約す。深心の釈に「この心深く信ぜること、なおし金剛のごとし」という。これその証なり。「四流」というは、三界見思の諸惑これなり。一には欲爆流、二十九物あり。五部の三毒と、四諦の下の疑と、十纏と、これなり。「十纏」というは、無慚と無愧と嫉と慳と悔と眠と掉挙と[コン01]沈と、これを八纏という。忿と覆とを加えて十纏というなり。二には有瀑流、二十八物あり。色・無色界の五部の貪と慢と、同界の四諦におのおの疑あるなり。三には見爆流、三十六物あり。苦の下に五あり。所謂、身見と辺見と、戒取と見取と邪見となり。集の下に二あり。身と辺と戒とを除く。滅諦に除く所は全く集諦の如し。道の下に三あり。戒を加うるを異と為し、合して十二と為す。三界皆同じ。故にこの数あり。四には無明瀑流、十五物あり。これ三界五部の痴を以て合してこの数を成す。これを百八煩悩と謂うのみ。これを四瀑流と名づく。『倶舎論』の意なり。「正受」等とは、同じき偈の文なり。問う。帰三宝の偈に普く因分・果分の諸位を挙ぐとして、仏・僧に帰する中に、極果を挙げんが為に、まず因位を挙げてその転勝を顕わす。「果得」等とは、その極位を指す。即ち妙覚なり。「正受」等とは、その因位を挙ぐ。所謂「正受金剛心」とは、金剛喩定、これ妙覚に入る無礙道なり。「相応」等とは、『大品』の意に依るに、即ち一念相応の慧を以て、余残の習を断ずるを正受等といい、相応等という。皆これ彼の等覚の後心を指す。「果得」等とは、これ即ち妙覚、これ解脱道なり。而るに今何ぞ薄地の凡夫、所発の信心を証すとして、この等覚金剛心に類するや。答う。難勢に載るが如く、等・妙の二覚、仏・僧の二宝、説相みな然なり。但し今出だす所は更に等覚菩薩の四十一品の無明を断除し、四十一分の法性を証悟して、金剛心に住し、一念に相応して、その妙覚極果の位に入ることを混乱するにはあらず。凡聖異にして、浅深殊なりといえども、その功用を論ずるに共に金剛心の勝利たり。仍て今これを引く、宜しくその意を得べし。SYOZEN2-289,290/TAI6-315,316
◎又云。真心徹到厭苦娑婆。忻楽無為永帰常楽。但無為之境不可軽爾即階。苦悩娑婆無由輒然得離。自非発金剛之志。永絶生死之元。若不親従慈尊。何能免長歎。
◎(序分義)また云わく、真心徹到して、苦の娑婆を厭い、楽の無為を忻いて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境は、軽爾としてすなわち階〈かな〉うべからず。苦悩の娑婆は、輙然として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元〈もと〉を絶たんや。もし親〈まのあた〉り慈尊に従いたてまつらずは、何ぞよくこの長歎を免れんと。SIN:SYOZEN2-68/HON-235,HOU-346
〇次所引文。疏序分義欣浄縁釈。此釈観経願我未来以下経文之解釈也。此金剛志帰釈尊心。彼三心者帰弥陀心。二尊雖殊其心是同。故今引之。SYOZEN2-290,291/TAI6-321
〇次の所引の文は『疏』の『序分義』の欣浄縁の釈なり。これは『観経』の「願我未来」以下の経文を釈する解釈なり。この金剛志は釈尊に帰する心、彼の三心は弥陀に帰する心なり。二尊殊なりといえども、その心はこれ同じ。故に今これを引く。SYOZEN2-290,291/TAI6-321
◎又云。言金剛者即是無漏之体也。已上。
◎(定善義)また云わく、金剛と言うは、すなわちこれ無漏の体なりと。已上。SIN:SYOZEN2-68/HON-235,HOU-346
○後一句者。定善義釈。解宝地観。渠下皆以雑色金剛以為底沙之文釈也。上具文云。明渠下底沙作雑宝色。(所引文此次也)。此文雖釈依報勝徳。金剛体性彼此不異。是故引之。SYOZEN2-291/TAI6-324
〇後の一句は『定善義』の釈。宝地観の「渠の下にはみな雑色の金剛を以て、以て底沙とす」の文を解する釈なり。上の具なる文に云わく「渠下の底沙、雑宝の色を作すことを明かす」(所引の文はこの次なり)。この文は依報の勝徳を釈すといえども、金剛の体性は、彼此異ならず。この故にこれを引く。SYOZEN2-291/TAI6-324
