『六要鈔会本』

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参考のため、下記のように符号を付けました。
◎は『教行信証』の文。〇は『六要鈔』の文。
SYOZEN2-2,3は真宗聖教全書 第2巻 2〜3頁の意。
TAI1-48は仏教大系教行信証 第1巻 48頁の意。
HON-149は東本願寺刊『真宗聖典』149頁の意。
HOU-265は柏原祐義編『真宗聖典』265頁の意。
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  『教行信証六要鈔会本』第二巻  行巻

 ○教行信証六要鈔会本第二 行

 ◎顕浄土真実行文類二

 ○当巻大文第二明行。於中為五。一者題目。二者標挙。題後一行如第一巻。彼総標経名。此別標願名。以下諸巻又同当巻。三者

正釈。自文初下終至下引安楽集云此亦依聖教文是。広引諸文。少加私釈。四者総結。従斯乃下至云之大行也可知。二行余是。五者

重釈。次従云言他力者下至巻終是。SYOZEN2-228/TAI1-415
  ○当巻大文第二に行を明かす。中に於いて五と為す。一には題目。二には標挙。題の後の一行は第一巻の如し。彼は総じて経名

を標し、これは別して願名を標す。以下の諸巻また当巻に同じ。三には正釈。文初より下終り、下に『安楽集』に「これまた聖教

に依る」と云う文を引くに至るまで、これなり。広く諸文を引き、少しき私の釈を加う。四には総結。「斯乃」より下、「之大行

也可知」というに至るまで、二行余これなり。五には重釈。次に「言他力者」というより下、巻の終わりに至るまで、これなり。

SYOZEN2-228/TAI1-415

 ○初題目中。分二準前。就題第一云教云一。此巻之題云行云二。次第応知。SYOZEN2-228/TAI1-415
  ○初に題目の中に、二に分つこと前に準ず。題に就きて第一には教といい、一という。この巻の題には行といい、二という。次

第知るべし。SYOZEN2-228/TAI1-415

 ◎愚禿釈親鸞集。

 ○撰号如前。SYOZEN2-228/TAI1-428
  ○撰号は前の如し。SYOZEN2-228/TAI1-428

 ◎諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行

 ○二標挙之中。諸仏称名願者。是第十七願也。是則説為往生行之名号願故。当巻出之。凡於四十八願之中此願至要。若無此願。

名号之徳何聞十方。聞而信行此願之力。若無此願超世願意諸仏何証。依証立信又此願恩也。浄土真実行者。往生行中仏本願故。正

以念仏為其生因。故云真実。是称名也。余非本願。故非真実。選択本願行者。其意又同。念仏正是選択本願。余非選択本願之行。

故以念仏云真実行云選択行。SYOZEN2-228/TAI1-429
  ○二に標挙の中に、「諸仏称名の願」とは、これ第十七願なり。これ則ち往生の行たる名号を説く願なるが故に当巻にこれを出

だす。凡そ四十八願の中に於いて、この願は至要なり。もしこの願なくば、名号の徳は何ぞ十方に聞こえん。聞きて信行するはこ

の願の力なり。もしこの願なくば、超世の願意、諸仏は何んぞ証せん。証に依りて信を立つるは、またこの願の恩なり。浄土真実

の行とは、往生の行の中に仏の本願なるが故に正しく念仏を以てその生因と為す。故に真実という。これ称名なり。余は本願に非

ず。故に真実に非ず。選択本願の行とは、その意また同じ。念仏は正しくこれ選択本願なり。余は選択本願の行にあらず。故に念

仏を以て真実の行と云い、選択の行と云う。SYOZEN2-228/TAI1-429

 ◎謹按往相回向。有大行有大信。大行者則称無礙光如来名。斯行即是摂諸善法。具諸徳本。極速円滿。真如一実功徳宝海。故名

大行。然斯行者出於大悲願。即是名諸仏称揚之願。復名諸仏称名之願。復名諸仏咨嗟之願。亦可名往相回向之願。亦可名選択称名

之願也。
  ◎(御自釈)謹んで往相回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行というは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。この行

は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。故に大行と名づく。

しかるにこの行は、大悲の願より出でたり。すなわちこれ諸仏称揚の願と名づく。また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願

と名づく。また往相回向の願と名づくべし。また選択称名の願と名づくべきなり。GYO:J:SYOZEN2-5/HON-157,HOU-271

 ○三就正釈中分文為二。自文初下至之願也。先標行体。兼挙願名。従云諸仏称名願下正引諸文。SYOZEN2-228/TAI1-445-
  ○三に正釈の中に就きて文を分かちて二と為す。文の初より下、「之願也」に至りまでは、先ず行体を標し、兼ねて願名を挙ぐ

。「諸仏称名の願」と云うより下は正に諸文を引く。SYOZEN2-228/TAI1-445-

 ○言謹按者。発端之詞。往相回向如前巻述。-SYOZEN2-229/TAI1-445-
  ○「謹按」と言うは発端の詞なり。往相の回向は前の巻に述ぶるが如し。-SYOZEN2-229/TAI1-445-

 ○摂諸善法者。玄義云。無量寿者是法。覚者是人。人法並彰故名阿弥陀仏。已上。法所覚法。覚能覚人。其所覚法乃是八万四千

法門。因行果徳無法不備。摂諸善法之義応知。-SYOZEN2-229/TAI1-445-
  ○「諸の善法を摂す」とは、『玄義』に云わく「無量寿とはこれ法。覚とはこれ人。人法並べ彰わすが故に阿弥陀仏と名づく」

已上。法は所覚の法。覚は能覚の人なり。その所覚の法はすなわちこれ八万四千の法門なり。因行・果徳、法として備わらざるこ

となし。諸の善法を摂するの義、まさに知るべし。-SYOZEN2-229/TAI1-445-

 ○具諸徳本者。大経上云。供養一切仏。具足衆徳本。已上。讃饒王徳順求得之。慈恩西方要決云。諸仏願行成此果名但能念号具

包衆徳。已上。-SYOZEN2-229/TAI1-445-
  ○「諸の徳本を具す」とは、『大経』の上に云わく「一切の仏を供養し、もろもろの徳本を具足す」已上。饒王の徳を讃じて順

求してこれを得。慈恩の『西方要決』に云わく「諸仏の願行はこの果名を成ず。ただ能く号〈な〉を念ずれば具に衆徳を包〈か〉

ぬ」已上。-SYOZEN2-229/TAI1-445-

 ○真如等者。唯識論云。真謂真実。顕非虚妄。如謂如常。表無変易。已上。起信論云。所謂心性不生不滅。一切諸法唯依妄念而

有差別。若離心念即無一切境界之相。是故一切法従本已来離言説相。離名字相。離心縁相。畢竟平等無有変移。不可破壊。唯是一

心。故名真如。已上。此真如理雖離言説名字相今此名号即為真如法性正体之義宛然。浄土論説依報相云。彼無量寿仏国土荘厳。第

一義諦妙境界相。已上。論註上解本論真実功徳相文云。有二種功徳。一者従有漏心生不順法性。所謂凡夫人天諸善。人天果報。若

因若果皆是顛倒。皆是虚偽。是故名不実功徳。二者従菩薩智慧清浄業起荘厳仏事。依法性入清浄相。是法不顛倒。不虚偽。名為真

実功徳。已上。又同下釈往生義云。彼浄土是阿弥陀如来清浄本願無生之生。非如三有虚妄生也。何以言之。夫法性清浄畢竟無生。

言生者是得生者之情耳。已上。又嘆名号之功徳云。聞彼阿弥陀如来至極無生清浄宝珠名号投之濁心念念之中罪滅。心浄即得往生。

已上。真如法性第一義諦涅槃無生。皆是一法之異名也。-SYOZEN2-229/TAI1-446-
  ○「真如」等とは、『唯識論』に云わく「真とは謂わく真実。虚妄にあらざることを顕わす。如は謂わく如常。変易なきことを

表わす」已上。『起信論』に云わく「いわゆる心性は不生不滅なり。一切の諸法はただ妄念に依りて而も差別あり。もし心念を離

るれば、即ち一切境界の相なし。この故に一切の法は本よりこのかた言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離る。畢竟平

等にして変移あることなし。破壊すべからず。ただこれ一心なり。故に真如と名づく」已上。この真如の理は言説名字の相を離る

といえども、今この名号は即ち真如法性正体の義たること宛然なり。『浄土論』に依報の相を説きて云わく「彼の無量寿仏の国土

の荘厳は第一義諦妙境界の相なり」已上。『論註』の上に本論の真実功徳相の文を解して云わく「二種の功徳あり。一には有漏心

より生ずるは法性に順ぜず。いわゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒なり。みなこれ虚偽なり

。この故に不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性に依りて清浄の相に入る。この法は顛

倒せず。虚偽ならず。名づけて真実功徳とす」已上。また同じき下に往生の義を釈して云わく「彼の浄土はこれ阿弥陀如来清浄本

願無生の生なり。三有虚妄の生の如くにはあらず。何を以てか、これを言うとならば、それ法性清浄畢竟無生なり。生というは、

これ得生の者の情ならくのみ」已上。また名号の功徳を嘆じて云わく「彼の阿弥陀如来至極無生清浄宝珠名号を聞きて、これを濁

心に投ぐれば、念念の中に罪滅し、心浄くして即ち往生を得」已上。真如・法性・第一義諦・涅槃・無生は、みなこれ一法の異名

なり。-SYOZEN2-229/TAI1-446-

 ○功徳宝海者。今嘆名号功徳甚深殊勝称宝。広大喩海。論云。能令速満足功徳大宝海。已上。註云。使我成仏時値遇我者皆速満

足無上大宝。已上。智光疏云。仏身所有不共功徳。数過塵沙不可測量。故喩如海。已上。-SYOZEN2-229,230/TAI1-446-
  ○「功徳の宝海」とは、今、名号の功徳は甚深殊勝なるを嘆じて宝と称す。広大なるを海に喩う。『論』に云わく「能く速やか

に功徳の大宝海を満足せしむ」已上。註に云わく「我が成仏せん時、我に値遇せん者をして、みな速やかに無上大宝を満足せしめ

ん」已上。智光の疏に云わく「仏身所有の不共の功徳は、数、塵沙を過ぎて測量すべからず。故に海の如しと喩う」已上。-

SYOZEN2-229,230/TAI1-446-

 ○出於大悲願者。問。浄影云。四十八願義要唯三。文別有七。義要三者。一摂法身願。二者摂浄土願。三摂衆生願。四十八中十

二十三及第十七是摂法身。第三十一第三十二是摂浄土。余四十三是摂衆生。文別七者。初十一願為摂衆生。次有両願。是其第二為

摂法身。次有三願。是其第三重摂衆生。次有一願。是其第四重摂法身。次有十三。是其第五重摂衆生。次有両願。是其第六為摂衆

生。下有十六。是其第七重摂衆生。已上。義寂憬興共又同之。然者大悲之言摂衆生義。於摂法身何云大悲。答。解有二義。一云。

雖摂法身専是大悲。所以然者。何於仏意求其名聞。依咨嗟願有仏証誠。依仏証誠衆生帰信。故願仏讃併為利益。故云大悲。一云。

義寂引影已云。此亦多従願相而説。若委細論一一具足。已上。大師又同義寂師意。諸願亘三無所簡歟。摂法身者。玄義云。一一願

言。若我得仏。十方衆生。称我名号。願生我国。下至十念。若不生者。不取正覚。今既成仏。即是酬因之身也。已上。摂浄土者。

礼讃云。四十八願荘厳起。超諸仏刹最為精。已上。摂衆生者。散善義云。四十八願摂受衆生。已上。法事讃云。四十八願慇懃喚。

乗仏願力往西方。已上。若依此義。四十八願一一皆為大悲之誓願耳。-SYOZEN2-230/TAI1-446,447-
  ○「大悲の願より出でたり」とは。問う。浄影の云わく「四十八願、義要はただ三なり。文別に七あり。義要に三とは、一には

摂法身の願、二には摂浄土の願、三には摂衆生の願なり。四十八の中に十二と十三と及び第十七とはこれ摂法身なり。第三十一と

第三十二とはこれ摂浄土なり。余の四十三はこれ摂衆生なり。文別に七とは、初の十一願を摂衆生と為す。次に両願あり。これは

その第二に摂法身と為す。次に三願あり。これはその第三に重ねて摂衆生とす。次に一願あり。これはその第四に重ねて摂法身と

す。次に十三あり。これはその第五に重ねて摂衆生とす。次に両願あり。これはその第六に摂衆生と為す。下に十六あり。これは

その第七に重ねて摂衆生なり」已上。義寂・憬興は共にまたこれに同じ。然れば大悲の言は摂衆生の義なり。摂法身に於いて何ん

ぞ大悲と云うや。答う。解に二義あり。一に云わく。摂法身なりといえども、専らこれ大悲なり。然るゆえんは、何ぞ仏意に於い

てその名聞を求めん。咨嗟の願に依りて仏の証誠あり。仏の証誠に依りて、衆生は帰信す。故に仏讃を願ずるは、しかしながら利

益の為なり。故に大悲と云う。一に云わく。義寂は影を引き已わりて云わく「これまた多く願相に従えて説く。もし委細に論ぜば

一一に具足す」已上。大師また義寂師の意に同じく諸願は三に亘りて簡ぶ所なきか。摂法身とは、『玄義』に云わく「一一に願じ

て言わく。もし我、仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を称して我が国に生ぜんと願ぜん。下、十念に至るまで、もし生ぜず

といわば、正覚を取らじと。今既に成仏したまえり。即ちこれ酬因の身なり」已上。摂浄土とは、『礼讃』に云わく「四十八願の

荘厳より起こりて、諸仏の刹に超えて最も精たり」已上。摂衆生とは、『散善義』に云わく「四十八願をもて衆生を摂受したもう

」已上。『法事讃』に云わく「四十八願慇懃に喚ばいたもう。仏の願力に乗じて西方に往く」已上。もしこの義に依らば、四十八

願一一にみな大悲の誓願たらくのみ。-SYOZEN2-230/TAI1-446,447-

 ○言称揚者。称玉篇云歯証切。遂也。歯陵切。讃也。已上。今用讃義。又云。揚与章切。広韻云。音揚。飛挙也。明也。已上。

-SYOZEN2-230,231/TAI1-447-
  ○「称揚」と言うは、「称」は『玉篇』に云わく「歯証の切。遂なり。歯陵の切。讃なり」已上。今は讃の義を用う。また云わ

く「揚は与章の切」。『広韻』に云わく「音は揚。飛挙なり。明なり」已上。-SYOZEN2-230,231/TAI1-447-

 ○言称名者。此非称念。今称揚彼名号義也。言咨嗟者。憬興云。咨者讃也。嗟者嘆也。已上。広韻云。咨即夷切。嗟也。謀也。

玉篇云。子祇切。謀也。嗟也。広韻云。嗟子邪切。咨也。嘆也。痛惜也。-SYOZEN2-231/TAI1-447
  ○「称名」と言うは、これ称念にあらず。今、彼の名号を称揚する義なり。「咨嗟」と言うは、憬興の云わく「咨とは讃なり。

嗟とは嘆なり」已上。『広韻』に云わく「咨は即夷の切。嗟なり。謀なり」。『玉篇』に云わく「子祇の切。謀なり。嗟なり」。

『広韻』に云わく「嗟は子邪の切。咨なり。嘆なり。痛惜なり」。-SYOZEN2-231/TAI1-447

 ◎諸仏称名願。大経言。設我得仏。十方世界無量諸仏。不悉咨嗟称我名者。不取正覚。已上。
  ◎諸仏称名の願。『大経』に言わく、設い我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して我が名を称せずは、正覚

を取らじと。已上。GYO:SYOZEN2-5/HON-157,HOU-271

 ○初願文中。設我得仏即是願也。弘誓心堅成仏決定。雖然在因欣求極果。辞非聊爾故且云設。言諸仏者。問。報化之中是何身耶

。答。可亘報化。如証誠仏。不取正覚即是誓也。合願首尾謂之誓願。諸願如斯。SYOZEN2-231/TAI1-485
  ○初に願文の中に「設我得仏」は即ちこれ願なり。弘誓心堅く成仏決定す。然りといえども、因に在りて極果を欣求す。辞〈こ

と〉聊爾にあらざるが故に且く設という。「諸仏」というは、問う、報化の中にはこれ何の身ぞや。答う、報化に亘るべし。証誠

の仏の如し。「不取正覚」は即ちこれ誓なり。願の首尾を合してこれを誓願という。諸願かくの如し。SYOZEN2-231/TAI1-485

 ◎又言。我至成仏道。名声超十方。究竟靡所聞。誓不成正覚。為衆開宝蔵。広施功徳宝。常於大衆中説法師子吼。抄要。
  ◎(大経)また言わく、我、仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじと。

衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施し、常に大衆の中にして説法師子吼せんと。抄要。GYO:SYOZEN2-5/HON-157,HOU-271

 ○次文重誓願之文也。六八願上重有此誓。是故此偈云重誓偈。而十一行偈文之中。今之所引。第三行与第八行也。問。引此二行

其要如何。答。十一行中初一行総望六八願決定満足。次二行別如次望欲済衆生苦名聞十方。義寂云。望三種果。一望満願果。二望

大施果。三望名聞果。已上。依此三誓此偈又名云三誓偈。引第三行。今欲宣説咨嗟願意。今偈是為当願意故。引第八行。十一行内

第四行下。挙其仏徳順求之中。嘆仏自行化他功徳有其重重。今文重挙化他之徳。是最要也。如寂意者。自第四行至第十行望七種果

。今於其中。五求無畏方便果文。説法師子吼者。是則無畏徳也。大論七云。又如師子四足獣中独歩無畏能伏一切。仏亦如是。於九

十六種外道中一切降伏。故名人師子。已上。梵云迦羅。此云無畏。又云師子。開其法蔵施功徳宝。是則摂諸善法具諸徳本故也。問

。経云法蔵。今云宝蔵。如何。答。所覧之本有其異歟。又法即法。宝是寄喩。法喩不違。其義無失。SYOZEN2-231/TAI1-490,491
  ○次の文は重誓の願の文なり。六八の願の上に重ねてこの誓あり。この故にこの偈を重誓偈という。しかるに十一行の偈文の中

に、今の所引は、第三行と第八行となり。問う、この二行を引く、その要はいかん。答う、十一行の中に初の一行は総じて六八の

願の決定して満足せんことを望む。次の二は行して別して次の如く衆生の苦を済い、名の十方に聞えんことを望欲す。義寂の云わ

く「三種の果を望む。一には満願の果を望む。二には大施の果を望む。三には名聞の果を望む」已上。この三誓に依りて、この偈

をまた名づけて三誓偈という。第三行を引くことは、今、咨嗟の願の意を宣説せんと欲するに、今の偈はこれ当願の意たるが故に

。第八行を引くことは、十一行の内に第四行の下は、その仏徳を挙げて順求する中に、仏の自行化他の功徳を嘆ずるに、その重重

あり。今の文は重ねて化他の徳を挙ぐ。これ最要なり。寂の意の如きは、第四行より第十行に至るまでは七種の果を望む。今、そ

の中に於いて五に無畏方便の果を求むる文なり。「説法師子吼」とは、これ則ち無畏の徳なり。『大論』の七に云わく「また師子

の四足の獣の中に独歩無畏にして能く一切を伏するが如く、仏もまたかくの如し。九十六種の外道の中に於いて一切降伏す。故に

人師子と名づく」已上。梵には迦羅という。此には無畏という。また師子という。その法蔵を開きて功徳の宝を施したもう。これ

則ち諸の善法を摂し、諸の徳本を具するが故なり。問う、経には「法蔵」といい、今は「宝蔵」という、いかん。答う、所覧の本

にその異あるか。また法は即ち法。宝はこれ喩に寄す。法喩違せず。その義に失なし。SYOZEN2-231/TAI1-490,491

 ◎願成就文経言。十方恒砂諸仏如来。皆共讃嘆無量寿仏威神功徳不可思議。已上。
  ◎(大経)願成就の文、経に言わく、十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。已上。