◎信知。至心・信楽・欲生。其言雖異。其意惟一。何以故。三心已疑蓋無雑。故真実一心。是名金剛真心。金剛真心是名真実信心。真実信心必具名号。名号必不具願力信心也。是故論主建言我一心。又言如彼名義欲如実修行相応故。
◎(御自釈)信に知りぬ。至心・信楽・欲生、その言異なりといえども、その意惟一なり。何をもってのゆえに、三心すでに疑蓋雑わることなし。故に真実の一心、これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心には必ず名号を具す。名号には必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建めに我一心と言えり。また如彼名義欲如実修行相応故と言えり。SIN:J:SYOZEN2-68/HON-235,236,HOU-346,347
〇私料簡中真実信心必具等者。問。所発信心縦為真実何必其中具足名号。又六字中。言南無者。即是帰命即是安心。何云名号不具願力信心。答。言信心者。是能帰心。対所帰法所発信也。故発信心必具名号。是則経云。発三種心即便往生。是其義也。若不具行既同唯願。何得往生。既往生因。方知発心必具名号。是故今云。真実信心必真名号。又縦唱名若無信心難得往生。経云至心信楽欲生。依信可生。其理灼然。称名之人未必悉具真実信心。又是現量。故有此釈。SYOZEN2-291/TAI6-325,326
〇私の料簡の中に「真実信心必具」等とは、問う、所発の信心は縦い真実たりとも、何ぞ必ずしもその中に名号を具足せん。また六字の中に、南無というは、即ちこれ帰命、即ちこれ安心なり。何ぞ名号は願力の信心を具せずというや。答う。信心というは、これ能帰の心。所帰の法に対して発す所の信なり。故に信心を発せば必ず名号を具す。これ則ち経に「三種の心を発してすなわち往生す」といえる、これその義なり。もし行を具せずは既に唯願に同じ。何ぞ往生を得ん。既に往生の因なり。まさに知りぬ、発心すれば必ず名号を具すということを。この故に今「真実信心は必ず名号を具す」という。また縦い名を唱うとも、もし信心なくば往生を得難し。経に「至心信楽欲生」という。信に依りて生ずべきこと、その理、灼然なり。称名の人は未だ必ずしも悉く真実信心を具せず。またこれ現量なり。故にこの釈あり。SYOZEN2-291/TAI6-325,326
◎凡按大信海者。不簡貴賎緇素。不謂男女老少。不問造罪多少。不論修行久近。非行非善。非頓非漸。非定非散。非正観非邪観。非有念非無念。非尋常非臨終。非多念非一念。唯是不可思議不可説不可称信楽也。喩如阿伽陀薬能滅一切毒。如来誓願薬能滅智愚毒也。
◎(御自釈)おおよそ大信海を按ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず、善にあらず、頓にあらず、漸にあらず、定にあらず、散にあらず、正観にあらず、邪観にあらず、有念にあらず、無念にあらず、尋常にあらず、臨終にあらず、多念にあらず、一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。たとえば亜伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。SIN:J:SYOZEN2-68/HON-236,HOU-347
〇云不簡等。云不謂等。明不簡機。十方衆生無所簡故。SYOZEN2-291/TAI6-326
〇「不簡」等といい、「不謂」等というは、機を簡ばざることを明かす。十方衆生、簡ぶ所なきが故に。SYOZEN2-291/TAI6-326
〇不問等者。明非依罪不得往生。不論等者。明生不由自力之功。散善義云。不問時節久遠。法事讃云。無問罪福時多少等。是其意也。非行等者。問。称名念仏既是正行亦是大行。何云非行。既是勝善。亦是大善。何云非善。既是頓教。何云非頓。既是散称。何云非散。本非観念何論邪正。既有所念。何非有念。尋常臨終共修行時。何皆云非。多念一念倶許往生。何各云非。答。名号雖為大行大善。是所行法。今能信心。是故且云非行非善。言漸頓者。是約宗旨。不関信心。故亦云非。言定散者此有二意。一者指法。二者指心。今亦指心。但就指心。非定散者。所言信心為散心故且云非定。而有念仏三昧之名。三昧定故且云非散。故観念法門云。若得定心三昧及口称三昧者。心眼即開見彼浄土一切荘厳。説無窮尽也。已上。又云。言三昧者。即是念仏行人心口称念。更無雑想念念住心。声声相続。心眼即開得見彼仏。了然而現即名為定。亦名三昧。已上。口称之力已見彼土依正二報。故約見仏。有非散義。縦無眼見必有心見。縦現不見。臨終之時及順次生必定見仏。有此義故有三昧名。約此理故云非散也。言非正観非邪観者。如載問端。本非観心。故顕不関邪正之義。言非有念非無念者。雖為有念。不偏拘有。雖非無念不滞有念。是則為遣世俗人謂浄土宗意是有相教。故為権乗之邪見故。言非有念非無念也。依之長盧[サク01]禅師蓮華勝会序云。夫以念為念。以生為生者。常見之所失也。以無念為無念。以無生為無生者。邪見之所惑也。念而無念。生而無生者。第一義諦也。已上。蓋有念仏三昧還源要術。示開往生一門。所以終日念仏。而不乖於無念。熾然往生。而不乖於無生。已上。又正観記解経一心不乱之義。出事一心及理一心。約事一心是為散心。約理一心是為定心。是叶非定散之義。又則亦定亦散義也。甚深之義和会得意。言非尋常非平生者。若約臨終遇善之機此非尋常。若約平生業成之機。是非臨終。不謂尋常不論臨終。只逢仏法時節分済。故共云非。言非多念非一念者。其多念者。是尋常機。其一念者是臨終機。望其機故言之互非。準上応知。滅智愚毒者。問。毒可限愚。何亘智耶。答。一向無智平信尚足。若対小智。又有邪智。還生謬解。自障往生。嫌此障故如此釈也。SYOZEN2-291,292,293/TAI6-341,342
〇「不問」等とは、罪に依りて往生を得ざるにあらざることを明かす。「不論」等とは、生ずることは自力の功に由らざることを明かす。『散善義』には「時節の久遠を問わず」といい、『法事讃』には「罪と福と時との多少を問うことなく」等という。これその意なり。「非行」等とは、問う、称名念仏は既にこれ正行、またこれ大行なり。何ぞ行にあらずというや。既にこれ勝善、またこれ大善なり。何ぞ善にあらずというや。既にこれ頓教なり、何ぞ頓にあらずというや。既にこれ散称なり。何ぞ散にあらずというや。本、観念にあらず。何そ邪正を諭ぜん。既に所念あり。何ぞ有念にあらざらん。尋常・臨終、共に修行の時なり。何ぞみな非というや。多念・一念、倶に往生を許す。何ぞおのおの非というや。答う。名号は大行・大善たりといえども、これ所行の法なり。今は能信の心なり。この故に且く行にあらず善にあらずという。漸頓というは、これ宗旨に約す。信心に関わらず。故にまた非という。定散というは、これに二の意あり。一には法を指す。二には心を指す。今また心を指す。但し心を指すに就きて、定散にあらずとは、言う所の信心は散心たるが故に且く定にあらずという。而も念仏三昧の名あり。三昧は定なるが故に且く散にあらずという。故に『観念法門』に云わく「もし定心三昧と及び口称三昧を得つれば、心眼即ち開けて、彼の浄土の一切の荘厳を見る。説くとも窮尽することなけん」已上。また云わく「三昧というは即ちこれ念仏の行人、心口に称念して、更に雑想なく、念念に心を住し、声声に相続して、心眼即ち開けて彼の仏を見ることを得て、了然として現ずるを即ち名づけて定と為す。また三昧と名づく」已上。口称の力、已に彼の土の依正二報を見る。故に見仏に約すれば、非散の義あり。縦い眼見なけれども必ず心見あり。縦い現に見ざれども、臨終の時及び順次生に必定して見仏す。この義あるが故に三昧の名あり。この理に約するが故に非散というなり。「正観にあらず、邪観にあらず」というは、問端に載るが如く、本、観心にあらざるが故に邪正に関わらざる義を顕わす。「有念にあらず、無念にあらず」というは、有念たりといえども、偏に有に拘らず、無念にあらずといえども、有念に滞らず。これ則ち世俗の人の、浄土宗の意はこれ有相の教なり、故に権乗たりと謂〈おも〉える邪見を遣らんが為の故に、有念にあらず、無念にあらずというなり。これに依りて長盧の[サク01]禅師の『蓮華勝会の序』に云わく「それ念を以て念と為し、生を以て生と為るは、常見の失する所なり。無念を以て無念と為し、無生を以て無生と為すは邪見の所惑なり。念にして念なく、生にして無生なるは第一義諦なり。已上。蓋し念仏三昧あり、還源の要術、示開往生の一門なり。所以に終日に念仏すれども、無念に乖かず。