GYO:SYOZEN2-5,6/HON-158,HOU-271

 ○次就願成就文。言十方者。問。弥陀経中説為六方。今云十方。差別如何。答。是開合異。彼此無爽。阿弥陀経合為六方。今此

大経開為十方。称讃浄土又説十方。是故慈恩弥陀経疏釈六方証誠云。称讃浄土経云十方諸仏。此略挙六方。已上。高祖解釈又以随

宜。礼讃云。十方如来舒舌証。専称名号至西方。已上。法事讃云。十方恒沙仏。舒舌証我凡夫生安楽。已上。又云。十方恒沙諸仏

共讃釈迦。舒舌遍覆三千証得往生非謬。已上。又云。十方恒沙諸世尊。不捨慈悲巧方便。共讃弥陀弘誓門。已上。般舟讃云。十方

如来舒舌証定判九品得還帰。已上。是等諸文皆判十方。法事讃云。六方如来。皆讃嘆釈迦出現甚難逢。已上。又云。六方如来証不

虚。已上。又云。六方諸仏護念信心。已上。是等諸文皆云六方。又礼讃云。十方如来舒舌証。或云六方。異本不同。言威神功徳者

。観経中説仏功徳云。為説阿弥陀仏十力威徳。広説彼仏光明神力。亦讃戒定慧解脱知見。已上。就之思之。威者十力威徳。此是如

来不共勝徳自在妙用。一一名義至下可詳。神者光明神力。滅罪生善抜苦与楽等之利益。是則十二光仏功能。戒等乃是五分法身功徳

而已。是私料簡。智者思択。SYOZEN2-232/TAI1-498,499
  ○次に願成就の文に就きて、「十方」というは、問う、『弥陀経』の中には説きて六方と為し、今は十方という。差別いかん。

答う、これ開合の異なり。彼此爽〈たが〉うことなし。『阿弥陀経』には合して六方と為し、今この『大経』には開きて十方と為

し、『称讃浄土』にはまた十方と説く。この故に慈恩の『弥陀経疏』に六方の証誠を釈して云わく「称讃浄土経には十方諸仏とい

う。此には略して六方を挙ぐ」已上。高祖の解釈もまた以て宜しきに随う。『礼讃』に云わく「十方の如来は舌を舒べて証したも

う。専ら名号を称して西方に至る」と已上。『法事讃』に云わく「十方恒沙の仏は、舌を舒べて我、凡夫の安楽に生ぜんことを証

したもう」已上。また云わく「十方恒沙の諸仏は共に釈迦を讃じて、舌を舒べて遍く三千を覆いて往生を得ることの謬にあらざる

ことを証したもう」已上。また云わく「十方恒沙の諸の世尊は、慈悲巧方便を捨てずして共に弥陀弘誓の門を讃じたまう」已上。

『般舟讃』に云わく「十方の如来は舌を舒べて、定んで九品を判じて還帰することを得と証したもう」已上。これ等の諸文はみな

十方と判ず。『法事讃』に云わく「六方の如来は、みな釈迦の出現の甚だ逢い難きことを讃嘆したもう」已上。また云わく「六方

の如来は不虚を証したもう」已上。また云わく「六方の諸仏は信心を護念したもう」已上。これ等の諸文はみな六方という。また

『礼讃』に云わく「十方の如来は舌を舒べて証したもう」。或いは「六方」という。異本の不同なり。「威神功徳」というは、『

観経』の中に仏の功徳を説きて云わく「為に阿弥陀仏の十力威徳を説き、広く彼の仏の光明神力を説き、また戒定慧解脱知見を讃

ず」已上。これに就きてこれを思うに、「威」とは十力威徳なり。これはこれ如来不共の勝徳、自在の妙用なり。一一の名義は下

に至りて詳にすべし。「神」とは光明神力・滅罪生善・抜苦与楽等の利益なり。これ則ち十二光仏の功能なり。戒等は乃ちこれ五

分法身の功徳ならくのみ。これ私の料簡なり。智者思択せよ。SYOZEN2-232/TAI1-498,499

 ◎又言。無量寿仏威神無極。十方世界無量無辺不可思議諸仏如来。莫不称嘆於彼。已上。
  ◎(大経)また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなしと。已上

GYO:SYOZEN2-6/HON-158,HOU-272

 ○次文讃嘆摂聖之徳文之初也。謂上三輩讃摂凡徳。今至此文嘆摂聖徳。憬興云。欲令凡小増欲生之意。故須顕彼国土之勝。已上

。義寂初従此文終至四維上下亦復如是取為一科。釈云。自下顕示観仏土荘厳功徳成就。先以直説略讃。後以偈頌広讃。直説讃中威

神功徳以二事顕。一者十方諸仏同称嘆故。二者十方菩薩皆詣彼所受道化故。已上。其中今又諸仏称嘆之文是也。是則当願成就之意

。又於此文有其二意。初之八字釈迦讃嘆。十方以下諸仏讃嘆。問。於彼二字属下東方得其言便。依之浄影云於彼下大聖往詣。何今

属上。答。影釈然也。但憬興師以此二字属上句末。今依興意引用如此。SYOZEN2-232,233/TAI1-503
  ○次の文は摂聖の徳を讃嘆する文の初なり。謂く上の三輩に摂凡の徳を讃じ、今この文に至りて摂聖の徳を嘆ず。憬興の云わく

「凡小をして欲生の意を増さしめんと欲す。故にすべからく彼の国土の勝れたることを顕わすべし」已上。義寂は初めこの文より

、終わり「四維上下亦復如是」に至るまでを取りて一科と為す。釈して云わく「自下は仏土の荘厳功徳成就を観ずることを顕示す

。まず直説を以て略して讃じ、後には偈頌を以て広く讃ず。直説の讃の中に威神功徳は二事を以て顕わす。一には十方の諸仏は同

じく称嘆したもうが故に。二には十方の菩薩はみな彼の所に詣でて道化を受くるが故に」已上。その中に今また諸仏称嘆の文これ

なり。これ則ち当願成就の意なり。またこの文に於いて、その二の意あり。初の八字は釈迦の讃嘆なり。「十方」以下は諸仏の讃

嘆なり。問う、「於彼」の二字は下の東方に属するを、その言の便を得ん。これに依りて浄影は「於彼」の下は大聖の往詣という

。何ぞ今、上に属するや。答う、影の釈然なり。但し憬興師はこの二字を以て上の句の末に属す。今は興の意に依りて引用するこ

とかくの如し。SYOZEN2-232,233/TAI1-503

 ◎又言。其仏本願力。聞名欲往生。皆悉到彼国。自致不退転。已上。
  ◎(大経)また言わく、その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に到りて自ずから不退転に致る

と。已上。GYO:SYOZEN2-6/HON-158,HOU-272

 ○次文即是彼偈中文。依浄影意。彼偈之中明仏讃嘆。挙往覲益明其五益。一神通益。二受記益。三不退益。四起願益。五供仏益

。今偈第三明不退益之経文也。因茲以今一四句偈合上住正定聚之義。憬興又同。今諸句中引此偈意。仏讃嘆中名号称歎是其最要。

是則専為当願意故。問。今所言之本願力者。指何願乎。答。指第十七云本願力。問。六八願中以第十八為仏本願自他共許。更無異

義。第十七願何関其言。答。十七十八更不相離。行信能所機法一也。総而言之四十八願皆是本願。別而言之以第十八為其本願。誰

以成諍。為願王故。但今経文為至要故。十七十八両願倶存。所行能信共以周備。第一句者指第十七。是名号故。第二第三之両句者

指第十八。是明信心説往生故。第四一句指第十一。明不退故。今引当巻口称為本。第十七意。総言之時此文専為十八願意置而不論

。問。所言不退是何位耶。答。若約摂凡是処不退。若約摂聖是行不退。又存平生業成之義。又依護念不退之意。隠又可有即得往生

不退之義者也。問。今偈頌是明摂聖益。何故有約摂凡義耶。答。明摂聖益其意為勧凡夫小聖欲生之心。故摂聖中雖有此文。其意専

在摂凡之益。摂凡夫人仏本意故。SYOZEN2-233,234/TAI1-507,508
  ○次の文は即ちこれ彼の偈の中の文なり。浄影の意に依るに、彼の偈の中に仏の讃嘆を明かし、往覲の益を挙ぐるにその五の益

を明かす。一には神通の益。二には受記の益。三には不退の益。四には起願の益。五には供仏の益。今の偈は第三に不退の益を明

かす経文なり。これに因りて今の一四句の偈を以て上の住正定聚の義に合す。憬興もまた同じ。今の諸句の中にこの偈を引く意〈

こころ〉は、仏の讃嘆の中に名号の称歎、これその最要なり。これ則ち専ら当願の意たるが故なり。問う、今言う所の「本願力」

とは、何れの願を指すや。答う、第十七を指して本願力という。問う、六八願の中に第十八を以て仏本願とすること、自他共に許

す。更に異義なし。第十七の願、何ぞその言に関〈あずか〉らん。答う、十七・十八更に相い離れず。行信・能所・機法一なり。

総じてこれを言わば、四十八願は皆これ本願なり。別してこれを言わば第十八を以てその本願と為ること誰か以て諍を成さん。願

王たるが故に。但し今の経文、至要たるが故に、十七・十八両願は倶に存し、所行・能信共に以て周備す。第一の句は第十七を指

す。これ名号なるが故に。第二・第三の両句は第十八を指す。これ信心を明し往生を説くが故に。第四の一句は第十一を指す。不

退を明かすが故に。今当巻に引くことは口称を本と為す。第十七の意なり。総じてこれを言う時、この文は専ら十八の願の意たる

こと、置きて論ぜず。問う、いう所の不退はこれ何の位ぞや。答う、もし摂凡に約せばこれ処不退なり。もし摂聖に約せば行不退

あり。また平生業成の義を存し、また護念不退の意に依る。隠にまた即得往生不退の義あるべきものなり。問う、今の偈頌はこれ

摂聖の益を明かす。何の故に摂凡に約する義あらんや。答う。摂聖の益を明かすことは、共に意は凡夫小聖欲生の心を勧めんが為

なり。故に摂聖の中にこの文ありといえども、その意は専ら摂凡の益に在り。凡夫人を摂するは仏の本意なるが故に。SYOZEN2-

233,234/TAI1-507,508

 ◎無量寿如来会言。今対如来発弘誓。当証無上菩提因。若不満足諸上願。不取十力無等尊。心或不堪常行施。広済貧窮免諸苦。

利益世間使安楽。乃至。最勝丈夫修行已。於彼貧窮為伏蔵。円満善法無等倫。於大衆中師子吼。已上抄出。
  ◎『無量寿如来会』に言わく、いま如来に対して弘誓を発せり。当に無上菩提の因を証すべし(証 諸応の反 験なり)。もし

もろもろの上願を満足せずは、十力無等尊を取らじと。心あるいは常行に堪ざらんものに施せん。広く貧窮を済いてもろもろの苦

を免れしめん。世間を利益して安楽ならしめんと。乃至。最勝丈夫修行し已りて、かの貧窮において伏蔵とならん。善法を円満し

て等倫なけん。大衆の中にして師子吼せんと。已上抄出。GYO:SYOZEN2-6/HON-158,HOU-272

 ○次宝積文中。初之四句無量寿経重誓偈中第一行意。次之三句第二行意。次之四句前所引之第八行意。就其文中。今対如来者。

指世饒王仏。発弘誓者四十八願。十力無等尊者。指無上仏果位。言十力者仏不共徳。見倶舎論第二十七。今不出文。粗示大綱。一

処非処智力。是処知是処非処知非処。此智通縁一切情与非情之境。二業異熟智力。此智分別一切種類業因所感之異熟也。三等持等

至智力。所謂如実知諸三昧静慮相也。四根上下智力。謂知有情信等諸根上下相也。言信等者信進念定及慧是也。五種種勝解力。謂

知有情勝意楽別。六種種界智力。知諸有情前際無始所成志性随眠及以諸法種種相也。七遍趣行智力。謂如実知生死因果。八宿住随

念智力。謂如実知自他宿住之諸事也。九死生智力。知諸有情未来世之此死生彼。十漏尽智力。謂漏尽身所得智也。SYOZEN2-

234/TAI1-516
  ○次に『宝積』の文の中に、初の四句は『無量寿経』の重誓偈の中の第一行の意なり。次の三句は第二行の意なり。次の四句は

前に引く所の第八行の意なり。その文の中に就きて、「今、如来に対して」とは、世饒王仏を指す。「弘誓を発す」とは四十八願

なり。「十力無等尊」とは、無上仏果の位を指す。十力というは仏の不共の徳なり。『倶舎論』の第二十七に見えたり。今は文を

出さず。ほぼ大綱を示す。一には処非処智力なり。この処をこの処と知り、非処を非処と知る。この智通じて一切の情と非情の境

とを縁ず。二には業異熟智力なり。この智は一切の種類業因所感の異熟を分別するなり。三には等持等至智力なり。いわゆる実の

如く諸の三昧静慮の相を知るなり。四には根上下智力なり。謂わく有情の信等の諸根上下の相を知るなり。信等というは、信・進

・念・定及び慧これなり。五には種種勝解力なり。謂わく有情の勝意楽の別を知るなり。六には種種界智力なり。諸の有情の前際

無始所成の志性随眠および諸法の種種の相を知るなり。七には遍趣行智力なり。謂わく実の如く生死の因果を知るなり。八には宿

住随念智力なり。謂わく実の如く自他宿住の諸の事を知るなり。九には死生智力なり。諸の有情の未来世の此死生彼を知るなり。

十には漏尽智力なり。謂わく漏尽身の所得の智なり。SYOZEN2-234/TAI1-516

 ◎又言。阿難。以此義利故。無量無数不可思議無有等等無辺世界諸仏如来。皆共称讃無量寿仏所有功徳。已上。
  ◎(如来会)また言わく、阿難、この義利をもってのゆえに、無量無数不可思議無有等等無辺世界の諸仏如来、みな共に無量寿

仏の所有の功徳を称讃したまうと。已上。GYO:SYOZEN2-6/HON-158,HOU-272

 ○次文同経願成就文。文意可見。SYOZEN2-234/TAI1-536
  ○次の文は同経願成就の文なり。文意、見つべし。SYOZEN2-234/TAI1-536

 ◎仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏檀過度人道経言。第四願。使某作仏時。令我名字皆聞八方上下無央数仏国。皆令諸仏各於比丘

僧大衆中説我功徳国土之善。諸天人民[ケン06]飛蠕動之類。聞我名字莫不慈心。歓喜踊躍者皆令来生我国。得是願乃作仏。不得是願

終不作仏。已上。
  ◎『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(大阿弥陀経)に言わく、第四に願ずらく、それがし作仏せしむ時、我が名

字をもって、みな八方上下無央数の仏国に聞こえしめん。みな、諸仏おのおの比丘僧大衆の中にして、我が功徳・国土の善を説か

しめん。諸天・人民・[ケン06]飛・蠕動の類〈たぐい〉、我が名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せん者、みな我国に来生

せしめん。この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、終に作仏せじと。已上。GYO:SYOZEN2-6/HON-158,159,HOU-272,273

 ○次文大阿弥陀経文。所挙経名是梵語也。貞元録云。阿弥陀経二巻。註云。上巻題云。仏説請仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人

道経。亦名無量寿経。已上。諸請那耶本有異歟。此願含容十七十八両願之意。所謂自初至言之善第十七意。諸天以下第十八意。言

[ケン06]飛者。畜生蠢蠢之種類也。[ケン06]玉篇云。於犬於沾二切。蜀貌。蠕広韻云。而[エン07]切。虫動。同大経只云十方衆生。不及

畜類。相違如何。答。誰謂十方衆生之言不及畜類。畜雖不関至心信楽。是又非無随分之益。故大経云。若在三途勤苦之処。見此光

明。皆得休息無復苦悩。寿終之後皆蒙解脱。已上。SYOZEN2-234,235/TAI1-537,538
  ○次の文は『大阿弥陀経』の文なり。挙ぐる所の経名はこれ梵語なり。『貞元録』に云わく「阿弥陀経二巻。註に云わく、上巻

の題に云わく、仏説請仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経、また無量寿経と名づく」已上。諸と請と、那と耶と、本に異あるか

。この願は十七・十八両願の意を含容す。いわゆる初より「之善」というに至るまでは第十七の意なり。「諸天」以下は第十八の

意なり。「[ケン06]飛」というは、畜生蠢蠢の種類なり。[ケン06]は『玉篇』に云わく「於犬於沿二の切。蜀の貌」。[ナン04]は『広韻

』に云わく「而[エン07]の切。虫動」。同じく『大経』にはただ「十方衆生」という。畜類に及ばず。相違いかん。答う、誰か謂う

、十方衆生の言は畜類に及ばずとは、畜は至心信楽に関らずといえども、これまた随分の益なきにあらず。故に『大経』に云わく

「もし三途勤苦の処に在りてもこの光明を見れば、みな休息を得て、また苦悩なし。寿終の後にみな解脱を蒙る」と已上。

SYOZEN2-234,235/TAI1-538

 ◎無量清浄平等覚経巻上言。我作仏時。令我名聞八方上下無数仏国。諸仏各於弟子衆中嘆我功徳国土之善。諸天人民蠕動之類。

聞我名字皆悉踊躍来生我国。不爾者我不作仏。我作仏時。他方仏国人民。前世為悪聞我名字。及正為道欲来生我国。寿終皆令不復

更三悪道。則生我国在心所願。不爾者我不作仏。
  ◎『無量清浄平等覚経』巻上に言わく、我作仏せん時、我が名をして八方・上下・無数の仏国に聞かしめん。諸仏、おのおの弟

子衆の中にして我が功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類〈たぐい〉、我が名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの

、我が国に来生せしめん。しからずは我作仏せじと。我作仏せん時、他方仏国の人民、前世に悪のために我が名字を聞き、および

正しく道のために我が国に来生せんと欲わん。寿終えてみなまた三悪道に更らざらしむ。すなわち我が国に生まれんこと、心の所

願にあらん。しからずは我作仏せじと。GYO:SYOZEN2-7/HON-159,HOU-273

 ○次覚経文。説相大略同宝積経。令我名聞等者。十七願意。来生我国等者。十八願意。前世為悪等者。又説聞名之益。SYOZEN2

-235/TAI1-549,550
  ○次に『覚経』の文なり。説相は大略『宝積経』に同じ。「令我名聞」等とは、十七の願の意なり。「来生我国」等とは、十八

の願の意なり。「前世為悪」等とは、また聞名の益を説くなり。SYOZEN2-235/TAI1-549,550

 ◎阿闍世王太子及五百長者子。聞無量清浄仏二十四願。皆大歓喜踊躍。心中倶願言。令我等復作仏時皆如無量清浄仏。仏則知之

告諸比丘僧。是阿闍世王太子及五百長者子。却後無央数劫皆当作仏如無量清浄仏。仏言。是阿闍世王太子五百長者子。作菩薩道以

来。無央数劫皆各供養四百億仏已。今復来供養我。是阿闍世王太子及五百人等。皆前世迦葉仏時。為我作弟子。今皆復会。是共相

値也。則諸比丘僧聞仏言。皆心踊躍莫不歓喜者。乃至。
  ◎(平等覚経)阿闍世王太子および五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、みな大いに歓喜し踊躍して、心中にともに