熾然に往生すれども、無生に乖かず」已上。また『正観記』に経の一心不乱の義を解するに、事の一心及び理の一心を出だす。事の一心に約すれば、これ散心たり。理の一心に約すれば、これ定心たり。これ非定非散の義に叶う。また則ち亦定亦散の義なり。甚深の義、和会して意を得よ。「尋常にあらず、平生にあらず」というは、もし臨終遇善の機に約すれば、これ尋常にあらず。もし平生業成の機に約すれば、これ臨終にあらず。尋常をいわず、臨終を論ぜず。ただ仏法に逢う時節の分済なり。故に共に非という。「多念にあらず、一念にあらず」というは、その多念とは、これ尋常の機なり。それ一念とは、これ臨終の機なり。その機に望むるが故に、これを互に非ずという。上に準じて知るべし。「智愚の毒を滅す」とは、問う、毒は愚に限るべし。何そ智に亘らんや。答う。一向の無智は平信尚足す。もし小智に対し、また邪智あるは、還りて謬解を生じて、自ら往生を障う。この障を嫌うが故にかくの如く釈するなり。SYOZEN2-291,292,293/TAI6-341,342
◎然就菩提心有二種。一者竪。二者横。又就竪復有二種。一者竪超。二者竪出。竪超・竪出明権実顕蜜大小之教。歴劫迂回之菩提心・自力金剛心・菩薩大心也。亦就横復有二種。一者横超。二者横出。横出者正雑定散他力中之自力菩提心也。横超者斯乃願力回向之信楽。是曰願作仏心。願作仏心即是横大菩提心。是名横超金剛心也。横竪菩提心。其言一而其心雖異。入真為正要。真心為根本。邪雑為錯。疑情為失也。忻求浄刹道俗。深了知信不具足之金言。永応離聞不具足之邪心也。
◎(御自釈)しかるに菩提心について二種あり。一には竪、二には横なり。また竪につきて、また二種あり。一には竪超、二には竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心なり、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横につきて、また二種あり。一には横超、二には横出なり。横出とは、正雑・定散・他力の中の自力の菩提心なり。横超とは、これすなわち願力回向の信楽なり。これを願作仏心と曰う。願作仏心は、すなわちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。横竪の菩提心、その言一にしてその心異なりといえども、入真を正要し、真心を根本とす。邪雑を錯とし、疑情を失とするなり。忻求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知して、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。SIN:J:SYOZEN2-68,69/HON-236,237,HOU-347,348
〇然就等者。此有二双四重之釈。所謂竪出竪超横出横超是也。所立差異在文可見。又第六巻及愚禿鈔委有此事。可見彼文。問。今之名目出何典耶。答。楽邦文類第四。桐江択瑛法師。弁横竪二出文。云竪出者。声聞修四諦。縁覚修十二因縁。菩薩修六度万行。此渉地位。譬如及第須自有才学。又如歴任転官須有功効。横出者。念仏求生浄土。譬如蔭叙功由祖父他力不問学業有無。又如覃恩普博功由国王不論歴任浅深。於横出中有定散二善。故善導和尚立専雑二修。雑修者。謂散謾修諸善業回向荘厳也。専修者。身須専礼阿弥陀仏。不雑余礼。口須専称阿弥陀仏。不称余号。不誦余経呪。意須専想阿弥陀仏不修余観。若専修者。十即十生。百即百生。若雑修者。百中或得一両人生。千中或得三五人生。今見世人。有一日礼阿弥陀仏。三千拝者日称阿弥陀仏。十万声者。有昼夜専想阿弥陀仏者。並有感応。斯可験也。已上。本依斯釈。又加私義。問。如今釈者。唯有二出不載二超。故竪出中不分権実。普摂諸教。横出之中不弁浅深。総約浄教。是則定散専雑等也。何加二超而違彼説。答。於聖道門有三乗家。有一乗家。三乗教意不分権実。一乗教意専存権実。今依一乗。可有差別。仍立竪超。別為速疾成仏一門。又聖道意雖立浄教。不及定散弘願分別。又無正助二門差降。依宗家意。既分其差。随而釈中有横超言。依之。択瑛横出之言与高祖師構超之言[キョウ01]合彼此。横一門中出名権教迂回之教。超象実教速疾之道。又対横超。竪中可有超義之故有此分別。乍守本説而開義門。巧叶両師所立名義。尤可依憑。SYOZEN2-293,294/TAI6-362,363