願じて言わまく、我等また作仏せん時、みな無量清浄仏のごとくならしめんと。仏すなわちこれを知ろしめして、もろもろの比丘

僧に告げたまわく、この阿闍世王太子および五百の長者子、無央数劫を却後す。みな当に作仏して無量清浄仏のごとくなるべしと

。仏の言わく、この阿闍世王太子・五百の長者子、菩薩の道を作してこのかた無央数劫に、みなおのおの四百億仏を供養し已りて

、今また来りて我を供養せり。この阿闍世王太子および五百人等、みな前世に迦葉仏の時、我がために弟子と作れりき。今みなま

た会して、これ共にあい値えるなり。すなわちもろもろの比丘僧、仏の言〈みこと〉を聞きて、みな心に踊躍して歓喜せざる者な

けんと。乃至GYO:SYOZEN2-7/HON-159,HOU-273

 ○阿闍世王太子以下。説聞経之益。述宿命事。SYOZEN2-235/TAI1-559,560
  ○「阿闍世王太子」以下は聞経の益を説きて宿命の事を述ぶ。SYOZEN2-235/TAI1-559,560

 ◎如是人聞仏名 快安穏得大利 吾等類得是徳 諸此刹獲所好 無量覚授其決 我前世有本願 一切人聞説法 皆悉来生我国 

吾所願皆具足 従衆国来生者 皆悉来到此国 一生得不退転 速疾超便可到 安楽国之世界 至無量光明土 供養於無数仏 非有

是功徳人 不得聞是経名 唯有清浄戒者 乃還聞斯正法 悪[キョウ02]慢蔽懈怠 難以信於此法 宿世時見仏者 楽聴聞世尊教 人

之命希可得 仏在世甚難値 有信慧不可致 若聞見精進求 聞是法而不忘 便見敬得大慶 則我之善親原 以是故発道意 設令満

世界火 過此中得聞法 会当作世尊将 度一切生老死。已上。
  ◎(平等覚経)かくのごときの人、仏の名を聞きて、快く安穏にして、大利を得ん。我等が類、この徳を得ん。もろもろのこの

刹〈くに〉に好きところを獲ん。無量覚、その決を授け、我、前世に本願あり、一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとく我

が国に来生せん。吾が願ずるところ、みな具足せん。もろもろの国より来生せん者、みなことごとくこの国に来到して、一生に不

退転を得ん。速やかに疾く超えて、すなわち、安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養せん。この功徳あ

るにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒を有〈たも〉てる者、いまし還りてこの正法を聞く。悪と[キョウ

02]慢と蔽と懈怠のものは、もってこの法を信ずること難し。宿世の時、仏を見たてまつる者、楽〈この〉んで世尊の教を聴聞せ

ん。人の命、まれに得べし。仏、世にましませども、はなはだ値〈もうあ〉いがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば、

精進して求めよ。この法を聞きて忘れず、すなわち見て敬い得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親厚なり。これをもってのゆえ

に道意を発せよ。たとい世界に満てらん火とも、この中を過ぎて法を聞くことを得ば、かならず当に世尊と作りて、将に一切生老

死を度せんとすべしと。已上。GYO:SYOZEN2-7,8/HON-159,160,161HOU-273,274

 ○如是人下六言偈者。又聞名徳。非有是下。或説因其功徳聞経。或説因其宿善聞法。或説[キョウ02]慢蔽懈怠機。難信此法等之義

趣。併同大経。其文可見。SYOZEN2-235/TAI1-569,570
  ○「如是人」の下の六言の偈は、また聞名の徳なり。「非有是」の下は、あるいはその功徳に因りて経を聞くことを説き、ある

いはその宿善に因りて法を聞くことを説き、あるいは[キョウ02]慢蔽懈怠の機はこの法を信じ難き等の義趣を説くこと、しかしなが

ら『大経』に同じ。その文、見つべし。SYOZEN2-235/TAI1-569,570

 ◎悲華経大施品之二巻言。曇無讖三蔵訳。願我成阿耨多羅三藐三菩提已。無量無辺阿僧祇余仏世界所有衆生。聞我名者。修諸善

本欲生我界。願其捨命之後必定得生。唯除五逆誹謗聖人廃壊正法。已上。
  ◎『悲華経』大施品の二巻に言わく(曇無讖三蔵の訳)願わくは、我、阿耨多羅三藐三菩提を成り已らんに、無量無辺阿僧祇の

余仏の世界の所有の衆生、我が名を聞かん者、もろもろの善本を修して我が界に生まれんと欲す。願わくはそれ捨命の後、必定し

て生を得しめん。ただ、五逆と、聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとを除かんと。已上。GYO:SYOZEN2-8/HON-161,HOU-275

 ○次悲華文。如文相者十八願歟。而説名号得生之益。故今引之。SYOZEN2-235/TAI2-1
  ○次に『悲華』の文。文相の如きは十八の願か。しかるに名号得生の益を説く。故に今これを引く。SYOZEN2-235/TAI2-1

 ◎爾者称名能破衆生一切無明。能満衆生一切志願。称名則是最勝真妙正業。正業則是念仏。念仏則是南無阿弥陀仏。南無阿弥陀

仏則是正念也。可知。
  ◎(御自釈)しかれば称名は、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。称名はすなわちこれ最勝真

妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、

知るべし。GYO:J:SYOZEN2-8/HON-161,HOU-275

 ○次私釈中。称名以下。至言志願十八字者。論註下釈如彼名義欲如実修行相応之論文之文意也。SYOZEN2-235/TAI2-8,9
  ○次に私の釈の中に、「称名」以下、「志願」というに至るまでの十八字は、『論の註』の下に「如彼名義欲如実修行相応」の

論文を釈する文の意なり。SYOZEN2-235/TAI2-8,9

 ◎十住毘婆沙論曰。有人言。般舟三昧及大悲名諸仏家。従此二法生諸如来。此中般舟三昧為父。又大悲為母。復次般舟三昧是父

。無生法忍是母。如助菩提中説。般舟三昧父。大悲無生母。一切諸如来。従是二法生。家無過咎者家清浄。故清浄者六波羅蜜四功

徳処。方便般若波羅蜜。善慧。般舟三昧大悲諸忍。是諸法清浄無有過。故名家清浄。是菩薩以此諸法為家故無有過咎。転於世間道

入出世上道者。世間道名即是凡夫所行道。転名休息。凡夫道者不能究竟至涅槃。常往来生死。是名凡夫道。出世間者。因是道得出

三界故名出世間道。上者妙故名為上。入者正行道故名為入。以是心入初地名歓喜地。
  ◎『十住毘婆沙論』(入初地品)に曰わく、ある人の言わく、般舟三昧および大悲を諸仏の家と名づく、この二法よりもろもろ

の如来を生ず。この中に般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。また次に、般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり。『助

菩提』の中に説くがごとし。「般舟三昧の父、大悲無生の母、一切のもろもろの如来、この二法より生ず」と。家に過咎なければ

家清浄なり。故に清浄は六波羅蜜と四功徳処と方便と般若波羅蜜と善慧と般舟三昧と大悲と諸忍となり。この諸法清浄にして過〈

とが〉あることなし。故に「家清浄」と名づく。この菩薩、この諸法をもって家とするがゆえに、過咎あることなし。「世間道を

転じて、出世上道に入る」とは、世間道をすなわちこれ凡夫所行の道と名づく。転は休息と名づく。凡夫道とは究竟して涅槃に至

ることあたわず。常に生死に往来す。これを凡夫道と名づく。出世間とはこの道に因って三界を出ずることを得るがゆえに、出世

間道と名づく。上というは、妙なるがゆえに、名づけて上とす。入というは、正しく道を行ずるがゆえに、名づけて入とす。この

心をもって初地に入るを歓喜地と名づくと。GYO:SYOZEN2-8,9/HON-161,162,HOU-275,276

 ○次就十住毘婆沙論文。問。所引文非名号徳。唯説菩薩登地之益。何引之耶。答。下所引之仏法有無量門等者。明難易之道。讃

嘆称名易行之徳。已上文者雖非当用。為明前後委引之歟。将又二行同所欣趣共不退位。即是初地。今明初地見道之相。最是要須。

故広引之。此中言般舟三昧者。般舟讃云。梵語名般舟。此翻名常行道。西国語此翻名為定。乃至。亦名立定見諸仏也。已上。又止

観名仏立三昧。言六波羅密者。所謂六度。一者檀那。此云布施。二者尸羅。此翻為戒。三者[セン08]提。此云忍辱。四毘梨耶。此云

精進。五者禅那。此云禅定。言諸忍者。仁王経中説為五忍。浄影観経義疏釈云。一者伏忍。在於種姓解行位中。覚観諸法。能伏煩

悩故名為伏。二者信忍。初二三地。於無生理信心決定。名為信忍。三順忍。四五六地破相。入如趣順無生名為順忍。四無生忍。七

八九地証実離相。名無生忍。五寂滅忍。十地已上。破相畢竟冥心至寂証大涅槃。名寂滅忍。已上。SYOZEN2-235,236/TAI2-28,30
  ○次に『十住毘婆沙論』の文に就きて、問う、所引の文は名号の徳にあらず。ただ菩薩登地の益を説く。何ぞこれを引くや。答

う、下に引く所の「仏法に無量の門あり」等とは、難易の道を明かして称名易行の徳を讃嘆す。已上の文は当用にあらずといえど

も、前後を明かさんが為に委しくこれを引くか。はたまた二行同じく欣趣する所は共に不退の位、即ちこれ初地なり。今、初地見

道の相を明かす。最もこれ要須なり。故に広くこれを引く。この中に「般舟三昧」というは、『般舟讃』に云わく「梵語には般舟

と名づく。此には翻じて常行道と名づく。西国の語、此には翻じて名づけて定と為す。乃至。また立定見諸仏と名づくるなり」已

上。また『止観』には仏立三昧と名づく。「六波羅密」というは、いわゆる六度なり。一には檀那、此には布施という。二には尸

羅、此には翻じて戒と為す。三には[セン08]提、此には忍辱という。四には毘梨耶、此には精進という。五には禅那、此には禅定と

いう。「諸忍」というは、『仁王経』の中に説きて五忍と為す。浄影の『観経義疏』に釈して云わく「一には伏忍。種姓解行位の

中に在りて、諸法を覚観して、能く煩悩を伏す。故に名づけて伏と為す。二には信忍。初・二・三地に無生の理に於いて信心決定

するを名づけて信忍と為す。三には順忍。四・五・六地に、相を破し如に入りて無生に趣順するを名づけて順忍と為す。四には無

生忍。七・八・九地に実を証し相を離るるを無生忍と名づく。五には寂滅忍。十地已上に相を破し、畢竟じて冥心至寂にして大涅

槃を証するを寂滅忍と名づく」已上。SYOZEN2-235,236/TAI2-28,30

 ◎問曰。初地何故名為歓喜。答曰。如得於初果究竟至涅槃。菩薩得是地。心常多歓善。自然得増長諸仏如来種。是故如此人。得

名賢善者。如得初果者。如人得須陀[オン01]道。善閉三悪道門。見法入法。得法住堅牢法。不可傾動。究竟至涅槃。断見諦所断法故

。心大歓喜。設使睡眠懶堕。不至二十九有。如以一毛為百分以一分毛分取大海水。若二三H苦已滅。如大海水余未滅者。如二三H

心大歓喜。菩薩如是。得初地已。名生如来家。一切天龍夜叉乾闥婆。乃至。声聞辟支等。所共供養恭敬。何以故。是家無有過咎。

故転世間道入出世間道。但楽敬仏。得四功徳処。得六波羅蜜果報。滋味不断諸仏種故心大歓喜。是菩薩所有余苦如二三水H。雖百

千億劫得阿耨多羅三藐三菩提。於無始生死苦如二三水H。所可滅苦如大海水。是故此地名為歓喜。
  ◎(十住毘婆沙論)問うて曰わく、初地を何がゆえぞ名づけて歓喜とするや。答えて曰わく、初果の究竟して涅槃に至ることを

得るがごとし。菩薩この地を得れば、心常に多く歓喜す。自然に諸仏如来の種を増上することを得。このゆえに、かくのごときの

人を賢善者と名づくことを得。初果を得るがごとしというは、人の須陀[オン01]道を得るがごとし。善く三悪道の門を閉ず。法を見

、法に入り、法を得て堅牢の法に住して傾動すべからず、究竟して涅槃に至る。見諦所断の法を断ずがゆえに、心大いに歓喜す。

たとい睡眠し懶堕〈懶堕 みだれがわし〉なれども二十九有に至らず。一毛をもって百分となして、一分の毛をもって大海の水を

分かち取るがごときは、二三Hの苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余の未だ滅せざる者のごとし。二三Hのごとき心、大いに

歓喜せん。菩薩もかくのごとく、初地を得已るを如来の家に生ずと名づく。一切の天・龍・夜叉・乾達婆。乃至。声聞・辟支仏等

、共に供養し恭敬するところなり。何をもってのゆえに。この家、過咎あることなし。故に世間道を転じて出世間道に入る。ただ

楽て仏を敬すれば四功徳処を得、六波羅蜜の果報の滋味を得ん。もろもろの仏種を断たざるがゆえに、心大きに歓喜す。この菩薩

の所有の余苦は、二三の水Hのごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といえども、無始生死の苦においては、二三の水Hの

ごとし。滅すべきところの苦は大海の水のごとし。このゆえにこの地を名づけて歓喜とす。GYO:SYOZEN2-9,10/HON-162,163,HOU-

276,277

 ○如得初果者。是況声聞得須陀[オン01]。顕彼菩薩得歓喜地。初果初地通別二惑所断雖異。断道同故。須陀[オン01]者。即四果中其

初果也。言四果者。一須陀[オン01]。此云預流。初預聖流故云預流。此位頓断三界八十八使見惑。次下云断見諦所断法者。即是見惑

。此見惑者八十八使。謂於四諦三界有異。欲三十二色与無色各二十八。合成八十八使之数。二斯陀含此云一来。欲界九品修惑之中

断前六品。因後三品一来欲界。故云一来。三阿那含此云不還。断後三品尽欲修惑。故以不還欲界為名。四阿羅漢此云無生。断色無

色二界修惑。無生可受。故云無生。二十九有者。問。指何等耶。答。二十五有者。四州。四悪趣。六欲並梵天。四禅。四無色。無

想。五那含。是五那含合為一種。開五那含以成二十九有数耳。如以一毛為百等者。依其文点可解義理。所言文点可在口伝。

SYOZEN2-236,237/TAI2-65,66
  ○「初果を得るが如し」とは、これ声聞の須陀[オン01]を得るに況して、彼の菩薩の歓喜地を得るを顕わす。初果・初地、通別二

惑所断は異なるといえども、断道は同じき故に。須陀[オン01]とは即ち四果の中にその初果なり。四果というは、一には須陀[オン01]

、此には預流という。初めて聖の流に預るが故に預流という。この位に頓に三界の八十八使の見惑を断ず。次下に見諦所断の法を

断ずとは、即ちこれ見惑なり。この見惑とは八十八使なり。謂わく四諦に於いて三界に異あり。欲に三十二、色と無色とに各二十

八、合して八十八使の数を成ず。二には斯陀含。此には一来という。欲界の九品の修惑の中に前の六品を断ず。後の三品に因りて

一たび欲界に来るが故に一来という。三には阿那含。此には不還という。後の三品を断じて欲の修惑を尽くす。故に欲界に還らざ

るを以て名と為す。四には阿羅漢。此には無生という。色・無色二界の修惑を断ず。生として受くべきなし。故に無生という。「

二十九有」とは、問う、何等を指すや。答う、二十五有とは四州・四悪趣・六欲並びに梵天・四禅・四無色・無想・五那含なり。

これ五那含は合して一種と為す。五那含を開して以て二十九有の数を成ずるのみ。「一毛を以て百と為すが如し」等とは、その文

点に依りて義理を解すべし。言う所の文点に口伝あるべし。SYOZEN2-236,237/TAI2-65,66

 ◎問曰。初歓喜地菩薩。在此地中名多歓喜。為得諸功徳故歓喜為地。法応歓喜。以何而歓喜。答曰。常念於諸仏及諸仏大法。必

定希有行。是故多歓喜。如是等歓喜因縁故。菩薩在初地中心多歓喜。念諸仏者。念然灯等過去諸仏・阿弥陀等現在諸仏・弥勒等将

来諸仏。常念如是諸仏世尊如現在前。三界第一無能勝者。是故多歓喜。念諸仏大法者。略説諸仏四十不共法。一自在飛行随意。二

自在変化無辺。三自在所聞無礙。四自在以無量種門知一切衆生心。乃至。念必定諸菩薩者。若菩薩得阿耨多羅三藐三菩提記。入法

位得無生忍。千万億数魔之軍衆不能壊乱。得大悲心成大人法。乃至。是名念必定菩薩。念希有行者。念必定菩薩第一希有行。令心

歓喜。一切凡夫所不能及。一切声聞辟支仏所不能行。開示仏法無礙解脱及薩婆若智。又念十地諸所行法。名為心多歓喜。是故菩薩

得入初地名為歓喜。
  ◎(十住毘婆沙論・地相品)問うて曰わく、初歓喜地の菩薩、この地の中にありて多歓喜と名づく。もろもろの功徳を得るをも

ってのゆえに、歓喜を地とす。法を歓喜すべし。何をもって歓喜するや。答えて曰わく、常に諸仏および諸仏の大法を念ずるは、

必定して希有の行なり。このゆえに歓喜多し。かくのごとき等の歓喜の因縁のゆえに、菩薩、初地の中にありて心に歓喜多し。諸

仏を念ずというは、然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。常にかくのごときの諸仏世

尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。三界第一にして、よく勝れたる者〈ひと〉ましまさず。このゆえに歓喜多し。諸仏の

大法を念ずとは、略して諸仏の四十不共法を説かん。一には自在の飛行、意に随う。二には自在の変化、辺なし。三には自在の所

聞、無碍なり。四には自在に無量種の門をもって、一切衆生の心を知ろしめす。乃至。必定のもろもろの菩薩を念すとは、もし菩

薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得つれば、法位に入り無生忍を得るなり。千万億数の魔の軍衆、壊乱することあたわず。大悲心を

得て大人法を成ず。乃至。これを念必定の菩薩と名づく。希有行を念ずというは、必定の菩薩の第一希有の行を念じて、心に歓喜

せしむ。一切凡夫の及ぶことあたわざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたわざるところなり。仏法無碍解脱およ

び薩婆若智を開示す。また十地のもろもろの所行の法を念ずるを、名づけて心多歓喜とす。このゆえに、菩薩初地に入ることを得

れば名づけて歓喜とす。GYO:SYOZEN2-10/HON-163,HOU-277

 ◎問曰。有凡夫人未発無上道心。或有発心者未得歓喜地。是人念諸仏及諸仏大法。念必定菩薩及希有行亦得歓喜。得初地菩薩歓

喜。与此人有何差別。答曰。菩薩得初地。其心多歓喜。諸仏無量徳。我亦定当得。得初地必定菩薩。念諸仏有無量功徳。我当必得

如是之事。何以故。我已得此初地入必定中。余者無有是心。是故初地菩薩多生歓喜。余者不爾。何以故。余者雖念諸仏。不能作是

念。我必当作仏。譬如転輪聖子生転輪王家。成就転輪王相。念過去転輪王功徳尊貴作是念。我今亦有是相。亦当得是豪富尊貴。心

大歓喜。若無転輪王相者無如是喜。必定菩薩若念諸仏及諸仏大功徳威儀尊貴。我有是相。必当作仏。即大歓喜。余者無有是事。定

心者深入仏法心不可動。
  ◎(十住毘婆沙論)問うて曰わく、凡夫人の未だ無上道心を発せざるあり。あるいは発心する者あり、未だ歓喜地を得ざらん。

この人、諸仏および諸仏の大法を念じてん。必定の菩薩および希有の行を念じて、また歓喜を得て、初地を得る菩薩の歓喜と、こ

の人と、何の差別あるや。答えて曰わく、菩薩、初地を得つれば、その心歓喜多し。諸仏無量の徳、我また定んで当に得べし。初

地を得る必定の菩薩は、諸仏を念じて無量の功徳をたもつ。我当に必ずかくのごときの事を得べし。何をもってのゆえに。我すで

にこの初地を得、必定の中に入れり。余はこの心あることなけん。このゆえに初地の菩薩、多く歓喜を生ず。余はしからず。何を

もってのゆえに。余は諸仏を念ずといえども、この念を作すことあたわず。我必ず当に作仏すべしと。たとえば、転輪聖子の、転

輪王の家に生まれて、転輪王の相を成就して、過去の転輪王の功徳の尊貴なることを念じて、この念を作さん、我今またこの相あ

り、また当にこの豪富尊貴を得べしと。心大きに歓喜せん。もし転輪王の相なくんば、かくのごときの喜びなからんがごとし。必

定の菩薩、もし諸仏および諸仏の大功徳・威儀・尊貴を念ずるに、我この相あり、必ず当に作仏すべしと。すなわち大いに歓喜せ

ん。余はこの事あることなけん。定心とは深く仏法に入りて心動ずべからず。GYO:SYOZEN2-10,11/HON-164,HOU-277,278

 ◎又云。信力増上者。何名有所聞見必受無疑増上名殊勝。問曰。有二種増上。一者多。二者勝。今説何者。答曰。此中二事倶説

。菩薩入初地得諸功徳味故。信力転増。以是信力籌量諸仏功徳無量深妙能信受。是故此心亦多亦勝。深行大悲者。愍念衆生徹入骨

体故名為深。為一切衆生求仏道故名為大。慈心者常求利事安穏衆生。慈有三種。乃至。
  ◎(十住毘婆沙論・浄地品)また云わく、信力増上はいかん。聞見するところあるに名づく。必受して疑いなければ、増上は殊

勝に名づくと。問うて曰わく、二種の増上あり、一には多、二には勝なり。今の説なにものぞと。答えて曰わく、この中の二事と

もに説かん。菩薩、初地に入ればもろもろの功徳の味わいを得るがゆえに、信力転増す。この信力をもって諸仏の功徳無量深妙な

るを籌量〈籌 はからう〉して、よく信受す。このゆえにこの心また多なり、また勝なり。深く大悲を行ずるとは、衆生を愍念す

ること骨体に徹入するがゆえに、名づけて深とす。一切衆生のために仏道を求むるがゆえに、名づけて大とす。慈心とは、常に利

事を求めて衆生を安穏せしむ。慈に三種あり。乃至。GYO:SYOZEN2-11/HON-164,165,HOU-278,279

 ◎又曰。仏法有無量門。如世間道有難有易。陸道歩行則苦。水道乗船則楽。菩薩道亦如是。或有懃行精進。或有以信方便易行疾

至阿惟越致者。乃至。
  ◎(十住毘婆沙論・易行品)また曰わく、仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなわち苦しく、水

道の乗船はすなわち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもっ

て疾く阿惟越致に至る者あり。乃至。GYO:SYOZEN2-11/HON-165,HOU-278

 ○仏法有無量門等者。具挙難行易行之道。正明二道所期共在不退之位。其不退位難行難至。易行易至。是対難行念仏為易。

SYOZEN2-237/TAI2-136,137
  ○「仏法に無量の門あり」等とは、具に難行易行の之道を挙げて、正しく二道の期する所は共に不退の位に在ることを明かす。

その不退の位は、難行は至りがたく、易行は至り易し。これ難行に対して念仏を易と為す。SYOZEN2-237/TAI2-136,137-

 ◎若人疾欲至不退転地者。応以恭敬心執持称名号。若菩薩欲於此身得至阿惟越致地成阿耨多羅三藐三菩提者。応当念是十方諸仏

。称名号如宝月童子所問経阿惟越致品中説。乃至。西方善世界仏号無量明。身光智慧明。所照無辺際。其有聞名者。即得不退転。

乃至。過去無数劫。有仏号海徳。是諸現在仏。皆従彼発願。寿命無有量。光明照無極。国土甚清浄。聞名定作仏。乃至。
  ◎(十住毘婆沙論・易行品)もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、まさに恭敬心をもって執持して名号を称すべし。もし菩薩

この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲せば、まさにこの十方諸仏を念じ、名号を称すべし

。『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」の中に説くがごとし。乃至 西方に善世界の仏を無量明と号す。身光智慧明らかにして、

照らすところ辺際なし。それ名を聞くことある者は、すなわち不退転を得と。乃至 過去無数劫に仏まします、海徳と号す。この

もろもろの現在の仏、みな彼に従って願を発せり。寿命量ることなし。光明照らして極まりなし。国土はなはだ清浄なり。名を聞

かば定んで仏に作らんと。乃至。GYO:SYOZEN2-11,12/HON-165,HOU-278,279

 ◎問曰。但聞是十仏名号執持在心。便得不退阿耨多羅三藐三菩提。為更有余仏余菩薩名得至阿惟越致邪。答曰。阿弥陀等仏及諸

大菩薩。称名一心念。亦得不退転如是。阿弥陀等諸仏。亦応恭敬礼拝称其名号。今当具説無量寿仏。世自在王仏、乃至、有其余仏

是諸仏世尊。現在十方清浄世界。皆称名憶念阿弥陀仏本願如是。若人念我称名自帰。即入必定得阿耨多羅三藐三菩提。是故常応憶

念。以偈称讃。無量光明慧。身如真金山。我今身口意。合掌稽首礼。乃至。人能念是仏。無量力功徳。即時入必定。是故我常念。

乃至。若人願作仏。心念阿弥陀。応時為現身。是故我帰命。彼仏本願力。十方諸菩薩。来供養聴法。是故我稽首。乃至。若人種善

根。疑則華不開。信心清浄者。華開則見仏。十方現在仏。以種種因縁。嘆彼仏功徳。我今帰命礼。乃至。乗彼八道船。能度難度海

。自度亦度彼。我礼自在人。諸仏無量劫。讃揚其功徳。猶尚不能尽。帰命清浄人。我今亦如是。称讃無量徳。以是福因縁。願仏常

念我。抄出。
  ◎(十住毘婆沙論・易行品)問うて曰わく、ただこの十仏の名号を聞きて執持して心に在〈お〉けば、すなわち阿耨多羅三藐三

菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして阿惟越致に至ることを得とせんや。答えて曰わく、阿弥陀等の仏およ

び諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得ることかくのごとし。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称す

べし。いま当につぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏、乃至その余の仏まします、この諸仏世尊、現に十方の清浄世界に在し

ます。みな阿弥陀仏の本願を称名憶念することかくのごとし。もし人、我を念じ名を称して自ずから帰しなば、すなわち必定に入

りて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆえに常に憶念すべしと。偈をもって称讃せん。無量光明慧、身は真金の山のごとし。我いま

身口意をもって合掌し稽首し礼したてまつると。乃至。人よくこの仏の無量力の功徳を念ずれば、即のときに必定に入るなり。こ

のゆえに我常に念じたてまつる。乃至。もし人、作仏を願じて、心に阿弥陀を念じたてまつれば、時に応じてために身を現ぜん。

このゆえに我、かの仏の本願力を帰命す。十方のもろもろの菩薩も来りて供養し法を聴く。このゆえに我稽首したてまつると。乃

至。もし人善根を種えて、疑えばすなわち花開けず。信心清浄なる者は、花開きてすなわち仏を見たてまつる。十方現在の仏、種

種の因縁をもって、かの仏の功徳を嘆じたまう。我いま帰命し礼したてまつる。乃至。かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す

。自ら度しまた彼を度せん。我、自在人を礼したてまつる。諸仏無量劫に、その功徳を讃揚せんに、なお尽くすことあたわず。清

浄人を帰命したてまつる。我いままたかくのごとし。無量の徳を称讃す。この福の因縁をもって、願わくは仏、常に我を念じたま

えと。抄出。GYO:SYOZEN2-12,13/HON-165,166,167,HOU-279,280

 ○又於易行念仏之中以念弥陀顕為其本。彼論之説其意分明。所謂釈其易行之中。先挙東方善徳仏等十方十仏。次云阿弥陀等仏及

諸大菩薩。称名一心念亦得不退転。次挙世自在王仏等一百余仏。判云阿弥陀仏本願如是。若人念我称名自帰。即入必定得阿耨菩提

。次以三十行偈。広讃弥陀功徳。今所引偈即彼偈文。次挙善意等一百四十余仏為易行道。-SYOZEN2-237/TAI2-167-
  ○また易行念仏の中に於いて、弥陀を念ずるを以てその本と為ることを顕わすこと、彼の論の説はその意分明なり。いわゆるそ

の易行を釈する中に、先ず東方善徳仏等の十方十仏を挙げて、次に阿弥陀等の仏及び諸の大菩薩は、名を称して一心に念ずれば、

また不退転を得と云う。次に世自在王仏等の一百余仏を挙げて、判じて、阿弥陀仏の本願はかくの如し、もし人が我を念じ名を称

して自ら帰すれば、即ち必定に入りて阿耨菩提を得と云う。次に三十行の偈を以て広く弥陀の功徳を讃ず。今の所引の偈は即ち彼

の偈文なり。次に善意等の一百四十余仏を挙げて易行道と為す。-SYOZEN2-237/TAI2-167-
  ○問。彼論之中具挙諸仏名号。以称其名為易行道。何以弥陀為易行道。答。所挙之名雖亙諸仏。或云阿弥陀仏本願如是。或云若

人念我称名自帰。或云称名一心念亦得不退転。専約弥陀。依之於彼弥陀章者委自余仏菩薩之章。蓋是諸教所讃多在弥陀故也。問。

彼論所判対難行時。易行之益是為此土所得不退。是為他土所得不退。将又所言往生不退同耶異耶。答。総有三義。一云此土不退。

是則於行論其難易。於機雖分精進[ニョウ01]弱。所至共是阿惟越致即是不退。是故此土不退而已。二云他土往生。所以然者。弥陀本

願本是往生。弥陀之益為往生者。諸仏又同。論文既云。阿弥陀等仏及諸大菩薩称名一心念亦得不退転。故知。今言不退転者。是指

往生得不退也。三云余仏之益此土不退。弥陀之益浄土往生。余仏之益可為不退其義可同第一之義。弥陀之益可為往生。其義可同第

二之義。問。今家之意三義之中依何義耶。答。以第一義為論正意。故可用之。問。為論正意其義如何。答。彼論所説称名利益。以

不退転為其所期。諸文分明。謂其文云。称名一心念亦得不退転。已上。又云称名自帰即入必定。已上。弥陀章云。人能念是仏無量

力功徳。即時入必定。是故我常念。已上。十仏章云。若人欲疾得不退転地者応以恭敬心執持称名号。已上。又云。若菩薩欲於此身

得至阿惟越致地。成阿耨菩提者。応当念是十方諸仏称其名号。已上。或云即時。或云此身。是以此土不退為本。雖有種種之異義等

。今家之意料簡如此。長行偈頌雖有多文。粗得此趣可解論意。-SYOZEN2-237,238/TAI2-166,168
  ○問う。彼の論の中に具さに諸仏の名号を挙げて、その名を称するを以て易行道と為す。何ぞ弥陀を以て易行道と為すや。答う

。挙ぐる所の名は諸仏に亙るといえども、或いは「阿弥陀仏本願はかくの如し」と云い、或いは「もし人が我を念じて名を称して

自ら帰すれば」と云い、或いは「名を称して一心に念ずれば、また不退転を得」と云う。専ら弥陀に約す。これに依りて彼の弥陀

の章に於いては、余仏菩薩の章よりも委し。蓋しこれ諸教に讃る所、多く弥陀に在るが故なり。問う。彼の論の所判は、難行に対

する時、これ易行の益はこれ此土所得の不退とやせん、これ他土所得の不退とやせん。はたまた言う所の往生と不退とは同なりや

、異なりや。答う。総じて三義あり。一に云わく、此土の不退なり。これ則ち行に於いてその難易を論じ、機に於いて精進・[ニョ

ウ01]弱と分かつといえども、至る所は共にこれ阿惟越致、即ちこれ不退なり。この故に此土の不退ならくのみ。二に云わく、他土

の往生なり。然る所以は、弥陀の本願は本これ往生なり。弥陀の益は往生たらば、諸仏もまた同じ。論文には既に「阿弥陀等の仏

、及び諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得」という。故に知りぬ、今、不退転というは、これ往生して不退を得

るを指すなり。三に云わく、余仏の益は此土の不退なり。弥陀の益は浄土の往生なり。余仏の益は不退たるべきことは、その義は

第一の義に同じかるべし。弥陀の益は往生たるべきことは、その義は第二の義に同じかるべし。問う。今家の意は三義の中に何れ

の義に依るや。答う。第一の義を以て論の正意と為す。故にこれを用うべし。問う。論の正意たること、その義いかん。答う。彼

の論の所説、称名の利益は、不退転を以てその所期と為すこと、諸文に分明なり。謂く、その文に云わく「名を称して一心に念ず

れば、また不退転を得」と已上。また云わく「名を称して自ら帰すれば、即ち必定に入る」と已上。「弥陀章」に云わく「人能く

この仏の無量力功徳を念ずれば、即の時、必定に入る。この故に我は常に念ず」と已上。「十仏章」に云わく「もし人、疾く不退

転地を得んと欲すれば、応に恭敬の心を以て執持して名号を称すべし」と已上。また云わく「もし菩薩は、この身に於いて阿惟越

致地に至ることを得て、阿耨菩提を成ぜんと欲わば、まさにこの十方の諸仏を念じて、その名号を称すべし」と已上。或いは即時

と云い、或いはこの身と云う。これ此土の不退を以て本と為す。種種の異義等あるといえども、今家の意料簡はかくの如し。長行

・偈頌は多くの文あるといえども、ほぼこの趣を得て論の意を解すべし。-SYOZEN2-237,238/TAI2-166,168

 ◎浄土論曰。我依修多羅真実功徳相。説願偈総持。与仏教相応。観仏本願力。遇無空過者。能令速満足功徳大宝海。
  ◎『浄土論』に曰わく、我、修多羅 真実功徳相に依りて、願偈総持を説きて、仏教と相応せりと。仏の本願力を観ずるに、遇

うて空しく過ぐる者なし。よく速やかに功徳の大宝海を満足せしむと。GYO:SYOZEN2-13/HON-167,HOU-280

 ○次浄土論。我依等者。偈前註云。次成優婆提舎名。又成上起下偈。已上。又偈後云。此一行云何成優婆提舎名。云何成上三門

起下二門。偈言我依修多羅与仏教相応。修多羅是仏経名。我論仏経義与経相応。以入仏法相故名優婆提舎。名成竟。成上三門起下

二門。已上。是等義趣次下何所依以下至函蓋相称下被引之。仍今略之。宜見彼文。観仏等者。論明二十九句荘厳。其中如来八種功

徳荘厳之内。第八荘厳不虚作住持功徳荘厳文也。註云。此四句名荘厳不虚作住持功徳成就。仏本何故起此荘厳。見有如来但以声聞

為僧無求仏道者。或有値仏而不免三途。善星提婆達多居迦離等是也。又人聞仏名号発無上道心。遇悪因縁退入声聞辟支仏地者。有

如是等空過者退没者。是故願言。使我成仏時値遇我者。皆速疾満足無上大宝。已上。SYOZEN2-238,239/TAI2-221
  ○次に『浄土論』、「我依」等とは偈の前の註に云わく「次に優婆提舎の名を成ず。また上を成じ下を起こす偈」已上。また偈

の後に云わく「この一行、云何ぞ優婆提舎の名を成ずるや。云何ぞ上の三門を成じ下の二門を起こすや。偈に我依修多羅与仏教相

応という。修多羅はこれ仏経の名、我は仏経の義を論じて経と相応す。仏法の相に入るを以ての故に優婆提舎と名づく。名を成じ

竟んぬ。上の三門を成じ下の二門を起こす」已上。これ等の義趣、次下の「何所依」以下、「函蓋相称」に至るまで、下にこれを

引かる。仍て今はこれを略す。宜しく彼の文を見るべし。「観仏」等とは、『論』に二十九句の荘厳を明かす。その中に如来八種

の功徳荘厳の内、第八の荘厳不虚作住持功徳荘厳の文なり。註に云わく「この四句を荘厳不虚作住持功徳成就と名づく。仏本何が

故ぞ、この荘厳を起したもう。ある如来を見ればに、ただ声聞を以て僧と為て、仏道を求むる者なし。或いは仏に値いて而も三塗

を免れざるあり。善星・提婆達多・居迦離等これなり。また人、仏の名号を聞きて無上道心を発せども、悪の因縁に遇いて、退し

て声聞・辟支仏地に入る者、かくのごとき等の空しく過る者、退没せん者あり。この故に願じて言く、我成仏せん時、我に値遇せ

ん者をして、皆速かに疾く無上の大宝を満足せしめん」已上。SYOZEN2-238,239/TAI2-221

 ◎又曰。菩薩入四種門自利行成就。応知。菩薩出第五門回向利益他行成就。応知。菩薩如是修五門行。自利利他。速得成就阿耨

多羅三藐三菩提故。抄出。
  ◎(浄土論)また曰わく、菩薩は四種の門に入りて自利の行成就したまえり、知るべしと。菩薩は第五門に出でて回向利益他の

行成就したまえりと、知るべし。菩薩はかくのごとく五門の行を修して、自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就する

ことを得たまえるがゆえにと。抄出。GYO:SYOZEN2-13/HON-167,HOU-280,281

 ○又曰菩薩等者。依論註意解義分中分為十重。其中第十利行満足章終文也。欲委知者可看註文。SYOZEN2-239/TAI2-234,235
  ○「又曰菩薩」等とは、『論註』の意に依るに、解義分の中に分ちて十重と為す。その中に第十利行満足の章の終わりの文なり

。委しく知らんと欲わば『註』の文を看るべし。SYOZEN2-239/TAI2-234,235

 ◎論註曰。謹案龍樹菩薩十住毘婆沙云。菩薩求阿毘跋致有二種道。一者難行道。二者易行道。
  ◎『論の註』に曰わく、謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆娑』を案ずるに、云わく、菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一

には難行道、二には易行道なり。GYO:SYOZEN2-13/HON-167,HOU-281

 ○次論註曰等者。彼註最初標論大意。発端釈也。鸞師深得十住論意判難易道。其文少異其義大同。SYOZEN2-239/TAI2-242
  ○次に「論註曰」等とは、彼の『註』の最初に『論』の大意を標する発端の釈なり。鸞師は深く『十住論』の意を得て難易の道