〇「然就」等とは、これに二双四重の釈あり。所謂、竪出・竪超・横出・横超これなり。所立の差異、文に在りて見つべし。また第六巻及び『愚禿鈔』に委しくこの事あり。彼の文を見つべし。問う。今の名目は何の典に出らつぞや。答う。『楽邦文類』の第四、桐江の択瑛法師、横竪二出を弁ずる文に云わく「竪出とは、声聞は四諦を修し、縁覚は十二因縁を修し、菩薩は六度万行を修す。これ地位を渉る。譬えば及第の、須く自ら才学あるべきが如し。また歴任転官の須く功効あるべきが如し。横出とは念仏して、浄土に生ぜんことを求む。譬えば蔭叙の功は祖父の他力に由りて学業の有無を問わざるが如し。また恩を覃すこと普博にして功は国王に由りて歴任の浅深を論ぜざるが如し。横出の中に於いて定散の二善あり。故に善導和尚は専雑二修を立つ。雑修とは謂わく散謾にして諸の善業を修して回向荘厳するなり。専修とは、身に須く阿弥陀仏を専礼して、余礼を雑えざるべし。口に須く阿弥陀仏を専称して、余号を称せず、余の経呪を誦せざるべし。意に須く阿弥陀仏を専想して、余観を修せざるべし。もし専修の者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。もし雑修の者は、百の中に或いは一両人の生ずることを得、千の中に或いは三・五の人の生ずることを得。今、世人を見るに、一日に阿弥陀仏を礼すること三千拝する者、日に阿弥陀仏を称うるに十万声なる者あり。昼夜に阿弥陀仏を専想する者あり。並びに感応あり。これ験ずべきなり」已上。本この釈に依りて、また私の義を加う。問う。今の釈の如きは、ただ二出ありて二超を載せず。故に竪出の中に権実を分かたず、普く諸教を摂す。横出の中に浅深を弁ぜず、総じて浄教に約す。これ則ち定散専雑等なり。何ぞ二超を加えて、彼の説に違するや。答う。聖道門に於いて、三乗家あり、一乗家あり。三乗教の意は権実を分かたず。一乗教の意は専ら権実を存す。今、一乗に依りて、差別ありべし。仍て竪超を立てて、別に速疾成仏の一門と為す。また聖道の意は浄教を立つといえども、定散弘願の分別に及ばず。また正助二門の差降なし。宗家の意に依るに、既にその差を分かつ。随いて釈の中に横超の言あり。これに依りて、択瑛の横出の言と、高祖師の構超の言と、彼此を[キョウ01]合して、横の一門の中に、出は権教迂回の教に名づけ、超は実教速疾の道に象どる。また横超に対して、竪の中に超の義あるべきが故に、この分別あり。本説を守りながら、而も義門を開きて巧みに両師所立の名義に叶う。尤も依憑すべし。SYOZEN2-293,294/TAI6-362,363
◎論註曰。按王舎城所説無量寿経。三輩生中雖行有優劣。莫不発皆無上菩提之心。此無上菩提心即是願作仏心。願作仏心即是度衆生心。度衆生心即是摂取衆生生有仏国土心。是故願生彼安楽浄土者。要発無上菩提心也。若人不発無上菩提心。但聞彼国土受楽無間。為楽故願生。亦当不得往生也。是故言不求自身住持之楽。欲抜一切衆生苦故。住持楽者。謂彼安楽浄土。為阿弥陀如来本願力之所住持。受楽無間也。凡釈回向名義。謂以己所集一切功徳。施与一切衆生。共向仏道。抄出。
◎『論註』に曰わく、王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生の中に行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生ぜんと願ずる者は、要ず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の受楽間〈ひま〉なきを聞きて、楽のためのゆえに生ぜんと願ぜん、また当に往生を得ざるべきなり。このゆえに、言うこころは、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲うがゆえにと。住持楽とは、いわくかの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、受楽間〈ひま〉なきなり。おおよそ回向の名義を釈せば、いわく己が集むる所の一切の功徳をもって、一切衆生に施与して、共に仏道に向かえしめたまうなり。抄出。SIN:SYOZEN2-69/HON-237,238,HOU-348,349