を判ず。その文は少しき異なれども、その義は大いに同じ。SYOZEN2-239/TAI2-242

 ◎難行道者。謂於五濁之世無仏時。求阿毘跋致為難。此難乃有多途。粗言五三以示義意。一者外道相(修醤反)善乱菩薩法。二

者声聞自利障大慈悲。三者無顧悪人破他勝徳。四者顛倒善果能壊梵行。五者唯是自力無他力持。如斯等事。触目皆是。譬如陸路歩

行則苦。易行道者。謂但以信仏因縁願生浄土。乗仏願力便得往生彼清浄土。仏力住持即入大乗正定之聚。正定即是阿毘跋致。譬如

水路乗船則楽。
  ◎(論註)難行道とは、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。この難にいまし多くの途〈みち〉あ

り。ほぼ五三を言うて、もって義の意を示さん。一には、外道の相善〈相 修醤の反〉、菩薩の法を乱る。二には、声聞は自利に

して大慈悲を障う。三には、無顧の悪人、他の勝徳を破す。四には、顛倒の善果よく梵行を壊す。五には、ただこれ自力にして他

力の持つなし。このごとき等の事、目に触るるにみな是なり。たとえば、陸路の歩行はすなわち苦しきがごとし。易行道とは、い

わく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生することを得しむ。仏

力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路の乗船はすなわち楽しきがごとし

。GYO:SYOZEN2-13,14/HON-167,168,HOU-281

 ○五濁世者。五濁悪世不分在滅。無仏時者指滅後時。是則具挙時処之難。言五三者。称少少詞内外典中多有其例。問。五種之難

大意如何。答。澄或註十疑云。前四種難非凡斥小。一難大乗行唯自無他。大闕外縁故亦難也。已上。外道等者同註云。我仏正法。

小乗則有無常無我寂滅法印。大乗則有一実相印。依之行必登聖果。外道則不然。迷惑邪見所説之法其相似善而実非善。以邪乱正。

人不能甄分。深成障道。已上。声聞自利障大慈悲者。十住論云。若堕声聞地及辟支仏地。是名菩薩死。則失一切利。已上。荘厳論

云。雖恒処地獄不障大菩提。若起自利心是大菩提障。已上。大乗諸経多有此説。不遑具挙。無顧悪人破他勝徳者。同註云。濁世悪

人見修道者不能成人之美。反宣毀破之言。已上。漢書註云。江准之間謂小児子多詐狡獪名無顧。已上。如彼身子逢乞眼縁退菩薩行

。是其類也。顛倒善果能壊梵行者。同註云。人天之果非無漏善。暫楽還苦為顛倒。梵行浄行也。又論註云。人天果報若因若果皆是

顛倒。皆是虚偽。已上。定善義云。人天之楽猶如電光。須臾即捨。還入三悪長時受苦。已上。如彼妙荘厳王本事。是其類也。唯是

自力無他力持者。十疑云。譬如跛人歩行一日不過数里。極大辛苦。謂自力也。易行道者。謂信仏語故行念仏三昧。願生浄土乗弥陀

願力摂持。決定往生不疑也。如人水路因船力故須臾即至千里謂他力。已上。易行道者謂但等者。問。如上述者。難易二道所行雖異

。所期之益共是不退。其不退者。同於此土所得益也。而如今文者言不退者。為往生後所得之益。其文炳然。如何。答。本有三義。

諸師之意各存一義。況又雖存生後之義。非遮現生不退之益。位雖未至不退之地。蒙光触者心不退義。摂取不捨。横超断四流。豈以

空耶。此等明文非虚説者。不退之義何不成乎。非三不退非処不退。只是信心不退義也。SYOZEN2-239,240/TAI2-250,252
  ○「五濁世」とは、五濁悪世は在滅を分かたず。「無仏時」とは、滅後の時を指す。これ則ち具さに時処の難を挙ぐ。「五三」

というは、少少と称する詞、内外典の中に多くその例あり。問う。五種の難の大意はいかん。答う。澄或の『註十疑』に云わく「

前の四種の難は凡を非し小を斥〈きら〉う。一の難は大乗の行は唯自にして他なし。大いに外縁を闕く。故にまた難なり」已上。

「外道」等とは、同じき註に云わく「我が仏の正法、小乗には則ち無常・無我・寂滅法印あり。大乗には則ち一実相印あり。これ

に依りて行ずれば必ず聖果に登る。外道は則ち然らず。迷惑邪見所説の法は、その相は善に似て而も実に善にあらず。邪を以て正

を乱る。人、甄〈あら〉わし分くること能わず。深く障道を成ず」已上。「声聞の自利は大慈悲を障う」とは、『十住論』に云わ

く「もし声聞地及び辟支仏地に堕するは、これを菩薩の死と名づく。則ち一切の利を失す」已上。『荘厳論』に云わく「恒に地獄

に処すといえども、大菩提を障えず。もし自利の心を起こすは、これ大菩提の障なり」已上。大乗の諸経に多くこの説あり。具さ

に挙ぐるに遑あらず。「無顧の悪人、他の勝徳を破す」とは、同じき註に云わく「濁世の悪人は修道の者を見ては人の美を成ずる

こと能わず。反りて毀破の言を宣ぶ」已上。『漢書』の註に云わく「江准の間に、小児子の詐多く狡獪なるを謂いて、無顧と名づ

く」已上。彼の身子が乞眼の縁に逢いて菩薩の行を退せしが如き、これその類なり。「顛倒の善果はよく梵行を壊す」とは、同じ

き註に云わく「人天の果は無漏の善にあらず。暫く楽にして還りて苦なるを顛倒と為す。梵行は浄行なり」。また『論註』に云わ

く「人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒なり、みなこれ虚偽なり」已上。『定善義』に云わく「人天の楽は猶し電光

のごとし。須臾に即ち捨つ。還りて三悪に入りて長時に苦を受く」已上。彼の妙荘厳王の本事の如き、これその類なり。「唯これ

自力にして他力の持つなし」とは、『十疑』に云わく「譬えば跛〈あしなえ〉たる人の歩より行くときは一日に数里に過ぎず。極

めて大いに辛苦するが如きを自力と謂うなり。易行道とは、謂わく仏語を信ずるが故に念仏三昧を行じて、浄土に生ぜんと願ずれ

ば、弥陀の願力の摂持に乗じて、決定して往生すること疑わざるなり。人の水路に船の力に因るが故に須臾に即ち千里に至るが如

きを他力という」已上。「易行道とは、謂わく但」等とは、問う、上に述ぶるが如きは、難易の二道の所行は異るといえども、所

期の益は共にこれ不退なり。その不退とは同じく此土に於いて得る所の益なり。而るに今の文の如きは、不退というは往生の後に

得る所の益たること、その文炳然なり、いかん。答う。本より三義あり。諸師の意はおのおの一義を存す。況んやまた生後の義を

存すといえども、現生不退の益を遮するにあらず。位は未だ不退の地に至らずといえども、光触を蒙る者は心不退の義、摂取不捨

、横超断四流、あに以て空しからんや。これ等の明文は虚説にあらざれば、不退の義は何ぞ成ぜざらんや。三不退にあらず、処不

退にあらず、ただこれ信心不退の義なり。SYOZEN2-239,240/TAI2-250,252

 ◎此無量寿経優婆提舎。蓋上[エン01]之極致。不退之風航者也。
  ◎(論註)この『無量寿経優婆提舎』は、けだし上衍〈衍 口且反。楽なり〉の極致、不退の風航なるものなり。GYO:SYOZEN2

-14/HON-168,HOU-281

 ○言蓋上[エン01]之極致者。流布本[エン01]。今為[エン01]字。有異本歟。衍宋韻云。易浅切達也。又大[エン01]易数也。今言[エン01]者

非此等訓。是梵語也。此為乗義。摩訶[エン01]者是大乗故。[カン07]玉篇云口且切。[カン07]楽也。広韻云。苦肝切。楽也。亦云苦旱切

。信言也。今用[エン06]者。上即上乗。[エン06]即信言。信此論説可生安楽之義而已。言風航者航玉篇云。可当切。船也。広韻云洪郎

切。船也。SYOZEN2-240/TAI2-277,278
  ○「蓋上[エン01]の極致」とは、流布の本は[エン01]。今は[エン01]〈カン〉の字たり。異本あるか。衍は『宋韻』に云わく「易浅の

切、達なり。また大衍は易〈えき〉の数なり」。今衍というは、これ等の訓にあらず。これ梵語なり。此には乗の義と為す。摩訶

衍とはこれ大乗なるが故に。[カン07]とは『玉篇』に云わく「口且の切。[カン07]は楽なり」。『広韻』に云わく「苦肝の切、楽なり

」。また云わく「苦旱の切、信の言なり」。今、[エン06]を用ゆるは、上は即ち上乗、[エン06]は即ち信の言なり。この論説を信じて

安楽を生ずべき義ならくのみ。「風航」というは、航は『玉篇』に云わく「可当の切。船なり」。『広韻』に云わく「洪郎の切。

船なり」。SYOZEN2-240/TAI2-277,278

 ◎無量寿是安楽浄土如来別号。釈迦牟尼仏在王舎城及舎衞国。於大衆之中説無量寿仏荘厳功徳。即以仏名号為経体。後聖者婆薮

槃頭菩薩。服膺(一升反)如来大悲之教。傍経作願生偈。已上。
  ◎(論註)「無量寿」はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして、大衆の中にして、無

量寿仏の荘厳功徳を説きたまうに、すなわち、仏の名号をもって経の体としたまえり。後の聖者・婆薮般豆菩薩、如来大悲の教を

服膺して〈膺 一升の反〉〈服膺 したがいもちゆる〉、経に傍えて願生の偈を作る。已上。GYO:SYOZEN2-14/HON-168,HOU-281

 ○無量寿是安楽等者。解論名義。在王舎城及舎衛者。具挙三経之説処耳。依此文者鸞師之意。今以此論以為三部通申之論。義寂

宗暁同依三部通申之義。智昇智光共存大経別申之義。SYOZEN2-240/TAI2-283,284
  ○「無量寿はこれ安楽」等とは、論の名義を解す。「在王舎城及舎衛(王舎城および舎衛国にましまして)」とは、具に三経の

説処を挙ぐるのみ。この文に依らば、鸞師の意は、今この論を以て、以て三部通申の論と為す。義寂・宗暁は同じく三部通申の義

に依る。智昇・智光は共に大経別申の義を存す。SYOZEN2-240/TAI2-283,284

 ◎又云。又所願不軽。若如来不加威神。将何以達。乞加神力。所以仰告。我一心者。天親菩薩自督之詞。言念無礙光如来願生安

楽。心心相続無他想間雑。乃至。
  ◎(論註)また云わく、また所願軽からず。もし如来、威神を加せずは、まさに何をもってか達せん。神力を乞加す。このゆえ

に仰いで告げたまえり。「我一心」とは、天親菩薩の自督の詞なり〈督 冬毒の反。勧なり。率なり。正なり。俗に[トク02]と作る

〉。言うこころは、無碍光如来を念じて安楽に生まれんと願ず。心心相続して他想間雑なし。乃至。GYO:SYOZEN2-14/HON-

168,HOU-281,282

 ○又所願不軽等者。釈論偈之第一行文。文意可見。督字註者広韻詞也。同詞又云。察也。目痛。又姓。又玉篇云。都谷切。正也

。目痛也。此等訓中今釈可叶正勧義耶。次間雑之下。帰命之上。言乃至者。就我一字。設一問答之三行余之文是也。SYOZEN2-

240,241/TAI2-290,291
  ○「また所願、軽からず」等とは、論偈の第一行の文を釈す。文の意、見るべし。督の字の註は『広韻』の詞なり。同詞にまた

云わく「察なり。目痛なり。また姓」。また『玉篇』に云わく「都谷の切。正なり。目痛なり」。これ等の訓の中に今の釈は正と

勧との義に叶うべし。次に「間雑」の下、「帰命」の上に「乃至」というは、我の一字に就きて一の問答を設くる三行余の文これ

なり。SYOZEN2-240,241/TAI2-290,291

 ◎帰命尽十方無礙光如来者。帰命即是礼拝門。尽十方無礙光如来即是讃嘆門。何以知。帰命是礼拝。龍樹菩薩造阿弥陀如来讃中

。或言稽首礼。或言我帰命。或言帰命礼。此論長行中。亦言修五念門。五念門中。礼拝是一。天親菩薩既願往生。豈容不礼。故知

。帰命即是礼拝。然礼拝但是恭敬。不必帰命。帰命是礼拝。若以此推。帰命為重。偈申己心。宜言帰命。論解偈義汎談礼拝。彼此

相成。於義弥顕。何以知。尽十方無礙光如来是賛嘆門。下長行中言。云何讃嘆。謂称彼如来名。如彼如来光明智相。如彼名義。欲

如実修行相応故。乃至。天親今言尽十方無礙光如来。即是依彼如来名。如彼如来光明智相讃嘆。故知此句是賛嘆門。願生安楽国者

。此一句是作願門。天親菩薩帰命之意也。乃至。
  ◎(論註)「帰命尽十方無碍光如来」とは、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり、「尽十方無碍光如来」はすなわちこれ讃嘆門

なり。何をもってか知らん、帰命はこれ礼拝なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の讃を造れる中に、あるいは「稽首礼」と言い、あ

るいは「我帰命」と言い、あるいは「帰命礼」と言えり。この『論』の長行の中に、また「五念門を修す」と言えり。五念門の中

に礼拝はこれ一なり。天親菩薩すでに往生を願ず。あに礼せざるべけんや。故に知りぬ、帰命はすなわちこれ礼拝なりと。しかる

に礼拝はただこれ恭敬にして、必ずしも帰命ならず。帰命はこれ礼拝なり。もしこれをもって推するに、帰命を重とす。偈は己心

を申ぶ、宜しく帰命と言うべし〈命 眉病の反。教なり、道なり、信なり、召なり〉。『論』に偈義を解するに、ひろく礼拝を談

ず。彼・此あい成ず、義においていよいよ顕れたり。何をもってか知らん、「尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なり」とは、下の長

行の中に言わく「いかんが讃嘆する。いわく、かの如来の名を称す〈称 処陵の反。軽重を知るなり、『説文』に曰わく、「詮な

り、是なり、等なり。俗に秤に作る。斤両〈力雨〉を正すをいうなり〉。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実の

ごとく修行し相応せんと欲うがゆえに」と。乃至。天親いま「尽十方無碍光如来」と言えり。すなわちこれ、かの如来の名に依っ

て、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するがゆえに、知りぬ、この句はこれ讃嘆門なりとは。「願生安楽国」とは、この一句はこ

れ作願門なり、天親菩薩帰命の意なり。乃至。GYO:SYOZEN2-14,15/HON-168,169,HOU-282

 ○相応故下。天親今上言乃至者。依小経説。解阿弥陀如来名義。又就光照有一問答。顕其利益。又弁一仏諸仏主領世界広狭。明

其小乗大乗所談之差別等十一行余之文是也。之意也下。問曰之上。言乃至者。云其安楽義。具在下観察門中十一字也。SYOZEN2-

241/TAI2-302,303
  ○「相応故」の下、「天親今」の上に「乃至」というは、『小経』の説に依りて阿弥陀如来の名義を解す。また光照に就きて一

の問答ありてその利益を顕わし、また一仏・諸仏の世界を主領する広狭を弁じて、その小乗・大乗の所談の差別を明かす等の十一

行余の文これなり。「之意也」の下、「問曰」の上に「乃至」というは「その安楽の義は具に下の観察門の中に在り」という十一

字なり。SYOZEN2-241/TAI2-302,303

 ◎問曰。大乗経論中。処処説衆生畢竟無生如虚空。云何天親菩薩言願生邪。答曰。説衆生無生如虚空有二種。一者如凡夫所謂実

衆生。如凡夫所見実生死。此所見事畢竟無所有。如亀毛如虚空。二者謂諸法因縁生故即是不生。無所有如虚空。天親菩薩所願生者

是因縁義。因縁義故仮名生。非如凡夫謂有実衆生実生死也。問曰。依何義説往生。答曰。於此間仮名人中修五念門。前念与後念作

因。穢土仮名人浄土仮名人。不得決定一。不得決定異。前心後心亦如是。何以故。若一則無因果。若異則非相続。是義観一異門。

論中委曲。釈第一行三念門竟。乃至。
  ◎(論註)問うて曰わく、大乗経論の中に処処に「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」と説きたまえり。いかんぞ天親菩薩、

願生と言うや。答えて曰わく、「衆生無生にして虚空のごとし」と説くに、二種あり。一には、凡夫の実の衆生と謂〈おも〉うと

ころのごとく、凡夫の所見、実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて所有なきこと、亀毛のごとく、虚空のごとし。二には、

いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして所有なきこと、虚空のごとし。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の

義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり。問うて曰

わく、何の義に依って往生と説くぞや。答えて曰わく、この間の仮名の人の中において、五念門を修せしむ。前念と後念と因と作

る。穢土の仮名の人・浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。何をもってのゆえ

に。もし一ならばすなわち因果なけん。もし異ならばすなわち相続にあらず。この義、一異を観ずる門なり。『論』の中に委曲な

り。第一行の三念門を釈し竟りぬと。乃至。GYO:SYOZEN2-15/HON-169,170,HOU-282,283

 ○問曰等者有二問答。初問答意。就願生言顕不生義。次問答者。就往生義顕一異意。註家本是四論碩徳。故依中論八不法門有此

釈也。言八不者。中観論観因果品云。不常亦不断。不一亦不異。不来亦不去。不生亦不滅。已上。是義観一異門者。就八不中且明

其一異。論中委曲者指彼論也。或連読有云可読観一異門論之一義。是就所説法門十二門論及中観論可得此名 云云。SYOZEN2-

241/TAI2-333,334
  ○「問うて曰わく」等とは、二の問答あり。初の問答の意は願生の言に就きて不生の義を顕わす。次の問答は往生の義に就きて

一異の意を顕わす。註家は本これ四論の碩徳なり。故に『中論』の八不の法門に依りてこの釈あるなり。八不というは、『中観論

』の観因果品に云わく「常ならず、また断ならず。一ならず、また異ならず。来らず、また去らず。生ならず、また滅ならず」已

上。「この義は一異を観ずる門なり」とは、八不の中に就きて且くその一異を明かす。「論の中に委曲なり」とは、彼の論を指す

なり。或いは連読して「観一異門論」と読むべしという一義あり。これ所説の法門に就きて『十二門論』及び『中観論』のこの名

を得べしと云云。SYOZEN2-241/TAI2-333,334

 ◎我依修多羅真実功徳相説願偈総持与仏教相応。乃至。何所依。何故依。云何依。何所依者。依修多羅。何故依者。以如来即真

実功徳相故。云何依者。修五念門相応故。乃至。
  ◎(論註)「我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応」とのたまえりと。乃至。 「何れの所にか依る」「何の故に

か依る」「云何が依る」と。「何れの所にか依る」とは、修多羅に依るなり。「何の故にか依る」は、如来すなわち真実功徳の相

なるをもってのゆえに。「云何が依る」は、五念門を修して相応せるがゆえに。乃至。GYO:SYOZEN2-15,16/HON-170,HOU-283

 ○我依四句偈之前後。言乃至者。是成優婆提舎之名。又解成上起下之釈。上出之訖。問。此我依修一四句偈上既引之。当巻之中

重被引之。繁重之失難遁如何。答。誠以爾也。但此文体自元只是文集体也。仍当用時不憚繁重不限此文。余処又有重引之例。皆可

準拠。但聊非無其差別歟。謂上所引龍樹天親鈎鎖引之。仍唯限論。今所引者引註之時不載論者其義難顕。是故引之。本論与註所引

別也。SYOZEN2-241/TAI2-358
  ○「我依」の四句の偈の前後に「乃至」というは、これ優婆提舎の名を成じ、また上を成じ下を起こすことを解する釈は、上に

これを出だし訖りぬ。問う。この「我依修」の一四句の偈は上に既にこれを引く。当巻の中に重ねてこれを引かるるは、繁重の失

を遁れ難し、如何。答う。誠に以て爾なり。ただこの文体は元よりただこれ文集の体なり。仍て当用の時は繁重を憚らざること、

この文に限らず。余処にまた重引の例あり。皆準拠すべし。ただ聊か差別なきにあらざるか。謂く上の所引は龍樹・天親鈎鎖して

これを引く。仍てただ論に限る。今の所引は註を引く時に論を載せずば、その義は顕わし難し。この故にこれを引く。本論と註と

、所引別なり。SYOZEN2-241/TAI2-358

 ◎修多羅者。十二部経中直説者名修多羅。謂四阿含三蔵等外大乗諸経亦名修多羅。此中言依修多羅者。是三蔵外大乗修多羅。非

阿含等経也。真実功徳相者。有二種功徳。一者従有漏心生不順法性。所謂凡夫人天諸善。人天果報。若因若果。皆是顛倒。皆是虚

偽。是故名不実功徳。二者従菩薩智慧清浄業起荘厳仏事。依法性入清浄相。是法不顛倒不虚偽。名真実功徳。云何不顛倒。依法性

順二諦故。云何不虚偽。摂衆生入畢竟浄故。説願偈総持与仏教相応者。持名不散不失。総名以少摂多。乃至。願名欲楽往生。乃至

。与仏教相応者。譬如函蓋相称也。乃至。
  ◎(論註)「修多羅」とは、十二部経の中の直説のものを修多羅と名づく。いわく四阿含・三蔵等の外の大乗の諸経をまた修多

羅と名づく。この中に「依修多羅」と言うは、これ三蔵の外の大乗修多羅なり、『阿含』等の経にはあらざるなり。「真実功徳相

」とは、二種の功徳あり。一には、有漏の心より生じて法性に順ぜず。いわゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因、もしは

果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。このゆえに不実の功徳と名づく。二には、菩薩の智慧・清浄の業より起こりて仏事を荘

厳す。法性に依りて清浄の相に入れり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳と名づく。いかんが顛倒せざる、法性に依り二

諦に順ずるがゆえに。いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入るがゆえなり。「説願偈総持 与仏教相応」とは、「持」

は不散不失に名づく。「総」は、少をもって多を摂するに名づく。乃至。「願」は欲楽往生に名づく。乃至。「与仏教相応」は、

たとえば函蓋相称するがごとしとなり。乃至。GYO:SYOZEN2-16/HON-170,HOU-283,284

 ○十二部経中等者。問。十二部者。其相如何。答。十二名義諸典解之。其中且出戒度律師正観記説。彼記文云。今依大論略出梵

語。一修多羅。此云法本。亦云契経。二祇夜。此云重頌。三和伽羅那。此云授記。四伽陀。此云孤起偈。五優陀那。此云無問自説

。六尼陀那。此云因縁。七阿波陀那。此云譬喩。八伊帝曰多伽。此云本事。九闍陀伽。此云本生。十毘仏略。此云方広。十一阿浮

陀達摩。此云未曾有。十二優婆提舎。此云論義。最初修多羅名有通別。通則十二部皆云修多羅。別乃十二部中第一是故。已上。今

云直説即第一也。摂多之下。願名之上。言乃至者。偈字釈也。往生之下。与仏之上。言乃至者。説総持釈。相称也下。言乃至者。

五念門中観察以下。乃至。下巻解義分釈。十重之中第二起観生信之内。初四門也。SYOZEN2-241,242/TAI2-363,365
  ○「十二部経中」等とは、問う。十二部とは、その相、如何。答う。十二の名義は諸典にこれを解す。その中に且く戒度律師の

『正観記』の説を出だす。彼の記の文に云わく「今、『大論』に依りて略して梵語を出だす。一には修多羅、此には法本という。

また契経という。二には祇夜、此には重頌という。三には和伽羅那、此には授記という。四には伽陀、此には孤起偈という。五に

は優陀那、此には無問自説という。六には尼陀那、此には因縁という。七には阿波陀那、此には譬喩という。八には伊帝曰多伽、

此には本事という。九には闍陀伽、此には本生という。十には毘仏略、此には方広という。十一には阿浮陀達摩、此には未曾有と

いう。十二には優婆提舎、此には論義という。最初の修多羅は、名に通別あり。通は則ち十二部みな修多羅という。別は乃ち十二

部の中に第一これなり」已上。今、直説というは即ち第一なり。「摂多」の下、「願名」の上に「乃至」というは、偈の字の釈な

り。「往生」の下、「与仏」の上に「乃至」というは、説と総持との釈なり。「相称也」の下に「乃至」というは、五念門の中の

観察以下、乃至、下巻の解義分の釈の十重の中に第二の起観生信の内の初の四門なり。SYOZEN2-241,242/TAI2-363,365

 ◎云何回向。不捨一切苦悩衆生。心常作願。回向為首得成就大悲心故。回向有二種相。一者往相。二者還相。往相者。以己功徳

廻施一切衆生。作願共往生阿弥陀如来安楽浄土。抄出。
  ◎(論註)「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを

得たまえるがゆえに」とのたまえり。回向に二種の相あり、一には往相、二には還相なり。往相とは、己が功徳をもって一切衆生

に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまえるなり。抄出。GYO:SYOZEN2-16/HON-170,171,HOU-284

 ○云何等者。第五回向之釈也。於中自初至大悲心故。二十七字本論之文。回向有下四十一字註釈而已。問。於五念中引回向者。

一段之文具可引之。何略還相回向釈耶。答。当巻初云。謹按往相回向有大行有大信。大行者則称無礙光如来名。已上。今就往相所

明如此。仍且略之。SYOZEN2-242/TAI2-382,383
  ○「云何」等とは、第五の回向の釈なり。中に於いて初より「大悲心故」に至るまでの二十七字は本論の文なり。「回向有」の

下の四十一字は註釈ならくのみ。問う。五念の中に於いて回向を引かば、一段の文は具にこれを引くべし。何ぞ還相回向の釈を略

するや。答う。当巻の初に云わく「謹んで往相の回向を按ずるに、大行あり、大信あり。大行とは、すなわち無碍光如来の名を称

するなり」已上。今、往相に就きて明す所は此の如し。仍て且くこれを略す。SYOZEN2-242/TAI2-382,383

 ◎安楽集云。観仏三昧経云。令勧父王行念仏三昧。父王白仏。仏地果徳真如実相第一義空。何因不遣弟子行之。仏告父王。諸仏

果徳有無量深妙境界神通解脱。非是凡夫所行境界故。勧父王行念仏三昧。父王白仏。念仏之功其状云何。仏告父王。如伊蘭林方四

十由旬。有一科牛頭栴檀。雖有根芽猶未出土。其伊蘭林唯臭無香。若有[タン03]其華菓。発狂而死。後時栴檀根芽漸漸生長纔欲成樹

。香気昌盛。遂能改変此林。普皆香美。衆生見者皆生希有心。仏告父王。一切衆生在生死中念仏之心亦復如是。但能繋念不止。定

生仏前。一得往生。即能改変一切諸悪成大慈悲。如彼香樹改伊蘭林。所言伊蘭林者。喩衆生身内三毒三障無辺重罪。言栴檀者。喩

衆生念仏之心。纔欲成樹者。謂一切衆生但能積念不断。業道成弁也。
  ◎『安楽集』に云わく、『観仏三昧経』に云わく、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまう。父の王、仏に白さく、仏地の果

徳、真如実相、第一義空なり。何に因ってか弟子をしてこれを行ぜしめざると。仏、父王に告げたまわく、諸仏の果徳、無量深妙

の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆえに、父王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつると。父の王

、仏に白さく、念仏の功、その状〈かたち〉いかんぞと。仏、父の王に告げたまわく、伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭

栴檀あり。根芽ありといえども、なお未だ土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。もしその華菓を[タン03]ず

る〈なむる〉ことあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽漸漸に生長して、わずかに樹にならんと欲す。香気昌盛にして

、ついによくこの林を改変してあまねくみな香美ならしむ。衆生見る者、みな希有の心を生ぜんがごとし。仏、父の王に告げたま

わく、一切衆生、生死の中にありて、念仏の心もまたかくのごとし。ただよく念を繋けて止〈や〉まざれば、定んで仏前に生ぜん

。ひとたび往生を得れば、すなわちよく一切の諸悪を改変して大慈悲を成ぜんこと、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとし。言うと

ころの伊蘭林とは、衆生の身の内の三毒・三障、無辺の重罪に喩う。栴檀と言うは、衆生の念仏の心に喩う。わずかに樹に成らん

と欲すというは、いわく、一切衆生ただよく念を積みて断えざれば、業道成弁するなり。GYO:SYOZEN2-16,17/HON-171,HOU-

284,285

 ◎問曰。計一衆生念仏之功亦応一切知。何因一念之功力能断一切諸障。如一香樹改四十由旬伊蘭林悉使香美也。答曰。依諸部大

乗顕念仏三昧功能不可思議也。何者。如華厳経云。譬如有人用師子筋以為琴絃。音声一奏。一切余絃悉皆断壊。若人菩提心中行念

仏三昧者。一切煩悩一切諸障悉皆断滅。亦如有人搆取牛羊驢馬一切諸乳置一器中。若将師子乳一H投之。直過無難。一切諸乳悉皆

破壊変為清水。若人但能菩提心中行念仏三昧者。一切悪魔諸障直過無難。又彼経云。譬如有人持翳身薬処処遊行。一切余行不見是

人。若能菩提心中行念仏三昧者。一切悪神一切諸障不見是人。随諸処処無能遮障也。何故。能念此念仏三昧。即是一切三昧中王故

也。
  ◎(安楽集)問うて曰わく、一切衆生の念仏の功を計して、また一切を知るべし。何に因りてか、一念の功力よく一切の諸障を

断つこと、一の香樹の四十由旬の伊蘭林を改めて、ことごとく香美ならしむるがごとくならんや。答えて曰わく、諸部の大乗に依

りて念仏三昧の功能の不可思議なるを顕さんとなり。いかんとならば、『華厳経』に云うがごとし、たとえば人ありて、師子の筋

をもって、もって琴の絃とせんに、音声ひとたび奏するに一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごとし。もし人、菩提心の中に

念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障、ことごとくみな断滅すと。また人ありて、牛・羊・驢馬一切の諸乳を搆し取りて

一器の中に置かんに、もし師子の乳一Hをもってこれを投ぐるに、直ちに過ぎて難〈はばかり〉なし。一切の諸乳ことごとくみな

破壊して変じて清水となるがごとし。もし人ただよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障、直ちに過ぐるに難な

し。またかの経に云わく、たとえば人ありて、翳身薬をもって処処に遊行するに、一切の余行この人を見ざるがごとし。もしよく

菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪神・一切の諸障この人を見ず、もろもろの処処に随いてよく遮障することなし。何が

ゆえぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずるに、すなわちこれ一切三昧の中の王なるがゆえなりと。GYO:SYOZEN2-17,18HON-

171,172,HOU-285,286

 ○次所引文。安楽集者上下二巻綽公述也。今於此集総有十二大門之中。上巻第一大門之内又有九門。其中第四弁諸経宗旨不同之

次引観仏経説三種益。其第三益為念仏故今故引之。観仏三昧経覚賢三蔵訳。是第一巻観地品文。今之所引尽当章也。SYOZEN2-

242/TAI2-392,394
  ○次の所引の文『安楽集』は上下二巻、綽公の述なり。今、この集に於いて総じて十二大門ある中に、上巻第一大門の内にまた

九門あり。その中に第四に諸経の宗旨の不同を弁ずる次に『観仏経』を引きて三種の益を説く。その第三の益は念仏たるが故に今

ことさらこれを引く。『観仏三昧経』は覚賢三蔵の訳。これ第一巻観地品の文なり。今の所引は当章を尽すなり。SYOZEN2-

242/TAI2-392,394

 ◎又云。如摩訶衍中説云。諸余三昧非不三昧。何以故。或有三昧。但能除貪不能除瞋癡。或有三昧。但能除瞋不能除癡貪。或有

三昧。但能除癡不能除瞋。或有三昧。但能除現在障不能除過去未来一切諸障。若能常修念仏三昧。無問現在過去未来一切諸障皆除

也。已上。
  ◎(安楽集)また云わく、『摩訶衍』(智度論)の中に説きて云うがごとし、「諸余の三昧も、三昧ならざるにはあらず。何を

もってのゆえとならば、あるいは三昧あり、ただよく貪を除いて、瞋痴を除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく瞋を除

いて、痴貪を除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく痴を除いて、瞋を除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく

現在の障を除いて、過去・未来の一切の諸障を除くことあたわず。もしよく常に念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来を問うこ

となく、一切の諸障、みな除くなり。已上。GYO:SYOZEN2-18/HON-172,HOU-286

 ○次所引者下巻文也。第四大門有三番料簡中。第三問答解釈。顕念仏三昧有種種利益。有其五番。其中第二番釈也。其初文云。

第二問曰。若勧常修念仏三昧。与余三昧能有階降以不。答曰。念仏三昧勝相不可思議。此云何知。已上。以下文言如今所引。摩訶

衍者今指大論。第七巻文。文意易見。SYOZEN2-242,243/TAI2-414
  ○次の所引は下巻の文なり。第四大門に三番の料簡ある中に、第三に問答解釈して念仏三昧に種種の利益あること顕わすに、そ

の五番あり。その中に第二番の釈なり。その初の文に云わく「第二に問いて曰わく、もし常に念仏三昧を修することを勧めば、余

の三昧と能く階降有りや、いなや。答えて曰わく、念仏三昧の勝相は不可思議なり。これ云何ぞ知らん」已上。以下の文言は今の

所引の如し。「摩訶衍」とは今は『大論』を指す。第七巻の文なり。文意見易し。SYOZEN2-242,243/TAI2-414

 ◎又云。大経讃云。若聞阿弥陀徳号歓喜賛仰心帰依。下至一念得大利。則為具足功徳宝。設満大千世界火。亦応直過聞仏名。聞

阿弥陀不復退。是故至心稽首礼。
  ◎(安楽集)また云わく、『大経の讃』(讃阿弥陀仏偈)に云わく「もし阿弥陀の徳号を聞きて、歓喜賛仰し、心に帰依すれば

、下一念に至るまで大利を得、すなわち功徳の宝を具足すとす。たとい大千世界に満てらん火をも、また直ちに過ぎて仏の名を聞

くべし。阿弥陀を聞かば、また退せず。このゆえに心を至して稽首し礼したてまつる」と。GYO:SYOZEN2-18/HON-172,173,HOU-286

 ○次所引之大経讃者。第五大門有四番料簡中。第一汎明修道延促之段所安之讃。鸞師所造流通文意。SYOZEN2-243/TAI2-418
  ○次に所引の大経の讃とは、第五大門に四番の料簡ある中に、第一に汎く修道の延促を明かす段に安ずる所の讃なり。鸞師の所

造、流通の文の意なり。SYOZEN2-243/TAI2-418

 ◎又云。又如目連所問経。仏告目連。譬如万川長流有草木。前不顧後。後不顧前。都会大海。世間亦爾。雖有豪貴富楽自在。悉

不得勉生老病死。只由不信仏経。後世為人更甚困劇。不能得生千仏国土。是故我説。無量寿仏国易往易取。而人不能修行往生。反

事九十五種邪道。我説是人名無眼人。名無耳人。経教既爾。何不捨難依易行道矣。已上。
  ◎(安楽集)また云わく、また『目連所問経』のごとし。仏、目連に告げたまわく、「たとえば万川長流に草木ありて、前は後

を顧みず、後は前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといえども、ことご

とく生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるに由りて、後世に人となって、更にはなはだ困劇して千仏の国土に生まる

ることを得ることあたわず。このゆえに我説かく、無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたわず。か

えって九十五種の邪道に事〈つか〉う。我この人を説きて、無眼人と名づく、無耳人と名づく」と。経教すでにしかなり。何ぞ難

を捨てて易行道に依らざらんと。已上。GYO:SYOZEN2-18/HON-173,HOU-286

 ○次所引者又上巻文。第三大門有四番料簡中。第四引聖教証成勧信求生。始引観仏三昧経文。後引目連所問経文。今之所引是後

文也。SYOZEN2-243/TAI2-423
  ○次の所引は、また上巻の文なり。第三大門に四番の料簡ある中に、第四に聖教を引きて証成して信を勧めて生を求めしむるに

、始めに『観仏三昧経』の文を引き、後に『目連所問経』の文を引く。今の所引はこれ後の文なり。SYOZEN2-243/TAI2-423

 ◎光明寺和尚云。又如文殊般若云。欲明一行三昧。唯勧独処空閑捨諸乱意。係心一仏不観相貌。専称名字。即於念中得見彼阿弥

陀仏及一切仏等。問曰。何故不令作観直遣専称名字者有何意也。答曰。乃由衆生障重。境細心麁。識[ヨウ01]神飛。観難成就也。是

以大聖悲憐直勧専称名字。正由称名易故相続即生。問曰。既遣専称一仏。何故境現即多。此豈非邪正相交一多雑現也。答曰。仏仏

斉証。形無二別。縦使念一見多。乖何大道理也。
  ◎(往生礼讃)光明寺の和尚の云わく、また『文珠般若』に云うがごとし。一行三昧を明かさんと欲わば、唯〈やや〉勧めて、

独り空閑に処してもろもろの乱意を捨て、心を一仏に係けて、相貌を観ぜず、専ら名字を称すれば、すなわち念の中において、か

の阿弥陀仏および一切仏等を見ることを得といえり。問うて曰わく、何がゆえぞ観を作さしめずして、直ちに専ら名字を称せしむ

るは、何の意かあるや。答えて曰わく、いまし衆生障重くして、境は細なり、心は麁なり、識〈たましい〉[ヨウ01]〈あが〉り、神

飛びて、観成就しがたきに由りてなり。ここをもって、大聖悲憐して、直ちに勧めて専ら名字を称せしむ。正しく称名、易きに由

るがゆえに〈由 以周の反。行なり、経なり、従なり、用なり〉、相続してすなわち生ず。問うて曰わく、すでに専ら一仏を称せ

しむるに、何がゆえぞ境、現ずることすなわち多き。これ、あに邪正あい交わり、一多雑現するにあらずや。答えて曰わく、仏と

仏と斉しく証して、形、二の別なし。たとい一を念じて多を見ること、何の大道理にか乖かんや。GYO:SYOZEN2-19/HON-173,HOU-

287

 ○次光明寺和尚釈者。往生礼讃前序文也。問。彼礼讃中引文殊般若。其要何事耶。答。上具釈成三心五念及四修已。結彼安心起

行作業悉為称名一行之義。引用彼経一行三昧之文而已。問。就今所引有二不審。一云見彼経説有二重義。初云仏言。法界一相。繋

縁法界。是名一行三昧。当先聞般若波羅蜜如説修学。然後能入一行三昧。如法界。縁不退不壊不思議無礙無相。已上。後所説者今

所用也。但文聊違。説此二義又結已云。如是一行三昧者。要知恒沙仏法界無差別相。已上。如此等者。云一念法界。云無差別相。

是経本意。何限称名云一行耶。二云如経説者。応処空閑捨諸乱意不取相貌。繋心一仏専称名字。随仏方所端身正向。能持一仏念念

相続。已上。唯云一仏不謂弥陀何相違耶。答。先決初疑。経有理観専称二重。各依所用取其一義。有何相違。是故天台約上理観。

於彼常行三昧之下引之。今師約下専称引之。経説二重各被機縁。次決後疑。経文之中雖不指名。意在弥陀。依之天台釈云。但専以

弥陀為法門主。妙楽又云。故以西方而為一準。何況大師以謂諸仏。既被弥陀。尤有其意。般舟経中雖説過去諸仏持是三昧等。観念

法門加阿弥陀三字。是又其義。問。就文殊般若二重問答。初重問意可見。答中至云専称名字。是対前問。正由以下余二問歟如何。

答。是探仏意如此釈之。是仏密意。在開凡夫往生直路。或云説種種方便教門非一。但為我等倒見凡夫。或云諸仏大悲於苦者。或云

門門見仏得生浄土。処処解釈皆帯此意。可貴可貴。次問答中。於其問詞含其意趣。一観経説若他観者名為邪観。違所観境是邪観故

。若見弥陀若見諸仏豈非邪耶。二見多仏其義是当多行三昧。其理已非一行三昧。答言中云。仏仏斉証形無二別。二難共消。其義易

見。SYOZEN2-243,244/TAI2-428,429
  ○次に光明寺和尚の釈は『往生礼讃』の前序の文なり。問う。彼の『礼讃』の中に『文殊般若』を引く。その要何事ぞや。答う