〇次論註文。下巻解義分中。第五善巧摂化章之釈也。名曰善巧摂化意者。以巧方便回向善根摂化衆生之義而已。三輩生中等者。問。寿観両経是開合異。而観経中説未来発心往生之人。謂九品中。中三下三六品是也。寿経三輩共説発心。相違如何。答。雖有異義。且一義云。大経説相順常途説。聖道諸教皆談発心得道義故。観経之中。説未発心皆得往生。由仏力故。諸師所立其義不同。不能具述。問。註家之意許此義耶。答。此有二意。一不許也。今釈或云莫不発皆菩提之心。或云若人不発菩提心故。二所許也。唯嫌三不正許三信往年故也。就第二義。可有即云大経所説菩提心者。則指三信之義趣也。因問。宗家之意依何義耶。答。許未発心之人往生。是為凡夫済度弘願本意故也。凡釈回向名義等者。其意可見。安楽集下云。釈回向名義者。但以一切衆生既有仏性。人人皆有願成仏心。然依所修行業。未満一万劫已来。猶未出火界。不免輪回。是故聖者愍斯長苦。勧回向西為成大益。然回向之功不越於六。何等為六。一者将所修諸業。回向弥陀。既至彼国。還得六通済運衆生。此即不住道也。二回因向果。三回下向上。四回遅向速。此即不住世間。五回施衆生悲念向善。六回入去却分別之心。回向之功只成斯六。已上。今論註文与今回向第五之義。其意同也。SYOZEN2-294,295/TAI6-378,379
〇次に『論註』の文、下巻解義分の中に、第五の善巧摂化章の釈なり。名づけて善巧摂化という意は、巧方便回向の善根を以て衆生を摂化する義ならくのみ。「三輩生中」等とは、問う、『寿』『観』両経はこれ開合の異なり。而るに『観経』の中には未来発心往生の人を説く。謂わく九品の中に、中三・下三の六品、これなり。『寿経』の三輩には共に発心と説く。相違如何。答う。異義ありといえども、且く一義に云わく、『大経』の説相は常途の説に順ず。聖道の諸教はみな発心得道の義を談ずるが故に。『観経』の中には未発心みな往生を得と説く。仏力に由るが故に。諸師の所立は、その義不同なり。具に述ぶるに能わず。問う。註家の意はこの義を許すや。答う。これに二意あり。一には許さざるなり。今の釈に或いは「みな無上菩提の心を発せざるはなし」といい、或いは「もし人、無上菩提心を発せずして」というが故に。二には許す所なり。ただ三不を嫌いて正しく三信の往年を許すが故なり。第二の義に就きて、即ち『大経』所説の菩提心は、則ち三信を指すという義趣あるべし。因みに問う。宗家の意は何の義に依るや。答う。未発心の人の往生を許す。これ凡夫済度の弘願の本意たるが故なり。「凡そ回向の名義を釈せば」等とは、その意見つべし。『安楽集』の下に云わく「回向の名義を釈せば、但し以みれば一切衆生は既に仏性あり。人人みな願成仏の心あり。然も所修の行業に依りて、未だ一万劫を満たざる已来は、なお未だ火界を出でず、輪回を免がれず。この故に聖者はこの長苦を愍みて、回して西に向かえて、為に大益を成さんことを勧む。然るに回向の功は六を越えず。何等をか六と為る。一には所修の諸業を将て弥陀に回向して、既に彼の国に至りて、還りて六通を得て衆生を済運す。これ即ち不住道なり。二には因を回して果に向かう。三には下を回して上に向かう。四には遅を回して速に向かう。これ即ち不住世間なり。五には衆生に回施して、悲念して善に向かう。六には分別の心を回入し去却す。回向の功はただこの六を成ず」已上。今の『論註』の文と、今の回向の第五の義と、その意同じなり。SYOZEN2-294,295/TAI6-378,379
◎元照律師云。他不能為故甚難。挙世未見故希有。
◎(阿弥陀経義疏)元照律師の云わく、他の為すこと能わざるがゆえに甚難なり。世挙って未だ見たてまつらざるがゆえに希有なりといえり。SIN:SYOZEN2-69/HON-238,HOU-349
〇次元照釈。文有三段。共弥陀経義疏文也。初解諸仏互讃之中。諸仏称讃釈迦仏徳。即言能為甚難希有之事経文之釈文也。SYOZEN2-295/TAI6-394
〇次に元照の釈、文に三段あり。共に『弥陀経義疏』の文なり。初は諸仏互讃の中に、諸仏の釈迦の仏徳を称讃して、即ち「能