。上に具に三心・五念及び四修を釈成し已わりて、彼の安心・起行・作業は悉く称名一行のたる義を結すとして、彼の経の一行三

昧の文を引用するのみ。問う。今の所引に就きて二の不審あり。一に云わく、彼の経の説を見るに二重の義あり。初に云わく「仏

言わく、法界一相なり。縁を法界に繋ぐ、これを一行三昧と名づく。まさに先ず般若波羅蜜を聞きて説の如く修学すべし。然して

後に能く一行三昧に入りて、法界の如く、不退・不壊・不思議・無礙・無相を縁ず」已上。後の所説は今の所用なり。ただ文は聊

か違す。この二義を説きて、また結し已わりて云わく「かくの如きの一行三昧は、要ず恒沙の仏法界無差別の相を知る」已上。「

かくの如き」等とは、一念法界といい、無差別相という。これ経の本意なり。何ぞ称名に限りて一行というや。二に云わく、経説

の如くとは、「空閑に処して諸の乱意を捨して相貌を取らず、心を一仏に繋ぎて専ら名字を称し、仏の方所に随いて端身正向し、

能く一仏を持して念念に相続すべし」已上。ただ一仏といいて弥陀といわず、何ぞ相違するや。答う。先ず初の疑を決せば、経に

理観・専称の二重あり。おのおの所用に依りてその一義を取る。何の相違かあらん。この故に天台は上の理観に約して、彼の常行

三昧の下に於いてこれを引く。今師は下の専称に約してこれを引く。経に二重を説くこと、おのおの機縁に被らしむ。次に後の疑

を決せば、経文の中に名を指さずといえども、意は弥陀に在り。これに依りて天台は釈して「ただ専ら弥陀を以て法門の主と為す

」という。妙楽はまた「故に西方を以て一準と為す」という。何に況んや大師は諸仏と謂うを以て既に弥陀に被らしむ。尤もその

意あり。『般舟経』の中に「過去の諸仏はこの三昧を持て」等と説くといえども、『観念法門』に阿弥陀の三字を加うるは、これ

またその義なり。問う。『文殊般若』二重の問答に就きて、初重の問の意は見つべし。答の中に「専称名字」というに至るまでは

、これ前の問に対す。「正由」以下は二問に余るか、如何。答う。これ仏意を探りてかくの如くこれを釈す。これ仏の密意は、凡

夫往生の直路を開くに在り。或いは「種種の方便を説きて、教門は一にあらざることは、ただ我等倒見の凡夫の為なり」といい、

或いは「諸仏の大悲は苦者に於いてす」といい、或いは「門門見仏して浄土に生ずることを得」という。処処の解釈は皆この意を

帯す。貴むべし貴むべし。次の問答の中に、その問の詞に於いてその意趣を含む。一には『観経』に「もし他観するを名づけて邪

観と為す」と説く。所観の境に違するに、これ邪観なるが故に。もし弥陀を見るに、もし諸仏を見れば、あに邪にあらずや。二に

は多仏を見るは、その義はこれ多行三昧に当る。その理は已に一行三昧にあらず。答の言の中に「仏仏斉しく証して形に二別なし

」というに、二の難は共に消す。その義見易し。SYOZEN2-243,244/TAI2-428,429

 ◎又如観経云。行勧座観礼念等。皆須面向西方者最勝。如樹先傾倒必随曲。故必有事礙不及向西方者。但作向西想亦得。
  ◎(往生礼讃)また『観経』に云うがごとし。勧めて座観・礼念等を行ぜしむ。みな須らく面を西方に向かうは最勝なるべし。

樹の先より傾けるが倒るるに、必ず曲がれるに随うがごとし。故に、必ず事の碍ありて西方に向かうに及ばずは、ただ西に向かう

想を作すに、また得たり。GYO:SYOZEN2-19/HON-173,174,HOU-287

 ○次言又如観経云者。一行三昧尊称之義。非唯文殊般若経説。於此観経又有其説。是則随他之前雖説諸行。随自之後説念仏義。

以此経説知彼経意。SYOZEN2-244/TAI2-453,454
  ○次に「また観経にいうが如し」というは、一行三昧尊称の義は、ただ『文殊般若』の経説のみにあらず、この『観経』に於い

て、またその説あり。これ則ち随他の前には諸行を説くといえども、随自の後には念仏の義を説く。この経の説を以て彼の経の意

を知る。SYOZEN2-244/TAI2-453,454

 ◎問曰。一切諸仏三身同証。悲智果円亦応無二。随方礼念課称一仏亦応得生。何故偏嘆西方勧専礼念等。有何義也。答曰。諸仏

所証平等是一。若以願行来収〈取〉。非無因縁。然弥陀世尊本発深重誓願。以光明名号摂化十方。但使信心求念。上尽一形下至十

声一声等。以仏願力易得往生。是故釈迦及以諸仏勧向西方為別異耳。亦非是称念余仏不能除障滅罪也。応知。若能如上念念相続畢

命為期者。十即十生。百即百生。何以故。無外雑縁得正念故。与仏本願得相応故。不違教故。随順仏語故。已上。
  ◎(往生礼讃)問うて曰わく、一切諸仏、三身同じく証し、悲智果円にして、また無二なるべし。方に随いて一仏を礼念し課称

せんに、また生まるることを得べし。何がゆえぞ、ひとえに西方を嘆じて専ら礼念等を勧むる、何の義があるや。答えて曰わく、

諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもって来し収むるに〈取るに〉、因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、も

と深重の誓願を発して、光明名号をもって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽くし、下十声・一声

等に至るまで、仏の願力をもって往生を得易し。このゆえに釈迦および諸仏、勧めて西方に向かうるを別異とするのみ。またこれ

余仏を称念して、障を除き罪を滅することあたわざるにはあらざるなりと、知るべし。もしよく上のごとく念念相続して、畢命を

期とする者は、十即十生、百即百生なり。何をもってのゆえに。外の雑縁なくして、正念を得るがゆえに、仏の本願と相応を得た

るがゆえに、教に違せざるがゆえに、仏語に随順するがゆえなりと。已上。GYO:SYOZEN2-19/HON-174,HOU-287,288

 ○問曰一切諸仏等者。相対文殊般若観経。致此問也。所謂已云仏仏斉証形無二別。縦使念一見多乖何大道理也。是述文殊般若之

意。而問意者如観経者。偏嘆西方簡余九域。是故上勧面向西方。然者何以相違之説成一義耶。是問意趣。就答詞中。問。既以仏仏

平等之義判云平等是一。何云若以願行等耶。答。果平等故。雖無勝劣。因差別故。即云本発深重誓願。是以大乗止観下云。若離我

執証得心体平等之時。実無十方三世之異。但本在因地未離我執時。各別発願各修浄土。各化衆生。如是等業差別不同。薫於浄心心

性依別薫之力。故現此十方三世諸仏依正二報相別。非謂真如之体有此差別之相。以是義故。一切諸仏常同常別古今法爾。已上。言

以光明名号等者。六八願中十二十三両願意也。大集経説諸仏出世有種種益。光明名号神通説法。但於其中。此土教主神通説法其利

殊親。浄土弥陀光明名号其益猶勝。但使等者十八願意。言信心者至心信楽。上尽等者乃至十念。仏願力者若不生者誓願之意。易得

往生即是願力成就故也。亦非等者。諸仏亦有除障滅罪随分之益。然往生益唯在弥陀。若能如上念念等者。是明専雑二修得失。但今

所引挙徳略失。言如上者。問。三心五念四修皆悉可具足歟。随一往生可許之耶。答。一義云悉可具之。若不具者不可往生。一義云

。今約上輩求生浄土断貪瞋機。一切行者未必悉然。所謂二河白道喩中。既云水火相交常無休息。於如此機争如上耶。念念相続無間

修義。畢命為期長時修養。但励自力念念難続。依他力益自然相続。十即十生百即百生。是顕仏願不虚之益。是則荘厳所求満足功徳

成就之故而已。第一得者。外者助業正定業外。雑者雑業。非唯助業広亘雑行。其雑言者。対正対専共称雑故。縁者有三。謂教人処

。第二得者。順弥陀仏本願之義。第三得者。不違釈迦如来教義。第四得者。随順六方諸仏語義。各在其文。不遑具述。SYOZEN2-

244,245/TAI2-457,459
  ○「問うて曰わく、一切諸仏」等とは、『文殊般若』と『観経』とを相対して、この問を致すなり。いわゆる已に「仏仏斉しく

証して形に二別なし。たとい一を念じて多を見るとも、何の大道理にか乖かん」というなり。これ『文殊般若』の意を述ぶ。而る

に問の意は『観経』の如しとは、偏に西方を嘆じて余の九域を簡〈きら〉う。この故に上に面を西方に向うることを勧む。然れば

何ぞ相違の説を以て一義を成ぜんや。これ問の意趣なり。答の詞の中に就きて、問う、既に仏仏平等の義を以て判じて平等是一と

いう。何ぞ「もし願行を以て」等というや。答う。果は平等なるが故に勝劣なしといえども、因は差別せるが故に即ち「もと深重

の誓願を発して」という。これを以て『大乗止観』の下に云わく「もし我執を離れて心体平等を証得する時は実に十方三世の異な

し。ただし、もと因地に在りて、未だ我執を離れざる時は、各別に願を発して、おのおの浄土を修し、おのおの衆生を化す。かく

の如き等の業の差別は不同なり。浄心に薫ずれば心性は別薫の力に依りて、ことさらにこの十方三世の諸仏の依正二報の相の別な

ることを現ず。真如の体にこの差別の相あるというにはあらず。この義を以ての故に、一切諸仏は常同常別なること古今法爾なり

」已上。「光明名号を以て」等とは、六八の願の中に十二・十三両願の意なり。『大集経』に「諸仏は出世して種種の益あり。光

明名号神通説法なり」と説く。ただその中に於いて、この土の教主は神通説法、その利、殊に親し。浄土の弥陀は光明名号、その

益猶お勝れたり。「但使」等とは十八願の意なり。「信心」というは至心信楽なり。「上尽」等とは乃至十念なり。「仏願力」と

は若不生者の誓願の意なり。「易得往生」は即ちこれ願力成就の故なり。「亦非」等とは諸仏にまた除障滅罪随分の益あり。然も

往生の益はただ弥陀に在り。「若能如上念念」等とは、これ専雑二修の得失を明かす。ただし今の所引は徳を挙げて失を略す。「

如上」というは、問う、三心・五念・四修は皆悉く具足すべきか。随一の往生は、これを許すべきや。答う。一義に云わく、悉く

これを具すべし。もし具せざれば往生すべからず。一義に云わく、今は上輩の浄土に求生し、貪瞋を断ずる機に約す。一切の行者

は未だ必ずしも悉く然らず。いわゆる二河の白道の喩の中に既に「水火あい交わって常に休息することなし」という。かくの如き

の機に於て、いかでか上の如くならんや。「念念相続」は無間修の義なり。「畢命為期」とは長時修の義なり。ただし自力を励ま

ば念念に続きがたし。他力の益に依らば自然に相続して、十即十生・百即百生せん。これ仏願不虚の益を顕わす。これ則ち荘厳所

求満足功徳成就の故ならくのみ。第一の得は、「外」とは助業・正定業の外なり。「雑」とは雑業なり。ただ助業のみにあらず、

広く雑行に亘る。その雑の言は正に対し専に対す。共に雑と称するが故に。「縁」とは三あり。謂く教と人と処となり。第二の得

は、弥陀仏の本願に順ずる義なり。第三の得は、釈迦如来の教に違せざる義なり。第四の得は、六方諸仏の語に随順する義なり。

おのおのその文に在り。具に述するに遑あらず。SYOZEN2-244,245/TAI2-457,459

 ◎又云。唯観念仏衆生。摂取不捨故名阿弥陀。已上。
  ◎(往生礼讃)また云わく、ただ念仏の衆生を観そなわして、摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づくと。已上。

GYO:SYOZEN2-20/HON-174,HOU-288

 ○又云。唯観念仏等者。同六時中日没礼讃弥陀礼註。肝要文也。観経説云。光明遍照十方世界念仏衆生。摂取不捨。已上。弥陀

経云。彼仏光明無量照十方国無所障礙。故名阿弥陀。已上。引合二経。顕其名義甚深利益。所謂観経雖説摂取不捨之益。未顕弥陀

名義之徳。阿弥陀経雖説弥陀名義之徳。未顕摂取不捨之益。是故為顕小経所説之徳。無所障礙之光明者。為施摂取不捨之益。如此

合説。其義応知。SYOZEN2-246/TAI2-482,483
  ○「又云。唯観念仏」等とは、同じき六時の中に、日没の礼讃の弥陀礼の註は肝要の文なり。『観経』に説きて云わく「光明遍

く十方世界の念仏の衆生を照らす。摂取して捨てたまわず」已上。『弥陀経』に云わく「彼の仏の光明は無量にして十方国を照ら

して障礙する所なし。故に阿弥陀と名づく」已上。二経を引き合わせて、その名義甚深の利益を顕わす。いわゆる『観経』に摂取

不捨の益を説くといえども、未だ弥陀の名義の徳を顕わさず。『阿弥陀経』に弥陀の名義の徳を説くといえども、未だ摂取不捨の

益を顕わさず。この故に『小経』所説の徳、無所障礙の光明は、摂取不捨の益を施さんが為ためなることを顕わさんが為に、かく

の如く合説す。その義知るべし。SYOZEN2-246/TAI2-482,483

 ◎又云。弥陀智願海。深広無涯底。聞名欲往生。皆悉到彼国。設満大千火。直過聞仏名。聞名歓喜讃。皆当得生彼。万年三宝滅

。此経住百年。爾時聞一念。皆当得生彼。抄要。
  ◎(往生礼讃)また云わく、弥陀の智願海は深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に到る

と。たとい大千に満てらん火をも、直ちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃すれば、みな当に彼に生ずることを得べし。

万年に三宝滅せんに、この経、住すること百年ならん。その時に聞きて一念せん、みな当に彼に生ずることを得べしと。抄要。

GYO:SYOZEN2-20/HON-174,175,HOU-288

 ○次三偈者共是初夜礼讃之文。大経採集要文釈也。其中初偈採集本経。如来智慧海一四句偈。其仏本願力一四句偈之解釈也。経

云如来。釈云弥陀。是示諸仏即是弥陀。弥陀乃是諸仏義也。観経説云。諸仏如来是法界身。礼讃釈云。弥陀身心遍法界等。皆此義

也。次之二偈其意可見。SYOZEN2-246/TAI2-486,487
  ○次の三偈は、共にこれ初夜の礼讃の文なり。『大経』の採集要文の釈なり。その中に初の偈は本経の「如来智慧海」の一四句

の偈、「其仏本願力」の一四句の偈を採集する解釈なり。経には「如来」といい、釈には「弥陀」という。これ諸仏は即ちこれ弥

陀、弥陀は乃ちこれ諸仏なる義を示すなり。『観経』には説きて「諸仏如来はこれ法界の身なり」といい、『礼讃』には釈して「

弥陀の身心は法界に遍す」等という。皆この義なり。次の二偈は、その意、見つべし。SYOZEN2-246/TAI2-486,487

 ◎又云。現是生死凡夫罪障深重輪回六道。苦不可言。今遇善知識得聞弥陀本願名号。一心称念求願往生。願仏慈悲不捨本弘誓願

。摂受弟子。已上。
  ◎(往生礼讃)また云わく、現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪回せり。苦しみ言うべからず。いま善知識に遇いて

弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心称念して往生を求願す。願わくは、仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまわざれば、弟子を摂

受したまうべし。已上。GYO:SYOZEN2-20/HON-175,HOU-288

 ○又云現是生死等者。同発願文。或観念時。或睡眠時。勧心発願称仏之時可唱言也。彼書引経粗明五種増上縁中。当段是明見仏

縁釈。則次下云。不識弥陀仏身相光明。願仏慈悲示現弟子身相観音勢至等相。[ドウ01]此語已。一心正念即随意入観及睡。或有正

発願時即得見之。或有睡眠時得見。除不至心。此願此来大有現験。已上。SYOZEN2-246/TAI2-493
  ○「また云わく、現にこれ生死」等とは、同じき発願の文なり。或いは観念の時、或いは睡眠の時、心を勧めて願を発して仏を

称する時、唱うべき言なり。彼の書に経を引きて、ほぼ五種の増上縁を明かす中に、当段はこれ見仏縁を明かす釈なり。則ち次下

に云わく「弥陀仏の身相光明を識らず。願わくは仏の慈悲もて弟子に身相、観音・勢至等の相を示現したまえ。この語をいい已わ

りて、一心正念にして、即ち意に随いて観に入り、及び睡れ。或いは正しく願を発す時に即ちこれを見ることを得ることあり。或

いは睡眠の時に見ることを得ることあり。不至心を除く。この願、このごろ大いに現験あり」已上。SYOZEN2-246/TAI2-493

 ◎又云。問曰。称念礼観阿弥陀仏。現世有何功徳利益。答曰。若称阿弥陀仏一声。即能除滅八十億劫生死重罪。礼念已下亦如是

。十往生経云。若有衆生念阿弥陀仏願往生者。彼仏即遣二十五菩薩擁護行者。若行若座若住若臥。若昼若夜。一切時一切処。不令

悪鬼悪神得其便也。又如観経云。若称礼念阿弥陀仏願往生彼国者。彼仏即遣無数化仏無数化観音勢至菩薩護念行者。復与前二十五

菩薩等。百重千重囲遶行者。不問行住座臥一切時処若昼若夜。常不離行者。今既有斯勝益。可憑。願諸行者各須至心求往。又如無

量寿経云。若我成仏。十方衆生称我名号下至十声。若不生者不取正覚。彼仏今現在成仏。当知本誓重願不虚。衆生称念必得往生。

又如弥陀経云。若有衆生聞説阿弥陀仏。即応執持名号。若一日若二日乃至七日。一心称仏不乱。命欲終時。阿弥陀仏与諸聖衆現在

其前。此人終時。心不顛倒即得往生彼国。仏告舎利弗。我見是利故説是言。若有衆生聞是説者。応当発願願生彼国。次下説云。東

方如恒河沙等諸仏。南西北方及上下。一一方如恒河沙等諸仏。各於本国出其舌相。遍覆三千大千世界説誠実言。汝等衆生皆応信是

一切諸仏所護念経。云何名護念経。若有衆生称念阿弥陀仏。若七日及一日下至一声乃至十声一念等。必得往生。証成此事故名護念

経。次下文云。若称仏往生者。常為六方恒河沙等諸仏之所護念。故名護念経。今既有此増上誓願。可憑。諸仏子等何不励意去也。

智昇法師集諸経礼懺儀下巻者。善導和尚礼懺也。依之。
  ◎(往生礼讃)また云わく、問うて曰わく、阿弥陀仏を称念し礼観して、現世にいかなる功徳利益あるや。答えて曰わく、もし

阿弥陀仏を称すること一声するに、すなわちよく八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念已下もまたかくのごとし。『十往生経』に

云わく、もし衆生ありて、阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、かの仏すなわち二十五菩薩を遣わして行者を擁護して、もしは行、

もしは座、もしは住、もしは臥、もしは昼、もしは夜、一切時・一切処に、悪鬼悪神をしてその便りを得せしめざるなり。また『

観経』に云うがごとし、もし阿弥陀仏を称礼念してかの国に往生せんと願えば、かの仏、すなわち無数の化仏・無数の化観音・勢

至菩薩を遣わして、行者を護念したまう。また前の二十五菩薩等と、百重千重、行者を囲繞して、行住座臥、一切時処、もしは昼

、もしは夜を問わず、常に行者を離れたまわず。いますでにこの勝益まします、憑むべし。願わくはもろもろの行者、おのおの至

心を須いて往くことを求めよ。また『無量寿経』に云うがごとし、もし我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称せん、下十声に

至るまで、もし生まれずは正覚を取らじと。かの仏、いま現にましまして成仏したまえり。当に知るべし。本誓重願虚しからざる

ことを、衆生称念すれば必ず往生を得と。また『弥陀経』に云うがごとし、もし衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、すなわち

名号を執持すべし。もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ、命終わらんとする時、阿弥陀仏と、もろも

ろの聖衆と、現じてその前にましまさん。この人終わらん時、心顛倒せず、すなわちかの国に往生することを得ん。仏、舎利弗に

告げたまわく、我、この利を見るがゆえに、この言を説く。もし衆生ありてこの説を聞かん者は、まさに願を発し、かの国に生ま

れんと願ずべし。次下に説きて云わく、東方如恒河沙等の諸仏、南西北方および上下、一一の方に如恒河沙等の諸仏、おのおの本

国にして、その舌相を出だして、あまねく三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、汝等〈なんたち〉衆生、みなこの一

切諸仏の護念したまうところの経を信ずべし。いかんが護念経と名づくる。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七

日、一日、下至一声、乃至十声、一念等に及ぶまで、必ず往生を得と。この事を証成せるがゆえに、護念経と名づく。次下の文に

云わく、もし仏を称して往生する者は、常に六万恒河沙等の諸仏のために護念せらる。故に護念経と名づく。いますでにこの増上

の誓願います。憑むべし。もろもろの仏子等、何ぞ意を励まして去かざらんやと。智昇法師『集諸経礼懴儀』下巻は善導和尚の礼

懴なり、これに依る。GYO:SYOZEN2-20,21/HON-175,176,HOU-288,289,290

 ○次所引等併如本文。初一問答。明滅罪縁。十往生経及観経説明護念縁。問。観経不見説護念益之文如何。答。普観文云。無量

寿仏化身無数。与観世音大勢至。常来至此行人之所。已上。依此文也。問。雖言菩薩不挙二十五。雖言来至不謂護念如何。答。五

五菩薩極楽聖衆。観音勢至挙其上首。必可有之。理在絶言。又云常来不離之義。不離即是護念義也。次大経文第十八願取意之文。

明摂生縁。言摂生者即是往生。如来摂取衆生義也。問。第十八願以至心等三信為要。何除至心信楽之句。今加称我名号句耶。此句

願文無之云何。答。此有深意。今所言之称我名号。則示本経至心信楽欲生之意。所以然者。至心等者称仏名号得往生益。是仏本願

。如此信知是名至心信楽欲生。故発此心。即是称我名号之義。為顕此意除彼加此。其義可知。次小経文明証生縁。言証生者。即是

証誠。証凡夫之往生義也。言云何名護念等者。是指六方諸仏証誠名護念也。次下文云若称等者指於汝意以下之文。是亘釈迦諸仏証

誠。下説汝等皆当信受我語及諸仏所説故也。問。五種増上縁之中。護念与今護念同異如何。答。五中護念是現生益。今護念者出世

益也。是則如云六方諸仏護念信心。今経小経所云護念其意在斯。SYOZEN2-246,247/TAI2-499,501
  ○次に所引等、しかしながら本文の如し。初の一の問答は滅罪縁を明かし、『十往生経』及び『観経』の説は護念縁を明かす。

問う。『観経』に護念の益を説く文を見ず、いかん。答う。普観の文に云わく「無量寿仏化身無数なり。観世音・大勢至と常にこ

の行人の所に来至す」已上。この文に依るなり。問う。菩薩といえども二十五を挙げず。来至というといえども護念をいわず、い

かん。答う。五五の菩薩は極楽の聖衆にして、観音・勢至はその上首を挙ぐ。必ずこれあるべきこと理在絶言なり。また常来とい

うは不離の義なり、不離は即ちこれ護念の義なり。次に『大経』の文、第十八の願、取意の文は、摂生縁を明かす。摂生というは

、即ちこれ往生なり。如来摂取衆生の義なり。問う。第十八願は至心等の三信を以て要と為す。何ぞ至心信楽の句を除きて、今「

称我名号」の句を加うるや耶。この句は願文にこれなし、いかん。答う。これに深意あり。今いう所の称我名号は、則ち本経の至

心信楽欲生の意を示す。然る所以は、至心等とは、仏の名号を称して往生の益を得るなり。これ仏の本願なり。かくの如く信知す

る、これを至心信楽欲生と名づく。故にこの心を発す。即ちこれ称我名号の義なり。この意を顕さんが為に彼を除きてこれを加う

。その義知りぬべし。次に『小経』の文は証生縁を明かす。証生というは、即ちこれ証誠、凡夫の往生を証する義なり。「いかん

が護念と名づくる」等というは、これ六方の諸仏の証誠を指して護念と名づくるなり。次下の文に「若称」等というは、「於汝意

」以下の文を指すなり。これは釈迦・諸仏の証誠に亘る。下に「汝ら皆、まさに我が語及び諸仏の所説を信受すべし」と説くが故

なり。問う。五種の増上縁の中の護念と今の護念と同異いかん。答う。五の中の護念はこれ現生の益なり。今の護念は出世の益な

り。これ則ち六方の諸仏は信心を護念すというが如し。今経『小経』にいう所の護念は、その意ここに在り。SYOZEN2-

246,247/TAI2-499,501

 ◎又云。言弘願者。如大経説。一切善悪凡夫得生者。莫不皆乗(食陵反、駕也、勝〈登〉也、守也、覆也。)阿弥陀仏大願業力

為増上縁也。
  ◎(玄義分)また云わく、弘願と言うは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得る者は、みな阿弥陀仏の大

願業力に乗じて(乗=食陵の反、駕なり、勝〈登〉なり、守なり、覆なり)、増上縁とせざるはなきなりと。GYO:SYOZEN2-

21/HON-176,HOU-290

 ○次言又云弘等者。問。上来文者是礼讃釈。今所引者是観経義玄義文也。何略書名言又云。答。上所引初云光明寺和尚云訖。是

故雖引何書解釈。共為大師之解釈者。更非相違。言弘願者。弘願之称。総而言之可通六八。余処釈云願願皆発増上勝因故也。別而

論之第十八願。今之解釈明得生益故也。大願業力者。願業力三。於因与果皆有其由。大言亘三。所謂大願五劫思惟超世無上殊勝願

是。大業即是不可思議。兆載永劫。六度万行。願行雖殊共是因位。言大力者果位神力。光明摂取利益衆生。名之大力。増上縁者是

強縁也。玄義分云。正由託仏願以作強縁。已上。法事讃云。正由不遇好強縁。致使輪回難得度。已上。問。増上縁者。名強縁義其

証如何。答。大乗義章第三釈云。増上縁者起法功強。故曰増上。為法縁故名増上縁。已上。又摂論云。如眼根為根識作増上縁。此

有力増上縁也。無力増上縁者。生有為無為諸法不作障礙也。SYOZEN2-247,248/TAI2-538,539
  ○次に「又云弘」等というは、問う、上来の文はこれ『礼讃』の釈なり。今の所引はこれ『観経義』玄義の文なり。何ぞ書の名

を略して「又云」というや。答う。上に引く所の初に「光明寺和尚の云わく」と云い訖す。この故に何の書の解釈を引くといえど

も、共に大師の解釈たらば、更に相違にあらず。「弘願」というは、弘願の称は総じてこれをいわば六八に通ずべし。余処の釈に

「願願みな増上の勝因を発すと」いうが故なり。別してこれを論ぜば第十八の願なり。今の解釈は得生の益を明かすが故なり。「

大願業力」とは、願と業と力との三は因と果とに於いて皆その由あり。大の言は三に亘る。いわゆる大願は五劫思惟超世無上殊勝

の願これなり。大業は即ちこれ不可思議兆載永劫六度万行なり。願行は殊りといえども、共にこれ因位なり。大力というは、果位

の神力、光明摂取利益衆生、これを大力と名づく。増上縁とはこれ強縁なり。『玄義分』に云わく「正しく仏願に託して以て強縁

と作るに由る」已上。『法事讃』に云わく「正しく好き強縁に遇ざるに由りて、輪回をして得度し難きことを致す」已上。問う。

増上縁とは、強縁に名づくる義、その証いかん。答う。『大乗義章』の第三の釈に云わく「増上縁とは法の功を起すこと強し。故

に増上という。法の為の縁なるが故に増上縁と名づく」已上。また『摂論』に云わく「眼根は眼識の為に増上縁となるが如し」と

。これ有力増上縁なり。無力増上縁とは、有為無為の諸法を生ずるに障礙を作さざるなり」。SYOZEN2-247,248/TAI2-538,539

 ◎又云。言南無者。即是帰命。亦是発願回向之義。言阿弥陀仏者。即是其行。以斯義故必得往生。
  ◎(玄義分)また云わく、南無と言うは、すなわちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏と言うは、すなわちこ

れ、その行なり。この義をもってのゆえに、必ず往生を得と。GYO:SYOZEN2-21,22/HON-176,HOU-290

 ◎又云。言摂生増上縁者。如無量寿経四十八願中説。仏言。若我成仏。十方衆生願生我国。称我名字下至十声。乗我願力若不生

者不取正覚。此即是願往生行人。命欲終時。願力摂得往生。故名摂生増上縁。又云。欲使善悪凡夫回心起行尽得往生。此亦是証生

増上縁。已上。
  ◎(観念法門)また云わく、摂生増上縁と言うは、『無量寿経』の四十八願の中に説くがごとし。仏の言わく、もし我、成仏せ

んに、十方の衆生、我が国に生ぜんと願じて我が名字を称すること、下十声に至るまで、我が願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚

を取らじと。これすなわちこれ、往生を願ずる行人、命終わらんとする時、願力摂して往生を得しむ。故に摂生増上縁と名づくと

。GYO:SYOZEN2-22/HON-177,HOU-290

 ○次所引文者。共是観念法門之釈。如次摂生証生両縁。SYOZEN2-248/TAI2-553,554
  ○次の所引の文は共にこれ『観念法門』の釈なり。次の如く摂生・証生の両縁なり。SYOZEN2-248/TAI2-553,554

 ◎又云。欲使善悪凡夫回心起行尽得往生。此亦是証生増上縁 已上
  ◎(観念法門)また云わく、善悪の凡夫、回心起行して、ことごとく往生を得しめんと欲す。これまたこれ証生増上縁なりと。

已上。GYO:SYOZEN2-22/HON-177,HOU-190,291

 ◎又云。門門不同八万四。為滅無明果業因。利剣即是弥陀号。一声称念罪皆除。微塵故業随智滅。不覚転入真如門〈覚=教音〉

。得免娑婆長劫難。特蒙知識釈迦恩。種種思量巧方便。選得弥陀弘誓門。已上抄要。
  ◎(般舟讃)また云わく、門門不同にして八万四なり。無明と果と業因とを滅せんためなり。利剣はすなわちこれ弥陀の号〈み

な〉なり。一声称念するに、罪みな除こる。微塵の故業、智に随いて滅す。覚〈おし〉えざるに〈覚=教の音〉真如門に転入す。

娑婆長劫の難を免るることを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり。種種の思量巧方便をもって、選びて弥陀弘誓の門を得せし

めたまえりと。已上抄要。GYO:SYOZEN2-22/HON-177,HOU-291

 ○次言又云門門以下。十句文者。般舟讃釈。四句二句四句別文。言門門者諸教門也。八万四者依大集意。一一衆生有八万四千諸

行。所謂貪欲行二万一千。瞋恚行二万一千。愚癡行二万一千。等分行二万一千。是為八万四千諸行。無明等者約十二支明滅罪益。

雖有異義試述短解。言無明者総標惑障。倶舎頌曰。無明諸有本。故別為一漏。已上。果業因者。逆挙煩悩業苦三道。言利剣者。以

其利用喩名号徳。微塵等者。故差曠劫。業是業障。不覚等者示頓悟理。同下句云。大小僧祇恒沙劫亦如弾指須臾間。已上。往生礼

讃日中讃云無心領納自然知。已上。是其謂也。但覚字註者教音。此有二音。玉云。有楽切。寤也。大也。宋云。古孝切。睡寤。曰

覚醒。省也。SYOZEN2-248,249/TAI2-570,571
  ○次に「又云門門」という以下の十句の文は『般舟讃』の釈なり。四句と二句と四句と別の文なり。「門門」というは諸教の門

なり。「八万四」とは、『大集』の意に依るに、一一の衆生に八万四千の諸行あり、いわゆる貪欲の行に二万一千、瞋恚の行に二

万一千、愚痴の行に二万一千、等分の行に二万一千、これを八万四千の諸行と為す。「無明」等とは十二支に約して滅罪の益を明

かす。異義ありといえども試みに短解を述ぶ。「無明」というは総じて惑障を標す。『倶舎』の頌に云わく「無明は諸有の本なり

。故に別に一漏と為す」已上。「果業因」とは逆に煩悩・業・苦の三道を挙ぐ。「利剣」というは、その利用を以て名号の徳に喩

う。「微塵」等とは、「故」は曠劫を差す。「業」はこれ業障なり。「不覚」等とは頓悟の理を示す。同じき下の句に云わく「大

小僧祇恒沙の劫、また弾指須臾の間の如し」已上。『往生礼讃』の日中の讃に云わく「心に領納することなくして自然に知る」已

上。これその謂なり。但し覚の字の註は教の音なり。これに二の音あり。『玉』に云わく「有楽の切、寤なり、大なり」。『宋』

に云わく「古孝の切、睡寤、覚醒という、省なり」。SYOZEN2-248,249/TAI2-570,571

 ◎爾者南無之言帰命。帰言至也。又帰説也。説字。悦音。又帰説也。説字税音。悦税二音。告也。述也。宣述人意也。命言業也

。招引也。使也。教也。道也。信也。計也。召也。是以帰命者本願。招喚之勅命也。
  ◎(御自釈)しかれば、南無の言は帰命なり。帰の言は(至なり)、また帰説〈よりたのむなり〉なり。説の字は(悦〈えち。

よろこぶ〉の音)、また帰説〈よりかかるなり。説=さい〉なり、説の字は(税〈さい〉の音、悦税〈えち・さい〉二つの音〈こ

え〉、告ぐるなり、述ぶなり、人の意を宣述るなり)。命の言は(業なり、招引〈まねきひく〉なり、使なり、教なり、道なり、

信なり、計うなり、召すなり)。ここをもって、帰命とは本願招喚〈まねきよばう〉の勅命なり〈勅=おおせ〉。GYO:J:SYOZEN2

-22/HON-177,HOU-291

 ○爾者以下八行余者。私被得上言南無者之文意釈。南無等者。於帰之字。至并説意未勘得之。説字之音。玉篇広韻同註。三音今

有二音。略始悦反。此是常音勿論故也。告述宣訓載在広韻。命字之訓。玉篇中有教令使註。広韻中出使教召訓。業招引使道信計等

追可勘之。SYOZEN2-249/TAI3-1
  ○「爾者」以下の八行余は、私に上の「言南無者」の文の意を得らるる釈なり。「南無」等とは、「帰」の字に於いて、「至」

并びに「説」の意は未だこれを勘得せず。「説」の字の音は、『玉篇』『広韻』、註に同じ。三の音は、今、二の音あり。始悦の

反は略す。これはこれ常の音は勿論の故なり。告・述・宣の訓は載て『広韻』にあり。命の字の訓は『玉篇』の中に教・令・使の

註あり。『広韻』の中に使・教・召の訓を出す。業・招引・使・道・信等は追ってこれを勘うべし。SYOZEN2-249/TAI3-1

 ◎言発願回向者。如来已発願回施衆生行之心也。
  ◎(御自釈)発願回向と言うは、如来すでに発願して、衆生の行を回施したまうの心なり。GYO:J:SYOZEN2-22/HON-

177,178,HOU-291

 ◎言即是其行者。即選択本願是也。
  ◎(御自釈)即是其行と言うは、すなわち選択本願これなり。GYO:J:SYOZEN2-22/HON-178,HOU-291

 ◎言必得往生者。彰獲至不退位也。経言即得。釈云必定。即言由聞願力光闡報土真因決定時剋之極促也。必言審也。然也。分極

也。金剛心成就之貌也。
  ◎(御自釈)必得往生と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。経には即得と言えり、釈には必定と云えり。即の

言は、願力を聞くに由りて、報土の真因決定する時剋の極促〈剋=きわむ〉を光闡せるなり。必の言は(審〈つまびらか〉なり、

然〈しからしむる〉なり、分極〈分=わかつ。極=きわむ〉なり)金剛心成就の貌〈かおわせ〉なり。GYO:J:SYOZEN2-22/HON-

178,HOU-291,292

 ○必字之註廣韻文也。SYOZEN2-249/TAI3-56
  ○必の字の註は『廣韻』の文なり。SYOZEN2-249/TAI3-56

 ◎浄土五会念仏略法事儀讃云。夫如来設教。広略随根。終帰乎実相。得真無生者。孰能与於此哉。然念仏三昧是真無上深妙門矣

。以弥陀法王四十八願名号。焉仏事願力度衆生。乃至。如来常於三昧海中挙細綿乎〈網細綿手〉。謂父王曰。王今座禅但当念仏。

豈同離念求乎無念。離生求於無生乎。離相好求乎法身。離文求解脱。乃至。
  ◎(五会法事讃)『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、それ如来、教を設けたまうに、広・略、根に随う。終に実相に帰せし

めんとなり。真の無生を得ん者には、たれかよくこれを与えんや。しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四

十八願の名号をもって、ここに仏、願力を事として衆生を度したまう。乃至。如来常に三昧海の中において、細綿を挙げたまうを

や〈網綿の手を挙て〉。父の王に謂いて曰わく、王いま座禅してただ当に念仏